爪弾かれても中指立てろ
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    「俺は個性が欲しいです」

    「『楽に生きたくないです』ってことか?」

     コンビニバイトが俯いたまま吐き出した悩みを、店長は小馬鹿にした笑いと言葉でずたずたに寸断して掃き捨てた。
     もちろん、バックヤードの壁に貼られた赤く大きな『禁煙』の張り紙とまだ18歳のバイトの眼前で煙草を燻らせるこの男に、まともな返答を期待する人間なんてただ一人もいない。バイトの青年も当然、悩みが解決するなど思っていない。彼らが話しているのは、ただの雑談だ。深夜のコンビニバイトで暇を持て余している数分を潰すための、話題提供。

    「確かに君はその変な苗字以外、特に個性のないどこにでもいる大学一年生だけどさ」

    「僕の苗字が珍しいのは認めますけど、誰もそこまでは言ってません」

    「今、無個性で不自由したことってないだろ?」

    「でも、自由だと思ったこともありません」

    「仮に君が個性を持ったとしたら、不自由が生じるかもしれない」

     平凡な大学一年生である彼の抗議を完全に無視し続けて、奇人として有名な店長は話し続け  手元で燻る煙草の副流煙を吸い込み、激しく咽せる。
     (そんなに肺が強くないんだから、吸わなきゃいいのに。)灰皿代わりの空き缶に、半分ほどになったタバコを押しつける店長を見て、アルバイトは呆れ半分に思う。しかしそんな思考と視線を全く気にすることはなく、店長はまた煙草を吸ってから、口を開く。

    「出る杭は打たれるって意味じゃなくて、もっと簡単な話」

    「簡単な話?」

    「例えば、だ。あのロッカーの上にある段ボールを取る必要があるとする。並の男なら手を伸ばせば届く距離にあるから、君なら特に何も考えずに取れる」

     店長は指差したロッカーの前に立ち、煙草を持たない左手を伸ばす。……届かない。
     当たり前だ。彼の身長は成人男性どころか、成人女性の平均身長よりさらに低い。二十代半ばの男には見えない顔も相まって時々女性に間違われる彼は、その容姿に似合わない大袈裟な手振りと勿体ぶった台詞回しで、話を続ける。

    「でもこんなふうに、俺は届かない。普通ならできることができない、低身長って言う個性だ」

    「はあ」

    「そのほかにも、だ。毎回酒を買うときには身分証を出さなきゃいけなかったり、責任者として出ても舐められたりするわけだ、この俺の個性的な外見は」

    「……まあ、そうでしょうね」

    「社会は無自覚なままに、でも一般的でないものに厳しいんだよ。それを踏まえてもう一度聞く。個性、いらなくね?」

     にこり。右手で煙る煙草を見なければ無垢な笑顔で、店長はアルバイトに問いかける。なるほど、丁寧でわかりやすい。最初に強く突っぱねたことを考えなければ。
     少し下を向いて、アルバイトは考え込む。この説明では腑に落ちないところがあった。そして、それに気付いていないと思えるほど、アルバイトはこの男の知能を疑ってはいない。

    「いやでも、そうじゃない個性もあるでしょう」

    「というと?」

    「不便だけが個性じゃない、はずです。普通の人が出来ないことが出来る、それも個性だと思いますし……」

    「ああ、それは大丈夫だよ」

     そこで、自動ドアが開く音。客だ。店長は言いかけた言葉を止め、煙草の吸い殻を空き缶に入れて立ち上がる。
     暇潰しに始まった会話は、暇じゃあ無くなったら止まるのは当たり前。返答はまた後で聞けばいいとアルバイトも結論を付け、後を追って立ち上がる。

     と。レジの方に向かっていた店長が、道を塞ぐように立ち止まる。口を開いた。

    「だって君が出来て普通の人が出来ないことなんて、一つもないじゃん」


     一人旅の目的地に到着して、とりあえずどこかに座るかと近くのマックでシェイクに口を付ける。少しの達成感と満足感を得たその時、ふと、ある日の会話を思い出してしまう。


     思い出したくもない言葉に限って、忘れることが出来ないのは何故だろう。


     ただぼんやりと視線を上げると、吸いかけのシェイクがゆっくりとストローを降りていく。その向こう側、窓の外は日付が変わっても未だ人が多い。終電が終わった新宿駅を目にするのは、俺にとっては今日が初めて。
     降り立って知ったのは、新宿は思ったより普通の街だということ。日本で最も多くの人が集まっているという、ただそれだけの場所だ。

     マックの3階から見渡せる限りを見回す。酔っ払いやらカップルやらその両方やらの数だけが多くて、街灯はモノクロを基調とした没個性な服を淡々と照らしている。風景には迷走や混沌こそあれど、俺が想像していたような(あるいは求めていたような)狂気や奇特は見つからない。
     あるいは、それはもしかしたら夏の日の──八月が持つ魔法のせいで、普段はもう少し狂った街なのかもしれないが。なんであれ、現状期待外れであることに変わりはない。異常なものを、奇妙な人を、特筆すべき何かを探している俺にとっては。
     立ち上がり、歩き、飲みかけの溶けたシェイクをゴミ箱に放る。ゴト、という重い音で生じた虚無感から息を吐くと、今更すぎる問いかけが脱力と共に表面化する。
     貴重な夏休みを使ってまで、俺は一体何を? 

     ……いや、今日は特段貴重な夜ではないか。むしろ大学一年生の夏なんて、最も自由にできる余暇の一つかもしれない。そう考えれば、単に暇を拗らせて夜の散歩をしていると考えるのがわかりやすい。
     ああ、俺の行動原理はいつだって、嫌になるほど単純だ。重たいバックパックを背負い直して店を出る。
     しかし、そんな単純で凡庸な俺にとって、深夜にこんな大都会に単身乗り込んでいるのは大きな挑戦でもあるのだ、とか。そんな考えを巡らせながら、明るい街を歩き続ける。
     路線図に沿って電車を乗り継ぎ、それなりに時間をかけて地元から離れた大都会までやってきた。いわゆる自分探しの旅というやつになるのだろうか。このために……というわけでもないのだが、せっせとバイトをして貯めた金もこの旅で消えるだろう。
     他にも親の説得やら何やら、様々な労力を割いて、やっとの思いで手にした非日常だというのに。「こんなものか」という感想は、左胸が刻む一定のリズムを崩さないままで。
     それでも何かないかと、治安の悪い方へ歩いていく。眠らない街とは言え人は決して多くはないし、起きていても殆ど酔っ払いだ。俺と同じような歳のやつが、酒を握って警察の厄介になっていたりもする。
     それもいいかなぁと、警察に怒鳴られている彼らを見て思う。安酒でルールを破って暴れれば、異常への憧れなんてどうでも良くなるのだろうか。けれど、面接で受かった大学のことが脳裏によぎる。今だって誰かに見られるのを怖がって、単色のキャップを目深く被っているのだ。そんなことをする蛮勇はとてもではないが湧かなかった。

     積み重ねたモノが壊れるのを恐れるなら、そもそもここに来る理由もないのに?

     ……とにかく、求めているのは非日常だ。日常的にしているこんな思考は後でいい。数泊する予定にしてはコンパクトなサイズのバックパックから、何冊かの参考資料を取り出す。安っぽい見た目の割にそれなりに値が張るそれらの雑誌は、どれも眉唾物のオカルトを取り扱うもの。神隠し、心霊、宇宙人、陰謀。娯楽としての虚構。
     別に、こんなオカルトを信じているわけではないし、好きでもない。どこに行けばいいのか、行動指標が欲しかっただけだ。バイトをしていたコンビニで、余っていたものを安くまとめ買いできたから、そうした。それ以上の思い入れも特にない。ない、が  結局俺は流されるように、一冊目の雑誌の見開きにあった裏路地を目指している。

     どこにでもあるコンビニの脇を通り抜け、人気のなさそうなところへとふらふら歩いて行く。何か起こるのを期待して、本能や理性が嫌がる道をあえて選んで歩く。誰かの吐瀉物を踏み越える。小汚い酔っ払いのいびきを跨ぎ越す。カサカサと音がする暗闇を通り過ぎる。足取りは淀みなく、そして何も起こらない。
     細道の入口に転がる塗料の缶を足で退けて、奥へと進む。はずみで缶に残っていた中身が溢れ、右足からきついシンナーの匂いが漂った。それを咎める人はここには誰もいない。眠っていないだけの人々は俺なんか見ていないし、元から匂いなんて塩素系の薄らとした匂いか、アルコールか、最悪の吐瀉物で散々になっている。クソみたいな光景。本当に糞があっても、俺以外誰も気にしないだろう。俺は匂いと赤く着色された靴に顔をしかめ少し立ち止まって、しかし、結局はそのまま進む。

     歩く。視覚はどんどん限定されて、人も同じように減っていく。この時間にこんな所まで来る奴なんて俺くらいしか居ないのだろうけど、それに対して思うこともなかった。アスファルトを踏んでいる時点で、別に前人未到というわけでもないのだ。意味がないから誰も来ないだけで、誰でも通れるただの細い路地。明るい場所に出ては、また暗い所を探して歩き続ける。それだけを、ぼんやりと繰り返す。ああ、この道さっき通ったかもなと引き返す。
     そもそもここは新宿か? 俺は何をしている? 今右足出したっけ、左足出したっけ  あ。

    「痛っ」

     べちゃ、と。足がもつれてすっころぶ。画角が取り落とされたように揺れて、頭からいったことを知る。何もないところでここまで派手に転ぶとは。情けなさに涙が出るとはこのことか? 実際に出たものは涙ではなく、小さく卑屈な笑い声だったけれど。

     微かに笑った後に虚しく息を吐いて、体を起こす。立ち上がらずにあたりを見回すと、止まっていた頭が足の代わりに動き出した。思ったよりも歩いたようで、体は疲労感に腰まで浸かっている。夏の夜の暑さからか、汗はさっきからずっと流れ続けている。新宿という街の広さを、少し侮っていただろうか?
     足を休める間に当たりを見回すが、細い路地には不自然なほど何もない。ドアも、ゴミ箱も、室外機すらも。目の前には『それ以上進むな』と主張するような、異様に分厚い暗闇。その先から吹く風は、何かを警告する様に肌をさざめかせる。立ち止まった理由は疲労ではなくこの空気かもしれない。疲労感への認識を、少し改める。
     後ろを振り返る。来た道の薄ら闇は見慣れたものだ。複雑な道というわけでもなく、戻るのは容易い。
     一応、手持ちの雑誌で紹介された、人が消えるという噂のスポットがあるのはこの先だ。けれど、ここまで来て何も起こらなかったのに、この先に何かあるとも思えない。時間は有り余るとはいえど、徒労に費やすほどではない。変なことがしたいという目的は、一人でこんな所にいる時点で達成していると言えるだろう。あとは旅行者らしく、この雑多な街で観光するだけでもいい。

     ああ、でも。それで納得できるなら──そもそも俺は、こんなところにいないのだ。

     闇雲に手を伸ばし、奇妙な裏路地に目を凝らす。仮にこの一歩が、普に生きてきた俺がはじめて犯した過ちだとしたら? そんな仮定の答えを出せるほど、俺は確かな何かを持ち合わせていない。

     路地を過ぎていく。足音は静かだった。


     実を言うと、人間というのは個性が無くても生きていけるものだ。何か秀でていなくても、何か劣っていなくても。呼吸と食事さえできれば、生きていくことに支障はない。
     だから、仮に生きていくために必要でない物を全て娯楽で括ったなら、俺の旅路も娯楽ということになってしまう。
     あながち間違いではない。この旅は暇潰しで、全ての娯楽は暇潰しだ。実のところ、俺はこの旅で自分が変わるとはあんまり信じていない。
     だから俺は、目の前の光景すら信じられない。

     路地を抜けて、角を曲がった先に転がっていたのは、生きていく上で必要なものを持たない人間。呼吸をせずに、臓物を撒き散らしている人間。星の無い東京の空の下、ぽたり、ぽたりと、血をコンクリートに垂らし続けているいる人間。


     つまるところ死体だった。


    「……ぁ」

     声が漏れる。死体を見た経験がある人間はそんなに少なくないだろうが、病室か親族を除外検索したら一気に少なくなるだろう。加えて言うなら俺は病室だとしても見たことはない。腰を抜かしてこの場にへたりこんでもおかしくない、むしろそれが普通だろう。

     けれど、この状況はすでに普通とは程遠かった。

     一つ目の異常は、人の死体があること。

     二つ目の異常は──何故かその死体は、俺の顔の高さまで浮き上がっていること。コンクリートとの間にものはなく、ロープか何かで吊り下げされているようにも見えない。人体浮遊マジックを死体で行なっている、そんな説明をされれば納得出来るかもしれない光景。タネも仕掛けも、そもそもそんなものがあるのかもわからない。

     ただ、種も仕掛けもわからなくても、わかることが一つ。
     ──手品師は、間違いなくそこに立っていた。

    「あ?」

     三つ目の異常。目の前、死体の向こうに、いつの間にやら(あるいは最初から?)長身の女が立っている。高校生の基準値のような身長の俺を、しかし悠々と超える身長を持つ女は、夏だというのにロングコートで全身を覆っていた。そして、問題は彼女の腕だ。人相の悪さや背の高さ、語気の荒さが気にならないほどの違和感がそこにある。

    「何見てんだお前。そもそもどこの誰でどうやってここにきたよお前。なあ」

     話しながら詰め寄ってくる女の動きに答えるように、死体はドサリと地面に落ちる。反射的に後ずさる。俺の胸元に伸ばしてきた白い腕は、深い赤色の斑点で汚れている。そしてそれ以上に衝撃的なのは、腕の先端、手の先端に付いているはずの指が、三本ほど足りないことだった。親指、人差し指、中指。付け根だけ白い包帯で覆われているそれらは、元からないというより切り落としたと考えた方が妥当か。そしてそれは、左腕も同じ。
     真黒な髪は刈り上げられていて、コートには赤い斑点が散る、四本しか指を持たない女。何者なのかはわからないが、少なくともマトモな人間ではない。異世界の怪物と表現するのが一番適切な気すらするが、ここはどうやら現実だ。

    「聞いてんのか?」

     無論、聞こえている。息すら届きそうな距離だ。けれど急に聞かれても、急に返せるとは限らないものだ。路地の壁に手をついてかろうじて立っている。答えに窮して目線を伏せても、赤錆色の地面が脳味噌を圧迫してきて考えを纏めさせてくれない。

    「こっちを見ろ」

     胸倉を掴まれる。正確に言えば、掌で壁に押し付けられた後、小指で帽子を外された。無理矢理に至近距離で彼女の目を見ることになったという結果だけ見れば、同じようなものだ。白いキャップが血に汚れるのを見て、少し嫌だなと感じる。もっと嫌がるところはいくらでもあると思うが、認識できる程度の嫌さはせいぜい帽子の汚れくらいだ。こちらを除く目の黒さは、可視光を反射していないように思える。

     幼い頃、公園の登り棒の頂上に登った後、足を滑らせて落ちた時。あの時の光景を、なんとなく思い出した。落ちている途中は何も見えないし考えられなくて、手が滑ったと気が付いたのは着地した後のこと。そんな昔のことを思い出す。

     思い出す、だけ。ここにあるのは登り棒でも地面でもない。暗闇と血の匂いはどちらも理解の範疇ではない。その上、俺は敢えて棒を掴んでいた手を離したのだから。

    「……私はあんまり気の長い方でもねえから言っとくけど、この現場に居る時点で、お前はこのままだと死ぬ。私に心臓をブチ抜かれて」

    「……嫌、ですね」

    「なんだ、喋れんじゃねえか」

     驚いたように眉を上げる。ああ、俺もびっくりしている。まさかこの状況で喋れるとは思っていなかった。他人事のような自分の声は、なかなかどうして落ち着いた声色だ。殺人現場で落ち着けていることが褒められたことなのか、詰られることなのかは知らないし、興味もないけれど。それにこの状況は落ち着いているというより、落ち着かざるを得ないと表現する方が正しいだろう。慌てふためいていたら死ぬ、と聞かされたことがかえってよかったとも考えられる。いや、何一つ良くはないが。

    「じゃあ、一つだけ聞く」

     この間も胸は押さえつけられているし、彼女の眼は俺の目をずっと見下ろしている。身長も相まってそれは感じたことがない威圧感だ。なんて、日常で威圧を感じることなんて滅多にないから、比較のしようがないけれど。小指一本だけ、それだけの高速で身動きを封じられるコレは、明らかな異常。

     望んでいた、異常。

     真黒な目は俺の腹の内なんて全く興味がないようで、思考を読み取ろうという気位は見えない。むしろそれは、急に出された提出課題を片付ける時のような、面倒だと主張してくる目。……そんな庶民的な例えをするには、いささか剣呑が過ぎることに目を瞑れば、だが。
     目を瞑ったらその瞬間小指が喉を貫きそうなので、俺はその鋭い目を直視し続けることになる。すぐ、彼女が口を開く。

    「お前は私の敵か?」

    「いいえ」

    「そうか」

     ふ、と。威圧が、重圧が、緩まる。あんまりに急だったから前に倒れ込みそうになったが、そんな無様はなんとか晒さずに済んだ。

    「じゃあ死んでくれ」

    「がっ……!?」

     倒れ込む前に鳩尾に膝蹴りを喰らい、膝から崩れ落ちて転げ回る。倒れ込む以上の無様と痛覚。まだ乾いていない血液が、気味の悪い感触として服や髪に付着する。気味が悪い、平衡感覚がおぼつかない、全く、何一つ、まともではない。

    「悪ぃとは思ってるよ。多分、張ってた人避けが十分じゃなくて迷い込んだんだろ? それは私達の落ち度だが、夜中にこんな治安の悪い場所ほっつき歩いたお前もお前だし」

     俺は、相手の言葉に答えられない。また数刻前に逆戻りだ。視界は赤く、思考は出来ず、主導権は常に相手にある。

    「死体見られたら生かして帰せないしさ、わかるだろ?」

     わかる。わからない。理屈はわかるが、そんなに簡単に人は死なない。少なくとも俺がこれまで生きてきた世界では、もう少し不条理にも道理があった。
     いや、わかっている。俺はその世界から足を踏み出そうとしていたし、ここは実際にそんな常識は通じないのだろう。流石に、わかっている。

     何もわかっていなかったのは、この路地に足を踏み入れる前の俺だけだ。

    「悪いな、一般人  お前に、活かしておくだけの価値はない」

     そうだろうな。ああ、その通りだ。だから俺はここに来たんだから。
     これまでの行為と不釣り合いなほど優しく、爪先が腹に当てられる。足を振りかぶる前の予備動作。この先の未来は、この予兆は、余計なことをしなければなかったはずの現在。世間的に自業自得と呼ばれそうな因果で、俺が結果として辿り着いたのは、血塗れの裏路地。

     蹴り程度で人が死ぬのかどうかは知らないが、相手方の殺意が本物であろうことは、流石にわかる。なら、きっと俺は死ぬのだろう。


     それは、嫌だ。

    「あ? なんか言ったか?」

     ああ、確かにに俺は求めた。不確かを、異常を、不条理を、理不尽を、唯一性を求めてここまで来た。だけど、なのに、俺はまだ  何も手に入れてない。
     冗談じゃない。ああ、本当に、今は冗談じゃない現実で。俺は足蹴にされて殺されかけていて、それでも立ち止まり続けるのか?

     そんなの  全く、俺らしくもなく。

    普通じゃない

     この状況では全く笑えない皮肉を口にして、いつのまにか瞑っていた目を開ける。状況は全く変わらない。体は少し震えていて、腹には凶器になるであろう爪先。そして、見知らぬ女性の鋭い声。

    「あ?」

    「いや、あの。俺を殺すのは、ちょっと勿体無いんじゃないかなって」

    「……命乞いか?」

    「はい、もちろん」

     虚勢。入らない力を入れて、なんとか頷く。命を賭けた言葉の割には、俺の声は随分とか細い。俺の命なんて薄いものを賭けたところでたかが知れている。けれど俺はほっそい糸を繋ぐため、糸に縋るような声を出していた。

    「そりゃ、お前。私だってお前みたいな善良……かは知らねえが。まあそこらの一般市民を殺すのは面倒ではあるんだよ。けど、なぁ?」

     続きは言わなくても分かるだろ、と。結論を面倒くさがって、彼女は言葉を切る。
     お前を生かしてく方がもっと面倒臭いと。生かして活かせる価値が、お前にはないのだと。彼女は言った。だから俺は今、殺されかけている。腹に突きつけられている凶器  黒のコンバースが、少し腹に食い込んだ。

     ……なら、こういうのはどうだろうか。

     命を賭けて、命を救い、その上で当初の目的まで達成するという大穴に、一点賭けというのは。

     赤錆の地面に手をついて、体を起こす。静止は無かった。おそらく逃げようとしても止められる自信があるのだろう。それなら、と力を込めて立ち上がる。退くな、目の前を見ろ。

    「確かに俺は、あなたにとって生かしておく理由のない、凡庸な人間です。でも俺は、今、こんな時間にここにいるくらいには、異常おかしい奴でも──可笑しい奴でも、ありますよ?」

     手で払っても落ちないことは知りながら、手持ち無沙汰に赤く汚れた服を払う。俺の言葉と一連の動作を、目の前の彼女はただ待つだけ。

    「で?」

    「だから、簡単なことなんですよ。俺を、あなたが、役に立てればいい」

     彼女の、存外綺麗な黒い目を真っ直ぐ見る。問いへの答えは、きっと、幼い頃からずっと用意していた。提出するのを後回しにしていただけで。提出するのを恐れていただけで。中学の自己紹介で、高校の面談で、バイト先のコンビニで。機会を逃し続け、機会から逃げ続けた最低の答案。


    「お願いします、俺を──おかしくしてください」


     平らで地続きな過去から現在まで全部、ちゃぶ台みたいにポケットみたいにひっくり返して、どうにか引っ張ってきた言葉が。平凡に死んでいかないために、俺が持っていた言葉は。ただ、これだけだった。

     しん、と。新宿に似合わない静かさ。けれど、足元に死体が転がっているこの状況には、こんな沈黙の方が似合っている。

     服に着いた乾いた血が固まるほど長い沈黙。その後で、長身の女は存外高い声で獰猛に笑った。派手な笑い声が路地に反響して、冷えたうえに死んでいる空気を震わせる。電子レンジのような破壊的で無機質な熱を持った爆笑を、人肌を温めるほど続けた。冷や汗も乾き切った俺に、一言だけ彼女は投げつける。

    「お前、名前は?」

    はじめです。創造のソウで、はじめ」

    「苗字は?」

    「珍しい苗字なので、知らない人には教えないことにしているんです」

    「なんだそりゃ」

     俺のつまらない拘りを、名前のわからない彼女はつまらなそうに鼻で笑う。

    「あなたの名前は?」

    「久留間。名前はあったはずなんだが、忘れた。久留間さんでいい」

    「そうですか」

     それは少し奇妙な返答だが、こちらは名前に頓着もないからどうだって良い。これから──なんて呼べばいいのかわからなかったから、聞いただけだ。
     四本指の彼女──久留間さんは、死体を跨いで路地の裏に歩いていく。俺はその一歩で、少し躊躇う。倫理的に死体を跨ぐのはおかしいとか、成人男性の死体をひと跨ぎできないほど俺の運動神経が悪いとか、そういうわけではない。死体に慣れたわけでも、抵抗が全くないわけでもないが、今更考えるにはいささか不釣り合いな障害だ。だから、考えていたのは別のこと。
     さっきまで転がり回っていた跡が残る、血の川。匂いが濃い一線。これを渡ったら、戻れないような気が、しただけ。

     ただ、まあ。深く考えなくても、ここに辿り着いた時点で──答えは、もう出ていたようなものだ。
     俺は滑らないようゆっくりと、乾き始めた血溜まりを二歩で踏み越える。踏み越えて、自分より背の高い後ろ姿を追う。

     僅かな空に、月だけが空高く昇っている。夜が明けるのも、日が昇るのも、まだ後のことだった。

      • _

      「おはようございます、店長。荷物大きいですね?」

      「おはよ……。うん、実はさ、旅先からそのまま、来たんだよね」

       店長は背負ってきた、彼自身の身体が悠々入りそうな大きさのバックパックを下ろす。被っていた帽子を団扇がわりに顔を仰ぎながら、粗い息を整える。

      「家に一回帰れなかったんですか?」

      「帰れるとは思うけど……見た目だけで大して重くもなかったし、家がちょっと遠いんだ」

       でも置く場所に困るし持って帰ればよかったなぁ。そう言いながらロッカーに入らなかった大荷物を持ったまま店長は右往左往して、結局部屋の隅に放って落ち着いた。

      「盗まれたりしませんか?」

      「着替え以外はロッカーに入れる。バイトの中に下着泥棒がいたら、まあ諦める」

       店長の着替え盗むやつなんていないです、とは言えず、バイトは押し黙る。彼の年齢の割に低すぎる背丈や整った顔を考えれば、無いとは言い切れないと思ったからだ。あってほしくはないが。

      「にしても店長って旅行とか行くんですか? 体力無さそうなのに」

      「失礼だな。休みは結構いろんなとこ行くよ。今回なんてめちゃくちゃ歩いた」

       つっかえのない白肌を、ダボついたプリントTシャツが滑る。代謝の悪い彼の肌は夏の割に汗による光沢が少なく、わざわざ着替えずとも清潔感に問題は無さそうだが……おそらく彼自身のの気分が良くないのだろう。バックパックから黒無地の肌着を取り出す。

      「どこ行ってたんですか?」

      「山。中腹までは車だけど」

       脱ぎ終えたTシャツをバックパックの上に投げ捨て、端的な答え。よく見れば、背負っていたバックパックは登山用のメーカーだ。

      「……本当ですか?」

      「本当だよ。いいぞ、山。綺麗だし」

       そう思っていなさそうな淡々とした声で、店長はそう言い放つ。乾いたタオルで少しの汗を拭い、手に出したシーブリーズを背中あたりに雑に馴染ませる。弱い柑橘を含む爽やかな匂いが広がるうちに、彼は無地のシャツを手早く着直した。
       休憩時間中のアルバイトは別にその行程を見るでもない。ただ、何かを考えるように上を向き、適当に相槌を打っている。

      「いいですね。俺もどっか旅してみようかな」

      「お、いいじゃん。このバックとか、言ってくれれば貸すよ」

       制服を着替え終えた店長は笑顔で言う。社交辞令で言った言葉が案外食いつかれて驚くが、この言葉も社交辞令なんだろうと、アルバイトはそう思っていた。


       質の良いバックパックは、多分肩への負担も軽減してくれるのだろう。慣れない旅と経験の割に、眠れば身体的な疲れは取れていた。精神的なものは……わからない。

       ぼんやりとする頭を傾けたまま、いつのまにか閉じていた目を開く。辺りを見回し騒音の元凶を探すと、どうやら携帯電話から鳴り響くアラーム音であるとわかる。
       般若心経、滝の音、パンクロック、合成音声、金属音、鐘の音。絶えず切り替わる多種多様な爆音。目が覚めること以外最悪な音に開いたばかりの目を細め、見慣れぬ天井を見上げる。ヤニで黄ばんだ白色は本来のそれより目には優しいが、一方で環境と治安の悪さも感じさせる。敷布団派だからというだけでは片付けられない不快さの硬く古いダブルベットを軋ませ、上体を起こす。

       昨日の記憶は? もちろん鮮烈にある。今までの自分の人生全部を足しても釣り合わない異質な数時間だった。眠った程度でそれが薄れるわけもない。何より。

      「隣に居るんだもんな……」

       昨日僕をボコボコにした張本人。久留間と名乗った彼女は今、僕と同じベッドでぐっくりと寝ている。もちろんこの間にもアラームの騒音は鳴り響いているのだが、そんなこと彼女は全く気にもしない。

       それにしても  案外、深い眠りに落ちていた。水道も電気も通っていない、廃墟のような(というか、実際廃墟だろう)ホテルのカビたベットで、自分を殺しかけた人と一緒に寝た割にはだが、それでも眠れただけ驚きだ。どうやら俺は思ったより図太いらしい。……まあ実際は知らない街への遠出からすぐの大事件で疲れていて、ほとんど気絶に近い形だったのだけれど。

       だから意識が戻ってきて、状況を把握した後僕がしたことは、まずベッドから飛び起きて距離を取ることだった。狭い部屋にはほとんどベッドしかなく、実際に離れた距離は30cmにも満たないが、それでも隣で寝ているのとは俺の気分が全く違う。

       相変わらず、騒音は鳴り響く。しかしこれだけ騒がしい音が枕元でしていても、眠っている彼女──久留間さんは微動だにしていない。死んだように眠っている、という表現がふさわしい。ベットから離れれば、アラーム音で寝息の音は完全に掻き消されていた。

       しかし、これは……逃げるチャンスではないだろうか。錆びついた扉には特に鍵もかかっていない。部屋は狭く、他に人がいるようにも見えない。アラームは止まらない、部屋の主は起きない。極め付きに、僕は部屋の主に昨日殺されかけている。逃げるには十分な理由が揃っている。
       ……でも。この場所に自分から足を踏み入れたのも事実であって。あの時の言葉は、確かに苦し紛れの命乞いだったかもしれないが  それだけが理由でもないわけで。

       結局俺は部屋を右往左往し、持ってきた荷物であるリュックやスマートフォンが揃っていることを確認して、扉の前で立ちすくむ。手を上げられないほど疲れているわけではない。ドアノブに手をかける勇気が、ただなかった。
       いっそひとりでに空いてくれればいいのに、なんて。そんな臆病な逃避を脳内で浮かべる。

       ドアが開いた。

      「……え?」

       ただし、当然ひとりでに空いたわけではない。目の前に立っていたのは、おおよそ高校生くらいに見える少女。突然空いたドアに硬直する僕に対して、少女はあくまで冷静だった。

       冷静に、僕の顔に何かを突きつけてきた。

      「え、ちょっと、あの  」

       筒から勢いよく噴き出す蛍光色が染み込み、ひどく痛む目。同時に意識が遠のいていく感覚。手に持っていたスマートフォンが落ちる。混乱を口に出し(このせいで少し口にも液体が入った、不味い)状況を掴めない俺がかろうじて認識できたのは、突き出された缶がスプレー缶だったことと、

      「……久留間起きろー、不審者いるぞ」

       平坦なトーンで発される、その一言だけだった。


       目を覚ますのは私にとって最も苦手な"当然"の一つだった。眠ったら起きなければいけないという法則に従う、ただそれだけがこんなにも難しい。だが残念なことに苦手なだけで不可能ではなく、不快を伴いながらでも、結局私は目覚める。

      「……起きた、起きたよ。だからそのうるせえ音を今すぐ止めろスィノ」

      『寝坊だね、久留間。でも大丈夫、君にしては頑張った方だ』

       上体を起こす。すぐ傍に置いてあるスマートフォンが鳴らす不快な騒音を止め、不愉快な言葉を喋り出す。返答をする気も起きないのでスマホを二本しかない指で挟み持ち上げ、窓を開ける。

      『すまない、不要な皮肉だった、悪かった、だから窓からこの端末を投げるのはやめてくれ。そんなことをしても痛くも痒くもないし、ただ君の口座から新型iPhone分の代金が減るだけだ』

      「私に銀行口座はねえよ、馬鹿」

      『あっ』

       生意気な機械はビルの十三階から自由落下していく。最後にまた何か喚いていた気はするが、聞こえないし聞く義理もない。本人が言う通り、こんなことをしてもアイツにとっては痛くも痒くもない。

       スィノ。年齢及び性別不明、本人曰く"不完全電脳存在"。インターネット上に知能を"再現'し、電子情報として生きている元人間。何故"不完全"を名乗るのか、電脳化の原理、私と行動を共にしている理由等は概ね謎。わかっているのはかつて壊れた神を信仰する気味の悪い宗教団体に所属していたこと、性格が悪いこと、ネットに繋がっている電子機器なら並のセキュリティは突破して入り込めること。
       ランプテーブルに置きっぱなしのノートパソコンが起動して、すぐにまた無機質で中性的な合成音声が話し出す。

      『ああ、一つ言い忘れていた。──おはよう、久留間くん』

      「……もう昼だろ、たいして早くもねえ。いや、虎乃がいないなら9時にもなってないのか?」

      『いや、今は12時だし、彼女はとっくに偵察に行って、そろそろ定期連絡を寄越す頃だ』

      「そ」

       慣れた寝坊で気付かなかったが、とっくに窓の外で太陽は高々昇っている。新入りを連れて帰ってきたのが深夜の2時くらいだから、だいたい9時間くらいは眠っていた計算になる。

       ……新入り?

      「おいスィノ、そういやここで寝てた新入りどうした?」

       寝て起きたせいですっかり忘れていた問題を思い出す。部屋を見回しても新入り  ハジメとかいう、あの青年の姿は見えない。

      『あー……それがね。虎乃くんに彼のことを伝える前に、彼女が不審者だと思って彼にスプレーを浴びせてしまって』

      「あー、まあ当然の警戒だよな。それでどうした? 死んだなら死んだでしょうがないけど」

      『いや、昏倒用を使ったらしいから生きてるよ。とりあえず薬が置いてある5階まで虎乃が運んで、最低限の処置はして寝かしてる。耐性がないとしても、1時間もしないうちに起きるはず』

      「そ。じゃあ今日をチュートリアルにするのは難しいか」

       一つ伸びをして、そこらに散らかる服を手に取り手早く着替える。ジーンズとTシャツに、袖の余るコートで無い指を隠す。ちょっと袖口が赤く汚れてることと季節外れであることに目を瞑れば、概ね普通のファッション。

      「で、昨日の追手がどこまで来てるのかは分かったのか? 虎乃からの連絡は?」

       昨日の追手。もちろん新入りのことではなく、その前に、その目の前で殺した男のこと。何人目かももう忘れた、抜けた"組"の三下。ケジメとして切り落とした六本の無い指が疼く。舌打ちを一つ。

      『あー……そういえば遅いね。毎回十二時ちょうどには連絡を寄越してくれるのに』

       ちょっと調べてみる、と、スィノは言い残して端末を離れ、画面の光が消える。苛立つ私から逃げたというのもあるかもしれない。だとすれば正しい判断だ、全く。
       電波に乗って動く奴は今、新宿周辺のスマホか何かのカメラを漁っている、はずだ。もしくは、直接虎乃の端末まで向かっているか。電波なんて見えもしないものを見ようとするほど馬鹿じゃ無いが、なんとなく空いた窓から外を見下ろす。狭い路地は人が通ることをそもそも想定しておらず、無造作にゴミが散らかっている。わざわざこんな路地を入り込んでやってくる人間なんてのは……まあ、ろくな奴ではない。十三階まで届くような大声が聞こえる。どうせまたこのホテルの"利用者"が起こしたトラブルだと……思いたい、が。

      「おい、どうだったスィノ」

       答えを知っているはずのノーパソに話しかける。スペック不足のノーパソが悲鳴を上げ、その後に抑揚のない声が言葉を返す。

      『最悪。ここも君の古巣にバレたらしいね。下の奴らは追手だ』

       舌打ち。このホテルは隠れ家として一月ほど拠点にしてきたが、いよいよバレたか。

      「クソ、虎乃が捕まって吐いたか? あの女は今どこだ」

      『虎乃の行方は不明。彼女のケータイは壊れてるし、こんな短時間じゃ行方も探せない。とにかく、今はこっちが大事だ。もう建物内には入られてるし、外に見張りもいる。逃げるにしても戦闘にはなるだろうね」

      「逃げれるし戦えねえからって呑気なもんだな、お前は」

       このホテルは書類上は廃墟で、電気も水も通っていない。それはこちらの戦力──スィノがただのやかましいノーパソに成り下がるということ。虎乃もいないのなら、今回は私一人で相手をする必要がありそうだ。
       エレベーターは完全に死んでいる、だから上がってくるなら階段。全ての階を確認するとしたら、まだ時間はあるはずだ。

      「スィノ、相手は幾ついる?」

       何人、とは聞かない。この世界で敵対するのが人とは限らない。

      『確認したのは五人。そのうち一人は計器の狂いを見る限り"異常者"だと思うよ。ちょっと不味いかもね』

       舌打ち。ちょっと、では済まない。そこらの雑魚ならやりようはあったが、異常持ちが相手となると話は変わる。
       逃げるにしても迎撃するにしても、バリケードくらいは張っておくべき、か。階段に机を運び、重ねていく、小指と薬指だけ、しかも一人。時間があるとはいえ、まともにバリケードを組み切れるかは怪しいところだ。

      『……もしかして、バリケードでも張るつもりかい』

       ゆっくり、どこか怪訝そうな間でスィノは何故か分かりきったことを聞いてくる。

      「あ? 見りゃわかんだろ。だめか?」

      『いや、ただ──新入り君がまだ、下の階で寝てるから、ね』

      「……ああ」

       忘れていた。


       飽き性から来る浅く広い経験には自信があったが、しかしさすがに気絶した経験はない。がば、と慌てて起き上がる。相変わらず自身が寝転がっていたのは清潔感に欠けた寝具だが、さっきとは違う部屋のようだ。狭い部屋には窓すらなく、薄暗い空間に目を凝らすと、まるで倉庫のように棚やダンボールが積み重なっている。
       まだ少し硬い体を起こす。それを待っていたかのように、枕元のケータイが震えた。薄暗い部屋で液晶がぼんやり光り、"スィノ"という見覚えのない名前を映す。電話に出るか少し迷っていたところで、触れていない画面が勝手に通話開始に切り替わる。

      『いい目覚めだ、新入り君。まあベストではなくベターだけれど、起きないよりましだ』

       機械的な声がスピーカーから流れ、狭い部屋に響く。ここはどこで、あなたは誰だ。彼(あるいは彼女)の言葉に戸惑い、どうすればいいかわからず押し黙る。

      『状況がわからないだろうから説明しよう。まず、君が目覚めたとき。虎乃──私たちの仲間が、君を不審者だと勘違いして昏倒させ、仕方がないから普段倉庫として使っているここに寝かせた』

      「なるほど」

      『冷静だね』

      「いえ、別に。どうぞ、続けてください」

       何も言えることがないだけだ。不安だし、状況には困惑し続けているからこそ、動けない。

      『そう。じゃあ現状の話をすると、今君に出会ったら問答無用で殺しに来るだろう人間が四人、この建物をうろついてる。生き残りたければ早急に逃げた方がいい』

       ……。

      「へ?」

      『あんまり時間はないよ。ここは五階、上がってくるまで対して時間はかからない。とりあえず、こんな逃げ場のない場所は出た方がいい』

       間の抜けた声を上げた俺を気にしているのか気にしていないのか、機械音声は淡々と避難誘導を続ける。促されるままにベッドを降り、そばに置いてあった自分の鞄を掴む。重い。二泊できるだけの用意をしているから当たり前だ。持っていくべきかは悩みどころだが……手ぶらで知らない場所を歩き続けるよりは、多少重くても荷物がある方が安心できる。

       暗い部屋を抜け出す。倉庫はどうやらフロアの端だったらしく、出てすぐの眼前には長い通路が一直線に見える。窓から差し込む夏の日差しも、隣のビルに遮られ全力とは言い難い。蛍光灯は軒並み割れているし、そもそも電気が通っていないから点かない。結果としてどこか薄暗くあちこちに老化が見える通路は、ただただ不安で心細い。

      「あの、俺はどこに行けばいいんですか」

       とりあえず、一本しかない道をまっすぐ歩いていくのだが。階段を降りればいいのか登ればいいのか、それともどこかに身を隠すべきなのか。耳元に寄せたケータイに助けを求めると、答えはすぐに返ってきた。

      『とりあえず久留間のいる階を目指すのが良いんだけど──うん、手遅れかもしれない』

       それはどういう──言いかけて口を閉じる。一本道の最奥に、複数の人影。迷いなくこちらに歩いてくる、派手なスーツの男たち。

      『望みは薄いけど、今からホームレスを装うのも手ではあるよ』

       抑揚は相変わらずない機械音声だが、その提案が投げやりであることは伝わってくる。一本道では逃げ道はなく、今から隠れるのも無理。こんな状況では確かにそうするしかない、が。こちらに向けられている、棒状の黒いアレは。

      「拳銃ですよね……?」

      『うん、大丈夫。見る限り異常はされてない、ただの違法改造銃だ』

       大丈夫なわけがない。慌てて近くの部屋に飛び込む。視覚の外でした大きな破裂音が発砲音であることを遅れて悟る。……威嚇射撃であると信じたい。そうでなければ、相手は無関係な可能性のある人間も悠々殺すか、俺が関係者であると断定しているかのどちらかだ。両方かもしれない。

       扉を一瞥する。鍵は壊れていて、立て篭りは絶望的。当然のようにこの部屋は袋小路。この部屋は五階で窓からの脱出は厳しい。

       はっきり言って詰んでいる。

      『君の荷物にC4でも入っていない限り、降伏か無関係を装うかしか生きる道はなさそうだ』

      「着替えくらいしか入ってないっすよ、畜生……」

       そうは言いつつも脇のポケットを漁ってみる。ハンカチ、ポケットティッシュ、酔い止め、充電器、ペンライト、財布……ひっくり返してそこらに散らかすが、拳銃に対抗出来るようなものなんてあるはずがない。

       そして、派手な足音が目の前に辿り着く。

      「動くな」

       サングラスに派手なスーツの、ドラマでしか見かけないコテコテのヤクザ。コテコテでも、実際こうやって近くで見ると怖い。ましてやそれが三人組で、銃を持っていればなおさらだ。黙ってケータイを床に置き、両手を上げる。スマートフォンの機械音声も完全に沈黙していて、画面は暗いまま。

      「撃たれる理由はありません、私はただの平凡な一般人です」

       苦し紛れに、助言通りそんなことを言ってみる。それに、実際俺はただの一般人で、嘘はついてない。緊張でか細い声は、この状況ではむしろ説得力があって良いと思いたい。

      「は?」

       真ん中のヤクザ──唯一サングラスをしていない──が俺の言葉に反応し、こちらに近づいて至近距離で睨む。その眼光から意識を逸らせない俺は、頬に押し付けられた銃口に視線を向けられない。銃の硬い感触が強く、頬に刺さる。それに気を取られているうち、二人目は俺の背後、窓との間に立っていて、三人目は入口を塞ぐように扉にもたれている。完全な包囲網を作った後で、銃を持つ彼が口を開く。

      「じゃあお前、なんでここにいるんだよ」

       俺が聞きたい。なんでこんなことになっているんだろう。なし崩し的に決めた覚悟、拾った命。それをすぐに台無しにする産物が頬に突きつけられている現状。全くもって分からなくて、ただ助かるために言葉を続ける。

      「たまたま巻き込まれた一般人なんです」

      「んなわけねえだろ」

       入口前に立つヤクザが吠え、威圧に少し体が震える。正面で俺を睨んでいたヤクザはふ、と顔を離す。無意識のうちに止めていた息を取り戻し、緊張の糸が少しだけ緩む。相変わらず頬には拳銃の感触があり、問題は何も解決していないから、あくまで少しだけだが。

      「じゃあこれはなんだ? お前が巻き込まれただけだってんなら、なんで昨日の夜あんな場所にいた?」

       ヤクザは見慣れない銀色スーツのポケットから、不釣り合いなほど見慣れたものを取り出した。
       白のキャップ。少し赤い斑点が付いているが、いや、だからこそ、間違いなくそれは俺の帽子だった。昨夜落としてそのままだったことには、実物を見て今更気がついた。

       でも。

      「それは……本当に、俺のですか?」

       本心から出た言葉だった。いや、より本音に近づけるとしたら、俺のであってほしくなかった。
       ただ、この質問の真意は別だ。疑問なことが一つある──この人は、なぜ俺の帽子だと知っている?

      「誤魔化すな。これは確かにお前のだ」

      「何故言い切れるんですか?」

       食い気味に返す。ほとんど意固地だった。拳銃を押し付けられ、会ったことのない人種に囲われ、混乱して普通の判断ができなかったのかもしれない。
       でも、嫌だった。理解できない理屈に、理解できないまま追い詰められて、あまつさえ死んでしまうのは心底嫌だった。せっかくあの夜見逃された命に、意味がないと思った。少しの沈黙の後、ヤクザは拳銃を頬から放し──俺の心臓に、真っ直ぐ向けた。

      「もういい、お前が関係者なのはわかりきったことだ。だから、これだけ答えろ」

       じゃなきゃわかってるよな、と銃口がぐいと胸に押し付けられる。ただ黙り込んだ俺の態度を肯定と受け取ったのか、男は口を開いた。

      「久留間は何処にいる?」

       それは肩透かしなほど、意外性のない質問だった。しかし、だからといって単純に答えられるわけでもない。そもそも自分は久留間さんがどの階にいるのかも知らないし、仮に丁寧に教えたとして、用済みになったら引き金も軽くなるだろう。それじゃあ全く意味がない。

      「……教える前に、ひとつだけ。どうしても気になることがあるので教えて欲しいです。何故、私の帽子だとわかったんですか?」

       苦し紛れの時間稼ぎに、先程から続く疑問を続けて投げかける。冷や汗か夏の暑さか、シャツがぺたりと背中に張り付く。怪しまれないように手は上げ続けているから、その不快さを拭うことすらできない。明らかに不快感を露わにするヤクザの眉を見つめることしかできない。

       沈黙。余計なことをして機嫌を損ねてしまったという後悔。緊張感に平されそうな俺に、目に悪いスーツの男は舌打ちをひとつ。それから聞き取りづらい早口で話を始める。

      「落とし物を必ず持ち主に届けられる。そういう体質なんだよ、俺は。だからこのキャップを持った俺がここまで来た時点で、これはお前のもの。だとしたらこれが落ちていた現場、俺たちの仲間が殺された現場にお前は居た、そうなるよな?」

      「体質……?」

       当然のように説明された言葉、その最初だけを反芻する。いや、こんなものは説明ですらない。手品の種が別の種なし手品だと言われたようなものだ。ありえない、想定できない、少なくとも、晴れた夏の日に、都会の真ん中で起きていい出来事ではないはずだ。

      「大したものじゃないだろう、久留間に比べれば。気が済んだなら早く奴の居場所を──」

      「あ、」

       前の言葉を拾い、先の言葉を聞き逃す。そういえばそうだ。落とし物拾いなんて大したことではないと言えるほどの、もっと大層な種無し手品、宙に浮かぶ死体を、俺は半日前に見たばかりだ。


       気づくと、同時。床に横たわるスマートフォンは、小さく、しかし確かに震えた。


      『戦闘要員の"異常者"じゃないことを確認。

      雑魚だ、蹴散らしな』




      「──お前」

       俺の体を釘付けにしていた眼が、携帯に向き、それから俺の背後に逸れる。窓の外に向けられた視線を追うように、つい振り返る。唯一の光源である窓に俺は眩しさを感じ、少しだけ目を細めるが、すぐにその目を見開くことになる。

       怪物が、窓の外で笑っていた。

       おそらくは上の階から落ちてきた彼女は、無い六指を立て、有る四指を強く握り、長い脚で窓を蹴り飛ばし──砕く。窓際に立っていた男に硝子片の嵐を浴びせる。そのまま、落ちない。硝子を破って余りある秒数の、物理法則に基づかない空中での静止。破った窓のサッシに足をかけ、堂々と侵入。

      「オーケー、ようこそ私の敵」

       硝子片を浴びて怯んだ一人を、瞬時に放った無造作な蹴りで壁まで悠々飛ばし、久留間は残り二人に向き直る。轟音と血が壁にぶつかり弾けるが、彼の惨状を確認する人間は、確認できる人間はいない。

       視線、意識、勢い、空気感。この部屋の全てが、彼女一人に奪われていた。

      「かかってきな」

       開戦を歓迎する言葉より先に、向けられた銃口から弾丸は放たれていた、はずだ。確信が持てないのは──銃弾も、その怪物も、目で追える速度ではなかったから。こめかみに放たれた弾を見てから避け、接近戦の間合いで掌底を腹に叩き込み、カビたベッドに吹き飛ばす。起こったことはおそらく、そんな感じ。

       素手だけでの秒殺。数秒前と逆転したパワーバランスに、ただ瞬きをするしかない。

      「あと一人……ん?」

      『逃げたね』

       扉付近にいた最後の一人が、眼を離した隙に居なくなっていた。耳をすませば一本道を駆けていく足音が聞こえる。

       息を深く吐く。のされた二人は動く気配がなく、部屋は盛大に散らかっている。俺のバックパックは硝子まみれで散々な有様だし、慌ててひっくり返した外ポケットの中身は散らばった上で踏まれている、硝子をそっと避け、床の私物を拾い集める傍ら、久留間さんと機械は放し始める。

      「どうするよスィノ。主犯っぽいアイツはやったけど」

      『んー、逃げたのも一応追おうか。どうせこの拠点は捨てないとだし、増援呼ばれると────』

       銃声、機械音声はノイズを吐いて消える。床に置かれた俺のスマホに、さっきまでなかった豪快な穴。ベッドの方から、きつい火薬の匂いと煙。銃声の前に反応して飛び退いていた久留間さんが、その残骸を見て頭を掻いた。

      「あー、思い出した思い出した。お前、私の荷物持ちやってた……えー……西田だな?」

      「正解。アンタが組を抜けてから、しばらく荷物は持ってないがな」

       再度、銃口が久留間さんの頭を狙う。金属をぶち抜く威力を目の前にして、しかし彼女は涼しい顔で微動だにしない。慌てて壁際に下がった俺が介入できる余地のない、張り詰めた二人の空気。狭い部屋で、両者の距離は2mもない。久留間さんなら、おそらく直ぐに詰められる距離。

      「そりゃあよかった、お前には期待してたから、私も鼻が高いよ」

      「じゃあその高え鼻、へし折って風穴開けてやるよ────!」

       先に動いたのは、銃口を向けるヤクザ、西田の左手だった。銃を持たない左手を振りかぶり、持っていた何かを投げつける。もちろん本命は右手の銃だろうから、狙いはおそらく牽制。放たれたのは細く平らで見慣れた形状の金属板、つまりスマートフォン。

       その一投を見て、久留間さんは鼻で笑った。顔に向かって投げられた金属の板は、確かに速いが銃弾よりは遅く。当然、余裕を持って首を振り悠々回避、

      「馬鹿だな、相変わらず!」

      した先に、金属の板は追尾した。さながらスライダーの軌道で、鈍の手裏剣は彼女の鼻っ柱に突き刺さる。ぐ、と痛みに少しの声を漏らし、真っ直ぐだった姿勢がぶれる。西田は望んだ結果に口角を上げ、振りかぶった後の左手を銃に添え直す。

       瞬間的に起きた形勢逆転。目まぐるしく変わる状況に混乱し、終始置いていかれたままだったこの殺し合いが終わる。この瞬間俺は、おかしいくらい冷静だった。

       ──俺を殺そうとした二人の殺し合い。俺には全く成す術がなく、付いていけない速さの戦い。それに横槍を入れられるチャンスがただ一度、今、この一瞬にあることに、おそらく俺だけが気がついた。
       故に外せないという緊張と、絶対に外したくないという集中。音すら目に留まりそうな感覚の中で、見据えるのは一点。

       西田の顔に、既に照準は向けられている。だから俺はただ、腕が震えないよう力を抜き、親指でそっとボタンを押した。

       閃光は一直線、狙い通りに昼の部屋を横切り、銃を構えるヤクザの網膜まで照らす。昼でも薄暗いこの廃墟を照らす、登山用の眩いペンライト。人に向けるためのものではなく、角度を選んだヘッドショットでようやく一瞬視覚の自由を奪える程度の小道具でしかない、が。

       一瞬で、あの怪物には十分。

      「やるじゃん、新入り」

       四本の指を強く握り、閃光に照らされる先へ、怪物は軽やかな一足で跳んだ。

      「普通以上に頑張りました。……死にたくは、ないので」

       ライトを消し、目を瞑る。普通の感性を持つ俺には、血が多すぎる暴力だった。

       ひしゃげる音、飛び散る音、着地する音。それが終わった後で、俺と久留間さんはほとんど同時に、深く長く息を吐いた。


       結局、逃げたヤクザを追えなかったのが響き、増えた刺客から逃げ惑うのにたっぷり苦労して、完全に追手を撒けたのは日付が変わってからだった。

       閉店後の居酒屋に忍び込み(セキュリティは全てスィノが無力化した、間違いなく犯罪だがもう何も言えない)、ようやく今日の寝床を確保したところで、誤魔化していた疲れが一気に押し寄せてきた。今すぐに何もかも忘れて眠りたいが、そこまで呑気なら俺はおそらくこんなところにはいない。深呼吸の後、勝手に店の酒を拝借している久留間さんに疑問をぶつけていく。

      「なんなんですか、さっきのヤクザたちは」

      「あ? 見ればわかる通り、普通にヤクザだろ。有村組、私の古巣」

      「普通じゃないですよ。特にあの……西田って人の、"体質"とか」

      「ああ、あれはびっくりしたな。『落とし物を本人に必ず届ける』なんてショボい"異常"の応用で、まさか私のスマホを投げて『届ける』とは思わなかった」

      「いや、そうじゃなくて──」

      「嘘だと言って欲しいって?」

       反論を許さない、強く短い語気。久留間さんは両手の平で抱えた焼酎を飲み干したあと、静かにテーブルに置いた。必要最低限の明かりしかつけていない部屋の中は暗く、彼女の表情はわからない。

      「お前みたいな平凡な人間が、今まで何をして生きて来たかはどうでもいい。でも、私たちの現実はこれだ。歯向かうな。死ぬし、殺すぞ」

       小指だけ飲み口に引っ掛けて、久留間さんは焼酎の五合瓶を持ち上げ、放り投げる。高い放物線で俺の頭に降ってきた鈍器を、慌てて受け止めた。中身がないとはいえ、それは十二分に重い。

      「じゃあ、私は寝る。お前もそうしろ」

      『明かり、消しておこうか?』

      「ああ」

       抱えたものを下ろせないまま、ぼんやりと薄暗闇に輪郭が消える。一日が終わったのだと気づいたのは、横たわり目を瞑ってからだった。

        • _

        「先輩は神って信じます?」

        「本当に居るなら、宗教は今より流行ってないだろうとは思うよ」

         PCから目を離さずに、店長は即答する。ニコリともしないその顔と鳴り止まないタイピング音に、どうやら機嫌が悪いようだな、とアルバイトは察しを付ける。

        「藪から棒にどしたの。君、宗教とか信仰してたっけ?」

        「あ、いえ。ただ大学でちょっと、そういう話になって」

        「なるほど。友達多そうだもんな」

        「店長は友達少なそうですね」

         タイピング音と会話が止まる。相対的な静寂に場が吸い込まれ、バイトの青年は息を止めた。彼が普段店長に散々叩かれている軽口の仕返しのつもりで口にした冗談だが、何の反論も来ないとそれはそれでやりづらくて、彼は店長から目を逸らす。
         深夜帯の街でよく聞く酔っぱらいの大声が遠くで響く。間が空いて、エンターキーが強く押される。耐えかねて、彼は頭を下げた。

        「……すいません」

        「いや、別に気にしてねえけど? ただ忙しい時になんの脈絡もなく言ってくれるなぁと思っただけだけど?」

         露骨に不貞腐れた声色。タイピング音はいっそう強くなる。アルバイトは俯いたまま制服を脱ぎ、ロッカーから自分の荷物を取り出した。

        「それともあれか、友達がいない奴ほど宗教に嵌る、みたいな話か? だとしたら俺が反例になるな」

        「いえ別に……」

        「そ。まあいいや、とりあえずまた明日よろしくね」

        「あ、はい」

         その日のシフトを終えたアルバイトが、出勤時間を管理する機械を操作する。機械が正常に動いたことを示す電子音を吐く。いつのまにかまた元の小ささに戻っているタイピング音が止まり、店長が緩いパーマのかかった短髪を掻く。

        「ああ、あと一つだけ」

        「はい?」

         紺色のコートに着替えたアルバイトに、飯尾店長が目線を向ける。揶揄うようないつもの調子ではなく、目上の人間としての真面目で優しい口調。

        「別に神に群がっても、君は満足できないと思うよ」

         大学で貰ったサークル勧誘のチラシが、コートのポケットでくしゃりと潰れた。

        「……覚えておきます」


         神に祈るタイミングというのは普通に生きている俺にはそれなりにあるものだけれど、しかしそれがいつだったかと言われると、今ひとつ思い出すこともできない。厚い信仰心がある人間なら話は変わるのだろうが、俺のような神に対して熱を持たない小市民は危機的状況で咄嗟に祈って、そして喉元過ぎれば熱さを忘れる。罪悪感などは別に感じたことはないけれど、実際、そんな軽すぎる俺の祈りにどれだけ力があるのかと言われれば怪しいものだ。狂信者になれるほどの熱がなければ、満足なんて出来ない。

         とまあ、大音量で流れる般若心経を聞いて、いつかの場面を思い出す。2回目でも相変わらずうるさいアラームだし、これで起きない人間は改めてどうかしている。一つ隣の机でぐっすり眠っている久留間さんを見て心底思う。

         明かりはいつのまにか点いている。おそらくスィノさんが点けたのだろう。ベッドがわりにしていた机から降りて一つ、伸びをする。座布団を敷いたとはいえ、さすがに体のそこかしこが硬いし痛い。

        『おはよう、新入り君』

        「おはようございます、スィノさん。今何時ですか?」

         顔を洗い朝の支度をできる限り済ませると、相変わらず姿の見えないスィノさんの、相変わらず特徴のない機械音声の挨拶が飛んでくる。返答の後、朝食としてバックパックから昨日食べそびれていた固形栄養食を取り出す。味気ないそれを食べながら、続く話を聞く。

        『今は10時、久留間君が起きるだろう時間が12時、この店に人が来るだろう時間が15時だ』

        「なるほど。ちなみにスィノさんはいつ起きたんですか?」

        『いや、私は睡眠機能を失っているし、見張りも人探しもあったからね。今夜は一睡もしていない』

         確かに、追手がいる上こんな不法侵入した場所じゃあ確かに見張りは必要だ。しかしそれより気になるのは、その前の言葉。

        「機能?」

        『ああ、確かに言ってなかったね。私はスィノ。元人間、現"不完全電脳存在"。機械のメモリ上で生きる脳みそだ。改めて、よろしく頼む」

        「え、はい、よろしくお願いします……」

         電脳存在って何だよ、と言わなかったのは、昨夜の久留間さんとのやりとりを思い出したから。スィノさんもまた、俺の常識の外で──この表現で正しいのかわからないが──生きてきたのだ。
         それに、ここでの常識を爪弾きにして、真っ当に疑い続けるのは……鮮烈な昨日を経験した今日の俺には、少し難しい。例えばスィノが持つ埒外のハッキング能力は明らかに異常で、データの世界で生きていると考えたら納得できてしまう。

        『それはそうと、だ。ニノマエくん、だっけ。君、実際どのくらい闘えるんだい? スタンガンとか手持ちにない?』

        「俺の名前はハジメですし、漢字も違います。戦闘は……すいません、特に役立つとは思えません』

         なんとなくポケットに入れっぱなしにしていたペンライトを取り出す。借りたバックパックに紛れ込んでいたが、実は俺の持ち物ではない。
         本来の持ち主が貸す時に取り出し忘れたのだろう。あの人らしい雑さだが、それが荷物に遊びのない俺を救ったわけだ。正直こうなるのならスタンガンくらい入れて欲しかったが、一介のコンビニ店長に無茶を言っても仕方ない。

        『やっぱりそうか。そのペンライトが護身用にも使われる、法的に若干怪しい出力の奴だったし、他の武装も期待したんだが』

        「…………」

         スタンガン、期待しても良かったかもしれない。得体の知れないコンビニ店長に思いを馳せつつ、ポケットに唯一の武器をしまう。

        「無理ですよ、俺は平凡な一般人です。いろんな武術の触りとか体験したことはありますけど……そんなので、どうにかなります?」

         あの人外の戦闘どころか、そもそも喧嘩なんて日常だろう世界の住民に、付け焼きですらないなまくらが通るとは思えない。

        『無理だね。となるとそうか……現状、戦えるのは久留間一人か』

         困ったことになったと、スィノは小さいボリュームの音声で言う。どこか深刻そうな一言に、首を傾げる。

        「ずっと久留間さん一人だった訳ではないんですね」

        『ああ。忘れてるのかい? 君を気絶させたのも彼女──虎乃くんなんだが』

         そういえば。色々なことが起こりすぎて、すっかり忘れていたが。もう一人俺は、しっかりとこの目で見ていた。

        「あの子も戦闘要員なんですか? 見た感じ、俺より年下みたいでしたけど」

        『年下の女の子に気絶させられといて、何を今更って感じだね』

         明らかにこちらを揶揄う言葉に押し黙る。それが愉快なのかどうかは表情の存在しない機械からは読み取れないが、話は続く。

        『彼女は奇跡論的──って言ってもわからないか。塗料を調合して"異常"を作れる、違法薬剤師兼路上アーティストってとこだね』

        「異常を、作る……」

        『現実的な魔法だと考えるといい。君を無力化した攻性のあるスプレーだけじゃなく、置いておけば人避けになる塗料なんかも彼女は作れる』

         そういえば、あの夜の路地にも塗料の缶が倒れていた。それが人避けだったのだろうか。

        「……そんなすごい人が、なんで今いないんですか?」

        『さあ。偵察に出てから神隠しに遭ったように消えている。なにせネットを伝って漁ってみても、全く痕跡がない』
         
        「それは……。本当に神隠しじゃなきゃいいですけど」

         スィノさんの言う『神隠し』が、単なる比喩なのか言葉通りなのかすらわからないが、前者だと信じたい。神は流石にこんなところに居ないと思うし、神だとしたらそれこそ、自分のような一般人に出来ることなんて無いと思ってしまうから。

         食べ終えた固形食のゴミをバックパックに入れ、キッチンで水とコップだけ借りる。ずっとこの店に対する罪悪感はあるが、それよりも口の中が乾いた不快感や喉の渇きを優先してしまう自分は、相変わらず悪い意味で小市民だった。
         せめてもの恩返しというか証拠隠滅として、使ったコップはきちんと洗って拭いて戻した。キッチンを出て机に戻り、椅子に座ったところでようやく、ここまでずっとスィノさんが黙っていたことに気がつく。会話の途中だったような気がするが、一応声をかけてみる。

        「スィノさん?」

        『……警戒すべきだった。私が探して見つからない時点で、私より上の電脳存在が関与している可能性は考えられた筈だったね』

         声色は変わらない。しかし焦っていることはわかった。冷や汗のように、スマホの液晶をノイズが走る。

        「スィノさん、それはどういう──」

        『──神隠し、ということだ。但し、神は未だ壊れているが』

         唸るような低音が、俺の問いに答える。その一言が合図だったかのように、店内の照明が全て落ちる。暗転。地下にあるこの店には窓も日差しもなく、唯一の明かりであるスマートフォンの画面だけが鮮明になる。

        『名乗りは互いに必要ないだろう。我々が重要視しているのは意識と共同、そしてWANの意志のみだ』

         不躾な言葉と、スィノより低い音程の機械音声。言っていることは分かりづらいが、味方でないのは確かだろう。しかし……実体を持たない相手に対して、黙って話を聞く以外に何ができる?

        『故に、要件のみを伝える』

         わずかな抵抗として、ペンライトを付け部屋を照らす。やはりというか特に意味はなく、照らした先の久留間さんは相変わらず死んだように眠っているし、正体不明の声も気にした様子はなく話し続ける。

        『そちらの協力者──本人曰く『虎乃』という名前の彼女は、我々の教会で預かっている』

        「!」

         電脳、教会、虎乃、『神隠し』。ぼんやりと、聞いた情報が繋がっていく。

        『教会の位置はこの端末に残しておく。本日までに、エラーを抱えた電脳を連れて来れば、電脳と少女を交換としよう』

         息を吐く。こんな露骨な人質が……この世界では、当然のように行われるのか。未だ起きない久留間さんに代わって、会話を試みる。

        「……今日中に、間に合わなかったらどうすれば?」

        『少女の知識を解析・抽出した後、其方の位置情報を"有村"に流す。以上』

         ぷつり、とそこで音がして、部屋が明るさを取り戻す。強く握りしめていたペンライトを消して、深く息を吐く。

        「どういうことなんですか、スィノさん」

        『全くわからないね。狂信者どもの気持ちなんて。ただ──不味いことには、なった』

         明かりはついたが、雰囲気はどことなく暗い。俺が"新入り"になってからなのか、あるいはずっとこんなトラブル続きだったのかわからないが、兎角、こうも続くもの身が持たない。

        「……うるっせえし眩しいな……何があったんだよ」

         今更目覚めた久留間さんは、そんな俺たちを冷ややかで蕩けた目で見て、それからもう一度眠った。


         もしかしたら、最初に降り立つ街は池袋の方がよかったかもしれない。そう思うほど、初めて見た池袋は奇特な街だった。性別、服装、国籍、年齢。多種多様な人間が多種多様な生き方をする街。少なくともタクシーの窓から見える狭い風景では、そんな印象。
         ……あるいはこの数日でおかしいものに触れ、漠然としていたそれに輪郭が出来たおかげで、そう見えているだけなのかもしれない。どちらにせよ──こんなところを目指していた俺が、とてつもない馬鹿であることには変わらない。真夏にコートを羽織った狂人、久留間さんを見て思う。

        「ロングコートは変に目立つと思ったんですけど、俺らのことなんて誰も見てなさそうですね」

        「むしろお前の方が浮くだろ、普通すぎて」

        『そんなことはないよ』

         そんなことはない。車で来たから目立たなかったが、少なくとも電車には乗れない格好だ。そもそも、この池袋といえどここまでの変人はそういない。

        『……とりあえず、身を隠す場所を探さないとだね。しかし、久留間にしては行動が早い。夜になってからの方が動きやすかったんじゃないの?』

        「いや、直接教えられた住所に向かう。とりあえずここで降りるか」

         ここで下ろせ、と、脅すように聞こえる言葉。怯えるタクシー運転手に金を払い(何故か俺の自費だ)、慌てるように池袋のアスファルトを踏む。

        『直接って、そんな。説明も最低限しかしてないし、まずは詳しい話とか作戦とか──』

        「興味がねえ。お前の古巣にお前が狙われてる、それでいい。作戦なんてこの人数じゃ立てるだけ無駄」

         ずかずかと、昼間の大通りを久留間さんは闊歩する。ただ最短距離を最速で行くこと以外考えていないその歩み。小走りで着いて行くが、不安しかない。そもそも俺はどこかで身を隠していた方がいいんじゃないか? 彼女が全くこちらを鑑みないのはわかっているから、心で思う程度で留めるが。

         しかし、今回の事件のきっかけとなった彼は、心で思うだけじゃ満足できないのだろう。コートのポケットから声は続く。

        『……罠かもしれないよ? あるいは私が、君を裏切っているのかもしれない』

        「罠なら吹き飛ばすし、私は裏切られるほど馬鹿じゃない」

         あと寝起きで機嫌が悪いんだ、あんまり喋らすな。そんな言葉を最後に、久留間さんはついに返答しなくなり。スィノさんもただ、住所をナビゲートするだけになった。

         そういえば俺は、この人たちの関係すら知らない。ここまで知ろうとする余裕がなかったから仕方ない、仕方ないのだが、自分に対して言い訳をしても現状は何も好転しない。結局俺が出来ることなんて、置いて行かれないよう歩くことだけで。

        『着いたよ。指定されたのはこのビルの11階。準備はいい?』

         立ち止まり、俺たちはビルを見上げる。学生の俺にとって、これまでオフィスビルなんていうのはただ風景以上の意味合いを持たなかったから、このビルに何処か逸脱があるのかはわからない。

        「当然」久留間さんは迷いなく、自動ドアへ歩みを進める。

        「……まあ、はい」準備は出来ていない。だけど、今はそれで妥協するしかない。迷い、足を止めて、けれどそれでも、俺も後に続いた。

         自動ドアは開き、俺を招き入れた後に背後で閉まる。その勢いは、いやに速く感じた。


         主導権を握られて相手の本拠地に誘い込まれた、この上なく悪い状況。もうこれ以上悪くしないためにも、エレベーターを避けるのは当然の判断ではあった。階段で11階まで登るのは手間ではあるが、機械に精通している相手の城で機械の箱に入るよりはマシだ。

        「特に案内も罠もないんですね」

        『11階以外は別に奴らの場所じゃないんだろうね。調べた限りではただの貸しオフィスだし』

         一段ずつ階段を登る。案内表示は全てがオフィスで、俺たち以外に通る人はいない。

        「11階まで歩くのも充分罠だけどな」

         戯言を言いながら、久留間さんはポケットに手を突っ込んだまま三段飛ばしで階段を登る。その言葉を言いたいのは俺の方なのだけど、そろそろ息も切れてきたので反論する息も惜しい。必死でついて行く。

        『罠が目に見えるものとは限らないけど、ね』

        「あ?」

        『外部への通信が遮断された。今、私とスマホは板同然だ』

        「そうか。ま、当然だよな」

         奴らの狙いはお前なんだから。こともなげに久留間さんは言う。階段を走る足は躊躇わず、止まらない。ビルの階段はろくな空調もなく、蒸し暑く重苦しい空気の中を俺たちはただ駆け上る。足音を消すなんて考えは、少なくともこの人にはないらしい。

        「着いたぞ、11階」

         フロアに繋がる扉の前、汗だくのまま息をする。久留間さんは汗を吸って重そうなコートをはためかせ、中に風を送っている。脱げばいいのに。

         息を整えながら、扉の向こうの様子を伺う。耳を澄ませるまでもなく、明らかに異様だとわかった。

        『相変わらず、趣味が悪い』

         吐き捨てるようなスィノの声を掻き消すような、あるいは掻き混ぜるような電子音。詳しくはないが、エレクトロニカと呼ばれる類の音楽が、扉の内から鳴り響いている。確かに、あまり気分が良くなるとは言えない音だ。と、いうか……実際に、気分が悪くなるような気すらする。

         揺れているような頭を抱えてしゃがみ込む。いや、体は本当に揺れているのかもしれない。まともに立てず、心臓の鼓動が電子音とリンクしているようでやけに大きい。呼吸を意識しない方法を思い出せない。明るく、あるいは暗くなる意識を、明朗な声が支えるようにつんざいた。

        「耳栓あるならしろよ新入り。これ、弱めだけどミームだ」

        「ミーム?」

        「ずっと聞いてると頭が変になる。私は耐性付いてるけど、お前はキツイだろうな」

         かろうじて意味を理解し、ふらついたまま慌ててポケットを漁る。もたつきながらも取り出したイヤホンを、震える手で付ける。スマホに繋げて適当な音を探そうとして失敗──文字がぼやけて読めない──した後に、スィノの声。

        『私が適当にミームは誤魔化しとくよ、大丈夫』

        「……お願いします」

         小さく耳元で鳴る高音。モスキート音に似た高音が鳴り続ける。それに意識を向けると、段々と頭の不快感が落ち着いていく。戻ってきた視界と平衡感覚。再度立ち上がり、深呼吸して扉を見据えた。
         俺に出来ることがあるのかは知らないが──ここまで来て何もしないことも、またできないわけで。立てたのなら、立たせてもらったのなら、前に歩くしかない。ズボンのポケット、ペンライトの感触を確かめる。

        「じゃ、行くぞ」

         久留間さんはあくまで自然体。両手をポケットに突っ込んだまま、緩やかな動きで。


         鉄製の扉を勢いよく蹴り破って、言った。


        「お望み通りスィノはくれてやる、虎乃は返してもらおう」

        『──は?』

         耳元で、困惑の声が聞こえる。その声が聴こえてもいないのか、久留間さんは蹴り飛ばされた扉の軌道を伝い、部屋の奥、機材が並ぶ方へと歩いていく。
         衝立も特にない広いフロアに、見覚え無い機械が連なっている。同じような光景が広がるからこそ、人質が何処にいるのかはすぐにわかった。

        「……久留間」

         椅子に縛られた少女。この階にただ一つだけしかない椅子に座る彼女は疲れた様子だが、目の前に立った女の名前を呼び、かろうじて笑う。

        「何ともないな?」

        「うん、別に。罠とかでも無いらしーよ。ただアイツを置いていけばいい」

        「そうだろうな。じゃ、さっさと出るか」

         縛られた縄を解くのは四本指では難しいらしく、少し苦戦した後、俺が代わりに解くことになった。
         縄を解くところになって、気づく。なっていた音楽が止んでいる。

        『動くな』

         手を止める。スピーカーから流れる声は、朝に聞いたものと同じ合成音声。

        『解くより先に、そちらの電脳を機械に繋げ』

        「やるよ、やるけど。お前達、結局姿は見せないままか?」

        『不要と判断している』

        「そう。じゃあ新入り、そこのケーブルに携帯繋げろ」

         淡白なやりとりの後に、俺が指差される。スマホは困惑の後からずっと沈黙していて、応える様子はない。

        「本当に、いいんですか?」

        「いいんだよ」

         指定されたケーブルに繋げることを躊躇する。久留間さんは早くしろ、と急かす。この二人の関係性を、俺は知らない。知らないから、ただ、俺は言われたことをやった。ごちゃついているようにも整然とされているようにも見える機械群につながる、線虫みたいなケーブルに触れ、それでスマートフォンを刺した。

        『──よし』

         明らかに満足気な、人間味を感じるその言葉を最後に、電子音は鳴り止んだ。

         目線を落とす。見慣れたスマホは真っ黒な画面のまま動かなくて、手元では何にも繋がれていないイヤホンが、小さく揺れている。

          • _

           大抵の人間がそうであるように、私は私の自我が確立された瞬間を覚えてはいない。物心がいつ身についたのかは曖昧で、だから私がいつからこうなったのかは覚えていない。
           ただ、由来も綴りも知らないスィノという名前ではなく、私がまだ███だった時から。私の体は──既に人ではなかった、と思う。

           神は壊れている。元の形を取り戻すために、私達は団結することが必要らしい。敬虔な信徒だった周りの大人達が教えてくれたことだ。曖昧な記憶だが、彼らが両親ではないことや、そこが私の居場所ではないことは、齢五歳の少年にも理解できていた。それでも私は長い間"教会"に身を置いた。お前は異端者だと宣告され逃げるように去ったあの日まで、居続けた。簡単な話。私はただ、居場所に飢えていた。趣味の悪い電子音を聞きながら眠る不快感に堪えるほど、一人の夜が嫌だった。

           分かっている。私が感じていたのは団結や一体になることへの信仰ではなく、異端者の疎外感だ。だから、ほら、結局一人になった。
           目を覚ました私は何も見えない空間で、ため息をつく。「裏切られるほど馬鹿じゃない」、か。裏切る方が賢いとでも? 分からない。常に誰かが必要な私には、孤高というものが理解できないから。決して短い付き合いではなかった久留間という女の考えが、今もわからないままだ。

           ただ、知っている。あの女がこれまで取った行動は理解できないが、これから取る行動は知っている。

          「壊したい物は全て壊す。壊れたまんまの神なんて、執拗に踏み潰すに決まってる」

           呟いて、少し眉をひそめる。自己のあり方なんて今更どうでもいい。けれど、このやたら高い声だけは少し気になる。少し止まって……結局、そのまま部屋を出る。

           すぐに変えられないというのも、それはそれで悪くない。


           Q.社会からどころか、反社会からも爪弾きにされている人たちの資金源とは?

          「……ったく、これっぽっちかよお前」

          「学生にしては多い方なんですが、これでも」

           A.カツアゲ。

          「ガタガタ言うなよ新入り。命と交換って考えればむしろ安いじゃん」

          「ガタガタ言ってないです俺」

          「顔が若干不服っぽかった」

          「それは許してください」

           虎乃という名前らしい少女の不条理に、降伏するように両手を挙げる。じゃあいいけど、と、満足したのか納得したのか、虎乃さんは引き下がる。口座から引き出した札束をぺらぺら捲る久留間さんはそのやりとりを、至極どうでも良さそうに見ているだけ。

           俺は多趣味な人間なので、趣味にある程度金は使う。ただ一方趣味の一つにバイトがあるので、口座の貯蓄自体はそれなりにある。今回のこの"自分探しの旅"で全額使うつもりはもちろんなかったが、無くなってもいいとは思っていた。つまり、この状況で反抗するほど大事なお金でもない。

          「じゃあ、これは私たちが貰っておくとして、だ。虎乃、いくらか渡すから適当に飯とか買い出ししてこい」

          「了解。久留間と新入りは必要な物ある?」

          「特にない。お前は?」

          「そう……ですね」

           少し下を向いて考える。必要なもの。役に立つもの、あるいは役に立てそうなもの。考えたが、簡単に手に入りそうなものでは思いつかない。なんでもいいならスタンガンくらいは欲しいが。

          「とりあえず、いいです」

          「わかった。じゃ、ささっと行ってくる」

           虎乃は受け取った剥き身の数万円をポケットに入れ、気楽な様子でドアの外へ。財布くらいは貸す、なんて提案する前にオートロックの扉が閉まる。まあ、いいか。別に現金を生で持ち歩く人間は居ないこともない。

           お世辞にも広いとは言えない部屋で二人。特に話すこともなく沈黙が続く。久留間さんはというと、さっさとベッドに寝転がって天井を見つめている。俺も特にやることはなかったので、手持ち無沙汰に備え付けの給湯器を手に取って、洗面台まで歩く。

           時刻は午後8時半。スィノさんを引き渡したあとは特に何も起こらず、とりあえずは平和な時間だ。今日はこのホテルに一泊するらしい。廃墟と不法侵入に比べたら快挙と言っていい寝床だ。鏡に映った自分の顔を見る。寝不足のクマや怪我はないが、普段と変わらないと言うには疲れた顔。少し洗って、タオルで拭う。多分、マシになった。
           電気も水も使えるし、ベットも柔らかいし、何より法律に則っている。水道水を入れた電気ケトルのスイッチを入れる。なんとなくの行為で、別に何か飲みたくなったわけではない。部屋に置いてあるインスタントをせっかくだから使い切りたいという小市民な考えはあるが。

          「久留間さんは何か飲みますか?」

           要らないだろうな、とは思いつつ。念のため訊いてみる。案の定、久留間さんは首を振った。
           案の定では済まなかったのは次の言葉。

          「飲まない。というか、虎乃が帰って飯食ったら出るぞ、準備しとけよ」

          「え?」

           出る? どこに、何故? インスタントの封を切る前に手が止まった。困惑した俺の様子を、久留間さんはつまらなそうに鼻で笑う。

          「潰しに行くぞ、あの教会」

           鼻で笑って、当然のように言った。ああ、彼女にとってそれは当然のことなのだと、遅まきに俺は理解する。

          「……やけに、素直に従ったとは思いました」

          「私が素直な人間に見えるか? 後で殺す、としか考えてなかったよ」

           そもそも人質交換の場でドアを蹴破るような粗暴な奴が、敵対勢力の言いなりになることなんてまずあり得ない。ただ、そうなると今度はそれほどまでに粗暴な人間がすぐに戦闘を始めなかった理由がわからない。何故か、と尋ねると、久留間さんは寝転がったまま答える。

          「一つに、私一人しか戦える奴がいなかった。虎乃を取り返した方が戦力に余裕がある」

           そして二つ目が──言いかけて扉が開き、会話は中断される。どっさりと物が入ったレジ袋を両手に提げた虎乃さんは、重そうな袋をベットに置いて、息を吐く。

          「重かった……。暇してる新入りも連れてくればよかったわ、なあ?」

          「え? ああ、そうですね」

          「だよな。じゃあ久留間、これ飯だからよろしく。私の準備は……10分は欲しいかな」

           二つあるレジ袋のうち、ガラス瓶ばかりで重そうな方だけを持ち、虎乃さんは洗面所の方に引っ込んでいった。取り残された、食糧の入ったレジ袋と俺たち二人。久留間さんは何も言わずに袋を漁り、4本しかない指で海苔と米が分かれたおにぎりを開こうとして……開こうとして……結局そのおにぎりを俺に放り投げ、渋々といった様子でランチパックを貪り始めた。
           投げられたおにぎりの具に異論はなかったので、そのまま受け取ってプラスチックの皮を剥ぐ。梅の酸っぱい味を強く感じて、思わず顔をしかめる。二日目で緊張感が薄れてきたか、梅の味が強いのか。味を感じることができたのは久々な気がする。

           電気ケトルが湯を沸かした。せっかく沸かしたのだからお茶くらいは淹れようかな、なんて考えたところで洗面所から虎乃さんがやってきて、沸いたお湯を持ち去って行く。……別にいいけど、声くらいはかけて欲しかった。別にいいのだけど。

           二つ目のおにぎりに手を伸ばしながら様子を伺う。久留間さんはランチパックの後に惣菜パンのピザトーストに手をつけている。洗面所からは何かを掻き混ぜるような音。昨日浴びせられたスプレーを思い返す。これからの準備に、物騒な何かを混ぜているのだろう。

           二つ目、ツナマヨおにぎりを食べ終えたあたりで、虎乃さんはいくつかのスプレー缶を抱えて洗面所から出てきた。概ね予想通りだったらしい。彼女はそれらをビニール袋に突っ込んで、手元に残った小瓶を久留間さんに投げて渡す。

          「それじゃあ、久留間これ」

          「ん。じゃあ行くか。さっさと終わらせよう」

           一息に瓶に入った液体を飲み干した後、久留間さんは立ち上がり歩き始める。三つ目のおにぎりを捨て置いて、俺も慌てて後を追う。
           全員でエレベーターに乗り込み、一階のボタンを押す。他に誰も乗っていない箱がゆっくり下降していく。

          「そういえば、さっき飲んでたのは何なんですか?」

           違法な薬物だったりするのだろうか。だからといって何ということはないが、虎乃さんがわざわざ渡すほどのもの、というのが少し気になった。しかし軽い気持ちで投げた質問に、若干渋い顔の二人。

          「あれがさっき言ってた二つ目の理由、だな。つまり──」

          「──君の"異常"はひどく消耗する。虎乃の調合した薬品は消耗を回復するための物。だから、あの場面では私を渡す他なかった」

           エレベーターが開いて。目の前に立っていたのは見知らぬ男で。まるで待っていたかのようなタイミングで話し出した彼に、俺たちはただ、驚きで何も話せない。だって20代くらいに見えるその男は、見た目の割に甲高い声でこんなことを言い出したから。

          「改めて、私はスィノ。不完全電脳存在改め、不完全人間のスィノだ。教会まで案内してあげるから、付いてきなよ」


          「まさかあの連中があのビルに居続けると思っていたのかい?」と、スィノらしき男は呆れたように言った。言ったのち、久留間さんに蹴られていた。痛みに夜の街を飛び跳ねた後、苦笑いで彼は話を続ける。

          「詳しく調べたけど、あのオフィスビルは今日時点で退去の予定があったらしい。だから誰もいなかったんだろうね。彼らにとって肉体は重要ではないとはいえ、肉体が存在しない、というわけではないから」

          「……そんなことはいんだよ。それより説明しなきゃいけないことがあるだろうが」

          「なんのことかさっぱり──冗談だよ。だから蹴るのはやめてくれ、これでも寝たきりで弱ってるんだ」

          「じゃあいい加減説明しろ。お前は何処の誰で、どうやって、何故ここに来たのか全部」

          「これまで聞く気がなかった久留間がそもそもおかしいからな」

          「これまでは聞く必要がなかったし、話す気もなさそうだったからな。今は違う、そうだろスィノ」

           虎乃さんの茶々入れも、久留間さんは涼しい顔で受け流して話を促す、

          「……わかった。長くなるけど、それなりに歩くからちょうどいいか」

           この会話の間にもずっと、久留間さんは細かい蹴撃をスィノらしき男の腿に蹴り込み続ける。ヘラヘラと笑っていた彼も、長いため息の後、ようやく観念してぽつぽつと話し始める。

          「私は、壊れた神の教会から抜けてきた異端だったわけなんだけど──」

           異端。壊れた神の教会という異常な宗教で、その教えから外れた者。異端故に拒絶され、自分から逃げ出した。だけどそもそも、とスィノさんは話を続ける。

          「私は異端でありながら、生粋の信徒だった」

          「というと?」

          「私は物心付く頃から"教会"に育てられた。ある理由から、親に捨てられてからね」

           そしてその{ある理由}}から、"壊れた神の教会"はスィノという人間に──当時は別の名前だったらしい──興味を持った。有り体にいえば実験体のような役割で。とはいえ、教会は真っ当にスィノさんを育てたらしい。実験体としてではなく人間として、あるいは信徒の一人として。だから、異端とされるまでは教会の信徒として過ごせていた。今持っているハッキングのスキルはその時に身につけたものらしい。

          「で? なんだよ、その理由ってのは」

          「久留間くんのその"異常"ってさ、生まれつき? それとも後から?」

           久留間さんはいつの間にか自販機で買っていた缶コーヒーを、小指と薬指だけで口元に運んでいる。スィノさんはその、三本の指が欠落している手を指してそう聞いた。

          「あ? 今みたいになったのは指を落としてから。落とす前も別の"異常"はあったけど、そっちの話?」

          「そっちの話。私の異常は……見せる方が速いかな。久留間、ちょっと腕折ってく──痛ってえ!?」

          「了解」

           即決即断だった。なんならスィノさんが言わずとも折っていた勢いだった。

          「お二人、それは流石に不味いんじゃ……」

           夜もまだ早く、細い路地とはいえ全く人通りがないわけではない。叫び声を上げれば不審に思う人もいるだろう。スィノさんの関節が真逆に曲がっているのを見たりしたら……したら……あれ?

          「見ての通り。単純な話、私は死なない」

           歳は取るけど、外傷はこんなふうにすぐ元通り。確かに折れていたはずの腕はなんの変化もなく、恐ろしく、気味が悪いほどに問題なく動いている。

          「実験体……ね。しかし、そうなるとわからねえな。どうして教会はお前を異端にした?」

          「違うよ久留間。宗教に馴染みがない君にはわからないだろうけど……私は元々、異端だったんだ」

           ぽき、ぽきと自分の拳を鳴らしながら、スィノは悲しそうな顔で言う。

          「……さて、着いたよ。彼らが居るのはこのビルだ」

           路地裏のさらに裏。寂れたビルの裏口の前でスィノは立ち止まる。

          「……あれ?ちょっと待てよスィノ。まだ説明してねえことがあるぞ」

          「うん? じゃあ説明するが……何かあったかな」

           ドアノブに手をかけたところで、虎乃が首を傾げる。俺もおそらく、このタイミングで同じ疑問を持った。

           思い出す。今、俺たちは何故ここに居る?

          「今更"教会"がお前に手出しする理由って何だ? もうお前、異端なんだろ?」

          「あー……それは、まあ。一言で言えば」

           恨みと勘違い、だろうね。それも、互いにとってとびきり不幸な。

           スィノさんは、裏口の扉を開けた。重そうに、苦しそうに。


           作戦を立てた後、彼とは自分一人で話すことになった。データだけで下調べした間取りを思い出して、憂鬱な気持ちで一歩ずつ進む。付けているイヤホンが耳栓になっているから、あの音には対応できるのだが、それも聞こえない。昼の教会とは比べ物にならない量の機械は、稼働したまま私を見逃している。これ電気代も馬鹿にならないんだよな、なんて逃避じみた考え。

           お前のような異端が神の御力を借りるなど許せないと、幾度となく言われた。当然の主張だと思うし、特に反論もない。むしろ、この主張が少数派なことに驚くくらいだ。ただ──五歳の頃から一緒に育った、友人と呼べる関係の彼から言われると、堪えるものは少なからずある。

           彼は私のような捨て子ではなく、教会の信徒だった両親に連れられていた。何処の宗教でも同じことだが、子供というのは無邪気で、祈りの意味を知らない。適当に教義を聞き流し、二人で他愛もない話をする方が多かった。

           ただ──私と違い、彼は異端ではなく。だから当然のように、だんだんと教会の言葉が増え、雑多な話など減っていく。裏切られたような気持ちだったが、今思えば裏切っていたのは最初から私なので、恨まれる覚えはあれど、恨みなどは特にない。

           ──異端として教会を追い出された直後、一部の過激派は私を亡き者に、あるいは実験体にしようとした。その時の筆頭が、彼だった。

           彼自身を、私は恨まない。ただ、ここに立って──あの趣味の悪い偽物の音と、旧世代の壊れた神。何よりそれらを好きになれなかった私自身を、私は恨む。

           フロアの最奥、大型モニターにのっぺりとした顔が浮かぶ。この場所で、誰かがいるとしたら、彼しかいないだろう。口以外何も付いていないないその生首は、見慣れていても不気味で。姿を見せて欲しいと言う言葉を堪えるたまに深呼吸、唇を湿らせ話し出す。

          「久しぶり、メイ。元気だったかい?」

          『……スィノ。肉体を捨てたわけではなかったらしいな』

          「もしかしなくても、私のお手製AIを解析した? 君らにとってはありふれた技術でしょ」

          『……そうだな』

           偽物の顔を見たくなくて、周囲の機械類を見回す。武器らしいものは無いが、無いはずがない。コイツがその気になれば、入った直後でもすぐにスピーカーから致死性のミームが流れていたはずだ。そうしないと言うことは、生かす気はあるのだろう。

          「君の単独犯じゃなさそうだね。ここは過激派の巣窟かな」

          『"過激派"と呼ぶな。我々は我々の教義を信じるのみ、教会も我々を止めはしない』

          「暴れたガキを止めるのが面倒なだけじゃな──っ」

           タン、と軽い発砲音。肩を狙われて、貫かれる。モニターの枠の銃口から、わずかな煙。顔が見たくなくて、その辺りは見逃していた。痛みをこらえながら、この先の展開を考える。

          『次は心臓、その次は脳天だ』

          「危ないものを向けるのは勘弁してほしいね。君が今何人と接続しているのか知らないけど、集団リンチは褒められたことではないよ」

          『接続はしていない。私は今一人だ』

          「へえ? 残りは何処で何をしているのかな」

           あくまで平静を装って、問いかけ続ける。かつての友人と話すように、気楽に、慎重に。何せ、私にできることはそれしかない。

          『代わりにやることがある。私が、君と話をするためにここに居ると思っているのかい?』

          「……なるほど?」

          『私以外は今、君の仲間を──異端者を匿った者たちを、全滅させるところだ』
           
           モニターに、映し出されるのは別室。私以外の三人が、この後現れるのだろう空き部屋。偽物の顔が、笑うように歪む。

          「…………だってさ」

          『は?』

          「私はね」

           イヤホンに──正確には、その先にいるはずの彼らに聞かせてる。目の前の旧友との会話を、今頃くつろいでいるだろう君たちに。

          「鳴。ただ、君と話をしに来たんだ」

           モニターの電源が、ぶつりと落ちる。


           実際のところ、今回の作戦はただ一秒で終わった。

          「……こんなもんだよな、機械なんて」

           スィノの合図で、久留間さんが四本の指を強く握る。それだけで、目に見える機械類は全て動きを止める。停電、よりもさらに酷い。大きなモニターから小さなランプまで、全て動きを止めている。
           それは作戦ですらなく、戦闘ですらなく、まるで最初から終わっていたかのように、部屋は暗い。

          「じゃあ、行くか。スィノの所」

           握っていた指を開いて、つまらなそうに久留間さんは奥へ進む。精密機械は完全に沈黙していて、動いているのは三人だけ。阻むものは何もなく、だからその最奥にもあっさりと到着する。

           広く、暗い部屋。窓から差し込む電灯の灯りで、かろうじてスィノが立っているとわかる。

          「作戦通り、かな」

          「作戦ってほどじゃねえけどな。話せたのか?」

          「一応は。でも、まだ話し足りないな」

           モニターの奥に一瞥。人の気配がするそこから、這い出るように一人、痩せ細った男。重そうに機械化された右腕を引きずって、機械を掻き分けて、姿を表す。

          「ようやく面と向かって話ができた」

          「……意味がない。肉体の有無を、我々は重要視すべきではない」

           枯れた声。俺なんかは目に入っていないのだろう、スィノだけをひたすらに睨み続け、立ち上がる。

          「で、君たちはもう私──というか久留間に、完膚なきまでに負けたわけだけど。どうする?」

          「……久留間。名前も"異常"も調べていたが、その範囲は想定外だった」

           強い視線が久留間さんに向けられる。彼女は肩をすくめ、首を振る。

          「今更感想戦なんてすんなよ。お前、もう負けたんだから」

          「……」

           押し黙る機械の男に、スィノが歩み寄る。

          「で、負けたわけだからさ」

          「ああ。もう二度とお前達に手出しは──」

          「どう、仲間になる?」

           沈黙。場の全員が感じた緊迫の空気を読み取れないのか、スィノは話し続ける。

          「別に、元々は友達だったわけでさ。それなりに楽しいと思うし、どうかな?」

           黙り続ける。言いたいことは、皆あった。熱心な信徒に、自らを恨んでいる人間に、敵対する集団に帰属する人間に、その想いを全て捨てろと言う。それは──。

           機械の男は、スィノの笑顔を機械の腕で横薙ぎに殴り飛ばす。倒れ込んだ彼に軽蔑した目を向け、吐き捨てる。

          「団結を知らない、修復ができない、信頼もない。
           ──だからお前は異端なんだ、スィノ」

          「……そうなんだ」

           額から流れていた血はすぐに止まる。怪物は、特に感慨もなさそうに訣別を受け入れて、彼に背中を向けた。

            • _

            「落書きってしたことある?」

            「ないですね。店長はあるんですか?」

            「中学生の時に机にしたっきりだな」

             コンビニバイト終わり、深夜の街を店長とアルバイトは二人で歩く。たまたま同じ時間に終わったから飯でも行こうと、シャッター街をぶらついている。シャッターというシャッターに描かれた、ビビッドカラーの落書き。特別治安が悪い、というわけでなくとも、何処にでもある風景。

            「一応犯罪なのに、なんで見慣れるほどあるんだろな」

            「確かに、そうですね」

             角を曲がると、ちょうど閉まったシャッターにスプレーを吹きかける若者が数人いたので、二人は話を辞める。『落書きをしないでください』という看板の脇に、蛍光色の英文字が形になって行く。店長もアルバイトも、別にその若者に文句を言うほどこの街が好きではないし、良識もない。
             通り過ぎてもう一つ角を曲がり、牛丼屋の明かりが見えた後に店長はまた話し始める。

            「俺、落書きって嫌いなんだけどさ」

            「でしょうね」

            「好きなやつあんまいないよな。まあ、でもそういうことだと思うんだよ」

             店長は後ろを振り返り、シャッター街の落書きを見ながら、言う。

            「嫌われてるから、社会的に許されないからこそ、許されるまで辞められない」

            「……許されることは、ないでしょうけどね」

            「つまりこの街は今後も落書きだらけってことだ。俺たちコンビニにシャッターはないから、別に被害はないけど」

             だからいいか。店長は結論付けてから、明るいステップで牛丼屋に入って行く。


             ここが俺の居場所ではないことは、とっくに気が付いている。『おかしくしてください』なんて啖呵も結局のところ命乞いで、凡庸な俺は凡庸なままだと思い知らされる数日間を過ごしている。非日常に置いてけぼりになって忘れていた実感が戻ってきて感じることは。

            「……帰りたすぎる…………」

             深いため息を吐く。別に親が恋しいとかではないが、疲れる。ひたすらにここの生活は疲れる。俺は真面目な人間というわけではないけれど、それでもまともな感性と倫理観を持っている。それらに反する生活に適応出来るはずはなく、何なら適応もしたくない。新たな拠点である廃墟(毎日ホテルを取るほど金に余裕はない)で暇を持て余していると、特にその思いは強くなる。

             今日は特に予定もなく、だから各々自分で決めた部屋に籠っているのだが……ああ、嫌になる。
             仕方がないからちょっと外の空気でも吸ってこようと部屋を出ると、他の三人も部屋を出てきていた。

            「ああ、新入り。お前もか」虎乃さんが声をかけてくる

            「え?」

            「全員、部屋に篭ってるの飽きたんだよ」

            「あー……はい」

             それだけでもないが、だいたい同じだ。曖昧に頷く。

            「じゃあ満場一致、ってことでいいか」

             久留間さんが腕を組んだまま大仰に頷く。あまり見ない機嫌の良さそうな仕草に、首を傾げる。

            「何がです?」

            「遊びに行こうぜ」


             この人たちのことだからどうせまた碌でもないことに巻き込まれるんだろうな。完全に諦めてそんなことを考えていたのだが。

             波の音と、自分の格好……さっきコンビニで買った水着。まさか普通に海水浴に来るとは、思っていなかった。

            「……何?」

            「いや別に。似合ってると思います、水着」

            「そう」

             常にコートで隠れていた肌をさらけ出すビキニに、サングラス代わりのゴーグル。肌が白すぎることと指の足りない手を除けば、完全に海辺の美人なおねーさんだ。ビーチパラソルに二人並んで座っていることが申し訳ないくらいに。

            「……というか、久留間さん泳がないんですか?」

            「日に焼けたくないんだよ」

             じゃあなんで海に来た。そんな言葉を飲み込んだが、表情には出ていたらしい。ゴーグルで目線読み取れないが、多分俺を睨んでいる。

            「……見るのが好きなんだよ、海」

            「なるほど」

            「つまんねえ返答だな」

             それが原因で殺されかけたのだ、自覚はある。けど、そんな俺を生かしたのもあなたなのだ。こんなことはもちろん口には出さず、つまらない相槌だけを返す。

            「じゃあ、私ちょっと飲み物買ってくるから」

             奪われた俺の財布を持って、久留間さんは海の家まで歩いて行く。荷物番の俺は頷いて、パラソルの下で海をぼんやり眺める。寄せては返す波、それを掻き分ける人。確かに、見るのは悪くない。ぼーっとしていると、横から突然声をかけられる。

            「海入らねえの? 新入り」

            「虎乃さん。はい、荷物番やってるので」

             虎乃さんはもう泳いできたのだろう、海水に頭まで濡れている。競泳水着を見に纏ったその姿は、年相応の少女に見える。

            「なるほどね。スィノは?」

            「『私は泳げるほど筋肉がない』なんて言って日陰に引っ込んでました」

            「ノリが悪いな……結局泳いでるの僕だけかよ」

             そういう彼女も一旦休憩するらしい。荷物の中にあるタオルで頭を拭いて、砂浜に座る。

            「虎乃さんが荷物見てくれるなら、俺も泳ぎに行きますけど」

            「やだよ。というか別にお前、あんまり泳ぎたくもないだろ」

             図星ではあった。別に肌が気になるわけでもないが、海で泳ぐのには抵抗がある。そう伝えると、虎乃さんはニヤニヤと笑う。

            「え、何? 泳げないの?」

            「いや、泳げるんですけど……波に流されるのが、どうにも」

             大自然を悪い意味で感じるというか、海で手足を動かすごとに、自分ではどうにもならないのだと思い知らされる感覚、というか。ボート部に体験入部した時に船を転覆させた経験がトラウマ、というか。そんなエピソードを話すと虎乃さんはまた笑った。

            「要するにビビってんの? だっせえ」

            「まあ、はい。そうですね」

             けらけら笑う虎乃さん。そういえば、彼女とちゃんと話すのはこれが初めてかもしれない。こうして話す分には、なんというか、気が強いだけの年頃の少女という印象。

            「……そういえば。虎乃さんは、どうして久留間さんといるんですか?」

            「あ? 言ってなかったっけ。私、この世界の人間じゃねえんだよ」

             砂浜に見覚えのない記号を書き連ねていた彼女は、なんでもないことのように言う。

            「……はい?」

            「ライフラフト……って言ってもわかんねえか。異世界からの漂流者って結構いて、みんなで寄せ集まって頑張るぞ、って組織があるんだよね。私も最初はそこにいたんだけど……肌が合わなくて」

             手櫛で頭をすく。湿った砂がポロポロと砂浜に落ちる。別に下を向くでもなく、虎乃はただ話を続ける。

            「私の元いた世界が、まあちょっと個人主義でさ。だから合わなくて円満退社……会社じゃねえけど、まあそんな感じで抜けて、あとは成り行きで久留間と出会って、一年くらいは一緒にいるな」

            「……そうなんですね」

             それは前提条件以外は納得感のある流れで、だからこそ、前提──別世界からの漂流者であると言う事実が、重くのしかかる。本人は気にもしていない様子で、むしろ海に楽しげなのだけれど。

            「……元の世界では、何をしてたんですか?」

            「そりゃもちろん、普通の女子。素行は悪かったかな。スプレー使った怪しいアート覚えるくらいには」

             やっぱり。この少女は──別世界ではきっと、普通の少女だったのだろう。この世界で間違ったまま育っただろう、久留間さんやスィノとは違って。ある日突然、世界の方が間違った。

            「……どした?」

            「いや、別に」

             俯く。俺は、異常を羨んでいた。妬んでいた、欲しがっていた。だからあの裏路地に辿り着き、この海に辿り着いた。

            「……ただ、俺は間違ってて、普通だなぁと。思っただけです」

            「そうだな。お前は普通で、間違った奴だ」

             俺のぼやきを、虎乃はただ笑った。笑った後、飲み物を買ってきた久留間さんを迎えに行く。

            「手伝えよ、新入り」

            「あ、すいません」

             後を追って立ち上がる。付いている砂を払い、座っていた地面を足で慣らす。今日は本当に、何も事件は起こらず、一日が過ぎて行くのだろう。そんな予感がした。
             そしてだからこそ、俺にとっては何より、大きな一日だった。


              • _

              「例えば、俺が無敵の現実改変能力者だとしたら。この時点でお前の負け。研修で習ったな?」

              「店ちょ……先輩の時と同じ説明かはわかりませんけど、はい。ちょっと芝居がかった研修だったと思いますけど」

              「はは、あれは本部からの伝統らしいぞ。多分同じだ。で、だ。現実改変能力者に対する対処法、習ったよな?」

              「はい。──狙撃。一撃で脳機能を止めれば、それで終わり。それで終わらなければ、狙撃手は全滅」

              「うん。覚えてるなら、いい」


              「……忘れられるわけ、ないじゃないですか」


               疲れる非日常。帰りたい非日常。自分の意思で終われないからと言い訳して、自分の居場所ではないそこに居続けた、居続けられた日々。

               わかっていた。終わるとすれば、きっとこういう形だろうと。

              「あ──」

               その日は台風で、一日中強い雨が降っていた。そろそろこの拠点も有村組にバレそうだと、そんなことをスィノが言うから、俺たちは雨に紛れて移動することにした。

              「……え?」

               久留間さんは不機嫌そうに、軽口を叩くスィノを蹴っていた。スィノは蹴られながらスマホを触り、索敵をしながら目的地を探す。虎乃は一歩引いたところで、ポケットに手を入れつつ警戒。
               俺は……俺が、何をしていたのかは思い出せないが。きっと、何もしていなかった。

               何もできなかった。

              「久留間?」

               何も言えなかった。

              「────やらかした、な」

               気づけば久留間さんは。肩から、腹から、頬から……左胸から。血が、流れていた。ぐしょ濡れのコートが赤く染まっていた。水溜まりに倒れ、飛沫が散った。

               全員が、そこに立ちつくす。誰かが何かを言っていたが、雨の音で聞こえない。聞こえない──三度目で、ようやく聞こえる。

              「──狙撃に警戒して、物陰に隠れるくらいしろよ」

               血塗れの怪物は、立ちすくむ俺たちに笑う。驚き、固まるが、慌てて近くの路地裏に滑り込む。久留間さんもすぐ、同じ路地裏に跳ね飛ぶように隠れる。

              「……狙撃されても生きるんだな、お前」

              「…………まあな」

               驚いたような、不安なような、震える声の虎乃に、重そうな頭を傾けて頷く。

                • _

                (有村組との戦闘)

                  • _

                  「店長、明日で仕事終わりでしたよね? お疲れ様です。これ、つまらないものですが」

                  「わーいありがとう。アルバイト君、明日から東京旅行だっけ?」

                   バイトの終わり、アルバイトは店長に茶菓子を渡す。露骨すぎるはしゃぎ方をして、店長はそれを受け取った。

                  「はい。どころか、今日で最後ですね、バイト」

                  「そうなんだ。じゃ、また」

                   荷物をまとめ、制服を置いて行くアルバイトに、店長は手を振る。

                  「……また?」

                  「うん、別にバイト辞めるだけでしょ? きっと、また会うよ」

                   バックパックはその時返してくれればいい。まるで善人のように、店長は言う。

                  「……じゃあ、会わないようにします。欲しいので、このバックパック」

                   悪人ぶって、アルバイトは軽口を叩く。彼は別に店長のことが嫌いではなかったし、一抹の寂しさはあるが。それでも、彼は今回の旅に、確かに懸けている想いがあって。

                  「酷いなぁ。ま、いいよ。元気でね」

                   でも。アルバイトは、あるいは誰でも。

                   この時の店長の思いは、きっと知る由もない。


                  「久しぶり、アルバイト君」

                  「……やっぱり、店長も絡んでたんですね」

                   『財団』を名乗った部隊の包囲網を掻き分けて、見知った顔が現れる。彼はあのコンビニと何も変わらない声、変わらない態度。変わっているのは服装くらい。

                  「バレてた?」

                  「いや、気付いたのは今です。でも疑いはあった。始まりは、あのコンビニにあった雑誌でした。あれに従って俺はここにいる」

                  「コンビニの店長として集められる情報があれくらいでね」

                  「でもそれは偶然で片付けられます。いちばんは──店長が、山なんて登るわけない」

                  「……そこかぁ」

                   落ち込んだような声色で、しかし広角は下がらない。人を馬鹿にしたような態度も、少しだけ混ざった優しさも、変わらない。

                  「正解。山奥に俺たちのサイト──本拠地があるから、怪しまれないように持ってるだけ。でもまあ、バックパックは返してくれる?」

                  「廃墟に置き去りました。ペンライトならありますけど」

                  「そんな……って、ペンライトも水没してるじゃん」

                   まあ、自費じゃないからいいけど。ポケットにそのペンライトをしまい、店長は持っていたビニール傘を差す。別にこちらに渡してくれるわけでもなく、ただ自分が濡れるのを防ぐために。

                  「それで。君は、どうする?」

                  「……」

                   傘を目の前で差されたことで、自分が雨に濡れていることを実感する。冷たく、突き刺さるような痛みを感じる。

                  「俺たち──財団は、君の記憶を消せる。この五日間を消して、君を元の──普通の世界に戻せる」

                  「この五日間の記憶を消さない場合は、君は俺たちの元で働くことになる。財団──世の中の正常を、普通を守るために、異常を収容する団体に」

                   二択。路地裏での問い。五日前、久留間さんとの問答を思い出す。あの時と違うのは、俺はあの時より自由で、異常について知ったということ。

                  「……五日しか、経ってないんだな」

                   そしてその五日前に、俺は戻ることができる。この濃密な五日間を、なかったことにして、日常に戻ることができる。それは魅力的な提案で、正しい判断のような気がした。

                   それでも、ああ。

                  「俺は今、ここにいるんです」

                   五日前に殺されかけて、五日間殺されかけ続けて、でも生き延びた。凡庸な俺には疲れる五日間だったけど、それでも──俺は、この五日間を殺せるほど、嫌いにもなれないのは分かりきっていて。

                   俺の真っ当な人生なんかより、それはずっと大事だった。

                  「だから、これからも俺はここにいなきゃいけないと、居たいと思います」

                  「つまり?」

                  「これからよろしくお願いします── 飯尾いいお先輩」

                  飯尾めしおだけど。まあ、いいや。これからよろしくね、アルバイト君」

                   聞き慣れた呼称。名前を呼ばれるのが嫌いで、自ら望んだ呼称に、俺は首を振る。

                  「座布田です。俺の名前は座布田創。これから、よろしくお願いします」

                   名乗り、右手を差し出す。飯尾先輩はその手に傘を握らせる。握手のつもりだったけど、まあ、いいだろう。

                   雨はまだ止みそうになく、夜明けがいつなのかはわからない。

                   雨で足を滑らせないように、座布田創は一歩目を踏み出した。


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  1. portal:5526847 ( 09 Aug 2019 13:25 )
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