静かに雪が降る2月のとある日の夜、とある山奥の秘境の温泉に、1人の男がやってきた。腰の曲がった60代くらいの老人だ。左手には猪口と手ぬぐいの入った木桶を抱え、右手には一升瓶を持っている。
「…ここか」
老人はそういうと、服を脱ぎ、一升瓶と一緒に温泉のわきに置くと、木桶に湯を入れ、自分の体にかけ始めた。
「ふぃー…これだけでも酔いが覚めそうだわい」
一通り湯をかけると、手ぬぐいを取り、足先からゆっくりと湯に浸かっていく。
「おぉ…これはこれは、結構な湯加減だ」
老人は満足げな様子でゆっくりと体を沈め、肩まで浸かると、頭に手ぬぐいを乗せ、上機嫌で鼻歌を歌い始めた。
「…にしても、こんなに気持ちのいい温泉なのに、誰も来れないとは…もったいないのぅ…」
老人はそう呟くと、持ってきた一升瓶に手を伸ばし、木桶から猪口を一つ取り出すと、瓶の中の透明な液体を、なみなみと注いだ。あたりに、林檎のような、ほのかな林檎の香りがふわりと広がった。
「おっとっと…へへ、温泉で飲む酒は格別じゃからのう…あとはこれで景色が見えれば文句ないんじゃが…」
あたりを見渡しても、木々や月は見えず、ただただ白い壁と天井が広がっているだけだった。老人は、諦めたようにため息をつき、猪口に注いだ酒を一気に飲み干した。
しばらくすると、男は湯気の向こうに誰かが同じように温泉に入っていることに気づいた。絶えず涙を流す赤鬼、尾の無い狐、片翼だけの天狗…どれもこれも、「魑魅魍魎」や「神格」と称される者達だ。しかし、老人は少しも臆する様子はなく、彼らに深々と頭を下げた。
「これはこれは、先客がいたとは気づかず、挨拶もなしに大変失礼しました。」
「いや何、そう頭を下げることはない。どうだ、一緒に飲まんかね?」
天狗はそう言うと、老人に手招きをした。よく見ると、右手に老人と同じように猪口を持っている。
「えぇ、是非是非。ご一緒させていただきますとも」
老人はそう言うと、一升瓶と猪口を持ち、彼らの方へと近づいていった。
「いやはや、今になって人の子がここを訪れるとは思わなんだ。もう半分諦めていたからな。外は今どんな様子だい?」
「そうですねぇ、この様子じゃあ、人が来ることはもうないでしょうからねぇ…」
「うむ…だから、お主が来てくれて我々も嬉しいのだ。さぁさぁ、今宵は共に飲み明かそうぞ」
天狗は酒瓶を手に取り、老人に酒を勧める。老人は断る素振りもなく、猪口を差し出した。天狗は、差し出された猪口に、嬉しそうに酒を注いでいく。あたりに、先ほどとはまた違った、爽やかな香りが漂い始める。
「ささ、ぐいっといってくれ。自慢の酒だからな」
「えぇ、では失礼して」
- portal:5268615 ( 20 Jul 2019 13:38 )

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