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 厭だ。
 生温い夜気も天板の上で溶けた砂糖も蚊の羽音も厭で厭で厭で堪らない。
 二本目の煙草を吸い切り、持て余した紫煙を天井に向けて噴き出す。
 移ろう煙の行方を呆然と眺めるうちに、天井に薄く塗られた黄斑と見合った。慥かシミュラクラ現象と言ったか、黄斑は相貌を模しているように見えた。
 ──矮小な男だよ、お前は。
 煙の亡霊は嘲笑の表情を浮かべた。
 それもひどく不快だった。
 煙草を揉み消す。
 ──馬鹿馬鹿しい。
 重力に沿って仰向けになり、煙の亡霊を覆うようにして携帯を構え、検索アプリを起動した。それらしい単語を入力するうちに身体の内側から激しい逼迫感が生じた。
 適当なサムネイルをタップすると、短い広告が再生された。苛立ちと焦燥感を募らせるだけの稚拙な出来の広告だった。
 ひどく不鮮明な映像が再生される。
 同時に。
 右手を下腹部に這わせる。
 鼻先を抜けるツンとした感覚が続く。
 映像内で犯される彼を想い、吐息に喘声を混ぜる。
 脳が白く染め上げられる。
 シークバーが途絶えかける刹那。
 下腹部が、下着が、スラックスが、右手が。
 熱く濡れる。
 鼓動が胸を叩く度に、また侵される。
 新調したばかりのスラックスだった。
 盛大に汚れた。
 しかし。
 ──どうでも良い。
 重力に従って左手を下ろすと、指先から携帯が投げ出された。
 想い相手──野良猫は鼓膜を引き裂くように甲高い声色をしていた。偽物らしい粗い雰囲気ながらもそこそこに魅力的であったように思う。
 傍迷惑な好事家め──と映像を覗き見た煙の亡霊は顔を顰めて呟いた。
 お前には理解できないだろうよと私は独り言ちた。天井は、何も言わなかった。
 ──冷たいシャワーでも浴びよう。
 私は下着とスラックスを脱ぎ捨て、一直線の廊下に出た。すると生温くて仕様がなかったはずの初夏の空気が、今度はひどく冷えているように思えた。

 昔から猫が好きだった。
 十二三年前、思春期を迎えた中学一年生の時分、自部屋の窓越しに見つけた野良猫の艶めかしい曲線に、私は興奮を覚えた。
 白くてベットリとした液体に濡れる右手を見て、半端な知識に従った自慰の齎す不完全燃焼気味な快感に浸りつつ、愛情が情欲に由来するものだと私は気付いた。
 存外、当惑は覚えなかった。
 自分の嗜好が他者と一致しないのは当然だ。例えば、同級生の一人が梅雨時の蒸れた靴下を性器に被せて扱きたいと恍惚の表情で語っていた。雑菌に塗れた汚らしい靴下でなんて──と私は小馬鹿にしてしまったが、それと同様である。
 蒸れた靴下が私にとっての野良猫、それだけである。
 当時の年齢にしては我乍ら大人びた結論を見出だせたと思う。一つ瑕疵を挙げるとすれば、周囲にもそれを期待してしまったことだ。

「それで、本当は何でシたんだよ」
 それで──。
 翌朝のHR前、友人の神崎かんざきは、私の辿々しい告白を乾いた相槌を伴って否定した。友人に言わせれば、荒唐無稽かつ余り愉しい冗談に思えず、関心の遥か外にある返答だったのだろう。
 その身勝手な態度に、私は憤慨した。
 憤慨したが。
 ──隣組の柏木かしわぎの全裸を想像してさァ、それで。
 私は嘘をついた。
 神崎は怪訝な表情を晴らし、私の脇腹を肘で突きながら詳細を尋ねた。
 私の舌は、動揺する真情とは裏腹によく回った。
 放課後、二人きりの教室の中で柏木を教卓に寝かせ、股を押さえて恥ずかしがる彼女を──。
 普遍的な妄想をひとしきり話し、神崎が大変満足そうに目を輝かせたところで、始業のベルが鳴った。
 口惜しそうに尋問を切り上げて自席に戻る神崎の後ろ姿に、私は安堵とも悔恨とも言える不安定な感情を抱いた。

 私の妄想に刺激されたのか、神崎は以前より尾籠な話題に傾倒するようになった。必然的に卑猥な単語を口にする機会が増え、それを耳聡く捉えた他の男子が話題に混じるため、私の机を中心に常に五六人程のグループが形成された。
 やれ三年生の誰かがさせこだの、やれプールの授業を休む女子は生理だの──。飽きもせず毎日、私の頭上では斯くの如し会話が飛び交った。
 偶に意見を求められたときは本当に参った。
 なまじ出来の良い妄想を神崎に話したものだから、彼等の中ですっかり私は助平扱いだ。不名誉な役回りを押し付けられた上に、彼等の期待に沿えない受答をすればむっつりの冠を被せられるのだから、堪ったものではない。
 だから私は囀った。
 普通らしくセミロングヘアの可愛らしい女子を語り、普通らしく裏筋を舐められるような前戯を語り、普通らしく汗ばむ体操着セックスを語り、普通らしく妄想の果てに昨晩は三回射精した──と。
 妄想を語り終える度に、本当に助平だなァと神崎は私の肩を叩いて言った。
 私は、嘸かし不細工な愛想笑いを浮かべていたと思う。

 じりじりと蝉が鳴くある日の昼休み、神崎は屋上に続く階段の踊り場に私達を集めてこう言った。
「兄貴の部屋から借りて来たんだけどさ、これ」
 絶対に誰も言うなよと念押しして、神崎は脇腹に抱えていた鞄を開けた。鞄の中にはヌード写真集やらアダルト雑誌やらがぎゅうぎゅうに押し詰められていた。
 皆は、群がるようにして鞄の中に手を突っ込み、各々が好みとする女性の表紙の書籍を手に取って読み始めた。浮足立つ様子で頁を捲り、中には片手で股間付近を摩りながら読み進める者もいた。
 階段の踊り場に、呼気の乱れた男子が屯するという異様な空間が瞬く間に形成された。気の所為か、既に精液の臭いも充満しているようにも思えた。神崎も御満悦な様子である。
 案の定、私は孤立した。
 役割上、このまま孤立する訳にもいかず、私は余った一冊の雑誌を手に取った。
 矢鱈皺のある表紙には、セーラー服風の安っぽい衣装を着た茶髪の女性が赤縁眼鏡のモダンを咥え、じっとりとした目線で此方を窺う写真が載せられていた。大して唆らないが、神埼の目もある。私は致し方なく頁を捲った。
 校則に従わない生意気な女子生徒が男性教師に調教される──というこれまた安っぽい内容だったと思う。冒頭では教師陣に悪態を吐いていた女性が、あっという間に屈強そうな男性教師に組み伏せられてしまった。
 頁を捲る度に女性の服装は乱れ、白い肌を露出し。
 大きな乳房を晒し、薄いパンティには陰毛が透けて見え。
 後半には。
 ──見開きいっぱいに、煤けた陰部が広がっていた。
 象のような質感の肌に繁った陰毛、縦に開かれた陰唇はSF映画のエイリアンを想起させた。
 隣席の活気溢れる女子も。
 三年生の淫乱と悪名高い何某も。
 辿々しい口調で授業する教育実習生も。
 今朝方晴れ晴れしく挨拶してくれた小学生も。
 これまで目にしてきた女性の全員が、その服を脱がしてしまえば生臭い怪物をその身に寄生させていると思うと。
 ──厭だ。
 氷柱で背中を刺されたような悪寒が全身に走った。
 胃が収縮するのを感じ、私は雑誌を神崎に突っ返して逃げた。
 転がるようにして降りた先のトイレの個室で嘔吐した。ひとしきり内容物を吐き出しても不快感は消えず、緊張が収まるまで便器に黄みがかった涎をだらしなく垂らし続けた。
 暫くして、じりじりと頭の上で始業のベルが鳴った。
 放心状態が解かれ、個室から這い出て陽の差す方向に顔を向けると、曇りガラス越しの夕陽が厭に眩しかった。

 桐生きりゅうが授業をサボって個室で自慰に耽っていたらしい──。
 私には斯くの如し噂が立っていた。
 素見と羨望を兼ねて、更に多くの男子が私に絡むようになった。加えて私の吐き出す妄想談はオカズに適しているらしく、神崎に続いてせがむ者も増えた。
 女子からは徹底的に軽蔑の目線を向けられた。席替えで隣席に座った女子は必ず悲鳴を上げ、私が装った給食は人気不人気関わらず縁に除けられた。
 私としても好都合だった。
 坊主憎けりゃ袈裟まで憎い──当時の私は、女性を視界の端で捉えただけで背筋が強張り、心臓を掴まれたような錯覚に陥るようになっていた。
 それを向こう側から避けてくれるなら此程果報なことはない。
 しかし。
 否応なく彼の煤けた陰部は頭を過ぎった。
 食事をしているときはまだ良い方で、窓越しの野良猫を想って自慰しているときなどは凶悪極まりない。
 可愛らしい野良猫の顔にこれまた可愛らしい陰茎をぶら下げている──その肢体を引き裂くように、彼の悍ましき陰部が挿入されるのだ。
 縦にびっしりと鋭い歯が生え揃うような誇張はされず。ただ忠実に。
 ──堪ったものではない。
 射精で快感を得られるどころか、残尿感に似た悶々とした感覚が下腹部に溜まり、興奮は徒労に終わった。
 ブランケットに飛び散った精液のシミ。部屋中の生理的な異臭。喧騒とした住宅街。背筋や腋の汗ばみが不快で。
 ──臭い。
 臭い臭い。
 臭い臭い臭い。
 ──アレの所為だ。
 次第に、自慰行為は情欲を満たす過程ではなくなり、憎悪を解消する手段と成り下がった。
 痣を作る程に陰茎を握り締め、煤けた陰部に苦しむ間も作らず扱き、射精した。
 煤けた陰部に阻害された日などは、取り返すように、翌朝の起床時間まで自慰に耽けた。
 教室の扉を開けた瞬間、私の撒き散らす異臭に顔を顰めた女子達を見て、小気味良いように思えた。
 しかし、女子は当然女性特有の器官を持つ。
 彼の、だ。
 再び煤けた陰部がフラッシュバックし、強い吐気を得て、却って憎悪を煽る。
 ──悪循環である。
 トラウマは他にも影響を及ぼした。
 これまでは野良猫に優しく身体を重ねる程度のうぶな妄想に耽っていたが、次第に強姦物のテイストを混ぜるようになった。野良猫の尻尾を掴んで路地裏に引き摺り込み、泡を吹いて痙攣するまで尻穴を犯す──といった具合にだ。
 遥かに能力の劣った存在を蹂躙することで自分が強いと錯覚できたのだ。平易に述べれば一種の防衛反応であった。
 そして。
 寒風吹き荒れる中学二年生の十一月中旬、私は猫を殺した。

「空気が乾燥していて、塵が少ないから澄んでいて。だから」
 冬の星空は綺麗なんだよ──円卓を挟んで座る彼女は慥かそう言っていた。
 彼女は、先日の席替えにより私の隣になった子だ。やわらかな雰囲気を持ち、ころころと笑う子だった。
 人の噂も七十五日。彼の噂話から一年の時を経た、というのも関係しているだろうが、彼女は私によく話し掛けてくれた。私の病的な女性嫌いも幾らか緩和しており、相手を彼女に限定すれば、恙なく会話を交わせる程度には改善していた。
 寧ろ彼女の存在が私を導いてくれた、と言い換えても差し支えない。
 ──放課後、ウチに来る?
 慥か二学期末試験の話をしていた最中のことだったと思う。聞けば、今日は両親が遅くまで戻らないという。
 突然の誘いに私がぽかんと表情を弛緩させると、勉強しようってことだよと彼女が困ったように笑ったのが今回の勉強会の契機となった。
 しかし、いざ彼女の自部屋に上がると。
 発案者のはずの彼女は、前のめりに授業ノートを睨め付けたと思えば、突然飽きたように取り留めがない話題を切り出し、最後には決まって、勉強ヤだね──と幾度目の愚痴をこぼした。
 一方の私は、そも二学期末試験に危機感を覚えるほど困窮していた訳ではなく、半ば彼女に引っ張られるようにして勉強会に参加した為、教科書を捲って適当な文字列に蛍光マーカーを引く作業に従事せざるを得なかった。
 やがて話題も尽き、ぱきっ、と下の階から木材の割かれる音が聞こえる程に物静かな時間が流れた。
 ──三四十分は経過しただろうか。
 御手洗と彼女は矢鱈上擦った声を上げ、立ち上がった。
 変なこと、しないでよね──。
 彼女は意地悪そうに微笑を傾け、廊下の向こうに消えた。
 私は、部屋に独り残された。
 取繕う必要もないが、かと言って何をするということもないので、私は相変わらず教科書を眺めた。
 素よりその気はないが、壁掛時計の規則的に秒針を刻む音に脳内を掻き乱され、文字列がいっそう不明瞭に映った。徒に引かれた蛍光マーカーも低俗な落書き群と同様に邪魔なだけである。
 ぷつん、と緊張の糸が切れた。
 ──帰るか。
 私は、冷めきった緑茶を飲み干し、卓上に広げた教科書やらを学生鞄に詰めようとした。
 そのとき。
 かりかりかり──。
 壁掛時計の音に混じって、何かを引っ掻いてるような、擦れるような音が聞こえた。雑音と言えばそうだが、妙に私の耳を突いた。
 耳介を補強するように手を添え、呼吸を止めて、聴覚を研ぎ澄ます。
 かりかりかり──。
 今度は慥かに聞こえた──隣の部屋からだ。
 室外機に小石が侵入したときの音とは些か様子が異なる。明らかに生物の出す音だ。
 ──彼女が何時かに言っていた、飼い猫だ。
 どくんと胸中が疼く。
 丁度その時分、私は思い悩んでいた。
 ──実際に野良猫と見合ったとき、私は踏み止まれるのだろうかと。万が一にも身体に触れてしまえば、ピンと立つ耳と小振りの陰茎を噛み千切って殺してしまうのではないかと。私は気の違った人間ではないと自負していたが、同時に自己を律せられるだけの強さを兼ねているか疑問であった。
 今、隣の部屋には猫が居る。
 彼の煤けた陰部が遠い厭な思い出に変わりつつある今。
 屈折して大いに拗れたサディズムは脳の深い部分に根差し、ふと隣の部屋で寛ぐ猫を想起すると、堪らず犯せ殺せと全身に触れ回った。
 やがて露悪な好奇心に思考を支配される。
 猫の毛並みは滑らかなのか。猫の瞳は手を伸ばしたくなる程に澄んだ美しさを持つのか。猫の皮膚はナイロンよりも軟らかいのか。
 尻穴は、気持ち良いのか──。
 彼女はまだ戻らない。
 慎重に彼女の部屋を出る。
 ゆっくり廊下に踏み入れ、拇指球を滑らせるようにして進む。
 一歩踏み出す度に然程新しくもない床材が軋み、心臓が跳ね上がる。
 耳を澄まして彼女の返答がないことを確認する。
 深い溜息をこぼし、また一歩と踏み出す。
 廊下の空気が隙間風に冷やされていたにも関わらず、既に背中は雨に烟られたように濡れていた。
 実際の距離以上に険しい道程を経て、隣の部屋の前に着いた。
 鏡板にぴったりと耳を当てる。
 ──居る。
 シリンダー錠は設えられていない。今度は安堵の溜息をこぼし、呼吸を整えて、慎重にドアノブを回した。
 其処は、やや幼い印象の部屋だった。
 慥か八つ下の妹と言っていたと思う。
 北側には小学生らしい丸みを帯びた学習机が置かれ、中央の円卓の上にはキャラクターらしき絵の描かれた用紙が散乱していた。
 その横にあった。
 細長い塩化ビニル板の束ねられた簡素なケージの中に、仔猫は居た。
 アメリカンショートヘアに似た特徴を持つ容姿だった。筆箱程のサイズの体躯、灰を被ったような毛色に、潤んだキトンブルーの瞳が上目遣いをした。
 私が息を飲んで見惚れていると、仔猫は前脚でしきりに空中を掻いたかと思えば、停止を命じられたように硬直し、ふにゃっと首を傾げた。
 私は、勃起した。
 ケージの留め具を外し、飛び出した仔猫の胴体を抱え、厚手のワイシャツ越しに生命の温かみを受け止めた。
 このままぎゅっと抱き締めたら──。
 拙い。早くしないと殺してしまいそうだ。
 余った片手でベルトを解き、長ズボンのチャックを開けて、肌着を摺り下げて陰茎を露出させる。
 興味深そうに陰茎を見つめる双眸に、脳漿を沸かされたような昂奮を覚え、多量の血液に膨れる海綿体により陰茎は細かく跳ねた。
 存外大人しい仔猫の身体を仰向け、鼻先で股間付近の体毛を掻き分ける。濃いアンモニア臭に堪らず口呼吸へ切り替えたが、完全に除することは叶わず、嗅覚は早々に馬鹿になった。
 鼻先に極小さな突起が触れた。
 陰茎だ。
 生殖できそうにない無垢な陰茎を口に含め、啜った。
 噎せ返りそうな程に強烈なアンモニア風味と控えめに主張する生々しい苦味が口いっぱいに広がった。
 吃驚した仔猫は、私の頬を何度も引っ掻いた。
 それも愛おしいように思えた。
 ──早くセックスしたい。
 口惜しさを覚えつつ、陰茎から舌を離した。
 一応の期待を込めて、涎で濡らした人差し指で尻穴の具合を慥かめた。
 ──鉛筆の一本も入りそうにない。挿入は断念した。
 仔猫を股下まで降ろし、陰茎を見せつけるような姿勢で起立した。
 仔猫は、最早私の陰茎など興味の範疇になく、傍からすれば欠伸のような調子で、果敢に威嚇するような視線を此方に投げ掛け、喉元からは一応の低い唸り声が発せられていたが、飼い主の耳には届きそうもないか細さだった。
 仔猫の陰部に私のをぴたりと密着させ、滑らかなその全身を繰り返し往復する。
 やわらかな体毛が亀頭をくすぐり、肋骨の凹凸が裏筋を不規則に愛撫した。
 包皮が擦り切れそうな程に、夢中で扱いた。
 仔猫は呻いていたように思う。
 私は正しく強姦を望んでいたのだから、いっそう激しく擦った。
 ──来る。
 亀頭が繊細そうに膨張し。
 外尿道口に感覚が集中し。
 陰茎が呼吸をするように熱を帯び。
 昇る熱気に顔を焼かれる程に、忘我する程に。
 滾る。
 来る来る来る来る。
 来る来る来る来る来る来るッ!
 ──水洗の音が遠くで聞こえた。
 私は、射精した。
 仔猫は──。
 愛らしかった瞳を剥き、重力に引き裂かれるようにぐったりと。
 ──死んでいた。
 私が殺した。
 昂奮の余り、貧弱な頸椎を圧迫してしまったのだろう──と鈍麻な脳は他人事のように考察した。
 ──拙い。
 そうだ。これは、私自身に起きた問題に他ならないのだ。
 吐精に浸っている場合ではない。
 脳内物質の過剰分泌によって禄に頭が回らない上に、彼女は既に用を済ませている。
 今にも真後ろのドアノブを回しそうな具合だ。
 先ず隠すべき物を隠そうと思い、精液に塗れた陰茎を強引に仕舞い、汚れた右手を長ズボンの裾で拭い取った。
 仔猫に視線を移すと、薄い体毛には大量の精液が染み付いていた。
 ふとハンカチを携帯していたことを思い出し、ほぼ擦るようにして懸命に拭った。
 しかし、どれだけ拭ってもシミは取れず、あれこれ考えるうちに階段を昇る音が聞こえたので、ケージに仔猫の屍体を放ってその上に毛布を掛けた。
 ──拙い。彼女が来ている。
 慌てて踵を返したら円卓に小指をぶつけ、数枚の用紙をその場に撒いた。絶叫こそしなかったが何か声を漏らしたと思う。
 喘いでいる時間もない。悶絶寸前の激痛を噛み殺して用紙を拾い集めたが、そのうちの一枚は、精液の垂れた床の上に落ちてしまっていた。
 女児向けのアニメキャラクターを写したであろう微笑ましい絵が不自然な灰色に穢れている。異臭がする。
 ──何だよ。
 私は、絵を真っ二つに破いた。
 紙屑は尻ポケットに隠した。
 他の用紙を円卓に戻し、垂れた精液もハンカチで拭い取り、証拠を残していないか最後に確認し、ドアノブを回した。
「妹の部屋の前で、何してるの」
 ──扉を閉めたところで、階段を昇り終えたばかりの彼女と鉢合わせた。
 彼女は明らかに怪訝な表情を浮かべていた。
 何でもいいから返事をせねば──と私は思った。
「お、御手洗。勝手に歩き回るのも悪いと思ったけど。その、我慢が。我慢というかその」
「トイレは私が使ってたよ。言わなかったっけ」
 いきなり拙った。
 二つある家もあるから探そうかなって、のような言葉を私は紡いだと思う。
 ふーん、と彼女は相槌のような曖昧な声を漏らし、私の顔を見据えた後に。
「あ、待たせてごめんね」
 早く行った行った、と彼女は私の腕を引いた。トイレの前まで案内し、彼女は再び階段を昇った。
 ばたん、と扉の閉まる音が聞こえた。
 私は、廊下に独り残された。
 隙間風が厚手のワイシャツを貫き、背中は氷を詰められたように冷えた。
 ──ごめんなさい。
 私は、ぽつりと呟いた。
 その後の出来事は余り覚えていない。適当な理由を付けて逃げ帰ったと思う。
 結局、私が彼女に問い詰められることはなかった。ただ、自然と互いに互いを避けるようになり、中学校卒業を契機に彼女とは一切会っていない。

「桐生。これ、どういうつもりだ」
 人の仕事を妨害したいのか──と同僚の先輩の坂部さかべは言った。
 見上げると、座っている私を睨め付けるような目と見合った。坂部の長身も相俟って、思わず私は萎縮してしまった。
 口籠る私の眼前に、坂部は用箋挟を差し出した。
 用箋挟には、今朝方坂部が回した稟議書が挟まれていた。
「何が悪いのか考えろ」
 考えろ──。
 坂部の口癖だ。
 相手に一応の弁明の機会を与えた上で、納得のいかない、坂部が言うところの不正解を出そうものなら、小一時間は悪辣極まりない非難を浴びる羽目になる。単なる説教で終わるならまだ良い方で、坂部の機嫌次第では書類の綴じ方が下手だのタイピング音が耳障りだの、話していてつまらないだの親の教育が間違っているだの、挙げ句の果てには息継ぎの仕方が気に入らないだのと言い出すので堪らない。
 要は、坂部は私のことが嫌いなのである。
 加えて嫌いな人間を苛めるのが好きで好きで堪らない性分を抱えているのだからうんざりする。
 ──飲みの席で酒の勢いに押されて嗜癖を吐露して以来ずっとこの調子だ。それまで教育熱心な先輩というイメージすらあった坂部は、態度を急変させて私を執拗に攻撃するようになった。
 陰気臭く、趣味と呼べるものを持たず、要領の悪い上に普通とは程遠い嗜癖の私は、坂部の性分を満たすのに都合の良い存在なのだろう。
 全く厭になる。
 差し出された用箋挟を受け取り、私は目を凝らした。私が作ったのではないから内容に瑕疵があるとは思えない。仮にミスがあるとすれば私の承認印に違いないだろう。
 承認印欄に注目すると、ほんの数ミリ程度、私の押印が枠からはみ出ていた。
「申し訳ありません。私の押印がズレていました」
 本当に申し訳ありません、と念押しして私は頭を下げた。
 後頭部に坂部の視線を感じる。
「それで」
「坂部さんの稟議書を不格好な物にしました。申し訳ありません」
 そうじゃないだろ──と語気を強めて坂部は言った。
 これは、拙い。
「修正テープで直して、ハイ終わりか」
 違うだろと坂部は声を荒げて言った。
 そして態とらしい溜息を吐きながらオフィスチェアに背中を預け、脚を組み、坂部は滔々と説明し始めた。
 ──修正テープは文書偽造の常套手段であること。一昨年もそれで別の部署が指摘を受けたこと。事実がどうであれ監査で詰問を受けるのは他でもない俺であること。よって、こんな杜撰な文書を綴る訳にいかないこと。
 要は、斯くの如し馬鹿らしい屁理屈を彼のいいやま飯山部長に説明して再度承認印を貰ってこい──と言うのである。紛うごとなき嫌がらせである。それも最悪の。
 更に私が如何に無能なのか列挙し、最後に稟議書のデータの場所だけ簡素に伝えて坂部は別の仕事に取り掛かり始めた。下手に反論すればさらなる攻撃も辞さない、と窺える横顔である。
 私は肩を落とし、生ける屍のような気持ちで部長室に向かった。
「ええと。先ず、何故桐生君が坂部君の稟議書を持っているのかな。僕、これに目を通したと思うんだけど」
 飯山部長は眉尻をハの字に下げて首を傾げた。
 同様の質問を五分前にしている。
 悪意は介在せず、短期記憶という訳でもないのだが──もっと単純に、頭の悪い人間なのである。
 二度目の説明をする。変に生真面目な性分なようで、飯山部長は神妙な面持ちで身の入っていないような相槌を細かく打った。担当者ではない私が稟議書を持って回っているという事実が別の世界の出来事のように感じられ、到底理解の及ばない様子だった。
 理解させるのにどれだけ時間が掛かるのだろうか。
 飯山部長の頭上にある壁掛け時計を見て、私は再び肩を落とした。
 結局、私が坂部の稟議書を持っていた理由を飯山部長の納得がいくまで説明するのに多大な時間を割き、更には担当外の稟議書の内容を再度説明して欲しいとの要望に応えるのにいっそう時間を費やした。
 ──坂部君も真面目な人だねえ。
 私もその姿勢を見習わないと、と心の底から感心したような声を上げる飯山部長に、私は本気で殺してやりたいと思った。
 ──終業時刻が迫っている。早く仕事に取り掛からないと。
 席に戻ると、坂部は居なかった。
 嫌味の代わりに、机の上には分厚い簿冊が二冊追加されていた。
「管理簿上の数値と事務用品の実数が一致してるか急いで確認しろって坂部さんがァ」
 大変ですねえ──隣席の柴崎しばさきは舐めた口調で言った。
 坂部の言う急ぎとは、翌朝の坂部の出勤前までを意味する。
 一月分の事務用品の実数を、だ。
 必要な点検なのは分かるが、喫緊の案件ではないし、先々週にも確認したばかりである。坂部もそれを十分承知の上での嫌がらせだ。
 上司でもない人間の実質的な時間外命令など従う義理もないが、飯山部長に説明しても多大な時間を浪費する上に坂部と同じ結論を出すだろう。
 何より、坂部には逆らえない。
 坂部の横暴に耐えかねて異議を唱えた者は少なからず居たが、あっさり丸め込まれるばかりか、中には退職に追い込まれた人間も居た。
 坂部は上の人間に好かれやすい性格な上に、堂々と説教できるだけの能力の高さも兼ね備えているので質が悪い。
 方方に効く顔の広さと相応の実力を持つ人間を前にして、柴崎のように愛想を振り撒くか、私のように問題を抱えた人間は三つ指ついて服従する他ないのだ。
 本当に自分が呪わしい。

 ──お疲れ、悪かったな。
 翌朝、坂部はニヤニヤしながら私の肩を叩いた。
 私の疲弊しきった表情を見てすっかり御満悦である。
 私が口籠っている間に、飯山部長が出社してきた。
 私から顔を背け、わざわざ飯山部長の近くまで行って坂部は挨拶をした。
 きっと、こういうところで坂部は評価されているのだろう──そう呆然と考えているうちに、飯山部長は坂部を連れて執務室から出ていった。
 普段は気の抜けた表情をしている飯山部長が、やけに気難しそうに眉間に皺を寄せているように見えた。所謂、内緒話の類だろうか。
 坂部君、君のパワハラは目に余るよ──斯くの如し注意であればどれだけ救われるだろうと仕事の準備を整えながら私は呑気に思った。
「桐生君、ちょっといいかな」
 始業直前、飯山部長に空きの会議室まで呼ばれた。
 まさか坂部君が謝りたいそうだと言われるのではないかと本気で思ったが、開けた扉の先で偉そうに起立する坂部の表情を見て、淡い期待は呆気なく砕かれた。
「そう身構えるなよ桐生。なに、取って食うわけでもないんだから」
 そうですねえ──と私は意味不明な相槌を打った。厭な笑みを讃えた坂部と挙動不審気味の飯山部長、身構えない方が不自然だ。
「実は、今日の午後イチに他の部署から異動してくる子が見えるんだけど、その子が問題、問題と言ったらアレなんだけど。要はその、桐生君にはその子の世話係というか、色々と手助けしてあげてほしいんだ。どうやらその子と君は同い年らしいし、きっと気も合うだろうから、ね」
 お願いできないかな桐生君──と上目遣いしながら飯山部長は言った。
「俺は忙しいし柴崎は経験が浅い。そこでお前の出番てわけだ。お前も長く務めてればそのうち上に行くだろうから、若いうちに人材育成のいろはを学んでおくのも手だぞ。あとは飲みに行って関係深めて、仕事に活かせるような信頼関係を結ぶのも悪くない」
 飯山部長の肩越しに坂部は言った。
 坂部は、口角と目尻がくっつきそうな程に厭な笑みを讃えている。
 耳触りのいい補足説明以上に、悪意が込められている気がしてならないが、しかし。
 ──わかりました、任せてください。
 坂部には、逆らえない。

 午前中は、まるで仕事に身が入らなかった。
 問題──。
 結局、下手な先入観を持たせない為と言って坂部も飯山部長もその問題児とやらの異動理由を教えてくれなかった。
 半端な時期に異動する事例などあまり聞いたことがない。考えられるとすれば、勤務成績の不良者か、著しく協調性の欠いた嫌われ者あたりか。
 何れにせよ、坂部が私を指名した以上、厄介な事情を抱えているのは間違いないが。
 あれこれ考えているうちに、いつの間にか休憩時間が終わってしまった。つまり、そろそろ坂部が例の問題児を連れてくる頃合いだ。
 坂部に任された以上、適当にあしらうことはできない。何か問題を起こせば私の責任だと嬉々として坂部は糾弾するだろう。
 冷えたお茶と一緒に緊張を飲み込み、執務室の扉に視線を移した。
 扉の磨り硝子には二つの人影が映っていた。
 坂部らしき縦に伸びた人影と、少々──いや坂部より頭二つ分も小さい不思議な輪郭をした人影だった。
 考察を終えるよりも先に、扉が開かれた。
「悪い、ちょっと手を止めてくれるか。では部長、連れてきましたので紹介の方お願いします」
 部長の机の前まで彼女を連れてきて、そう言って坂部は引き下がった。頼りない部長の肩を背景に、彼女がぽつんと残された。
 十数人の注目を浴びた彼女は、身体の前で手を交差させて部長の説明を待った。皆の視線を避けるように俯いているので表情は見えない。見えないが。
 ──彼女だよな。
 部長は彼女の横に並んだ。彼女の横顔を見てぎょっとした表情を浮かべた後、態とらしい咳払いをして、部長は挨拶を述べた。
「急な話で悪いんだけど。今日からその、一人加わることになって。取り敢えず自己紹介、してくれるかな」
「はい。営業部から参りました、木村 美優きむら みゆうです。本日よりよろしくお願いします。この時期に異動ということで不思議に思われている方も多いと思いますが、私は見てのとおり」
 ──障碍を抱えてまして、と矢鱈上擦った声で彼女は言った。
 切れ目のような瞳孔。突き出た小鼻に繋がれた唇。絞ったように縮まった耳に加えて、両のこめかみ辺りには尖った耳が生えている。
 血を抜かれたように肌が色白い。目を凝らすと半透明の産毛が顔全体に繁っているのが分かった。
 異様に頭部が小さい。小中学生程の身長を加味しても頭身のバランスがまるで取れていない。
 猛暑日の続く初夏だというのにジャケットを暑苦しく着込んでいる。その袖口からは、全てが親指のように太く短い指を揃えた手が覗いている。歪に丸まった爪も含めて禄にキーボードを打てなさそうだ。
 色々と手助けしてほしい──飯山部長の言葉を私は反芻した。これを、だ。
 真に相応しい指導役がこの部署に居ないのは慥かである。とはいえ、次善策が私とはならないだろう。経験年数も下から数えた方が早い。呆れる程に愚鈍な飯山部長とはいえ、本当に彼が私を指名したのだろうか。
 そうだ。私を会議室に呼び出す前、飯山部長は彼奴と。
 ──ふと、対面に座る坂部と目が合った。
 今朝の、口角と目尻がくっつきそうな程の厭な笑みを讃えていた。
 そう、彼女の姿はまるで──。
 本当に、厭な奴だ。

 矢張というべきか、彼女は仕事が遅かった。
 相応の理解力はある。相槌や質問からは──元の所属から追い出された身とは思えない程度には──熱意が窺える。しかし、奇蹄病の齎した後遺症が、障碍が邪魔をした。
 満足にタイピングを打てない。文字を打ち間違える。削除の際に別の文字まで消す。修正する。また間違える。繰り返す。
 坂部は考慮しない。
 彼女と腕時計を見比べては、坂部は溜息をついた。明瞭に聞こえるように態とらしく、厭らしい具合に。
 その度に、教え方が悪いのではないと私は心の中で訴えた。
 私は悪くない。悪いのは彼女だ──と。
 無論、理解はしていた。
 彼女は障碍者であり被害者だ。キーを二つ押してしまうような不器用さも。周囲の集中を削ぐような漏れた呼気も。嫌悪に満ちた外見も。彼女が望んで得た訳ではない。
 それに、彼女が罹患したのは約一年程前、会社に復帰したのは極最近という話だ。当然、リハビリテーションにタイピング練習など含まれていないだろう。全ては仕方のないことなのだ。
 仕方のないのだが。
 私は、彼女に対して苛立ちを募らせた。
 視界の端で坂部を捉える度に背筋がぞくりと震えた。
 坂部にとって、彼女という嫌がらせをするに足る理由が増えてしまったのだ。今以上に強迫的な説教や不毛な仕事の押し付けをされては身が持たない。殺されてしまう。
 仕事を終えて呑気に伸びをする、眼前の彼女の所為で。
「お疲れ様でした。今日は色々と教えていただいて本当に助かりました。ありがとうございます桐生さん。それと」
 御迷惑をお掛けしてすみませんでした──と心の底から申し訳無さそうに彼女は言った。
 時刻は終業時間を過ぎていた。結局、普通の人なら一二時間で終わらせられる入力作業に彼女は倍以上費やした。
 性急に取り組むべき仕事があった訳ではないが、指導役を任されている立場上、私もそれに付き合わざるを得なかった。というより、終業間近にお前も残るよなと坂部に釘を刺されたからだ。
 彼女の熱意も控え目な姿勢にも既に若干の鬱陶しさを覚えていた私は、彼女の謝罪を適当にあしらって帰ろうとした。
 休日の間にしっかり頭を冷やそう──そう思案しながら廊下を歩いていたそのとき。
 桐生さん──背後から彼女に呼び止められた。
 半開きの口許からは呼気を荒く漏らしている。わざわざ走ってきたのか。
 呆然と見つめる私の目を見つめながら、彼女は言った。
「桐生さん。本当に色々と迷惑を掛けてしまったので、その、良ければ一緒に御飯にでも行きませんか」
 はあ、と私は語尾を下げて相槌を打った。
 呆気に取られた故にだが、どちらかと言えば肯定的に捉えかねないニュアンスであった為に、近くに良いお店があるんですよと嬉しそうに彼女は続けた。
 拙い。早く断らないと面倒なことに。
「木村さん」
 ちょっと待って──と言い掛けたところで、私は喉奥に言葉を引っ込めた。
 飲みに行くのも悪くない、と慥か坂部は言っていた。彼女の誘いを拒否することは坂部の助言を否定するに等しい。彼の偏屈屋は少なくともそう考えるに違いない。これが露見すれば、一日中、下手すれば来週いっぱいまで非難されかねない。
 坂部に攻撃されたくない。
 死にたくない。
「木村さん」
 案内を頼むよ──と私は不細工な愛想笑いを浮かべた。

 彼女はよく喋った。
「桐生さんは今年で何年目なんですか」
「ええと四年目になるね」
 彼女の持っていた水割りの溶けた氷がかたりと落ちた。
「え、私もそうです。少し若い方だとは思っていましたが、まさか同期だったなんて」
 こんな偶然あるんですね、と彼女は言った。
 飯山部長から同い年とは聞いていたので、私の方は特に驚かなかった。
 ただ、同期の中で奇蹄病患者が出たとなれば私の耳にも入ってきて然るべきだが、今日まで知らなかったということは、つまりそういうことなんだろうと思った。
 改めて人付き合いの悪さを噛み締め、私は冷えたビールを呷った。
「四年目なのに指導役を任されるなんて、余程信頼されているんですね」
「押し付けられただけだよ」
 ──拙い。居酒屋特有の緩い雰囲気に流されて余計なことをつい口走ってしまった。
 飲もうとしたビールを戻して私は彼女を見た。
 彼女は力なく首を左右に振り、気にしてませんよと笑った。
「桐生さんは優しいんですね。こうして私の誘いを受けてくれてますし。前の所属の人も、私が入院しているときは退院祝で飲み会開こうねなんてメールで送ってくれましたが、いざ退院すると何事もなかったみたいに──まるで最初から私なんて居なかったみたいに」
 言葉を切って、彼女は寂しそうに目を細めた。
 突然、時間が停止したように錯覚した。作業着姿の男性達の下卑た会話も頭の悪そうな若い女性達の馬鹿笑いも押し退けて、彼女の唾を飲み込む音が聞こえそうな程に、重苦しい沈黙が流れた。
「──坂部さんって外面は良いけど中身はクソでさ。昨日なんてどうでもいい仕事を押し付けて今日みたくさっさと帰って、お疲れ様なんて今朝言われて。あのニヤケ面を見ると心底腹が立つよ。仕事もプライベートも充実しているはずなのに後輩を苛めるのが一番の趣味なんて、ある意味可哀想な奴だよ。根本的に気が違ってるから普通の幸せを感じられないに決まってるんだああいう奴は」
 どうしてこんな話題を出したのか分からない。
 つい先程まで彼女を蔑んでいたのに。早く消えてくれと願っていたのに。
 彼女が虚空を助けを求めたとき。彼女の弱々しい横顔を見たとき。坂部が居ないからかもしれないし、それとも矢張居酒屋特有の空気がそうさせたのかもしれない。理屈らしい理屈など無いのかもしれない。
 ただ確信を持って言えるのは、胸中に満ちていた彼女に対する苛立ちや不満が晴れたということ。そして代わりに満ちたのは醜くて脆弱で情けない、故に彼女を肯定するに足る感情ということだ。
 ──仲間意識だと思う。
 呪詛のように愚痴をひとしきり吐き出して、私はビールを呷った。
 頭に昇った血が冷やされるのと同時に、背筋が強張った。
 首筋に冷や汗が伝う。
 ──随分と拙い言葉を口走ってしまったかもしれない。
 いつの間にか店内は喧騒を取り戻していた。一つのテーブル席をぽつんと残して。
 場を取り繕う為の言葉を必死に模索したが、意味不明に喘ぎ声を出すことしかできず、私は項垂れた。
 重苦しく長い沈黙──と今度はならなかった。
 あはは、と彼女の笑い声が聞こえた。
 頭を上げると、頬杖をついて傾けた彼女の目と見合った。
「これでお互い様かと思ったら、またリードされてしまいましたね」
 取り敢えず生中二つ頼みましょうか、と彼女は意地悪そうに言った。
 釣られるようにして、私も笑った。

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