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厚い雲がどんよりと空を包み込むある日、エージェント・湯坂は山奥にある廃病院の前で、ポツンと停まる車の中にいた。
「改めて本日の作戦を確認します。今回の目的は、廃病院内に存在するヒューム特異点の原因解明です。院内には10万匹をゆうに超える大量のコウモリ類の存在が確認されています。上空からの透過観測によると、この院内にヒューム特異点の痕跡が発見され、これが大量発生の原因と考えられています」
そう流暢に語るのは、湯坂の同期であるエージェント・相澤だ。
「幸い、コウモリ類に異常性は確認されていませんので、危険性は低いと予測されています。なので、基本的に突入はDクラス職員4名が行い、我々機動部隊員はオペレーションに専念します。ただし、万が一の出動に備えて装備を外さないようお願いします。作戦は10分後から始めますので、それまで各自休憩とします」
基本的な説明が終わった後、湯坂はおそるおそる相澤に近寄る。
「なぁ、本当にオペレーションだけでいいのか」
相澤が少し驚いたような表情をする。
「なんだその質問。難しい任務に連れて行かれすぎて感覚が麻痺してるんじゃねぇのか?」
「確かに、こんなに気が楽な任務は初めてかもしれないが……」
「ま、あんまり気張るなって。それとも、お前も前線に行くか?」
「お前……冗談でもあんまり笑えないぞ」
「ごめんごめん。今日はリハビリって言って連れてきてるんだし、そんなことさせるわけないだろ」
腑に落ちない表情をしたまま、湯坂はヘッドセットを装着した。
1週間前 —
湯坂はいつものように射撃訓練場に立っていた。何十回、何百回と通い慣れた無機質な空気を大きく吸うと、ジャケットを脱ぎ、使い慣れたライフルを手に取り、的の中心に照準を合わせ、引き金に指をかける。
次の瞬間、湯坂の手が震え始める。手のひらは汗にまみれ、指先は引き金から離れ、さっきまで固く握りしめていた持ち手も緩んでいく。彼は10数秒構え続けようと試みた後、ゆっくりとライフルを下ろす。
「今日もダメだったか……」
その様子を心配そうに見つめている女性がいた。内浦カウンセラーである。
「あの、あまりご無理はなさらないでくださいね?」
「いつもお気遣いありがとうございます。内浦さん。ですが、これは私が選んだ道なので」
湯坂はいわゆるイップスの状態にあった。元々はゴルフや野球などのスポーツで緊張して力が入らなくなることをイップスというが、まれにスポーツ以外でも起こることがある。湯坂の場合は、その対象が銃だった。
といっても、何か重大なミスを犯したわけではない。それどころか、湯坂は銃の名手ということで有名だった。もともと陸上自衛隊で訓練を積んでいた湯坂は、野外訓練中にたまたま生物系オブジェクトの収容作戦と鉢合わせてしまった。3mを優に超える異形との戦いを目撃した湯坂は、人間側の苦戦を予感し、とっさに装備していた銃でオブジェクトの目を撃ち抜いた。これが功を奏し、収容作戦は成功。のちに正式にスカウトされることとなった。
加入後、彼の噂は瞬く間にサイト上に広まり、熱い期待が寄せられた。湯坂もそれに応えるように難しい任務を次々とこなしていった。しかし、成功を重ねるほどプレッシャーが積み重なることもまた事実である。いつしか彼はそのプレッシャーに耐えられなくなり、イップスに陥ってしまった、と考えるのが彼にとって自然であった。
「私は銃の腕を買われてここへやって来たんです。これくらいの困難を乗り越えられなくては、私がここにいる意味がありません」
「とはいってもですね、湯坂さん」
焦りを見せる湯坂を内浦が収める。
「もう30日も連続で訓練してるんですよ? 少しは休まないと」
「でも、こうやって少しずつ訓練を積んで自信をつけていくのがいいって言ったのは、内浦さんですよ」
「それは、精神的なものが原因だったらという話です。以前もお話ししたじゃないですか。ジストニアという神経的なものが原因の可能性だってあります。あまり決めつけすぎると、余計に疲れてしまいますよ」
「はあ……」
湯坂は少し間を開けたあと、大きなため息をつく。
「わかりました。明日は訓練を休みます。でも大丈夫です、以前は銃を握ることすらままならなかったんですから、確実に進歩しているはずです」
「よかったです。くれぐれも、ご無理はなさらぬよう……」
そう言って、内浦は訓練場を後にした。思い通りにいかない苛立ちとやるせなさからか、湯坂の口からは自然に舌打ちが漏れる。
訓練を終え、オフィスでコーヒーブレイクをとっている湯坂に電話がかかってくる。
「はい、湯坂です」
「もしもし、久しぶりだな、俺だよ」
「相澤か、なんだ急に」
「次の月曜、小規模なオブジェクトの収容作戦がある。ちょっと人手が足りなくてな……同行してくれないか?」
湯坂は目を丸くした。イップスに陥って以降2ヶ月ほど収容任務から離れていた湯坂にとって、それは驚きの知らせであった。
「お前、俺が今何やってるのか知らないのか……」
「知ってるよ。その上でのお願いだ。そんなに危険なミッションにはならないという予測が立っているし、装備も、護身用のピストルぐらいは持っていってもらうが、なくても十分なレベルだ。それにな」
相澤が声のトーンを一段下げる。
「銃を撃つだけがエージェントの仕事じゃない。それはお前だって十分わかっているはずだ。それとも、治るまで本当に何もしないつもりか?」
「それは……」
湯坂の言葉が詰まる。
「こう言っちゃ残酷だが、今後10数年治らない可能性だってあるんだ。今のうちに他のキャリアを積んでおいた方が、お前のためにもなると思うぞ」
相変わらず少し上から目線の相澤に少し苛立ちを覚えた湯坂だが、ぐっと堪え、口を開いた。
「わかった。俺とお前の仲だからな、同行してやるよ」
「よし。じゃあ集合時間と作戦内容を後で共有しておくから、しっかり目を通しておいてくれ」
暗い院内の天井からは大量のコウモリがぶら下がり、ライトに当たるたびに目を光らせる。病室のドアを開けると、それに呼応するように1-2匹のコウモリがカメラに向かって高速で飛んでくる。Dクラス職員とエージェントたちは、最初こそ飛んでくる心臓を縮めていたものの、何しろなかなか巨大な病院だったため、6-7部屋も探索するうちに慣れていった。院内は不気味さこそあれど、大して危険な状態に陥ることは予想通りなかったため、長い探索時間も相まって、次第にチームの緊張感は薄れていった。
そんな中、湯坂だけは緊張を切らさないでいた。最初こそオペレーションに慣れない様子を見せていたが、1時間もすれば研修時の勘を取り戻し、冷静に指示を出していた。
探索は順調に進み、部屋の調査は残すところあと1部屋となった。最後の病室に近づいた時、アラームが鳴った。
「カント計数機に異常値を確認。近辺にヒューム特異点がある可能性が高いです。D-59260、突入を開始してください」
カメラに移った病室は、これまでとは比べ物にならない量のコウモリで埋め尽くされていた。間違いなくここが発生源だろう。
「ベッドを確認してください」
D-59260が大量のコウモリをなんとか掻き分け、ベッドに到着する。羽音がひっきりなしにヘッドホンから聞こえてくる。D-59260は布団に手をかけ —
次の瞬間、大音量の羽音とともに通信が断絶する。
「D-59260!?応答してください!D-59260!!」
その後、他の場所を探索していた3人のDクラス職員の通信も次々と断絶する。
「大変です、すぐに救出へ向かいましょう!」
湯坂の強い呼びかけに、少し油断していた相澤が飛び上がる。
「うお、びっくりしたぁ」
「馬鹿、お前がちゃんとしてなくてどうするんだよ!」
「悪い……でも、お前は大丈夫なのかよ。銃、持てないんだろ?」
湯坂は一瞬たじろぐが、強気に返す。
「……確かに、俺は今ベストな状態とは言えない。でも、そこに任務がある以上、逃げ出すことはできない!本当に必要なときになったら、銃だって何だって撃ってやるさ!」
「相変わらず正義感の強い男だな。正直、お前ならそう言うと思っていたよ」
オペレーションを行っていたエージェント4人が車から飛び降り、駆け足で廃病院の入り口に立つ。
「うわ……気持ち悪りぃ……」
「言ってる場合か!さっさと突入するぞ!」
今までもこれからも見ることのないような量のコウモリを目の前に怖気づく相澤に、湯坂が檄を飛ばす。
湯坂には一抹の不安があった。彼の記憶の中では — といっても、最後に相澤の銃さばきを見たのは研修の頃だが — 相澤の銃の腕前は同期の中でも最下位。だからこそ、彼は湯坂とは違う道を選び、非武装任務を専門としている。
院内は先ほどよりも大量のコウモリで埋め尽くされ、足の踏み場もないほどであった。相澤が床に1発銃弾を放つと、命中した位置を中心にコウモリが逃げ、半径1メートルほどの足場ができた。
「俺と湯坂で発生源に突入します。残り2人はそれ以外の職員の救出を」
相澤のセリフからは、先ほどの流暢さが感じられなかった。より危険な発生源に戦力の低い湯坂を向かわせるあたり、彼が冷静さを失っているのは明らかだったが、迷ってはいられない。湯坂は頷き、先ほどのベッドがある病室へ向かった。
びっしりと黒で染まる廊下を歩く相澤の足は、やはり震えているようだった。
「お前、さすがにビビりすぎじゃないか?」
「しょうがねぇだろ、武装任務は久々なんだから」
「それはそうかもしれないが、やっぱり俺が前を歩いたほうが —」
次の瞬間、壁に張り付いていたコウモリたちが突如集団で手のような形を作り、相澤の顔面に襲いかかる。
「危ない!!」
相澤は間一髪のところで屈み、急襲を免れた。
コウモリの壁が、うねりながらこちらに襲いかかってくる。先ほどまで静寂を保っていた廊下は、今や動物の体内が外敵を追い出すかのように2人を狙っている。二人は全身を駆使して攻撃を避けるも、次第に体力を消耗していく。相澤は何度か銃を構えようとするが、すぐさまコウモリの塊に邪魔されてしまう。
「まったく、こう足元が悪いんじゃ、まともに動けな—」
その瞬間、足がもつれた相澤が前に倒れこみ、すかさず上からコウモリの塊が接近する。それを瞬時に察知した湯坂は、装備していたピストルを構え —
— 手が、止まる。
相澤は必死でピストルを取り出し、コウモリの塊に銃弾を撃ち込み、事なきを得た。
「クソッ!!!」
ピストルを下げた湯坂から、激しい声が漏れる。
「俺が戦力にならなきゃいけないのに、お前を助けてやらなきゃいけないのに……」
聞こえるか聞こえないがギリギリの音量で、湯坂がつぶやく。先ほどまで俊敏にコウモリをかわしていた湯坂の動きも、目に見えて鈍っていく。相澤はその様子を複雑な目で見つめる複雑な目で見つめる。
しかし、今度は湯坂の背後から、手の形をしたコウモリの塊が2つ襲いかかろうとしていた。湯坂が気配に気づいて振り返ったときには、もう目の前に —
その時、相澤の方向から2発の銃声が鳴った。銃弾は手の根本を正確に捉え、コウモリの塊を散らした。
「……なぁ湯坂、お前勘違いしてないか?」
相澤がいつになく真剣な声でつぶやいたあと、すかさず前を向き、立ちはだかるコウモリの塊に次々と銃弾を放っていく。
「俺がいつまでも情けない男で、お前が俺を助けてやらなければどうにもならない、そう思ってるよな?」
湯坂の口からは言葉が出なかった。先ほどまで腰が引けて見えていた相澤は、別人のようにたくましい後ろ姿をしていた。
「違うね。確かに俺は銃の腕では劣るかもしれないが、俺だってお前と同じ財団エージェントだ。ダチ1人すら守れないような男じゃねぇんだよ!」
湯坂はハッとした。今まで、ずっと周りの期待に応えようと張り切っていた。同僚からも頼られ、常に先頭で結果を残してきた。しかし、裏を返せば仲間に期待せず、自分だけの力を信じているということでもあった。仲間たちだって優秀なエージェントだというのに、それに気づかず、力を貸してもらうことがなかった。いつしかそれは、膨れ上がった使命感、責任感、プレッシャーへと繋がり —
相澤の背後で、銃声が響いた。振り返ると、そこには煙を上げる38口径と、それを仁王立ちで構える男の後ろ姿があった。
「ありがとう。お前のおかげで肩が軽くなったよ」
相澤の目に映る湯坂も、先ほどまでとは見違えるほどたくましくなっていた。
「そう来なくっちゃ!」
相澤はそう言って口角を緩ませると、湯坂に背中を合わせ、大きく深呼吸をした。
「……よし、これで全員揃ったな」
幸いにも一命を取り留めた4人のDクラス職員と、4人のエージェントを乗せた車が、麓に向かって走り出す。
「いやー、ロストしなくてよかった。大目玉を食らうとこだったよ」
「まったく、元はといえばお前が危険度を見誤ったのが原因だろ」
安堵のため息を漏らす相澤を、湯坂が窘める。相澤は苦笑いした後、気が抜けたのか、すぐさま眠りに落ちてしまった。その様子を見守った後、湯坂は本部に電話をかけ始める。
「はい、こちらサイト-81HAカウンセリング室です」
「内浦さんですか? イップスの治療ですが、もう大丈夫です。無事に解決しました」
「ほんとですか? それは良かったです。いったい何があったんですか?」
「まあ、話すと長くなりますが……」
湯坂はちらっと相澤の寝顔に目を向ける。
「僕の馬鹿な友人のおかげ、とだけ言っておきます」
「そうでしたか……いい友人をお持ちですね。でも、一応経過観察はさせてください。また無理するといけませんから」
「……はいはい、わかりましたよ。まったく、信用されてないな……」
「すみません、今、何と?」
「いえ、なんでもありません。もうしばらくよろしくお願いします」
電話を切った湯坂は、そのままスマホのカメラを起動し、相澤の寝顔を撮ると、ゆっくり微笑んだ。
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任意A任意B任意C- portal:5103066 (15 May 2019 12:45)
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