薔薇と青銅

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われら其処に居てし、何処にも行かず

われら此処に居てし、何処にも在らず

おお主よ、何故に我らを罰し給うのか

ある錬金術師にとって、これは最も古い記憶だ。

5つになる年、短い夏が来て、姉が黒死病に罹って死んだ。40日にわたって苦しみ抜き、祈祷も薬草も彼女の魂には届かなかった。母親は嘆き悲しんで、躯の袖に縋り付いた。父親は黙って棺の中にシロメの十字架を差し入れた。

彼は最後に姉に別れを告げたくて、棺の中を覗き込んだ。庭の垣根に絡んでいた野薔薇に包まれて、痩せ細った姉がそこにいた。頬に浮かんだ黒い痣がまるで絵画の縁取りのようで、彼は幼い好奇心から、そっと手を伸ばしてそれに触れた。

冷たく、ぶよりとした感触を感じたかどうか、彼はもう憶えていない。次の瞬間には悲鳴と怒号が耳を裂き、身体は地面に叩きつけられていた。別離は永遠に中断された。悍ましい嘴に香料袋を詰めた黒装束の人影が、のっぺりと伸し掛かってきていた。恐らく、彼は恐怖に泣き叫んだだろう。姉に触れた指は紐で縛り付けられ、煮え滾る湯に差し入れられた。

街外れに打ち捨てられたらい病者を見るような目で、両親が遠巻きに見ていた。なぜ2人は助けてくれないのだろう? 疑問は痛みの中に消え、彼は悶えながら泥まみれの床に伏す。灰色の仮面の向こう側には、感情の読めぬ視線だけがあった。嘴の奥から祈りの一節が溢れ出ていた。遠いボヘミアの訛り。その句は今でも彼の夢に現れる。不浄を戒め、罪人を裁き、民衆の許しを願う言葉。

これは罰なのか──彼女は何をしたというのか?

椅子に縛られ、じくじくと痛む指先に香油を塗られながら、彼は空に昇る黒い煙を見た。一筋、二筋、三筋と立ち上がる、墓地に行くことを許されなかった病死者の葬列。西のフランスでは既に絶えたという、忌むべき火葬の象徴。姉もこれからそこに行き、彼女の身体はこの地上のどこにも存在しなくなる。二度と蘇ることはなく、さんざ病熱に焼かれたその後に、業火の中に消え失せる。

何故なのか?

鼠の糞と黴の臭いがわだかまる戸口で、彼はじっと空を見上げていた。

マリーン朝1フェズに首都を構えてから百余年が過ぎた。擂り鉢の底のような盆地をフェズ川が二分する街は、瘴気が立ち込める川沿いの旧市街を乾いた砂岩造りの新市街がぐるりと取り巻いている。

その日、錬金術師の青年は気が急いていて、フェズの街を足早に歩いていた。旧市街の川沿い、水車が並ぶ職人街の一角に、彼の小さな工房がある。砂煉瓦と木で組まれた建物の軒下に、野薔薇の花冠がぶら下がっていた。

数日ぶりの帰還だった。薄く積もった埃が青年を出迎える。ふと気付いて懐を探ると、小さな林檎が転がり出てきた。これは危なかったと独りごちる。これから会いにゆく男、彼の師は植物や果実と相性が悪く、触れた先から腐らせてしまう。

林檎を放り出し、工房の細い廊下を歩く。水車の軋む廊下を抜けた先の扉は工房脇の船着き場に繋がり、さらにその向こうに岩屋がある。彼の師は人目を避け、常日頃からここに座り込み、市街地を眺めている。恐らくは今日もそこにいるはずだった。

「入ります」

青年は声をかけ、岩屋にかかった毛織物を捲りあげた。岩の隙間から差し込む光を頼りに歩いていくと、辿り着いた先は小さな洞窟のようになり、足元は数十年前の洪水の折に上がってきた川砂に満たされている。

彼の師は静かに砂の上に座り、岩壁に開いた大穴から旧市街に目を向けていた。

「師よ」
「やあ、mashiachマシアハ。久しぶりですね」

額に傷のある男は振り向き、切れ長の目を少しだけ伏せて、流暢なアラビア語で言った。青年は小さく眉をひそめた。

「その呼び方はもう止めてほしいのです。大仰に過ぎるし、コプト教徒2に聞かれれば騒ぎになる」
「悪くない名だと思いますが。"油を注がれるもの"、なんでもない名前だ」
「曾てはそうだったでしょうが、今は違います」

男は小さく首を振った。話を投げ出すときの彼の癖だった。

「分かりました、クリスチアン。それで、どうしたのです? 君がこれほど早い時間に帰ってくるのは珍しいでしょう。あと3日は聖者廟から離れられないと思っていました」

青い瞳が知性の光にきらめいた。彼の青銅の腕がほんの僅かに軋むのを青年は聞いた。逸る心を落ち着けようと青年は努力し、部分的に成功した──口元が笑みの形に歪むのを止められなかったが、口調は冷静で、いつもどおりの速度だった。

「アデプトにお暇を頂きました。ここまでだ、と」
「ほう?」

少しだけ、男は右目を見開いた。常に柔らかな笑みを崩さず、表情を変えることがない男にしてはとても珍しいことで、それだけで青年はどこか報われたような心持ちになったが、小さく堪えて言葉を継いだ。

「彼はもう教えることがないと仰られました。元より私には彼らのような素質がありません。"道"を開くことができず、それゆえ図書館に踏み入る資格を持たない。彼らのいうところの隠された書物、秘された知識を紐解く技を学ぶのみでした。それが今日──」
「終わったのですか?」
「ええ、卒業を。これまでの徒弟の中で最も早いそうです。Mの書の導きによるものですね」

それから貴方の。青年の僅かに熱が籠もった言葉を、男は静かに聞いていた。

「アデプトは神殿への自由な出入りを許してくださいました。このまま術理を研鑽し、いずれ熟達すれば蛇の印章もいただけると。彼らの知識が手に入ります! 無論、図書館から持ち出されたものに限りますが、それでも十分です。世界の神秘に手が届く。ついに成し遂げました」
「おめでとう。この日が来ると信じていましたよ」

男が軽く手を叩くと、小気味良い硬質な音が鳴り響いた。

「君は賢い子です。それに随分努力していましたから──この街に来て何年になるでしょうね? 根を詰めすぎる君のやり方を何度諌めたことか」
「3年と8月ほどかと。憶えておいででしょう、まだ冬の雨が止まない時期でした」
「随分と短い時間でした……いや、違いますね。君にとっては長いのですか」

青年は師を見た。浅黒く彫りの深い顔立ちはアフリカのどの民族とも異なり、年月の変化をものともしていなかった。青年はふと、かつて己の視線が彼よりも低い位置にあった頃のことを思い出した。

ダマスカスでのことだ。ティムール3の軍勢が街を破壊し、そして厄災が訪れた。巡礼者たちは炎の中で死を待つばかりで──そのとき、彼に手を差し伸べたのが、青銅の腕の放浪者だった。

「はい、いいえ。短く、瞬きするほどの時間でした。何よりも充実していました」
「それは良かった」

師の表情は変わらなかったが、声はわずかに喜色を帯びていた。自分の考えなどはとうに見透かされているのだと青年は思った。たった数年の師事であっても、この男がどれほどの驚異をその痩躯に秘めているのかは見て取れる。齢を重ねることがない身体、金属の四肢、秘術の智慧、そして呪い。

だからこそ、この報告は別の意味を持つ。

「師よ」
「なんでしょう」
「やはり、旅立たれるのですか?」

言ってから、彼は少しだけ後悔した。ぞっとするような沈黙があり、不意に男は向き直って、真正面から弟子を見た。光の届かない、深い淵のような瞳で彼をまっすぐに見た。弟子もまた彼を見つめ返したが、その薄い翠色の瞳はほんの少し潤んでいた。

「往かれるのでしょう? あの日ザマールを去ったように。貴方は一つ所に留まることを許されないお方だ」

彼の弟子はそう言い、先程までの誇らしげな様子とは打って変わって、まるで少年のように鼻を啜り、少しばかりの感傷を堪えて師の答えを待った。男は珍しく、言葉に迷っているようだった。困ったように、しかしそれに反して少しばかり嬉しそうに、彼は惑い、それから雨垂れ式にゆっくりと言葉を繋いだ。

「君は賢いと、そう思っていました──ずっと──しかしそれ以上だった。だから──名残惜しかったのですよ」
「7年もの間、私を見守ってくださった。そのような義理は何もないのに」
旧い友人との約束でした。彼は誰も傷つけるつもりがなかった。あの街に君しか生き残りはいなかったのです。それだけのことなんですよ」
「傷を癒やし、言葉を教え、私をこの街に導いて、賢者に引き合わせてくださいました」

もう十分なのです。ほんの少しもそう思っていないような調子で、青年は言った。

「師は私をたすけてくださいました。もはや死ぬばかりだった私を──しかし、それももうお終いです。アデプトは私を一人前と認めました。私はもう独りで生きてゆけます」
「心苦しいですよ、マシアハ。本当です」
「そう思っていただけるのなら満足です。貴方について行けたらどんなに良かったか、」

もし男の流離譚へ招待してもらえたのなら──ほんの少しの下心をもって青年は言いかけた。しかし直ぐにそれを飲み込んだ。瞬きするほどの間だけ、師の顔貌に過ぎ去った深い悲しみと憂いの表情が、彼に最後までそれを言い終えるのをすんでのところで思いとどまらせた。

それから暫く、2人は黙っていた。ゆっくりと陽が落ちてきていた。新市街の市壁が閉じることを告げる鐘の音が、遠く盆地を抜けていくのが聞こえてきた。

「君は何を成し遂げたいのですか、マシアハ」

不意に男が聞いた。その瞳は暗がりに隠れて見えなかった。青年は師の意図を図りかね、少しだけ首を傾げた。

「真実を見つけたいのです。この世界の理が、どのようになっているか」
「何のために?」
「わかりません、師よ。私は……何故なのかが知りたい」
「理由ですか」
「そうです。神と魔法……信仰と智慧。それから意志。そうしたものがありながら、この世界はあまりにも……」
「苦しい?」
「いいえ」

驚いたような気配が伝わってきた。青年は奇妙に感じた──師がこれほど感情を顕わにするのは、初めて出逢った日以来のことのように思えた。

「苦しくはありません。少なくとも、生にはいくらかの喜びがあります。ですが、それは容易く失われるのです。だから、私は納得したい。理由が知りたいのです。神の法理を、真実を見つけたいのです。そうすれば……」

そうすれば、我が姉は報われるでしょうか。

再び沈黙が訪れ、それが続いた。陽はますます翳り、洞窟の中はほとんど何も見えなかった。ざらりと砂を踏む音がして、青年は胡坐をかいたまま、いつの間にか俯いていた顔を上げようとした。

「そのまま」

穏やかな声に言われるまま、彼は再び俯いた。ゆっくりと、奇妙に肌をざわつかせる気配が彼の頭上にあり、ほんの一瞬だけ、何か硬質な存在が彼に触れたように思えた。

「私にこのような言葉を口にする資格があるのかどうか、今でも迷っています。しかし、いま伝えねばきっと後悔するでしょう。ですから、君に……いえ、貴方に。いつか安息のときが訪れるように」

祈っていますよ、マシアハ。

頭上からの深く、沈み込むような声を聞き、もう一度皮膚の上に重みが乗った。弱々しく波打つようなその感触が錯覚か否かしばし迷い、そして突然訪れた奇妙なほどの静けさに驚いて、彼ははっとして立ち上がった。

洞窟には何の気配もない。

呆然とクリスチアンは立ち尽くしていた。背後からの風が彼の逆立った髪を撫で付けた。岩屋の扉の役目を果たしていた毛織物はどこかに消えていた。月の光が緩やかに壁の穴から差し込んで、主のいなくなった洞窟の、苔の1本も生えない岩壁を黒々と映し出していた。

静寂。

弱々しい啜り泣きがほんの少しの間だけ響き、すぐに消えた。

黒い煙が立ち上る。一筋、二筋、三筋と空に、汚らわしい階梯を付けていく。

盆地の底から見える空が暗色に染まっていくさまを、工房脇の船着き場に佇む錬金術師はじっと見つめていた。彼の手は節くれだっていて、金属蒸気に焼けた皮膚は荒れ、背筋は少しばかり曲がっていた。

「クリスチアン先生、こちらでしたか! お急ぎください。皆が待っています」

そう言いに来たのはまだ口髭も生えていない年頃の浅黒い山岳の民族徒弟で、疲労に息を切らしていた。錬金術師の視線は彼の長衣の袖口に目を留めた。焼け焦げ、煤が付いている。

「その袖。旧市街でも死体を焼いたのか」
「モスクにはもう置いておけず、先生にお教えいただいた通りに処置しました。火葬を嫌うコプトの傭兵たちが街に戻らないうちにやらねばと……」

そう言って少年は目を逸らした。見てきたものを信じたくないというように。

始まりはチュニスの商人の間に広まった、災厄の予言に関するなんでもない噂話だった。誰もがそれを聞き流し、ただの流言と笑い飛ばした。

今や病魔がフェズを、否、サイス平野のすべての街を襲っていた。南では旱魃と蝗害が農民を苦しめていた。砂嵐が頻繁に海岸沿いの交易路を覆い、アトラス山脈には雨が降らなかった。当代の王は手をこまねいており、人々は弱り困窮して、フェズは荒れ果てる一方だった。

街から出ていく人々は、船に乗って川を下ろうとした。交易路には野盗が溢れており、街の医師のもとへ辿り着く前に斃れた病人の躯が点々として、とても安全とはいえないからだ。

クリスチアンもまた、街を去らねばならない身の上だった。

「アデプトはなんと」
「聖者廟を守るとお誓いになりました。病や不和、無理解と戦うと。既に"道"は閉じられ、鍵もまた移送されております。私とカシムは"道"の案内書をアレキサンドリアに届けるようにと仰せつかりました。先生は如何されますか? 導師の皆様は、貴方も脱出なさるべきだと言っています」
「できることなら残りたいさ。研鑽の道はまだ終わっていないし、それに」
「それに?」

少年のあどけない顔は険しく歪んでいた。それは非難というよりは、単純に恐怖と不安が入り混じった、危機に瀕した獣の防御反応のようだった。実際、病魔に侵された都市がどれほど危険な場所か、この数年で誰もが思い知っていた。こういうとき、異教徒やユダヤ人、皮革職人、神秘学者、それから錬金術師はまっさきに追求の的になり、広場に吊るされると相場が決まっているのだった。

「私は……」

錬金術師は振り返り、主のいない岩屋を見た。まだ黒死病がフェズに上陸していなかった頃、王の命令で川幅を広げるために岸壁が削り取られたので、洞窟は半ば以上野晒しになって丈の高い草に覆われていた。

そこに誰かがいた痕跡はもはや存在しなかった。

わあっという喚声が新市街の向こう、市壁の方から聞こえてきた。地鳴りのような揺れと共に、堅い金属の触れ合う音が一斉に鳴り響く。門が開かれたに違いなかった。

「傭兵団が戻ります!」

少年は腰が引けており、顔は恐怖に青ざめていた。クリスチアンは小さく息を吐き、工房に視線を戻した。師が去ってからも引き払うに忍びなく、長きにわたってそのままに保っておいた場所。

どうやら、潮時のようだった。

足を進め、工房の戸口に立つ。頭上にある野薔薇の花冠を取り上げると、それはあっけなく砕けて彼の手に収まった。

「行こう」
「先生、お早く」

少年に先導され、船着き場に降りる。船は既に溢れんばかりに雑多な人種を載せていて、今にももやい綱を解かれようとしていた。二人が飛び乗るなり、日に焼けた船員が乱暴に綱を引き外す。川の流れに押されるように、船はするりと進みだした。

「見てください、先生。街が……」
「ああ、燃えている」

フェズ川の両岸に広がる街は、砂の黄色と対照を成す黒と赤色に染まっていた。至るところから黒煙が吹き出す。病人を焼く煙だけではない。霊廟も聖堂もない場所から、次々と火の手が上がっていた。逃げ惑う人々の悲鳴が聞こえる。誰もが飢えに耐えきれず、ついに略奪が始まったのだ。

なぜ、こんなことが」

少年が嗚咽とともに漏らす声を、クリスチアンはぼんやりと聞く。

煙が上がる街を逃げ出すのは何度目だろうか。もはや遠い記憶の中にしかない生まれ故郷、少年時代を過ごした修道院、巡礼に入ったキプロス島、ダマスカスの都、ザマールの神殿。

そしてフェズ。船上でどよめきが伝播し、誰かが立ち上がって指差す先、新市街のひときわ建物の密集した一角から紅々と炎が吹き出して、高く天へと上っていく。その形状は南方で信仰される龍の神か、はたまた蛇のようにも見える。聖者廟が焼け落ちたのだ。

誰ともなく、船上の人々が祈りの聖句を唱え始める。アラビア語で、スペイン語で、トルコ語で、ギリシア語で、言葉は違えど、意味は同じだった。傍らの少年は泣きながら、ベルベル語の詩歌を口ずさんでいた。

祈らなくなった錬金術師は手のひらを眺めた。いつの間に握りしめていたのか、野薔薇の花はすっかり砕け散って、一片の花びらと小さな棘だけが残っていた。棘が手のひらを裂き、一筋の血が流れ出ていた。

師はなんと言っていただろうか? 出逢って間もない頃に聞いたことがある。明らかに人の身には過ぎた呪い、修道院で教え込まれた神の純粋な法理に背くその在り方について問うたとき、彼はなんと答えたのだったか?

「傷、忘却、喪失、死。不可避の変化。それは神の罰というよりは、むしろ……」

また新たな火の手が上がり、誰かの悲鳴が盆地に木霊す。滅びが近づいてくる。祈りの声は一層大きくなる。誰も彼もが己の神に縋り、救いの手を求め、平穏あれと願っている。だが、祈りが届くことはない。

何故なのか?

かつてと同じ疑問への答えが、今は漠然と、しかし確かにそこにある。

流れ出す血に指を浸して、手のひらに小さな十字を描いた。野薔薇の花びらが血に触れて、ゆっくりと黒く染まっていくのを、じっと座り込んで見つめていた。傷つくことすらできなくなった男のことを想いながら。

船が街を抜け、日が落ちるまで、彼はずっとそうしていた。

小さく、穏やかな気配を感じた。

温かい泥のような微睡みから、ゆっくりと意識が浮揚する。椅子の天板の堅い感触が、若くない骨身を軋ませる。部屋の中は暗く、冷え切っていた。手を伸ばし、卓上のランプを探り当てて覆いを取り払うと、橙色の柔らかな光が室内に長い影を作り出す。

「どなたかな?」
「起きたか」

ぱたりと小さな音がした。閉じた本をテーブルの上に置き、部屋の隅に座った灰色の男がこちらを見る。修道士のような長衣を羽織り、フードで顔を隠していた。

「長い夢を見ていた気がする。懐かしい夢を……名前を伺ってもいいかね?」
存在しない

特徴のない声で男は言い切った。錬金術師は眉をひそめた。

「貴方に伝言がある。ローゼンクロイツ氏」
「誰から?」
「アレキサンドリアの、大火に遭った霊廟からだ」
「記述者は」
「カシムと名乗った。隻腕の蛇だ」

老人は頷き、机のひきだし抽斗から替えのペン先を取り出した。"何者でもない"はもう一度本を開き、ページはひとりでに捲られて、ある見開きでふわりと止まった。灰色の男は読み始めたが、慣れていないのか、何度か同じ箇所を繰り返した。

「挨拶は省く。"手"は依頼されたとおりに、地中海のあらゆる場所を調べ尽くした。イベリアとローマには痕跡がなく、コンスタンティノープルでは数日ぶんの目撃談が得られた。トビリシ4から逃げてきた貴族が故郷でそれらしい男を見たと言っているが、そいつは間もなく黒死病で死んだ。チュニスより西は混乱していて、はっきりしたことがわからない」
「ペルシャ湾の東は?」
「お手上げだ」

男は本に栞を挟み、本は小刻みに振動して不平を述べた。

「東は混乱の只中にある。戦争が続き、悪疫と異教に脅かされている。"壊れずの王"の風聞すら信じられている。尋ね人の特徴からして、彼の地ではメカニトの注目を集めることは避けられない。場合によっては……」
「彼はそういったものに与することはないよ」

穏やかに、しかしはっきりと年老いた錬金術師は否定した。"何者でもない"は気に留めない風で、懐に本をしまい込んだ。

「であれば、何も言うことはない。いずれにせよ、結論は明白だ。青銅の男はどこにも見つからなかった」
「カシムに礼を言っておいてくれ」
「必要ない。死んだ」

クリスチアンは目を丸くし、思わず立ち上がった。それから首を振り、ゆっくりと、再び椅子に沈み込んだ。疲れ切ったような溜め息が漏れるのを、灰色の男は興味深げに見守った。

しばらく瞑目してから、老人は訊いた。

「殺されたのかね?」
「いいや。彼はもう60を越えていたから」
「そうか……」
「私からすると、貴方の方こそまだ死んでいないのはおかしな話に思える。このまま不死者になる気か? 錬金術師は皆不老不死を目指すのだろう」
「馬鹿を言うな」

少しだけ声を荒げ、それから老人はまた息を吐いた。何かを言おうとして、彼は何度か咳き込んだ。しまいに彼は服の裾で手を拭い、その部分は微かに赤く染まった。

「完全な人間は不老不死であるなど……思い上がりにも程がある。私はただ、真実を求めていた。神の力と人の肉体の接点、世界の法理。我々の誕生と喪失を説明しうるもの」
「そのために生きるのか? 百の齢を数えても?」
「106だ、正確には。しかしもうじき、それも終わる」
「旅の終着を寿ぐべきだろうな。自死か?」
「寿命だ」

摂理だとも。そう言って老人は笑った。

「間に合わなかったのだ。80年ばかりを研鑽に捧げたが、結局のところ、この時代にできることをやり尽くしてしまった。教会も皇帝も私を殺そうと探しているし、身体を保つのも限界だ。ここでお終いさ」
「言伝は必要か?」
「そういった相手はみな先に死んだよ。それに」

老人が指差す先、部屋の石壁には簡素な紋章が掲げられている。十字架に絡みついた野薔薇と、RCの2文字。老人の手のひらには黒ずんで掠れた彫り込みがあり、そこにも同じ意匠が踊っていた。

彼らが私の遺志を継ぎ、探求を果たす。彼らは今も世界に散り、人々に奉仕しつつ、社会に紛れている。いつの日か、私の探求の結果が彼らを通じてあの人の手にも渡るだろうさ」
「驚くべきことだ。蛇の友人であり不死者でもあるかの存在と直接面識がある人間など、誰も知らない」
「彼の話を聞きたいかね?」

年老いた錬金術師の口調に、そこだけ誇らしげな響きが混じったのを灰色の男は聞き逃さなかった。興味をそそられたように身を乗り出し、少し考え、それから男は首を振った。

「やめておこう。私は何者でもなく、何者かの事情に深入りすることもない」
「君も……いや、君たちも難儀だね」
「選択の結果だ。それでは、失礼する」

よい夜を。そう言うなり、男の影は薄くなり、やがて机の影と同化して、揺らめくように消え去った。

暫くの間、部屋の中に動くものはいなかった。ランプの灯りが揺らめくほかは、全くの静寂がその地下空間を支配していた。それから、クリスチアンはインクとペンを抽斗にしまい込み、代わりに小さな硝子の球を取り出した。丹念に磨かれた球体の中央に、乾ききった野薔薇の花びらが一枚閉じ込められているのを、彼はその白く靄がかかったような瞳を何度も眇めては確認した。

それから彼は頷いた。たった数分の会話にも老人は疲れ果てていた。寝床へ歩いて行くのすらも億劫げに、彼は伸びをし、それからふと、遥か昔の朧気な記憶に思いを馳せた。

彼はどんな顔をしていただろう? どこの訛りで話し、何が好きで、誰のことを語っていただろう。それらが全く曖昧な記憶の断片でしかないことに老人は腹を立てた。そしてすぐに、彼の最後に残した言葉、80年に渡る摩耗の中で唯一完全に憶えている言葉を反芻した。

いつか安息のときが訪れるように。

「今がその時です」

老人は呟いた。

「貴方のことを思い返すときです。私の栄光の日々。私は幸福のうちに死にます。貴方に感謝して死ぬ。傷つくこと、忘れること、失うこと、死ぬこと。全ては私たちに許されている。それは権利だ。神がそれを許し、私たちに与えたのです。しかし……」

ぎこちなく弱々しい青銅の掌の感触を思い出し、彼は項垂れた。

「貴方は何も許されず、持たなかったのですね」

一筋の涙が老人の頬をこぼれ落ち、硝子球を伝って落ちていった。

そして老人は眠った。おそらくは永遠に。

それが彼に、人間に、すべての命あるものに許された権利だった。

おお主よ、何故にかれを罰し給うのか


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ソース: Wikimedia Commons
ライセンス: パブリックドメイン

タイトル: The black death in London
著作権者: 不明
公開年: 2015
補足: islandsmasterislandsmasterにより縮小加工


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