蒼天ニ銃ヲ把リ

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青空は少しだけ傾いて見え、西の端に一条の飛行機雲を戴いて、水蒸気に薄っすらと濁っていた。

あの日はどうだっただろうかと想う。そのころ、私は浅黒い肌を陽光に晒し、冷水を争うように呑む男だった。幾ら走ろうとも足は前に伸び、臓腑は痛むことを知らず、眼は遥か空を往く銀翼を捉えた。心の在り様もまたそれに似て、皇国の赫赫たる戦果を信じ、大東亜の誇り高い正義を信じ、朋友の華々しき帰還を信じた。

ある夏の日。そして、黒黒とした銃口が私を覗き込み、ひきがね引鉄の重さに私は泣いていた。

暑い日だったのを憶えている。








行く手はきゅうじょう宮城なのだと誰かが言った。私はそれを馬鹿者めと笑い、誰もが続いた。隊長だけが口を真一文字に結んでいた。彼はいつだって笑わない男で、隊首会の宴席でもただ俯いて器を干すと聞いていた。だから私は皆の緊張を解す積もりで、揺れる貨車の荷台で黙したまま軍刀を抱えている彼にこう訊いたのだ。

「こんな朝方に、総出でどこへ出向くのですか。参拝ですか」

そんなことを聞いたのは、数日前からアメリカ米国の新型爆弾が呉の工廠を破壊したという噂が立ち、若年兵が狼狽えていたためであった。彼はいつもどおり黙っていたが、私がそろそろ後悔して引き下がろうかというところで、崩れるようににやりと笑った。普段の寡黙で実直な彼の様子とはあまりに異なるその表情に私は恐懼し、そんな私に構いもせず、異様に締まりのない顔のまま、彼は掠れた声で私にだけ聞こえるような小声で言った。

「いまに解る」

彼は嘘を言わないことで有名で、実際その通りに貨車は随分な行程の末、日比谷の空襲で焼けた通りに進んだ。第一生命館の裏手に幾つか貨車が停まって、見覚えのある顔が整列していた。奇妙にも、みな銃を提げていた──東部軍の軍令で、われわれは士官用の拳銃を除いて銃器の類を帯びぬよう謂われている。裏門を守る歩哨は平時の倍の8人に増えていて、界隈は異様な雰囲気に包まれていた。

「気を付けッ」

号令が飛び、私は慌てて先頭に並んだ。支隊の長を拝命したのはつい先日のことで、満州から帰還する予定の隊に輸送船の都合がつかず、下士官が足りぬゆえの臨時の措置であった。幸いにも支隊に跳ねっ返りは居らず、私は内心で感謝した。今も靴紐を結び忘れ、小突き回されているのは隣の支隊の兵であった。

「敬礼ッ」

次の号令の後、私は敬礼しながらも瞠目せざるを得なかった。第一生命館の裏門から悠々と出てきた男には見憶えがあった。男の名前を私は知らなかったが、その醜悪な、滴り落ちる泥水のような顔貌を見間違えようもない。曾て一度だけ、私は彼と出会ったことがあった。3年ほど前、満州出征を祝しての壮行会の席。大勢のお供を付き従えて現れた男は朋友には声を掛けたものの、終ぞ私に目を向けることはなかった。おそらくはそれで良かったろう。

問題は男が、おそらくは我々の首魁であるか、それに近しい立場にあるということであった。

葦舟中佐、こちらへ」
「いやあ、失敗したな。あの爺、乗ってくる気配もない」
「如何しますか」
「日比谷を抑えても何にもならんさ。城はどうだ」
「妙なことになっています。通信も何も応答がなく、伝令も帰りません。近衛は……」
「動かんよ。もう一隊差し向けろ。私は戻る」
「電報は?」
「不要だ。人をやって木戸にも戻らせる」

男が足取り軽く我々の前を通り過ぎ、補佐役の士官を伴って車に乗り込むのを私は直立不動のまま眺めていた。何やら奇異な状況にあることが察せられた。道行く人々の我々に注ぐ視線は、どうにも出立前とは異なっているようであった。密やかなざわめきが、遠い蝉の声や正午の炎の如き陽射しよりも、訳もなく私を苛立たせた。

何かが起きているように思えた。取り返しのつかない何か。


大手門には向かわない。いぬい門から入り、陛下のお側に控える。そう淡々と隊長が言ったとき、これは東部軍の裁可を仰いだのだろうかとふと考えた。水筒に手を付ける暇もなく、貨車の荷台でごく短い行軍は過ぎる。支隊の兵は浮ついていた。多くのものはこれほど近くに宮城を見たことがないのだ。無邪気に眼を煌めかせる彼らに対比するように、隊長は俯いたままだった。

不思議なほどに人気は少なく、横目に過ぎた平川門にも衛兵の姿は見られなかった。正体のわからぬ焦燥感があり、かといって宮城の只中で小銃を握るわけにもいかず、私は手の震えを武者震いと思うことにした。

「ついたぞーッ」
「隊長殿、第8支隊の姿が見えません!」

自転車で先行していた伝令が声高に叫んだ。彼は顔を上げず、私は仕方なくの一番に貨車を下りた。確かに、乾門に兵士の姿はなかった──衛兵詰所は空っぽで、部隊の銅製五ツ星紋どころか、黄色飛蝶、近衛師団の桜葉付き星すらも見えなかった。

不気味な沈黙があった。誰もが戸惑っていた。結局の所、ここにきて皆が自信を失くしていた。我々は何をするのですか、と隣の支隊の者が言い、平素であれば罵声と拳が飛ぶところを、誰もが狼狽してお互いを見つめ合っていた。

「行くぞ」

それだけ言って、隊長は門に踏み入り、先の空襲で焼け落ちた明治宮殿のある方向に向かって礼すらしなかった。上官の不敬なやり口に鼻白んだ様子の支隊長らが隊員に敬礼の号を発するのを、彼は只一人門の内側で、あの崩れたような奇怪な薄笑いで眺めていた。私はどうにも気が急いていて、南側に向かっておざなりに頭を下げる素振りをし、8人の部下を引き連れて門を潜ろうとした。

「貴様の隊はここで待て。そうじょう騒擾があるやもしれん、退路を確保しろ」

私にとってその言葉は救いであったが、部下たちにとっては違った意味があるようだった。ある二等兵が隊長に食って掛かり、即座に支隊の副長に殴り倒されたが、その副長も悔しげであった。一兵卒が陛下の御寝所をお守りすることができるという望外の慶挙にあって、梯子を外されたように感ずるのは無理もないことだろう。動揺する彼らの姿を見て取って、隊長はおもむろに腰のホルスター拳銃嚢を外し、無言で中身ごと私に押し付けた。私が本来は支隊を持てぬ年次であることを気遣ってのことと思われたので、私は黙って頭を下げた。

誇らしげな笑みを浮かべた同輩たちが、宮城に踏み入ることのできない哀れな僚兵への揶揄の言葉を投げながら隊伍を成し、早足で門の奥の乾通りに消えていくのを見送ると、我々は静寂に取り残された。風のない昼下がり、亀のようにのろのろとした動きで門脇の土嚢を引き出し簡易陣地を組む。消えた近衛兵の行く先も分からず、何故我々が宮城にいるのかも判然としなかった。

今になって思えば、隊長は何かを察していたのだろう。暑さのせいではなく流れ続ける汗の原因に不意に気づき、私は怖気が背を駆け巡るのを感じていた。

蝉の声がない。鬱蒼とした木々に取り巻かれた宮城の只中にありながら、蟲どもはぴたりと鳴き止んでいる。


数十分が過ぎた。誰も時計を見ておらず、また見ようという気も起きなかったので、それは実際には僅かに数分の出来事であったかもしれない。

陛下の御座す神聖な城が、これほど気味の悪い場所であるとは誰しも思わなかったであろう。汗まみれの顔を見合わせて、我々は待つより他になかった。そのことに私は安堵していたが、兵は焦れていた。

先程の二等兵が再び入城を主張し、少しばかり揉め事になった。誰も門を通ることがないので、彼らも声を憚るということがない。今からでも御所の隊列に加わるべきだと譲らない二等兵に3名が同調し、彼らは静止を振り切って門閾を跨ぎ、乾通りに踏み入った。

異変は彼らが3歩目を数えたときに起き、そのときには彼らを止めようとした者も含め、私以外の全員が門の中にいた。

ぐげ、という声とも唸りともつかぬ音が漏れ、誰もがそちらを見た。先頭を切っていた二等兵は右足を前に出したまま固まり、その首は奇妙に捻じ曲がって、洞穴を抜ける風音のごとくひゅうひゅうと息が漏れていた。数秒の後にはそれも消え、下半身の躍動的な姿勢をそのままに両腕ががくりと落ち、そのまま横に倒れ伏して動かなくなった。

その次は彼の肩に手を掛けんとしていた上等兵で、手足を痙攣させながら引っくり返って泡を吹いた。次は上等兵の足を掴んでいた副長で、見る間に顔が青紫に染まり、苦悶の表情で息絶えた。門の奥側に居た者から順に、恐るべき速度で何か目に見えぬものが近寄り、彼らを害していくのを私はあんぐりと口を開けて見ていた。

ふと気付けば、私以外に立っている者は誰もいなかった。風の音も蟲の声もなく、私自身のか細い息の他には、刺し入るような静寂だけがあった。それは耐え難い苦痛のように感じられた。つい先程までそこにあった命が喪われていた。滝のような汗とともに平衡を司る器官が耳奥から流れ出しているように思えた。己が伏しているのかまだ立っているのかも曖昧だった。

「入らぬのか?」

その声は嘲るようであり、ただ疑問を述べるようでもあった。それは人というにはあまりにも異様で、私の背丈の半分にも満たぬ矮躯から複数の干涸らびた腕を伸ばし、傾いた頸からは腐臭のする液体が垂れ落ち、眼窩には溶け崩れた眼球が揺らめいていた。それが何時から其処に居たのか、私には判然としなかった。門の向こう側で、それは私に向かって腕の1本を伸ばしていた。長い長い髪がずるりと抜け落ち、砂利道に落ちる前に霞と消えた。

「誰だ」
とよくもの

やっと捻り出したすいか誰何の問いに、それは鷹揚に応えた。辺りには淀んだ堀があるだけで川もないのに、微かな水音と吹き付けるような湿気が肌に感じられた。

「其処に居てはならん」
「何故」
「其処は許しを得ねば立ち入れない」
「確かに、確かに。そのようであるな」

それはどこか可笑しげに頷いた。私は斃れたはずの兵たちが何処かに消えていることに気づき、次いで門の向こう側の景色が異様であることを知った。私の目に映る乾通りはどこまでも続いており、左手にあるはずの北はねばし桔橋門はどこにも見えなかった。空には厚く白い雲が掛かり、冷たい風が足元から吹いてくる。

それが人ならざるものであることに、漸く私は気がついた。

「入らぬのか?」

それはもう一度聞いた。私は震えながら拳銃を抜いた。それから視線を外すことは取り返しがつかぬ結果を招くように思われた。それに銃弾があたるとは到底思えなかったが、私は軍刀を提げてはいなかったし、なによりそれに一歩でも近寄るということ自体が、臆病な私にとって形容できぬほどの恐怖だった。

熱病にかかったように身体を震わせながら拳銃を構える私を、それが如何なるものと見たのかはわからない。

ただ、それは静かに一歩を下がり、途端に門の向こうに雨が降り始めた。深い淵の匂いがした。土砂降りの雨の中でそれの足元から無数の軍服姿の人影が立ち上がり、多くは身体が異様に捻じれていた。最前列の人影は顔の右半分が無くなっていたが、左目と口元は残っていて、崩れたような締りのない笑みを浮かべていた。

暫くの間、それらはただ立っていた。やがて踵を返し、雨の中へ消えていく。それらは一言も発さず、私も何も言わなかった。見開き続けた眼に汗が入り、痛みで歪む視界の中で、薄笑いのままの口元が僅かに動いて見えた。


おまえがさいごだ。

唐突に雨が上がり、そこには何事もなかったかのような乾通りの砂利道があった。蝉の声が降り注ぎ、生温い風が吹き抜けていく。門の彼方にも此方にも誰も居なかった。私以外の誰も。血の一滴も汗の一滴もなく、叫び声も足音もなかった。

唐突に何事かを叫び散らしたい衝動に駆られ、しかし喉からは何の形ある音も発せられず、代わりに情けないほどに小さい嗚咽が漏れた。獣のように呻きながら、私は拳銃を己の額に突きつけた。細く開いた筒先を見詰めながら、左手で銃把を逆手に握り込み、右の親指を引鉄に当てる。そうして土嚢の陰に座り込み、蹲って泣いた。声を殺して、子供のように、わけもわからずひたすらに泣いた。

銃口は黒黒として私を覗き込み、引鉄は重く指を締め付ける。

暑い日のことだった。








いま、私は皺の寄った肌を陽光に晒し、生温い水を静かに浴びている。

黄疸の浮いた皮膚に感じる熱は鈍く、衰えた喉はものを通すことすら危うい。足は前にも後ろにも進まず、内臓は腫瘍に蝕まれ、視界は白く霞んでいる。多くを知り、理想は潰えた。今となっては曾てのような熱狂は望むべくもない。

それでもなおここに来たのは、老いての妄執か、若き日の残り火か。

どちらにせよ、決めたことなのだ。

昔よく朋友と互いにしたように、頭から水筒の水を被る。あの男は元気にしているだろうか。満州で俘虜になったとの報があり、それ以降の消息は杳として知れぬ。それでもなお、彼は生きているとの確信があった。人の命は百幾つなどでは終らぬと意気軒昂に語っていた姿を懐かしく思い出す。

呼びかける人の声が耳に届いた。70年前のあの日とは打って変わって、乾門の警備は厳重だ。警官が2人、詰所から出て此方に近づいてきている。頻りに手を振っている様子は、私を心配しているのだろうか。

何も知らぬ彼らに迷惑を掛けることを内心で侘びた。縁石に腰を下ろし、懐から油紙の包みを取り出す。

男たちの驚愕する気配が伝わってくる。


私は再び、黒黒とした銃口を見ている。

引鉄は曾てと同じように重い。

涙を流すことはなかった。

わたしがさいごだ。


その日もまた、暑い日だった。



負号部隊 扶桑紀 tale-jp 久能尚史 五行結社



ページ情報

執筆者: islandsmaster
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最終更新: 03 Jan 2023 15:27
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著作権者: StockSnap
公開年: 2015
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