穴蔵に降りる
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そこは薄暗い空間で、静かで、埃が溜まっていて、黴臭く陰気な場所だった。岡山県にかつて存在していた工業地帯の多くは度重なる不景気に耐えきれず、今やほとんどの工場が操業を停止している。放棄された精銅所のいくつかはアートハウスに作り変えられたが、ここはそうなっていなかった。

いさなぎあかね日奉茜は鼻を鳴らした。思っていたよりも大きな音が響き、彼女は眉を上げた。風変わりなアーティストたちにすら見捨てられた山奥の廃墟を、彼女は慎重に歩いた。打ち捨てられた積込み場の土埃が堆積した床面を通り越し、崩れかけた管理人事務所の扉まで行き着いたとき、何者かが彼女のスラックスの裾を控えめに引いた。僅かな驚きをもって彼女はゆっくりと振り返り、それから下を向いた。

それは背の低い中年男性をそのまま頭から縮めたような小人で、体長はおおよそ15センチメートルというところだった。眉をハの字に下げた、どこか愛嬌のある皺だらけの顔。赤い前掛けには白抜きの刺繍で「網」と記されていた。うっかりしてそれを踏みつけないように、茜は苦労してゆっくりと脚を退けた。

「よう」少し考えて、茜は声をかけた。「婆さんは元気か?」小人は2度頷いて、それから懐を探った。ボタンや鍵や大粒の豆や何か小動物の尻尾とともにこぼれ出した小さな──それからしてみれば中々の大きさの──紙切れが目当てのものだった。小人は誇らしげにそれを掲げ、茜は狭い通路でどうにか腰を屈めてそれを受け取った。みるみるうちに紙片は四方に伸びて、立派な便箋に変化した。ほのかな山の気配。茜はもう一度鼻を鳴らした。この埃にまみれた場所で開封するのは躊躇われた。彼女の嗅覚はこの場所では少々敏感に過ぎて、先程から彼女はマスクを忘れてきたことを後悔していた。

「返信はいるのか?」また小人は2度頷いた。「そうか」茜の差し出した手のひらに小人は飛び乗った。間近で見れば確かに小父さんと思えないこともないが、怪異の年齢など当てにならない。コートのポケットに小人を滑り込ませ、便箋を片手に彼女は事務所の扉のノブに手をかけた。アルミ製の扉は大げさに軋みながら開き、黴の生えた書類の散乱する狭い部屋が目の前に広がった。思わず舌打ちをして彼女は息を止め、扉を閉めた。蝶番に控えめに肘打ちを2度、3度。扉はぶるりと震えた。「いい加減に起きろ」彼女は低い声で囁いて、それからまたノブを捻り込んだ。

今度はうまくいった。開いた扉の先に汚らしい事務所の饐えた臭気はなく、波打つポータルが微かに差し込む日差しを取り込んでうねるように煌めいた。彼女は数日前に見た景色、遠方から眺めた瀬戸内海に反射する陽光の輝きを連想し、一瞬だけ立ち止まった。それから躊躇なく光の渦の中に突入した。うすら寒い廃墟の空気は消え、僅かな油と人の汗の匂いが彼女の鼻を掠めた。そこで彼女は便箋を持っていない方の手でハンカチを取り出して、自慢の鼻を覆うことにした。

空間の薄い被膜が彼女の肌に纏わり付き、数秒のうちに破れて泡のように消えた。僅かな反発があり、彼女は一歩を踏み出したところで立ち止まって、敏感な嗅覚細胞を守るためにゆっくりと慎重に息を吸った。

彼女の前に地下空間があった。広大で、臭くて、猥雑で、無節操な都市が。それは積層構造で、遠雷のような響きを含んで、無数の小さな光の群れを内包し、暗がりにぼんやりと、しかし明確に存在していた。

「ただいま」彼女は呟いて、それからまた歩き出した。穴蔵のざわめきがすぐに彼女を飲み込んで、その僅かな気配を懐に隠した。

2020年5月1日

09:25:40 UTC+9

日本国

中国地方 "穴蔵"

そこは少々混み合った裏路地で、そしてそれ以上に無秩序だった。南一八区は名目上、この謎めいたポケット宇宙の、現実世界における岡山県と兵庫県の境界地域に対応する場所に存在しているとされていたが、住人の誰もそんなことは信じていない。好き勝手な増改築とポータルの開設によって度重なる干渉を受けた空間は、それ自体が奇妙な匂いを発していた。少なくとも茜には分かる程度に、その路地はまだ黴に食い荒らされていない古書の匂いがした。

目印の街灯は相変わらず捻じくれた枯木のように見え、高い位置にあるうろの中に紫色の鬼火を閉じ込めていた。辺りに紫の明かりはここだけで、他はみな黄色か橙色、たまに蛍光灯じみた白色があり、これは外のことを思い起こさせるというので大層不評だった。"穴熊"の物好きな囲い手たちの交換努力に抗って自然増殖する白色灯が茜は割合に好きだったが、仲間内でも彼女の意見は少数派だった。

紫の炎が落とす影が長く伸び、奇妙に膨れて歪んだ路地の壁面の、レンガとモルタルのこぶの後ろにあるアルミ製の銘板を覆い隠している。この銘板がいつからあるのか彼女は知らなかったが、それがまるで近年の工業製品のような見た目でありながら、作成されてから2世紀が経っているということは知っていた。

辺りを見渡し、鼻から息を吸って、茜は無作法な追跡者がいないことを確かめた。軽いノック。銘板は震えた。『香り立つもの』銘板が囁き、眉を上げて茜は考えた。そんな合言葉あったか? 答えは数秒後に記憶の奥底からやってきた。「黒七味」彼女は小さく呟き、銘板は見る間に巨大化して、彼女一人が通れるだけのアルミ製の扉に早変わりした。30分前に通ってきた扉と同じ見た目のそれを彼女は開き、暗がりに身を投じ、素早く後ろ手に扉を閉めた。

古臭い白熱電球に照らされた扉だらけの通路を彼女は足早に歩いた。等間隔の電球が吊るされた真っ直ぐな廊下がどこまでも続いている。ここで過去少なくとも4人の遭難者が出ていたが、彼女の一派は未だにこの場所を使い続けている。右手にある11番目の引き戸の鴨居の上に木板が出ていて、流麗な朱色の筆で"使用中"と記されていた。引き戸を勢いよく引き開けて彼女は中に入り、そして今度は向き直って注意深く扉を閉めた。

今度はもう異次元に迷い込む心配はなかった。そこは間違いなく彼女の隠れ家で、玄関の土間には明かりが付き、3組の靴が上がり框の来客用靴箱に入っていた。僅かに煙草の匂いがして茜は顔を顰め、それから自分の靴を脇の家人用靴箱に収めて廊下に上がった。

古民家を現代風に改装したような雰囲気の台所にはまだ湯気を立てている急須があり、誰かが来客の応対をしているに違いなかった。音を立てないよう心持ち静かに手洗いとうがいを済ませ、茜は自分用と小人用に日本茶を淹れることにした。彼女が茶葉を探している間、小人は安全を悟ってかダイニングの椅子に掛けたコートから脱出し、木目が浮き出たテーブルの上に胡座をかいて彼の宝物を整理しているようだった。

「ちくしょう、切らしてる。こんなことなら茶葉も買ってくるんだった。出涸らしでいいか?」小人は控えめに頷いた。湯が沸くまでの間に山からの便りを確認しようと椅子に腰を下ろし、茜は改めて便箋を取り出した。ふわりと漂うどこか懐かしい匂い。遠野の山奥に座す遠縁の親戚は、この時勢にあっても有形無形の干渉を退けて未だに健在のようだった。

どんな内容だろう? 以前は保護区の中ですまあとふぉんぎがを使えるようにしたいという相談を受けて辟易したのだけれど、その後は少しばかりその手のことに詳しい連中が来たと聞いている。今までのように西国妖怪の脱出の斡旋なら請け負ってもいいが、それ以上は余程の急事でもない限りはお断りだ。こっちだって別に慈善事業でやってるわけじゃなし、世相に疎い連中を身内に抱えて苦労しているのも同じなのだ。

未だにダイヤル式の黒電話を手放さない同僚の研儀官たちのことを想起しながら封を切る。肌にぴりりと伝わる僅かな感触は宛先鑑別の呪いだろうか。


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