夢に濁りて

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10 June, 2013

06:11:22 UTC-4

ベネズエラ・ボリバル共和国

タチラ州 サンタ・クルス

ギリアン・オリベイラは背を丸めて、青色のテントの中で縮こまっていた。気温は10℃を割っていた。チョコレート入りのコーヒーは冷えた身体を温めてくれたが、排水基準規制が一段と厳しくなった中、共同の洗い場で汚れたカップを洗うことを考えて、彼は少し憂鬱になった。

控えめに手を叩く音がして、彼はのっそりとテントから這い出した。同僚のレイランドが腕組みをして立っていた。彼女のコートは朝露で濡れていて、胸元の紅い目をしたイエネコの刺繍はほつれかけていた。

「どうした? こんな朝早くから」
「招集よ。ようやく進入許可が下りたの」
「進入許可」

ギリアンは鸚鵡返しに呟いた。湿った冷気が斜面を滑り落ちてきて、キャンプの中を吹きすぎていった。身震いしてコーヒーを飲み干し、ギリアンはテントの中からバックパックを引き出した。テントと同じ青色のバックパックには、白地のゴシック体で"UN"の2字が染め抜かれていた。

「じゃあ仕事か」
「そうよ。私も、貴方も。先遣隊が帰還して、ルートの算段が立ったから」
「気が進まないな。ここは寒すぎるし、俺たちにはカネがないし、上司は口うるさい」
「どこも同じよ、この大陸じゃあね」

首を振って、彼はバックパックを背負い直した。いくらかの身支度があって、すぐに彼はほとんど完全なハイカーの装いになった。足元に投げ出されていた装具をつけ直し、レイランドもよく似た格好になった。
いくつかの違いがあるとすれば、ギリアンは全身に10箇所ばかり"UN"の文字を置いていたし、レイランドのそれは"HI"だった。どちらにも重要な意味があった。彼らはそれを背負えることをおおよそ誇りに思っていた──ギリアンにとってそれは重すぎる称号だったし、レイランドにとっては疑念と信念が等分されていたが。

「行きましょう」
「嫌だね、まったく」

彼らは歩きだし、狭いキャンプを通り抜け、苦心して高地のジャングルに切り開かれた補給用の大通りを歩いた。未舗装の路面は穴だらけで、そこら中に泥濘と水たまりが散らばっていた。足元を不快な液体で満たしながら2人は10分ほど歩き続け、珍しくテント以外のまともな建物がある平地に出た。

世界オカルト連合の司令部を兼ねたキャンプがそこにあった。物資集積所は司令部のプレハブ宿舎から危険なほど近くにあった──紛争地帯であれば有り得ない距離だったが、ここでは誰も気にしていなかった。この地に敵はいない。危険な異常生物も、悪意ある襲撃者も。せいぜいが病気持ちの蚊と毒ヘビ、それからジャガーくらいのものだった。
だからこそ彼らはここに来たのだが。

司令部施設に入る前、彼らはなんとはなしに空を見上げた。見上げた空は灰色に淀んでいて、それは幸運に思えた。
晴れた日であれば見えるはずだった。堕落の都市、地上にいられなくなった者たちの楽園が、天頂にあって太陽を遮り、極彩色の煙を撒き散らしているのが。


オルタナティブ・コロンビア

地球上で最も頽廃した、禁域の名前がそれだった。


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聖アレハンドロと夢占い師の問答

1 そしてアタブの占い師は、聖者を指して言った。2 "惑いの道は眠りに続いている。3 臥所に横たわり安らぎを得ることを拒むならば 4 王国もまた人を拒み、その門を閉ざして旅人に油壺を投げかけるであろう。" 5 これに応えて聖者はその3本に減じた指を掲げた。 6 "眠りとは地上の痛苦を憂いて与えられし薬であり 7 それは祝福であるがゆえに、たやすく用いてはならない。8 香木の煙による混沌が私に問いをもたらす。9 夢によってしるべを得るならば、それは常に名を持たぬゆえ 10 主の名において夢は検分され、饗されることはない。"


「何を熱心に読んでるんだい、シスター?」

お世辞にも乗り心地が良いとは言い難いバンの中。シビル・レイランドは不躾な声にあからさまな不快の表情を浮かべて──この地では明け透けさは美徳のひとつに数えられる──同乗者を見た。だらしなく緩めたネクタイと、同じくらいに緩んだ口元。趣味の悪いサングラス。胸元にクリップ留めされた身分証には、世界一嫌われている猛禽がその翼を無神経に掲げていた。

「聖句を真面目に解釈する手合には見えない。CIA?」
「生憎とその反対でね。俺はFBI」
「なんだ、Uselessいらんこか」
「厭な呼び名を知ってやがるな、お嬢ちゃん。しかも古い」
「イニシアチブは古きを尊ぶ。貴方のお仲間にはいい思い出がないの」

レイランドは携帯端末を掲げ、画面を男に見せてやった。戯画化され、同時に発展解釈された聖句の羅列。ユニバーサルテキストの抽象性を、捜査官は眼を丸くして眺めた。どうやら基礎的なラテン語の素養はあるらしかった。

「こいつがあんたらの言うHoly Book教科書ってやつか。初めて見た」
「任務にあたって部外者への開陳も許可されているわ。そうでなければ頼まれたってお断り」
「ははあ。なんだか知らないが、随分と嫌われているな。仲間が何か無礼を働いたかよ?」
「無礼というより無法かしら? 北米の"羊飼い"は誰だって政府が嫌いよ。ロイド=セッションズ法の制定からこっち、貴方たちはどこにいたって平気で教会のドアを蹴破るようになった」

捜査官は苦笑して頭を掻いた。男の右手の中指がないのをレイランドは知った。それはいかにも不釣り合いに思えた──この手の人間はいつだって誰かに中指を立てて生きているものだ。男は懐からIDカードを取り出した。少しだけ若く、目元と口端を紫色に腫らした男が写っていた。

ハンネス・ヴィラワイナー。UIU上級捜査官、専門は国際麻薬捜査。ここは2回めだ、残念ながら」
「シビル・レイランド。聖典を奉じるもの」

男は無傷の左手を差し出し、レイランドは少しだけ迷ってから握手に応じた。節くれだった指、手のひらのざらりとした質感、それからいくつかのたこ。少なくとも人を殴り慣れているのは確か。レイランドは素早く手を引っこ抜き、男はさして気にした風でもなかった。

それから2人は黙り込んだ。レイランドは聖句を前に精神統一に忙しかったし、男は携帯端末でどこかにメールを打っていた。男は何度か左手の特定の指を触った──つまりメールの送信先は妻か恋人か婚約者、あるいはその候補の誰かのはずだった。指輪を外している理由を聞こうとしてレイランドは失敗した。それより先にバンが止まったのだ。

運転席からオリベイラが顔を出した。彼の表情から2人はほぼ同時に予定外の事態の訪れを悟った。

「面倒なことになった。悪魔の群れだ」

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車列は完全に立ち往生していた。バンが3台と前後の装甲車が2台。UNブルーで染め上げられた車列を止めようと試みる連中は、隣国を突然失って経済難に喘ぐ今のベネズエラには皆無のはずだった。そう、人間の住人なら。

「デーモンが何だってこんな場所に? 国境までまだ13マイルある」
「風で流れてきたんだそうだ。何だったか……そう、緑色の靄と一緒に」
ゼピュロス西風の瘴魔か、面倒な」
「街道の窪みに吹き溜まってる。200ヤードも離れてない、マスクをつけるべきだ」

軍人たちがガスマスクを配り始める。バンの運転手もライフルを脇に置いた軍人に交代し、幾人かが新たに後部座席に乗り込んできた。お払い箱になった運転手の一人であるオリベイラは、ハンネスの隣で所在なさげに視線を宙に彷徨わせている。

「きみの力で悪魔を祓ったりできないのか?」
「できるならもうやってる。連中は弱いけど、この辺りじゃ無限に湧いて出るの」
「だろうな。連中の纏う霧は依存性がある、ここいらの住民は風を読んで高台に引き上げたとさ」
「国境までずっと下りでしょう? 霧が引くまで待つのかしら」
「さあね、ゴックスの隊長が決めるだろう。国境のククタはどっちにしろ麻薬漬けだそうだから、今のうちにマスクに慣れろってことじゃないのか」

肩を竦めて、オリベイラはGPS端末を操作する。青色のヘルメットの下にガスマスクをつけた軍人が追加の荷物をバンに積み込み始め、レイランドはオリベイラと運転席の間に押し込まれた。レイランドの金髪が振り乱され、オリベイラは気まずげに何度か咳払いをし、FBI捜査官は意地悪げに笑っていた。

「これを見ろ。ここはラ・ムレラの郊外、標高は……あー、4000フィート。ククタのサイト-720の地上部分は標高たったの1100フィートだ、公式資料によれば」
「頭の先まで麻薬にどっぷりってわけだ。コロンビアの大気を瓶詰めしただけで北米じゃ規制薬物になるぜ」
「国ごと禁域指定されるわけね。それで、目張りされてないトヨタのバンで国境を越えるのが私たちのプランなのかしら? 今更引き返す手もないわよね」
「悪魔をタイヤで踏み潰していいのかわからないんだろう。連中に基本的人権ってのがあるかどうか、国際社会は決めかねてる。ゴックスならともかく、この車列は国連調査団の扱いだから……」
「シスター、やはりあんたの出番じゃないか? ソドムを糾弾する一節でも披露してくれよ。悪徳の街がどうなったか連中に講釈してやろう」
「悪魔より貴方を蹴り倒したほうが安息の日に近づきそうだわ」

レイランドが舌打ちしたその時、バンの壁が外側から3度叩かれた。車列は心なしか乱暴に発車した。レイランドは運転席越しに前を見た──緑色の霧が下り坂の前方にわだかまり、10フィートもあろうかという影がその向こうに揺らめいていた。

誰かが悲鳴のように何かを唱えるのが聞こえた。先頭の装甲車が加速し、フロントプレートから発された薄青色のオーラが陽光を受けて煌めいた。レイランドが瞬きする間に何かが起こったようだった。霧の向こうの影がこちらに向かって手を伸ばしたように感じた刹那、重い石を擦り合わせるような音が響き渡り、全身に小さな震えが波紋のように走った。

「シビル!」

オリベイラが押し付けてきた簡易マスクを慌てて被り、フィルターの被覆シールを引き剥がしたその時、車列は緑色の靄の只中に突入した。先頭の装甲車が何か太い柱状のものに激突し、一秒にも満たない停滞のあと、それを勢いよく弾き飛ばすのが見えた。極彩色に燃え上がりながらゆっくりと倒れていくそれの顔をレイランドは見ないようにした──視線を合わせるべきではないと咄嗟に理解したのだ。無我夢中の数秒が過ぎ、加速する車列の後方で、何かが倒れ込む重い音が遠く聞こえてきた。

吸い込んだ空気は微かに甘く、フィルターに仕込まれた岩塩の香りと入り混じって奇妙ないがらっぽさをもたらした。気を落ち着けようとして、レイランドは自分の両腕でオリベイラの眼を覆っていることに気付いた。彼は両腕を天井につかえさせるようにして、衝撃で彼女に伸し掛からないようにしているのだった。山道を下るバンは今も激しく揺れていて、緊張した彼の息遣いがすぐ近くにあった。

笑みを含んだ咳払いが反対側から聞こえ、幾分ずれたマスク越しにアメリカ人の揶揄の眼差しが彼女を突き刺した。フィルター越しに怒りと諦めを等分した溜息をついて、レイランドはバンの窓を布とダクトテープで被覆する仕事に取り掛かった。同乗する軍人たちは無口に作業を手伝ってくれたが、その視線には生暖かいものが混じっていた。

「逢瀬を邪魔してしまって悪いが、ここにいる皆が仕事をしに来てるってことは忘れないでほしいね、シスター?」

まるで車内の全員を代表するような口調でハンネスが言い、狭い車内で器用に肩を竦めてみせるポーズは彼によく似合っていた。レイランドは無言で無作法な隣人に肘鉄を食らわせた。オリベイラは黙って天井を仰いでいて、それがまた彼女には腹立たしかった。

10 June, 2013

10:48:13 UTC-5

国際連合信託統治領 コロンビア

ノルテ・デ・サンタンデール県 サンタ・テレサ

国境の街への1時間は、それほど愉快な旅ともいえなかった。急な坂を下るバンは頻繁に停車し、兵士たちは忙しなく沿道の倒木を撤去したり、側溝に岩塩を投げ入れたり、路面の劣化した退魔のシジル印章を描き直したりしていた。悪魔たちはほとんど現れなかったが、時たま風に乗って歌声が響いてきた。デヴィル、デヴィル、デヴィル……節も抑揚も適当なその声は、歌という文化を理解しているかも怪しかった。

国境の橋にある検問所は取り壊され、遮断機は機械ごと取り外されて道路脇に打ち捨てられていた。代わりに国連とGOCの紋章が色濃く印字された巨大なコンクリートの隔壁が、橋のベネズエラ側の入り口を包み込むように鎮座していた。隔壁の裏側からのっそりと現れたのは、頭部のシルエットが通常のそれと異なるとはいえ、間違いなくGOCのホワイトスーツ戦闘強化服に違いなかった──それがどれほど剣呑な存在かを、不幸にもレイランドはよく知っていた。

彼女の緊張とは裏腹に、車列と排撃班員の邂逅はほんの短時間で終わった。いくらかの事務的な申し送りの後、極地環境ユニットを背負ったホワイトスーツは手にした巨大な機関銃の筒先を下げ、車列の通行を妨げないよう数歩後ろに退いた。隔壁はゆっくりと、一同の想像に反して滑らかに無音でその口を開き、国境を越えることを許した。

橋を渡り、緑色の濃い靄に覆われた市街地を車列はゆっくりと進んだ。大通りの両脇の崩れかけた歩道に放棄された車が乗り上げて壁のようになり、即席のバリケードを作っていた。誰も側道に入るつもりはなかったので、ある種丁度よいのかもしれなかった。

不気味なほどに音のない街。誰も言葉を発さなかった。昼日中だというのに陽光すらも翳る都市で、ガスマスクに遮られ、僅かな甘い匂いを嗅ぎながら、誰もが塞ぎ込んでいた。

突然、喚き声と共に何かがバンの壁に激突し、硫黄と酸の臭気が直接鼻腔に突き込まれたように広がった。誰かが短い悲鳴を上げ、兵士たちが一斉にライフルの安全装置を外す音が車内で不気味なほど明確に響き渡った。

「外に出ないで!」

咄嗟に制止し、レイランドは素早く十字を切った。大抵の場合、神への祈りは短くて済む、特に彼女のようなものの場合には。目に見える形では奇跡も魔法も起こらなかったが、何人かの鋭敏な感覚を備えたものは、室内のべたついた空気が急速に清浄なものに置き換わるのを肌で感じていた。突然の恐怖は消え、身体に温かみが戻っていた。兵士たちは視線を交わし合い、それからゆっくりと頷いて、上げかけた腰を再び薄いシートの上に落ち着けた。

年老いた女のような喚き声は続いていたが、バンの壁にもう衝撃はなかった。意味を成さないスペイン語でがなり立てながら、何かが離れていくのを皆は聞いていた。いつの間にかバンは停止していて、オリベイラは運転席で硬直していた年若い兵士の肩を優しく叩き、任務を思い出させてやった。

数分が経ってから、ハンネスが座席からずり落ちかけた尻をはたきながら、上目遣いでレイランドに聞いた。

「ありゃ何だ、シスター?」
「私が知るわけないでしょう」
「へえ? だがアンタはやり方を知っているわけか」
「それはそうよ」

私はそのためにここに来たの。
呻くように言って、彼女は携帯端末を振ってみせる。端末の背には白黒の紋章があり、昇る太陽の中央に真実の眼が開かれている。今や世界中の教会が、彼らの威光を知っているのだ。

「夢の悪魔。盲目の悪魔。欲望の悪魔。ここにはそういうものが歩いてるの。私はイニシアチブの"羊飼い"よ、Agent捜査官? 貴方のような羊を導くためにここに招かれた」
「クソが。そいつらに手錠を嵌められるかどうか確かめるのが俺の仕事なんだ」
「貧乏籤じゃない、銃を撃つ許可もないってわけ」
「そこの若先生よりはいい。俺なら国連の使いっ走りは御免だね」

流し目を受け、オリベイラが緩慢に肩を竦めてみせる。肩にUNブルーの徽章を佩いた兵士たちが苦笑するが、ハンネスは腕を組んで傲然とふんぞり返っている。
彼なりのアイスブレイクのつもりなのだろうか? レイランドとオリベイラが顔を見合わせたとき、バンはごとりと音を立てて停車した。
運転席の兵士が振り返る。

「検疫です。ククタの第一ゲートに到着しました、降りてください」

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コバルトブルーに変化した太陽が、奇妙に蒼褪めた光を落とす。

薄靄に覆われた交差点は無数のコンクリートブロックで不格好に封鎖されていた。路面の舗装は途切れ、鉄条網と"竜の歯"──いわゆる対戦車障害物──の群れがアスファルトを捲り返した隙間に打ち込まれて、車輌の通行を妨げている。市街地に漂う青緑の霧は奇妙なほど晴れていて、どこか乾燥して張り詰めた気配が漂っていた。

広い一本道が中央に空いていて、開かれた二重隔壁の奥に続いていた。道脇の精肉店の看板は乱暴に塗り替えられ、錆の浮いた白地に財団のシンボルマークがのたくりながら張り付いている。鉄条網の向こう側をレイランドは努めて気にしないようにしていた。無造作に地面に突き刺さっているのは地雷原を示す赤髑髏の指標で、それが視界のずっと先まで、ククタの街を分断するように続いていた。

市街の中心部に突然現れた野戦陣地を前に国連の兵士たちが所在なげに立ち尽くす中を、その男は足早に歩いてきた。完全武装の財団機動部隊の一団を背後に引き連れて、前を開けた白衣には盾の紋章が織り込まれている。枯れたような黄色のスーツに同色のネクタイ、黒いシャツ。足元の編み上げブーツと腰のホルスターが、彼の研究者としてのスタイルを如実に表していた。

ドクター・シメリアン、ここの現場責任者だ」

男は手短に名乗った。男がガスマスクをしていないことをレイランドが訝しむうちに、いくつかのチェックリストが兵士たちの間を手渡しされ、物資と人員の安全検査が行われた。怪しげな文様で装飾された8インチ四方の箱が空中を不気味に浮遊していて、全員が一人ずつその下に立って5秒間待つように指示された。防護服姿の科学者たちはガスマスク越しに調査団の面々をまじまじと見つめては、手元のタブレット端末に無言で何事かを記入していく。

シメリアンが大きく手を叩く音で、奇妙に弛緩した申し送りの時間は唐突に終わった。

「さあ、こちらへ。もうじき正午だ」

重々しくシメリアンが言う。にわかに機動部隊の兵士たちが色めき立った。検査を終えたばかりの荷物が素早くバンに詰め込まれ、何事かを耳打ちされた調査団の指揮官が慌てた様子で部下たちを急かす。装甲車のエンジンに再び火が入り、財団職員たちは足早に安全通路へ退避する。

慌ただしく男たちが動き回る中を、3人の部外者は取り残されていた。くだけた調子の捜査官は手帳で首筋を扇ぎ、実直な学者は辺りを見渡して眉をひそめている。理由もなく不機嫌な聖職者はただ小さく首を傾げた。

「正午がなんだっていうのかしら」
「食堂が開くんじゃないか。きっとスペイン料理だ」
「貴方は黙っていることもできないのか?」

背後の言い争いを無視して立っていると、ふと頬筋に視線を感じた。振り向けば、シメリアンの視線はまっすぐレイランドに向いている。男のスーツの胸ポケットに引っ掛けられたクリアランスカードの数字が赤色であることに、彼女は初めて気がついた。レベル4。財団という集団における、権力の象徴。

男が重々しく口を開く。

「知りたいのか?」
「昼食の時間について?」
「なぜ正午を避けるのか、その理由」
「恐れているの?」
「私たちは知っているからだ。彼らが何をしているのかを」

そろそろだ、とだけ言ってシメリアンは身を翻す。いつの間にか背後の争いは不気味な沈黙に変わっていて、オリベイラもハンネスも、財団の博士とレイランドの会話を聞いていた。

「行きましょう」

2人に促して、レイランドはシメリアンの後を追う。車列はいつの間にか出発していた。広報警戒に残されていた財団の兵士たちが、警戒態勢を解くことなく最後尾に続く。さして長くもない距離を歩き、二重の隔壁を通り過ぎたあとも、その姿勢は崩れることがなかった。

轟音とともに隔壁が降りる。基地建屋の端がすぐそこに見えている。肌を細かく撫でる規則正しいEVEのピッチは何がしかの結界の存在を示す兆候だ。理性と信仰に依って立つ正常の息吹、人の営為がそこにある。すべての危険を通り過ぎた。もう安全だ、そう思えた。

歌が聞こえた。

10 June, 2013

12:00:00 UTC-5

国際連合信託統治領 コロンビア

ノルテ・デ・サンタンデール県 サイト-720

森の中で彼女が呼んでいる

小鳥と笛吹と一緒に風の音で囁く

西の森の生け垣の向こうには緑の煙の輪っかがあって

そこから小川に飛び込んで脳幹の内側の階段を上る

天国では何だって手に入るって彼女が言うんだ

そう、俺たちにはひとつしか道がない

だけど彼女のすべてが黄金よりも光り輝いているから

魂を支払い、天国への階段を手に入れよう

歌声は緑の煙だった。

少なくともレイランドにはそう感じ取れた。それは遠くから響いているようにも、耳のすぐ後ろで誰かが囁いているようにも聞こえた。誰も撞くはずのない鐘の音が確かに彼女には聞き取れた。数千、いやもっと多くの声なき呻き声が、明白な形となって彼女の脳に挿入された。それは明確な形をしていなかったが、しかし確実に、ひとつの共通のイメージを彼女に伝えていた。

天高く上る白の梯子。雲と光と祝福の階梯。笑い声。喜びと憧れ。純粋な感情のうねり。届かないものに伸ばした腕。

天国への階段?」
レッド・ツェッペリンが悪魔のお気に入りなのは確かだ」

半ば呆然と呟いた言葉に、シメリアンが静かに頷いた。

「まったく原曲に沿わない冒涜的改変だが、すべての単語はあの歌から取られている。オネイロイとして昇華され、置き去りになった肉体がああして歌うんだ。悪魔たちと一緒になって、雲の上の王国を呼んでいる」
「囚われたのは……」
「一時滞在者を含む全コロンビア市民、4395万人。誰一人天国に行けなくなった」

私は信じていないが、と付け加えた男の瞳は、今度はレイランドを見ていない。彼が見ているのは隔壁の向こう、霧烟るククタの街並みだ。サングラスの向こうで、僅かにその硬い表情が歪んでいる。

「私は赴任して2年になる。毎日、正午にこの歌を聞く。彼らが何を考え、なぜ歌うのか、誰も解明していない。これは間違いなく、我々がこれまで見てきた中で最大の悪夢ではないし、これから幾度となく見ることになるものだ」
「だから私たちを呼んだの?」
「世界は知る必要がある。この国で何が起きているのかを、明確に」

差し出された右手をレイランドは見た。それから数秒おいて、できるだけ勢いよくその手を握った。おそらく本業は研究者であろう男の、大きいが柔らかくたこのない手の感触を感じ、その熱を覚えておこうと思った。男も遠慮がちに握り返し、それから静かに振りほどいた。

オリベイラとハンネスが彼女の両脇に立っていた。偶然にかそれとも意図されてか、彼らは広場の真ん中に立っていて、隔壁の近くにいるほとんどの職員が、新入りと彼らの指揮官の会話を遠巻きにして眺めていた。シメリアンは僅かに眉を上げて状況への驚きを表明し、それから遠慮がちに咳払いをした。

「ようこそ、コロンビアへ」

彼らの最初の一日はそうして始まった。


1998 tale-jp シメリアン博士 異常事件課 境界線イニシアチブ 世界オカルト連合



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執筆者: islandsmaster
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最終更新: 03 Jul 2020 10:23
最終コメント: 19 May 2020 08:55 by islandsmaster

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