純粋距離
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汚い、と。そう思った。
流れ出る赤黒の液体に対し、最初に抱いた感想だった。

それが誰のもので、なぜ流されたのか、もう覚えていない。
誰か見知らぬ人のものか、知人や友人、親類縁者、あるいは自分の身体から?

どちらにせよ、抱く感覚は同じ。
同属の身体から流れ出す生命の根源は、ひどく汚らわしいものに思えて。

おそらくそれが最初の、自分と世間との隔絶だった。


奇妙な夢を見た気がした。

たぶん重要なことではないと思う。予知夢や正体不明な存在からの語りかけ、壮大なほのめかし、あるいは単純に酷い悪夢。そういったものはこの職業には付き物で、それを記憶する手段も忘却する手段も無数にある。
自分はそういった夢は見たことがない。

たぶん、これからも見ることはないだろう。

「おはようございます」

発声と同時に目を開ける。白い天井。
薄暗い室内で目を開けて、5分ほどじっと待っていた。
曖昧だった感覚が、肉体の外郭から中心へ向けて這い登ってくる。自分の肉体が脈動している。生きている感触がしている。
枕元の目覚まし時計に目をやる。午前4時20分きっかり。いつも通りの朝だ。

起き上がり、シャワーを浴びる。
熱湯は強張った筋肉を解し、全身に血流を行き渡らせる。その感覚自体は心地よいと言ってもいいだろう。
けれど、ふとした瞬間に気付くのだ。
顔を上げた先、浴室の鏡の中の自分。
白い髪。濡れた瞳。上気した頬。白色の肌の下に筋肉と血の桃色が透けて、きめ細かい表面を雫が伝う。
頭の天辺からつま先まで自分の肉体であるそれはどうしようもなく、

汚い。

「──────────、」

湯を止めて、静かに浴室を出た。
誰もいない部屋の中、淡々と身支度を済ませる。
服装はいつも通り。持ち物もいつも通り。部屋を出る前にベッドメイク、サイドデスクの埃を取って、洗面所のシンクをさっとひと拭き。
数年間かけて築き上げたルーチンワーク。身の回りの細やかな清掃を几帳面だと感嘆する人もいるが、自分はそうだとは思わない。単純に、こうしていないと精神が休まらないだけだ。
愛用の白手袋を嵌める。ドアノブを捻ればその先は常に未知の世界、素手で触れることは耐え難い。

人間は汚い。
理由などなにもない、ごく単純な感覚として、そういうものだと思っている。
いつからか自分はそうなってしまった。自分自身を含めた人間に対して、ひどく自然にそう感じていた。
人との接触を避け、関わり合いを嫌う。そして排斥され、遠巻きにされる。
潔癖症という病名は結局、何の免罪符にもならなかった。

だから、自分は──雨霧霧香は、あるとき財団が差し伸べてきた灰色の手を掴むことにした。
おそらく世界で最も理性的で、冷酷な組織の影の中。
それは自分にとって最上ではないにせよ、悪くはない選択だと思っている。

出勤の時間。遠くで響く雷鳴が、今日の天気を教えてくれた。
降り注ぐ雨は、血液よりは綺麗だろうか?
そんなことを考える自分には、きっとこの職場が合っている。


午前5時15分。
寮監室の窓を伝う雨粒をぼんやり眺めていた千日灯子は、ふと小さな足音を耳にした。

ざあざあと騒がしい雨音に掻き消されがちな規則正しい歩調。千日の類稀たぐいまれなる記憶力は、百人を超える入寮者の中から即座に該当する職員を見つけ出す。
偶然にも、千日がとても気に入っている職員だった。

こんな時間に出勤とは、また臨時シフトに入ったのだろうか? その職員の仕事は中々に特殊で、平時の勤務時間に加えて頻繁に早番や遅番の追加シフトがある。
これは労ってやらねば。数人の甘党職員のために、購買部から安く卸してもらった菓子類がカウンター下に常備されている。
右の掌に収まるだけ引っ掴んで、寮監室とラウンジの間を隔てるガラス戸をがらりと開けた。

「おはよう、雨霧ちゃん。もう出勤?」
「──おはようございます、千日さん。またしばらくこの時間だと思います」

人気のない早朝のラウンジ。薄暗がりの中、黒のスーツに白のロングヘアを垂らした女が振り返る。
目を細めた無感情な顔は実のところ普段のフラットな表情で、僅かに目元が垂れているのは眠気からか? 情動を感じさせない淡々とした喋り方も、よくよく聞いてみればほんの少しだけ間延びしている。
うむ、相変わらず可愛らしい。
ほとんどの職員から遠巻きに、腫れ物のように扱われているこの女性職員のことを、何故だか千日はとても気にかけているのだった。

「朝食も食べていけないのかあ。お腹空かない? 81JAの食堂はあんまり美味しくないでしょ」
「早番は購買部の弁当が支給されるので、問題ありません」
「そんなこと言っちゃって。職員の身体も財団の資源、朝の栄養補給は大事だよ」
「いえ、ですから81JAに着けば支給の……」

いいから、と手招きのジェスチャーで呼びつける。
小首を傾げて近付いてきた彼女の両手に嵌められた白手袋に、有無を言わさず菓子を押し付けた。

「………………あの、」
「いーから、持って行きなさいな。個包装菓子なら平気なのよね?」

彼女の潔癖症は寮監として承知している。
微妙に不機嫌そうに目を眇めるのは、甘党であることを隠そうとしているからだろうか?
そこかしこのカフェや休憩所で甘味を幸せそうに頬張っているのに、いまさら何にこだわっているのやら。
そのくせ、こちらが菓子を引っ込める素振りを見せると、ほんの少しだが慌てたような素振りで鞄に仕舞い込む。

「シャトルの中でそれ食べておけば、休憩時間まで保つでしょう? 血糖値が低いと良いことなしよ。雨霧ちゃんは自分の心と身体をもっと労るべきね」
「はあ。自分では最低限のケアはしているつもりなのですが」
「他から見れば大違いよ。自分磨きは大切なの。貴女自身のためにも──いずれ貴女が出会う、大切な誰かのためにもね」

気を付けて行ってらっしゃい、と話を締める。
呆れたように溜息をつきながらも、雨霧は行ってきますと手を振った。

ラウンジの向こうの玄関へ歩いていく彼女は、その白髪をほとんど揺らさない。おそらく寮を出てシャトルに乗り込んだ頃には、顔つきまで完全に仕事用のそれになっているだろう。
先程まで見せていた可愛げはあくまで私的な、それも長い付き合いの中で築いた信頼関係の中でのもの。ただ出勤するというだけで、財団職員の分厚い仮面が僅かばかりの私的な表情をも覆い隠す。

財団保安部門に属する上級調査官として、対外諜報活動に従事する内勤エージェント。
人事部門を通じて職員寮『ゆうなぎ』に提出された資料にはそうある。
それが真実でないことは、千日にも他の職員にもとっくに分かりきっているけれど。

だからこそ、気になってもいる。
いずれ出会う、大切な誰か───千日が揶揄や心配や、あるいはただの世間話としてこの手のフレーズを口にするとき、雨霧は必ずそれを否定してきた。
"そんな人、自分には存在しません"──それは彼女の決まり文句だ。

けれどここのところ1ヶ月ほど、彼女はその言葉を口にしない。
呆れた素振りを見せるだけ。否定も肯定もせず、その場を去るか、別の話題を口にするか。
それが意味するところは、

(ふうん、もしかして)

心中で頷く千日は、反射的に緩んだ口元を意識して引き締める。
恋愛か、それとも友情か。普通なら祝福するべきところだ。
それが財団職員でなければ、あるいは彼女でなければ、千日も喜んでそうしただろうけれど。

雨霧という人間にとって、果たしてそれは良いことなのか?

ざあざあと響く雨音は、お節介な寮監の心のざわめきと共鳴する。
無闇と気を揉む一日になりそうな予感がして、千日もまた溜息をついた。


午前7時20分。
護送車の助手席で、ジョシュア・アイランズは眠い目を擦る。

サイト-8100の外交官である彼にとって、ここ1ヶ月は困難の連続だった。
とにかく人手が足りなかったのだ。このところ、渉外部門は対外交渉が暗礁に乗り上げた事例──いわゆる炎上案件──を複数抱えていて、彼はその火消しに駆り出されていた。

アイランズは非異常の一般的な人類だ。
人種こそ日本支部で働く多くの職員たちと異なるが、国籍も言語も思考も感性も、無論のこと肉体の性質も、ごく普通の日本人のそれである。
少なくとも彼はそう自認しているし、多くの友人たちもおおよそ認めるところだ。

だがしかし恨めしいことに、どれほど疲弊しようとも、彼の身体は健康な一般人レベルの頑健さを保ち続けていた。財団の医師は「多少丈夫なだけで、間違いなく常人」「異常性は皆無」と太鼓判を押したが、何の慰めにもならない。
ともかく、疲労による落伍すら許されない連勤の果てに、彼はとある超常犯罪者の護送を以てようやく一日の自由を勝ち取ったのだった。

サイト-81JAは、勾留中の危険人物が多数収容される首都圏唯一の監獄サイトだ。
多くの要注意人物PoI要注意団体GoI関係者が収監されている──というのは財団内部における表向きの説明で、ここには財団内部の離反者や財団施設内で犯罪を犯した職員も勾留されているし、通常のサイトでは倫理的問題や職員側の精神的リスクから行えない各種の強化尋問が許可されている。

大型トレーラーをも収納可能な車両用エレベーターで護送車ごと地下へ降りてゆく。
轟音と共にエレベーターが停止する。僅かな揺れの後、分厚い合金製の隔壁が開き、ナビゲーターに進入路が示された。
ゆっくりと進む護送車が指定された位置に停止する。アイランズと運転手が車を降りると、ちょうど護送用のモジュールが取り外されていた。パッケージ化された荷台部分が天井部分に据え付けられた巨大なアームで取り外され、空中に吊り下げる形で速やかに移送されていく。

護送終了。後は担当者への挨拶と申し送り、資料の抜けがないかの相互確認が終われば業務終了だ。
顔馴染みの担当者が出勤するまで40分。仮眠を取るにも中途半端な時間だし、さりとてカフェテリアはまだ開いていない。

少し奥まった場所に高クリアランス職員向けの休憩室があったはずだ。そういえば朝食もまだだった。この時間なら誰もいないだろうし、コーヒーを淹れて残務処理でもしようか。
方々が軋む徹夜明けの身体を引きずって、囚人の脱走防止用にわざわざ迷路のごとく作られた殺風景な廊下を歩く。
ああ、ここだ──記憶を頼りに、まるで用務員室のように偽装されている扉を開けた。


「「あ、」」

声が重なった。

椅子に背筋を伸ばして座る、女性にしては高めのすらりとした背格好に黒いスーツ。
特徴的な白髪に白手袋。
最近何度もサイトで顔を合わせている調査官が──まるで別人のような笑顔で、大きく口を開けて、可愛らしい包装の小袋から取り出したマドレーヌを勢い良く頬張ったところだった。

おまけにしっかりと目が合った。

ほんの一瞬の、気まずい静寂。
できる限り迅速に、アイランズは目を伏せて視線を切りつつゆっくりと入室し、素早く後ろ手で扉を閉め、ごく平常な動作で一礼した。

「──おはようございます」
「…………」

ふわふわした焼き菓子を咥えたまま驚きで固まっている女性をどうしたものだろうか、一瞬真剣に思い悩む。
とはいえ、徹夜明けの脳はすぐに問題の処理を放棄した。

「すみません雨霧調査官、不注意でした。入室前にノックをすべきでした──しかしまずはそちらを召し上がられては」
「……………………おはようございます、アイランズ外交官。ノックは大事ですね」

促しに応えて焼き菓子を高速で、しかし滓ひとつ零さず食べきった調査官が氷のような無表情で挨拶する。
普段の淡白さが嘘のように怒気の籠もった声色が、見てはいけない場面を見たという事実を雄弁に突き付けてきた。
これはまずい。彼女は何度も一緒に仕事をしたことがある同僚だが、何故だか甘味を食べる姿を人に見られるのをひどく嫌うのだ。
さあどうする。ここは一旦謝罪し速やかに転進、撤退の後然るべきタイミングでお詫びの品を──

すみませんでした、と互いに頭を下げる。
脇に書類綴を挟んでいるところから察するに、彼女もまた業務の引き継ぎだろうか。
朝からとはまた大変なことだ。彼女の本来の業務を思えば、特に。

「最近、よくお会いしますね。いつもお仕事、お疲れさまです」

どうもこのところ、彼女とは職場でよく会うことになっている。渉外部門の外交の成否は彼女らの調査の仕事とも密接に関わるわけで、自分たちのような外交職が忙しくしていると当然彼女たちの業務も増える。中々代わりの利く仕事ではないし、消耗も増しているだろう。ただでさえ誤解されがちな職種なのだし、労いは必要だ。
そう思って声を掛けたのだが、返答がない。
はて、大抵はここでお世辞か同意が来るものだが──そう思うアイランズだったが、雨霧の感情の読み取れない白皙はまじまじと彼を見詰めていた。

「あの……何か、失礼を?」

無言で真正面からこちらを見据えられては、戸惑うしかない。
何か今、あるいはこれまでのどこかで粗相をしてしまったかと背筋が寒くなるところで、雨霧はゆるりと首を振った。

「特に問題はありません。………少し、驚いたので」
「ああ、申し訳ない。少しばかり気が急いていたようで──」
「いえ、違います。こんにちは。そちらこそお疲れさまです、アイランズさん。すみませんが、お話はまた後で」

急ぎの業務がありますので。
静かにそれだけ言って目を伏せ、するりと脇を抜けていく。
素早くはないが無駄のない身のこなしは、決してデスクワーカーのそれではなく。
去り際に白のロングヘアから漂う香りは、まるで病棟のよう──鼻腔を衝く尖った、消毒液の匂い。

思わず首を傾げながら、アイランズはその後姿を見送る。
何故だか、ほんの僅かに驚いたような彼女の表情が、ひどく印象に残っていた。


べしゃり、と音がした。
切り離された腕が落ちた音

「どうしましょうね、これ」

持ち上げる。落とす。持ち上げる。落とす。
繰り返す。先程までそれが繋がっていた人物の目と鼻の先で。椅子に拘束されたまま、涙と鼻水に塗れて呻く男の目の前で。

保安部門付きの上級調査官──その内実は拷問官
雨霧霧香という職員の、おそらくほとんどの財団職員に対して優位に立てる唯一の特殊技能だ。
ただ冷徹に体系化された、決定的な言葉を引出す枠組みとしての拷問技術。

「貴方、さっき言いましたよね。もう帰るところなどない、家族も仲間もいない。私は人の道を外れたのだ、って」

ゴム手袋を二重に着けた手で、丁寧に傷口をなぞる。止血を済ませた切断痕に薬剤のアンプルを突き刺し、神経に痛みを注入する。呻き声は全てモニタリングし、別室でその意味を解析されている。
切断箇所は予め、医師と相談して決めた。警官時代は射撃の名手として知られた彼の、最大の誇りである右腕だ。丁寧に折らなければならなかった。慎重に慎重に、熟慮を重ねて施術した。

拷問は技術だ。相手の精神を破綻させず、ただ心の防壁を突き崩し、仕舞い込まれた秘密を暴き立てる。そこに感情を入れる余地はない。同情や共感があってはならないし、快感や嗜虐心も不要だ。
この条件を満たせる人間はそう多くない。だから自分のような専門家が必要になる。

「とうにご存知だと思いますけれど、我々には優秀なチームがいます。貴方に家族がいないのは本当。けれど内々に迎えた養子がいましたね。随分と可愛がっている。隠し通せるわけもないのに、健気なものです」

椅子に拘束されたままびくりと痙攣し呻き続ける男を観察する。特殊尋問房の男からは死角になっている壁面にバイタルモニターが取り付けられ、男の心拍数の急上昇を告げている。今のところ、生存に問題はない。

いかに財団といえども自白剤は万能ではないし、記憶領域のスキャン技術は未発達だ。最終的に死んでも構わないがその前に情報がほしい、という相手がいる限り拷問には一定の需要がある。
この男もそういう存在だった。できることなら殺さずに情報を抜き取りたい手合い。

「遊びたい盛りのお子さんでしたね。本当に、可愛らしい──でも、良いんでしょうか。私たちは数分後には、彼をこの部屋に連れてこれるんです。貴方のこんな姿を見てしまったのでは、もう普通の暮らしは送れないでしょう」

バイタルグラフが跳ね上がる。
声にならない叫びが上がった。自殺防止のための拘束具は発声をも阻害する。時たま魔術師だの超能力者だのを相手にする身からすれば、声を縛るのは当然だ。
拷問官は対話をしない。最初から相手と意思疎通するつもりがないからだ──そう、外交官などと違って。

ふと、灰茶色の癖毛が特徴的なあの外交官のことを思い出す。
特事課といっただろうか、警察の超常セクションは随分とこの男の引き渡しを渋っていたらしい。元警官というなら彼らにとっては身内同然だ、そうもなるだろう。アイランズも大分骨を折ったようだ。
心底から申し訳なさそうにしていた彼の表情を思い出す。目の下に随分大きな隈ができていた。体調は大丈夫だろうか? 渉外部門は激務だと聞く。先程はろくに挨拶もできなかったが、きちんと労うべきだったろうか。

そんなふうに脳裏で思考しながらも、両手は計算された通りの痛みを拘束された男の肉体に送り込んでいく。
精神と肉体の両面で対象を責め苛み、抵抗する力を奪い去る。拷問から逃れるために嘘の情報を吐かれるようでは本末転倒だ。確実に、相手の思考を支配しなければならない。

「ねえ、貴方のお仲間たちは強情です。頑張って耐えています。けれど皆が皆、痛みに耐えられるわけじゃないんです。楽になることを選んだ人もいる──これはその人の漏らした一言の、単なる確認作業でしかないんです。私としては、貴方にもぜひ、もう一度息子さんに会える道を選んでほしいんですけれど」

この男が何を企んで、どんな結果としてこんな姿になっているのか、実のところ自分はよく知らない。知る必要も特に感じない。痛めつけ、言葉を引き出すためのキーワードがあれば事足りる。さして興味を惹かれはしない。

そればかりか、自分は大抵の人間に興味が持てないのだ。人と触れ合うということは、大抵の場合は苦痛にしかならない。
この仕事だって例外ではない。映画の中に出てくるような、殴ったり蹴ったり電気コードや浴槽を使う古臭い拷問は不可能だ。血が肌に付くことすら我慢ならない。手術着めいたゴム製の装具で全身を覆う拷問官の正装に何度感謝したことか。

「さあて…………」

元警官は中々に強情だ。どうも何かしらの異常技術で痛覚耐性を付与されているらしい。言葉は聞こえているし、子供の話題で随分揺さぶれた。あと一手、痛み以外の感覚が必要かもしれない。
率直に言って面倒だ。特に時間指定は受けていないけれど、仕事は早めに終わらせるに限る。

(それに、まだサイトにいるなら、彼に一度しっかり挨拶しないといけません)

お疲れさまです、なんて。純粋に、含むところなく言われたのは久しぶりのことだった。
部署の同僚たちの間にやり取りはほとんどないし、拷問官にわざわざ声を掛けるサイト職員はほぼ皆無だ。
特に自分から他人と仲良くしようという欲求はない。けれども、向けられた好意や謝意には適度な返礼をしようと思う程度には、自分にだって社会性が残っている。

(また後で、なんて柄にもないことを言ってしまいましたし────?)


唐突な違和感。

目の前の仕事と、この後の私用。2つに分割していた思考が、急速にひとつに纏まっていく。
拘束された男が何かを呟いている。いや、言葉は出ていない。音節として区切られてもいない呻き声を垂れ流している。先程からずっとそうだ。しかし、何かがおかしい。
男の背後のバイタルモニターが奇妙な反応を示していた。心拍数の変化。グラフ化された脈拍パターンが一定の波形を取る。脳の活性度を示す脳波の3次元投影モデルが、脳機能の急速な不活性化を報告する。同時に男の眼前、机の上の右腕がぶるりと震える。

一瞬後、警報が鳴り響いた。

『管制室より13号特殊尋問房! すぐにセーフゾーンまで退避しろ! 対象から強力なアスペクト放射を確認した、そいつは──変身者タイプ・イエローだ!』

その声が聞こえるのとほとんど同時に、男の全身が椅子に拘束されたままぶくぶくと膨れ上がり、右肩の切断面から伸びた数百本の血管が机の上の腕を飲み込んだ。発声防止用のマウスピースが砕け散り、肉食獣の咆哮に割れたマイクのエコーを被せたような叫びが響き渡る。強化繊維製の拘束帯が溶けるようにして千切れ、膨らみ続ける異形は狭い房の中で立ち上がろうと藻掻き──

非常訓練で何度も繰り返した動作のとおりに身体が動いた。
全身の力を込めて振り下ろした消防用の手斧を、背後から男の剥き出しの首筋に叩き込む。
何か堅いものを砕く感触が腕に伝わった。獣のような姿に変わり拘束を脱そうとしていた巨体が、脊髄を砕かれて凍りついたように動きを止める。
緊急終了手順C-31。上手くいっただろうか? 疑問しつつもとにかく距離を取ろうとした、その瞬間。

ぶつりという音とともに、膨張した血管が弾け飛び。
バケツの中身をぶちまけたように、真紅の雨が降り注いできた。


「────おや、お邪魔だったかな?」

八家尋問官の薄笑いはことによるとサイト管理官からカフェテリアの清掃員まで、81JAのすべての人員に嫌われており、殊更彼に隔意を抱いていない人物はそれこそ自分くらいしかいないのかもしれない。

その自分をもってしても、セーフゾーンの片隅でうずくまり頭の天辺から消毒液を被って体の芯にわだかまる悪寒を噛み殺しているときに、その情景を余裕ぶって十数秒も眺めた末に掛けられた第一声がこれでは同僚の人間性を真剣に疑わざるを得なかった。

「…………八家さんは本当に人間として重要なものが欠けていますね」
「ありがたいことに、この職種においてはあまり社会性が必要とされない。ところで、君もわたしと似た者同士では?」
「今は手が離せないので、しばらく放っておいて欲しいのですが」
「そうなのか? 無駄足だったな。折角朗報を持ってきてやったのに」

綺麗な歯並び以外に美点が存在しないという触れ込みはいよいよ本当らしい。にんまりと笑って、八家は懐から取り出したメモを開いた。
あれは達成感の表明なのだろうか、若干ながら弾むような、気色の悪い動きで目を通す。

「私の担当はすんなりアノマリーの居場所を吐いたよ。渉外部門の火消し役はいい仕事をしたな、お陰で楽ができた」

最も弱い人間を的確に連れてきてくれた、と笑う。
その得意げな顔でおおよその展開が読めた。要するに、計画通りに事は済んだのだ。

元警官が人外だったのは誰にとっても予想外だったが、彼が喋らないのは織り込み済み。
本当に喋らせたかったのは──今日アイランズが連れてきた、もう一人の証人だ。

「自白剤を使う必要すらなかった。隣の部屋で拷問の音声を聴かせて、君が喋れば彼を開放する、と。それだけで済んだ。やはり仲間の命を対価に乗せるのが最も早いな、仲間を救うという大義名分があれば罪悪感なく吐き出してくれる」
「結局イエローは終了してしまいましたが、良かったんでしょうか」
「上からは特段何も言われていない。もし子供の件で口を滑らせてくれれば儲けものという程度だったんだろう。この件はこれでおしまいだ」

まさかそれだけを言いに来たのだろうか。であれば早く自室に帰ってほしい。
ぼんやりとそう思っていると、ああそうだ、とわざとらしく八家は両手を合わせた。

「ひどい潔癖症だというのに全身血塗れ、メディカルチェックで昼の予定が消し飛んだであろう哀れな部下を労る必要があると思ってね。こんなものを持ってきてやった」

気味の悪い笑顔で差し出された半券にはサイト購買部の判子が捺され、簡素な文体でこう書かれている。
ランチタイム限定パフェ1個無料券──サイト-81JA、1階カフェテリア。

「甘味好きを隠し通したいならカフェテリアなど使わないことだ。筒抜けだよ」

鼻で笑う上司に向かって空の消毒液のボトルを投げつける。
視界の隅で、時計が12時を指していた。


午後3時を回ろうとしていた。
体力的にはともかく、気力が限界だ。殺風景な廊下を足早に進む。

メディカルチェックは散々というほかなかった。獣変調した変身者の危険性や血液経由の感染症についてサイトの医師は猛烈な小言を並べ立て、薬と一緒に数日間の経過観察を言い渡してきた。

気分は最悪だ。念入りにシャワーを浴びて全身の消毒も済ませたけれど、まだ身体にあの生温かい血の感触がへばり付いているように思える。
地上1階、非業務区画のカフェテリア。ランチタイムの終わる寸前、最も人の少ない時間帯。
元より職員の少ない監獄サイトである。この時間に訪れれば、誰にも目撃されることはない。

「138番、苺とさくらんぼの限定パフェひとつ。クリーム多めで」
「はいよ」

性悪上司が渡してきた引換券に頼るのは腹立たしいが、それよりも精神的苦痛が勝った。
この悪寒を乗り越えて勤務を続けるには、甘味で心を癒やすしかない。
潔癖症というわりに、他人の手で作られているはずのパフェを何とも思わず口にできるのは何故なんだろう? ぼんやりと考えながらカウンターで待つ。

「どうぞ」
「ありがとうございます」

ふわりと甘い香りが伝わってくる、クリームがこれでもかと盛られた期間限定品のパフェの偉容。
さあ、どうやって攻略してやろうか?



雨島尊いって言わせたい

プロット

ここから

申し送りを終えたアイランズが通りかかる
思わず呼び止める→自分で困惑する

一緒にパフェを食べる!
[たぶんお互いの仕事について当たり障りのないこと話したりするので話題は後で考える]

最後になんか上手いこと言ってアイランズが先に席を立つ
たぶん応神が呼びに来たか何か?
応神が雨霧を揶揄する(雨霧の人事ファイルの交流記録を使う)のにアイランズが反論
素敵な人でしたよ、みたいなことを言って応神に不審がられる

残された雨霧、いつの間にか血の感触が消えていることに気付く
たぶん甘味のせいでしょうね
仕事に戻りつつ、気分が上向いていることに困惑
結局その後はちゃんと仕事できたし上機嫌だった(拷問はした)(怖い!)

千日視点で寮へと帰宅
「自分磨きって、どうするんですか?」→アイランズは外交官なので、自分を立派に見せるよう努力するのも仕事なんです~的なことを話したと思われる
千日の驚愕と微笑ましい会話

オチ

夜の寮監室、千日と人事局員の会話。
千日の状況報告に、人事側からお見合い企画(という名の、重要機密に関わる職員の離反を防ぐための内部婚姻促進計画)を聞かされる
雨霧がその対象者であることを聞かされてキレる千日
それでも自分の職務のために感情を抑え込む
「彼女が幸せになれるなら、それでいいの」

吹上の悪ふざけと機密保持のための内部婚促進を兼ねた企画、月下氷人委員会
委員会実行部門からの通達に対し、それぞれの上司からやんわりと参加を命じられた2人。
ふと名簿に目を通し、2人は見知った名前を見つける。

あ、と2人が声を漏らし、お互いの名前を指でなぞる所で締め。

やりたいこと

アイランズと雨霧のスタンスの違いをはっきり出す

歩み寄れなくても仲良くなれないわけじゃないことを示す

月下氷人委員会ってなんだよ!というやつの説明

拷問官ってなにしてんの?

甘党設定同士一緒に甘味を食べてほしいだけの人生だった


独自設定

雨霧霧香について

黒いスーツに真っ白な手袋、白髪のロングヘア。冷静沈着で(特に職務中は)冷酷。精神汚染に対する強い耐性を有するが、その実は単に精神力で耐えているらしい。

拷問官(著者ページより)。実情はともかくおおっぴらに拷問官を名乗ってると対外的にヤバそうなので、たぶん表向きは調査官とかそういう呼ばれ方。内部の職員しかいない時は普通に拷問官と言われる。

尋問拷問が職務なのに潔癖症→ここメッチャ好きな要素、ぜひ使いたい

千日寮監にとても可愛がられており、本人も心を許し甘えている。その一方、千日は内部保安部門による職員監視プログラムに従事していて、多くのGoIに関する機密情報を知る雨霧を密かに監視している(完全独自設定)。情が移りまくっているが、監視任務はしっかりこなす模様。雨霧は気付いていない。

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