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暗闇の中、オイルランプの揺らめく光に照らされて奇怪な紋様が浮き上がる。魚鱗のように荒々しく削り取られた岩盤とその裂条を覆い隠す水苔の群生、壁に一体化して艶めくかつての巨大建造物の残滓──そしてそれらの混交した瓦礫の上には大きな背嚢を背負った一人の少年と、彼の背丈には不釣り合いな巨体のシルエット。
「──じゃあ、これまで地上との連絡を試みて、成功した人はいないんだね」
横穴の中、ソラが天井を見上げて呟いた。中層外縁部、大ウツロから射す日差しも集落の数少ない電灯の明かりも届かないこの極寒の領域には、まともな人間は近づかない。もっとも、地下にはまともでない人間や、人間ではない存在が溢れているのだが。
「だから言っただろ。地上に行くなんて無茶だって」
「聞いたよ。だけど、これを着て挑んだ人はいないんじゃない?」
ソラが胸を張ると、関節の駆動音が微かに響いた。暗い横穴の中、肌に食い込む背嚢の肩紐をずらしながら、タイヨウは隣のソラを見上げる。腰に吊るされたランプの光が、白を基調としたその巨躯を暗色の岩肌に投影する。
機械をもう一度着込んだソラの姿は生身のときとはまるで違っていた。大柄な大人くらいの背丈で太い胴体と平べったい四肢。首から頭にかけての前側の装甲──バイザーと呼んでいた──を外しているので、首無しの巨人のように見え、なんとも奇妙な外見だ。
「まさか、組み立てたらまた動くなんて」
「分解可能なモジュール式だもの。流石にゴックスのコピー品だけあって頑丈だよ」
「ゴ……いや、うん。とにかく、それを着ていれば地上に行ける?」
「どうかな。降下時のログを見る限り、かなり厳しいことになりそうだけど。そもそも内蔵アンカーが死んでるし、センサーも半分はおかしくなってるし、役に立つのはパワーアシストくらい」
「えーと、まずは修理しないと、ってことかな」
「そういうこと。バッテリーにも限りがあるしね」
相変わらずソラの話す地上の単語は半分も理解できないが、概ね何が言いたいかは分かるようになってきた。足元から忍び寄る冷気に顔をしかめながら、タイヨウは静かに吐息する。
ソラが目を覚まして半日。地下のことを色々と知りたがる少女を宥めすかしてなんとか寝させ、機械屋行きの準備を整えて、夜明けを待って二人は出発した。タイヨウは分解された機械を二人で運ぶつもりでいたのだが、ソラはあっという間に部品の様々な場所からケーブルを引き出して組み立て直し、アームスーツなる鎧を完成させた。
そこから先は、スーツの異形のシルエットを住民に目撃されないように、タイヨウの土地勘を最大限活かす必要があった。上層で売るための物資を背嚢いっぱいに詰めている上、道中で地下世界の説明をするたびにソラが目を輝かせて根掘り葉掘り尋ねてくることもあって、少年はすっかり疲弊していた。
とはいえ、集落を抜けてしばらく歩いた先、周辺住民すらほとんど近寄らないこの横穴で腰を下ろしているのには休憩だけではない理由がある。そろそろ時間かと顔を上げた矢先、首筋をざわりと撫でる不気味な気配──ソラに"静かに"と身振り手振りで伝え、タイヨウは横穴を通り過ぎる風の音に耳を澄ませる。しばらくして予感が確信に変わったとき、ソラが小さく驚きの声を上げた。
「え、この音──!?」
「黙って、気づかれる!」
慌ててソラが口を覆い、金属どうしが擦れ合う耳障りな音とともに、両耳を突き刺す悲鳴と震動が二人のすぐ近くを突き抜けていく。巨大ななにかの気配──それなりの厚さの岩盤によって隔てられているにもかかわらず、空気が僅かに熱し、腐敗した肉と機械油と焼けた鉄の臭いが鼻を突く。背筋が粟立つこの不快な圧迫感は、いつになっても慣れることはない。
接近は僅か数十秒。轟音が遠く下方に去り、深く息を吐くタイヨウに、ソラが興奮と困惑が入り混じった表情で声をかける。
「ねえ、あれが、さっき言ってた」
「うん。デンシャ」
地下で最も恐るべき存在、線路の支配者にして頂点捕食者。数多の人間を喰い殺し、あるいは轢き殺してきた、人間を含むすべての地下の生命にとっての天敵。地下生まれの少年はその恐ろしさを言葉の限りを尽くして説明したのだが、地上人の少女は下らない冗談だと思っていたようだった。今、この瞬間までは。
"だから言っただろう"という言外の非難の込められた視線に気がついて、ソラが小さく口を尖らせる。
「デンシャ、電車……こんな名前、悪い冗談だと思うしかないじゃない。こんな風になってる地下で電車が走ってて、人を食べるなんて言われても、すぐには信じられないよ」
「信じなければ食われるだけだよ。今だって、このまま線路に出たら君は死んでた」
「わかったってば──うわあ、空間ヒューム値が急上昇してる。それにあの震動と熱量、もし本当に自律行動する生物なら、確実にアノマリー指定級……」
「よくわからないけど、出くわしたら終わりだ。こうやって上手くやり過ごすしかない」
さあ行こう、とタイヨウは背嚢を引き上げて歩き出し、ソラが周囲を気にしながらその脇に並ぶ。しばらく進むと横穴は唐突に右に折れ、すぐに終わりを迎えていた。出口には墨と廃油で黒く染めた布が掛けられていて、申し訳程度に入り口の場所を隠蔽している。先にタイヨウが外に出る──広々とした空間に、先程通過した存在が残した僅かな熱が溶けている。
「本当に線路がある……」
「そりゃ駅なんだから、線路はあるさ。当然だろ」
そうじゃなくて、と呟くソラに、タイヨウは首を傾げることしかできない。どうもソラのいう『電車』や『線路』とタイヨウの知るそれには大きな違いがあるようなのだが、それを追求する時間はなかった。何しろ広い地下世界において、線路上は最も危険な領域のひとつなのだ。
「覚えてるよね──線路の壁に沿って歩く。横穴や逃げ濠の場所をいつも確認。叫び声が聞こえたらすぐに逃げ込む」
「わかってる。デンシャの通る時間は決まってるから、隠れながら進むんだよね」
「たまに"逸れ"がいて、あいつらはダイヤを無視するんだけどね。だから誰もここは使いたがらない」
じゃあ急ごう──レールと枕木を乗り越えて、二人は早足で歩き出す。ソラはまだ左足を庇っているようで、スーツを着込んでいてもなお、歩幅に少し乱れがあった。砕石だらけの線路を素早く移動するのはまだ無理なのだろう。少しでも足場の良い場所へ彼女を誘導しつつ、タイヨウは改めてここまでの道筋と、これから取るべき行動を整理する。
前提として、中層の内側から上層に行く通路はいくつかある。タイヨウだけなら、カケアミの技で縄を伝って大ウツロから登ることもできる。しかしソラを連れて、それも大きくて重いスーツを伴ってという条件では話が別だ。各層間の通路は手作業で掘られた小さく長いもので、スーツは絶対に通れない。また入口と出口でそれぞれ通行料を取られるため、ソラの風体や分解されたスーツを見られれば、途方もない額を吹っ掛けられる可能性が高かった。
まともな住人なら絶対に使わない危険な場所──線路を通れば人目につくことはない。線路はデンシャの領域だが、彼らは個体ごとに決まったダイヤがあり、正確に時間通りに動く。線路内には自然の洞窟を拡張した横穴や退避壕がいくつも掘られており、このあたりを縄張りにするデンシャのダイヤから逆算してやり過ごしつつ進んでいけば、いずれ上層の端に辿り着くはずだった。とはいえ今回が最初の遭遇で、あと最低3回は同じようにデンシャを避けなければならず、時間の余裕はあまりない。
「足、大丈夫? もう少しで次の横穴がある。痛むなら念のため、次のデンシャが通るまでそこで待つことにしよう」
「ううん、まだ平気。心配してくれてありがと」
「……別に」
足音とスーツの関節の僅かな駆動音が、トンネルに反響して不気味に拡散する。タイヨウは内心で驚いていた。普段は滅多に通らない、必要があるときは一人で震えながら走り抜ける、恐ろしく肌寒い広大な線路。しかし足音が一つ多いだけで、ひどく心強く感じられた。勿論、恐怖心はある──しかし少なくとも今、彼は震えていない。初めての経験だった。
歩く、歩く。左足の痛みを忘れるためか、それとも単なる好奇心ゆえか、時折ソラが質問を投げる。地下の暮らしについて、線路について、デンシャについて。知りうる限りの知識でそれに応えつつ、少しだけ歩を緩めて、また戻して。それを繰り返し、そろそろ次のデンシャをやり過ごすために横穴を探そうと考え始めた頃だった。
「タイヨウ、何かいる」
「え?」
「サーモに反応が──ええっと、人影がある。200メートルくらい前。脇の逃げ濠から出てきた。何人もいる」
こんな暗い場所だし、他にも人がいると安心するね──ソラが屈託のない笑みを浮かべるが、傍らの少年の表情があからさまに曇っているのを見て取り、その花咲くような笑顔に陰りが生じる。
「タイヨウ?」
「……全部で何人か、わかる? あと、何か持ってるかな」
「うーんと、センサーに映ってるのは……8人。奥にもう少しいるかもね。装備は形からしてナタやシャベル、それに鉄パイプとか。大型の武器や車両はないし、別に危険は──」
「……もしかすると、まずいかも」
事情を理解していないソラが呆気に取られる一方、タイヨウは心中で警戒度を一段階上げる。線路に大きなトロッコや台車を持ち込んでいる連中は基本的に安全だ──狭い手掘りのトンネルでは運べない大きな機械や物資を輸送している行商人や駅付きの戦士団で、護衛の機嫌を損ねなければ問題ない。だが無手や軽装備の集団は危険だ。そもそも線路はまともな人間が行き交う場所ではなく、事情があって人目を避ける人間や駅に入れないお尋ね者が、命を捨てて通る場所なのだから。
「近付いてくるよ。どうする? 隠れる?」
「もうランプの明かりを見られた。今更隠れても遅いし……出稼ぎ帰りの中層民かもしれない。あいつらならこんな浅い場所で揉め事は起こさないよ。気をつけて近付いてみよう」
「もし違ったら?」
「線路の反対側に横穴がある。先はいくつかに枝分かれしてるはず。逃げ込んで撒こう」
「わかった」
短い相談が終わった。タイヨウは背嚢の紐をきつく締め、ソラがバイザーを下ろして顔を隠す。ほぼ同時に前方で眩い光が灯り、周囲にわだかまる暗色を切り裂いた。タイヨウの手元にあるランプの橙の揺らめきとは異なる、無機質な青みがかった白。不定期に点滅しつつも強力にトンネルの暗闇を暴くその光を掲げる痩せた人影は、おそらくは大人の男のシルエットだ。少しだけ光源を持ち上げ、小刻みに何度か揺らす──こちらに気付いて、仲間に知らせている。
嫌な予感が増していく。とはいえ中層へ繋がる線路はここだけだ。何事もなくすれ違えることを願いながら、タイヨウはゆっくりと足を進め──互いの顔が影の中から現れる距離で、双方はどちらからともなく足を止めた。
「おーい、そこの君たち、ちょっといいかな。教えて欲しいことがあるんだが」
見知らぬ顔の、聞き覚えのない声の男。その声色は穏やかであったが、線路上というデンシャの脅威下においてはむしろ優しすぎ、明らかに異質で不気味だった。何よりその柔らかな響きの中に、有無を言わせぬ抑圧が潜んでいるように感じられた。それは例えば、幼い息子を撫でながら大ウツロの危険を説く父親のような、本来拒絶など許さない命令を思いやりの皮に包んでみせたような声色で、タイヨウにとってはひどく不快に感じられた。
「……俺ら、先を急ぐんですけど」
少年の苛立ちと焦燥は、いささか正直に口調に現れた。少しだけ腰を落とすようにして、静かに互いの間合いを測る──明らかな警戒の姿勢にもかかわらず、男の態度はまるで仮面を被っているかのように変わらない。
「そう言わずに。人を探してるだけなんだ、助けてくれるならお礼をするよ」
のんびりと男が言葉を継ぐ間にも、彼の後ろからはぞろぞろと仲間が現れる。全部で15人はいるだろうか。何が"もう少しいるかも"だよ、と思いつつ、タイヨウはこの場を去る糸口を模索する。彼我の距離は数メートルしかなく、もし逃げ出すならそろそろ潮時だ。これ以上近付かれたらまずい。囲まれたらスーツのあるソラはともかく、生身のタイヨウに為す術はない。
「人って、どんなやつを探してるんですか。人相がわからなきゃ無理ですよ」
「後ろのやつが似顔絵を持ってる。どうかな、ひとつ見てもらって──」
そう言って男が背後の集団に一瞬だけ視線を向けた、その瞬間がチャンスだった。タイヨウの右手が跳ね上がり、後ろ手に隠し持っていた砕石が男の掲げる光源を壁に弾き飛ばす。甲高い金属音と軽いものの割れる音──そこに集団の意識が割かれたほんの一瞬の隙を突いて、タイヨウは横穴へと走り出した。
「逃げるよ」
「了解!」
打てば響くようなソラの返答。一目散に横穴に飛び込む──それから一拍遅れて怒号。
「おいコラァ、クソガキ! 人様が丁寧に頼んでやってるッてーのに一丁前に逃げようッてんじゃねェぞ──!」
先程の一見して穏やかなやり取りは相当に我慢して繕っていたのだろうか。怒りに裏返った叫びに続いて、十数人ぶんの足音が狭い横穴を騒々しく満たす。やはりこうなった──実現してほしくなかった未来予想図が見事に眼前に現れたことをタイヨウは悟る。
「ああもう最悪だ。なんで連中がこんなところに──!」
「あの人たち、みんな武器振り回してる。怒らせちゃったみたいだね」
「それどころじゃないよ! あいつらたぶん東京流れの追い剥ぎだ。捕まったら身包み剥がされて、鉱山駅にでも送られる」
「え──」
スーツの手を引いて横穴の分岐を駆け抜けながら、先程の会話を思い出す。男の言葉遣いに潜む威圧感はともかく、彼の話し方はタイヨウが慣れ親しんだ新宿の訛りとは明らかに違った。より平坦で抑揚のない、どちらかといえばソラの話す地上の言葉に近いが、それともまた明らかに異なる響き。東京訛り──遥か線路を越えて東方、東京駅とその周辺で話されるという、余所者の言葉。
『それならあれはどうだ、最近多い東京訛りの連中。上の屑鉄商とよく連んでてよ。気味が悪い奴らだけども体つきは良いし──』
昨日ダンジと交わしたとりとめのない会話が脳裏に再生される。状況は最悪もいいところだ。
「狙いはたぶん君のスーツだ。捕まったら間違いなくまずいことになる」
「具体的には?」
「スーツは屑鉄商人に売られる。ついでに僕の荷物も──僕らは死ぬかもっと酷い目に遭う」
「じゃあ逃げ切らなきゃ」
「そうだけど、どうかなあ!」
段差を飛び越え、急坂を下り、辿られにくい道を選んで駆ける。デンシャや地底の怪生物、あるいは追い剥ぎや上層の人買いから逃れるため、住人たちは線路脇の横穴を各々好き勝手に掘り広げてきた。タイヨウはその多くを把握しているし、これまでもこの迷路のような横穴で、数日分の稼ぎを狙う追手を撒いたことがある──しかし今回は以前と違い、怒声と足音は少しずつ、しかし着実に近付いてくる。
「ちくしょう、引き離せない。なんでっ……かなり遠回りしてるのに」
「あの人たちって、この辺りの土地勘ないんだよね?」
「そうじゃなきゃわざわざ線路で網を張るもんか! あんな危険な場所で仕掛けてくるなんて、このへんに不慣れだって自分から言ってるようなものだよ」
走りながら叫んだ途端に咽ぶ。出発から2時間あまり、着の身着のままで冷気の中を這い回って、既にだいぶ体力を使っていた。背嚢の重みが肩に食い込む──放り捨ててしまえば幾分かは楽になるだろう。とはいえこの中に入っているのはおよそ10日ぶんの稼ぎで、換金できなければ食糧が尽きる。すぐそばの危機か数日後の飢えか、追い詰められた少年の声は上ずっていた。一方ソラの声色は、バイザー越しのノイズが掛かっていることを差し引いても、奇妙なほどに落ち着いている。まるで似たような事態に何度も遭遇してきたかのように。
「だとすると……うーん。私たちの足音を聞いてるんじゃない?」
「足音を? これだけ反響してるのに──」
「聴覚強化型のインプラントやギフトホルダーは地上のニュースでは結構話題だったし、アキヴァの特区にも何人かいたよ。地下にいてもおかしくないんじゃないかなって」
「……僕にわかるように言ってくれないかな」
「うーんと、常人より耳が良くて遠くの会話や足音を聞き分けられる人、実は多いんだよ。対策の方法もわりと決まってる」
「対策?」
「そう。例えばこういうやつ」
ぐいと肩を引っ張られて急停止。アームスーツの白い腕が少年の背中に回り込み、背嚢から何かを器用に摘み出す。暗闇の中でオイルランプの僅かな灯りに照らされて光る、鍋の蓋を抱えた茶色の獣。昨日の数少ない戦利品のひとつだ。タイヨウにはその価値も用途もわからないが、ソラにとっては既知の品のようだった。
「これで多少は時間が稼げると思う。でも決定打じゃない、すぐに気づかれるはず。次の手はある?」
先程までの好奇心と興奮に浮かれた姿とは何もかもが異なる、怜悧で理知的な少女の声。混乱しつつも少年の思考は危機に際して高速で回転する。追手がこちらを音で識別しているのだとしたら、それを撹乱する手段。こちらの位置を見失わせ、迷宮の中に置き去りにするためには。脳裏をひとつのアイデアがよぎる──危険性は高いが、この状況で他の選択肢は思いつかない。
問題は誰が実行するかだ。自分か、ソラか。今の自分の状態と装備、これまでの短い道中にソラが見せてきた能力を勘案して、答えはすぐに出た。
「……そのスーツ、暗い中でも目が見えるんだよね?」
「サーモとエコーは生きてるから。精密性に不安があるけど10メートル単位なら大丈夫」
「今から言う通りの順序で横穴を抜けて、その先で騒ぎを起こして欲しい。ただし、すぐに戻ってきて。その場に留まっていたら危ない」
「大きな音を出す程度でいいの?」
「大丈夫だと思う。あいつら、近くの音には敏感だから」
わかった、とソラが頷く。道程はそう複雑なものではない。伝えたとおりに道順を復唱し、白い影は素早くこちらに背を向ける。
大男と見紛うような巨躯には、その内側にいるのが華奢な少女であることを忘れさせる安心感がある──しかし、駆け出したその左足が僅かに引きずられているのを見た瞬間、少年の心は後悔で満たされた。
「ソラ──」
「行ってくる!」
伸ばした手は空を掴み、道を外れた緩い斜面の向こうの暗がりに白いスーツの背中が消える。その重量に対して異様に静かな足音もすぐに遠ざかった。途端に洞窟の中を風が吹き荒び、タイヨウはその冷たさに身震いする。
風音に乗って訪れる怒声が、敵が迫っていることを告げる。しかしソラが戻ってくるまでは、この場所を離れる訳にはいかない。岩陰に腰を下ろし、ランプの窓を閉める。ボロ布や獣の革を粗雑に縫い合わせただけの服や靴の間から湿った冷気が入り込み、十分近い逃走劇で筋肉に溜め込まれた熱は瞬く間に奪い去られた。陽光が降り注ぐ大ウツロの周縁を除いて、新宿駅外郭部は岩と氷に閉ざされている。このような環境に人間は長く留まれない。動かなければいずれ凍死するか、敵に見つかってしまうだろう。
疲労と寒さに蝕まれた少年の思考に、とある残酷な提案が生じる──ソラを置いて逃げればいい。背嚢も網も、タイヨウの全財産は無傷で手元に残っている。彼女が追手を引き付けているうちに横穴を抜け、デンシャを避けながら上層へ行くのだ。戦利品を食糧と交換し、帰りは縄伝いに大ウツロから戻れば、追手に遭遇することはない。タイヨウ一人であれば、土地勘のない余所者の10人ばかりを撒いて逃げ回るのは容易いことだ。
裏切りなど地下では日常茶飯事。間抜けな隣人を大ウツロに蹴落とし、残された住居と食糧を拝借して、人々は日々を生きているのだ。たった一日の付き合いでしかない地上人の少女、地上に帰るなどと世迷い言を吐く狂人のために、命の危険を冒す意味があるだろうか?
冷気に沈む洞窟の中。一筋の光すらない漆黒の中では、数分がまるで数日のように感じられる。少年は何度か立ち上がろうとして、そのたびに腰を下ろし、岩肌を静かに殴りつけた。このままあと一時間もここにいれば、上層どころか中層に帰り着くだけの体力もなくなることが分かっていた。しかしタイヨウは上層までの道案内をすると約束したのだ──それに、恐らくそれが最善の選択だったとはいえ、怪我をしている少女に陽動を任せてしまった。僅かばかりの責任感と罪悪感、そしてねぐらで見た少女の輝く瞳の残影が、タイヨウを岩陰に繋ぎ止めていた。
時間が過ぎていく。タイヨウは時計を持っていないが、彼の正確な計時感覚は既に15分を数えている。遅すぎる──まさか敵に捕まったのだろうか? そういえば追手の喚き声も消えている。ソラを捕縛し、用が済んだとばかりに引き上げているのかもしれない。
焦燥感に駆られ、状況を把握しようとして岩陰から顔を出した瞬間、太く硬質な腕がタイヨウの身体を後ろから押さえた。驚きと恐怖に叫ぼうとした瞬間、巨大な掌が顔を覆う。素早く岩陰に引き込まれ、暴れようと体を捻るが力は出ず、少年は声もなく藻掻いた。
「戻ってきたよ。もう大丈夫」
「ソラ?」
そろそろ聞き慣れてきた、高いが細くはなく落ち着いた声。静かにね、という言葉とともに目の前を塞ぐ巨大な指が取り払われる。思わず自らの手で口を塞ぎながら振り返ると、暗闇の中に芒洋と浮かび上がる白の巨体のバイザーが跳ね上がり、少しだけ疲れた表情のソラが顔を覗かせた。その顔色は朝よりも悪い。
「ソラ、もしかして怪我を!?」
「ううん、平気……でも、足がちょっと痛むかな。ごめんね、遅くなっちゃった」
「いいんだ、そのことは」
僕は君を見捨てるかどうか考えていたんだから──声にならない謝罪とともに、少年はソラの助けを借りて立ち上がる。彼女が無事に戻ってきたということは、もう猶予は残されていなかった。凍えた身体ではあまり無茶はできないが、一刻も早くこの場所を離れなければならない。気が急くのをなんとか鎮めつつ、背伸びしてソラに顔を近づける。
「あいつらはどうしてる?」
「隠れてるみたい。やっぱり耳が良い人がいて、私たちの足音が途絶えたから、騒ぐのをやめて様子見してる。ここからかなり近くて、仕方がないから静音モードで進んだけど、そのせいでバッテリーをかなり使っちゃった」
「君が言ってた、騒ぎっていうのは」
「もうすぐ始まるよ──ほら」
聞こえるでしょ、と囁き声。そうして次に耳に届いたのは、機械が擦れて軋むような音と、何か金属が打ち合わされる耳障りな破裂音。
「おい、向こうから音が聞こえるぞ!」
「反対方向かよ──遠くに逃げたと思って油断しやがって。急げ!」
その声は本当に近くから聞こえ、追手がすぐ側まで接近していたことを示していた。今更ながらにタイヨウの背筋は恐怖に総毛立つ。しかし足音と罵声はそれ以上近づかず、むしろ次第に遠ざかっていく。お互いに顔を見合わせて、二人は小さく頷いた。最初は忍び足で、続いては小走りに、最後は駆け足。一人は背嚢を抱え、もう一人は足を庇いながら、少年と少女は闇の中を走る。
「君、いったい何したんだ!?」
「あはは──シンバルモンキーの現物なんて初めて見たよ! ちゃんと動いてくれてよかった。ゼンマイ仕掛けに細工するのに少し手間取っちゃったけど、旧来機械学は得意科目だったんだ」
「またわけのわからない……」
自慢気に頷くソラの言葉は相変わらず理解できないものだ。呻きながらもタイヨウはスーツの手を引き、無数の分岐を越えていく。追手を撒くことを優先していたこれまでとは異なり、できるだけ線路の方向へ。足に肩に脇腹、身体のそこら中が痛むが、今はできるだけ距離を稼ぎたかった。タイヨウの目論見が成功しているなら、連中はもう二人を追ってくることはできないが、一度線路に出なければ二人もまた危険に晒される。
坂を登り、凍りついた川を渡り、岩の下に隠された通路を抜ける。線路までもう少しというところで、背後からそれが二人のもとに届いた。
「な、これは──うがあああああ!」
「戻れ、戻れ!」
「早く逃げろ──ッ」
男たちの悲鳴。距離と風音にかき消され判然としないものの、彼らが恐慌状態に陥り、こちらの追跡などできなくなったことはほぼ確実だ。
「え、え? 何が起きたの?」
今度はソラが唖然とする番だった。見事に追手を罠に嵌めた自分の功績を自慢してやりたい欲求が一瞬だけ芽生えたが、タイヨウはあまり説明する気になれなかった。理由はいくつかある──いい加減に疲労が限界に達し、思考に靄がかかり始めていたことがひとつ。そして追い剥ぎたちのうち何人かは、もう生きて故郷の駅に戻れないだろうことがひとつ。
地下には様々な脅威が潜んでいる。デンシャ、下水ワニ、流れ者や追い剥ぎ──そして線路から外れた天然の横穴の奥深くには、一対一ではそれらに到底敵わないものの、遥かに数が多く腹を空かせた小さな怪物たちが眠っている。
土地勘のある住人ならば決して踏み入ることのない、群れ分けしたばかりの大鼠の巣。空腹の女王がデンシャを避けて隠れ住むその縄張りに、ソラによって誘導された追い剥ぎたちは軽率に踏み入ったのだ。大鼠の一匹一匹は子供でも簡単に殺せるが、その牙で噛まれた者の多くは数日後にひどい熱を出し、血を吐いて四肢が腐り出す。暗闇の中で巣の全てを相手にするのであれば、犠牲者は一人や二人ではきかない。ソラのように全身を金属で覆われていれば無傷で済むだろうが、線路で見た彼らは軽装備だ。
「ねえタイヨウ、あなたの指定した場所って」
「後で話すよ。まずは線路に出よう」
この場でつぶさに話すこともできたが、どこか後ろめたい感情がそれを妨げた。何か言いたげなソラの手を引いて、タイヨウは早足で前に進む。男たちの悲鳴は徐々に遠ざかり、やがて消えた。それをありがたいと思ったのは、きっと脅威が去ったことを実感したからで、他に意味はないはずだ。
無言の時間はそう長く続かなかった。ふと通路に白い光が差し込み、足元が棘だらけの岩肌から、苔生した滑らかな緑色に変わる。粘ついた急斜面をなんとか登りきると、そこはもう開けた空間だった。赤茶色に鈍く輝く線路が二人の前を横切り、その向こうに風化した建造物が瓦礫の山となっている。数本の鉄骨とそれにへばりついた蛍光灯を残して、屋根は完全に崩落していた。
「ここが、上層?」
「その一部ではあるけど、かなり外れた場所だよ。主要な地区から遠くて誰も住んでない。どうしてか電気が来てるから、まだ駅は生きてるんだろうけど」
周囲を警戒しながら半ば砂になった瓦礫の山を登る。まだ崩壊していない奥の平らな部分には弱々しい灯りがいくつか明滅し、その下にはここを短期の宿としていたであろう旅人たちの痕跡が残っていた。足跡や焚き火の煤はどれも最近のものでない。どうやらここは安全地帯のようだ──途端に全身の力が抜け、半ば倒れるように座り込む。
「ちょっと、大丈夫?!」
「うん……あんまり大丈夫じゃない、かな」
ソラに支えられ、まだ形を保っている地上時代の長椅子に腰掛ける。緊張が解けたことで全身の疲労が戻ってきた──ここ最近は稼ぎが悪く、食糧を節約していたこともあって、横穴での消耗が想像していたよりも激しい。案内を買って出たはずが怪我人に心配されていることの気恥ずかしさから、半ば強引に身体を起こそうとして、左肩に走る鈍い痛みに呻く。
「ねえタイヨウ、怪我してるよ」
「……本当だ」
何かに切り裂かれたのか、服の薄布ごと左肩の皮膚がぱっくりと割れ、流れ出した血が服を黒く染めていた。洞窟を走る途中で岩肌に削られたか、それとも追い剥ぎは飛び道具まで持っていたのか──傷跡は綺麗な真一文字で、どこかに引っ掛けたような形ではないから、後者の可能性が高いように思える。幸運にも狙いは逸れたようだが、もし肩口に突き刺さっていたら、恐らく逃げ切れなかっただろう。本当に紙一重だったのだと、今更ながらに恐怖で身体が震える。
「ちくしょう、あいつら……いや、平気、平気だよ。こんな傷、なんてことない。腕が取れたわけじゃないんだし、すぐ治るって」
「そういうわけにはいかないよ。薬はないけど、とにかく止血しないと」
ちょっと待ってて、と白いスーツが身じろぎする。背面の金属板がバタバタと跳ね上がり、ソラのしなやかな肢体がするりと抜け出した。広漠たる空間に僅かな甘い匂いが漂い、少年は思わず目を泳がせる。
「ガーゼがあったらよかったんだけど、今はこれだけ。ごめんね」
そう言って取り出されたのは四角く畳まれた布切れで、白地に紋様が入った薄い生地は上層で売れば相当な値がつく代物のように思われた。しかしタイヨウが制止する間もなく、ソラは慣れた手付きで傷口に布を巻き付ける。そうして、助けてもらったお返しはちゃんとしないとね、と笑った。タイヨウは戸惑いながらも感謝を告げ、椅子に深く座り込んで息をつく。
出発からおよそ3時間半。早々に面倒に巻き込まれた挙げ句、ひどく体力を消耗してしまったが、後は線路を辿ってゆくだけの一本道だ。敵が追ってくる気配はなく、なんとか機械屋には辿り着けそうだった。このあたりに今出てきたもの以外の横穴はないが、デンシャはしばらくやってこない。怪我をした二人が休み休み歩いても、時間には十分余裕がある。
────そのはずだった。
「……そんな、馬鹿な」
「タイヨウ?」
有り得ない、と呟くのがやっとだった。驚愕する少年は思わず腰を浮かせるが、疲労に震える膝は言うことを聞かず、よろめいて長椅子の上に崩れ落ちる。わけもわからずに慌てて少年を支えようとして、ようやく少女はそれに気付いた。
叫び声。しかし先程洞窟の中で聞いた、男たちの驚愕の悲鳴とは違う。
それは嘆きであり、怒りであり、苦鳴であり、悲痛であり、それ以上の語彙を持たない少女には区分することのできない、数多くの感情が凝り固まった、情動の暴威というべきものだった。それは無数の口蓋が統制なく喚き散らすだけの、もはや個々の意味を問えぬ音であり、しかしながら聞くものすべてに訴えかける、人類が言語を生じさせる以前に用いていた種々の交歓に親しいものであった。叫び声であり、歌声であり、歓声でもある、それは言うなれば彼らの自己表現だ。
「デンシャ……」
「なんで……なんで、なんでこんな時に。まだダイヤはずっと先なのに」
ずるずると椅子から滑り落ちて、タイヨウは絞り出すように呻く。恐怖で全身の震えが止まらず、傷を負った左肩がじくじくと痛む。歌声がトンネルに反響して耳を埋め尽くし、段々と大きくなっている。駅の建造物が振動に震え、足元がひび割れ砂埃が舞い、辛うじて残っていた屋根のタイルが剥離して二人の頭上に雨のように降り注ぐ。
理解できない。否、理解しているが、納得できない。理性が弾き出した結論を、狂奔する感情が拒絶する。そんなわけがない、今まさに追手を退けたばかりなのに、自分が外れ籤を引くわけがない──しかしタイヨウの脳の冷静な半分は無慈悲な結論を下している。
"逸れ"がやってきた。デンシャは個体ごとにダイヤを持っていて、外的要因で妨害されない限り、正確に縄張りを周回する。だが"逸れ"はダイヤを持たず、好き勝手に線路を走り回る。普通のデンシャより数が少ない上、共食いや事故ですぐに死ぬので、遭遇することは滅多にない。
だが出会ってしまえば同じことだ。轢かれて死ぬか、喰われて死ぬか、焼かれて死ぬか、溶かされて死ぬか、それとも他の何かで死ぬか。線路上でデンシャと遭遇したならば、末路は常に決まっている。奴らは人間を見逃さない。奴らは人間を憎んでいるから。
「大丈夫だよ。急いで戻れば、さっきみたいにやり過ごせる」
さあ行こう、と立ち上がったソラの自信に満ちた表情はおそらく強がりを含んでいるが、それでも表面上は明るげでいかにも頼もしく見えた。とはいえ、とタイヨウは思う。どちらにせよ、もう遅いのだ。
「戻るって、どこに」
「さっきの横穴だよ! あの斜面を無傷で降りるのはちょっと厳しいかもしれないけど、デンシャよりは」
「無理だよ。今頃はもう、あの下は大鼠でいっぱいだ」
「なにを──」
「あいつらを巣穴に誘導したから、今頃群れは怒り狂ってる。しかも僕は血を流してた。誘導に使ったあの道具にもたぶん臭いが残ってた。線路に出なきゃいけなかったのは、群れから逃げるためなんだよ」
だからもう戻れないんだ。そう言葉を投げ出してしまってから、少しだけタイヨウは後悔した。燃えるような橙の瞳が混乱と恐怖に竦むさまを、そしてそれが自分の浅薄な計算によってもたらされたことを、できれば認めたくなかったからだ。
「……どうしよう」
先ほどとは打って変わって心細げにソラが尋ねる。反響に揺れる駅の只中で、その声は不思議と耳に残った。どうすればいい? 僕の方が知りたい、とタイヨウは考える。デンシャはすぐにでもやってきて、目立つ二人組を捉えるだろう。駅にまともに残った建造物はなく、隠れてやり過ごすことはできない。周囲には他に横穴もなく、今しがた通ってきた場所は使えない。これが普通のデンシャなら、駅に"停車"したところで乗り込むという非常手段で数分だけ時間を稼げるが、"逸れ"にはそんな習性はない。
八方塞がりだ。呆然となってタイヨウは虚空を見つめる。ひとつだけ残った蛍光灯が落とす白光の中で、疲労、恐怖、後悔、無力感、それら全てが綯い交ぜとなり、諦めと脱力が足先から泥のように少年をゆっくりと飲み込んでいく。こうなってしまえばもう逃げ場はない。ソラのアームスーツもデンシャには敵わない。必死の逃避行もここで終わり。ソラかタイヨウか二人ともか、どちらにせよ運がなかったせいで、あんなに頑張ったのにここで死ぬ──
二人とも?
「……ごめん、ソラ。何がダメだったかわからないけど、僕はやり方を間違えたみたいだ」
深く息を吸い、吐く。もう一度。膝に力を込めてゆっくりと立ち上がる。声が震えてしまうのはもう仕方がなかった。怖いものは怖いし、死が迫っているのなら尚更だ。けれど、やらなければならないことが残っていた。スーツの脇に立つ生身のソラと向き合う。びりびりと震える駅の中央、少女の瞳が伏せられる。
「ううん、いいんだ。私こそ、巻き込んじゃってごめんね」
案内人がしくじって、今まさに死の危機に晒されている。本当なら怒ってもいい場面だと思うが、ソラは申し訳なさそうだった。巻き込まれたといえば確かにそうだが──それでも結局、これは自分が招いた結果なのだ。地上人の少女を上層まで案内する、その行為そのものへの少しばかりの興味と自己陶酔。
落ちてくる地上の残骸を拾って、それを売る。ただひたすらにそれを繰り返すだけ。見えない太陽を求めて頭上を見上げる鬱屈した毎日、それを弾き飛ばせる何かを期待して、落ちてきた少女に希望を押し付けた。自分を特別だと思いたかった。そして幼稚なプライドで見栄を張った結果、その場凌ぎの策で退路を絶ってこのザマだ。運が悪いなんて言い訳にもならない──この地下世界に生まれ落ちた時点で、皆そもそも幸運に見放されている。
「謝らないでよ。僕は何もできなかったし、自業自得だ──だから、ソラだけでも逃げてほしい」
「そんなこと!」
「ひとつだけ嘘を言ってたんだ。もうあの横穴には戻れないって──あれは正確には違う。僕が戻れないだけなのさ」
大鼠の牙は熱病を運び、体中噛まれたらまず助からない。だがそれは肌に直接傷をつけられた場合の話で、全身を金属甲冑で覆った上層戦士団の俊英は、しばしば単独で巣に踏み入って女王を煙で燻して殺す。ソラのスーツに牙は通らない──横穴を戻ればタイヨウの命はないが、ソラは無傷でデンシャから逃げられる。
駅に隠れようが線路に残ろうが横穴の中に戻ろうが、タイヨウが生き残れる可能性はほとんどない。もう完全に詰んでいる──しかしソラだけならそうではない。だとしたら、タイヨウがすべきことは一つしかなかった。ソラを生かすのだ。そもそもの発端である約束、上層への案内を果たすため。どうせ死ぬにしてもマシな死に方だ。落ちてきた瓦礫に潰されるか、熱病で四肢を腐らせて死ぬか、穴の中で凍死か餓死、はたまた飢えに耐えかねた隣人に寝ている間に殺される、そんな死に様ばかりの新宿で、女の子との約束を守るためにデンシャに轢かれるのはかなり上等だ。
一度諦めてしまったなら、もう後は行動するだけだった。窮地にも溌溂としていたソラも、今度ばかりはどうしていいかわからずに言葉を探しているようで、無言で線路に下りるタイヨウを追いかけ、恐る恐るといった様子で付いてくる。時間の余裕が全くない以上、抵抗されないのは好都合だった。背嚢から網を引っ張り出し、有無を言わさず残りをソラに背負わせる。
「スーツを着ていれば大鼠は無害だ。絶対に脱がないで。僕が線路をできるだけ逃げて、デンシャの注意を引き付ける。叫び声が聞こえなくなったら、奴が来た方向に進むんだ。かなり距離があるけど、いずれ上層に辿り着く」
「ねえ、タイヨウ……」
「背嚢の底に少しだけ水と食糧が入ってる。機械屋はかなり奥まった場所にあるから、スーツはどこかに隠しておいて。鳥売りの婆さんは子供に優しいから、背嚢の中身を半分くらい差し出せば、たぶん協力してくれる。それから──」
「できないよ……そんなこと、できない」
「いいや、できるよ。深刻に考えないで。地上に帰るんだろ? こんなのは地下じゃよくあることなんだから、今のうちに慣れておかなくちゃ」
「──────ッ!」
それは深く考えての言葉ではなかった。強いて言うなら彼女の決心がつくようにと、敢えて戯けてみせたつもりだった。しかし先程まで孤児のように視線を彷徨わせていたソラの瞳が、おそらくは怒りと悲しみによって、きゅっと細められたのをタイヨウは見て取った。地下住民の誰もを恐怖に竦ませる叫び声が刻一刻と大きくなり、その膨大な質量が生み出す熱と圧力が肌で感じ取れるほどに近付いているにもかかわらず、ソラはもう下を向いても震えてもおらず、それどころか明らかに憤慨していた。
「やっぱり無理。タイヨウも一緒じゃなきゃ、私は行かない」
「何を言ってるんだ!? 僕はもう──」
「抱えてでも連れてくよ──あなたがどう思っても関係ない。私はまだ諦めてないから」
「そんな馬鹿な!」
愕然として一歩下がるタイヨウの腕を、アームスーツの太い腕が掴む。バイザーを下ろしたソラの表情を窺い知ることは叶わない。ただ洞窟の中で抱えられた時の優しい力加減とは打って変わって、今度は腕がもがれるかと思うほど強烈に保持されていて、まったく振り解くことができない。
「ソラ、きみは──!」
抵抗などできようはずもなく、出てくるのは言葉ばかりだった。どうして君はそんなに諦めないんだ、なぜそんなにも希望を持ち続けられるだ、おそらくはそんなことを言おうとしていたのだと思う。半分は純粋な疑問、もう半分はたぶん怒りで、その感情の原因はタイヨウ本人にもよくわからなかった。
ともあれ、結局その言葉が形になることはなく──
「きゃあっ!?」
「な!?」
足元を支える砕石の反発が突如消失する──浮遊感に疑問を呈した次の瞬間には、既に落下が始まっていた。周囲に掴めるようなものはなく、網を持つ利き手はソラに押さえられている。そのソラも突然の事態に反応できず、腕を振り回すのが精一杯。
暗転。絶叫が間近に迫る中、砂の擦れ砕ける耳障りな音に包まれながら、二人は暗闇の中へ消えた。
*
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任意A任意B任意C- portal:5060201 (15 Jan 2019 17:15)
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