猫と白鼬についてのアネクドート

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査問委員会の記録によれば、始まりは単なるジョークだった。

内部調査は息の詰まる仕事だ。同僚を疑い、それゆえに同僚に疑われる。内部保安部門に真の意味での仲間はいない。いるのは身内だけ──それゆえに彼らは孤立と不可分の忠誠を保ち、半ば儀式めいた数々のレクリエーションは、互いの絆を深めるとともに彼らの異質性を更に際立たせる。

他の部署では非常識に映る行き過ぎた冗談や数々のしごきも、同志を選別するための通過儀礼。だからというべきか、右も左も分からない配属ひと月の新人に対して、彼らは小さなメモを押し付けた。

ここに書かれた質問を一言一句漏らさず暗記して、お前の恐ろしい上司に聞いてこい。もしできたなら、お前は真に勇気のあるやつだ。俺たちの仲間と認めてやる──

*

「結果、哀れな新人職員が2週間も監獄に拘禁された挙げ句、辞職願を提出するに至った、と」

笑い話と取るべきか、それとも組織文化についての訓話か? 少なくともこの場に表出させるべき感情は、呆れと困惑であるように思えた。そのような顔を作りつつ、報告書のコピーを封緘し直す。

「情報漏洩の可能性に対して、規則に則って必要な措置を取ったまでだ」
「人事局はそう思わなかったようですね。口頭でとはいえ、吹上さんを寄越して私に抗議してくるわけですから」
「君は内部保安部門の所属ではなかったように思うが、アイランズ外交官
「私もそのように理解しています、マクリーン次官

ため息と共に書類封筒をマクリーンに手渡す。無表情に受け取ったマクリーンは、そのまま執務机の脇のシュレッダーにそれを丁寧に押し込んだ。

フロント企業製の渉外政策局制式シュレッダーは民生品と同型だが、機密保持のために出力が高くなり歯の形状も細かくされている。瞬く間に噛み潰される封筒を無視するよう努めつつ、私はこの奇妙な状況について認識のすり合わせを試みる。

「ここ数ヶ月、あなた宛の苦情や抗議の多くが私のオフィスに届くようになっています。先月などは服務規程違反のタレコミすらありました。私の立場は少しばかり……誤解されているようですね」
「状況は把握している、アイランズ外交官。人事制度上の認識の誤りについて、早急に対応するよう人事局に要請した」

どの口がそれを言うのだ、との反駁を舌の上に載せる愚は犯さない。この男も勿論分かっているはずだった。というよりも、内部保安部門の薄暗いオフィスに私を呼びつけるのではなく彼自ら出向いてきた時点で、企みがあることは明らかだった。

グレアム・マクリーン。81管区における内通者狩りモールハントの指揮を執る、内部保安部門の処刑人。統括次官という高位にありながら現場主義を貫く変わり者、という肯定的な評価はこの男には不適当だ。直属の部下も含めた周囲のあらゆる人間を信用しない猜疑心、そしてそれに裏打ちされた偏執的としか言いようのない徹底した仕事ぶりは、もはや病気の域に達している。

半年ほど前、仕事上の一件からこの男に楯突き、私は公に内部保安部門の重点監視対象に指定された。私の知る限り、それは名目上の措置だ──財団の外交官は元より常に内部保安部門の監視下にあるし、監視対象の指定は公開された時点で半ば意味を失う。"次はないぞ"という官僚的な脅しでしかない、はずだった。

しかし書類上の処分や私自身の認識はともかく、"奴は内保に目をつけられた"と周囲から理解された時点で、サイト-8100での私のキャリアはもはや終わったも同然だった。ご機嫌伺いやコネづくりのための訪問者は鳴りを潜め、雑務とでもいうべき小粒の案件の持ち込みが増え──程なくマクリーンへの伝言がオフィスに届きはじめると、それを断る間もなく本人が私の元を訪れるようになった。

ジョシュア・アイランズはグレアム・マクリーンに弱みを握られ、仕事の裏ではあの精神病質者の小間使いをしている──それが目下のところ、サイト-8100の口さがない政治屋たちの共通認識であるようだった。そしてその誤解を誘導したのは、間違いなくマクリーン本人だ。彼が何を考えてそのような工作を働いたのかは謎でしかないが、ともあれ事情を知らぬ大多数の人間からは、私はこの数ヶ月で完全にマクリーンの軍門に下ったように見えているわけだ。

「わざわざもう一度あなたの仕事ぶりに口を出そうとは思いませんが、相変わらず信義を欠くやり口です。事前に相談していただければいいものを」
「相互の職務遂行に必要な情報は共有している。不満が?」
「猫についてのジョークがどのように私の仕事と関わるのか、教えていただければ満足しますよ」

言外の非難を込めての反駁に、銀縁眼鏡の奥の緑の双眸が鈍く光る。私は背筋に走る怖気を理性でもって抑える。まずいことを言ったとは思わない──この氷のような男はサイトにおける恐怖の象徴だが、裏切りの兆候がなければ動かない。そして私は反逆者ではない。

「"猫を飼っているって本当ですか、マクリーンさん"──これだけ? この発言が理由で尋問を受けたのだとしたら、その迂闊さに呆れこそすれど、責める気にはなりません。ちょっとした世間話の範疇では?」
「そう思うかね、アイランズ外交官」
「誰だってそう考えるでしょうね。この言葉のどこに情報漏洩の懸念があるというのですか」

無機質な視線が斜め上から私を突き刺す。首都圏中枢サイトの真ん中ですら、不意の襲撃を気にして椅子に座らない偏執狂。この男にオフィスでの世間話という概念は理解できないのだろうか? そう思いながら緑の目の向こう側を睨みつけたところで、私はある奇妙な考えに至る。

古典的なジョーク、というよりもアネクドートだ。もはや使い古された──しかし本当に? この男に限ってそんなことがあり得るのか? だが考え無しの新人職員を81JAの地下室に監禁し、あわや尋問官の登場寸前までの事態に陥らせた原因がただこの男の癇──そんなものが存在するのか分からない──に障ったのでないとすれば、考えられる事情はひとつ。



「まさか──本当に猫を飼っている?」

躊躇い混じりの問いにマクリーンは泰然と首肯し、私は表情を保つことを忘れて愕然とした。あのグレアム・マクリーン、ジーザス・アングルトンの再来、ラングレーの首刈りイタチ、不信と陰謀の荒野に座す唯一人の独裁者が、ペットを──それも猫を? これは一体何の冗談だ?

「私は部下の誰にもそのことを教えていない。財団の機密保持を担う責任者の個人生活上の事実を、配属後わずか40日しか経っていない新人が知り得、あまつさえ当人に対して示唆した。私に、ひいては内部保安部門に対する脅迫行為であり、大規模な情報漏洩の端緒であると考えられる。当然の帰結だろう」
「あなたにとっては、そうでしょうとも……」

マクリーンの突然の訪問以来、ずっと張り詰めていた糸が切れたようだった。肩の力が一気に抜け、私は椅子に背を押し付けながら呻いた。

全サイトで蛇蝎の如く嫌われ恐れられている上司がまさかペットなぞ飼っているわけがない──そう信じ込んでいた忠実な部下たちが、内輪のジョークで盛り上がって新人いびりのネタにしたところ、本当にペットを飼っていたせいで裏切り者の嫌疑をかけられたのだ。そして人材不足に悩む人事部門の担当者は、恐怖政治の体現者に直接文句を言うことを恐れ、誰もが認める使いっ走りであるところの私に新人を使い潰さないよう非公式のクレームを寄越した。誤解の連鎖によるドミノ倒し。信じられないほど馬鹿げているが、その中心にいるのはマクリーンなのだ。このサイトで最も冗談とは無縁の存在。

「……結局、誤解だということなのでしょう」

衝撃の残滓を振り払いつつ、私はなんとか質問する。どれほど間の抜けた事態でも、私はこの件に巻き込まれている。マクリーンの到来を察知した職員たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ出していて、オフィスの西半分は正月休みよりも閑散としていた。彼が要件を終えてオフィスを退出しない限り、私の仕事は進みようがない。

「全員の経歴を洗い直したが、関連する不審点はなかった。人事局にもそう伝えた」
「無関係な不審点はあった、と」
「君に伝える必要はない」

なんとも分かりやすい返答に、私は頷いて立ち上がった。疲れ切った脳には糖分とカフェインが必要だ。コーヒーメーカーからサーバーを引き出す。マグカップはひとつ──彼は他人の注いだ飲み物に口をつけない。長い付き合いではないが、それくらいのことは把握している。実際、特に気にした様子もなく、マクリーンは懐から銀色に輝くスキットルを取り出して一口だけ飲んだ。

「あなたの部下の無実に乾杯──とするべきですか?」
「あまり出来の良い冗談ではないな」
「これは失敬」

この男に軽口の品評という能力が備わっていたとは! 今日は発見の多い日だ。傾けたマグカップで引き攣った口元を隠しつつ、私はコーヒーを一口味わい、砂糖を入れ忘れたことに気付く。先程からペースを崩され続けている。マクリーンの前では外交官の仮面を保つことですら至難のようだった。

だから、間を持たせようと口をついて出た次の台詞も、いつもの私ならば決して選ぶことのない言葉だった。

「しかし、マクリーン次官──まさかあなたが猫を飼っているとは驚きです。少しばかりイメージが変わりましたよ。一体どれほど可愛らしいものか、いずれお会いしてみたいものですね」

誰が聞いてもそうだと知れる、単なる社交辞令だ。外交官として染み付いた習性、長話の取っ掛かりとして投げるボールのひとつ、第一ラウンドの最初のジャブ。パーティーの席でならともかく、マクリーンに対しては何の意味もない。冷たい一瞥での返答を予想して、口にした瞬間に後悔する。

しかし──

「ふむ。それならば──見てみるかね?」
「…………はい?」
「今度の週末、私の家に来るといい。コーヒーの一杯でも振る舞おう」

いつも通りの淡々とした口調──しかし衝撃は私の脳を突き抜け、全身を驚きで硬直させた。マグカップを取り落とさなかったというだけでも財団名誉勲章に値するだろう。とんでもない天変地異が起きていると考えるべきだった。この仕事中毒の偏執狂が他人を自宅に招待することなどあるはずがない──自分のベッドを持っているのかすら怪しまれているというのに!

脂汗が背中に浮き出るのを感じる。私はにこやかに礼を言いつつ、彼がお世辞や軽口の類を口にする特殊能力に突然目覚めた可能性を必死に模索しようとした。

「次官、あなたのことを誤解していたようです。たいへんありがたいお誘いですが、同時にあなたらしくもない。私たちの上司と茶会の席を囲むことは一度もなかったのではありませんか? もし本当にお誘い頂けるのであれば──」
「私は嘘が嫌いだ──冗談など口にしない。君もよく知っているだろう」

彼は明らかに私の思考を読んでおり、時間稼ぎの長広舌は速やかに断ち切られた。思わず二の句が継げなくなった私に対し、マクリーンは最後の一手を投げかける。



「それで──どうする。招待を受けるかね?」

数分後、オフィスには静寂が戻ってきていた。視界の隅では、嵐を恐れて階下に避難していた部下たちが、書類綴を抱えて続々と帰還するのが見える。新しい予定を暗号符牒に変換して手帳に書き入れながら、私は手の震えをなんとか抑えて内線電話の受話器を取った。

受話器を首と肩で支え、空いた手で机上の情報端末に職員IDを入力する。とある職員の人事ファイルが大写しになり、続くキーワードの入力で更に何人かの人物がリストされる──それぞれの人物の名前と顔写真から彼らの役職、言動、信条と性格、所属する派閥とその動向、これから起きうる各種のシナリオが脳裏を駆け巡る。外交官の職業病だ。画面に表示されているコードをなんとか押し間違えることなく入力すると、内線はワンコールで繋がった。聞き慣れた声が要件を問い、私は大きく息を吐く。

最初の一声は、奇妙なほど掠れて聞こえたはずだった。



飴村さんですか? ジョシュアです……少しばかり心を乱される出来事がありまして。申し訳ありませんが、カウンセリングの予約をお願いしたく。ええ、はい。大至急で──」

*

約束の日はすぐにやってきた。馴染みのカウンセラーから"無事に帰ってきてくださいね"の労りとともに渡されたハーブティーには確かに胃痛を抑える効能があるようで、私はなんとか緊張を押し隠し、都内の高級住宅地に偽装された官舎街に足を踏み入れた。

財団は秘密組織であり、巨大な官僚機構でもある──しかしそこで働くのは生きた人間だ。盲目的なまでに組織に従うのはほんの一握り、多くは忠誠心と同時に人並みの金銭欲や名誉欲を秘めている。人類への奉仕という使命感だけでは満たされない──だから高位職員にはこうして、それなりの待遇が用意される。高い給与、広い家、求めるならば似合いの配偶者ですらも。無論それは財団への生涯にわたる献身と引き換えだ。一般人に混じって職員の住居が点在するこの住宅地は隅々まで内保の監視下にあり、プライバシーなど存在しない。

マクリーンの自宅とされる建物もまた、遠目には単なる高級住宅に見えた。一人住まいには少々広めの一軒家。よく手入れされた庭の植え込みは、彼自身の手によるものではあるまい。緩やかな坂道を上っていくと、巡回する警備員の視線が背中に突き刺さる。上手く偽装してはいるものの、ほんの僅かに脇下が膨れたベストが、実銃で武装した財団の保安要員であることを教えてくれる。

私の訪問は事前に通知されているはずだった。ここは決して敵地ではなく、むしろ味方勢力の中心地──だというのにこの隔意溢れる空間は何だ? 私は額に冷や汗が滲み始めているのを自覚する。ハンカチを取り出して丁寧に顔を拭き、襟元を整え、深呼吸をする。

一歩足を踏み出すと、前庭の門は音もなく開いた。表札には何も書かれていない。郵便受けは設置されていなかった。もしかすると住所の割当すらされていないかもしれない。財団にはそういった芸当も可能だ。

綺麗に掃除された玄関に立つ。インターホンを押すまでもなく、微かな金属音とともにオートロックが解除され、機械越しのざらついた音質でなお人を威圧する怜悧な声が響く。

「入りたまえ」

深呼吸をもう一度。一拍空けて、私は伏魔殿の扉を開く。

*

休日、私服、プライベート──そういった単語と対極に位置する存在、それがグレアム・マクリーンだ。私はこれまで、スーツを着ていない彼の姿を見たことがなかった。滅多に変化することのない能面のような無表情、上品だが不気味な灰色のツイード。"神経質な内部調査官"という言葉から想像される人物が、そのまま脳内から飛び出してきたような存在。それが彼だ。

いま、私の眼前にいるマクリーンはそうではなかった。丁寧にアイロンがけされているものの、よく見れば少しくたびれているシャツに、暖かそうな淡いブルーのセーター。遠目から見れば実年齢よりも一回り老けて、アーリーリタイアの元官僚か商社マンにすら見えただろう。

しかし首から上はそのままだ──眼鏡の奥の瞳には何もない。人間を人間としてではなく、単なる情報の集合体、組織への忠誠と利用価値の有無だけで評価する氷のような青緑がそこにある。

「空手での訪問、申し訳ありません」
「私の指定だ、構わない。砂糖は2つだったな」
「ありがとうございます──よくご存知で」

マクリーンに彼の自宅でコーヒーを淹れてもらう。改めて言葉にしてみると、とても現実とは思えない状況だ。場違いにも頬を抓ってみせたい欲求を必死に抑えながら、私は目だけを動かして周囲の観察を試みる。

全体的に、品よくこじんまりとまとまった部屋だった。よく整理整頓されていて、僅かだが生活感もある。カーペットには掃除機をかけた跡、ソファの端には白い毛髪。向かいのキッチンに立つマクリーンの手付きに不自然さはない。キッチンカウンターの奥のゴミ箱からシリアルの箱が飛び出していて、冷蔵庫には新聞から切り抜いたと思しきレシピがいくつか貼り付けられている。

内部保安部門が用意した偽の家という線はまだ捨てきれない。罠である可能性は残っている──しかしマクリーン本人が、わざわざ私を陥れる理由がわからない。どちらにせよ私は招待に応じたのだ。何らかの背任の嫌疑をかけられ、ここで秘密裏に殺される可能性も考えた。しかし命の危険なら、外交官という職業にはつきものだ。

信頼には信頼で、敵対には敵対で。私はまだ裏切っても裏切られてもいない。

「どうぞ」

濃く淹れたコーヒーとブランデー入りフルーツケーキ。内部保安部門なら当然、私の趣味くらいは熟知している。24時間の監視と盗聴、端末の履歴も全て筒抜け、トイレに立った回数すらも知られているのだから驚きはしない。

「ありがとうございます。頂きます」

まずは丁重に礼を言い、それから味わう。もし本当に一から自分で準備したのだとしたら、コーヒーを淹れることにかけてはマクリーンの腕前は一級品だった。外交官としての訓練の一環で鍛えた舌がそう告げている。

マクリーンもまたカップを手に取り、一口啜って頷いた。それが満足、あるいは納得の感情を示しているのか、そうでないのかは推し量りようがない。休日に自宅で客を迎えてのお茶会、それでなお何の表情も浮かべることがないのだから、彼の自制心は鋼にも勝るか、或いは何かを企んでいるのか──決して表情筋の機能が欠落しているわけではないことは、狩りにあたっての威圧的な微笑みを目にした全員が知るところだ。

暫くは緩慢なやり取りが続いた。マクリーンとの間に中身のない会話が成立すること自体、奇跡的と言っていいのかもしれない。しかしこの状況に対する無数の考察が私の脳内で入り乱れ、緊張と混乱の中で、最近の国内情勢やサイト内に流布する噂話について当たり障りのない話題を選び続けるだけでも相当の集中を必要とした。ケーキを賞味した直後だというのに、私は既に糖分を欲していた。



「随分と緊張しているようだ」

数分間の、苦痛に満ちた平穏──それはたった一言で打ち砕かれた。先程までと同じ平易な口調ながら、そこに籠もった圧力には天と地ほどの差があった。テーブルに突っ伏したい衝動に駆られながら、それでも私はマクリーンの瞳から視線を逸らさずにいることに成功した。

これは対話なのだ──ならば目を合わせなければならない。分厚い氷の奥底に、どのような思考と感情が渦巻いているのかを、それが何を齎すのかを突き止め、そして応えなければならないのだ。たとえ相手が猜疑心を人型に整形したような人物だとしても、まだ彼の銃口は私を向いていない。

「緊張は、せざるを得ませんね。客観的に見て、私とあなたは友人とはいえない」
「仮に友人だとしても、私は人を自宅に招待することはないな」
「では、何故?」
「何故だと思うかね?」

質問に質問で返すのは尋問者の手法だ。これが対話だと思ったのは私の勘違いか? 席を立ちたくなる衝動を飲み下す。彼は私を試している。何故そうするのかは全く分からないが。

「率直に言えば、見当もつきません。招待を受けてから今日までずっと考えてきましたが、結局答えには至りませんでした。あなたに直接聞いたほうが早い。だから実際に来たわけです」
「正直は美徳だ。君の狼狽ぶりは酷いものだった」
「全く仕事になりませんでしたよ。カウンセラーには迷惑をかけました」
「君と飴村医師とは旧知の仲だろう。彼に何も言わなかったのも評価するべき点だ──医者には気を許し、口が軽くなる人間が実に多い。愚かなことだ」

淡々と口にされた言葉に、私は心中で舌打ちする。カウンセリングの内容は秘密厳守という原則は、組織の大いなる手の恐ろしさを熟知する財団職員であっても信じている金科玉条だが、白イタチの前には何の意味も持たないようだった。しかし同時に、どうやら大学時代からの友人を危険に巻き込まずに済んだらしいことへの安堵の感情が、少しだけ緊張を緩和してくれた。

襟元に手を遣り、シャツの第一ボタンを外す。呼吸が楽になり、少しだけ落ち着きが戻ってくる。マクリーンが僅かに眉を上げる。今日はじめての人間めいた変化。

結局、この男も人間だ。たとえ人狩りをライフワークとする生粋のパラノイアであっても。

「私は答えを見いだせず、あなたの話を聞きに来ました。理由は何もないというのならそれも答えだ、あなたの人となりが少しだけ分かる。もし猫をひと目見て帰るだけでも、あるいは会えなくとも、私には大した問題ではありません」
「帰れないという可能性を考えたことは?」
「常に考えています」

ほう、と小さく首を傾げる。マクリーンはこちらの思考を読んでいる。もしくは私が誘導されている。どちらでも行き着く結果は同じだ。結局、私は自分自身の言葉で話すことしかできず、またそうすることで財団から価値を見出されている。

「会合があり、それが財団の利益になるならば、私はどこにでも出向き、誰とでも話します。街中、山頂、海底、異空間。最も多く足を運んだのは日本政府のビルですが……本質的な脅威は変わりません。あなたの家であっても同じことです」
「実に教科書的で価値のない答えだ。財団の利益のため──本当かね?」
「……より正確には、財団の存在によって守られる、人類全体の利益です。それが相通ずるものだと信じて、私は財団に加入しました」

マクリーンは突然押し黙る。私は再び緊張の中にある。もしや回答を間違えたのだろうか? 彼のプロトコルに違反する行動をしただろうか。玄関からダイニングに入る途中に目にした廊下の奥の階段が、突然鮮明に意識される。2階には何がある? 男やもめの一人住まい、それも滅多に帰宅しない。わざわざベッドを2階に置くだろうか? ソファの毛髪がそこで寝起きしていることを示すならば、2階には別の何かがあるはずだ。ライフル弾は消音器を通しても床を軽々と貫通できる。保安要員のライフルの銃口が天井越しに私に向けられていないというのは、単なる思い込みに過ぎないのではないか?

拷問と脅迫に耐えるための訓練を受けていなければ、場の空気に耐えきれずに大声で喚き散らしていたかもしれない。数時間にも思える、しかし実際には1分程度の沈黙を破ったのは、頭上から聞こえる床を掻く小さな爪音だった。

静かにマクリーンが立ち上がる。彼がダイニングの扉を開けるまでの間に、爪音は一度遠ざかり、階段を駆け下って廊下に至る。そして半分開いた扉から、一抱えもある影が飛び込んできた。

お世辞にも美しいとは言い難い、ぶっくりと太った三毛猫だった。ふてぶてしく床上からこちらを睨み据え、マクリーンの足元をすり抜けて、体躯に似合わぬ俊敏な動作で一直線にキッチンカウンターの裏へ。まもなく硬いものに齧りつく音と、嗄れた鳴き声が聞こえてくる。

「2階は彼女の住まいだ」

目を細めたマクリーンが静かに呟く。その言葉で私はあの三毛猫こそが騒動の元凶なのだと気づく。

マクリーンは猫を飼っている。私は勝手に、血統書付きのロシアンブルーを想像していた。しなやかで賢く、忠実かつ献身的。おそらくは去勢された雄猫。しかし実際には、何もかもが違っている。

「……名前は、なんと」
「ない。私は呼ぶ必要を感じないし、彼女も求めていない」

ソファに腰を下ろして、マクリーンは静かに三毛猫の食事に耳を傾けている。彼の表情は変わらない。穏やかになることはなく、かといって硬質でもない。もしかするとこれが彼の素の姿なのかもしれないが、私にそれを判断するすべはない。

ともあれ、訪問の名目であった彼の愛猫との対面は済んだ。もしかするとここで一目散に逃げ出すべきなのかもしれなかった──しかし、二度目の緊張からの開放が、私に半ば自棄にも似た好奇心を生み出していた。

恐らくこれが最後のチャンスなのだ。サイト-8100を襲った嵐のようなもぐら狩り、それを指揮した白イタチの長との奇妙な縁の、最大の転換点。マクリーンが数ヶ月をかけて私のキャリアを失墜させ、事実上の雑用係に仕立て上げ、そして自宅にまで招待した理由、それを知る機会は今をおいて他にない。

少しだけ考え、私は覚悟を決めた。マグカップを手に取る。中身はふた口分ほど残っている──動揺を抑えきれなくなったときに表情を隠す小道具にするべく、常に少しだけ残しておくのがセオリーだ。マクリーンが視線を寄越すのを感じながら、一息に飲み干す。

言葉は何よりも重要だ。しかしメッセージとは、それだけで伝えるものではない。

「お代わりを頂けますか──量は多めに、ミルクをひと差し、砂糖は5つで。本当の好みです」
「甘党だな」

肩を竦めて、マクリーンは再び立ち上がった。

*

猫は庭で拾ったのだ、とマクリーンは言った。

「私は偶然を信じない。だから調査し、検討した」
「ただの野良猫ではないと?」

まさかそんな、と言外に否定を滲ませた問いに、重々しくマクリーンは頷く。

「彼女は赴任して最初の雨の日に、センサーの監視をすり抜けて玄関の前に座っていた。この目で確認するまで、誰も彼女に気付いていなかった。罠であると考えるのが自然だ──敵が猫を利用して私の、あるいは私以外の財団幹部の暗殺を試みるとしたら、どのような手段を取るか検討した」
「体内爆弾、操血術、変異生物、霊体、呪詛の媒介、あるいは大規模転移の終末座標。超常社会においては、この手の可能性は無数にあります」
「すべて確認した。彼女は二度、検査で腹を開かれている」

行動研究のために閉じさせたが──真顔で言う彼の視線の先で、年老いた雌猫は爪研ぎ板を掻いている。綺麗に切り揃えられた爪はほとんど板に跡を残さないが、彼女の情熱は衰えることがないようだった。

私はある場面を想像する。減圧された無菌室の内側、手術台に寝かされた三毛猫の頭上にスクラントン現実錨の固定アームが伸びる。何重もの奇跡術防御膜でコーティングされたHAZMATスーツが狭い手術室を動き回り、対抗ミーム接種と記憶強化薬で認知を制御された医師がスーツの内側の細腕をゆっくりと振るうたび、聖別されたテレキル銀のメスが毛皮の内側に潜り込み、小さな命の最奥に潜む不可視の悪意を掘り当てようとする。

全てが喜劇のような光景だ。マクリーン以外の誰もがそう思ったことだろう。

「何も出なかった、と」
「そうだ──だが疑惑はまだ残っている。収容室ほどの厳重さではないが、この家は常時監視下にある。彼女は私に敵意がないように見える。私も今のところ、敵意は向けないことにしている」
「スパイの疑いのある女性と同居とは、統括次官もなかなか隅に置けない」
「今度の冗談は出来が良いな」

微かに笑い、マクリーンは二切れ目のケーキを口に運ぶ。褒められたのか、揶揄されているのか──前者であることを祈るほうがまだしも建設的だ。ため息をついて、私は空になったマグカップを置く。

ほんの少しだけ、糸口が掴めた気がしていた。

「あなたは人間を信じられないのだと、皆が言います。つい先程まで、私もそうなのだろうと思っていた。実際には違ったようですね」
「では何だと?」
「あなたは人間を信じていないわけじゃない──むしろ強く信じている。彼女の存在を前提に考えるのなら、人間かどうかすら関係がない。あなたは意志の力、目的を貫徹するために進む力を信じている。信じすぎている」
「斬新な解釈だ」
「そうでしょうか」

迷い猫を使って誰かが自分を殺そうとしている──あるいは、迷い猫自身が自分を殺そうとしている。そんなことを本気で考えて、調査し、数年間もその疑惑を維持し続け、その猫と同居してまで確かめようとする。この世界に足を踏み入れていなければ、まったく正気とは思えない思考だ。そして実際には、超常社会の只中に身を置いてすら、そんな考えはそうそう持ち得ない。猫は猫だ。どんなに物理法則を捻じ曲げられても、どんな魔法を身に着けようとも、大抵の人間は野良の三毛猫を暗殺の道具には使わない。

誇大妄想と断じるのは簡単だ。しかしおそらく、マクリーンはパラノイアではない。偏執的だが狂ってはいない。それどころか、今日を含めて数ヶ月間の対話を振り返ってみる限り、彼はロジックと理性の塊だ。



「私の受けた印象を表現するならば──あなたが信じていないのは、言葉です」

忸怩たる思いで私は口にする。財団の外交官は所詮アマチュア、公の場に出ることのない、組織の力を笠に着て弱者を恫喝する日陰者──とはいえ、それでも交渉による解決を任じる者として、こんなことを言うのは屈辱的だ。

「口にされたどんな言葉も信じない。伝えられたどんな意志も信じない。あなたが納得できるのは、意志の結果として生じる行為。実際に形になって表出したものだけが、あなたを満足させられる」

この男のことを理解できたなどとは口が裂けても言えない。私には分からないことだらけだ。しかし半年間の経験と、この濃密で息詰まる数時間が、私の脳内にこれまでと全く異なる人物像を浮かび上がらせていた。

私が感じたままの姿が真実であるならば──この男は馬鹿だ。極めつけの。

そうでなければどんな人間が、庭に野良猫が入り込んだのは誰かの陰謀だと考えたまま、見えない敵を真摯に追い続けられるのだ? 狂ったわけでも被害妄想に陥ったわけでもなく、ただ真剣に、論理的な推理の帰結として? 賢い人間なら周囲に合わせて懸念を部屋の中に仕舞い込むだろう。だがマクリーンにはそれができないのだ。

「どのような言葉も信じず、行動の裏にある意志を求める。事象から逆算して推論される意図を評価し、どんなに荒唐無稽であってもその延長線を追いかける。論理的ではありますが、まともとは言い難い思考です。人事局がどうやってあなたに精神鑑別試験をパスさせたのかわかりません」
「テストは課されなかった。統合司令局のヘッドハンティングだからな──CIA時代は定期的に受けていたが、あんなものは単なるパターンにすぎない。合格水準が分かっていれば対策は容易だ」
「左様ですか」

かつてはさぞ気味悪がられたことだろう──古巣を放逐されるところを財団に拾われたという噂も頷ける。このような思考回路の人間はヴェールの内側では身を置いた組織を破壊するだけだ。ただの猫が容易く怪物に変貌し、世界は常に滅びの危機にある、こちら側の世界でこそ彼は本領を発揮できる。ヴェールの外側においては、思考するだけで現実を蚕食する存在が数え切れないほどに蠢いており、財団は常に脅かされているのだから。

「まあ、急拵えにしては悪くない考えだ。しかし君は勘違いをしているな」

フォークを置いたマクリーンは、空になった皿をこちらに差し出す。断る理由もなく、私は大人しく自分の皿をそこに重ねる。白髪の男は流し台に皿を運び、足元に猫がまとわりついて歩様を妨害しているが、飼い主はそれを気にも留めない。

「確かに私は言葉を信じない。しかし人間の意志──それ自体が常に破壊的であり危険だが、その成し得る結果についてはともかく、継続についてもまた、私は信じない」
「人は変心する。あるいは元より一心ではなく、二面性を内に秘めている」
「渉外政策局は良い教育をしているようだ」

順序が逆なのだ──無表情に皿を洗いながら、男は片足で猫をゆっくりと払う。私は小さく手を叩いてみるが、老猫は私には見向きもしない。

「人は容易く意志を翻す。己の内に元からあるものか、外側から継ぎ足されたものかに関わらず、思想は容易に覆る。一方で強固な決意とそれに基づく断固たる行動が、停滞を破壊するうねりを生み出す」
「数千人をビルの下敷きにし、新たな戦争を生み出す」
「君の背景を洗い直すべきか?」
「冗談です」

出来が悪い、とだけ呟いて、マクリーンは皿を乾燥台に並べた。

ある男に鏡についての喩え話をしたことがある。その男は自身の内に秘めた二面性に気付かなかった。財団に奉仕したまま、捨てたはずの立場での思考を保っていた。二つ鏡のどちらの面をも自分であると信じ続け、故に危うい橋を渡った」
「あなたが、手を下した?」
「早計に過ぎる勘繰りだ。彼はまだ生きているし、君の知人だ」
「後者はあまり知りたくなかった情報です」
「慣れたまえ。彼は変節などしておらず、財団への忠誠はおそらく本物だ──それでも、割れた二つ鏡のうち我々を映さない側を選ぶのなら、忠誠の鏡が曇っておらずとも、私は彼を撃つだろう」

濡れた手を拭き、再び椅子に座る。どのような動作の間にも、彼の双眸は私を捉えている。会話が続く間、猫は黙ってこちらを見ている。まるで意志を持っているかのように。

そしてそれに一瞬気を取られたその刹那、マクリーンは静かに言葉を継いだ。



「人は変心し、あるいは多くの鏡を持つがゆえに、私は言葉を信じない。だが──それは君も同じだろう?」

これまでの会話と同じように、まるで抑揚のない、単調な響きだった。しかしその内容は私にとって全く予期せぬもので、マクリーンが何を口にしたのかを理解するためにほんの少しの間が必要だった。

そして理解した瞬間には、反射的な否定が口を衝いて出た。

「そのようなことは──」
「否定するべきではないな、外交官。君の最も評価されるべき長所なのだから」

マクリーンは目を細め、私は自らの失態を悟る。これは明らかに誘導だ。相手の感情を意図的に逆撫でし、噛みつかせてペースを乱す、CIAお得意の尋問法。乗らずにやり過ごすことはできる──しかし、マクリーンはその時間を与えない。こちらが意識せずにはいられないテーマを熟知している。24時間態勢の監視で得られたデータを元に、私に耳を傾けさせ、冷静な思考を妨げるよう会話の組み立てを制御している。

彼の言葉を聞くべきではない。理屈ではわかっているのに、席を立つことができない。

「君は外交官、虚言を操る存在だ。自分の言葉を持たない、組織のための意志なき代弁者。君の武器として磨かれた笑顔、美辞麗句、服飾に態度、標的に感じさせる人間味に至るまで、そのすべてが財団の言葉を人間のものに見せかける仮面だ。君は誰よりもそのことを分かっている。言葉には意味などないと──違うかね」
「穿った見方です。相互の信頼こそが、犠牲を最小限に抑えると」
「信頼? 笑わせるな。君は相手の言葉を信じない。君の報告書を見れば明らかだ」

すべて読んだよ、とマクリーンは微笑む。それがこれまで彼が見せた中で最も人間らしさに満ちた表情で、私は全身の皮膚が粟立つのを感じる。

「非常に興味深かったとも。交渉相手の言葉、態度、表情、身振り、提示された情報、その全てを君と君のチームは疑ってかかる。語られないものこそを真実と捉え、与えられた何もかもが嘘だと信じ、そこに信頼など一欠片もなかった。実に教科書的だが、同時にまったく偏執的な徹底ぶりだ。普段の君が見せる態度とは実に異なっている。とても共感できる内容だった」
「教えられたことを忠実に実行しているだけです。私は、あなたとは違う」
「信条の話などしていない。私は行動しか信じないのだよ、ジョシュア・アイランズ。君が言ったように──言葉も意志も関係がない。君の行動とそこから推定される、君の鏡に映る真の姿こそが重要だ」

私と行動が似ているから、私は君をここに呼んだのだ

マクリーンの言葉に潜む熱が、私の耳元で不快にざらつく。私と彼が、似ている? そんな馬鹿な。

「ひとつ、例を挙げよう」

異様に上機嫌な様子で、マクリーンが人差し指を立てる。

「カウンセリングについてだ。なぜ敢えて友人を選んだのかが気になってね──我々と不仲のカウンセラーには何人も心当たりがあるだろう? 私の息がかからない告発ルートも知っていたはずだ。しかし君は友人に電話を掛けた」
「それは、気が動転していて」
「私も当初はそう考えた。少なからず失望したとも──その程度のリスク評価も出来ないのかとね。だがカウンセリングでの君の演技を見て考えが変わった。非常に興味深い展開だった」

演技。その言葉に反駁する余裕もなく、マクリーンは言葉を畳み掛ける。

「君は憔悴に満ちた様子で緊急の予約を入れた。当然、カウンセラーは君を呼び寄せ、何が起きたかを聞く──しかし君は核心に至る点は何も話さず、かといって平静を装うでもなかった。平素の余裕とはかけ離れて見える、哀れなほどの狼狽ぶりを呈した。あまつさえ多忙故に知人と話したくなったなどと虚言を弄した。飴村医師はさぞ驚いたことだろう。見事な演技という他ない」
「あなたがそうさせたというのに」
「勿論だ。しかし、君にとっても好機だったろう? 友人が己のために何を犠牲にできるか見定められるよい機会を得た。そして喜びたまえ、彼は今のところ、真なる献身を示している。君に騙されたとは露知らず」
「騙してなど──」
「つい先程、飴村医師は君が私に不当に脅迫されているとして、渉外政策局と人事局、RAISAに署名付きの告発状を送ったよ。内部保安部門にも抗議文が届いたそうだ。我々に敵視されるリスクを冒して君を守った。地位や出世などかなぐり捨てて知己のために動く、素晴らしい友情だ」

じきに渉外政策局が縄張り荒らしの排除に本腰を入れてくるだろう──マクリーンはまるで別人のようで、いっそ快活ですらある、慈愛に満ちた笑みを浮かべている。お前の考えは理解できるが、まだまだ青いな、とでも言うように。

私はただ呆然と、彼の言葉を聞くことしかできない。プライベートに踏み入られたこと、友人への言葉を騙りであると決めつけられたこと、人でなしの極致たる人物との類似性を語られること──それらに対する怒りと困惑に混じって、ほんの微かな納得と安心感があり、そのこと自体が認め難く、あり得ないことのように感じられる。

そして私の内心の動揺を明らかに見透かしていながら、マクリーンは言葉を止めようとはしない。

「君は助けを求めることができた。自らの言葉で、己の窮状について、つぶさに伝えることができた──監視の目を考慮したとしても、身の危険を訴えるだけの手法を持っていた。しかしそうせず、友を試した。自分の異常な有様を見過ごすか、それとも立ち上がるかを見たかった。彼が密告者、あるいは傍観者気取りの卑怯者でないかどうか、君には分からなかった」
「違う! 私は彼を巻き込んではいけないと考えて、詳細を話すべきではないと」
「ではなぜ飴村医師の行動記録を閲覧した? 友人の連絡先は全て暗記している君が、なぜ人事ファイルの更新に目を通し、一介のカウンセラーの接触した人物を確認し、監視まで要請する必要があったのかね。君を私から救う代わりに内部保安部門へのカウンターに使おうとするような輩が彼の近くにいるか、よくよく調べていたようだが」
「それは──」
「言わずともいいさ。こんなものは最新の一例でしかなく、君が望むのなら、いくらでも類例を挙げられる──もっとも、君にはこれだけで十分のようだが」

一呼吸。言葉もなく混乱する私をマクリーンはただ見ている。嘲笑ではなく、むしろ同情と共感に溢れた、まるで新しい教科書への理解が追いつかずにいる教え子を応援する教師のような目つき。それがひどく気に食わない。彼の言葉に反論したくとも、その材料が見つからないことも気に食わない。何もかもが気に食わない。

私は言葉を信じている。人と人との相互の信頼が組織を超えた連帯を生むと信じている。友情の強固さを信じている。そのはずだ。しかし同時に、怒りに加熱する思考の片隅で、腹立たしくも冷静さを保つもう一人の私が、マクリーンの言い分もまた正しいのだと告げている。思想がどうであれ、態度がどうであれ、私の行動は白イタチのそれに瓜二つなのだと。

そしてだからこそ、マクリーンは自宅に私を招いた。同類への挨拶に礼を尽くした。おそらくは自覚を促すために。

「理解してほしいものだ、ジョシュア・アイランズ。私は君の行動に深く根付いた、君自身すら騙し通すほどに巧妙に隠された、素晴らしい猜疑と不信の芽を見ている。君は自分を擁護するための言葉を無数に持っているだろうが、そんなものに私は興味がない。君はすべての言葉を疑い、すべての人脈を利用する。若く、考え無しで、私に楯突く愚か者で、信義などというくだらない妄想に囚われている。しかし同時にひどく優秀だ。君には素質がある、私のような──」

そこが限界で、それ以上の言葉を座して聞き続けることはできなかった。私は丁寧に、静かに、万が一にもマクリーンに危害を加える意志があると思われることのないように、ゆっくりと注意深く立ち上がった。猫は静かに首を傾げ、マクリーンは満足げに笑っていた。

「帰るのかね」
「これまで、あなたという存在に興味が湧いていました──私のような一介の外交官に何の用があるのかと、少しばかり期待までしていました。しかし今、はっきりとわかりました。私はあなたが嫌いだ」
「そうだろうとも。そうならなければうちの分析官は廃業だ」
「こうなることを、予期して?」
「君はそうではなかったのか?」

尋問者の手法。もはや舌打ちを堪える気にもなれなかった。丁重にコーヒーとケーキの礼を言い、それから私は踵を返して、この不快な場所から立ち去ろうとした。

視界の隅を過ぎる影──猫についての奇妙な考えが到来するのは二度目のことだった。私は静かに跪き、遠くからゆっくりと猫に手を伸ばした。三毛猫は首を傾げ、欠伸をした──それから頷くと悠然と走り寄ってきて、私の掌に顔を擦り付け、目を細めて甘えるように鳴いた。

「驚いたな」

言葉とは裏腹に、そのような感情を全く浮かべることなく、白イタチは静かに呟いた。

「私にはそんな態度を見せたことがない。もしや君は猫に好かれる性質か?」
「彼女は私と同じなんですよ。あなたのことが嫌いなんだ」
「出来の良い冗談だ。事実かもしれないが」

マクリーンは得心したとばかりに頷いた。私はため息をつき、見た目に反してよく手入れされている、短いが柔らかな毛並みから手を離した。猫は嗄れた声で鳴き、私の足を小さく叩いた。まるで同情しているかのように。

*

玄関までマクリーンはついてきた。見送りをするつもりなのだろう──数時間前ならどう考えただろうか? 謎めいた高官からの厚遇に、感謝と優越感を覚えたかもしれない。しかし今はもう、たとえ純粋な気遣いであっても、有難迷惑にしか感じられなかった。革靴を履き、腰にまとわりついてくる猫を引き剥がしてマクリーンの側に押しやると、彼女は不満げに野太い声で鳴いた。

「それでは、これで」

金輪際こんな場所を訪れることはあるまいと、決意を込めて身を翻す。

「答えを聞かずとも良いのかね?」

背中に投げかけられた問いは、明らかに最も効果的なタイミングを計算されていた。玄関のドアハンドルに手をかけたまま、私はマクリーンの言葉を無視してこのまま出ていくべきか思案する。煩悶は一瞬で過ぎ去った──外交官としての私、マクリーンの言う組織の代弁者ではなく、私自身の抱く理想が、対話の意志を看過してはならないと告げていた。それがマクリーンの思い通りの展開だとしても。

せめてもの抵抗として、子供っぽい仕草だと知りつつも、私は背を向けたまま応じる。

「既に答えは出ています。聞く必要はない」
「私が君のキャリアプランを台無しにした理由をか?」
「どうか私の自惚れであってほしいと願っていましたが、その可能性は低そうだ。謹んでお断りします──あなたの後継者になぞ、なりたくもない」
「私とて、べつだん望んでこの地位に就いたわけではないのだがね。適切な人材配置の結果とは、得てして本人の志望とは異なるものだとも」

拒否権などないよ、とマクリーンは笑った。

「じきに研修の案内が届く。すぐに異動の辞令が下るわけではない──人事局の適性評価次第では、もしかするとずっと、外交官として居続けられるかもしれない。しかし望むと望まざるとにかかわらず、君には新たな技能を身に着けてもらう。他人の鏡を覗き込みながら、自分の鏡を保つやり方を」
「なぜ、私に」
「無論、素質があるからだ──イタチの素質だ。間抜けな部下でも冗談のセンスは悪くない。私が飼っているべき動物が、なぜ猫だったのかわかるかね?」
「……猫もイタチもモグラを殺す。賢く、卑怯で、闇に潜み、牙を立てる。人に飼われるが忠誠はなく、家を荒らす獣を殺さなければその価値を失う」
「連中が後半を意識していたとは思えんが──正解だ。適材適所、君の猜疑心と偏執は、財団が最も必要としている場所で活かされる。それが内部保安部門であるかは私の知るところではないが、そうであってほしいと願うからこそ、私は君を気にかけている」

それきり会話が途切れた。足音は聞こえない。マクリーンはずっと背後にいて、私が何かしらの行動を起こすのを待っているのだ。おそらく、このまま出ていっても良いのだろう──理性はすぐさまそうするべきだと告げていたが、しかしこれほど一方的に不本意な内容を並べ立てられ、そのまま逃げ帰るというのでは、流石に腹の虫がおさまらない。

深呼吸をひとつ。結局、決裂は先方も織り込み済みだったのだから、反論のひとつくらいは構うまい。これまで散々聞かされたマクリーンの長広舌を元に、彼が乗ってくる話題があるとしたら──

「靴墨の壺に落ちた白イタチは、前にも増してネズミを捕るようになった。何故だと思いますか」
「ネズミどもは黒く染まった毛皮に牧師の装束を重ね、イタチが改心して獣性を失ったと誤解し無警戒に近づいた──イソップ童話とはな。些細な変化に気を取られ、狩人の意志の強固さを甘く見た蒙昧さへの警句だ。それが何か」
「纏うものが周囲からの態度を変える、その内心にかかわらず。だからこそ、私はあなたのようになりたくない」
「ほう?」

ドアハンドルから手を離す。半身を傾け、マクリーンに目を合わせる。青緑の視線は、先程よりは恐ろしく感じられない。それは私の心情ゆえか、単にマクリーンがこちらを試すのをやめたからか、それとも私と同じようにマクリーンを睨みつけている──足元からだが──老猫の助力によるものか。

「私はあなたに似ているかもしれない。イタチの素質があるのかも──だからといって同じ毛皮を被るなら、意図して獣に堕すだけだ。誰もがあなたを白イタチのように毛嫌いするのは、あなたの立ち居振る舞いすべてが、狩りの前兆でしかないからです」
「自分はそうはならない、と?」

そのようなことができるのか、という言外の問いかけは、果たして私に対してか、それとも己を顧みてのものだろうか。少しばかり意外に感じながら、私は慎重に会話を組み立てる。ティーパーティーはもう終わったが、外交は別れ際が本番だ。

鏡に映る姿だけが真実だとマクリーンは言った。行動とその延長にある意志。だが人間はそれだけの存在なのだろうか? それ以外には何の価値もないのか? ならばなぜ人間は建前を述べ、理想を掲げ、そのために仮面を被るのだ?

答えは単純だ。欲求、意志、行動。それだけが意義であり、それしかないのなら、もはや獣と変わらない。

「真実だけが重要だとは思いません。誰かに見せたい己の姿、たとえそれが嘘だったとしても、そのために纏われる服、発される言葉には価値がある」
「嘘とは裏切りであり、裏切りとは破局への階梯だ。それでも君は、嘘を許容するか?」
「我々は人間です。人間は嘘をつく生き物でしょう」
「そうだ。だからこそ私の仕事がある」
「では、あなたはモグラを狩っていればいい──私は人間と話をします」

ドアを開ける。夕暮れ時の住宅街は屋根の傾斜を赤く染めている。玄関前には警備員が2人、左手に警棒、右手はホルスターに添えられている──とうとうただの巡回という偽装すら放棄したようだった。あからさまな警戒ぶりに苦笑いしつつ、私は陽光の元へ脱出する。そこはまだ人間の世界だ。薄暗いイタチの巣穴ではなく。

「最後にひとつ聞きたい」
「…………なんでしょう」

数歩を歩き、ついに逃げ果せたかと肩の力を抜いたのも束の間、私のペースは最初から最後まで彼に握られる定めにあるようだった。天を仰いでの私のうめき声に、玄関の奥のマクリーンは涼しい顔で、足元にうずくまる塊を指差す。

「いい加減、彼女への警戒を解くべきかな? 君の意見を聞かせてくれ」
「…………なぜ、私に」
「交渉の専門家だろう。まさかとは思うが、相手は本当に人間でなければいけないのか?」

先程の会話を受けてのあからさまな揶揄に、私は歯を剥き出して憎たらしい白髪頭を睨みつけたが、さしたる効果はなさそうだった。元より感情的に相手を威圧する訓練など受けていない──練習していないことを咄嗟にできるような器用な人間ではないのだ。暫く無為な抵抗を試みた後、仕方なく私は口を開いた。

腹立たしいことに、答えは最初から決まりきっている。鏡に映る白イタチが囁くままに、私は苦い顔で言葉を返す。



「絶対に気を緩めないでください。彼女は、猫にしては賢すぎる」

*

客人の去ったダイニングは静かだった。マクリーンは上機嫌に、乾燥台に置いた皿を拭いていた。

ソファの脇の壁が大きくスライドして、内側のモニタを曝け出していた。先程までの威勢はどこへやら、ひどく脱力した様子でふらふらと帰途に着く外交官の頼りなさげな後ろ姿──手にした端末の連絡先は飴村医師のプライベートの番号で、既にAICによる自動盗聴が始まっている──が、屋根上に配置された監視班のカメラによって克明に捉えられている。

突然、上階で物音がした。三毛猫は小さく唸り、椅子の下に逃げ込む。物音はとめどなく大きくなり、やがて階段を数人分の足音が駆け下りて、完全武装の特殊部隊員が5名、ダイニングの入り口に隙間なく集合した。

「次官、ご無事ですか」
「そう見えないのか?」

何よりです、と隊長格の男が返す。その足元に三毛猫が歩み寄り、背中を擦り寄せて小さく鳴いた。視線を落として僅かに表情を緩め、また引き締めて、隊長は上官に進言する。

「アイランズを帰してよろしいのですか、次官」
「問題があるかね」
「明らかに監視を意識していました。こちらの……猫を確認した後も、時折2階を気にする素振りを。我々に気付いていたのではないかと」
「その程度の予想はしてくれなければ困る」
「次官のご自宅の所在を知られています。拘束せずとも、定例記憶処理時に処理範囲の拡充を申請されては──」
「不要だ」
「次官!」

詰め寄る隊長を片手で制し、マクリーンは皿を食器棚に仕舞う。振り返った彼の表情に先程までの笑みはない。服装こそ違えど、彼は既に81管区内部保安部門統括次官、もぐら狩りの最高指揮者に立ち返っている。

「彼はようやく自覚し始めたところなのだ。鏡の荒野、無為なる言葉が立ち消え、数限りない鏡が割れ砕けている。何者をも信じず、鏡に映る意志だけを見据える場所だ。そこに立つ資格を持ち続けるか、落伍して単なる仮面に堕すか。内面の化学反応がようやく始まった。それを無駄にするつもりなのか?」

隊長は口をつぐんでいる。理解できる事柄についてだけ意見を述べ、そうでないものにはただ沈黙することが、彼の唯一の処世術にして、今の上司に気に入られた理由だった。そして当然の帰結として、隊長の生来の寡黙さにはここのところ更に磨きがかかっていた。

部下の躾の出来栄えに満足して、マクリーンは静かに頷く。アイランズは唯一の候補ではない──荒野に立つ資格を持つものは数多い。しかしその多くは落伍するのだ。社会を守ろうとするものこそが社会から外れねばならないというのに、守るべきものの一員であり続けようとして、守るための力を失っている。

だからほんの少しだけ手を貸す。自分のいる場所に落ちて来られる人間に、ただきっかけを与え、観察する。

結局、自分一人で守るには、この組織は巨大にして脆弱に過ぎるのだ。仲間は多いに越したことがなく、しかしその言葉に意味はない。行動が全てを示してくれる。敵か、味方か。狩るべきか、助けるべきか。

真の狩人に必要なのは自覚的な破綻だ。マクリーンは自身の矛盾を理解している。意志の強さとその貫徹を信じ、一方で翻意と二面性を前提とする。両者は矛盾するが、同時に真実だ。矛盾を直視し、受け容れられるものだけが荒野に立つ。アイランズが脱落しようと構わない──しかし、彼が資格を持ち続けるうちは、支援は惜しむべきではない。

「ああそうだ、ことの発端の間抜け──辞表を握り潰すにしても、私のところに置いておけば角が立つ。やはりアイランズに押し付けるべきだな。飴村の件で衛生局に貸しを作れるのも悪くない。RAISAの介入は多少面倒だが、来栖を手元に置いておく口実としては使いようがある。さて……」

いかに内部保安部門といえども確保できるリソースは有限であり、人材は常に不足している。人間は嘘をつく生き物である以上、もぐら狩りは終わることがなく、そのために政治は不可欠だ。マクリーンとて管理職であるからして、本領は組織の維持であり、アイランズが家を出た時点でマクリーンの余暇もまた終わりを告げている。

明日からの仕事について考えながら踵を返し、ふとマクリーンは三毛猫に目を留めた。彼女はまだ隊長の足元を歩き回り、ぴかぴかに磨かれたブーツに頬を擦り寄せては浮ついた鳴き声を上げていて、隊長は姿勢こそ崩さないものの、上司の目がなければ今すぐにでも猫の頭を撫で回したいと全身でもって表現していた。

ふむ、とマクリーンは感心した。やはりあの男、見る目があるのやもしれない。


「君、私のことが嫌いかね?」
「…………は?」


<終>

付与予定タグ: tale jp アイランズ調停官


気になっているところ

  • 長すぎないか
  • 削ったほうがいいところや本筋から外れている描写がないか(おそらく沢山ある気がしているが、著者には具体的な場所がよくわかりません)
  • 登場人物、特にマクリーンを魅力的に書けているか
  • 後半に説明されるアイランズの異質性が唐突すぎないか、説得力があるか
  • タイトル回収できているか(マクリーンと猫、冗談の関係を印象深い存在として書けているか。特にアネクドートに関しての言及が弱い気がしています)
    • 批評をもとに後半にタイトル回収要素をかなり加えたものの、そこでスピード感が失われていないか
  • 天丼ネタ(マクリーンの冗談評価、質問に質問で返す)は面白いか、不要か
  • 鏡についての喩えがわかりやすいか
  • オチが面白いか
  • 以下の先行作品(長いです)で描かれるマクリーンの描写と乖離していないか

参考にした先行作品(全部ODSSですが、この作品は特にODSS時空でなくても成立するという認識です)

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