こんにちは、皆さん。ようこそ。私の声が聞こえていますか? ハウリングや脊髄の痛み、目眩や幻聴、酸素酔いの症状はありませんか? 私の指を見てください。何本に見えますか──3本? 素晴らしい。どうやら意識は正常のようです。
上層を初めて訪れるほとんどの皆さんにとって、この部屋は明るすぎ、また空気が濃すぎるだろうと思います。呼吸はゆっくりと、肺を痛めないように。視覚に問題がある方は、机の中の調光シェードをどうぞ。当駅の生産機能では人間用の装備しか用意できていませんが、バンドの長さを調節すれば実用には問題ないでしょう。
準備ができたら手を──手のない人は何か別のものを──上げてください。気圧の低さに慣れていない人は、椅子を壊さないよう気をつけて。どうか急がずに、生まれ育った環境とは異なる場所でうまくやっていくというのは、並大抵のことではありませんから。
よろしいですか?
では始めましょう。
これは東京駅に皆さんをお迎えするための最初のオリエンテーションです。私はカスガイ、同じ名前を持つものが他にいないので、単に東京駅のカスガイと呼ばれています。
質問ですか? ええ……これは大崩落以前に使われていた名字です。少し説明しづらいのですが、漢字の表記法もありますよ。驚きました、皆さんの世代では、既に名字という概念は失伝していると思っていたものですから。いえ、地上の文化を保存している駅がまだ残っているのは誇るべきことです。どうか自信を持って。
聞きたいことが色々とありそうですね。しかし、まずは私に話させてください。
[咳払い]
このオリエンテーションの受講をもって、皆さんは正式に東京駅の一員となります。この地下世界における唯一の行政機構として、我々は様々なことをしています──暦の発行、下層駅への栄養食と補修物資の提供、通信ケーブルの保守、駅間抗争の調停、路線図の更新、さらには基幹線路の防衛も担っています。日々変化を続ける地下世界のバランスを保ち続け、来たるべき脱出の日まで人々の生存を維持し続けることが、我々の唯一の使命です。
大崩落の後、我々はこの薄暗く息の詰まる空間を人類の生存可能な領域に変貌させることに力を尽くしてきました。脱出という最大の目標こそ叶わなかったものの、それ以外の点については、概ね成功を収めてきたといってよいでしょう。結果として、東京駅は地下世界最大の独立勢力としての地位を築き上げ、そして今日、皆さんをここにお招きするだけの力を得たというわけです。
皆さんは各駅から選抜されたエリートであり、出身駅の代表として、その存続に責任を負う立場にあります。誤解のないように言っておくと、ここでの皆さんの振る舞いがどうであれ、それがキューブの配給量に影響するわけではありません。しかし、故郷への安定した電気と酸素の供給、あるいは残された家族の長寿と繁栄を求めているのなら、東京駅はそれを実現することができる唯一の場所です。
ですから、皆さん。過度に気負う必要はありませんし、私の発言に対して疑問があれば、遠慮なく声を上げてください。議事進行のための誘導には従ってもらいますが、基本的には何を言っても構いません。我々の見解は、特に西方辺境駅出身の方々にとっては受け入れ難いものもあるでしょう。二度の駅間戦争が残した禍根については……私にも思うところがあります。
しかし……
このオリエンテーションをすべて終えた頃には、我々のやり方に賛同していただけるものと確信していますよ。
歴史の話から始めるのは少し悠長に思われるかもしれません……しかし、必要なことです。これからの行動指針を共有するために、まずは過去について話しましょう。
大崩落……最近は「大災」と呼ばれているのでしたか? 皆さんの知識にはかなりのばらつきがあるはずです。時間流の圧力が強い多くの下層駅では、大崩落以前の地上生活の知識はほとんど完全に忘れ去られてしまいました。基準周期に比較的近い上層駅でも、統治者の世代交代が早い場合は同じような状態にあることでしょう。
必要な部分だけ簡潔にお伝えしましょう。地上時間においておよそ20年、いえ20基準周期前、東京を中心とした関東一円を襲った大規模な現実崩壊災害──大崩落の結果、我々は地下に閉じ込められました。
ええ、そうです。今では下層民の多くが忘れている事実です──たった20周期前、我々はみな地上に住み、生存に十分な量の食事をとり、新鮮な空気を吸い、太陽の光を浴びて、概ね安全に過ごしていました。皆さんお察しの通り、私は地上生まれですが……その私にとっても、もはや遠くなってしまった記憶です。
地下鉄や商業施設で被災し、または地盤の崩壊に巻き込まれ、あるいは逃げ込んだ地下施設に閉じ込められた被災者はおよそ30万人。これが最初期の地下人口……つまりは私のような地上世代であり、地下生まれである皆さんの祖先にあたる人々です。そのうち半数が最初の周期を越えることができず、その後の数周期の間に生存者は十分の一になりました。
はい、よくご存知で。「冬」、いまでは死語となりつつある単語ですね。つまり苦難の時期ということですが、上層では概ね冬といえばこの期間を指しています。
東京駅が組織されたのはちょうどこの時期です。大崩落以前の地上においては、世界の安定を担っていた二つの巨大組織が存在しました。しかし彼らについての説明は非常に複雑ですから、今は省きます……
元々、「東京駅」は施設の名前であり、その地下に彼らの基地がありました。大崩落の後、全壊を免れた「東京駅」を拠点にして組織を再編した彼らは、「東京駅」所有者である鉄道事業者連合を加えた、地上脱出のための三者協定を結びました。
こうして我々、組織としての東京駅が設立されたのです。
はい、そこの貴女。いえ、我々が最初に「駅」という共同体を創始したのかどうかははっきりしていません。最初はもっと仰々しい組織名が用意されていたと思いますが、誰もその呼称を使わなかったので、いつの間にか皆がただ東京駅と呼ぶようになって──つまり、名前はあまり重要ではなかったのでしょう。あなたはギンザ同盟の出身ですか? ああ、やはり。築地の商業連合会や議事堂前の典礼師団などはいかにもこういったことを重視しそうですが、我々はこの手の名誉には関心がありません。
続けましょう。我々の組織については、また後でお話しする機会があります。
といっても、これ以上歴史について説明すべきことは多くありません。残された数万人が全滅する前に、我々は最低限のインフラを確立しました。電気、酸素、食料配給、そして最低限の治安維持。非常に困難ではありましたが、我々はやり遂げました。
そしてコミュニティは拡大を始めました。我々の作り出した土台から、個々の創意工夫と努力、途方も無い数の試行を経て、我々の予想だにしないほどの速度と規模でもって、人々はトンネル暮らしに適応しました。そうしてできあがったのが現在の地下世界、もはや総人口を把握することすら困難な、膨張と衝突を繰り返し続けるコミュニティ群集です。
ですから、ええ。我々は最初の駅ではないかもしれません。しかし、最初に地下での生活を始め、人々にそれを教えた駅として──地下世界の存続に責任を持ち、その維持に尽力する義務を負っています。
休憩が必要ですか? それでは15分後にお会いしましょう。
どうでしょう、皆さん。ブラウン・キューブの味は──ええ、ここには地下最大のキューブプラントがあるので。先程皆さんに配布されたのは製造されて10日以内の、非常に新鮮なキューブです。タンパク質の変性がほとんどないので、独特の風味があるでしょう。
美味しい? それは結構。この件に関しては、地下生まれの皆さんが羨ましくなります。私たち地上世代にとって、このキューブの原料である昆虫は……ええ……少しばかり、抵抗感が強いので。
次の講義は東京駅そのものについてです。食べながら聞いてください。ああ、モヤシもありますよ──ここでは毎日必ず規定量を摂取することになっています。遥々上層までやって来てビタミン不足で倒れられては困りますからね。
では続きです。
東京駅の成り立ちについては理解できたでしょうか? 「駅」という単語が地下の居住可能な構造と、そこに住む人々の集落、そこに成立した権力構造や行政機構を纏めて呼ぶものとなって久しいですが、東京駅はその成立の経緯から、他の駅と違ってほぼ全ての住人が何らかの高等技能を有する技術者で占められています。
皆さんが東京駅に入ってからこれまで通ってきたどのトンネルにも、掛け布や小屋、横穴、吊るし寝床はなかったことでしょう。大抵の駅では、肉体労働者は酸素の次に貴重な資源です──しかしここでは違います。
東京駅で必要とされるのはツルハシを握った労働者ではなく、送電線の整備や酸素の濃度調節を行う技術者です。ここにはキューブの生産ラインがあり、加工用ローチの養殖プラントがあり、地下最大の水耕栽培設備と金属加工工場、精錬所、変電所、ラジオ局、それに送風制御システムがあります。これらは地下社会の活動の要であり、どれかひとつでも停止すれば数万人の生活に甚大な影響を与えます。そのため、我々は主要なトンネル全てに改札口を設け、難民や悪意ある者が施設に近づくことを防いでいます。
ここにある代表的な組織は以下のようなものです:
生活局: 地下における人類の生存環境を維持する、最も巨大、かつ最も重要な部署です。キューブと飲用水の供給、発送電、酸素の生成、排水ポンプの設置と稼働、老朽化した駅設備の更新、人口調整、肉電車の養殖・加工など、文字通り生活に必要な全ての事物を担当しています。
運輸局: 路線図の編纂と更新、探索隊の派遣、各種脅威の調査を行う外征部門です。保線軍を指揮下に置き、同盟下にある駅の防衛や敵対生物の間引き、電車賊の掃討などの治安維持任務に当たっています。最も重要な任務は肉電車のダイヤの推定と、策源地たる"巣"の特定です。
逓信局: 同盟駅への布告官の派遣や交渉・通訳、壁新聞の掲示、主要駅毎の暦算、ラジオ放送及び短波無線の中継、地上への救難信号の発信などに携わる連絡係です。駅間連絡員の死傷率は非常に高いことを予めお伝えしておきます──しかし、完全志願制のこの部署は、一度も定員を割ったことがありません。
工務局: 基幹線路及びトンネルの補修維持を担う建築部門です。駅の復元力に抗って居住施設や資源採掘坑を固定することで、駅が住人を駆逐するのを防いでいます。我々の頭上の土が突然崩れ落ちてこないように、彼らへの配給と人員補充は常に他の部署よりも優先されます。
教育局: 皆さんのような新駅員の徴集と訓練、幹部候補生への知識焼き付け、原始化駅への再啓蒙などを行う学校です。教育という概念を保存するために我々は膨大なコストを支払っていますが、その価値があったことは明らかです。
研究局: "総研"と呼ぶ方が駅員には通りがいいでしょうね。私を含め、研究者や超常技術者がここに所属し、地上で習得した技能や知識が失われないように記録しています。新技術の開発研究や、電算室との対話も私たちの仕事です。
管理局: 東京駅の統治者であり、これまでに挙げたすべての部署とそうでない部署を率いています。総大駅長の所在を知っているのは彼らだけです。
これ以外にもいくつかの小さな独立組織が存在しますが、皆さんにはあまり関係ないでしょう。これらの部署で働く技術者、軍人、行政官、皆さんのような徴集された訓練生、そして私のような延命措置を施された地上生まれが、この駅に住む人間の大部分を占めています。
はい、虹色の鰓が素敵な貴方。ふむ? そうですね。確かにここは安全な地域のように見えます。肉電車はほとんどやってきませんし、駅間の抗争にも概ね無縁です。
しかし電車賊は常に略奪の機会を伺っていますし、アラカワ棄水域の難民は過去の恨みを忘れておらず、"ザイダン"の破壊工作は深刻な被害を齎しています。我々の統治を快く思わない勢力は非常に多いのです。それに……ウラの脅威もあります。あれらが存在する限り、2階のバリケードが撤去されることはないでしょう。
したがって、東京駅で最も多くの人材を必要としているのは保線軍です。皆さんのおよそ半数は、オリエンテーション終了後に訓練兵団に振り分けられ、暗所探索と集団戦闘の教育を受けることになります。そうでない方は多くの後方職種の中から、適性検査の結果に応じた訓練課程に進みます。私としては電気整備士と通信士の課程をお勧めしておきます。この地下で最も不足している種類の技術者ですからね。
すべての訓練過程を終えたならば、晴れて正式な東京駅の駅員として任務に就くか、あるいは故郷に戻るかを選ぶことができます。おや、驚かれましたか? 皆さんを徴集するにあたって、布告官が少しばかり高圧的な態度をとったかもしれませんが……我々は人攫いではありませんから、意に沿わない労役を強制することはありません。しかし客観的にみて、東京駅は地下で最も環境の良い駅のひとつです。もちろん、毎年多少の死者が出ますが、どの駅よりも少ないでしょう。ここに残るか、それとも帰るか、ご自分でよく考えてください。
無論、故郷に尽くすという選択肢もまた偉大なものです。我々の管理が及ばない最下層の辺境駅においてもモヤシとキューブの配給が行き届き、肉電車や原生生物が撃退され、曲がりなりにも人間が生存可能な環境が維持されているのは、技術訓練過程を終えて無事に出身駅に帰り着いた先達の努力によるものでしょう。
どちらにせよ、皆さんには選択肢があります。これは非常に重要なことです。この地下世界では、選ぶということは不可能です──人々は生きるために、分岐のない線路を進むことを強要されています。しかし皆さんには、幸運にも選択の自由があり、そのために思考することを学ぶ必要があります。教師という職業が存続しているのは事実上この東京駅だけです。皆さんにとって、貴重な一周期となるでしょう。
もしも東京駅に残ることを決めたなら……管理局を代表して、総大駅長が皆さんに挨拶をするでしょう。彼との契約をもって、皆さんと故郷との繋がりは断ち切られます。家族と過ごした穴蔵の中での記憶はひどく曖昧なものとなり……その代わりに、この白熱灯に照らされた場所で行われる人類存続への献身の責務が、皆さんの脳に直接刻まれるでしょう。
どちらを選ぶべきなのか、私には分かりません。選択肢がなかったのでね。
これくらいにしておきましょう。
地下世界がどこまで広がっており、どこで行き止まっているのか、実のところはよくわかっていません。
大崩落以降、多くの探索者が闇の中に旅立ち、そのほとんどが永久に行方不明になりました。彼らの多くは地上を目指して掘り進み、本来であれば地表があるべき場所で次元断層に接触して、次元の狭間で不可逆的に圧縮されました。またそうでない者は、より悲惨な末路を迎えました──空間震に巻き込まれる者、時間流の加圧で衰弱死する者、大ウツロを永遠に落下し続ける者。肉電車に乗って地上駅へ出ようとすれば何が起こるのか、知らない人はここにいるでしょうか? 私はそれが最初に試されたとき、その始まりと終わりを見ました。全員が"キップ"が切れる前に死に、遺体はほとんど消化されていました。あまり賢明な手段ではなかったとだけ言っておきましょう。
地上に出る試みがことごとく失敗したあと、崩落せずに残っていた鉄道路線を使って地下での生存範囲を広げようとする人々も現れました。こちらの挑戦は成功したといっていいでしょう。複数の駅が接続されて交易路となり、「冬」の時代を乗り越えた社会は大きく発展しました。
しかし、依然として地下は我々にとって不可解な領域です。
線路は……皆さんにとっての家であり、恵みをもたらす使者であり、災厄を運ぶ軌条です。そして同時に、異界への唯一の通路でもあります。距離、物理法則、時間の流れ、全てが線路の向こう側では異なっています。それぞれの駅で歴史が、言語が、法律が、場合によっては構成種族すらもまったく異なるように、時として長いトンネルを抜けた先では、世界が違う形をとっています。
皆さんは携帯路線図を持っていますね? これも我々が発明したものです。路線図の作成と配布に力を入れているのは、ただ線路を漫然と歩き続けるだけでも、いつの間にか死の危険に瀕する例が少なくないからです。線路上を徘徊する怪物や盗賊たちはもちろんのこと、駅そのものが時間流の狭間に漂っていたり、重力崩壊の只中にあったり、はるか遠方の座標に接続されていたり、あるいはより単純に、ガス溜まりになって無酸素状態にあるかもしれません。
隣の駅に移動するだけでも、死の危険が常に付き纏います。我々は常に路線図を更新し、放棄された駅や危険な路線、新たに生まれた肉電車の通過時刻を反映し続けています。西方辺境のシンジュクやその先、また江戸川断絶溝以東の未踏領域には未だ探査が及んでいないのが現状ですが、いずれは遠征隊が組織され、幸運にも彼らが帰還できたときには、調査内容が路線図に組み込まれるでしょう。
もしかすると遠征隊を率いるのは、ここにいる誰かかもしれませんね──訓練を無事に終えられればの話ですが。訓練過程に入る前に、携帯路線図のカセットを最新のものに書き換えておいてください。10周期前の路線図なぞを使っている人の命の保証はできませんからね。うまく動作しなくなった端末は配給所で無償で交換できます。高価な品ですので、できるだけ丁寧に扱ってください。冗談でも何でもなく、それが皆さんの命綱です。
次に進みます。
地下世界に存在する危険について、もしかするとこの部屋にいる何人かは、私よりも詳しいかもしれません。ですので、この話題に関してはあまり詳細には語らないことにします。
スライドを見てください。これは3周期前に撮影された、非常に興味深い資料で──
武器を仕舞いなさい! これは生きていません──貴方を攻撃することはない!
[複数の足音、摩擦音、悲鳴]
……落ち着きましたか。
地上文化の講義が必要な方が多いようですね。念のためにお伝えしますが、これはあらゆる意味で死んでいます──映像から飛び出して、貴方たちに食いつくことはありません。ですから静かにしていてください。
明るいところで肉電車の全身を見る機会はほとんどないことでしょう。彼らは暗がりを好みます。この地下世界において最も発展した生態系、事実上の地下の支配者です。巨大な体躯を覆う硬い甲殻と強靭な筋肉に加え、高熱を発する衝角や猛毒の刺胞を有しています。一部の個体は次元異常に耐性を持ち、地上と地下を自由に行き来します。人間を含むほとんどの有機物を餌にし、非常に高い運動能力で地下軌条のある場所ならどこにでも現れます。
はい、そこの貴方。槍はもう必要ありませんよ──ええ、そうですね。肉電車は非常に危険な存在ですが、同時に重要な資源でもあります。幸いにも彼らは小型の草食哺乳類程度の知性しか持たず、基本的に固有のダイヤに沿って縄張りを周回するだけです。ですから適切な手段を用いれば罠に嵌めることができますし、殺すこともできます。そして食べることも。
このスライドもそうして撮影されたものです。上層の肉電車は若いうちに狩られることが多いので、これほど大型の個体は珍しい。16両編制で、刺胞の射出や溶解液の噴霧、高圧蒸気による広範囲の焼却能力を有していました。3つの駅がこの個体によって壊滅しました。駆除のために保線軍はかなりの犠牲を出しましたが、その価値はあったと信じています。
皆さんの携帯路線図に記された赤い時刻表記は、すべてこのような危険個体の通過予測時刻です。大抵の肉電車は8両以下の中型個体で、黒字で表記されています。討伐されたり、共食いで死んだり、10周期以上に渡って目撃報告の途絶えた個体は消去されます。青や緑の時刻表記については……気にしない方がよいでしょう。人語を喋る肉電車に遭遇するのは、あまり気持ちの良い体験ではありません。
肉電車については、この程度にしておきましょう。養殖事業について知りたい方は、畜産技師の課程を取るように。
下水ワニについてはどうですか? そこの作業着の人、笑うところではありません。あれが子供騙しのおとぎ話だと思っているとしたら、認識を改めるべきです。
下水ワニは実在します──「盗みを働くと下水管に落とされ、恐ろしいワニに喰われてしまう」というのは、過去の野蛮な処刑法についての言及であると同時に、まったく事実に忠実な格言です。彼らは生物学的なワニとは無関係ですが、その異常な生命力と現実改変能、高い知性は肉電車以上の脅威です。これまた幸いなことに、彼らには生殖能力がないと考えられています──個体数が非常に少ない上に線路上にほとんど出てこないので、遭遇する機会は多くありません。ですがもし万が一、まだ封印されていない下水管を発見したならば、絶対に近づかないでください。
下水ワニを討伐した事例は記録にありません。遭遇した上で生き残った例も数えるほどです。局所的な現実改変に加え、彼らは奇跡術を……魔法を使うことすらあります。いくつかの調査隊が壊滅してから、下水ワニの対策事業は打ち切られました。彼らの主食が肉電車であることは、地下世界全体にとって幸運です。
他にも様々な脅威が地下にうごめいています。電車賊についてはご存知でしょう……あの略奪者集団がどのようにして駅外で生存しているのか、我々は未だに答えを出せていません。水没駅からは原生生物や歩行菌類が湧き出しますし、滅んだ駅を通過するならば霊体避けの装備が必要です。腐肉漁りの大鼠は子供にも倒せる生き物ですが、もし女王が率いる繁殖期の群れに出くわしたなら、まず生きて帰れないでしょう。"駅喰らい"の危険は言うに及ばず、ウラから湧き出す怪物たちを押し留める方法は、今のところ焼却しかありません。
いいですか? 私は皆さんを怖がらせたいわけではありません。
しかし、適切な知識と技能を持たなければ、この地下世界で生き延びることは難しいのです。そして東京駅では、その両方を手に入れることができます……少しばかりの忍耐によって。このことをよく覚えておいてください。
次が最後です。
ここまでは東京駅の成り立ちと任務、それに関わる脅威について学んできました。最後に、地下世界に存在する我々以外の支配勢力について説明しておきます。
中層までの大抵の駅は、我々と同盟関係にあるか、緩い協力を行っています。しかし様々な理由で、独立した統治を志向する勢力も少なくありません。以下はそのような勢力の一部です。
ギンザ同盟: 上層駅の出身なら、名前を聞いたことがない人はいないでしょう。築地、新橋、銀座の三駅連合で、地下で最も裕福な勢力です。大崩落当時、これらの駅は東京駅による支配を拒絶し、膨大な災害用備蓄を背景に独立しました。傭兵制度による軍事力と、マグロ鉱脈の資金を元手にした貿易で巨万の富を築き、地下人口の拡大に多大な影響を与えています。商業連合会は東京駅の同盟者であり、相互防衛義務を有していますが……政治的には、複雑な対立と利害関係を抱えています。
アラカワ棄水域: 入谷や浅草、北千住など、荒川からの浸水によって水没した駅と路線の総称です。原生生物群の襲来と度重なる浸水から東京駅一帯を守るため、線路ごと切り離されました。隔壁建設を巡る抗争と、閉鎖後の水難で少なくとも数百人が犠牲になりました。上野駅の防水扉は何十周期も開放されていませんが、時折向こう側から扉を叩く音や叫び声が聞こえるため、水没した居住区に生存者がいる可能性があります──過去に何度かそれらしき生物が流れ着いたこともありますが、彼らは人の形をしておらず、我々のことをひどく憎んでいました。
シンジュク辺境区: かつて西方探索の中心であった新宿駅とは定期連絡が途絶えてから長く経っています。ここには地上に繋がる大ウツロを中心とした特異な生態系がありました。駅間戦争による荒廃で中間駅が壊滅した後、肉電車の増加で安全な交易ルートが失われたため、無謀な旅商人や食い詰めた難民による小規模な往来を除いて、シンジュクとの交流はありません。駅政府が存続しているかも不明ですが、今のところ、人類のコミュニティはまだ滅んではいないようです。
これ以外にも、いくつかの小規模ながら危険な勢力が知られています。彼らは特定の駅に居住せず、放浪を繰り返しています。いつか衝突する可能性に備え、基礎的な知識を身に着けておいてください。
ジムシ: 複眼のようなゴーグルで素顔を隠す狩人の集団を見たことがある方はいるでしょうか? ジムシはいわば先住民で、大崩落が起きる以前から地下鉄に隠れ住んでいました。都営新宿線の全域が肉電車の縄張りになって以降、あそこに彼ら以外の人間は残っていません。傭兵行為や貿易のために時折上層まで足を伸ばすことがありますが、非常に閉鎖的で攻撃性の高い集団のため、関わることはお勧めしません。それから、彼らの前で"コウキョ"の話はしないように──何のことかわからないのなら、それで構いません。
電車賊: 勢力というほど統制が取れているわけではありませんが、地下社会の構成要素のひとつには違いありません。略奪と盗品売買で生計を立てる盗賊です。複数の派閥に分かれており、相互の同盟関係は皆無です。彼らに人間らしい振る舞いを期待するべきではありません……人質交換の試みはどれも酷い結末に終わりました。保線軍の長年の掃討作戦にもかかわらず、彼らの数は増え続けています。
白服: 彼、彼女、または彼らについてはまだほとんどわかっていません。下水ワニを生み出した存在と噂されていますが、最後に下層駅でその姿を目撃されてから100周期以上が経過しています。実在していたとしても、既に生きてはいないでしょう。
それから……はい? ああ。
ザイダン: 財団の名が完全に悪の代名詞として扱われることには、個人的に怒りを覚えます。しかし、我々はもうこの名前を使っていませんし、彼らは堂々と名乗っていますから、単に"ザイダン"といえば彼らのことでしょう。我々と大昔に袂を分かった分派ですが、かつての知識を悪用しています──廃棄区画で人体実験を繰り返し、下層駅を脅迫して人身売買や物資の窃取を行う犯罪者集団です。「正統な地下の支配者」を自認し、有力駅の指導者暗殺と支配層の交代、東京駅の体制転覆を目論んでいます。交渉は無意味です。彼らの壊滅もまた、我々の任務の一つです。
これ以外にも様々な勢力が存在していますが、外交関係が確立できたものは極僅かです。どの勢力にも所属していない駅の中で文明と呼べるものが残っている場所は数少なく、複数の駅は原始的な酋長制にまで回帰してしまい、言語すら忘れ去ってしまった駅もあります。
それでもなお、彼らもまた地下の住人です。戦争の遺訓を忘れないために、路線図には関わり合うべきでない人々の住む駅がリストされています。双方の安全を保つため、これらの駅には近づかないようにしてください。
さて、長いオリエンテーションもこれで終わりです。この後、皆さんは各々の訓練過程に振り分けられ、再び一箇所に集まることはありません。質問したいことがあれば、今のうちに聞いておくように。
それでは、はい。
地上への脱出は本当に不可能なのか、ですか?
ふむ。
不可能だとお答えすることは簡単です──実際、それを達成したものはいません。もし仮に存在したとしても、もう一度戻ってきて、それが可能だと我々に告げたものはいません。地上から落ちてきた事例は僅かながら報告例がありますが、その逆が成功した記録はひとつたりとも残っていません。
無数の屍の上に積み重ねられてきた全ての記録と経験則は、我々がもはや二度と太陽を見ることが叶わないという単純な事実を提示しています。
しかしながら私は、大崩落の渦中に居合わせたひとりの被災者として──そして冬の時代の生存者として、確信を持って言うことができます。
脱出は可能です。我々はいずれ、この場所を出て、もう一度空の下に戻ります。
なんとならば既に我々は一度、不可能を可能にしています。不毛の地下世界に人類を根付かせ、もう一度社会を組み上げるという途方もない難事を乗り越えた。出口の見えないトンネルの中、飢えと寒さに震える地獄の中で、誰もが実現できないと考えていたことですが、結局、我々はやり遂げました。様々なものを犠牲にしてね。
今度もそうなるでしょう。
信じることをやめない限り、炎が絶えることはありません。闇の中にこそ希望が存在し、そしてそれを掴み取ること、そのための礎を築くことこそが、東京駅の存在意義なのですから。まだ我々がここにいる以上、可能性は常に残されているのです。
他に質問はありますか?
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