宇美海遊女は休まない
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コーヒー-ブレーク

〘名〙 (coffee break) 午前・午後の仕事の中ほどでとる短かい休憩。また、会議・講演などでの中休み。



休暇を取らないのですか、と訊かれた。

きゅうか、と鸚鵡返しに呟く。単語の意味を知らないわけではなかった。ただ単純に、言葉の持つ要素と自己認識との接続が、すぐには行われなかったというだけだ。

偏執的なまでに整然としたデスクの向こう側で、点眼式見まろびめしきみがこちらを睨んでいる。否、見つめている。基本的に彼女に敵意はない。薄化粧では隠せない深々とした眼下の隈と、ドライアイ気味で細められた目つきは、数多の同僚に困惑と誤解を振りまいてきたが、私は彼女が慢性的な睡眠不足にあるだけだということを知っている。

だからこうも思うのだ。休暇が必要なのは私ではなく室長なのではないかと。

「そういう話はしていません」

類まれなる吝嗇気質と他人の生活に口出しを厭わぬ口煩さでもって多くの職員に恐れられている上司は、思わず口を突いて出た率直な感想を両断した。

「今年度の有給休暇を一日も使っていないのは、うちの部署では貴女だけです。人事部から要請が来ています。今年こそは消化率100%を達成せよと」
「はあ。ですが私、別に休みを取るほど疲れていませんよ、ほらこの通り」
「そういう話もしていません」

むん、と右腕に力こぶを作ってみせるも完全に無視される。制度の話です、休みなさい──断固たる口調で言い切って、点眼は一揃いの書類をこちらに突き出した。

「貴女が休日をどう過ごそうが私は構いません。そこに記載された日数分、サイトに出勤するなと言っているのです。コーヒーを淹れるなり友人と話すなり、仕事と無関係に過ごしなさい。貴方が普段、勤務時間中にやっているように」
「うっ」
「人事部にどう言い繕っているのか知りませんが、貴女の勤務評定は私の想像を遥かに超えた高評価です。納得はできませんが、理解はします。願わくば勤務中の休憩は最小限に抑え、必要に応じて休暇を取得し、メリハリをつけた業務遂行を心がけてほしいものですが」
「ううっ」

至極まっとうに指弾され、返答に窮する。勤務時間には仕事をしろ、休憩は少なめに。嫌味な言い方ではあるが、明確に正しい。が、私とて人である以上、すぐには従えぬことも多少はあるわけで。

「何を馬鹿な、だいいち貴女は備品を使いすぎなのです。よくもまあ休憩室の消耗品をあれだけの速度で使い切れるものです。コーヒー粉と砂糖の補充申請は却下します、これ以上の浪費があるようなら給湯器は撤去しますから──」
「可及的速やかに休暇の申請を行いますッ」

怪しい方向に向かい始めた会話を大急ぎで断ち切り、差し出された書類をひったくる。仕事の続きがありますのでそれでは、と一礼し、ついでに翻訳を終えた国外からの照会要請書の束を押し付けて、私は速やかにその場を立ち去った。可愛らしいギザギザの歯を剥き出しにして「コーヒーフィルターを一回使っただけで捨てるな」とかなんとか唸っている上司のことは意識の外に押しやった。

結局の所、私は不真面目な人間である。お小言など真剣に聞くものではない。

*

「というわけで、お暇をいただくことになりまして」
「ひでえ話だ」

飯尾唯は肩を竦めて珈琲を啜った。パイプ椅子に浅く腰掛け、室内用のサンダルを履いたまま足をデスクに掛ける仕草が妙に様になっている。ひどく行儀が悪いのに、それが似合っているものだから注意するのが躊躇われる。私は諦めて自分のぶんの粉をドリッパーにゆっくりと掻き入れた。コロンビアを豆から挽いたお気に入り。無論自腹だ。せっかく高給を貰っているのだし、使わないという選択肢はない。

「本当にそうですよ。点眼さんったら、いつもいきなり呼びつけては難題を押し付けてくるんですから」
「いやあ、これは宇美海サンの勤務態度について言ってるの」
「そんな!」

一日平均8回の珈琲休憩を除いては、私はそこそこ優秀な研究者だと自負している。英文学というニッチな分野ではあるものの研究業績は良いと自負しているし、財団の内部誌に論文も出している。書類の提出期限を破ったことは一度もない──どれほど優秀な研究者であっても、締切を守るという能力が絶望的に欠けている人が財団には多いので、これは私の素晴らしい強みだ。

「何? 俺への当てこすり?」
「研究室の予算申請書、二次審査で差し戻しを受けたのにまだ修正してないでしょう。わざわざこの部屋までコーヒーをタカりに来るの、事務方の催促から逃げるためですよね」
「美味くて珍しい豆があるからだよ」

言い逃れの上手さは一品級だ。この全身から胡散臭さを立ち上らせている心理学者は、ここ数ヶ月というものサイトの反対側にある自身の研究室を抜け出しては、未詳資料編纂室の休憩スペースに入り浸っている。お陰でただでさえ私が酷使している給湯室の消耗品がいつになくハイペースで消費されていた。点眼室長はさぞかし胸を痛めていることだろう。でも一度使ったドリップバッグの出涸らしをまた飲むなんてまっぴらだ。

「宇美海サンってさあ」
「お代わりは淹れてあげませんよ」
「なんてーか、変に不真面目だよね」
「変とはなんですか変とは」

失礼千万な心理学者は、今度はパイプ椅子の背もたれを両腕で抱えるようにして反対向きに座っている。前髪に隠れた瞳がマグから立ち上る湯気の奥で鈍く輝いていて、これがまたどうにも絵になっていた。口元のヘラヘラと締まりのない笑みがなかったなら、きっと随分人気者だったろう。これはこれである種倒錯的な魅力があるのやもしれないけれど、少なくとも私の琴線には触れない。

「いやあ、新任の博士がしょっちゅうコーヒー飲んでるカフェイン中毒のサボり魔だって聞いたときにはお仲間ができたと喜んでたんだけど、どうもあんたは俺とは毛色が違うから」
「私、皆さんからそんな風に思われてたんですか?」
「着任して一年位は。今はそうでもない、勤務評定は優等生だし、残業してるし、あの点眼と仲良くやってるし」
「ああ……」
「だから変にって冠がつくんだよ。単に不真面目ってーのは俺みたいなの」

にんまり笑って残りを飲み干す。この男は味わうという概念を知らないのだろうか? せっかく高い豆を美味しく淹れてやっているというのにまったく甲斐がない。


コーヒーブレイクについての説明: https://kotobank.jp/word/%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%92%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%AF-263868

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