アオとジュリア
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不可視の天井から月光が降り注ぎ、あたりは真昼のごとく煌々と光り輝いていた。

顔をしかめて、アオは眉間を指で抓んだ。目がひどく疲れていた。数キロメートル続く書棚の端で、彼女は適当に抜き出された書物の山の中に座り込んで、つい先程まで読んでいた — 正確には、読もうと努力していた — 本を乱暴に畳んだ。それは抵抗した。彼女の腕力は意思持つ12キログラム半の大著を完全に休眠させるのに十分ではなく、獣の革で装丁された重厚な博物辞典は読者に反旗を翻し、全身をばたつかせて彼女の手を逃れ、反対側の書棚の奥に姿を消した。

「ああもう!」彼女は小声で叫んだ。先程からずっとこの調子だった — 堂守を自称するろくでなしの放浪詩人から掴まされた情報はまったくのガセネタといってよかった。彼女は数日にわたってキャンプを張り、目星をつけた書棚から本を抜き出しては内容を確認してきたが、図書館はすべての宇宙のあらゆる本を蓄えているくせして、整理整頓という概念をどこかのブラックホールに置き忘れてきたに違いなかった。

ずるずると彼女の身体は滑り、書物の山脈の中で氷河のごとく横たわった。古今東西の名著から名もなき旅行スライムの暗号日記に至るまで、あらゆる形態の文字情報が彼女の横倒しの視界の中で躍動していた。書棚は常に拡張され続けていた。目当てのものに行き当たるまでどれだけかかるだろう? ひょっとすると百年以上はかかるかもしれない。気が変になりそうだった。しばらく彼女は寝転んでいた。

「なにを探しているの?」

声は上方から降ってきた。彼女は飛び起き、中腰であたりを見渡した。図書館は決して安全な場所ではない。厳格とは言いがたい規則を掻い潜り、敵対的な自動装置や悪意ある魔法が書棚の狭間を徘徊しているのを彼女は知っていた。定期的な警告にもかかわらず、常にいくらかの犠牲者と、それを上回る数の行方不明者が出ていた。先程までの油断を反省しつつ、彼女は一応の礼儀 — 知性体であれば大抵は何らかの会話が成立するはずだった — をもって叫び返した。「誰だ!?」

「ここよ」向かいの書棚、高さ10メートルはあるその上に、先程まではなかった人影が月光を背にして座っていた。軽く手を振るなり、しなやかな動作で虚空に身を躍らせ、それは軽快に着地した。アオは少しだけ後ずさった。

「失礼しちゃうね、そんな風に怖がるなんて」それは外見上は人間の女性のように見えた。肩までかかる色素の薄い髪。しなやかな体躯。片耳に銀色のイヤリング。小脇に大きな本を抱え、ばたばたと藻掻くそれを片腕で押さえ込んでいる。それが先程閉じ損ねて逃げていった辞典であることにアオは気づいた。

「私のこと、覚えてないかな? 以前会ったことがあるんだけど」
「どこで? 悪いが、俺からしてみれば初対面だ」
「ううん、なんて言うんだっけ、あの部屋は」それは小さく首を傾げ、その姿はますます人間のように見えた。

「ああ、そうだ。蛇の巣?」
「何?」
「あなたを見た場所だよ。暖炉の前でアリソンに挨拶してたでしょう。ひどく緊張してた」
「……手のメンバーか?」
「ううん、違うよ。ただの隣人かな」

だから挨拶しようよ、そう言ってそれは抱えていた本を後ろ手で勢いよく書棚に突っ込んだ。二度大きく震えた後、本は動かなくなって、完全なる服従のしるしに栞紐がゆるく垂れ下がった。

アオは深呼吸した。なにか妙なことが起きようとしていたが、いくつかの苦い経験から、彼女は図書館での出来事を自分なりに受け入れようと努力することに決めていた。ついでにいえば、どうみても自分よりも身体能力に優れる存在が少なくとも友好的な素振りを見せているとき、それに迎合しない理由も思いつかなかった。

「俺はアオ、本当の名前は違うけど、今はそう呼ばれてる。手の一員だ」
「知ってるよ。私はジュリア、よろしく」

*

「ひどい暑さだ」額の汗を拭いながらユウキは呟き、緩慢に周囲を見渡した。

実際、気温は34℃近くあった。風はなく、油臭い湿った空気があたりを包んでいた。現実世界で人々に見捨てられた製銅所の高炉が霊体化し、漂流する煙突から吹き出す蒸気は低地に吹き溜まってエーテルの影を拡散させていく。"穴蔵"の中がこれほど過酷な環境だったとは! 彼女は本拠の移動を提案したことを少しだけ後悔した。

「ひどい暑さだ」もう一度彼女は呟き、それからスパナを放り出して声を張り上げた。「ねえ、大将はいつ帰ってくるの?」

「探しものが見つかるまででは?」甲高い、しかし落ち着いた声がそれに応えた。

薄暗い倉庫の中から現れた人影は、一見すると小学生くらいの子供のように見えた。糊のきいた白いシャツに上品な濃紺の半ズボン。彼の実年齢が少なくとも数百を越えていることを、一年近くの時間をともにしてなお彼女はうまく受け止められずにいた。

「円、大将は図書館に行ったんでしょう。何を探してるの?」
「我らが首領の探しものといえば、最近はひとつだけです。内なる縁への抵抗」
「あの刀か」

ユウキが頬を掻くと、油汚れが黒く尾を引いた。「珍しいものなんでしょう。見つかるの?」

「さてね。図書館の実情を考えると、アオの寿命が尽きるまでにかの遺物の来歴を特定できるかどうかはかなり分の悪い賭けです」
「ひどい場所だよね。整頓する気がないのかな」
「誰かが大掃除をする気になったとしても、数百年も飽きずに続けるのは難しいでしょうね」
「それもそうか — でも私がお婆ちゃんになるまで帰ってこないんじゃ困る。ここには仕事が山ほどあるんだから」
「そのようで」

頷き、年老いた土精はユウキの手元を覗き込んだ。二人のいる場所のすぐ先でコンクリートの舗装面はなくなり、錆まみれの機械構造が彼らの足元を埋め尽くして垂直に奈落へ落ちていく。無数のパイプ類は今にも崩れ落ちそうに老朽化しながらも、しぶとく這い残って崖に張り付いていた。実際、"穴蔵"は現実世界における西日本の地下のどこかにあるのだが、ふたりのいる場所から見て天井は少なくとも数百メートルは上空にあったし、眼下に広がる空隙はそれ以上の深さがありそうだった。このポケット宇宙にいわゆる"底"があるのか確かめようとしたものは誰一人帰ってこず、今となっては気にするものもいない。

土精が伸びをすると、土蔵の隅で長年放置された陶器のような匂いがした。種族の特性ゆえか、どれほど身綺麗にしようとも彼は常に砂地の気配を纏っている。足元のスパナを拾い、彼が手近なパイプを叩くと、くぐもった反響音が二人の足の下を通り抜けていった。

「昨日の修理でバルブは直ったのでは?」
「そのはずなんだけど、今日もエーテルが溜まりっぱなしだから、どこか換気口が詰まってるんだと思う。亡霊が湧き出てくる前に、高圧蒸気を流して取り除かないと」
「だからこれほど気温が高いのですか。シェルターが炭焼小屋のような有様でした」
「お客から文句は来てないの? 命からがら逃げてきて、今度は隠れ家で蒸し殺されるんじゃ堪らないでしょう」
「どうでしょうね」

円は小首をかしげ、愛用の帳面を取り出した。記録係である彼はいついかなる時もこの紙束を手放さないことにしているようだった。彼が指先で軽くなぞると、紙上に記された黒鉛の筆跡は虫のように揺れ動き、不要な文字列は解けて別のものへと入れ替わった。いくつかのページを捲って同じようにし、彼は検討を終えたようだった。

「今日のところは問題ないでしょう。この前の火口スナークはもう出発した後ですから、恒温動物は滞在していません」
「まだトレバーがいたでしょう。あのカエルみたいなヒト、隠れ場所は決まったの? ここじゃあもといた場所から近すぎるんじゃない」
「焚書者は未だに彼を殺す気でいますから、少なくとも海を超える必要はあります。ラ・リューが受け容れてくれるかどうかですが、穴蔵から彼の地へ直通する方法は見つかっていません」
「クリスマスは何て?」
「図書館に通すのは危険すぎると。彼の分泌する粘液は本を破損させる可能性が高いですから、司書に見咎められれば我々全員が危険に晒される」

「ままならないね」ユウキは小さく呟き、その言葉は現状に対してというよりも図書館それ自体についての彼女の意識を反映していた。彼女にとって、放浪者の図書館は憧憬と畏れを等分した視線の対象にほかならず、帰るべき場所ではない。おそらくはアオにとっても。

彼女はアオを、この小さな一派のリーダーを尊敬していたが、それは多分に彼女の責任感と勇敢さ、そしてある種の無鉄砲な行動力に対してのものだった。たった一人で当て所なく放浪者の図書館への探索に出かけるアオを派閥の年長者たちが誰も静止しなかったのは、ユウキにとって小さな驚きだった。引き止めてみるべきだっただろうか? 彼女は少しだけ後悔していた。

「なんにせよ」肩をすくめ、円はスパナを項垂れるユウキの手に素早く握らせると、大げさに腕まくりをしてみせた。彼の瞳に潜む気遣いの色をユウキは見て取った — 図書館暮らしが長い癖をして、このお節介な精霊は人間の感情の機微に詳しいのだった。「アオが帰ってくるまでには、ここを片付けておいたほうが良さそうですね。彼女は熱さが嫌いだ」

「手伝ってくれるの?」ユウキは苦笑した。

「僕にできることならば。大した知識はありませんがね」
「私も専門じゃないよ。ケーがいないから仕方なく、あいつのマニュアルを使ってるんだ。字が汚いし専門用語だらけで読みにくいったらない」
「では代読しましょう。僕の指示通りに作業するというのは」
「いいね」

頷き、二人は作業に取り掛かった。灰青にきらめく蒸気の向こうで、正午を告げる警笛が沈むように鳴り渡っていた。

*

数時間が過ぎた。

白緑に色づく光源が、正常な形態の瞳孔を持つすべての生物にとって視界の右奥に見えていた。この附属エリアのルールはそれだけで、今のところ安全だとされていた。不規則に海水で満たされることも、誰かの夢の中に圧延されることも、これまでに見たすべての鉄器に関する記憶を抜き取られることもなかった。そういったことが起きうるのが放浪者の図書館であり、本が無事であるという原則はあれど、閲覧者には何の保証もされていなかった。

「だからアンタの登場にはちょっとばかし警戒した」本当は"ちょっとばかし"などではなかったが、アオは分別ある言葉遣いを心がけた。ふたりは山程の本を抱えて、附属エリアの中央部に鎮座する巨大なムカデの上に腰掛けていた。ムカデの甲殻は柔らかく、上質な革張りのソファのようにふたりの体重を受け止めた。

「今は違うの?」
「少なくとも話が通じるし、出会い頭に撃ってこない」
「最初に声をかけたのに」
「もう少し人付き合いのやり方を学んだほうがよさそうだな」

水筒の水を啜り、アオはため息をついた。L.S.の友人だという彼女は書棚を幾つか巡る間、自己紹介がてらに自身の出自を朗らかに披露してのけたが、それは初対面の人物に聞かせるにしては随分と込み入った話題のように思われた。財団に造られ、廃棄され、そしてL.S.によって解放された人造人間? 作り話にしては安っぽすぎる筋書きだ。いつかの宴席で土精がエッグなんたら強奪の顛末について熱く語っていたことを思い出し、彼女は首を振った。図書館は広いようでいて狭い。

「ともかく、ありがとう。アンタの怪力のお陰でかなり助かった。まさか噴水が丸ごと入ってるなんて思いもしなかったし、本を閉じるのが数秒遅れてたら司書が飛んできたかもしれない」
「どういたしまして。大広間を歩き回るのも飽きたし、暇つぶしには持ってこいよ」
「いつも探検してるのか?」
「時々。アリソンの頼み事がなくて、巣の心配性のみんなからお小言を貰ってなくて、ついでに耳鳴りがしないとき」
「耳鳴り?」
「メンテナンスなしに動ける機械は存在しないでしょう?」

ジュリアは足をぶらつかせながら快活に言った。アオはどんな表情をするべきか悩み、結局真顔のままでいたが、ほんの少しだけ頬が強張るのを隠せなかった。

「そんな顔しないで。案外何ともないのかもしれないし」手を振って、オリンピアの生き残りは微笑んだ。

「けど、私と妹以外にオリンピアの稼働個体が見当たらないから、本当のところはよくわからないの。アマンダは財団のセーフティだなんて言うし、アリソンは治し方を探し出すって」
「アンタはどうしてるんだ?」
「気が向いたらこうして書棚を覗きはするけど、そこまで乗り気じゃない。造られたときからそういう仕様だったとして、それに怒る気にはなれないな。残念だとは思うけど」
「そういうものか」
「あなたは違うの? 探しものがあるんでしょ」ジュリアの短い髪が光を浴びてきらめいた。「センゾ? の武器」

「正確には、先祖が大昔にどこぞから奪ってきた武器、だな」

アオは片足でムカデの足を軽く蹴った。ムカデはそろりと動き、アオの背中側の甲殻は少しだけ隆起して、緩く湾曲した背もたれの形になった。アオが持ち出した本のひとつを手に取ると、それはひとりでに開いてアオの手の中に収まり、彼女の指に背表紙を擦り付けるように小さく身じろぎをした。どこか遠くの宇宙でかつて巨大ワニイカを倒すために使われていた6次元の戦闘用注射針に関する考察が、不完全な英訳を通して彼女の脳内に入り込んできた。どうやらまた外れを引いたようだった。

「普通の人間は、生まれ持った自分の性質や環境に疑問を抱くことは少ない……と、思う」本を閉じ、アオは慎重に話し始めた。この風変わりな同行者のことを彼女は気に入り始めていた。同時に、何か価値あることを伝えられるとは考えなかった。結局、書棚の狭間で偶然行き逢ったにすぎないのだ。身勝手に他人に同情するべきではないと、蛇の手での短い生活から彼女は学んでいた。

「別にそれがおかしいってわけじゃないんだ。健康でまともな人間は、自分がどうして二本足で歩いているのかをいちいち考えたりしない」
「そうね。私も左目で紫外線を見られるけど、それを変だとは思わない。あなたたちと違うとは思うけど」
「そんな機能が — いや。とにかく、大抵の人間は生きることに必死で、物事の隠された本質について疑問に思わないか、すぐに忘れ去る。深く考えても良いことがあるわけじゃないし、目に見えない何かが自分の隣に寝転がってるなんて思い込みは馬鹿げて見える」
「でもあなたたちは違うみたい。アリソンが言ってた、蛇の手の人たちはみんな、ほんの少しだけ普通じゃなくて、それはとても……」
「悲しいことだ」

アオは頷いた。「あの人ならそう言うだろう。蛇の手はそういうことに疑問を抱いた人の集まりだから」

「あなたの疑問がそのカタナなの?」
「そうなるのかな。ろくでなしの実家から持ち逃げしてもう6年になるが、未だに元の持ち主が見つからない」
「早く見つかるといいわね。随分苦労してるみたいだけど」
「お陰様で。死ぬまでに返せることを祈ってる」

アオが次の本に手を伸ばしたとき、パチンと音がした — 電灯の紐を引くときの音を数倍鋭くしたような音。積まれた本の上に黒猫が鎮座していた。ひどく尖った気配。不機嫌そうに目を眇めて、黒猫は足元の本を前足で何度か叩いた。

「ミッドナイト?」
「ああ、こんなところにいたんですね」

アオの声を完全に無視して、黒猫はジュリアの方に首を伸ばした。

「勝手に広間から離れないでくださいと何度も言ったのに。探しましたよ」

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  1. portal:5060201 ( 15 Jan 2019 17:15 )
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