卑怯者、と呼ばれた日のことを考えると、小熊月子は今でも身が竦む思いがする。
夕立が過ぎ去った後の、埃っぽい夏の日のことだった。血と火薬の匂いを漂わせた男たちがサイトのエントランスを埋め尽くしていた。十数人の白衣の男女は3階のロビーに集められ、手持ち無沙汰に眼下の惨状を眺めていた。
化学企業の研究施設に見せかけられたサイトの地下で何時間か前に発生したリスクレベルBの収容違反の結果、収容区画と一般区画を仕切る三重の隔壁は重々しく閉ざされていた。3名のレベル2研究員、何人かの収容区画警備員、施設職員が向こう側に残されているはずだった。サイトの防衛設備は完全に火を入れられ、内側に向けてその顎門を剥き出していた。男たちは手を拱いているようで、頻りに通信機に向かって大声で怒鳴りつけていた。
その時自分が何を言ったのか、実のところ彼女はよく覚えていない。財団に雇用されて間もない医学者は、まずまず健全といってよかった彼女自身の倫理観に則って、おそらくはこう発言したはずだ。
男たちは早く突入するべきだ。取り残された人々が化け物の胃袋に収まる前に、可能な限り早急に、彼らを助けてやるべきだ。それができなくて何のための駐留機動部隊だ。
小熊の研修を担当していたのは、初老の研究員だった。サイトへ赴任したばかりの職員へのオリエンテーションを一手に仕切っていた女教授は、杖を片手にロビーの端の長椅子に腰掛け、階下を右往左往する男たちの様子には目もくれなかった。彼女はただ小さく首を振り、そして愚かな新人に対して厳かに、嚙んで含めるようにこう告げた。
"現実の不条理から目を背け、ただあるべき理想のみを追い求めるのは、最も簡単で卑劣な選択だ"
"わかっているのかい? 今、きみは卑怯者になっているよ"
以来、少なくとも新人ではないと自負できるようになるまでの年月を過ごしても、彼女は今なお考え続けている。
*
昼休憩の終わりを告げる電子音が、白い空間に鳴り響いた。携帯端末のアラームを切り、小熊は顔を上げた。
サイトの地下食堂は閑散としていた。彼女が自ら設定した休憩時間は一般的な研究員のそれから2時間遅れている。昼どきの喧騒が嫌いなわけではないが、最近は一人でいることが多かった。単純に、その方が気楽だからだ。
職場での孤立。同情と困惑と軽侮の視線。静かなささやき声。徐々に減っていく担当業務。配置換えの勧告まであと何ヶ月かかるだろう? 一年は保たない、という計算ができる程度には、彼女は自身を客観視できている。
手掛けたプロジェクトが行き詰まった。予算申請を却下された。非効率な提案だと再考を促された。よくあることではないが、ままあることだ。しかし同じことを何度も繰り返していれば、失敗から学習できない馬鹿者か、自説に固執する異常者と見做される。そしておそらく、その評価は一面的には正しい。
Humane Ethical Rapid Operation、倫理・人道的即時対応動員。
職務中に重大な危機に陥った財団職員への人道的対処を目的とした救護部隊──特に目新しいアイデアではない。ひとたび収容違反が起きれば、サイトに勤務していた職員の個々の顔は消え、"要救助者〇〇名"という数字になる。救出のために必要な人的資源の消費に対して結果が見合わないと判断されれば、数字は切り捨てられ、"職務中死亡者"という無味乾燥な別の数字にすげ変わる。
数字から数字へ。この連鎖を断ち切るための銀の弾丸を創り出す構想は、幾度となく論じられては立ち消えてきた。2009年、ある事件を契機に一度はこのアイデアは現実のものとなるかに思われた。結局、計画はまたも頓挫した──小熊月子が忘れ去られた構想を再び掘り返すまでは。
これが彼女の仕事だった。数年にわたって構想し、計画し、立案し、提起し、つい先日何度めかの"要再検討"を通達された、小熊月子の信念。
「提案概要にかかる当委員会の人材運用指針への理解に関する疑義……」
ラップトップの画面に表示されている、厳いかめしい言葉で包み込まれた題目は、要約して言えば"我々はそのような仕事をする組織ではない"ということに尽きる。提案を始めた当初はこの手の通知文にもいちいち憤慨していたが、手を変え品を変えの働きかけと拒絶の連鎖は、彼女に状況への順応を強いた。それでも僅かな苛立ちの感情があり、平素は物静かな小熊はいささか乱暴に席を立った。
仕事の時間だ。彼女に課された業務は日々緩やかに減少し、有り体に言えば干されかけている。それでもまだ爪弾きというまでではなく、猶予がある。財団は常に人手不足であり、時代遅れの計画案に固執する変人であっても、すぐに見放されるわけではない。
かつての記憶。分厚い隔壁の奥の、聞こえるはずのない悲鳴に思いを馳せる。考えなしの卑怯者だった自分を戒めた恩師の言葉を思い出す。
現状は手詰まりだった。たとえ袋小路に陥ったとしても、それは諦める理由にはならない。ただし活路を開くためには、誰かの助力が必要になる。時間は限られている。彼女のコネクションは少なく、取れる手段はそう多くない。
いつものように僅かな興味と憐れみが等量に混じった視線を受けながら自分のデスクにたどり着き、彼女は書類の山をかき分けた。意外にも几帳面な字で書かれた連絡先のメモは、審査書類の束に紛れていた。少しだけ躊躇した後、彼女は受話器に手を伸ばした。
*
「正確に言えば、却下されたわけじゃないんだよね。ただ、骨抜きにされようとしてるんだ」
亦好久の動作は常に大仰で、声も態度も大きく野放図な印象を受けるが、実のところその立ち居振る舞いは意識的にコントロールされている。おそらくは独学か、あるいは生得的に、自身が他人に与えるイメージを一つに絞っているのだろう。それが何を意味するのか、ジョシュア・アイランズは敢えて考えないことにしていた。
「受理はするが助力はしない、というやつですか。すべて自分でやれ、と」
「そういうこと。部隊の枠だけ作り、最低限の予算で間に合せの人材を詰め込む。名目だけの仕事を与えてしばらく飼い殺した後、"機会は与えたが結果を出せなかった"と解体。効果が実証されたアイデアは悪しき前例として記憶され、二度と表に出てこないって公算だよ」
「よくある手口ですね。我々も使います」
サイト上層階、外資企業の内部カフェテリアに偽装されたラウンジで、二人の渉外部門職員は半ば公然と密談していた。周囲に人は寄り付かない。出世街道をひた走る渉外局の若手外交官と優秀な人材の発掘実績で知られる人事局のエージェントが、いかにも意味ありげにラウンジの端の四人がけの席に二人で陣取っているとき、態々聞き耳を立てに行くような人間の命脈は財団ではそう長く続かない。
「で、そんな見え透いた罠はこっちから願い下げなんだけど、そうは言っても提案した側から断れば、次の機会はないわけだ。気に入らない、ひどく気に入らないけど受けるほかない、そういう状況にある」
亦好の人を食ったような口調の裏側にほんの僅かな苛立ちが覗くさまを、アイランズは興味深げに眺めた。この赤縁眼鏡のエージェントは常に飄々と人を煙に巻くようでいて、実際には明確な信念のもとに行動する。久方ぶりの呼び出しは協力要請にほかならないのだとアイランズは察していた。
「それで、私に何を?」
「倫理委員会にも色々階層があってさ、こぐちゃんの案件は上まで届いてない。審査部の定例会で止まってるんだ。この手の提案が全部部長級会合にかけられるわけじゃないから、現状だと審査部長かその下の中級幹部の一存で試験部隊として短期間運用されて、それで終わり」
「……ああ、分かってきました。随分面倒なことを言ってくれますね」
「君にしか頼めないんだぜ? 最低でも部長級、できればもっと上のクラスの幹部に直訴したい。『人的被害をさらに増やすだけ』と言われて切り捨てられてきた人々に手を伸ばす、間違いなく大切な計画なのに、このままだとH.E.R.O.は永遠に石の下さ」
亦好の瞳が燃えている。同期の友人は、その琴線に触れる何かをこの計画か、あるいは立案者──小熊月子という、名前だけは知られている倫理委員会の若手職員──に見出したのだろう。
紅茶に口をつけて表情を隠しながら考える。口頭で協力を約束するのは容易い。しかし倫理委員会の、それも上級幹部となれば、アポイントを取るだけでも何らかの意図を疑われる。そもそも別部署の案件に外から口を出せば恨まれるに決まっている。渉外部門にH.E.R.O.の職員選抜権限を与えた時点で、倫理委員会がどれだけこの計画を軽視しているか知れるというものだ。そんな案件に横槍を入れて無理に検討させ、いざ工作に失敗したとなれば目も当てられない。
断るべきだ、と理性が囁く。この案件は何の得にもならない。審査部が計画を却下したのにはそれ相応の理由があるはずなのだ。専門外の案件ではプロの判断を尊重するべきだとアイランズの経験が告げていた。
「ねえ、ジョシュア──」
「私が今何を考えているのか、分かっていますね?」
亦好の言葉を敢えて遮ったのは、否定の意志を強調するためだ。場の温度が急激に下がったように感じられる。静かに亦好が頷く。口元の不敵な笑みが消えていた。
「率直に言えば、貴方との友人関係だけでは、この案件に協力するには不十分です。審査部の判断を疑問視するだけの材料がない。動く理由がありません」
「はっきり言うねえ。かなり踏み込んだ資料も用意したと思うんだけど」
「読みましたとも──そのうえで、より否定に傾きました。失敗したときのリスクが大きすぎます。私と貴方、そしてお互いの部署の将来がかかっている。本当に理解していますか? 倫理委員会という組織の独立性、その意思決定プロセスに横槍を入れることがどれほどの危険を帯びているのかを?」
職員選抜のための部外協力者である亦好が、倫理委員会の資料を閲覧できるのは分かる。しかし外部の人間であるアイランズに小熊の決済印が捺された資料が提示された時点で、事態の深刻さは理解できた。軽微ではあれど明確な、服務規程および資料保全規則への違反。友人は沈みゆく泥舟にひどく肩入れしている。超えてはいけない一線に足を踏み出している。
そして続く言葉をもアイランズはなんとなく予見していたし、だからこそ内心で頭を抱えた。
「ま、そうなっちゃうよね。でもそうすると、自分で全部やるしかないかな」
「……本気で言っているんですね」
「そりゃあもう。完全に詰みってところまで来ても最後の最後まで足掻いたら、いいことがあるかもしれないじゃない? 私はそういう諦めの悪い人間こが好きだし、それに──」
「?」
「私はもう賭けてるよ。将来とか立場とかそういうの」
言葉だけはあくまで軽薄そうに、しかし真剣そのものの表情で、赤縁眼鏡のエージェントは言う。
この友人は既にその身を崖から投げ出した後だということに、今更ながらにアイランズは気付いた。既に八方に手を打って、最後に自分に声をかけたのだろう。こちらが否定の論旨をお互いの立場に置くと分かっていて、足元を見られている。
思わず舌打ちが漏れ、亦好がにんまりと笑う。
「こっちの立場に気を使ってくれるのは嬉しいけどさ、もうそういう次元の話じゃなくなってるんだよね。彼女の祈りを聞いちゃって、それに納得しちゃったから、もうやるしかないんだよ」
だから助けてくれると嬉しいんだけど。
その言葉に含まれたほんの少しの、しかし本気の切望を感じ取って、アイランズは暫し硬直した。次いで額に手を当てて考え込み、何度か首を振り、最後に深く溜息をつく。ゆっくりと力を抜いて尻からソファをずり下がっていく自分を、机の向こうで亦好が喜色満面に見つめており、それが無性に腹立たしかった。言葉にならないうめき声を上げながら、胸ポケットからメモ帳を引っ張り出す。
「……今回限りです。いくら友人でも、このような危ない橋を渡るのはこれっきりだ」
「ありがと、ジョシュア。いくら感謝しても足りないよ」
「お礼は成功後にしてください。工作の指揮は私に一任、これまで協力を要請した全ての人物のリストを明日までに私のオフィスへ。渉外局のコミットも最低限捻り出します。倫理委員会側の対象者のピックアップは済んでますね?」
「君を巻き込むつもりで全部用意してあるぜ。手伝ってもらえなきゃ、どうせ自分でやるはずだった」
「本職の私ほど上手くできるはずないでしょう──期限はいつですか」
「うーん」
初めて亦好が言い淀んだ。何度目かの嫌な予感にアイランズは頬を引き攣らせた。
「審査部の権限で予算案が正式に通過する前に話をひっくり返さなきゃいけないから……保たせて二ヶ月。できる?」
「ああちくしょう……失礼。やりますとも」
*
ページコンソール
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任意A任意B任意C- portal:5060201 (15 Jan 2019 17:15)
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