一歩を踏み出す

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星屑がつんざくような呻き声とともにタップダンスを踊り、アスファルトを踏み砕く芋虫の多脚がもたらす喧騒はまるで合唱のようだった。宇宙の深淵にわだかまる暗闇の中で、彼女はマグマが全身を這い回る熱に魘されていた。戯画化されたチーズのように穴だらけになった皮膚から燃え盛る氷河が引きずり出され、肉体がばらばらになって酸の海に溶けていった。それを彼女は遠くから眺めていた。

銀色に濁った太陽が彼女の目を焼き、金属の嘴がカチカチと耳障りな音を立てる。誰かが笑っていた。どこまでも落ちていくような浮遊感。不快なむず痒さ。ざわめき。自分の居場所がわからなくなり、彼女は困惑する。ぐねぐねと複雑に折れ曲がったチューブの中を乱雑に滑り落ちていく。不協和音。それは自分の内側から響き、彼女を下へ下へと押しやっていく。

最後に痛みがあり、彼女は目を開けた。

*

目を覚ましたとき、そこは埃と雨の臭いがする場所で、薄暗く、じっとりと湿っていた。起き上がろうとして彼女はもがいた。全身の痒みと、脇腹に燃えるような熱感があった。上体に力が入らず、彼女は腕の力だけでコンクリートの床に這いつくばり、どうにかして重力に抵抗しようと試みた。

「無理をしないほうがいい」

声は部屋の影、朽ちかけたソファの向こう側から聞こえてきた。彼女は驚きのあまり飛び上がりかけ、脚に毛布を絡ませて転げ、次いで衝撃からくる痛みに無言のまま苦悶した。どうやら自分が大きな怪我をしているらしいことは分かっていた。問題はこの状況だ。

「誰なの?」彼女は囁いた。

「医者だ。きみを治療した」

問いかけに応じた声は鬱々とした男のものだった。声色は若くない。べたべたと床を叩くような音が響き、ソファの影からこんもりと盛り上がった布の塊が現れた。廃墟の床にうつ伏せに倒れ込んだまま、彼女は静かに目を瞠った。

「驚かないで──叫びもしないで」

それは困ったように言った。青いサテン、様々な色合いのフェルト、ナイロンシャツ、高級革靴のようにぴかぴかの地革、そういった種々の生地が丸まった中から、おかしな方向に人間の手足が2組ずつ突き出していた。真上に伸びた手にはハロゲンランプが、こちら側に突き出した3本目の手には血まみれの包帯が握られていた。声はおそらく後方から来ているように思われたが、顔にあたる器官は見当たらなかった。

「あんたは──いや俺は、ここはどこだ?」

混乱を振り払い、彼女は尋ねた。わりあいに自身が冷静であることを、彼女は好ましく感じた。歩くこともままならない状態では、目の前の存在に正面から対峙することは難しい──それが敵対的かどうかはわからなかったし、自身の置かれた状況を把握しておく必要があった。

「きみが倒れていた場所からそう遠くない」それは小刻みにぶるぶると震えた。「傷口を見せて」

布地の合間から小瓶とガーゼを取り出し、それは危うい足取りで近づいてきた。踵が逆向きについているせいでひどく歩きづらそうだ。静止しようかと一種だけ考え、彼女は身を任せることにした。脇腹の焼け付くような痛みはひどくなる一方だ。抵抗する気力は湧いてこなかった。

毛布の上に仰向けに寝かされる。服を着ていないことに彼女は今更のように気づいた──全身が包帯だらけだ。腹に巻かれた包帯が手際よく取り去られると、脇腹がごっそりと抉られている様子が彼女の目に入った。肌と肉の空隙は鬱血して黒ずんでいて、そこに灰褐色の光沢ある滑らかな塊が隙間なく押し込まれている。

「うわっ、ちくしょう!」

突然灰色のそれが傷口の中で身じろぎし、細い口吻の隣から触覚らしきものが持ち上がったので、彼女は悲鳴を上げた──それが傷口を這いずり回る感触は、彼女の知覚にはまったく存在しなかった。布の塊は嗜めるように体を前後に振った。

「落ち着いて。肉の白蛆は無害だ──見た目はよくないけど、君の身体を助けてる」
「俺にこれを埋め込んだのか、おまえが──」
「君は死ぬところだったんだ、覚えてないのかい? 処刑人が君を撃って、燃やしたのに」
「処刑人?」
「記憶が混濁してるんだ。落ち着いて深呼吸をして、よく思い出して。君は追われてた。黒スーツの連中、ゴックスの処刑人スカルプハンターに」

彼女が暴れまわることがないのを見て取ったのか、布の塊はどこからか取り出したシャーレの中から、青緑のどろりとした粥をスプーンで掬った。彼女の脇腹に住み着いた蛞蝓めいた巨大な蠕虫は、不器用に伸ばされたスプーンの先に口吻を伸ばして器用に粥を啜っている。3本目の腕によって頭上に掲げられたハロゲンランプの銀光が、すぐ目の前で繰り広げられている異様な情景をつぶさに映し出す。

恐るべき光景から目を逸らすようにして、彼女は考え込んだ。記憶の混濁。ゴックス。黒スーツ。銃撃。炎。

それはつい先日の出来事のはずだった。

*

「冗談だろ」

彼女は言った。その声には疲労と失望が等量と、わずかな怒りも含まれていたが、言葉を投げかけられた相手の方は、端からそのことに気づかないふりを決め込んでいた。

「冗談だろ?」

今度はただの確認だった。その発言が無意味であることは、彼女自身がよくわかっていた。

「そんなわけがありますか。"道"は開きませんよ」

返答の合間にはきしきしと金属の部品が噛み合うような音が挟まっていた。長いこと油をさしていない機械のように緩慢な動きは、実のところ本当にそうなのかもしれない。東京の外れ、溝川の臭気が漂う路地裏で"道"を管理している逸れ者の機械信奉者は、まともな肉体をしているようには見えなかった。

「逃し屋がここにいるって聞いたんだぞ? せっかく高い金を払ったのに」
「お金で安全が買えると本気でお思いなら、貴方はずぶの素人というわけね」

安っぽい細工物を並べた汚い屋台の裏側に座り込んで、逃がし屋は嘲笑った。古い中空の金属パイプを擦り合わせたような不快な音だった。彼女は苛立って逃がし屋を睨み付けた。それ以外に彼女にできることはなく、逃がし屋もそのことを分かっているようだった。

「"道"が次に開くのは新月の晩。お嬢さん、手ひどく騙されたようね?」
「クソったれ」

彼女は乱暴に頭を掻き、足元に転がる空き缶を蹴飛ばした。「俺はその手のこと──魔法とか呪いの類はさっぱりなんだ。月齢がどうとか地脈の流れとか、わかるもんか」

「本当に素人かあ」逃し屋はギイギイと関節を軋ませた。「私が代わりを手配してあげてもいいわよ? 穴蔵行きの特別便、乗り合いでよければね。ちょっとお高くなるけれど、安全で快適」
「騙されないって保証は?」
「ないわよ、そんなもの。不要ならいいの、私は消えるだけ」
「足元見やがって」彼女は舌打ちした。「いくらだ?」

「場合による──危険度次第ね。誰かに追われてるんでしょう? どんな連中なのかしら。魔法の腕は? どこかの不信心な電子崇拝者か企業エージェント?」逃し屋の右腕が素早く回転し、ボタンパッドのない小さな電卓が手の甲に現れた。「肉の信仰者どもが相手なら3割引。魔法使いは1割増し」

「名前も知らないんだ。何人もいて、日本人じゃなさそうなのも多い。身軽で街中だろうと銃をぶっぱなす」
「あら」がりり、と歯車が歪に噛み合う音が響いた。逃がし屋の首は90度折れ曲がり、不安定に前後に揺れていた。「そいつら、全身黒ずくめのスーツ姿じゃなかった?」

「そうだ──見た目だけなら普通のサラリーマンみたいな奴らだ。何人かはカバンを持ったままで……」
「それは残念」

逃し屋の身体が僅かに膨れ、錆臭い蒸気が吐き出された。見る間に汚い屋台は畳まれて手のひらに載るほどの大きさの小箱になり、パチパチと火花が薄暗い路地裏を照らした。逃し屋はもう笑っていなかった。

「ゴックスが追跡者なら話は別。私たちは関わるべきじゃない」
「」

ギイギイとひとしきり耳障りに関節を軋ませて、それきり逃がし屋は動かなくなった。それの肉体はまるで数十年も放置されていたスクラップのように固まり、まったく存在感の欠片もなく、ただそこに転がっていた。

癇癪を起こしそうになるのを必死に抑えて、彼女は歩き出した。まずい状況にあることは理解していた。彼女はひどく空腹で、薄汚れており、疲れ果てて、ついでにほとんど無一文だったが、それ以上に今、命の危機に瀕していた。

どこで間違えた? 実家を飛び出してきてからというもの、災難ばかりのように思える。若く健康で見目の悪くない女が伝手のない都会でどうやって生きていくべきか、彼女はなんとなく理解していたし、そのようにする覚悟があった。ところが全てに最初からけちがついた──今やホームレス以下の存在だ。

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