治安悪いはなし
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あまり長いとはいえない人生において、ジョシュアはとある哲学を持っていた。それは信条とか、思い込みとか、ある種の達観と言い換えられるようなもので、彼の生活の中に根を張り、彼の眼球の表面に張り付き、彼の思考の底に澱のように沈んでいた。

それは楽観に似ていたが、ある程度の強迫観念でもあった。ひどく気分の落ち込んだ夜、つまり奨学金の最終審査に落ちた日や、インフルエンザの熱が引いた後の猛烈な悪寒に魘された日や、良い仲だと信じていた恋人に別れ話を切り出された日には、彼は寝床に仰向けに倒れて、天井を見上げながら決り文句のように呟いた。


人生はそれほど悪いものじゃない。

20年と少しの彼の経験値において、大体はそれでうまくいき、そうでなくとも彼は自分をうまいこと立て直すやり方を知っていたので、ちっぽけな悩みごとを胸のうちにしまい込んでどうにかして忘れることにした。

そして今。

男子トイレの2つしかない個室で、彼は洋式便器の蓋の上に座り込んでいて、クラブの音楽は建物の裏手にも巨人が跳ね回るかのように耳障りに響いてきて、アルコールが誰かの悲鳴と歓声が区別もつかないほどに彼の脳髄を内側から殴りつけ、水浸しの床は30年分の汚濁を溶け出させて埃とアンモニアの臭気を発し、砕けかけの白熱灯を反射した壁のタイルを汚らしい羽虫が這い回っていて、彼の隣の個室ではゴボゴボと音を立てて便器から溢れ出る汚水の中で同僚が1リットルばかりの血を流して、今まさに死んだところだった。


人生はそれほど悪いものじゃない。

眉間に寄った皺を揉み解す。

結局、彼にできることはそのくらいだった。


「あれ、ジョシュアだ。珍しいね、今日は上がり?」

エージェント・亦好の声は卸したてのマグカップの底を擦り合わせるように耳障りなさざめきを伴っていた。日本人らしからぬ抑揚の強い発声と相まって、その声はジョシュアの耳に不快な残響をもって差し込まれた。場違いなほど明るい色をした休憩室のソファの上で、ジョシュアはわずかに眉をひそめた。

「機嫌悪い?」

「いいえ、まったく」ジョシュアは呟いた。それは社交辞令ではなく、実際にそのとおりだった。彼は3時間前に長いオリエンテーションを受けており、そのための事前準備として、以前からいくらかの中和剤を処方されていた。数日の服薬期間と、それに倍する対抗ミームの処方期間。それで"定着"するという触れ込みだった。財団の医師はこうも付け加えた──"慣れないうちはひどい頭痛、それから視覚や聴覚に多少の副作用がある。一時的なものだ"。

「ひどい顔色」休憩室のパーティションに寄りかかり、若いエージェントは指摘した。今度はガラガラヘビのようなざらついた響きがついてきた。シュウシュウシュウ。「私のせいじゃないよね? 君に嫌われるようなことをした覚えはないな」

「ご心配なく。これは……薬のせいです。貴方の声がひどく奇妙に聴こえる」

「そりゃご愁傷様」続けて亦好が聞いた。「それで決めたの、配属先」

「残念ながらまだ」

ジョシュアは呻いた。数時間前まで座っていた地下の会議室、オリエンテーションのどこか異様な緊張感を彼は想起した。防音された部屋の中で彼は数人の同僚と共にプロジェクターの前に座り、植え付けられた対抗ミームでブロックされた攻撃的なミーム因子が彼の頭蓋骨の外側を滑り落ち、それによって厳重に守られていた情報のほんの一部が彼の脳内に染み込んでいった。渉外部門の職員は機械よりも無表情に、淡々と彼らの機密の一端を新人たちに開示した。ほんの少しばかりの選択の余地を与えるために。

財団という巨大な官僚機構、その前線たる対外機関の中で己はどのような役割を持つべきなのか──あるいは持つに値するのか? 採用一年目の新人に対して秘密組織が放つ問いかけとしては、それは少々重すぎるように感じられた。

「答えのない謎掛けをされた気分です」

「私が受けたときは気楽なもんだったけどね。薬なし、ミームなし、もう決まりきってる任務の説明、長ったらしい秘密保持契約書、あとは脅し。秘密を漏らしたら容赦しないぞ、とさ」眼鏡のフィールドエージェントは肩をすくめて、ジョシュアの僅かな羨望を込めた眼差しを受け流す。

「それで君はここで悩んでるわけだ、これからどうするのかって?」

「まあ、そうです。宿舎に戻るのも億劫ですし、食堂が開くまではと」

「ふうん……」小首をかしげて何かを考えているような素振り、それから年下の同期は頷いた。「まあ待ちなよ。サイトの端で座り込んでるのもいいけど、せっかく早上がりなんだったら、何か気分転換をどうだい」

「酒は飲めませんよ──まだ服薬中ですからね」

「いいから」いつものように真意の読めない笑み。掲げた右手の人差し指には、いつの間にか車のキーが光っている。

「今日は気分がいいからね。私の奢りだ」


「選択肢はいくつかあります」「貴方と同じように人材雇用に携わることもできる。情報工作や対抗宣伝に関わることも。対外隠蔽は……機密だらけでしたが、おそらく悪くない仕事です」

ジョシュアと死体と亦好久のはなし

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