灰より出でて、再び 前篇改稿案
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渡辺白泉

赤く青く
黄いろく黒く
戦死せり


皇紀弐千六百五年 九月拾弐日

振り仰いだ空は鈍色に、我々の胸中を暗示しているかのような重苦しさで圧し掛かってきた。
季節外れの寒気吹きすさぶ東京の街に人影は少ない。誰も彼もが怯えきっていて、半ば自棄を起こしたように足を突き出して進んでいく。
我々三名も例外ではなく、見咎められぬ様に足早に行く。カーキ色の国民服は世辞にも暖かいとは言えぬ薄さで、この寒波に襲われる秋口にはまったく適当ではなかった。とはいえ、これを着ないことには出歩くにも難儀する御時世なのである。

「ここだ」
「応よ」

二歩先を行く南方みなかたが示す。我々もまた頷く。通りの向こう、見覚えのある真四角の建物が灰色の姿を晒している。

焼け残りのけ残り、などと口さがないものに噂される日比谷の一帯には、親不知おやしらずとまで言われた交通難所の面影は既にない。トラックの群れがそこかしこでオイルと鉄の汚らしい臭気を撒き散らし、ワイワイと無作法に叫ぶ人影が引っ切り無しに出入りする。
それに活気を感じられぬのは、偏に我々の心情によるものか、あるいは──それらの言葉がすべて異国のものゆえか。

「入ろう」

同い年の研儀官の密やかな声に、我々は従容と頷くほかない。
日比谷第一生命館。かつて陸軍の司令部だったここは、今やGHQと呼ばれていた。

*

日比谷第一生命館、4階。所謂"敗け残り"のひとつであるところの機関が、しぶとく表札を入れ替えながら当世風の小洒落た装いをした事務所にしがみ付いている。
蒐集院帝都本局は、政府や財界や軍との折衝やら書類事務やらを行うために設けられた、本院の出先機関である。物々しい名前とは裏腹にその権威権力は高が知れたもので、世俗との関わりを厭う学究肌の研儀官らには毛嫌いされ、密室政治を担う内院の重鎮たちには小間使いがごとく軽視されてきた。しかし今般、思いがけない事情から、この組織は帝都で最も剣呑かつ重要な界隈の一部になっていた。
連合国軍最高司令官総司令部。この国のすべてを差配してやると息巻いて乗り込んできた英米人たちが、この建物の上階でパイプから紫煙を燻らせつつ、文字通り頭ごなしに内閣を恫喝しているのだから。

意外にも、長銃を携えた白人の守衛に誰何すいかされることはなかった。
行き来する金髪蒼瞳の制服軍人や軍官僚たち、事務方であろう女性たちに奇異の目で見られつつも、我々三名は廊下の先にある小さな扉に飛び込んで、数分の後にはいかにも政府の事務官僚らしいよれたスーツ姿に変じていた。
変装は市政に紛れねばならぬ蒐集官に付き物の技である。物心ついた時より蒐集官の鍛錬に明け暮れてきた私と、秘衛府の衛士である応神いらがみにとっては慣れたものだ。南方は少しばかり難儀していたが、それでもすぐに勘所を弁えたのだろう。狭苦しい廊下を行きながら、不平を言う余裕まであるようであった。

「畜生、こいつはどうも腹周りがきついぞ」
「この御時世に食い過ぎるからだ。一体ぜんたいどういう神経をしてやがる」
「俺の一族は尾州の米農家だぜ、何は無くとも米芋ばかりある。第一、空きっ腹で研儀が務まるかよ」
「羨ましいことだ。うちの実家と来たら空襲で焼けちまった、蔵ばかり大切にするからだ。庭の菜っ葉じゃあ腹の足しにならんし、おれも研儀官になりてえところだな」
「止めておけ、貴様の脳味噌では汁膳にもならんよ。どうにも目方が足らんのだ」
「何を!」
「そこまでにしておけ、お前たち……」

何食わぬ顔で歩きながら器用にも小声で角突き合う同輩二人を諫めれば、両脇から溜息が零れ出る。
薄暗い廊下の両側には簡素な長椅子が設えられ、そこを鬱々たる面持ちの日本人たちが端から詰め込まれるようにして占領していた。この息の詰まる空間においては、平素は陽気な二人も少しばかり堪えたのだろうか?
そんなことを考えつつ、長い廊下の突き当りを見れば、そこには見慣れたしるしがある。

壁に掲げられ、堂々たる黒の筆跡で、帝国対外商務なんたらと長々しい語句が連なった看板。
その文字に重なるようにして、見鬼の術法を身に付けたもののみが知覚しうる、院の六ツ菱紋が浮き上がっていた。

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私は軽く頭を下げ、一礼する。それは紋に対しての礼であり、その先に居るモノたちへの礼でもある。
廊下に居並ぶ人々は我々のことを気にも留めない。彼らは気が付いただろうか? 目に見えぬ六ツ菱の上、かつて掲げられていた御真影はもはや無いことに。

ふうと息を吐き姿勢を正せば、右手の引き戸がすいと開く。
どうやら刻限通りに着いたらしい。

「「「失礼いたします」」」

三人分の声が揃い、そして我々は足を踏み入れた。
蒐集院帝都本局秘戴ひたい部。敗戦の後もなお列強勢力に呑み込まれずにいる、数少ない神秘の残り香であった。

*

「やあやあ、よく来たな。息災にしておったか」
「ご無沙汰しております、師父よ」

寒風に抱かれる室外とは打って変わって暖かい室内は、粋ながらもどこか屹立する枯れ木のごとく古びた空気に満ちている。
変装した我々を出迎えたのは、帝都本局で秘衛府ひえいふの一部隊を任される男であった。
東風浦 聲音こちうら こわね。今やたった一人、蒐集院の東の抑えとして諜報の枢要を仕切る男は、この数年ばかりのうちに酷く痩けた頬を楽し気に歪めて、我々を歓迎してくれた。

「久方ぶりにお前たち三人が揃ったところを見た。内寮の三弟子どもめ、いまはどこまで出世したのだ?」
「とうに御存じでありましょうに、師父もお人が悪い」
「そう言うな、ここの所は悪い報せばかり続く。弟子どもの栄達を聞かせておくれ」

見る影もなくやつれた顔でそう言われてしまえば是非もない。
任務のために立ち寄った身でありながら、茶を頂いてちょっとした報告会のごとき様相となる。

良治よしはるは二等研儀となったのだな。また肥えたようで何よりだ、研儀には何より余裕が必要だ」
「恐れ入ります。恥ずかしながら御教え頂いた技の数々、活かせる場もなくありますが」
「良い、それが一番だ。お前たち学究の徒が矢表に立つことがあってはならん」

景光かげみつは明治別院の五人衛士だろう? 応神宗家は大変な時だと聞くが、お前ならば問題なかろう。よく励めよ」
「ありがたい限りです。弟どもが内院に出仕しまして、お陰様でおれは此方に出てこられました」
「三羽烏は健在か、心強いものだ。うちの小倅にも見習わせたいよ、今頃はどこに忍んでいるやら」

がいは……蒐集官であったな? 遠野では既に結果を出したと聞いている、私も鼻が高い。よくやった」
「お褒め頂くほどのことはしておりませぬ。現に向こうは妖怪保護区を宣言し、我らの仲立ちを拒みました」
「しかし停戦の約定を交わし、不可侵をも取り付けたのだろう? 波戸崎の名に相応しい働きだ。誇るがいいさ」
「ありがとうございます」

いつになく上機嫌な様子で笑う師父は、しかし唐突にその笑みを消した。

「お前たち三人を指名したのは、第一にこれまでの実績あってこそのこと──しかし、決してそれだけが理由ではないと心得よ」
「わかっております。院の、これからのことでしょう」

三人を代表して私が応じれば、師父は厳かに頷いた。
白いものの混じる彼の頭髪は、その心中の苦悩を表しているかのようだ。
ここからが本題だ──それを察してか、洋長椅子ソファの左右に座る南方と応神も姿勢を正す。
そして最初の言葉が放たれた。


「昨日、9月11日──内院は財団との協定に同意した。蒐集院は、解体される」


驚きはなかった。
ただ、抜けるような溜息が3つ、部屋の中に溶けるように消えていった。

「やはり、ですか」
「ああ。協定の詳細については伏せられ、本院には流れてこなかった。東風浦本家からは、国内事情をよく思量してのことだと聞いた」
「本院には、軍と親しいものが多いですからね……」

南方が腕を組んで唸る。私は夏の日を思い出す。

8月15日。ラジオから聞こえたその声は、玉音ぎょくおんというにはあまりに雑音に塗れ、聞くに堪えないものであった。
日本は負けたのだ、欧米列強に敗れたのだ。そう誰かが吐くように言ったのを憶えている。
私としては、それ自体はどうでも良い事柄であった。否、既に理解し、十分に悩み、その上で世間より一足先にそれを飲み込んだうえであり、故にどうとも思わぬ事柄であった。
日本は負けた。それは良い。蒐集院に属する多くの人間が、一先ずはそう思っただろう。蒐集院は政府にも軍にも仕えない、ただ日の本の鎮護と安泰を旨とせよ──それが100年も前に役目を終えた、黴の生えた建前に過ぎないとしても、そう信じることが務めなのだから。

だから、問題は負けた後のことだった。

「軍は継戦派の巣窟だ。進駐軍による武装解除が終わったとて、超常のすべを以て列強討つべしとはやる将兵は少なくない。脱走した多くの兵が武器を隠し持ち、進駐軍の目を盗んで各地で蜂起あらばと備えているようだ」
「本院に詳細の知らせがないのはそれが?」
「ああ、財団への合併については兎も角、完全な解体に至ると知るものは殆どいない。内院でもそう多くないと聞く。別院では特別の役にあるもののみが知らされ、施設の引き渡しに動いている」
「……院内で抗争の予兆があるということですか」
「少なくとも七哲しちてつはそう判じたのだろうさ。拙者は秘戴部の主として早期から知らされていたが、決して軍と繋がりのある者たちに悟られぬよう動いていた」

味方をたばかるには諜報役が向いているのだ──自嘲気味に笑う師父の皺は深々としていて、彼の置かれた立ち位置の難しさを物語る。
応神が小さく舌打ちをした。無礼だぞ、と小声で諌めれば静かに頷いている。

「──失礼を。おれとしたことが、少々苛立っているようです。まさか師父にそのような役を任せるとは、秘衛府の爺共も堕ちたものだ」
「よせ、応神」
「いや構わん、しかしこれは無理もないことなのだ。もはや蒐集院は消滅寸前、ヒーズマンは十分に配慮してくれているが、いずれはこの本局自体が閉鎖され、財団によって新たに再編されることになる」
「ハロルド・A・ヒーズマン特命高等弁務官……切れ者だと聞いています。私が遠野での御役目を授かったのも、彼の口利きだと」
「ああ、彼は財団の人間だが、蒐集院の立場をよく分かってくれた。今は階上でマッカーサー将軍との折衝の最中だが、大分揉めているという。GHQの裏には連合国超常協約A  O  Iがいるからな、一筋縄ではいかん」
「我々は今や、列強と大組織同士の覇権闘争パワー・ゲームの俎上にある、と」
「そう理解し給え。前提を理解して貰わねば、この任務は務まらん」
「待ってください。一度、整理を」

鷹揚に頷く師父に会釈し、脳内で要素を纏め直す。こういう役目は昔から私のものだ。
私より遥かに頭の切れる南方も、集中力に優れる応神も、私がこう言い出すのを待っている節がある。
大方の構図を脳裏に描き出し、私は改めて師父に問いかける。

「現状、我ら蒐集院は近々の解体を控えております。これは叛乱を防ぐため、限られたものしか知らされぬこと。七哲は軍と繋がる諸派の蜂起と、それによる院の分裂を憂慮されている、そういうことですね」
「そうなる。現状、内地の主だった陸海軍部隊は武装解除を受けているが、未だ完全ではないからな。戦車や航空機は兎も角、小銃や爆弾程度なら隠し持っている兵士が多くいる。院で秘儀を学んだものどもがそこに加われば、一端の軍隊だ」
「では、国粋主義者や反列強派に軍部、それらと繋がる院内各閥とは距離を置かねばなりません。師父はそうした連中の監視役にある。そして財団はこの本局を始めとする本院に干渉し、なおかつGHQ、ひいては連合国とは協調していない」
「表立っては協力しているが、上下一心しょうかいっしんとはいかん。今はこの日本国の地脈──連中に言わせるとレイラインだが、それの管轄権を巡って争っている。拙者どもの頭上でもう一度戦争を始めそうな有様だ」
「その調子では凡そ関わるべきとは思えません。つまり、我々には内外ともに味方がいない」
「そうだ。元より敗戦国であるに加え、院内は紛争寸前、軍も政府も頼れず、挙げ句親方になるべき連中は飯の取り分けで喧嘩ときている」

それは出来の良い冗句の積りでしょうか──という言葉を飲み込み頷く。

「現状は理解いたしました。その上で我々三人を態々わざわざ秘戴部に召喚し、機密を明かしてまで言い渡す任務とは、一体如何なるものでしょうか」
「この事情を知ってなお受けるか、お前たち?」
「変装し、親兄弟にも秘して来いと言われた時から覚悟しておりました。恐らくは院の未来を左右する任務であろう、と」

南方、応神と共に頭を下げる。幼き頃より生き延びるための術を共に学んだ三人である。師父に頼られる事あらば、何事にも応えると決めて来たのだ。
師父が微笑む気配があった。

「ならば言い渡そう。東国を預かる蒐集院本院、帝都本局が秘戴部衛士長、東風浦聲音が諸君等三名に下命する」

そして指令が下ったのだ。

「波戸崎愷、南方良治、応神景光。諸君等に特種異様指定人物、凍霧 天いてぎり てんの捕縛を命じる。彼奴の居場所を捜索し、速やかにその身柄を確保せよ」


皇紀弐千六百五年 九月拾七日

凍霧天──凍霧家第10代当主。年齢不詳なれども70を過ぎることは確実。家族構成不詳、妻と娘の実在は確認された。東京帝国大学で西洋医学と生物学を学んだ医師、生物学者。
軍医として日露戦争に従軍し、旅順要塞攻略から黒溝台会戦に至るまで最前線で軍役に就く。その隔絶した医術の冴えと、将官から兵まで多くに慕われる人格により、後ろ盾のない元学者でありながら帰国以前から叙勲の動きがあったほどの才人。激戦の中で多数の兵を救った功を讃えて秋山好古旅団長より個人感状を贈られ、戦後まもなく叙爵され男爵位を得る。

以後の記録は少なく、その動静は杳として知れず──昭和20年3月10日、東京大空襲の折、火勢に逃げ遅れ自宅にて没したとされる。

*

ざくざくという音がただ響く。
瓦礫の山は減らず、口数は減るばかりで、当初の意気込みは最早無いに等しい。
東京都目黒区、凍霧本邸。
華族令公布の頃よりその栄華を誇る、邸宅の規模としては小さいながらも格式高く界隈では高名な凍霧邸であったが、3月10日の大空襲により敢無く灰燼に帰すこととなった。
当主の凍霧男爵もまた、妻子と共に炎のうちに消え、その遺骨もまた見つからず──凍霧家所縁ゆかりのものが名乗り出ることもないまま邸宅跡は放置された。食糧難のゆえに広大な跡地は近隣住民の畑地として勝手に利用され、焼け焦げ崩れ果てた洋館建築は不発弾があるだの幽霊が出るだのと噂が広まり、解体業者が恐れをなしたので手つかずとなった。

「──で、とうとうおかみが重い腰を上げてヨ、ここいらを進駐軍の車両修理所にするんだと。結局不発弾も見つからねえッて話で、男爵様もとんだ人騒がせさ」
「ははあ、そういうわけでしたか」

故人と縁があるってんで世田谷くんだりから引っ張り出されて、俺たちも面倒なんだがね──円匙シャベルに体を預け、垢塗れの赤ら顔を歪めて現場監督が笑う。
家業として解体業を営んでいた彼の父親は徴兵されて日露戦争に従軍し、華族に列せられる前の凍霧天と戦場を共にしたのだという。戦地から生還した後もその友情は続き、彼の父親が3年前に病死すると、葬儀費用の肩代わりすら申し出たのだそうだ。

「家格が釣り合わねえッてえのに、親父と男爵様はまア仲が良いことだった。向こうはその手のことはてんで気にしてねえみてえだったヨ。あっしとしちゃあ向こうさんの御嬢様に充てがおうってのかと陰口叩かれて気が気じゃアなかった、死んだからにゃあ菩提を弔う気にもなるがね」
「お察しします──そうすると、男爵の御嬢様と監督殿は幼馴染でいらしたのですね」
「そうなるか? 縁談なんてモンはなかったがね。餓鬼の時分にはよく遊んでやったがよ、生っちろい無口な娘だった。元々病弱だったのが身体を悪くしたんだかで歩けなくなって屋敷に引っ込んで、以来それっきりさ」
「それは大変なことで。しかし親父さんは世田谷からこの目黒まで男爵に会いに来ていらしたので? 随分と健脚なんですな」
「いやあ、別邸があったのサ、経堂の辺りさね。あれも確か5月の空襲で焼けっちまったが、なんであんな田舎の川ッぺりに建てたやら」

滔々と語る様子を見るに、死人を悪く言うのも憚られて誰にも話さなかったのだろうか。
男爵の家族構成は今の所、妻と娘が居たことしか分からない。監督と同年代とすると娘の齢は40を過ぎた頃、孫が居ると考えるのが自然である。とはいえ昭和の世になっても生来の病人は腫れ物扱いするのが世の常であり、聞き込みでは大した成果は上がらなかった。
しかし──なるほど別邸か。数日ぶりの価値ある情報だ。
溢れそうになる笑みを押し殺し、円匙を脇に除けて礼をする。

「いや、面白い話を聞けました。ありがとうございます」
「いいともさ、どうせ皆死んでる話だ。それよかお前さん、今日のぶんの仕事が終わったらまた飯を食っていけ。学生だのに焼け出されて泥仕事たァ可哀相だ」
「連日有り難い、しかし結構。今日は友人宅に邪魔する予定なのです、お心遣いに感謝いたします」

丁重に辞去して作業に戻る私に対し、頑張れよオ、と濁声だみごえを張り上げる監督は、粗野ではあるものの気風の良い男なのだろう。
下宿を焼け出された日雇い学生として飯場に上がり込み、焼け残りの屋敷を解体する傍ら聞き込みに明け暮れて4日目である。蒐集官は現地の習俗に溶け込むがゆえに嘘偽りが常道だが、しかして焼け跡で懸命に日銭を稼ぐ人々を騙して回るのはどうにも後ろめたいものがある。
何せ此方は、少なくとも食うものには困っていない。

数時間後には作業が終わり、日当を受け取った私は帰路に就く。
武装解除された内地の兵が復員したためか、表通りは日焼けした国民服の男たちでごった返していた。人混みの中に紛れるようにしつつ隠匿の式を込めた眼鏡を外せば、視界が少しばかり色づいて見える。外見を誤魔化し印象を薄くするだけのごく簡便な仕掛けだが、警官や進駐軍の憲兵に見咎められぬ程度の効果はある。とはいえ副作用も少しばかりあって、これを掛けている間は霊力の流れが読めぬ。
蒐集官に見鬼の才は必須ではないにせよ、あるに越したことはない。異物の蒐集に必要だからというだけではなく──ある種の面倒を察知するためでもある。

例えばそう、今まさに私の足元に纏わり付く、この亡霊じみた使い魔のように。

目立たぬように周囲と歩調を合わせつつ、呼吸を整える。左手の五指は服の前を掴む。変装用の国民服だが、生地裏には経文が縫い込まれている。これを袈裟けさに見立て、右手は緩く垂らす。てのひらは地を掴むようにして、手繰るのは地脈の流れ。大正より後に拓かれた新道ならば兎も角、道祖神も祀られる昔ながらの街道となればそこを通る霊力は十分だ。


オン・アキシュビヤ・ウン

触地印そくちいん。五仏の一、東方に応ずる阿閦如来の祓魔の印である。
地とそこに満ちる霊気を意識し、それを自身の丹田に繋げるようにして真言を唱える。
先程から下半身、特に足先に粘り付くようであった異様な気配が消えていく。恐らくは追跡の禍呪、墓場を通る生者の足に縋っては取殺すとされる死人伝承の転化であろう。取り憑かれかけていた──この程度の対策で容易く祓える以上、呪者は素人同然であろうが、此方とて素人に毛が生えたようなものだ。
白昼堂々、死人呪いを喰わせてくる輩である。なんの隔意もないとは行くまいが、それ以上の問題があった。あの屋敷跡に通い始めてからというもの、禍呪を仕込まれるのは初めてではない

「畜生、この国はどこまで物騒になるんだ」

溜息は空吹かし。秋の空は底が抜けたように遠く、任務達成の道のりもまた遠かった。

*

「今日は死霊に呪われたって聞いたが、本当かよ?」
魂消たまげたことに事実だよ。そちらは?」
「凡そ似たようなものさ、通りを歩いていただけだというに、火蜥蜴の命火いのちび通じだ。どこの手の者か知らんが、チンケで詰まらんね」

張り合いがない、と鼻で笑う南方は、上等な書生風の格好だ。
日比谷にほど近い、空襲を逃れた飯場の集まる一角。数十年ばかりの歴史ある大衆飯屋だという店の二階で、私と南方は密談していた。

店主の母親が赤川の橋向こうであやかしに襲われかかった折、蒐集院の手のものによって救われたのは半世紀以上も前の話だというが、店主は未だにその恩義を守っている。こういった院に与する者たちの隠れ家は方々に存在し、見えざる追手から我々の姿を隠していた。
とはいえ、院の内部に敵がいるやも知れぬ以上、ここが安全とも限らないのだが。

一昨々日さきおとといは風毒、一昨日は蛇言ときて今日は死霊呪いだ。兎に角、凍霧本邸に何人か術士が張り付いているのは確からしい。術は三流だが、人足たちには確かに影響が出ている。お蔭で事故ばかり起きて工事は進みもしない」
「怪談噺の正体見たり野良法師ってな。近頃はもぐりの加持やら護摩法師も増えているし、五行の連中が随分活発だもんで、研儀の新人は大わらわさ」
「だろうとも。怪我人ばかり増えて人手が足りないから日雇いに潜り込むのは楽だったが、ああも低級の呪詛が渦巻いてるんじゃあ、幽霊屋敷呼ばわりも頷ける」

溜め息をつく私に温くなった茶を差し出しながら、南方が広い顎を擦る。考えているときの彼の癖だ。

「話を聞く限り、有り難いことに身内のやり口じゃあないな。本院に継戦派は掃いて捨てるほどいるが、そこまで無節操に動くような阿呆ではなかろう。やるならもっと迅く、致命的にやる」
「私も同じ考えだ。そもそもの話として、今の彼らは内院と財団の交渉を妨害するのに必死のはず。師父のお膝元でそうそう情報が彼らに漏れるとも思えないし、邸宅に張り込んでいるのは他所の連中だろう。ひょっとすると我々の存在も知らないんじゃないか」
「凍霧を狙う者が他にもいるとは予想できていたが、面倒極まる。ことに俺は方術に長じているし、景光のやつは宗家仕込みの剣術やっとうがあるが、貴様はひ弱だからなあ。連れ立っている時は守ってやれるが、普段から気をつけておけよ」
「私は術も剣もさっぱりだ、頼りにしているとも。しかしそう愉快そうにするからには、そちらで成果があったんだろ?」
「応とも」

さりげなく水を向けてやれば、自慢気にそう頷いた南方が懐から取り出したのは、40枚ばかりになる紙束だ。
見れば、重ねられた紙の間からふわりと色のついた煙が滲み出す。
青、青、黄色。白檀の香気。机の上で朧な実体を取り、けらけらと微かな笑い声と共に此方にお辞儀をして消える。式神だ。

「図書館で馬鹿正直に捜し物というのも性に合わん。洋風の自動筆記を試してみたが、意外に便利だよ」
「またそう危険なことをする。進駐軍に相乗りしてきたAOIの間諜スパイがそこらで鼻を利かせているだろうに」
「そこを誤魔化すのが術者の腕の見せ所だ。帝都中の図書館を捜し回り、男爵の情報を集めてきた。流石に師父の手の者共が一度調べて回っただけあってほとんどの資料は既知のものだが、幾つか気になるものも出た」
「別邸の場所ならもう割れているよ。何をやっていたかも近所の住人の話で見当がついた」
「ほう、上手くやったな? こちらは別の手掛りだ。男爵の動向が新聞記事に出ていた。戦功叙爵の癖に新聞に殆ど記事が載らん男だが、私新聞ならどうだと思ってな。凍霧家の情報が少しばかり書いてある」

差し出された紙は新聞の複写だ。古いものなのだろう。割線も文字も手書き、ゆえに"私"新聞──素人が作る新聞で、輪転機を持つ新聞社の手が行き届かぬ田舎や外地、戦場で有志によって細々と流通する代物である。殆ど潰れて読めない字で、病毒の予防に貢献云々と記述されている。
既に南方が一度内容を検討したのだろう、一部に囲みや線の書き込みがあった。

「日露の戦中に兵士に作られた代物が何枚か残っていた。それから叙爵後に本土と外地で発行されたのがそれぞれ1枚。驚いたことにそれで全部だ、爵位持ちの軍人だのに全く情報がない。呆れるね」
「こちらも今日までは空振りばかりだった、やはり自ら足跡を消しているな。敵が多い人物という話も聞かないのだし、ここまで周到に情報を消すなど本人でなければ不可能だ」
「空襲で死ぬとも思えん。師父が生存を確信するのも頷ける話だ」

腕組みしてしたり顔で頷く南方である。恰幅がいいので格好と合わせて妙にさまになっている。

「しかし分からん。なぜこの男が異様指定なのだ? 確かに資料は妙に少ないが、それだけだ。他人の記憶に残らんとか、姿を自在に変えられるとか、その手の化性けしょうではないだろう。何故に本院はこの男を追い掛けるのかね」
「師父が言うには、異物の創造と流通に関わった危険人物だという話だよ。院にあるべき重要な異物のいくつかを今なお抱え込んでいると」
「それを頭から信じるかよ?」
「信じはする──だけれど、秘されているものは確実にあると思う。時期を鑑みれば明らかに政治絡みだし、いかに師父とて我らに伝えられぬ情報の腑分けはする。そこの裏取りは景光を頼るしかない」
「やつの血筋と軍への伝手が上手く役に立てばいいがな。刻限は近いぞ」
「そうだなあ……」

頭を抱えたい気分だった。現状、調査に進展こそあるものの、あまりにも時間が足りないのだ。

2週間後──9月30日。それが、ハロルド・A・ヒーズマンが七哲に告げた、蒐集院解体の期日だった。
師父曰く、ぎりぎりの合意だったのだという。蒐集院は開戦前より政府や軍との協力体制を巡って内紛を抱えており、敗戦の後となっては最早死に体だった。一方で財団は、蒐集院を──より正確には、蒐集院の有する研儀施設や蒐集物と、それに関わる知識や人員を──そっくり我が物としたかった。

要は縄張り争いである。あの未曾有の大戦争を終わらせた今、敗者の土地と財産をどのように切り分けるかが戦勝国と諸超常機関の目下の関心事なのだ。
日本国内の異常資産や地脈管理権の配分を巡って財団とAOIは強力に対立し、帝都は両者の兵器と術者たちが溢れかえる魔都と化している。GHQは独自の思惑を有するものの、連合国側という都合上AOIの肩を持ったため、財団は何としても蒐集院とその構成員を早急に支配下に置かねばならなかった。
それで七哲は自分たちが必要とされているのを良いことに解体の刻限を伸ばしに伸ばし、マッカーサーの予定では8月中に制圧されるはずだった蒐集院の各施設は今の今まで財団にも進駐軍にも踏み込まれることなくのうのうと生き延びていた。マ元帥は怒り心頭で、毎日のようにヒーズマンと口論に明け暮れているらしい。
最も、我々には短気な将軍のことを笑っている余裕は微塵も無いのだが。

あと2週間足らずで財団が全国の院の施設に踏み込み、七哲を始めとする幹部たちを捕らえ、全蒐集物と古来よりの資産を支配下に置くことになる。
既に一部の施設では解体措置を察知して叛乱の兆しがあり、国粋主義に傾倒した連中や五行結社に近しい者たちは蒐集物を含めた資産の移送を試みているらしい。秘衛府は西国を中心に重要拠点の防備を固めた。師父は東風浦本家からの指令を受け、離反を試みる不届き者たちの監視──そしておそらくは粛清──に奔走している。
激動の情勢下にあって、この5日間は我々三人の周辺だけが静かだった。否、秘匿任務に従事する以上、そのように取り計らわれているのだろうが。

「応神は大丈夫かな」

ふと心配になり、私は呟いた。
応神景光は我々三人の中で最も年下にして最も武闘派で、代々秘衛府に衛士を輩出してきた内院の名門たる応神宗家の次男坊だ。跡取りとして大事に育てられ、戦技と政治の両翼を求められた長男の国光くにみつ──我々2人と同期だ──と異なり、その2つ下に生まれた三つ子兄弟はそれぞれ阿呆のように剣だの槍だの拳だのといった戦闘技法を叩き込まれている。その血筋と気風から、彼はここ数日、院に縁ある将校連中や陸軍施設への調査を買って出たのであった。
呆れたような顔で南方が頬杖をつく。

「陸軍と言ってもな、いまじゃ武装解除されてるだろう。三〇二空じゃああるまいに、資料庫巡りで斬り合うかね?」
「院が軍関係者からどう見られているかは先刻承知だろう。負けた後となれば猶更さ」
「敗戦必至と上訴して退けられたって話か? 本当かも分からんのに。調査局も超常課も店仕舞い、軍には菊花なしときた。変装術は貴様仕込み、奴なら万事仔細なしさ」
「しかしね、万が一ということも──」
「あのなあ、愷よ」

こちらの物言いを遮る南方の声の調子は変わらない。
飽くまで鷹揚と構えたまま、目を細めて此方を見詰めている。

の行方が気になるのは分かるがな、そう心配性にならんでも良い。けいはどこかで上手いことやっているだろうし、景光も大丈夫だ。肩の力を抜け」
「──────、」

何を分かったような口を。そう言おうとした刹那、蹴飛ばすような勢いで階段を駆け上がる音がした。
反射的に懐に手が伸びる。南方が中腰のまま式神を右手に握り込んだ。すわ敵襲か、まじないは解除し追跡可能な痕跡も消したというのになぜここが分かった? やはり院内部の反財団派閥か、あるいはまったく別の組織なのか?
瞬時に様々な可能性が浮かぶが、どれも確証はない、兎に角応戦を、と構えかけ──

「待て待て待て、おれだ、応神景光だ! その剣呑な気配を何とかしろ!」

転がるように飛び込んできた若い男はそう叫び、特徴的な拵えの二刀──小刀は腰、太刀は背にいている──の鞘を見せつける。
見慣れた顔と仕草に肩の力が抜ける。南方の尻がどすりと椅子に落ちたところで、応神は嫌に慌てた表情で駆け寄ってきた。

「おい、気を抜くな。愷、良治、直ぐにここを発つぞ」
「なに? おい貴様、まさか軍の連中と遣りあったのでは」
「そんな下手をおれが打つものか! 向こうから仕掛けてきたんだ、逃げるぞ。店主には一言掛けた!」
「ああもう何だというんだ一体!」

愚痴を言いつつ手早く荷物を纏める。応神は手早く部屋の四方で方祓えの印を切っていた。埃塗れの室内に清浄な気が吹き込み、霊的な痕跡を洗い流していく。

「裏通りに抜けて川を越えるぞ、並みの術者ならこれで撒ける。連中には碌な使い手がいないからな」
「だから待て景光、お前は何を連れてきたんだ! 軍でないなら調査局の連中か、それともまさか協約か?」
「そんな出来の良い奴らなものか!」

建付けの悪い窓を憤然とこじ開け、裏通りへの通路を確保しながら応神が叫んだと同時、表通りの方角が俄かに騒がしくなった。横柄に怒鳴りつけるような男たちの濁声は酷く聴き取りにくいが、これだけは言える──あれは英語だ。

「進駐軍の連中だ! 奴ら、おれたちの任務を知ってやがった!」

その叫びを最後に、怒りと困惑を等量に宿して我々は窓から飛び降りた。
数分を遅れて部屋に踏み込んだであろう進駐軍の兵士たちが無人の部屋を見て上官に何を報告したかは、私の知るところではない。

*

走る、走る、走る。
進駐軍が余程大挙して押し掛けて来たのか、道を塞がれた通行人と見物人で表通りはごった返していた。逆に裏路地は人の気配がなく、人目を憚る術を使うのに丁度いい。
中華の仙人は胡坐こざを組んだままに数里を駆けるという奇説が巷間には流布しているが、私の知る限りでは誤りだ。仙術にそんな技法はない──しかし、常人より素早く動き大道を駆ける手法は実際に存在するし、私のような半端者でも扱える。

地脈の流れを知り、大龍のごとき霊気の流路に沿って自身と地を繋げ、概念としての"方角"とそちらへ引き寄せられる力を得るのが所謂"縮地の法"である。達人は地脈を通じ、地と地を直接行き交うというが、そのような使い手は蒐集院でも数えるほどであるし、我々3人も当然ながら使えない。
よって、地を駆けながら常に霊気の流れを意識し、場合によってはそれを乗り換えていくことになる。そこらを走る木炭自動車などよりは余程早く駆けることが出来るものの、体力を消耗するし、腕の良い術者ならば痕跡を捉えて式の一つも飛ばしてくる。

丁度──今のように。

「応神、上だ!」

路地裏に散らばるざるやら桶やらを蹴飛ばして走りながら私は叫ぶ。少し先で長屋の屋根上を駆ける応神の頭上に、弾けるような光が見えたからだ。
瞬間的に応神が身を翻す。北国からの旅人の如き彼の変装はいかにも復員兵風だが、その外套の裏地は私と同じように経文が縫い込まれ、破魔の術法を助けてくれる。
光の束が千々に乱れ、応神の身体に触れることなく吹き飛んだ。断続的に光の束が上方より射出されるが、小刀を抜いた応神によって切り払われる。後方を駆ける私のもとに、清らかな気配と焦げた匂いが漂ってきた。異国の、それも聖なるものの気配。どこか慣れ親しんだ霊気の流れ、しかし決定的に異なるなにかがある。

「この感覚、恐らくは日光の転化による呪い破りだ。霊力の編み方は真言密教の誦法に近い、だが随分と古いな。大陸──印度インド式か!?」
「おいおい、ここは帝都だぞ!」

南方が不満げに唸る。体格こそ大柄で腹が出ているが、我々のうちで最も術法に秀でた男である彼は縮地の法でも最も素早く、また小回りが利く。
今も懐から取り出した数枚の呪符を撒き、小声で誓文を唱えた。空中で呪符が千々に乱れて舞い散るなり、異質な気配が背後に広がっていく。

「夕刻の鬼は坂にて封じる──使い魔や式神を通じた追跡は暫く撹乱できるだろう。溝川を越えれば地脈の流れも変わる。後ろの連中は早々追い付けまい」
「今襲ってきているのはどうする!?」
「対処するしかなかろう──恐らくは2人組だ。隠れ家を出た時に妙に絡み付く気配があったのだが、先に網を張っておく頭がある奴が居ると見える」

しかしな、と言いながら南方が別の呪符を掲げる。霊力が込められた呪符は膨れ上がり、見る間に不格好な矢の形をとって、南方の手の中に収まった。
紙矢を番えるべき弓はない。しかしその動作は泰然として、空の右手を前に、左手に矢を軽く持つ。


諸天善神、四面夜叉神が青の照応、烏摩勒伽が昇り龍に破魔天閃の一矢を請い願う

朗々たる発声、不可視の弓を引き絞り、そして矢を射掛ける──その瞬間、呪符が弾けた。
ぴょう、という風切り音が、奇妙なほどに大きく響き渡る。
次の瞬間、ギャッという短い悲鳴が空から聞こえ、何か小さなものが落ちてきた。
数十メートル向こう、おそらく長屋の反対側に墜落した鳥に似た形状のものには、長い矢が突き刺さっていたようだ。

「使い魔か」
「術者の意識を移したものだろう。本体がどこに居るか知らんが、半端者め。屋根上の敵に向けて陽光の転化式を愚直に直上から撃ち下ろしたのでは、空から見ていますと教えるようなものだ。どうせなら地上に居る我々を撃てばいいものを」
「破魔矢が通じるのか、どうも聖性を感じたのに」
迦楼羅カルラ天か大本のガルダ信仰を転じたものだろう。本場たる印度の地であれば、恐らく矢は届きもせんよ。しかしこの国の文化に不勉強だったようだな、天狗に破魔矢が効くのにその同類に通らぬ道理があるか!」

天狗と迦楼羅天を同一視した先人を恨め! と大笑する南方は、鋭く前方を睨み据える。

「空は潰したぞ、景光! いい加減そこで遊んでいるんじゃない、俺たちを守れ」
「何だと、安全地帯から物言いやがって。2人してずっと隠形の式を張って隠れていたろうが」
「矢を撃ってそれも破れた、敵は2人組だ! 遠くから撃っている奴は飽くまで牽制、俺たちの足を止めていたんだ──もう一人は何をしてると思う!」
「ああ成程、切り込みか」

──承知した。

そう言った直後、屋根上から応神の姿が消えた。
縮地に本人の身体能力を併せた猛烈な跳躍だ。此方も走っているというのに、難なく隣に付き──そのまま小刀を一閃する。

「そこか」
「チイッ!」

くぐもった舌打ちは、恐るべきことに私と南方の数歩後ろから聞こえた。
見えない敵に応神が打ち掛かる。数回の剣戟、虚空に火花が飛び散る。
姿なき、しかし明確な視線を感じた。同時に背筋が粟立つような悪寒──南方が舌打ちする。私にも分かる、これは呪詛だ。直接視るだけでこちらの防御を貫通し呪いを与えてくるとは相当だが、その効果は定かではない。
肌身に沁みる悪寒を振り払うように、応神に警告しようとする──声が出ない。

(喉縛り──術師封じか!?)

間違いなく邪眼の類いである。大抵の術師は術の行使にあたって声を第一の頼みとする。呼び掛け、あるいはこいねがうという形式は古来からの伝統的な神々との関わり方であるし、あらゆる動作や契印よりも多様で象徴的だからだ。喉縛りをまともに喰らえば術師としては使い物にならない。
死角の少ない頭上から使い魔による牽制で足を止めさせ、そちらに意識が向いているうちに隠形で近づいて術者の声を潰す。完成された形式、明らかに手練の暗殺者。

なにが碌な使い手が居ないだ、的外れも良い所ではないか。
そう心中で歯噛みした瞬間、眼前の敵意が膨れ上がった。慌てて飛び退いた瞬間、投剣が胸元を掠めて飛び去る。南方の式神が砂埃を巻き上げながら飛んでいくが、空中に橙色の閃光が走った途端にぶつりと音を立てて霧散した。濃厚な神気が帝都の路地裏に満ちていく。先程の術者が使い魔を喪って尚、どこからか仲間を支援しているのだ。

「────ッ!」

踏み込んだのは応神であった。いつの間に抜いたのか、右手を太刀に持ち替えて瞬発。刀身は仄かに青く発光している──撃剣による損壊を防ぐための強化、南方による支援である。
1合、2合、3合と切り結ぶ。目に見えぬほどではないがとても追随できぬ速度の剣戟は、7合目でついに均衡が傾いた。

応神が鋭く剣を押し込む。見えぬ敵の動揺の気配だけが伝わる。流石に応神宗家の太刀捌きは別格で、恐らく暗殺に用いられる中刃の剣を使っているだろう敵は獲物の間合いの差で不利なのだ。
12合目で応神の剣が空を切る。気配が少し遠ざかる──仕切り直しの積りか──そうはさせない。

私は右手で素早く印を結ぶ。九字の印は大陸道教に伝わる基本的な破魔印の一種で、本来は六甲秘呪と呼ばれる独特の技法体系である。しかしこの国では密教や修験道と習合し、より簡略化と効果の限定化が進んだ。本来ならば長々とした呪文も、必ずしも唱える必要はない。そう、こんなふうに。

切紙九字の印が完成する。右手は剣に見立て、邪なるものを断つ。この場合、対象とするのは必ずしも邪悪なものであったり穢れである必要はない。要は見立てなのだ──例えば、眼前に実体を持ちながら陽光から姿を隠すものの在り方は正しくない、とか。
剣を模した右手を振り下ろす。濡れた布で堅いものを叩いたような音が響き渡り、敵の姿が露わになる──目の前が燃えるような橙色に包まれる。同時に全身に燃え上がるような熱感。呪い返しバックラッシュだと一瞬遅れて気付く。

「ヒ、ヒ、ヒ」

姿を晒した襲撃者が引き攣ったように笑う。恐らくは梵語サンスクリットの経文であろう崩し書きを全身に彫りつけた入れ墨姿の小男。まるで耳無し芳一が如き容貌にひどい猫背、前方に折れ曲がった奇妙な形の中刀、上半身は裸だが、薄っすらと何かの繊維を纏っている。恐らくは身を隠していた術の触媒。
まんまと呪い返しを受けた此方を笑っているのだろう──しかし、そのまま燃え尽きることもなく棒のように突っ立っている私を見て驚いたのか、少しばかり腰が引けている。

その隙を応神が逃すはずもなかった。目も眩むような一閃は、縮地とその体術も相まって十数メートルの距離を一瞬で無にした。男の首に白刃が真っ直ぐにとおる──瞬間にその身体がずるりと後方に抜け、次いで火の粉を残して消える。形代らしき人形が空中で燃え上がり霧散した。同時に数十メートル向こう、先程まで応神が立っていた長屋の屋根上に、2つの人影が現れる。

首から大量の血を流す小男を、ともすれば男に見紛うほどに巨大な体躯の女が肩に背負っている。もう片方の肩には鷹のように見える鳥が止まっていた。女の両眼は閉じられ、瞼には梵語の経文が、額には羽を広げた猛禽の意匠が彫られている。女のさらけ出された右肩に深々と矢が突き刺さっていることに私が気がつくと同時、女は両手を合わせて合掌の姿勢でこちらに一礼した。
次の瞬間には猛烈な霊気が2人の足元から吹き上がり、その姿は音もなくかき消えている。残された空間が転移術の反動でか赤熱し、数秒の間を置いて空気が弾ける景気の良い炸裂音が響いた。

『……………………、』

残された我々は顔を見合わせる。
なんとも気の抜けたような雰囲気の中、取り敢えずと私は手を挙げて提案した。

「なあ、この火を消してくれないか?」

呪いを肩代わりする依況よりまし符が数十枚、ばらばらと袖裾から燃え落ちた。
無事炎を消し止められ、危うく火呪による焼死を免れた後に改めて腰を抜かしたのは、墓場まで持って行きたい話である。


皇紀弐千六百五年 九月拾八日

数日前までの寒気はどこへやら、残暑猛烈な9月半ばである。山の手に用意した隠れ家は何の変哲もない二階家で、風の吹かぬ日には朝から中々に暑い。
午前7時過ぎ。少々遅めの朝食を済ませれば、後は調査に取り掛かるだけ、であるのだが。

「では、確かにいてぎりと口にしたのだな?」
「ああ、間違いなく連中はそう言った」

薄手のシャツを着た洋装で六畳間に座り込み、応神は刀を手入れしながら述懐する。
中野の陸軍学校からの帰り道、変装し二刀を隠していたにもかかわらず、突然進駐軍の憲兵隊に誰何されたという。その際に彼らの口に凍霧の名が上ったというのだ。

「連中、術のひとつも使えん様子でただ長銃を構えているだけだった。おそらく院の存在すら知らんだろう。それが大挙して張ってきた上におれの人相書きすら持っていやがった。何がどうなってるんだか」
「あの暗殺者どもといい、穏やかじゃあないな。おい愷、何か意見はないか? 何だって進駐軍にあんな術者が居るんだか、俺にはさっぱりだ」

むっつりと不機嫌そうに、隠れ家の床下から引き出した沢庵桶の塩辛い沢庵を齧りながらぶつぶつと呟く南方。
彼の式神は霞のような姿で部屋を漂っていた。警戒の式であるらしい。

昨日の戦闘で焼け焦げたシャツを白の下布で接ぎながら私は考える。実を言うと、ある程度の推測は立っていた。

「そのことだが南方、私が思うにあれはAOIの同盟下にある使い手ではないかな」
「協約の? 確かに術者の質が高かったところは如何にもだが、それ程に連中は進駐軍と密接に協力しているのか」
「進駐軍の目的はあくまで超常機関も含めた国内の政治的な実権を掌握することであって、AOIと利害はある程度一致しているはず。米国軍の魔術部隊は欧州にかかりきりだというから、AOIから一部の術者を貸し出しているんだろう。昨日の戦闘、最後にあの2人が姿を晦ましたあの術式だが、あれだけが厭に高度なものだった。どうも毛色が違うと思わないか」

推測を開陳してみれば、南方がぽんと手を打った。腹肉が連動して揺れる。

「言われてみれば。連中、徹頭徹尾宝物集ほうぶつしゅう説話の……あー、原典は確かラーマーヤナといったか、あれに立脚した術法を組んでいたが、最後のは妙だった。あのような精緻な転移術は見たこともない」
「AOIの術者たちは術の近代化と簡略化に取り組んでいると小耳に挟んだことがある。遠野での任務の下調べをしていた時に脱営した野良術士から聞いた話だけれど、それが真実なら」
「奴らは協約から新技術を引っ提げて進駐軍に出稼ぎに出ているわけか」

これで面倒な敵が増えた訳だ、と頷く南方。
一方の応神は仏頂面だ。変装を見破られたのが余程悔しかったらしい。

「今の話だが、それが事実ならおれたちの任務は進駐軍にも協約にも筒抜けということになるぞ。どういうことだ」
「任務の詳細まではともかく、我々が男爵を捜していることは既に知られているのだろうね。その可能性についてはよく考えておくべきだった」
「人相書きはおれの分だけだった。もしやおれが下手を打ったのか? 伝手を頼って方々で聞き込み回ったが、話に乗ったのは口の堅いと評判の人物ばかりだった」
「違うよ、お前自身が警戒の的なんだ。より正確には応神宗家が、だろうけれど」

奇妙な状況だった。恐らくは我々の誰よりも、進駐軍とAOIは我々の価値を理解しているのだから。
応神家は蒐集院でも内院派の中核を成す一党だ。先々代までの当主が存命の上に一族は皆武闘派揃い、秘衛府のお歴々は元より、院から軍に出仕した連中にも顔が利く。一応、私の実家である波戸崎も長く続く名門ではあるのだが、それでも応神には一段、ことによっては二段格が劣る。

次男坊とはいえ応神宗家の息子。その筋には名の知れた家であるからして、警戒されるには十分である。秘匿任務について単独行動しているとあれば、好機とみて拘束、聴取を試みるのは当然でもあろう。しかし、この国の事情に疎いはずの進駐軍が何故そのような行動を?

「そりゃあ簡単だぞ愷よ。誰か、院の内情に詳しい人間があちら側に付いたんだろうさ。それで進駐軍、それから協約に情報を流してる。今はそういう時勢だろうが」

師父の手を逃れるとは運のいい野郎だ、と呟く南方の目は据わっている。

接ぎの作業が終わったので、私は再びシャツを着込んだ。地肌と霊的に一体化するように自作の防呪機構一式を織り込んだ一張羅だが、昨日の呪い返しで大分傷が付いている。多少の傷は銀糸を織り込んで清調すれば時間とともに布が馴染んで自然に治るのだが、遠野でも大分酷使したのでそろそろ寿命だろうか。
私のような半端者が蒐集職の一線に立つにはそれなりの装備が必要だ。手入れを欠かすわけにはいかないし、どこかで補充が必要かも知れない。
心中で必要な品々を書き出しながら、議論の流れを修正する。

「問題は彼らが任務の障害になりうるかどうかだ。進駐軍とAOIも男爵を捜しているとして、それはどのような理由によるものかな」
「理由なぞ必要か? 同じ人間を捜している、そいつの身体はひとつ。とあれば早晩斬り合いになるだろうが」
「そう決めつけるにはまだ早いよ。仮に彼らが男爵の身柄ではなく、何かしらの資産を求めていたならどうだろう? 身体は此方に、残る物品は彼方、なんて芸当もできるかもしれない。院のお偉方にも同じことが言える。実際我々は男爵が生きているかどうかも知らず、院が男爵を探し出してどうするつもりかも知らないんだから」

ぐ、と口をへの字に曲げて応神が黙り込む。普段は我々3人のうちで最も頼りになる男だが、こういう時には彼も年少の身、少しばかり視野が短絡するのは仕方のないことだろう。
逆に南方はといえば、先程から頻りに首を前後に振って何やら考えているようだった。こちらが目で促してやると、どこか得意げに話し始める。

「聞けよ。進駐軍、そしておそらくは協約は、男爵のことを捜している。俺たちの任務についても恐らく知られている。しかしだ、連中は真っ先に応神に接触した。俺や愷にではなく」
「まあ、本来なら私を狙うのが筋だ。あんなに多くの兵士を撒く技量はないし、簡単に捕らえられただろうに」
「ということはだ、連中は俺たちについてさわりしか知らんのではないか? 応神とその家のことは知っていても、俺や愷のことは単に知らなかったのさ。それに図書館にも男爵邸にも現れず、いきなりこちらの調査に表立って横槍を入れてくるとは、随分荒い手口じゃないか」
「まあ確かに、素人臭いとは思っていたよ」

私は頷く。南方の言は核心を突いている。進駐軍は確かに凍霧を捜しているのだろうが、やり方は荒っぽく、その道の大家が指揮しているものとは言い難い。本来、秘密の捜し人というのは当人に気取られぬようにするものだ。大勢を動員して包囲をかけるのは居場所を突き止めた後のことであり、最初から多数で張り込むのは下策、切った張ったの大立ち回りをやらかすなど愚の骨頂だ。

敵は大勢、しかして素人、若しくは仔細な手配にまで気が回らぬというところだろうか。こちらはたった3人だが、まだ調査の進捗は優位である。対立勢力の介入がどれほどの規模であったとしても、持てる情報でこちらが先を行くうちは、何かとやりようがあるというものだ。

とはいっても、それには我々が進駐軍の行動とその原理についてよく知悉しているという前提が必要となるのだが。改めて、今回の件は大事になったものだと嘆息せざるを得ない。

「凍霧の捜索に邪魔立てが入るのは想定内だったけれども、それが進駐軍にAOIとなると話は別だ。任務を引き受けて5日にしかならないけれど、既にこれは我々の手に余る事態だよ。それに、表立って進駐軍とことを構えたとなれば、それを口実にマッカーサーが院に何を言ってくるかわかったものじゃない」
「しかしな、だからといって何ができる? 師父に言われた通り、応援は望めんぞ」

南方は唸り、応神は無言で剣帯を締めている。一方、私には考えがあった。策、と言えるほどには確実性のない一案に過ぎないが、取れる手の少ないこの局面においては、多少なりとも効果があるはずの選択肢だ。

「まあ、どうせ昨日の今日で外部の調査は難しいんだ。となれば、ひとつ布石を打っておいて損はないだろう」
「どうするんだ? 正直なところ、愚直に男爵を追いかけてみる以外に何も手は思いつかんのだが」
「こういう時は他人を頼るものさ。協力は望めずとも、万が一の備えをしておくべきだ」

脇に除けていた眼鏡を手に取り、隠形の効果を確認する。今のところは問題はなさそうだ。

「九段に行こう。目的地は偕行社かいこうしゃだ」

*

偕行社──帝国陸軍の将校士官の互助組織として生まれた公然の結社である。はじめは若手将校たちのサロンとでもいうべき集まりだったものが、陸軍の発展とともに陣容を拡大し、方方の事業に手を伸ばした。往時には陸軍の俊英たちによる最新の軍事研究が行われる学究機関であり、また軍装品や各種被服などの軍用備品の生産を手掛けてもいた一大企業である。
日本各地に存在する偕行社の拠点の中でも、東京は九段坂に巨大な敷地を有する九段偕行社は有名な存在だ。組織発祥の地でもあるがゆえにその社屋は堂々たる造りであるし、社の印章は産物の由緒を示す指標となっている。我々が今日の変装に選んだ軍用外套にも、襟元には九段偕行社の印が入っていた。

しかし時勢とは移り変わるもの。陸軍の権勢拡大とともに栄華を誇った九段偕行社にも敗戦後まもなく外国勢力の手が入り、今や開店休業中である。もっとも、かつて東部軍司令部がおかれ今やGHQにとって代わられた第一生命館とは異なり、九段偕行社に土足で上がりこんだのは進駐軍の人間ではない。

彼らは己の名を持たず、強いて聞かれたならばこう答える。ただ一言、財団と。

土埃が舞う九段坂の大通り。仏頂面の門衛との長々とした押し問答の末、片言の英語とともに師父より頂いた書状を叩きつけ、やっとのことで偕行社の敷地を踏んだ我々の目に、門外からは見えぬ位置に誇らしげに掲げられた三本矢の紋章が飛び込んできた。

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ふと、足が止まった。

眼前の紋章に対して隔意がないといえば嘘になる。財団と蒐集院、明確な敵対ではなかったにせよ、これまで両者の間には歴然たる溝があり──そして蒐集院は今まさに、財団の足元に傅き滅びようとしているのだ。私の生家たる波戸崎が幾代にも渡って仕え、この国を影から守護し続けてきた六ツ菱紋が、いずれこの無味乾燥たる三本矢に置き換わるとなれば、心穏やかにはいられなかった。

応神もまた一瞬、足を止めた。しかし一呼吸のうちには決然たる面持ちで歩き出す。波戸崎よりも遥かに古い己の家の先行きを案じないわけでもなかろうに、その足取りは凪いでいる。
南方に至っては、一瞥のみでずかずかと先に進んでいた。彼は今代で初めて術理の世界に触れた新参の家格である。蒐集院と財団の確執についても、本来さして思い入れはないのだ。

いきおい、先導していたはずの私が2人に抜かされることになる。足を早めて追いつきながらも、この差が我々の先行きを暗示しているように思われて、私は己の悲観に苦笑した。

*

応接間はひどく豪奢なつくりで、元はと言えば軍属の華族や高級将校を招くための部屋であるらしかった。
年若い衛兵に慣れない様子で案内され、内装の美麗さに感嘆しつつ紅茶を味わい、財団の担当者を待つこと暫し。

「や、や、や。どうも内寮三弟子の皆様方、久方ぶりだねえ」
「……なんでお前が此処にいやがる」

がらりと勢いよく開かれた扉に、我々は待ち人の到来を予感し──しかし現れた細身の伊達男は、本来この場所にはいてはならないはずの身分だった。瞬間的に立ち上がりかける応神を制し、私は動揺を抑えてなんとか声を上げる。

「無礼だぞ、応神。……伊角先生、お久しぶりでございます」
「や、別にいいのさ。景坊くらい跳ねっ返りの方が面白い」

愷君は相変わらず顰め面ばかりでつまらんね──面と向かってそう嘯くのは蛇のような眼差しの40絡みの男、名は砥鹿社 伊角とがやしろ いすみ。その特徴的な姓が示すのは、顧問官会議直轄たる内院監察部の筆頭、東風浦と同等の家格を有する砥鹿社の一党だ。伊角は現当主の入婿にして、一時期は当主代行すら務めた傑物である。

上等な洋長椅子に座り、紅茶のカップを置いた姿勢のまま、私は脂汗が噴き出すのを感じる。監察部といえば聞こえはいいが、要するに七哲の私兵、内院の暗部たる暗殺者集団だ。院の内外が揺れ動くこの時期に、京都で離反者狩りに精を出しているはずの按察司が関東の財団拠点を堂々と闊歩しているとなれば、最悪の事態を想定せざるを得なくなる。誰かが我々を離反者として内院に売り、財団はそれを是としたのか? この男は我々の首を刎ねに来たのか? 間違いなく彼にはそれができる。しかし東風浦の情報網が隙間なく敷かれたこの帝都で、堂々とその弟子を暗殺するというのか?

この後起こりうる大小様々の修羅場を想像し、私は既にこの場にやってきたことを後悔しはじめていた。応神の気配は猜疑に燃えているし、南方は完全に凍りついている。必死に逃げ口上を探している私に何を見て取ったのか、底知れぬ眼差しでたっぷり10秒ばかりもこちらを睨めつけてから、砥鹿社はにんまりと笑った。

「そう警戒せずともいいさ、お三方。残念ながら君たちの身代を頂きに来たわけじゃあない。もっともっと重要な用事があってね、ひと月ばかりこちらで世話になっている」
「ひと月? 師父からは何も」
「そりゃあそうだ。東風浦の一党に知らせるわけがないだろう、僕は砥鹿社の人間だぞ」

師父が聞けば憮然とするだろう事柄を平然と告げながら、どっかりと対面の洋長椅子に座り込む──薙刀はなし。スーツの懐に不自然な膨らみはない。丸腰だろうか? 肘で隣の南方を小突けば、慌てた様子で頷いている。どうやら術の備えもない、本当に殺しの線はないようだった。
思わず腰を抜かしそうになるが、なんとか背筋を伸ばして体裁を整える。応神はと言えば、敬愛する師父の政敵に対して遠慮する腹積もりは毛頭ないようだった。鼻息荒く中腰で、今にも食って掛かりそうなところを必死に堪えている塩梅だ。南方は内寮時代からこの蛇のような男が苦手で、すっかり畏まっている。

結局、またしても話を切り出すのは私の役目だった。

「我々はこちらには人に会いに来たのです。先生からも取り次いで頂ければ有り難いのですが」
「神山だろ? 奴はもういないよ。一足遅かったな」
「と、いうと」
「昨日の遅くに密命を受けて広島行きの夜行に乗った。奴は噺が上手くてね、それで居心地もよかったんだが、ここの連中は素っ気なくていけない。僕ひとりじゃあ流石に気まずくもなるというものさ」
「では、今こちらに本院の情勢に通じるものは」
「院の統合を担当してる事務方やらヒーズマンの手下は何人もいるが、そういう連中はお呼びじゃないよなあ。それなら回れ右をすることだ。やり方は当然知っているだろ?」

陸軍の称呼を真似た言い様は間違いなく嘲弄の類である──私も応神も兄弟が軍属に取られているし、それも院と陸軍の政争の結果として望まぬ従軍を強いられたのだ。当然そのことを知っての挑発であろう。左隣の怒りの気配が一層強くなる。どうか爆発しないでくれと祈りながら、私は次の手を考える。

当初の予定では、神山響蔵博士に協力を頼む筈だった。師父の古くからの知己であり、財団の研究者でありながら院の内情に深い理解のある人格者だ。彼の内諾を得て財団配下の兵にGHQの牽制、または内情の調査を依頼する。たとえ断られたとしても、GHQが蒐集院の主だった家系に先に目をつけ、更には内応した蒐集院の離反者と通じていることが伝われば、財団に一層の警戒を促すことができる。
巨人の足元を潜るならば、まずもう一人の巨人を起こせ。隙を突く最良の方法は、一時の混乱を引き起こすことだ。財団にとって蒐集院は近く自らの血肉となる良餌、それをみすみす手元から溢れさせる真似はしないだろうとの読み──しかし頼みの綱が切れたとなれば元の木阿弥。これまで通り手弁当で調査を行うには、進駐軍は強大に過ぎる。

業腹だが一先ずはここを辞すべきか。そう考えて顔を上げたところで、意味ありげにこちらを見つめる爬虫類がごとき瞳に気づく。試すような眼差し──私は遠野での一件を想起する。どこまでも続く神域の山野を這い回り、その先で出逢った巫女の透徹たる冷ややかな視線。
口の端に乗せずして何かを求めるとき、人はその目で語るものだ。理由もなく我々の前に姿を表すはずもない男がやってきたとあらば、その目的は。

「……伊角先生は、偕行社で何を」
「おいおい、君等に言うわけがないだろう。僕はこれでも監察部、君らの師父と似たような仕事をしてるんだぜ」
「知っておりますとも。しかし妙です、ひと月前……ちょうど敗戦間もなくの折となると、ここはまだ陸軍の施設であったはず。内院と軍は犬猿の仲、そこに入って財団の接収の後も居座り、文句も言われずにいると?」
「随分な言い草だな? しかしその通りさ。財団もまあ、僕のような者には寛容で──」
「京では随分仕事がおありでしょうに。先生ともあろうお方をこんな場所に釘付けとは、牛刀で鶏を割くような話だ」

砥鹿社の言葉を敢えて遮る。ぎょっとした様子の南方に内心で苦笑しつつ、私は左手で応神に合図する。どうせ向こうにも筒抜けだが、それでいいのだ。小さく息を継いで、一言。



「お聞きしましょう。一体、を匿っておいでで?」

ことによっては秘戴部への報告を──という言葉は、途中で止まった。否、強制的に止められた。

がつんという音が響いた。たった一度の瞬きの間に応神が立ち上がっており、私の半歩前にいた。私の視界の中央を水平に横切るかたちで、応神の足元に置かれていたはずの彼の剣筒が掲げられており、そのちょうど私の眉間の前にあたる場所には深々と亀裂が入っていた。それを構える応神の、がっしりと引き締まった腕が力み震えるのを私は見た。そして砥鹿社は先ほどと変わらず深々と椅子に座り込み──先程までは影も形もなかったはずの長柄の薙刀が、彼の右腕が添えられた状態で、彼の脇に立てかけられていた。

一瞬、否、二瞬ほど遅れて気づく。何のことはない、私は今まさに死にかけたのだ。砥鹿社流が誇る一刀一死の薙刀術によって、眉間を真一文字にかち割られるところだった。そして一撃のみでそれを翻したところを見るに、これは試験だ。私を試したのと同じように、応神をも試した。私を守れるかどうかを。

砥鹿社が笑う。見てくれだけは端正なその顔を歪めて、きしししと汚く笑っている。応神の猛烈な怒気など歯牙にもかけないその愉快そうな態度に、私は改めて確信する。やはりこの男は我々に用があり、そのための値踏みをしていたのだ。

「ようし、よし、合格だ。東風浦に対する任務の秘匿は絶対条件。才気煥発たる三弟子に"師匠に言いつけるぞ"などと脅されてしまっては、僕も取引に応じないわけにはいかないなァ」

いけしゃあしゃあと心にもないことを言ってのけ、砥鹿社はゆるりと立ち上がった。反射的に刀を抜きかける応神を制して、私も腰を上げる。ついでに放心している南方を蹴り飛ばしておいた。いくら切った張ったのやり取りが苦手だからといってこいつは役に立たなさすぎる。私だって剣はからきしなのだ。

「試験終了、とみて良いのですか? こんな仕打ちはもう二度と御免なのですが」
「一先ずは。まァ付いてこいよ、秘戴部に報告しないってんなら、面白いものを見せてやる」

君等の任務にも役立つはずさ──そう言って部屋を出ていく砥鹿社。後に付いていくよりほかになさそうだ──我々は互いに目配せしあい、得物を抱えて立ち上がった。どいつもこいつも我々の任務を先刻ご承知の情勢については、流石に諦めたほうがよさそうであった。

*

何か後ろ暗い事物がある場合、大抵は地下に隠される──その原則は財団、ひいては九段偕行社を運営してきた陸軍においても普遍的なものであるようだった。長い廊下の先、階段をいくつも下り、裸電球に照らされた薄暗い地下倉庫で我々を出迎えたのは、ゴム製の長い衣服とゴーグルとで全身を覆った数人の科学者たち、それからシーツを破いたらしき白い布切れで覆われた、大小無数の箱の群れだった。

「──どうした? 揃いも揃って子鹿みたいに固まりやがって」

先を行く砥鹿社の嘲るような物言い──周囲を見渡して、私は小さく頷く。息を吐いて応神が一歩前へ、南方は肩を縮こまらせて一歩後へ。私が真ん中なのはいつものことだ。勢い縦列となって、砥鹿社の後を付いて歩くことになる。

「最初は毒でも流れているのかと疑いました。ここの連中は随分物々しい」
「僕もそう言ったが、神山はプロトコールがどうのこうのと言って聞かないのさ。隔離してひとつひとつ検査するとね。折角うちで危険がないのを調べ上げてやったのに無駄足だった」

肩を竦める砥鹿社の後を追う。埃っぽい倉庫の先は細い廊下で、それを越えた先にはまたしても似たような光景が広がっていた。ただしこちらの荷物は覆いを掛けられておらず、作業員たちが目録を片手に品物を箱から箱へと移している。古びた木箱から輝く金属製のトランクに。

「──あの木箱を見ろ。どうやら独逸語だぞ」
「ああ。話が見えてきた」

南方の囁きに頷く。科学者と作業員はおそらく財団の手の者だ。木箱からトランクへと移される品物、隔離と検査、砥鹿社が東国に出張る案件で、彼が来たのは一ヶ月前──おおよそ何が起きていたかは予想がついた。問題は砥鹿社が我々を誰に引き合わせようとしているかと、彼がそうする思惑だ。

ビスマルク案件

「まあ、こちらには応神がいる。手数を増やすために別行動していたが、これからは3人で動くことにしようか。顔を知られているのは多少面倒だけれど、盛り場を避ければ危険は少ない筈だ」
「応さ。」
「ならいい。どうせ行き先は決まっているからな」

ようし、と南方が腹を叩いた。

「ひとつ行ってみるとするか。凍霧家別邸──天陽てんよう荘に」


皇紀弐千六百五年 九月拾九日

世田谷は経堂の"川ッぺり"──烏山川のほとりの丘陵地に、瀟洒な邸宅が建っている。
名付けて曰く、天陽荘。凍霧男爵の名前から取った、煉瓦造りの西洋建築である。

藩閥出身華族の多くが洋館を迎賓館の如く扱い、自らは旧来の屋敷に住んだのとは対象的に、戦功叙爵者であり日露戦争帰りの男爵は西洋建築への居住を好んだ。本邸も別邸も少しばかり古風な露西亜式で、流石に気味悪がられると踏んだのか魔除けの西洋石像ガーゴイルなどは取り付けなかったものの、北方風の意匠に拘ったつくりであったという。
無論、過去形である──5月25日の大空襲で世田谷近辺は火に呑まれた。天陽荘も焼夷弾の直撃を受け、その名の後半分の由来となった球形硝子ガラス張りの温室共々、燃え盛るナパームの下で溶け崩れるように焼失した。

既に主人を喪った凍霧家は、別邸の焼失をもっていよいよ完全に没落したものと見做された──というのが、表での筋書きだ。

「で、内務省から陸軍に移管された資料を漁って、こいつを突き止めた」

火災から3ヶ月の時を経て、瓦礫ごと下草に覆われた天陽荘。
放置され、かつての面影を殆ど留めていない中庭で、応神が書類の束を広げる。
覗き込んだ南方が成程と唸った。

「防空壕か。確かに、邸宅の地下を掘るとなればこいつに偽装するのが一番だ」
「そうだ。昭和15年の年の瀬に最初の防空壕構築指導要領が内務省から出た。ところが男爵が地元の戦友会を募って人足を集め始めたのはそれより3ヶ月も前、15年の秋口なのさ」
「時節が合わんな。建設の申請は何時だ」
「16年の1月6日、年明けで役所が開いた途端だよ。まだ本土空襲の影も形もない、国民の間でも頭上に焼夷弾が降ってくる危機感なぞ全く無かった筈だ」

それどころかおれたちはやっている側だったんだ、と応神が言う。
私は解体現場の監督の赤ら顔を思い出す。彼の父親の名は防空壕建設のための各種の許可を内務省に求める戦友会名義の請願書に発起人として載っていた。丁寧に、彼の家業であった建設業の社名と共に。凍霧男爵の名前は──どこにもない。
彼の父は手伝ったのだ。防空壕の名を借りた、何某かの施設を建造するのを。そして恐らく、男爵が己の足跡を隠蔽するのにも手を貸した。それが同意の上であったのか、それとも単に利用されたのかは分からないが。

「男爵に先見の明があったのか、もしくは内務省に情報源があったのか。とにかく、防空壕の建設を隠れ蓑に何かやっていやがった。ここの建設図面はないのか? 地下室なぞあれば良いのだが」
「邸宅が建ったのは30年ほど前でな。見取図はあるんだが、おれのような建築素人の目にも分かる杜撰さだ。そもそも庭の寸法からしてずれている。これが登記書類とは驚きだ」
「厄介だな、男爵が何をやっていたかもまだ分からんのに。爆弾でも埋まっていたらことだ」
「日露帰りで元軍医だからな、地下に特火点トーチカでも築きかねん。もっと装備を固めてくるんだったか」

応神と南方が勝手なことを言い合う中、私は邸宅跡地を見渡す。
奇妙な邸宅だ──それが第一印象だった。
邸宅の正面が真北に面していることからして建築の常道から外れており妙だ。正門は立派だが、どこか寒々しく人を拒む雰囲気がある。崩れた屋敷と門の間には前庭があるが、ここは不自然にぽっかりと空いた空間で、石畳の隙間から雑草が茂っている。中庭は邸宅の東西にあるが、左右対称というわけでもない。名物だったという温室は南側、屋敷を挟んで反対だが、庭園の配置はまるで南側が屋敷の中心であるかのようだ。
否、実際にそうなのかも知れない。

私は中庭の奥に歩を進める。
中庭の中心部には、奇妙な石柱が立っていた。土台の上に安置された柱は奇妙に細く、空襲の熱によってか半ばから白くなり、無惨に折れている。
浮き彫り細工レリーフのような技法で彫刻された柱は、2本の線が精緻に曲がり絡みあう、見たこともない形状だ──敢えて形容するならば、まるで螺旋を二重にしたような。
しかし私にとっては、その形状よりも台座に刻印された文字のほうが重要だった。
近寄り、慎重に覗き込む。細かく、読み取り難いように崩された、しかし明らかにこれは古語だ。上代日本語、そしてその内容にも意味がある。

「見つけたぞ、南方。これで黒だ」
「何を見つけた。地下への仕掛けか」
「違う、しかし似たようなものだ。男爵の関与が疑われ、しかし証拠がなかった超常機関はいくつある」
「二十は下らん。それが何だ」
「上代日本語と片仮名を混ぜて人払いの式を刻むような真似をするのは?」

なに? と南方が瞠目どうもくする。
駆け寄ってくる男に、私は無言でその刻印を指し示した。
それをひと目見た南方の深い嘆息は、恐らく納得と呆れが等量に混ざったものだ。

「こんな馬鹿げた、古式神道の祝詞を無理矢理に解釈する節操なしの術式を書くのは奴らだけだ。間違いない、これが動かぬ証拠になる」

鼻息を荒げて彼は断言する。


帝国異常事例調査局。男爵の背後に居るのは、陸軍の連中だ」

*

天陽荘の名の一部となった大温室は男爵の私財を注ぎ込んで作られた精緻なもので、時には帝国大学の植物学の権威を招いたことすらあるという。
実際には、その様を特集した新聞記事は恐らくはこの世ならざる方法によって消し去られ、都内の図書館の保存書架バックヤードからも消え失せていた。しかし市政の人間の記憶までは手が回らなかったとみえて、本邸の解体現場で出会った人々から、幾ばくかの情報が得られていた。
先ほど発見した調査局の術式も併せれば、後は簡単な推理である。

「本格的な温室には法外な金がかかる。保温と給排水の設備も必要だし定礎は固めねばなるまい。最も日の当たる川沿いに置くのは確かに合理的だが、まるで別邸そのものが温室を中心にしたかのようなこの屋敷の配置はいかにも作為的だ」

天井が消え去って4ヶ月、散乱する硝子片も苔に覆われ、焼け焦げたコンクリートの隙間から草花の芽吹く温室跡。
奥へ奥へと進みながら、私は2人に解説する。

「南方の分析によれば、先程の中庭とは反対側の庭にも人払いの術式が刻まれていた。屋敷の裏手に出るには屋敷の中に入るか2つの庭のどちらかを通らねばならない。とすると、術式の意図は自ずと判明する」
「裏庭を……温室を侵入者から守る意図があった?」
「正解だ。応神もことが戦さに関わると頭が回るね」
「当たり前だ、それが御役目だとも。それで愷、ここに何があるんだ」
「当然、地下への入り口だよ」

迷路のように入り組んだ温室の最奥部。ぽっかりと開いた空間は、男爵の作業場だったのだろうか、細々とした器具や植木鉢が方々に散乱している。
崩れ落ちた鉄扉の向こう側に烏山川が流れていた。小さな桟橋が川に突き出している。経堂の周辺は坂や谷が多い、大型の苗木は川を伝って搬入したのだろう。
当然、由来を知られたくないものを、夜陰に乗じて運び込むこともできるわけだ。

「本当に温室を賊に荒らされたくないだけなら、温室自体に術を刻めば良い。それをしないということはだ、屋敷の中を通れる人物はここに通したかったとみるべきだ。しかし来客に温室を見せたがるなら、今度は中庭に術を刻んだこと自体が引っ掛かる。大抵の地位ある人物は、庭を隅々まで見て家主の格を計るのだから」
「では客は限られていた。温室を見せた客には、その続きも見せる」
「だろうね。とすると、客はその中身を知る同志だ。近所の住人に聞く限り、そこそこの数の客が居たらしい」
「地下への扉の位置は術を刻めば隠すことができる。師父や親父殿なら兎も角、おれたちの見鬼は達人には程遠いからな。だが──多くの人間が踏み締め、擦り減った床の凹みは誤魔化せない」

ここだ、と応神が膝をついて頷く。
作業場の中心から少し離れた、不要な鉢が積まれた区画だった。

「目で見た床の位置と実際に指で触れたときの位置が違う。外面そとづらだけ繕って、それ以外の質感を誤魔化すのが下手だ。やはり調査局の遣り口だな。詰めが甘い」
「邸宅の建設から噛んでやがるとは驚きだ。よくお互いの関係を内院から隠匿し切ったな」
「存外、院に協力者が居たかも知れない。おれの情報を進駐軍に売った奴のように」
「頼むからはやってくれるなよ、応神。この先は何が起きるか分からない。私はこの通りだし南方は素早い対応に不向きだ。お前が頼りなんだぞ」

不安を感じた私が念押しするのに対して、応神は不敵な笑みで返した。
静謐を旨とする剣士というよりは、闘志を押さえ付ける戦士の笑みだった。

***

意外にも、隠し扉に掛けられていた術式は軽微な認識阻害のみだった。
術式で隠された床の窪みの裏側に鍵の所在を探し当てた応神の手引きに沿って、南方が部分的に術式の効果を弱め、私が鈎針と短刀で鍵をこじ開けると、あっさりと扉はその内に抱いた地下へと続く通路を我々の眼前に曝け出した。

「連中、余程間が抜けているのか? 侵入者を迎える結界の一つもないとはな」

呆れかえっている南方だが、両手に呪符を構えて油断なく周囲を見渡す姿は十分に戦闘態勢だ。
とはいえ継ぎ接ぎだらけの前を開けた国民服という、そこいらの田舎親父がごとき恰好に変装しているので、傍から見ると滑稽この上ない。
近隣住民に怪しまれることの無いよう、我々は軽武装である。応神の使い魔──応神宗家の使い魔は代々嘴細鴉ハシボソガラスである──を飛ばして本院に応援を頼んだ後、先行調査のために侵入することとなった。通常であれば後続を待ち、入念に周囲の整調と修祓を行ってから調査するのだが、今は兎に角時間が惜しい。

「油断するなよ、これでも中々下っているんだ。既に河底より深い場所に居る。もし通路に水を流し込まれたらことだ」
「それは確かに宜しくない。では水中呼吸の符の効果が保つ範囲で引き揚げよう。それ以上は後日の探索で良かろう」
「分かれ道はどうする。迷路のようにしているかも知れないが」
「先の手掛かりが無いうちは常に右、帰路は左。異界に引き込まれるような事は避けたい、持ち込んだ携帯糧食と水筒以外からは何も口にしないこと。扉の類は勝手に開けず、私が調べるに任せてほしい」
「応」

進みながら小声で手早く相談を済ませる。地下や洞窟はあらゆる文化圏において死者の道、この日本国においては冥府への通路だ。まかり間違って本物の術者が男爵の側に付いているなら、断りなく侵入する者を出口のない異界に誘う罠くらいは用意するだろう。
遠野で妖怪保護を掲げる分派との交渉のために散々異界を巡った私と違い、2人はこのような空間の探索経験はない。先導は経験者の務めである。

通路は長い。土の匂いが強く、川べりだというのに物理的にも霊的にも水気を感じない。明らかに何か細工がされていた。予想に反して道は分かれておらず、所々で狭くなるものの、基本的には我々3名が悠々と並んで歩ける程の広さである。
どこから電気を供給しているのか、天井に裸電球が等間隔でぶら下がり、薄暗いながらも最低限の明かりがあった。邸宅が焼け落ちても点灯しているあたり、電線を地下に通して軍の通信基地や水道局から拝借しているのだろう。床面は舗装こそされていないが踏み固められ、足を取られる心配はない。

警戒しつつ、5分ほど歩いただろうか。
唐突に、奇妙な臭いが鼻を衝いた。不吉な、忍び寄るような、本能的に忌避感を呼び起こされる臭い。
死臭だ。

「──止まれ」

一歩先を行く応神が私と南方を制した。
油断なく小刀を抜き、鋭い眼差しで先を見据える。

視界の奥。裸電球の列が途切れた薄暗がりの向こうで、何かが動いた。
ゆらゆらと揺れながら近付いてくる、二本足のそれは──大人の男程度の体格に見える、しかし恐ろしくぎこちない足取りのそれは、

「────ッ、」

息を呑んだ。それは声を押し殺すことと同義である。隣の南方が目を見開いていた。私の視界の中央で応神が構えた小刀の剣先が僅かに揺れた。

それは人だ。少なくともそうであったものに見えた。陸軍の軍服を着ていた。下士官か憲兵であろう、サーベルが腰に吊り下がっていた。だらりと垂れた右腕の先にピストルが引っ掛かっていた。反対の腕は半ばで千切れ飛び、右の腿に折れたサーベルの先端が突き刺さっていた。
骨が入っていないかのごとくぐにゃりと曲がった首筋は灰色をして、赤黒い血が固まっている。表情の見えない伏せられた顔の向こうでがちがちと歯だけが絶え間なく噛み合わされ、全身を熱病患者のように絶え間なく震わせながら足を前に運んでいる。

有り体に言って、男は死んでいた。
死んで尚、その身体が動いていた。

通路の生温い空気が、静かに冷える。
我々3人共が、ひと目見た瞬間に理解した。

あれがこの先に大勢居る
あれを屠らねばこの先に進めぬ

ぬるりと、音もなく、滑らかに応神が小刀を構えた。
閉所で太刀は使えない。息を吸う──南方が無言で符を構え、印を切った。小刀の柄筋が紅に輝き、"雨覆"の銘が浮き上がる。破邪の真言による支援だ。
次の瞬間には全てが終わっていた。応神の足運びは旋風のようで、伸び切った彼の腕の先ではまるで巻藁の藁目に差すように小刀が男の頭蓋を真っ直ぐに突き刺し、脳髄を縦に割っていた。
人形劇の途中で糸を切ったかのように、ずるりと死体が崩れ落ちた。僅かに漂う腐臭は恐らく頭蓋の中身だろうか。

暗がりの奥に何も動くものがないことを確認し、互いに頷き合い、それから我々は駆け出した。
先程の取り決めなど、事ここに来ては用を成さなかった。最早一刻の猶予もない。
この地下で異常が起きているのは、疑いようもない事実であった。

*

4枚の鉄扉を越えた。
17体の動死体を葬った。

鋼鉄製の扉は分厚く、砲弾も爆風も徹しそうになかったが、全て内側から開かれていた。
死体はどれもこれも陸軍の軍服を着ていた。殆どがピストルとサーベルを持ち、応戦を試みた形跡があった。小銃や手榴弾を握り、顔や頭を砕かれた死体も何体か転がっていた──腐敗が進み、骨が見えているものもあった。火炎放射器でも使ったのか、丸焦げの炭になったものもあった。不思議なことにどの死体にも蛆や甲虫の類は見えず、それが却って状況を悪化させているようだった。
率直に言って──一秒でも早く逃げ出したいと思わせる、凄まじい光景と臭気であった。

「糞────」

3人共が疲弊していた。既に地下に潜ってから40分は経っただろうか。最初の鉄扉の先で通路はコンクリート造りになり、電球には埃よけの傘が付いた。幾つかの部屋があり、その中には警察署の取調室のような場所もあれば、病院めいたベッドが並ぶ空間もあった。
その全てが例外なく血と腐汁と弾痕と焦げ跡によって乱されていた。
静かに腐り落ちていく地下空間を、赤子のように弱々しく歩き回る死体たち。それを一体一体屠りながら死体の懐を漁り、散乱する紙切れを拾い集め、破壊された書棚を確認していく。
気の遠くなりそうな道行きであった。
そして同時に、齎される情報もまた理解に苦しむ代物であった。

「畜生、こいつもだ。これを見ろ」

また一体。首を刎ねられた死体が痙攣しながら崩折れる。頸の断面から凝固した血がぬるぬると押し出されるのも構わず、応神が死体の襟元を掴んだ。
軍服から力任せに引き千切られた襟章が私の手元に投げ渡される。

大日本帝国陸軍特別医療部隊.png

恐らく持ち主は丁寧に磨いていたのだろう、血塗れになって尚輝きを失わない赤銅色。
簡素だが洗練された銅製五ツ星型紋は、ある超常機関の公然工作員が誇らしげに掲げる徽章である。

「特医──負号部隊
「信じられん話だ、調査局の建造した秘匿施設に特医の兵隊が居て、それも死にながら動いてやがる」

口元を手巾ハンカチで覆った南方が呟く。
私も同じ気分だった。国内超常機関の関係性に多少なりとも詳しければ、この組み合わせは有り得ないものだ。

帝国陸軍特別医療部隊、略称を特医、またの名を負号部隊──数多存在する官製超常機関の中では異色と言える組織であり、同時に我々蒐集院からすれば鬼子のような存在である。
問題はその出自にある。昭和12年に発足し、関東軍と結託して満州を主要拠点としていたこの部隊の前身は、蒐集院の蒐集物利用推進閥の一部が陸軍の対ソ急進派と組んで発足させた特務機関──要は元々身内だった連中なのだ。

一方の帝国異常事例調査局は明治21年に発足した比較的古い組織で、独逸の異常事例調査局IGAMEAに範をとってIJAMEAとも名乗る。富国強兵が叫ばれた当時に欧州風の超常物利用の気風を日本に持ち込み、発足当初から蒐集院を目の敵にして内地での政治的な主導権や優秀な人材の獲得を争ってきた。
数十年の長きに渡る熾烈な政治闘争の後、蒐集院と半ば痛み分けとなる形で内地の主だった施設を引き払ったものの、台湾や朝鮮、南方植民地といった外地では逆に蒐集院の一派を駆逐。国内でも陸海軍基地、各軍都では根強い勢力を残していた連中である。

彼らはお互いに強硬な対立で有名だ。何せ同じ陸軍管轄で、片や蒐集院を度々支配下に置こうと画策してきた明治以来の古株、片や蒐集院をその起源に持つ新参である。予算編成権や人事権でぶつかり合う以上、対立するのは自然の摂理だ。
おまけに、彼らの本隊はどちらも外地にある。今も複数の残党部隊が支配下にあった満州や南方の各地に残り、異常物品を用いて連合国に抵抗を続けているという噂があるほどだ。それが凍霧家の地下にある調査局の施設で、こうして大挙して死んでいる。

「こっちは調査局の人間だ。一団で死んでる、4人くらいかな。肉が溶けちまっててよく分からん」
「また負号だ、頭を撃たれてる。それも死んだ後だ、化け物になって仲間に介錯されたのか」
「ここでお互い撃ち合いになって死んでいる、それだけなら特医が調査局の施設に攻め込んだ抗争ってことで片付くんだが。何故兵隊共が揃って異物になっているんだ? 訳が分からん、どちらかが妙な兵器でも使ったんじゃあないだろうな」

辟易とした調子で南方が肩を竦める。死体の間を探し回るのは、研儀官である彼には流石に堪えたらしい。
ぶちまけられた代用珈琲が乾ききり、薄い染みだけが残った机の上で、私は回収した資料を纏めていた。どれもこれも当たり障りのない、下級人員の台帳やら周辺の地図やら備品補充の目録やらである。こうした機密性の低い資料から敵対者の動向を読み解くのもまた蒐集官の技能であるのだが、流石に今回は情報が足りない。
ともあれ苛立っている友人を宥めよう。そう思い口を開きかけたとき、応神が鋭く私を呼んだ。

「見てくれ、愷。此方に扉がある」

呼ばれた方向に歩いていくと、凄惨な──とはいえこれまでと似たり寄ったりの──光景が広がっていた。
通路脇の扉のない入り口から入った先、20床はあろうかという寝台ベッドの群れが血塗れになって並ぶ部屋の奥。不機嫌そうに、しかし油断なく警戒している応神の足元には斬り倒された死体が2体と、腐った水溜りになりかかっている死体が3体。
恐らくは寄りかかったまま死んだ者が居たのだろう、頭髪と皮膚の切れ端が下側一面にべったりとこびり付く、5枚目の鉄扉が私の前に姿を表した。
この地下に入り込んで最初に出会った、ぴったりと閉じられた扉であった。

***

地下施設の閉じられた鉄扉ともなれば、越える方法は多くない。
と同時に、多少の心得があれば、そう難しくもないことである。

ぼろぼろと壁が崩れ落ちた。
私は穴の中から必死に這い出す。途端に重力に負けて身体がずるりと滑り落ち、勢い良く背中からコンクリートの上に着地した。
背筋に激痛──同時に埃っぽく、しかし間違いなく新鮮な空気が肺腑に流れ込み、私は安堵の溜息を吐く。直後に最早嗅ぎ慣れた腐臭を吸い込んで、勢い良くせることになったのだが。

「おいおい、大丈夫か? 心配するな、部屋の主はもう死んでいる──おれたちは少しばかり遅れをとったようだ」

床に転がって悶える私を、先行していた応神が泥まみれのまま気遣ってくれる。返事をする余裕もなく、水筒の水を一気飲みした。
喉の奥まで土の味がする。先程の死体地獄に比べれば多少ましだが、どちらにせよ人の居るべき場所ではない。

改めて周囲を見渡す。
恐らく研究用の拠点となる部屋なのだろう。天井が低い以外は快適そうな空間に、洋長椅子と小さな寝台が備え付けられている。壁には地図や資料が所狭しと貼り付けられ、書棚は大量の書類綴で溢れ返っていた。部屋の中央、傘付き電球の下にある作業台は用途不明の硝子器具──全て砕かれている。台の向こうの文机は蹴倒され、壁際の金庫は開け放たれていた。
どうやら、既に荒らされた後らしい。

作業台を挟んで部屋の向かい側、鉄扉の脇に応神が立っていた。彼の足元には、この部屋に入った最後の人物が軍服姿で崩折れている。改めて息を吸い込めば、腐臭というよりも屍臭が強い。どうやら死後、腐敗するのではなく木乃伊ミイラのようになったらしい。

「鍵は持っていたか」
「応よ、この死体が手の中に握り込んでいた。扉は開けても良いのか?」
「構わない。というより、早く入れてやってくれ」

頷き、応神が扉を軽く叩く。節を付けて4回──5回めを叩く前に返事が来た。取り敢えず生きているらしい。
薄汚れた鍵を扉脇の操作盤に差し込む。金属の軋る嫌な音を立てて扉が開き、次の瞬間には小太りの人影が転がるように飛び込んできた。即座に応神が扉を閉め直す。

「よお、生きてたか良治。息災か?」
「誰に言ってやがる。畜生、生きた心地がしなかったぜ」

平素から強気な男が少しばかり声を震わせていたが、流石に私も応神も彼を笑おうとは思わなかった。

地下空間で最も重要となるのは換気だ。換気系統が存在しなければ早晩有毒な瓦斯ガスが溜まり、地下の深い部分から段々に人が生きられなくなる。
従って、入り口から随分離れたこの地下通路では、随所に金網が張られた換気口が存在する。当然、鉄扉で密閉された扉の向こう側にも換気口がある筈だった。
これまでの探索で、地下道はほとんど非異常の技術で作られていることは察せられた。であれば、壁を掘っても突然異界に突き落とされるようなことにはなるまい。一から壁に孔を開けるのは非常に手間のかかる行為だが、手近な換気口を術で掘り広げて扉の向こう側に辿り着くのは、実を言うとそこまで難しくない。

結局、掘削作業は1時間程度で済んだ。
体格の問題で同行できず、ひたすら気配を消して死体の山の中で隠れ潜んでいた南方にしてみれば災難という他ないが──恨むべきは自身の肥満体である。

「それで、ここは何だ。探査術式で閉じた部屋であることは分かっていたが、やはり研究室かな」
「見た所執務室も兼ねている、既に一通りの家捜しを経ているようだがな。男爵が使っていたのか、それともこの男かな?」

言いながら応神が死体を靴先で軽く突く。水分が抜けて軽くなっているのか、死体はそれだけでずるりと滑った。角度が変わり、隠れていた顔が露わになる。

「────」

南方が目を丸くした。私も少々、否、かなり驚いていた。

別に知った顔という訳ではない。ただ、その軍服の襟章と、顔から首筋にかけて走る複雑な紋様に見覚えがあった。
襟章は負号部隊の象徴、銅製五ツ星型紋。そして腐敗ではなく木乃伊化したからこそ残されたもの──入墨。通常の黒や赤といった墨ではない。
白熱電球の光を反射して仄かに煌めく銀色は、白銀彫りと言われる特殊な彫り物だ。それを施す術を国内で保持している組織は数少ない。何故ならば、呪詛による攻撃への抵抗力を劇的に高める銀の防護紋様を肉体に直接施す白銀彫りは、蒐集院の秘儀のひとつだからだ。
それを施された存在はつまり蒐集院の縁者だ。死体で溢れ返ったこの施設において、それが意味するところは一つ。

「…………いや、待て、どういうことだ? 葦舟機関だと? 特医の幹部級がなぜ、調査局の秘匿施設の研究室に居る?」

理解不能、といった顔で南方が首を振る。

葦舟機関──その名は蒐集院の恥部だ。
かつて蒐集院幹部であった葦舟龍臣とその一派が、対ソ急進派の陸軍幹部と結託して立ち上げた蒐集物研究機関。後の負号部隊の中核となったその機関は、蒐集院の理念も軍の戦略も無視した無軌道で破壊的な研究方針から、およそあらゆる超常機関から蛇蝎の如く嫌われていた。
最大の問題は、機関研究員の殆どが元蒐集院所属者であったことだ。葦舟機関が設立された折、少なくない数の機密が流失し、幾つかの重要な蒐集物が持ち去られ、しかも軍の後楯を得て行われた一連の組織紛争において蒐集院は何ら効果的な反撃ができなかった。院と七哲の面目は丸潰れ、葦船の悪名は国内の超常社会に大きく轟いた。

陸軍の軍服に負号部隊の襟章を装着した白銀彫りの死体となれば、間違いなく葦舟機関時代の幹部。負号部隊では研究統括級になるだろう人物だ。
まかり間違っても組織同士の紛争で前線に出る格の人間ではない。とすれば──推測が逆転する。

「私は今まで、この施設は凍霧男爵と協力して調査局が建造したと思っていた。だから当然、調査局が使っているものだと。しかし、それが違ったとしたら?」
「すると愷、ここは特医の研究施設だったというのか」
「そうとしか考えられない。今の所、我々は最高でも下士官級の兵士の死体しか見ていない。でも、この死体の階級章は大尉だ。戦闘が起こったとき、幹部研究員がこの部屋に避難したとみるべきだ」
「そのまま外がああなって、出られずに死んじまったのか」
「そうだ。凍霧男爵が何を考えていたのか知らないが──少なくとも、彼は調査局にとっての裏切り者ということになる」

何せ調査局と組んで建造した施設を、敵対組織に使わせていたのだから。

南方が熊のように唸る。考えを纏めているのだろう、ぐるぐると室内を歩き回り──やおら書棚に飛びついた。
そのままがさがさと引っ掻き回し始める。他のことを考えて気を静めるのは内寮時代から変わらない、煮詰まったときのこの男の癖である。

──ふと、視線が机の下に落ちた。1枚の写真が書棚から滑り落ちたのだ。何れかの資料の紙裏に張り付いていたものと思われた。
私は急ぎそれを拾い上げる。

奇妙な写真だった。

Schistosoma_Japonicum_cercaria.jpg

厭な予感がした。
恐る恐る、私は写真を裏返す。
インクの滲んだ、しかし字体は流麗な走り書きで、英語の筆記体のサインが刻まれている。


Schistosoma japonicum necrosis
────A.Babbage, JOFUKU, 1943


A.Babbage──エイダ・ビアトリクス・バベッジ。
JOFUKU──ジョフク。

最悪だ。
舌打ちを抑えられなかった。一刻も早くこの場所から逃げ出さなければならない。否、それは一般市民の考えることであり、蒐集官である私の使命は異なる。一刻も早くこの場所全てを蒐集し、封印しなければならない。

「南方」

震える声で友人の名を呼ぶ。
声の調子の違いを感じ取ってか、平素とは異なり、南方は無言で近寄ってきた。
手渡された写真を見、裏返し、小さく呻く。

「糞が。──もっと早くに気付くべきだった。そういう施設か、ここは」
「ああ。道理で邸宅の地下にあるわけだ。生物兵器の研究所だ、高名な医学者を頼るのが手っ取り早い」
「どうする、ジョフクの連中ということは細菌兵器か。とすると俺たちは足を踏み入れた時点でお陀仏か」

ジョフク、徐福。かの悪名高い"108の家"事件により西欧医学界を追放されたバベッジ博士に率いられる、人体工学と生化学に特化した部門であり──複数の細菌兵器の研究で内外に知られる、札付きの外道たちである。
南方の顔は蒼ざめ、応神も頰を引き攣らせている。散々動く死体を相手にしてきた後に、それが細菌兵器によるものかも知れないと言われれば無理もない。
しかし、私には別の考えがある。

「ここにある設備は何の変哲もない鉄扉に金網だけの換気口だ。細菌の類を扱うなら研究する側にそれ相応の装備が要るだろう──それにこの写真の注釈」
「シストソーマ…………というとあれか、桂田博士の発見した、甲府盆地の」
「ああ、住血吸虫だ。外の死体に影響しているのは、たぶんその異常な亜種だろうな」
「だから川底の癖に水気がないのか、あれは水で媒介されるそうだから」
「血に触れないように斬って正解だった。まさか呪いの類ではなく生物由来の異常とは」
「田舎とはいえ、帝都の地下で馬鹿をやりやがって。人間を何だと思っていやがる」

この辺りに何人住んでると思っているんだ──研究者の端くれである南方は憤怒の形相だ。
私は泰然と構えている応神に声をかける。

「なあ応神、ここから外に連絡は取れそうかな」
「この深さだから恐らく無理だろう。おれの方術に通信に関わるものは殆ど無いしな。応援を呼ぶのか?」
「否、封鎖してもらいたいのさ。最悪の場合、我々ごとここを埋めてもらわねばならない」
「丁度、ここに入る前に要請した本院からの増援が到着する頃合いだ。しかしおれたちが自ら出てくるまでは地下に入るなと言ってあるからな」
「とすると──南方、お前の式神はどうだ。換気口から外に出られるか?」
「可能だ。幸いなことに自律式且つ煙型だからな、簡単な伝言なら運べる」
「ではそれで外と連絡を頼む。此方は生物兵器に汚染された死体だらけだ、火を扱える術者がほしい。外を封鎖して貰って、消毒が終わるまで我々はここから出られそうにないからな」
「任された」

これで応援は確保した。凍霧男爵を探す任務の筈がどうにも事が大きくなっているが、身内の後始末となれば否やは無い。
後は伝言が地上に届き、地下施設が一掃されるまで、ここで男爵の足跡を探すだけである。

慎重に文机や書棚を漁っていく。殆どはこれまでと同じく資材の目録やら運送記録で、研究情報は暗号化されている。男爵の動向に繋がるものはまだ出てこない。
一通りの資料を漁り終えるまで暫くかかりそうであった。

*

数時間が経過し、地上ではそろそろ日が陰る頃合いだ。
何を手間取っているのか、応援部隊が踏み込んでくる気配はない。
不気味なほどに静かで息苦しい地下室で、我々は淡々と調査を進めていた。

「一体何なんだ、この事態は」

紙束を作業台に放り投げ、南方が頭を掻く。
疲れ果てた我々は車座になって座り、床に資料を積んで話し合っていた。これまでの道中が酷すぎたためか、扉脇の死体さえ無視すれば快適な環境にすら思えてくる。

「現状、分かっているのは死体に人を襲わせる生物兵器を負号部隊が作っていたことだけだ。あの様子からして、死体は首を刎ねるか脳を潰さなきゃならない──応神、ここで負号部隊と調査局が遣り合ったのは何時いつ頃だと思う?」
「どうも感染した死体は腐らないみたいだからな。感染せずに死んだ人間の腐敗の具合を見るに、ここで戦闘があってから1ヶ月というところだ」
「では凍霧天が生きているとして、死を偽装したのが3月だ。ここで戦闘があったのが8月、空襲で地上の邸宅が破壊された後も研究施設として稼働していたことになるぞ」
「問題は男爵がそれに関わっていたかだ。負号部隊と組んで何をしていたんだろう。施設の提供だけとは思えないけれど」
「可能性があるとしたら、これだ」

南方が懐から取り出したのは、先日彼が図書館から持ち帰ってきた調査結果だ。

「古い私新聞だから文字が崩れてろくすっぽ読めないが、住血吸虫症について書いてある。甲府盆地の住血吸虫症の予防に貢献した医師名の目録を神社に奉納したって記事なんだが、そこの最後に凍霧の名前がある。それ以外の記述がないから本院は見逃したんだろう」
「じゃあ、あの生物兵器の知識の提供元が男爵だと?」
「その可能性はある。凍霧天の医学知識と現場での経験を基に、ジョフクの部隊がここで兵器開発をした。それが判明して調査局の襲撃を受け、相打ちという線か」
「調査局と負号の関係はそれで片がつく。問題は男爵の足跡だ」

南方が次いで取り出したのは、一枚の折り畳まれた紙切れだ。
戦争中、物資が足りない中で作られた藁半紙。黄ばみの見て取れる文書。

「あそこで死んでいる葦舟機関の人間な、あれの懐に後生大事に入っていたよ。最初は指令書か何かだと思ったんだが」

これだ、と文書を差し出す。

1945年8月15日


葦舟龍臣殿

愈々世事此処ニ於ヒテ遂ニ帝国ノ命運尽クトアリ
我等ガ切望果タサレント願ヒ全例ヲ破棄致シマス
諸事悉ク直グニ御精算成サレン事ヲオ奨メシマス
人類諸科学ノ罪業落果ノ地ニテ再会致シマショウ



敬具
凍霧天

「何だこれは」
「分からん。日付に嘘偽りが無ければ玉音放送の日に書かれたことになる。男爵の筆跡に見えるが、確証は無いな」
「ここは本人の書いたものと仮定して進めよう。少なくとも、これで男爵の生存は裏付けられたわけだ」
「確かにそれは収穫だ──しかし、嫌な名前が出てきたものだ。葦舟本人と関わりがあったとは」

応神の呆れたような言葉は、地下室の淀んだ空気に溶けて消えていく。
葦舟龍臣。政治の怪物、葦舟機関の長でありかつては七哲の側近でもあった男は玉音放送の翌日、部下に裏切られて無惨な死体となって発見されたという。その死体は財団によって回収され、財団と蒐集院の戦後最初の交渉事項の一つは葦舟の死亡確認だった。

「葦舟は負号部隊の主であると同時に、財団と通じていたことがほぼ確実な人物だ。そんな人間に精算を迫るとは只事じゃないぞ。しかも死の前日に──凍霧は一体何をやっていた?」
「ここに"全例を破棄"とある。この部屋の実験器具は壊されているし、金庫も恒温槽も空っぽだ。外の書架にも碌に重要資料が見当たらん、男爵が処分したのだろうか」
「では男爵は負号部隊も裏切ったということになる。調査局の襲撃にも一枚噛んでいたのかな」
「こいつは葦舟への手切れ状というわけだ。それも届かず仕舞い、配達人は生きて戻れず宛名人も死んじまった」

ひらひらと応神が手紙を振る。
南方が腕組みをして首を傾げた。

「しかし再会とあるぞ、完全に縁は切れていないだろう。何のことを言っている? 潜伏先の言い換えかも知れん」
「人類諸科学の罪業、ね…………」

思わず独り言ちる私に、南方が妙なものを見たような顔をする。
何となく、私には理解できたような気がした。
ここ数日、男爵の人となりを多くの人間に聞いて回ったからだろうか。手紙が書かれた情勢を鑑みれば、彼の言いたいことが何となく見えてくる。
とはいえそれは、あまり気持ちの良い解ではないが。
ともあれ、私はその推測を3人で共有しようとし、

「────待った」

やおら応神が立ち上がった。
呆気に取られる私と南方を置いて、彼は周囲を──と言っても8畳程の広さだが──見渡す。
次いで鼻を心持ち上に向け、すんすんと大仰に嗅ぐ。
そして真剣な顔で言った。

「なあ、焦げ臭くないか」
「──なに?」

一瞬、思考が追いつかず、私と南方は顔を見合わせる。
南方は鳩が豆鉄砲を食ったような珍奇な表情をしていた。恐らくは私も同じようなものだったろう。
そしておそらくは同時に、その顔から血の気が引いた。

「「まずい!」」


取るべき物を引っ掴み、水筒の水で手巾を濡らして覆面マスクとする。
深く息を吸い、鉄扉を開けてみればそこは一面灰色、煙の海。

「信じられん、上の連中、俺たちごと燻すつもりかよ!」
「それか不測の事態やも知れない。南方、外と式神で連絡が取れるか」
「無理だ! どうも妨害されているらしい。地脈の流れが妙な形になっている」
「では不測の事態だ。敵が来るぞ。良治、愷、備えておけ」
「何でもいいが突破せねば煙に巻かれて死ぬぞ! 畜生、折角徴兵も逃れたというのに!」

元が研究肌の南方はすっかり怯えているようであった。
無理もない。これまでと違い、今度は地下施設で眼前は猛烈な煙である。走っても地上まで20分、空気が保つ保証もない。探索が終わっていない以上、地下の動死体はまだ湧いて出るやも知れぬ。その上火元も、その原因も分からないとあっては我を失うのも当然であろう。
かくいう私も頭では冷静であろうとするものの少しばかり逃げ腰で、荒事に慣れた応神がこの場の頼りであった。

「良治、妨害がどんな形式のものか分からないのか」
「ああ糞、俺は地の気配を読むのはそう得意でもないのに──何だこれは、並みの干渉じゃあないぞ。地脈を直接操っているようなものだ」
「何だと? そんなことが可能なのか」
「地上と地中は全く別物だ、科学ではともかく霊的には別の世界だからな。しかし今、この地下施設はそれどころではなく地脈との繋がりが強い。まるで異界に入り込んだように」
「それも敵に都合が良いようにだろうが。行くぞ、元来た道を帰るしかあるまい!」

おれに続け、と小刀を抜いた応神が駆け出す。
短く舌打ちして南方が続いた。私は最後尾である。
水中呼吸の呪符は人魚伝承の応用で、口に咥えて使う代物だ。水で湿らせた覆面に仕込めば陸上でも多少の効果がある。煙に巻かれて死ぬのを遅らせるだけだが、それでも無いより余程良い。

上手くやれば脱出できると意気込んで──数分と経たないうちに、なけなしの意気も挫かれた。




走る、走る、先の見えない通路をただ走る。
冷たい煙に沈む一本道。薄暗い中を寄ってくる人影が、弱々しく震えながら摑みかかる。数多あるそれらの影はみな軍服姿だ。熔け崩れたもの、焼け焦げたもの、腐り果てたもの、凍り付いたものも居る。

「何だこれは、一体どうしたことだ!?」

思わず泣き言を漏らしつつ慣れない短刀を握り込み、向かってくる人影の顳顬こめかみ辺りに横から突き刺す。締まりの無い粘土が如き奇妙な感触も数度目だ。心のうちに生じた怯みを押し殺して刃先を捻り込み、相手の力が抜けた瞬間に蹴り飛ばす。
べしゃりと水の飛び散るような音と共に人影は煙の向こうに消えた。飛び散ったのは間違いなく腐った肉汁の筈だが、目も鼻も煙に潰されていて判然としない。

部屋を飛び出して30分近く。我々はまさに死の危機に瀕していた。

「畜生、もう符の効果が切れるぞ!」

金切り声を上げて走りながら、そこらの死体から奪ったサーベルを振り回す南方。既に彼の持つ呪的な防御手段は尽きている。体力はまだ残っているようだが、先に息ができなくなりそうだ。

「騒ぐな良治、それだけ命が遠のく。敵を殺して走れ」

冷徹に言ってのける応神も少々息が切れている。それも当たり前の話であり、私と南方の数倍の数を相手にして、彼は一撃たりとも傷を負わずに立ち回っていた。

否、それは当然のことでもある。傷を付けられれば終わりなのだ。
道中殺して回ってきた動死体の群れ──死体を動かす線虫に毒されたそれがまたもや立ち上がり、逃亡を図る我々の前に立ち塞がったのである。それも明らかにこれまでの死体の総数より多い、100を下らない数。中には明らかに先ほどまでは存在しなかった凍死体や溺死体も混じっている。
それだけではない。この地下に於いて、何時の間にか殆どの術が効果を無くしていた。破魔の真言、鬼火の呪詛、清澄の祈祷、全て用を為さない。
神秘学の常識に照らして、まず有り得ないことが起きていた。

「糞、糞、何故起き上がってきやがる、いやそれは分かる! ここが黄泉比良坂に転じているからだ、死出の道だからだ! そんなことはおれの肌身に感じられる、だがどうやって!」
「延々と走り続けているのもそのせいだ、この通路を黄泉路に見立てて引き延ばしている。どうしてそんな事が可能なんだ!」

殺した端から死体が起き上がる。とうの昔に外に出ていなければ可笑しいのに、通路に終わりが見えない。あらゆる術が機能しない。煙は濃くなる一方で息苦しさと死臭は増すばかり、天井の裸電球は次第に暗くなっていく。
この通路に入ったばかりの頃の想像が最悪の形で襲ってきていた。間違いなく手練れの術者が罠を張っていたのだ。既に我々は異界に取り込まれている。死者が死んだまま蘇り、生者を貪る根の国への大道だ。
有り得ない。昭和20年のこの御時世に、こんなことは殆ど不可能だ。
人々が科学を知らぬ神代に非ず。最早神々の息吹も遠いこの時代、たかだか3人の若造を殺すためにこんな馬鹿げた、太刀で羽虫を斬るが如き真似を──

「愷、後ろだ! 振り返るな!!」
「──────」

厭に切羽詰った調子の応神の声が聞こえた次の瞬間、右肩を掴まれた。
咄嗟に視線だけを投げる。ぼろぼろに崩れかかった掌がある。土気色の肌に蛆が湧いている。猛烈な臭気が漂ってくる。掴まれた箇所から身体が冷え、力が抜けていく。仲間たちの呼ぶ声が遠ざかっていく。死者の列へと呼ばれている。歌が聞こえてくる。行進の歌。屍人の歌。礎と成るべき者共の歌。

弟もここに居るのだろうか。亡者の列の只中で歌って、私を呼んでいるのだろうか。まだ成人したばかりだというのに、学者として院の皆の役に立つのだと笑っていたのに、今や軍靴ブーツ脚絆ゲートルを履いた列唱する口の一つとなって、水底に私を呼び寄せて──

待て、歌だと?


死て甲斐あるものならば 死ぬるも更に怨なし

我と思はん人たちは 一歩も後へ引くなかれ


「愷!」

振り返ってはならない──よく知られている通り、黄泉路から帰る条件は幾つかある。そのうち最大の禁忌とは即ち、決して振り返らない事
右手に握った短刀を逆手に持ち変える。突き刺す場所は決まっていた。死人の復活を畏れるのならば、屍の足を折ると古来より伝わるのだから。
勢いよく突き刺す。砂のような手応えのなさ、幾度も突き刺す。5回目でやっと手が離れた。
振り返ってはならない、ただ走る。息が苦しい。空気が足りない。

「大丈夫か、おい!」
「──問題ない、それより敵の素性が知れた! 畜生、何て連中だ」
「それは良いが、何になる! お前には今の具合が分からんだろうがな、もうじき呼吸ができなくなるんだぞ!」
「それはいい。こいつは結界だ──あの死人に触れられて初めて理解したが、絡繰りがあるんだ。南方、何とか破れないか」
「何だって俺に頼る、ああ畜生知っているとも、俺は頭が良いからだな! 何をしろと言うんだ、言ってみろ!」

動転しながらもこの態度は流石に自信家と言うべきか。形相こそ引き攣っているが、まだ頭は廻るらしい。
私は走りつつ手短に情報を伝える。とは言っても、そう多くはないのだが。

「敵の正体が判った──五行結社だ! 連中、別の場所に黄泉路を拓いて、地脈を介してここと繋げているんだ。靖国の御霊の往く道を!」
「何を馬鹿な──否、そうか、煙が触媒になって術が使えんのか──畜生、そうするとどうにかして接続を切らねばならんぞ」
「どうすればいいんだ!?」
「どうもこうもない、術が使えんのに何が出来るものか!」

南方が悲鳴を上げ──突如として真顔になった。
薄暗がりの中、その視線は先頭を走りながらただ前の敵を切り捨て続けている二刀の剣士に向いている。
正確に言えば、背中に提げられたままの太刀に。

「五行結社と言ったな、愷。亡者に触れられた折、何を感じた」
「歌が聞こえた。軍歌を歌っている。護国の礎たるべしと大勢で歌って私を引き摺り込もうとしたよ」
「ははあ、それで黄泉路か。類感にしても大仰だが──応神」
「何だ」
「足を止めて刀を抜け。そのまま前を向いていろ。その太刀、"風切"に斬れるものがある」

応よ、と応神が吠えた。

背にした刀の鞘が落ちた。女人の背丈ほどもある太刀がその刃を鈍く光らせる。結界の暗がりにあって、その光は僅かながらも冷気を祓う清涼な神気を伴っていた。
ゆったりと、しかし素早く応神が太刀を両腕で構える。その型は巷の道場などに伝わる剣道とは一線を画する。応神宗家秘伝にして蒐集院内伝七流派の一、烏羽二神流の秘技である。
内寮時代、僅かに一度目にしただけのその構えで、応神がゆるりと全身の力を抜いた。
背後から亡者たちの気配が迫る。南方が顔を恐怖に引き攣らせながら、それでも笑う。

「いいか貴様ら、俺に続いて唱えろ。もう一刻の猶予もないぞ、決して句を取り違えるな──どうせ皆知っている句だからな、ただ力を込めろ。後は俺が何とかする」

すう、と息を吸う音がした。煙渦巻く地下に朗々と、力あることばが発せられる。


水無月の 夏越の祓 する人は 千歳の命 延ぶといふなり

ああ、と納得があった。
これなら知っている。否、知っていなければならぬ。
蒐集院に連なる者ならば皆、熱田の祝詞と祇園の山鉾奉じは既知のものだ。

轟、と大音が響いた。
熱がある。眼前、応神の掲げる太刀が赤熱している。"風切"の銘が一際輝いて、清涼な神気が一層強くなる。
背後、血と腐肉に満ちた冷たい気配が蠢くのが感じられた。
動揺しているのだ。炎の息吹に怯えているのだ。
何時の時代にも、亡者は炎を畏れる。生と祓の象徴、破壊の化身を。

次の句は私と南方の同時であった。


思ふこと みなつきねとて 麻の葉を 切りに切りても 祓へつるかな

太刀が燃えた。紛れもなく炎であった。術の使えぬこの空間において、この世ならざる炎が宿った。
腹の底から熱が湧いてくる。南方の目がぎらぎらと輝いている。口元が釣り上がり、必死に笑いを堪えている。私も同じ気持ちであった。口を開けば、詠唱に遅れれば、この炎は消えてしまうから、全霊を込めて叫び出したい気持ちを封じていた。
代わりに唱えた。3人同時に。
災いを避け、穢れを祓い、病を鎮める剣の祝詞を。


蘇民将来

何かが砕ける気配があった。
誰かの叫び声がして、次いで潰れたような悲鳴が上がったような気がした。
構わない。まだ術は完成していない。

背筋に冷気が吹き掛かった。
次の瞬間、幾つもの冷たい腕が伸び、私を後ろから掴んだ。激痛が走る──脇腹に骨でできた剣が突き刺さる。氷の如き感触にざあっと全身の血の気が引くのが判った。耳元で大勢が歌っているのが聞こえる。視界の隅で、南方に亡者の一群が組み付くのが見えた。
構わない。もう術は完成する。

声が出る内にと叫んだ祝詞は、奇しくも3人重なって響いた。


蘇民将来

ああ、と吐息が漏れるのが聞こえた。
息をしない筈の亡者の群れの、安堵の溜息が確かに聞こえた。
ふと、弟はこの列には居なかろうなと、奇妙な実感が湧いてきた。

次の瞬間、応神が太刀を振り下ろし──全てが灼熱に包まれた。

***

「────おうい、波戸崎。波戸崎愷。生きてるかあ?」

細切れになった意識を繋ぐように、声が聞こえた。
呼び掛けとは原初の縁繋ぎである。名前を呼ばうことで乞い願う、一種の儀式だ。
だからだろうか──様々な場所に置き去りにされてきた感覚が組み合わさり、私という形が戻ってくる。

痛い。熱い。痒い。
痛い。痛い。熱い。

「────────ッ!!!?」
「あ、戻ってきた」

ちっと遅いぜ、と黒尽くめの女が笑う。
目が見える、という事実に慣れることに少しばかり時間が必要だった。気付けば周囲は暗く、私は今が夜中であると知る。それにしては妙に騒がしかった。新月でもないのに月は見えない。空襲に次ぐ空襲で帝都は焼け野原であり、夜は星が綺麗に見えた筈なのだが。

「おいおい、まだ分かってないのか、手前てめえらが何仕出かしたのか」

女は楽しそうにころころと笑った。心底愉快で堪らないという笑みが、どこか煩わしく感じられた。
抗議しようとして、声が出ないことに気付く。

「黒陶さんー? 患者をあまり刺激しないように、お願いしますねえ」

別の女の声がした。奇妙に間延びした柔らかな声。
続いて視界に入ってきたのは、幾度か本院で世話になった姿だ。
辺りが暗く判然としないが、恐らくは浅葱色の和服姿の、髪を結い上げたしっとりとした美貌。

賀茂川先生、早く治してやっておくれよ。あたしは聲音サンからこいつらの御守りを任されてんのに、その前に怪我で寝込まれちゃあ世話ないね。本院行きまで保ってくれなくちゃあ」
「そう言われましても、丸2日は静養が要りますよお? 勿論、今日は除いてです。いくら黒陶さんの頼みでも聞けません」
「おいおい、そりゃあ無いよ。兎に角、歩ける位にならないのか? 私にこいつを負ぶって行けと?」
「必要ならそうしてくださいねえ。本当は担架が良いんですけど、今は危ないですしー」

では後ほど、と言って私に笑いかけ、賀茂川 静流かもがわ しずる医務官は去っていく。
どういうことなんだこれは──説明を求めようとするが身体が動かない。

「チッ、仕方無い。こういうのは苦手なんだが」

何を勝手に納得したのか、女は私を抱き起こそうとし──恐らくは背中に負ぶう積りだったのだろうが、それを止めた。
恐らく私は酷い顔をしているのだろう。全身が粉々に砕けそうな痛みだった。
面倒臭げに女は首を傾げ、それから何を思い直したのかさも愉快そうににやりと笑った。

「そうだ、こうしてやろう。静かにしていろよ」

横たわっている私の膝裏と両腕下の背中に手を当て、女は私を軽々と横抱きに抱え上げる。
痛みは少なかった。ふわりと身体に浮いた感触があり、次の瞬間には私は屋根上を運ばれていた。ひょうひょうという風切り音で、相当に速度が出ていることが分かる。その癖着地と蹴り足に殆ど衝撃がない。縮地の法と体術のどちらにも通じた、相当な使い手だ。
ふと女と目が合った。黒い瞳が喜色を帯びる。

「意識があるのは分かってんだ。喉が煙で焼けてるんだろう、私の言うことをただ訊いてろ」
「────、」
「了解と見るぞ。いいか、まずは褒めてやる。五行結社の連中と渡り合って、内側から結界を破ったのは上出来だ。私も術者に膝をつかせるところまでは行ったんだが、どうも位相が合わなくてな。術者を殺すには結界が揺らいだ隙を突くしかなかったから、手前らが上手くやらなかったらもう一晩はあの屋敷で睨み合ってただろう」

だが、と区切る。
半鐘とサイレンの音が厭に近く聞こえた。
視界の端が紅色に染まり、灰色の煙が高く立ち上っている。

「だが、だ。──少しばかりやり過ぎたな。地脈の繋がりを切った時、迦具土の誓文を込めたろう。あれでそこいらの地脈が励起して一円大騒動だ。負号やら五行やらの連中の式を残らず焼いたまでは良いが、そこら中で火事が出て霊障も酷い、財団も進駐軍も協約の武官共もすっ飛んできた。蜂の巣を突付いたみたいだよ」
「────、──」
「まだ喋るな、応急処置しかしてないんだぜ。そういうわけで、私らは今直ぐ帝都から退散せにゃならん。この大事な時期に元身内と遣り合って下町に火付けして回ったなんてことが知れたら大変だ、何も無かった振りをしていようってことだ。私と手前はこれから大宮別院に逃げる、それでその傷が癒え次第別の場所に移る。良いな? 返事は聞かんぞ」

そう言ったきり女は押し黙った。恐らくは風を操作しているのだろう、身体にかかる重さが奇妙に変化する感覚があった。下の方から聞こえてくる日本語と英語の混じった狂騒は、確かに蜂の巣を突くという表現が似合っている。
不意に脇腹、記憶に残る限り最後に亡者に刺された箇所に激痛が走り、私は呻いた。
その後で声が出ることに気づき、やっとの思いでしゃがれた声で問うた。

「──いら、がみ…………みなかた…………仲間は、」

ああ? と女が眉を跳ね上げる。

「心配しなくとも手前より軽症だよ。2人共火傷くらいだな。貴様と違って亡者に呪われてないんだ、体力もある。明日には恢復するだろうさ」
「…………よかった」

それを聞ければ、もう気を張る理由もなかった。
全身が休めと訴えていた。脇腹の傷がじくじくと痛む。
急激に眠気が迫り、泥のような疲労感に全ての感覚が埋もれていく。あ、おい、とどこか慌てたような声が聞こえ、それを奇妙なほど可笑しく思いながら、私の意識は闇に沈んだ。


皇紀弐千六百五年 九月弐拾壱日

月光が窓から冷ややかに差し込み、寝台の白を際立たせていた。

急拵えの病室は静かだ。一昨日の騒動の後、我々を収容した大宮別院は厳格な灯火管制を敷いた。客人在る旨を進駐軍に悟らせるべからず──表の社務所を除く全ての部屋に人払いが行われ、近所の犬猫すら近寄らない。
丸一日意識を無くしていた私は、目覚めた直後に全ての資料を本院に送り付け、それから治療を受け続けていた。開放された頃には日が暮れ、音のない病室に1人きりである。
さして気配に敏くもない私がそれに気付けたのは、単にその静謐によるものだったろう。

「──御出おいでになりましたか、師父」
「気付かれたか。どうにも書類仕事ばかりで鈍くなっていかんな」

照れたような笑顔と共に何もない場所から現れた私の師父、東風浦聲音は、脇に避けてあった丸椅子を引き出して座り込んだ。
月光を避けるその仕草は最早職業病であろう。見えなくなった表情に、私は優しげな黒瞳を幻視する。

「お前たちの持ち帰ってきた資料に一通り目を通した。その確認にやって来たのだ」
「人を遣わせれば良いでしょうに。ただでさえ難しい御立場なのですから」
「そう言うな。拙者とて公務を抜け出して、弟子と語らいたい時がある」

どうにも血腥ちなまぐさい話題だが──苦笑いするのが気配で知れた。
全身に塗られた火傷治しの軟膏がむず痒い。寝台の上で小刻みに悶えつつ、私も尋ねる。

「私からもお聞きしたいことが幾つかあります。認識の摺合せをしたいのですが」
「良かろう。では拙者からだが──まず悪い報せだ。今朝方、五行結社が正式に本院に宣戦布告を通達した」

暫くの間、沈黙があった。
師父の考えていることは分からない。私はといえば、ただ納得の境地にあった。
彼らならばそうするだろう。いや、今までそうしていなかったのが奇跡的ですらある。

「私たちが遭遇したのは、諸勢力破砕の尖兵という事でしょうか」
「そうだ。結社はAOIに付いた。AOIがいずれ立ち上げる新たな秩序に彼らは賭けた。否、結社の卜占の技は拙者どもをすら凌ぐ──彼らにしてみれば、確定した未来へ進んでいくだけなのだろうよ」
「では、帝都本局は戦場になります。黒陶という女性が、ここを離れると言っていました」
「あの女はあれでも研儀官だ。お前たちを護るために呼び寄せた。天陽荘に陣を敷いていた術者を屠り、地下を焼き、全ての死体を荼毘に付したのも彼女だ。恩にはしっかりと報いなさい」

はい、と頷く。それより他にない。
師父はここでの会話、その内容を私にしか告げないのだと察していた。元より私はそういう役目なのだろう。
剣術であれば応神が、妖術であれば南方が優れる。そんなことは内寮の時分から、私も2人も──師父も知っている。
だからこそ、私が識るべきなのだ。例え師父が何を覚悟していても、それを受け入れなければならない。

「敵は進駐軍、AOI、それから五行結社ですか」
「進駐軍は様子見だ。マッカーサーは俗物だが頭が回る。この国を彼の王国にするために、邪魔者は全て排除する積りだろう──財団とAOIが消耗すれば、それだけ彼の助けになる」
「財団は飽く迄彼らの利益を護るもの、我々の味方をしないでしょう。では、本院は孤立無援だ」
「そうとも限らん。先程使者が到着して、晴明院と理外研が助力を申し出てくれた。負号部隊も異常事例調査局も、各々が何かを企んで人を動かしている。それを警戒している内は大きな動きはなかろうよ」
「死ぬ御積りでは、ありませんね」
「無論だとも。まだまだ成すべきことがある故な」

呵呵と笑う師父の言葉の嘘を、私はもう知っている。
だから黙って、彼の笑みが消えるのを待っていた。
私は師父と罵り合いをしたい訳ではないし、愁嘆場を演じたい訳でもない。ただ必要な時に、必要なことを言う。

「────凍霧男爵は、何をしたのですか?」

その問いに師父の表情は氷の如き堅さに変じ──新たな人影が、音もなく月光の下に現れた。
まるで空気そのものに割り込むように。転移術ですら霊脈の歪みが感じられるというのに、何の予兆も無い。
白面。そう呼ぶのが適当に思える長身の美男子であった。

「それを僕も、知りたいと思っています。波戸崎愷」
八手やつで、貴様は黙るといい」
「そういう訳にも参りません、聲音。僕と彼の知りたい事が一致しているから、貴方は僕をここに呼んだのだ」
「黙って聞いて居ろと言ったのだぞ。赦し無く口を開くことを当主に禁じられているだろうが、貴様…………!」

非常に珍しい師父の怒気、背筋の粟立つようなそれを馬耳東風と聞き流し、私に視線を合わせてくる。
整った顔貌。右が銀色、左が茶色の異瞳。
銀色の肉体──微かな違和感が脳裏に弾けた。

「僕は八手と云います、波戸崎愷。故あって家名は明かせませんが、貴方の師父と共に院の未来を憂えている。実を言うと、僕が君たちの任務を立案したのです」
「────凍霧男爵の生存を確信し、それを追うようにと?」
「そうです。明かせない事情があり、誰にも頼めなかった。内院にも本院にも、適切な伝手がありませんでした。君たちだけが条件を満たしていました。だから」
「仔細を何も伝えず、負号や調査局との関わりも教えず、我々は死にかけた」
「確証はありませんでした。凍霧は絶対に尻尾を掴ませない男だった。それに僕自身、身動きの取れない身なのです。今日ここに居るためだけに、恐ろしく無理をした。凍霧邸の地下を調べるための手勢一人すら、今の僕には用意できません」
「…………だからといって、拙者の弟子を殺しかけていい理由にはならんのだぞ、八手よ」
「分かっています、聲音。だから今、こうして直に会いに来ました。筋を通すために」

月光の当たらない影の中、椅子に座り込んだ師父が背筋を丸めた。
まるで10は老け込んだかのようなその姿を、八手は窓の脇で憐れむように見下ろしている。

「波戸崎愷、貴方が僕をどう思っていようと、それは僕に関わりの無い事です。凍霧は多くの超常機関の間を飛び回り、何某かの目的で動いていた。それには僕は興味がありません──ただ、その目的のために奪われたものを取り戻したい」
「そのために男爵の居場所を探していると?」
「そうです。天陽荘の一件で様々なものが見えました。凍霧と異常事例調査局の結託、そして裏切り。今や特別医療部隊も凍霧を追い求めています」

だから、と声が続いた。
彼の笑みは恐ろしく透明で、双の瞳と相まって現実味に欠ける。

「彼らより先に、凍霧を捕らえてください。他には何も識る必要はない。その後は万事、僕が引き受ける」
「──断ると言ったら」
「言えるのですか?」

否、と私は言った。
当たり前だ。私は蒐集官である。使命には粛々と従うのみ。
2人の仲間がここに居たとしても、否と言うだろうという確信がある。
ただ、それとは別に──私にも多少の意地と、知恵はあるのだ。


「凍霧を探し当てたその先で、貴方の一族は何を得るのですか。日奉八手」

時が止まった。
そう錯覚するほどに、何も動かなかった。
固まった、というのとも違う。八手も師父も動かなかった。しかし明確に動揺の気配があり、今直ぐにでも私を殺すべきか否かを迷っているに違いなかった。

これはある種の賭けなのだ。そして私に有利な賭けでもあった。
私が死ぬことによって凍霧探索に生じる支障の数々を、この凍りついたような笑みの奥で八手は思案しているのだろう。東風浦聲音は黙していたが、師父としての己と東風浦の衛士としての己を天秤に掛けている筈だ。

どちらにせよ、私に勝ちの目が大きい。
全身を包帯に巻かれて横たわっている怪我人の身で、この地位も実力も年齢も遥かに勝る大物たちを手玉に取っている感触は、中々に愉快なものだった。

「────何故、とは聞かないでおきましょう。これは明確に、僕の不手際だ」

数十時間にも感じられる短い沈黙の後、八手が肩を竦めた。厭に欧米人めいた、どこか大仰で滑稽な動きだった。
私は賭けに勝ったのを知る。この男は明確に、不問に付すという仕草をして見せたのだ。私にではなく、師父に──
口封じをしなくても良いと告げたのだ。

「貴方がその名を知っているとは驚きでした。しかし、願わくば呼ばうのは一度きりにしていただきたい──名を口にするだけで呪いとなる、それはそういった類の言霊です」
「善処します。しかしご安心を、私は二度と貴方に会いたくはない。随分と気分を害しました」
「それは何故でしょうか。後学のためにお聞きしたい」

口を尖らせて、得意分野で先を行かれた幼子が大人を非難するかのように、邪気無く疑問する。
どうにもそれが腹立たしく、自業自得気味とはいえ命を永らえた高揚もあって、私は短く言い返した。

「私も仲間たちも、師父より任務を受けました。貴方にではない──部外者にはお帰り願う」

一拍の間があった。
それから暫く、上品で洗練された密やかな笑い声が、遮音された病室に木霊した。

「ふふふ、ふははははは! 聞きましたか、聲音。君は愛されていますね」
「…………出ていけ、八手。今夜は顔を見せるな。拙者は弟子と今後の話をする」
「はは、流石にこのまま留まる程肝が太くありません、今夜はここまでとします。御機嫌よう。波戸崎愷」

扉の方ではなく窓際に、白面の男は歩いていく。
窓枠に片手を掛けたところで、男はゆるりと私の方を向いた。

「君が弟を捜しているように、妹を捜している者が居ます。君はひと月、彼女は40年。それが全てですよ」

またお会いしましょう、きっと直ぐに。
そう言い残して、またも予兆無く、姿が消えた。

私は師父を見る。項垂れ、背を丸めて、額に手を当てたその姿は、盛り場に溢れる物乞いの老人にすら思える。
こんなにも背の低い御方だったのかと、ふと気付く。
そのような弱い姿でいてほしくはないと、切に願った。

「師父よ、頭を上げてください」
「愷、私は──」
「仔細は、任務より戻ってからお聞かせ願います」

このような言い草を師父に対して行えることに、私は怒りすら覚えていた。
ただ、生きて貰わねばならなかった。誰に対しても。
戦争が終わったというのに、一向に血を流すことを止めない者たちの世界で、恩人が死のうとしているのだ。

「多くを語るのは、全てが終わってからでも良いでしょう。我々は明日、黒陶研儀官の手筈通りに帝都を離れます。ただ、行き先は本院ではありません──凍霧男爵の居場所は、既に掴んでいます」
「何ッ」

疲れ果てた様子の師父の瞳に、一筋の光が宿る。
そうだ。私は知っている。だからこそ日奉八手を挑発し、部屋を出ていくように仕向けたのだ。
日奉という一族について、私は名前以外の殆どを知らない。遠野妖怪保護区の分派たちは、その名について私が興味を抱いたと知ると一様に口を閉ざしてしまった。しかし八手の物言いから察するに、この任務の先に待つのは碌な結末ではなかろうと思われる。
であるならば──最初に告げるのは、師父が良い。

夜は更けていき、話は尽きることが無い。
雄鶏が朝を告げる頃、旅の方針は纏まっていた。


皇紀弐千六百五年 九月弐拾弐日

日本国を列強たらしめるには先ず鉄道網の整備である、と檄を飛ばしたのは誰であったか。
亜細亜諸国では最大の輸送力を有すると喧伝された鉄道は、戦争中は専ら軍事輸送に使われ、石炭が不足してくるとそれすらも削減されるようになった。
敗戦後1ヶ月と少し。それでも既に主だった鉄路は復旧し、機銃掃射やら爆弾やらで破壊された駅舎や信号設備をそのままに、不安定ながらも運行している。

「此度の任務、誠に御苦労であった。満足な準備もできぬままお前たちを送り出す私の不徳を赦せ」
「滅相もない。過分のお言葉です」

深く頭を下げる師父の額の皺は、昨夜にも増して深まっている。
帝都の緊張如何ばかりか、その疲労を見るだけでも察せようというものだ。

「進駐軍もAOIも、恐らく騒動の源を掴んでいる。何とか追求を躱してみるが、どこまでしらを切れるか」
「十分です。秘戴部を挙げて庇い立て頂いたばかりか、おれたちのような半端者にこれほどの用意を」
「元より私が言い渡した任務なのだ、当然のことだろう。頼むぞ、是非任務を完遂してほしい」
「分かっております、師父よ。丁度里帰りもしたいと思っておりましたし、是非もありません」

応神が膝をついて礼をし、南方は呵呵と笑ってみせる。
いつも通りの光景を、私は後方から眺めていた。
鶯色の和服を着た結い上げ髪の美人が、私の腕や脇腹をぺたぺたと触り、満足げに頷く。

「うん、凡そは問題ありませんわあ。もう、黒陶さんったら、直ぐに波戸崎さんを連れ出そうとするのですから。酷いこと、重病人だのに」
「ありがとうございます、賀茂川医師。お陰様で快癒致しました」

頭を下げて謝意を述べれば、年齢不詳の医務官はゆるゆると手を振る。
紫陽花のような柔らかな笑みの中に、一筋の真剣さが差し込まれた。

「礼儀正しいのは良いことですけど、波戸崎さん、勘違いなさってはいけません。貴方の傷は亡者の呪い、黄泉路に引き込む白骨の誘いなのですよ。本当なら、ひと月は静養するべきなのです」
「しかし私は行かねばなりません。だからこそ、こうして符を仕込んでくださった」
「ちっとも万全ではないですけれど、仕方ないです。どうか、御大事に」

無理をなさらず、と言って賀茂川医師は離れてゆく。
その後ろに立っていた人物は、この残暑の最中だというのに揃いの黒いスーツを着込んで、日差しの中で白い肌を浮かせていた。
一向に近付いてこないのは、たぶん己に用事があるからには向こうから声を掛けてくるに決まっているという、彼の恐ろしく高い気位によるものだ。そしてそれが全く嫌味にならない程度には、彼は奇人であり天才であった。
仕方なく、私は脇腹を気遣いながらその男に近づく。

「久しいですね、日野先生」
「そうかな。そうかも知れないな」

久しいね、とは決して返さない。
日野謙一郎という男は内心を人に開陳する機能が無いものだと噂されていた。この百年に一度と謳われる天才研儀官が何故ここに居るのか私には見当がついていたが、一応聞かざるを得なかった。
これでも私は3人の頭目なのである、昨夜もそのような素振りで啖呵を切った以上、後戻りはできそうにない。

「日野先生は何故こちらに?」
「何故って、暇乞いにね。戦争は終わり、財団がやってきた。もう僕の仕事は終わったものだから」

そう言って飄々と笑ってみせる。
日夜騒然としている界隈のことなど気にもせず、細君の田舎に引っ込むと嘯いている。
それでも、師父が手を尽くしてこの男を呼び寄せた理由が、私には理解できていた。

「暇乞いとなれば、内院に出向かれるのでしょう?」
「そうなるね。本当ならそれも厭だったのだが、聲音が最後のけじめを付けろと煩い。息子を賀茂川が見てくれるとまで言うから仕方無く頷いた」
「では、御一緒ですね。我々も本院に出向くのです」

ほう、と日野が整った眉根を上げてみせた。

甲高い警笛が耳をつんざく。人もまばらな開けた空間に、俄に活気が満ちてくる。
ぼうぼうと唸りを上げるのは、石炭を喰らってひた走る蒸気機関のピストンだ。
腹の中に高熱を溜め込んだ鉄塊が、勇ましく軌条の上を走ってくる。

ここは横浜駅、東海道本線の中継駅の、一番線のプラットフォーム。
空襲で駅舎が影も形もなくなり、却って広々とした焼け野原に、黒鉄の猛獣が滑り込んだ。
見守る我々の目の前に停まった客車には、白ペンキで如何にも急拵えといった風情の「81」が書き込まれている。

「貴方の乗る客車ですよ、日野先生」
「特急券など、私は渡された覚えがないな」
「手配されているという事でしょうね」

成程、と楽しそうに笑うこの男には、心臓が3つほども付いているのかも知れなかった。
恐らくこの男には客車の中の人間のことなど全てお見通しで、その上で笑っているのだろうから。
スーツの襟を直すことすらせず悠々と客車に入っていく男を見送り、私はプラットフォームの側に向き直る。

仲間たちと共に師父が立っていた。
交わす言葉はもうない。たった一夜といえど語り合い、今後の仔細を詰めてある。
寧ろ傷の浅かった仲間たちはこれまで旅の準備に追われており、存分に師父と語らえたのかが気掛かりであった──しかし彼らの晴れやかな表情を見れば、束の間の交歓は上手く行ったようだ。
帝都を旅立つ我々の背中で、師父はこれから五行結社の魍魎共との戦さを控えている。万が一を考えれば、話しておくに越したことはない。

安堵している私のもとに歩いてきた師父は、ひとつ頷いた。
それだけで私には事足りた。

「行って参ります」
「気を付けなさい」

別れの挨拶など、その程度で十二分であった。

***

「随分と簡素な別れであったな。内心では寂しさが募っていないか?」
「怪我人を労るということをだな。早く座席に座らせてくれないかね」
「流石に一等客車に乗るのは初めてだ。弟共への自慢の種ができたな」

客車に乗り込む。人気のない入口付近から言い渡された席の方へ行こうとして──前を行く2人がびくりと立ち竦んだ。
一向に動かない仲間たちを押し退け、私は前に出る。十数人の男女が上等な座席に座っている。

金髪碧眼の数名の男女。書類鞄を抱えた軍人風の男。小銃を携えた護衛の男たち。
全身黒尽くめの和装の小柄な女。蒐集院本院准四等研儀官、黒陶由倉。
黒の洋装に身を包んだ長身の男。蒐集院内院正一等研儀官、日野謙一郎。

そして──その2人に両脇を固められた、堂々たる和服姿の男。
男の左手には、人差し指と中指が無い。

未だ固まっている二人を肘で小突きつつ、私は負傷の身で可能な最大限の礼をする。

「お初にお目にかかります。私、蒐集院本院が蒐集職、波戸崎宗家の愷と申す者。これよりこの列車の到着まで、閣下の護衛を務めさせて頂きます」

応じて深々と頷く男──賀茂相忌から、清浄な神気がふわりと流れた。
よくもこの近代化の時勢にこれほど鍛え上げたものだ──私はただ、その凛麗たる佇まいに感嘆するより他にない。

警笛が鳴り、列車が動き出す。
進駐軍が持ち込んだ良質な石炭を喰らって、汽車は力強く軌条を噛んだ。

財団極東分管区司令部所属、81暫定地域ブロック、移行交渉封緘列車。
幾多の思惑を運んで、汽車は西へと突き進む。


一路、西へ──広島へ。

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