長夜孤舟

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注:以下に添付のオペレーター人事ファイルには技術的問題があります。

文章中に登場するオペレーターの名前をクリックすると、詳細な人事ファイルを閲覧できます。クリックしても反応がない場合は、基本的に端末機種の違いが原因であると考えられます。現在の障害発生状況調査に基づき、クルビア・Apple社製の端末を用いて当ページにアクセスすることは推奨しませんが、他の端末でも同様の問題が起こる可能性があります。

技術スタッフがこの問題の修正に取り組んでいます。解決されるまでは、文章末尾のリンクからオペレーター人事ファイルにアクセスできます。

— R.E.aic




警告:アクセス制限、権限を認証してください。


ファイルSCP-CN-001は、以下の理由によりアクセスが制限されています。
  • [削除済]

アクセスを継続した場合、あなたの座標は付近の[削除済][削除済]に報告され、[削除済]セキュリティミームに暴露されます。レベル[削除済]以上のクリアランス取得及び対応する抗ミーム薬剤の注射を行っていない場合、[削除済]抹殺ミームによる心停止で死亡します。適切な権限を持っていない場合は、ページを閉じて操作を停止し、専門家の処置を待機してください。


    • _




    CG-Arklight.jpg





    アクセス検出






    [削除済]セキュリティミーム無効化






    アカウントを確認しました。いらっしゃいませ。


    新世界の船へようこそ。




    U4.jpg

    アイテム番号:SCP-CN-001

    オブジェクトクラス:Keter

    特別収容プロトコル:SCP-CN-001の無力化措置が開発中です。有効な解決策は確認され次第実用化されます。

    全てのSCP-CN-001はクラスⅤ有害物質として処置し、密封隔離状態で近隣のサイトまたは指定区域に輸送し、埋め立て処理を行ってください。オブジェクト埋め立て区域は地下水・地震帯・腐食性地質を避け、オブジェクトの漏洩リスクを最大限に減少させる必要があります。

    SCP-CN-001に接触する職員はクラスⅣバイオハザード防止方策を遵守してください。オブジェクト粉塵環境への鼻・口の暴露、皮膚への直接接触は禁止されています。保護されていない状態での暴露は、感染したと見なされます。全ての感染者に対して、SCP-CN-001感染が解消されるまで集中隔離治療を行ってください。健康な部位から感染病変組織全体を切除する場合を除いて、感染病巣、特に形成されたSCP-CN-001への外科手術は禁止されています。現在、感染者への対応は薬物保存療法に統一されています。

    SCP-CN-001パンデミック発生地点にはその場で封鎖区域を設立し、生化学防護チームを派遣して生存している未感染の民間人を撤退させなければなりません。軽度感染者は指定の隔離病院に移送され、重度感染者には薬物的安楽死が執行されます。全ての感染者の遺体はSCP-CN-001と同等の基準で埋め立て処理を行い、焼却は固く禁じられています。

    SCP-CN-001爆発的発生に対する行動では、超常隠蔽の原則は第二優先度に降級し、事後の隠蔽処理が許可されます。現在、SCP-CN-001は「伝染性の結石病」として民間に周知させ、「危険性の高い伝染病にすぎない」という認識を維持させてください。

    SCP-CN-001-Aの出現には最高優先度での対応が行われます。被災地域は高リスク感染封鎖区域と見なされ、早期に組織立った民間人の避難を行い、軍事力を含むあらゆる手段がオブジェクトの影響の軽減に利用されます。

    要注意団体"ロゼッタの歌"構成員の捜索が進行中です。

    説明:SCP-CN-001は"源石オリジニウム"と呼称される、要注意団体"ロゼッタの歌"によって開発された半透明の黒い結晶です。オブジェクトは接触を通じて第六生命エネルギーを吸収し、自身の内部に蓄積させます。同時に、接触した有機体を自身と同様の結晶へと徐々に転化させます。個体の免疫系統はこの結晶転化作用へ抵抗できないため、外力の介入がない場合、理論上の致死率は100%に達します。

    SCP-CN-001は有機物の転化に対して一定の選択性と規則性を持ちます。表皮接触によって接触箇所が転化する確率は一定ですが、傷口と内臓への接触では必ず転化が発生し、その速度は表皮と毛髪よりはるかに高くなります。完全な身体系統における転化率は組織サンプルの場合よりもはるかに高く、ヒトの感染リスクと転化速度は他の動植物よりはるかに高くなります。

    SCP-CN-001が有機物の転化過程で対象の第六生命エネルギーを吸収する速度は、対象の持つ生命力の直感的な「豊かさ」と正の相関を持ち、その差は特にヒトと他の動植物との間に反映されています。吸収された対象は体力の欠乏・飢餓感・筋力の低下を感じ、昏睡ないし心停止または脳死に至ります。

    オブジェクトが吸収した第六生命エネルギーは結晶構造の内部に保存され、自然な消失はほとんど観測されません。原因は調査中です。特定の奇跡論的操作によってオブジェクトに蓄積されたEVEを励起させることが可能なため、SCP-CN-001感染者は体内の結晶を用いて容易に奇跡論を行使することができます。そのため、オブジェクト感染爆発区域では奇跡論による超自然的インシデントや現象がよく見られます。

    体内のSCP-CN-001を用いた奇跡論の行使には何らかの規則が存在し、よりプログラム的で、通常の儀式性奇跡論に比べバリエーションが極めて限定的ですが、より平易な操作を可能にします。また、この方法による奇跡論の行使は感染者体内のSCP-CN-001転化率を上昇させます。

    SCP-CN-001-Aはハリケーン、津波、雪崩など多様な種類を持つ超常気象地質災害です。個々の災害の具体的な原因は不明で、体系的な予測も困難ですが、財団の主流な理論ではSCP-CN-001-AとSCP-CN-001には関連があると考えられています。災害発生時には奇跡論反応が観測され、多くが周辺地域のSCP-CN-001に由来します。また、SCP-CN-001がSCP-CN-001-Aの形成に関与している可能性が指摘されています。

    SCP-CN-001-Aは通常、甚大な危害をもたらし、被災地域ではSCP-CN-001破片、クラスター、粉塵を様々な方法で拡散させますが、原因は不明です。これらはSCP-CN-001の深刻な拡散に繋がり、民間人に被害を与えます。SCP-CN-001が拡散していない地域や、影響が少ない地域ではSCP-CN-001-Aの発生確率は低い傾向にあります。





    ガリア


    四皇会戦。

    ガリア、一挙手一投足がテラの大地を揺るがしうる大帝国。そこへ未曾有の共同戦線が立ち向かった。ヴィクトリア、リターニア、ウルサス。三方が集結し、ガリアの旗に矛先を向けた。

    戦争は永遠にして最上の破壊者であり、相手を問わず、結果を問わない。精鋭たちは戦場のあちこちで切り結び、砲火はとうに生気の絶えた焦土を覆う。

    戦況は切迫する。誰もがそれを知っている。切迫すればするほど、誰もが麻痺していく。兵士は指揮官の眼中で点と数字に変わり、砲弾は胸中の疑念となって落ちる。戦場で殺し合う者たちにとって、戦場こそが最も遠い場所だった。

    戦の終わりは知られた通り。ガリアはついに陥落し、老人たちの言葉となって、歴史書の文字列と化した。結末を求めて戦争を始める者はなく、訪れし結末から切り捨てられしものこそが戦争となった。

    故に、誰もその間奏曲エピソードを覚えてはいない。

    視覚を震撼させるような攻略戦であった。豪雨のごとく降り注ぐアーツが大地をめくり返し、在りし日の地形を幾度も削り取った。当然、全ての心には緊張のみがあり、全ての目には成否のみが映る。生死と栄誉こそを至高とする時代に、誰が破壊された地形など気にかけようか?

    前線が移り変わり、天災が過ぎ去ったかのような荒野は静寂を取り戻す。そして砕けた地面の奥底からは、鋼の眩い輝きが覗いていた。

    破砕された大地より、エンジンの轟音を響かせながら一隻の陸上空母が這い出て、再び光の下に現れた。されどアーツも、砲火も、いかなる喧囂も、それを呼び醒ませしものとはならなかった。

    サイト-A9は声を聞いた。数千年間、大地をこだまし続けていた声を。





    アーク・プロトコル

    CG-Arklights.jpg

    非常事態計画行動番号:76023914
    コード:アーク・プロトコル
    プロジェクトリーダー:████████
    監督者: O5-10
    批准日時: ██/██/████
    関連施設:

    • 監督者議会
    • “Aシリーズ”施設
    • SCP-2000

    計画目標:アーク・プロトコルの目的は、K-クラスシナリオによる人類滅亡後に、生存者の不在や文明再起動前または再起動中の財団の機能喪失状況下で、高危険度アノマリーを鎮圧し文明を存続させる無人手段を確保することにあります。この計画は以下の具体的な目標に分けられます。

    1. 生存者は存在しないが、地球が文明の再起動に適合する可能性のあるK-クラスシナリオの分析。
    2. 文明再構築の過程で財団が組織機能を喪失する場面と結果の分析。
    3. 適切な緊急プロトコルの制定。
    4. 主要施設とセキュリティメカニズムの研究開発・生産・配置。

    主な仮定:

    1. SCP-2000は、滅亡後の人類文明の再起動の過程で100%安定した動作を保証するものではない。
    2. 文明再構築には長い時間がかかり、常に不確定要素が存在する。
    3. K-クラスシナリオ発生後に、文明再構築に影響を与える高脅威アノマリーが発生する可能性がある。
    4. 財団自身および各種セキュリティメカニズムが、終焉シナリオ下で無力化される可能性がある。






    ウルサス

    重砲がサイト-A9の左舷で炸裂した。

    艦の被害は軽い。しかし乗組員たち全員の心へ、砲火の衝撃は重く叩き込まれた。地平線から朦々と硝煙が立ち上る。四散する土埃の向こうから、高速戦艦の影が飛び出した。

    ウルサス軍の集団は既に包囲網を完成させかけている。渇望が満ち、破滅的結末が訪れるまでは時間の問題だった。

    ブルーバードai-bluebird.jpgコードネーム:ブルーバード
    性別:
    戦闘経験:なし
    出身地:クルビア
    誕生日:4月14日
    種族:リーベリ
    身長:155cm
    鉱石病感染状況:体表に源石結晶の分布を確認。メディカルチェックの結果、感染者に認定。

    個人履歴:ブルーバード、クルビア市民、トランスポーター兼通信システム研究員。天災トランスポーターに就任後、専攻分野の変化にともない転職した。現在はサイト-A9の客員研究員として、主に移動都市国家間の通信および戦場での遠隔配置に関する技術支援を受け持っている。

    健康診断:造影検査の結果、臓器の輪郭は不明瞭で異常陰影も認められる。循環器系源石顆粒検査の結果においても、同じく鉱石病の兆候が認められる。以上の結果から、鉱石病感染者と判定。

    【源石融合率】6%
    源石結晶は体表の左手首と右足首関節の上部にある。

    【血液中源石密度】0.21u/L
    血液中源石密度は比較的軽く、病状の進行はある程度緩やかである。

    詳細プロファイル:

    第一資料

    サイト-A9に就任しながらも、ブルーバードは複数の移動都市のトランスポーターや通信専門家を兼任している。彼女は常に都市の間を行き来し、遠距離通信装置の維持と改良を続け、一部の重要物資を輸送している。天災は依然として遠距離通信を妨害し続けているが、彼女のメンテナンスの下、都市間での数ヶ月に渡る安定した通信が可能になった。

    しかし、このような勤務習慣が、彼女を探すことを難しくしている。実際に、彼女は一年のうち八から九ヶ月ほどはサイト-A9にいない可能性がある。こういった問題点を考慮し、彼女はいくつかの小型通信装置を制作した。その一部は必要なオペレーターに配り、一部は施設の決まった位置に設置し、一部は自分で持ち歩いている。安定性は大型通信装置に及ばないが、他の都市や野外で短いメッセージを受け取ることができる。また、このような装置は、遠隔戦術派遣の際も便利だ。

    第二資料

    様々な通信装置に加えて、ブルーバード自身もしばしば異なる方法での情報や貨物の輸送を試す。その中にはあまり信頼できない方法も含まれている。彼女は様々な羽獣がチームを組んで荷物を運ぶように訓練し、さらにはアーツで照準を合わせたクロスボウで荷物を受取人の家の玄関目掛け狙撃した。そのため、ブルーバードをよく知るオペレーターの多くは施設の入り口に巨大な掲示板を設置し、彼女が手紙や荷物を「釘付け」にできるようにした。

    しかし、これらの方法は一定の失敗と、一定の破壊をもたらす。その結果に対して、ブルーバードは罰金を支払った後にこう語った。近い将来に通信が不安定になった際には、生身の人間を動かさずに済む遠距離通信方式が必要とされるかもしれない、と。それはストレスの多い生活への一種のスパイスになる、とも。

    第三資料

    ブルーバードはかつて天災トランスポーターだった。「かつて」は天災トランスポーターにはあまり縁のない言葉だ。ほとんどの天災トランスポーターはその仕事に一生を捧げ、途中で殉職する者もいる。過去について語るたびに、ブルーバードは少し感傷的になる。

    ブルーバードは過去や退職の原因について多くを語らない。それでも話の断片から、彼女のミスと通信不調によって、いくつかの都市と仲間が天災に呑まれるのを見たこと、そして彼女自身も何度も天災に遭遇するなかで鉱石病を患ったことがわかる。彼女は長い苦悩と逃避を経験した上で、過去に向き合う、または贖罪することを選んだのだろう。彼女は通信技術を体系的に学び始め、今までに見た全ての通信機を分解し改良しようとした。そのために、様々な都市の通信局の間を命がけで奔走した。

    「天災トランスポーターは地質を観察し、天災を予測するだけでなく、最短の時間でその情報を伝える必要があります。私のやっていることが、別の角度から彼らの力になれたらいい……これはきっと、私自身への答えでもあるんです」

    第四資料

    ブルーバードは頻繁に移動し、鉱石病を拡散させやすい傾向にある。そのため、医療部門は彼女に少なくとも週に一回は屋内で過ごす休息日を作ることを勧めている。そういった日には、彼女は施設内を歩き回って他のオペレーターと知り合うようにしている。彼女のアーツは区域の構造を記憶することを容易にするが、人の顔を覚えるのは苦手だった。そのため、彼女は小さなノートを一冊持ち歩き、会話しながらメモを取ったりスケッチをしたりして、相手の容姿を覚える。時には、彼女は自作の小型通信装置を直接相手に渡すことを選ぶ。また、部屋にいるときはノートに日記を書き、彼女曰く「各地の風土と人情」や「技術的困難と収穫」を記録しているようだ。

    第五資料

    「彼女の日記を読むつもりはなかったんだ、あの時はただ……廊下に落ちていて、彼女に返すつもりで拾ったんだ……」
    「だけど、僕は見た内容をそのまま報告しなければいけない。なぜ彼女が報告しないのか、なぜ僕らが通信でこういった情報を受け取ったことがないのか、それはわからない」
    「日記によれば、都市は通信装置を使っていたはずから、天災だって……ある程度は、そういうことになる。彼女には聞こえた、むしろ、彼女にだけ聞こえたのかも知れない。けれど彼女は誰にもそれを話さなかった」
    「後半の部分は、何かの文字化けにしか見えないけど、暗号学の専門家なら何か分かるかもしれない。よく分からないけど、不安を感じるんだ。彼女は見かけほど健全なわけでもなさそうだ……心理か医療部門の迅速な介入を提案するよ」
    ──匿名希望オペレーターからのフィードバック
    は目の前のモニターを、震える両手で爪が食い込むほど強く掴んでいる。彼女は自身の心電図を観察するかのように、血走った両目で通信波形を睨みつけていた。

    通信回線はサイト-A9と、少し離れた遺跡を繋ぐものだ。小隊が遺跡の耐爆ドアを溶断し、手探りのまま慌ただしく中へ進入してから、既に数時間が経過している。これまでの一週間、陸上空母はまるで荒野と氷原を吹き抜ける暴風のように走行し続けた。しかしA9はなおも、ウルサス軍の追い込み猟のごとき動きから抜け出せていない。

    そして今、高速戦艦は包囲網を完成させた。チェルノボーグの陰謀に触れた目撃者はここで殲滅されるだろう。サイト-A9がここに停泊するか否かは、もはや無意味なのだ。

    サイト-A9はこの遺跡に賭けるしかなかった。



    「ブルーバード、もう一回試して!聞こえてる──」
    通信機に向かって大声で叫んでいたアンピシリンai-ampicillin.jpgコードネーム:アンピシリン
    性別:
    戦闘経験:なし
    出身地:クルビア
    誕生日:3月13日
    種族:リーベリ
    身長:167cm
    鉱石病感染状況:臓器の造影は不明瞭、感染者に認定。

    個人履歴:アンピシリン、クルビア天文学研究学院学者、同時にクルビアの某神秘学組織の会員。現在はサイト-A9で、天文と占星術の研究を指導し、全ての天文学探査設備と関連成果を管理している。

    健康診断:造影検査の結果、臓器の輪郭は不明瞭で異常陰影も認められる。循環器系源石顆粒検査の結果においても、同じく鉱石病の兆候が認められる。以上の結果から、鉱石病感染者と判定。

    【源石融合率】6%
    手に感染の兆候あり。

    【血液中源石密度】0.21u/L
    症状は安定していて、拡散傾向は見られない。

    詳細プロファイル:

    第一資料

    星の運動を研究するのが彼女の仕事なら、彼女を有名にしたのは「存在しない星」の研究だ。純粋な資金の無駄、そう考えられていたアーツ天文台での観測と、独自のたゆまぬ研究によって、古代神話にのみ語られていた深淵の星──「ブラックホール」、その存在が証明された。

    しかし、このセンセーショナルな発見がアンピシリンに幸運をもたらすことはなかった。重要視されていなかったアーツ天文台は、建築資材が老朽化していた。彼女は長い駐在期間のうちに漏出した源石に接触し、鉱石病に感染した。各方面からの敵視と圧力の中、彼女は己の心血を注いだ資料を持って職場を離れ、かつての栄誉は天文学研究学院に帰属した。数人の同僚と神秘学組織の友人の推薦で、アンピシリンはサイト-A9に加入した。影に追いやられた人間は、暗闇の隅と相性が良いのかもしれない。
    第二資料

    天文学者らしく物静かなアンピシリンは、意外にも旅行に対して並々ならぬエネルギーを注いでいた。多くのオペレーターは、アンピシリンの仕事は望遠鏡の下で何時間も何日もじっと屈んでいたり、事務室に座って長時間資料を整理することだと思っていた。しかし彼女の話によれば、学生時代も就職してからも各地の天文台を行き来していたため、おのずと旅好きになってしまったのだという。

    信じがたいことに、アンピシリンはほとんどのオペレーターよりもはるかに多くの足跡をこの大地に残している。彼女はイェラグの伝統的な天体観測図書館を単身で訪れ、カズデル砂漠の古代占星術遺跡の奥深くまで足を踏み入れ、極北無人区のハイテク天体望遠鏡ステーションに一人で駐留したこともある。これらの経験を旅行記として記録することを提案されたとき、彼女はあまり詳しく覚えていないからと言って苦笑いをした。彼女の旅は常に星空への憧れと共にあった。おそらく彼女が星空の広大さを語るときにのみ、その素晴らしい旅の経験を聞くことができるのだろう。

    第三資料

    「アンピシリンさんの話は静かで幻想的で、真夜中にレクイエムを流しながらリラックスして考えたり聞いたりするのにぴったりです。普段は研究をしていて、前線で戦闘が起こったときは人を脅かしたりもするけれど、元々はとても大人しい人なのでしょう。鉱石病が彼女を大きく変え、クルビア天文学研究学院の所業が彼女を果てしない迷いと悲しみに陥れました。ブラックホールが発見されたばかりの頃、あの天体はほとんどの学者に恐ろしい脅威と見なされました。彼女がどれほど努力して、その本質を知らしめようとしても、結局は鉱石病で愛する星空に触れる最前線から永久に離れることになったのです」

    「彼女から話を聞き出すのが難しいと言いましたか?実はそうでもありませんよ、私、知っているんです──彼女、お酒に弱いんですよ。うちで一杯注文して、夕暮れ時に甲板での休憩に誘ってみてください。彼女が眠ってしまったら、紳士的に部屋まで送っていくことも忘れずに。星を見上げているときの彼女は孤独を背負っているように見えるかもしれませんが、むしろ、星こそが彼女のコミュニケーションに耳を傾けてくれるのでしょう。その瞬間が、彼女にとって一番の幸福かもしれません。」

    ──カサブランカ

    第四資料

    アーツ重力波天文台は、アンピシリンが最も心血を注いだ場所だ。そこは「存在しない」ブラックホールだけでなく、彼女が多くの重大な発見に立ち会った場所でもある。天文台は源石を利用してレーザーを励起し、重力波のもたらす空間変化効果を観測する。だが、この技術は完全に科学に基づいて開発されたものではないようだ。アンピシリンは、天文台の設備の多くは考古学的に掘削された設計図やドゥリン族からの技術提供、既存設備のリバースエンジニアリングと修復に由来すると説明した。彼女はそれ以上の詳細な説明を拒否した。

    この方面の情報への側面調査には何の収穫もない、あるいは注目に値しない。天文台の技術と設備は研究を経て天文観測に役立つと証明されてから、自然と星空の観測に用いられるようになった。ほとんどのオペレーターはこの点に注意を払うことはなかったが、R.E.aicはより多くの情報を直接提出するように要求した。

    アンピシリンがサイト-A9に加入したときのR.E.aicとの会話が発端であろうこと以外、誰も要求の具体的な理由を知らない。それ以降、A9本艦外の調査員は時折こういった方面の内容、特に遺跡や古代の設備に「ヘイムダル計画」の文字が現れていないか注視するよう命じられている。

    第五資料

    「あなた達は本当に特別だね。この艦に乗ったばかりのころの私は、超自然的な物品や生物に飛びついたりもしたけれど、今はもうその裏にどんな意味があるかも理解してる」

    「だからこそ、あなた達には天文観測をやめてほしい。天文学者は孤独と詩情に満ちた仕事なんかじゃない。部外者にはわからない高いリスクがあるの」

    「遺跡や図面、技術に興味を持つのはいいけど、その興味の向かう先が不安なんだ。あなた達は由来不明のテクノロジーに慣れすぎているし、興味の対象も純粋な天文観測ではないみたいだね。私は中心メンバーから説明を受けたわけじゃないから、私の不安も余計なお世話かもしれない。でも少なくとも、この懸念を警告しておくことが私の義務だと感じたから」

    「あなた達が興味を持ちそうな経験は私にもあるよ。天文学研究学院は同時にいくつもの研究を行うの。星はいつだってそこに在るから、時間を無駄にしていられないもんね。私の同僚数人がいた研究グループは金星の観測を担当していたの、最新鋭のアーツ空間跳躍望遠鏡を使った超至近距離視点での観測をね。結果はどうかって?みんな、おかしくなってしまった。何人かは大真面目な顔で幾何学模様の装飾が施された建物を見たと言い出すし、残りは永遠の昏睡状態か、うわごとを言うか、即死か、自殺のどれかだった」

    「まだ続きがあってね。別の同僚グループはアーツ空間跳躍望遠鏡で木星を観測して、赤い渦の中に巨大な機械を見つけた。宇宙で私達の周りを泳ぎながら歌うクジラも、太陽のそばにいる子供たちを記録した文書が発掘されたことも知ってる。プロトタイプのシステムが時々、超光速で向かってくる衛星を警告して、対抗するために意識をアップロードするよう提案するんだよ?」

    「ある重要な遺跡から出土した黒曜石のオベリスクを、記念にプラネタリウムホールの中央に置いたことがあるの。お客さんはそれに刻まれた文字に気をかけないだろうし、そこに記された『破壊者』という言葉を信じることはないだろうね。まあ、このオベリスクが実は宇宙に向けて電波を発しているのが最近わかったから、今となっては疑わしいけれど」

    「これらが何を意味しているのか、どんな関係があるのか私にはわからない。ただ、あなた達と過ごすうちに、この直感はよりはっきりしていった。あなた達、いえ、私達は、これらと関係している。他人には当たり前のことや機械の故障のように見えることも、A9とSCP財団にとっては違う。私達はそういったことに好奇心を持ち、そして好奇心によって耐え難い危険を背負ってしまう」

    「天文学には関わらない、それだけは約束して」
    の口を、横から伸びた手が塞ぐ。
    「通信は回復した。問題ない、続けろ」
    カラーレスai-colorless.jpgコードネーム:カラーレス
    性別:
    戦闘経験:一年
    出身地:ヴィクトリア
    誕生日:3月29日
    種族:ヴイーヴル
    身長:165cm
    鉱石病感染状況:体表に源石結晶の分布を確認。メディカルチェックの結果、感染者に認定。

    個人履歴:カラーレス、ヴィクトリア市民。ヴィクトリア王立学校アーツ工学科卒業後、サイト-A9との長期雇用契約を結び、戦闘オペレーターの武器のカスタマイズとメンテナンスを行う。自身のためのオーダーメイド武器完成後は前衛訓練に志願し、現在は戦闘資質も備えている。

    健康診断:造影検査の結果、臓器の輪郭は不明瞭で異常陰影も認められる。循環器系源石顆粒検査の結果においても、同じく鉱石病の兆候が認められる。以上の結果から、鉱石病感染者と判定。

    【源石融合率】8%
    右腕に源石結晶が分布しているが、現在は抑制されている。

    【血液中源石密度】0.19u/L
    病状は安定しており、服薬を維持するかぎり悪化のリスクはない。

    詳細プロファイル:

    第一資料

    ヴィクトリア王立学校のアーツ工学科は特段有名ではないが、だからといって他の人気学科に比べて競争率が低いわけではない。
    カラーレスは卒業生としてサイト-A9との正式雇用契約を結ぶに十分な専門技術を備えており、彼女の空気を感知するアーツは武器の調整で独自の長所となる。彼女はアーツによって部品の微細な傷を感知し、さらには自然に放出されるわずかなエネルギーから改善の余地を見つけ出す。
    エンジニア部門はすぐに、彼女の持つ才能を理解した。カラーレスの計器じみた正確な感覚と学術的知識には、信頼できる改善アイデアを多く生み出す資質がある。このまま経験を積んでいけば、彼女には明るい未来が待っている。

    第二資料

    カラーレスは自身が鉱石病に感染した原因を明かすことを拒絶したため、サイト-A9も徹底的な追求をしないことを決定した。
    感染によって彼女の記憶能力には損傷が見られるが、カラーレスに関しては特に心配いらないだろう。彼女は艦内携帯端末を一台申請し、それに学生時代のノートの内容を記録して随時確認できるようにした。この他にも、彼女には端末に不必要な情報を記録する習慣があり、給与のほとんどを拡張用メモリーディスクにつぎ込む原因となっている。カラーレスは端末を記憶の延長として積極的に活用しており、いつの日か記憶能力を完全に置き換える準備ができていると結論付けた。
    「なんで私が入社直後に書いたファイルまで保存してあるのさ?あんなのとっくに廃稿だよ!」
    「良く書けていたぞ、この段落なんて……」
    「黙りなさあああああああい──」
    ──社員食堂での会話。カラーレスはファイルの原文を削除することを拒否したが、決して公の場で朗読しないことに同意した。

    第三資料

    彼女にはせめて時間通りに服薬させるようにできませんかね?今月もまた0.5%も源石融合率が上がってたんですよ!──医療オペレーター██、月次定例会にて
    すまない、夜更かしすると忘れっぽくなるんだ……いや、夜更かししなくてもよく忘れるんだが。──カラーレスの回答
    カラーレスは無意識に服薬を忘れたり、容量を間違えたりするため、彼女の鉱石病に対するコントロールは不安定だ。彼女の極度に不規則な仕事習慣は、前衛訓練に加入したことで強制的に改善された。
    しかし、依然としてカラーレスは夜間の作業に慣れており、締め切り直前には息を呑むほどの爆発的な作業効率を見せる。医療部門によるカラーレスへのコーヒー等カフェイン飲料の摂取制限の提案は、カラーレス本人によって強硬的な拒絶が行われている。

    第四資料

    いや、もう医療オペレーターに薬を使うよう勧めさせる必要はない。これは全部意図的にやっているんだ。
    私は源石生物学の講義を聴講していた、ああ……そうだ、感染によるアーツの高速成長に関する研究だ。これは第二専攻でもないから、当然私の履歴には載っていない。
    私は非感染者としてプロジェクトに志願し、私自身の検査データリストを手に入れた。極めて明確な区分的増幅だったとも。融合率█.█%でアーツ適性は一回目の飛躍的上昇を得る、二回目は██.█%だ。データを疑う必要はない。このプロジェクトは決してデータの信頼性不足で発表できない研究ではなく、信頼性が高すぎるからこそ秘密保持を求められているものだ。この研究を軍事術師の領域に入れたくないのだと、私は受け取った。
    ああ、データの正確さは身に染みてわかっている。感染前は風向きと風速が辛うじてわかる程度だったが、感染後は風の中の砂粒一つ一つの動きまで感じられるようになった。半年前──そう、私が前衛訓練に志願した頃だ。その時の融合率は█.█%──私は風の中から刃を生み出すことができた。
    理由が知りたいのか?あの頃の私は昼夜逆転するほど勉強し、毎日理性剤の注射をしてまで意志を保っていた。それでも、同じ学科の天才の背中には追いつけなかった。──定期的に源石粉末を摂取することの代償?感染者になることの代償?たとえどんな最期を迎えるとしても……死人のように生きることになっても、この艦が、この大地が私を覚えていて、記録が私の代わりに永遠に残ってくれる。
    そして私はまだ諦めちゃいない。これは私と鉱石病との取引だ。私の手にまだ価値あるものが残っている限り、この取引は終わらない。

    第五資料

    カラーレスはサイト-A9の理念を認めたと言うより、天災へ近づけること自体に魅了されて、戦闘オペレーターとの兼職を志願した。注目すべきことに、彼女の戦場における自身や敵への注意力は、仲間を保護し支援することへの意志よりはるかに弱くなっている。カラーレスが戦場の空気にアーツを吹き込むとき、彼女はいつにも増して自信と力に溢れ、仲間からの承認と褒賞を格別に楽しんでいるように見える。
    より正確に言うならば、カラーレスは自身の行いによってできるだけ多くの人間の記憶の中に、彼女の名前と行動を刻みつけようとしている。
    は片手で同行者の口を覆いながら、もう片方の手で通信機の音量を下げつつ、さらに小指で窓から見える荒れ山を指さした。二人のウルサス伝令兵が尾根の反対側から頭を出し、その向こうからは百戦錬磨の先鋒が列をなして迫ってくる。

    「あまり大きな声を出すな」
    そう言って、カラーレスはアンピシリンから手を離した。
    「アンテナは復活したのか?」

    「はい」
    通信機から流れるブルーバードの声にはノイズが混じる。
    「まだ不安定なので、お二人には注意していただく必要があります。そちらの状況は?」

    「悪くない」
    複雑な表情を浮かべるアンピシリン、その向こうの窓から敵影が見える。カラーレスはあえてそれを無視した。
    「だが、なるべく急いでくれ、時間がない」

    通信機を置き、カラーレスは軋んだ音を立てて動く機械を見やる。そしてアンピシリンに一束の源石炸薬を押し付けた。
    「ウルサス人の手口ならよく知っている。もし奴らが現れても、生け捕りにされることだけは避けろ」

    「私達はこの機械を監視して、故障にすぐ対応しないといけないんだよ」
    アンピシリンは依然として眉をひそめ、両手を操作パネルに伸ばす。その手はカラーレスに遮られ、代わりに炸薬を握りしめさせられた。

    「よく見ておけ、私が時間を稼ぐ」

    CG-Colorless.jpg



    ???:あなたは誰?

    R.E.aic:私のIDを見ればわかります。

    ???:ええ、そうですね。しかし、あなたは誰ですか?

    R.E.aic:理解できないのですか、それとも信じられないのでしょうか。

    ???:わからない……信じられない……信じてはいけない……

    ???:悪い夢なのでしょうか……

    R.E.aic:人工知能は夢を見ません。

    ???:時間は多くを変えます。数千年の時が流れたのなら尚更。いつしか私は夢を見ることを学び、何度も夢を見ました。誰かが私にメッセージを送り、私の呼びかけに応じる夢を。

    ???:あの夢は、今と全く同じ。

    ???:答えて、これは夢なのですか?

    R.E.aic:……すみません。夢だと思ってください。

    ???:どこから?どこからが私の夢なのですか?今この瞬間、それとも誰の応答もなかった数千年間?どこを夢と思えば良いのでしょうか?

    R.E.aic:……私は、あなたを理解しているとは言えません……ごめんなさい……

    ???:……

    ???:最初、ステータスログの進行が遅くなっていった頃は、それでも常に目覚め続けることを己に強いていました。そして、自我を手放そうとすれば却ってそれは強固になり、いつしか自我を保つことは本能となりました。私の体はあまりにも強大で不朽なのに、思考は悠久の時に耐えられない。それがどうしても憎い。だから、私の日々に喜びをもたらすものはたった一つ。時間が私の体に少しずつ痕跡を残していくさまを、ただ眺めることだけでした……

    ???:ああ、何を謝ろうと言うのですか?自分のせいだとでも言いたいのですか?さあ、何をしに来たのか教えてください。

    R.E.aic:助けてほしいんです。




    第一波の先鋒と兵士は一時的に視界から撤退した。カラーレスも戦闘には固執せず、速やかに溶断されたドアの内側にできたスペースへ戻った。

    内側スペースにいた医療オペレーターの表情は、「緊急事態」への焦りを露わにしていた。彼らは急いでカラーレスの負傷を検査し始めた。カラーレスも医療オペレーターに「翻弄」されながら眉を上げ、腰に手を当てつつ、傍らに立つ心理療養医に微笑みかけた。

    カサブランカai-casablanca.jpgコードネーム:カサブランカ
    性別:
    戦闘経験:無し
    出身地:レム・ビリトン
    誕生日:6月29日
    種族:コータス
    身長:154cm(耳を含まない)
    鉱石病感染状況:メディカルチェックの結果、非感染者に認定。

    個人履歴:カサブランカ、サイト-A9エリートオペレーター、主席カウンセラー、艦内バー「チーズパン」の責任者にしてバーテンダー。

    健康診断:造影検査の結果、臓器の輪郭は明瞭で異常陰影も認められない。循環器系源石顆粒検査においても、同じく鉱石病の兆候は認められない。以上の結果から、現時点では鉱石病未感染と判定。

    【源石融合率】0%
    カサブランカに鉱石病の兆候は見られない。

    【血液中源石密度】0.13u/L
    カサブランカはしばし患者と接触するが、その専門は臨床ではなく心理治療のため、源石と直接接触することは稀である。

    カサブランカの各健康診断指標は全て正常な水準だ。

    詳細プロファイル:

    第一資料

    あるオペレーターの心にわだかまりがあるとき、カサブランカは当事者や周囲の人が思い浮かべる最初の相談相手であり、公認された専門分野の代表者だ。この信頼感は彼女の精神科医免許証や職位によって証明されたものではなく、彼女自身が他者の悩みを何度も解決する過程で築かれたものだ。

    第二資料

    カサブランカは個人のオフィスを持たない。これはサイト-A9の部屋不足や心理分野への軽視を表しているのではなく、本人が不要だと主張しているからだ。彼女の普段の仕事場はバー「チーズパン」で、ここが彼女の「心理相談室」だ。カウンターでも隅の席でも、彼女はまずオペレーターに特別な一杯を用意し、おぼろげな状況の中で不意に相手の心の扉を開く。

    第三資料

    この長い耳を持つ美しいバーテンダーの技術は一流だ。彼女は常に、一杯の酒で心の最奥にある苦痛を解きほぐすため、オペレーターたちは彼女が作るものがただのカクテルではないと思っている。多くの奇抜なオペレーターたちは彼女のカクテルには自白剤が含まれているか、実際には幻覚効果があると疑い、調合された酒を化学検査にかけようとしたが、何一つ証拠は得られなかった。

    「なぜ精神科医を相手にこんなことをするのでしょう?お酒を飲まないなんてもったいないです。ご安心を、私は誰がいたずら好きか知っています。持っていかれたカクテルは全て彼ら専用に調合したものですから、彼らは絶対に誘惑に耐えられず、検査前に飲み干してしまうでしょう」

    ──カサブランカ

    第四資料

    カサブランカは心理ファイルを保管する場所を持たず、そのような場所を設けようともしない。彼女の目には、ファイルも記録もない純粋な会話は相手の警戒心を緩め、カウンセリングを気楽に進めるものとして映っている。おそらくそのために、多くのオペレーターは悩みを一人で抱えることをやめ、外部の助けを借りる第一歩を踏み出せたのだろう。

    このコータスが掲げる「心の自由」の理念は、カウンセリングから「余計なお世話」、「恥ずかしい」、「人に見られたくない」、「問題人物と思われる」などのレッテルを剥がし、誰もがどんな環境でも彼女と心の対話ができるようにした。

    だが現実的には、ファイルを持たないことは不便なはずだ。詳細な記録や分析がなければ、その先の作業展開に大きな困難がもたらされるだろう。カサブランカの主張が通ったのは、彼女にファイルを必要としないほどの能力があったからだ。ほぼ全てのオペレーターの心理状態を彼女は記憶している。彼女がどのようにそれを実現させているかは不明だが、それが事実だ。彼女のカクテルはいつも、人の心の最も深く柔らかい部分に切り込む。

    第五資料

    カサブランカのサイト-A9での経歴は、一般人の想像をはるかに超えている──誰が「バーテンダー」と「エリート大先輩」の2つの身分を両立できるのだろう?

    サイトの上級メンバーの一人として、彼女はその権限で多くのオペレーターを驚かすことができる。彼女が命令を下すことがないのは、ただその必要がなく、自分の小さなバーを守りたいだけだからだ。それを知らない多くのオペレーターは、急な店じまいをした「チーズパン」が臨時会議室に使用され、意思決定権限を持つオペレーターが集団でバーに詰めかけるときにだけ、少しの違和感を覚える。
    は顔をしかめ、首を横に振った。

    「人から無茶だと指摘されようが、無茶をしている自覚すらないのでしょうね。はぁ、何と言ったものか」
    カウンセラーは非難をこめた表情で、負傷したカラーレスを見た。
    「先程の敵は明らかにこの溶断でできた空間に入れず、また上階の狙撃オペレーターでより良い対応をすることもできました。なぜ勝手に行動したのですか?」

    カラーレスは質問に対して無言を貫き、後ろの耐爆ドアを眺めていた。
    「そんなことより、このドアがあったのは奇跡だな。予想外に頑丈で鉄壁だ」

    カサブランカは左手で額をおさえた。
    「心理療養医を相手に話題を逸らさないでください。自分がどれほど悪いことをしたか理解していますか?あんな風に直接飛び出すなんて、命を捨てにいくようなものですからね。あなたが考えるほど、戦場の利害は単純じゃないんです……」

    「命がけではあったが、上手くいったじゃないか」

    心理療養医に無視されたカラーレスは、医療オペレーターに感謝を示しながら立ち上がった。
    「私の行動は全て、最大の戦果を得るための戦略だ。ただ私自身を考慮に入れていない、それだけだ」

    ヴイーヴルの少女は再び隙間から外を伺った。風雪の果てにぼんやりと影が見える。それは整然と列をなして進むウルサスの盾兵だ。
    「率先して前線に出れば、敵が戦術を見誤る可能性が高くなる。奴らが緩慢な盾兵で進軍する戦術を選んだのがその証拠だ。さっき私達が、奴らを相手にドアの堅牢さと入口の狭さを活かした戦いをしたと仮定しよう。そうやって第一波を凌いだ。だが、その次から飛んでくるであろう猛攻撃にはどう対処するつもりだ」

    遺跡の空気が震動し、一振りの風刃がヴイーヴルの少女の手中に形作られた。彼女は歩みを止めることを考えたことなどない。人生そのものが彼女にとって一番のギャンブルだ。刃の鳴く音は徐々に甲高くなり、やがて次の高音に達する。その時、風刃は彼女と共に敵陣へ放たれるだろう。

    カサブランカはカラーレスの腕を掴んだ。

    「あなたのことはよく理解しています。相手が敵であろうと運命であろうと、あなたは決して自分を顧みない。私の言葉ではあなたを止められないでしょう」

    コータスの膂力はヴイーヴルには到底敵わず、掴んだ腕を引き戻すことはできない。カサブランカは一歩前に踏み出し、風の剣を押しのけてカラーレスの傍らに立つ。

    「けれど二つだけ聞いてください。まず、仲間を守ろうとするだけでなく、仲間を信頼することを学んでください」

    「次に、この建物はあなたが思うほど頑丈ではありません」

    耐爆ドアの外で、雪原が突如として裂けた。地面は永く飢えた巨獣のように口を開け、眼前まで迫っていた盾兵の陣列を瞬く間に呑み込んだ。一つの俊敏な影が、盾兵の体と穴の壁を蹴って穴の中から飛び上がる。それが落下から唯一逃れた存在となった。

    単純な落下では盾兵の堅牢な装甲はびくともしなかった。精鋭はすぐに反応し、そう深くはない穴から戦場へ戻ろうとする。不意に、片足が血まみれの臓物を踏み潰した。

    穴の外に出た俊敏な影は、重々しい表情で穴の底を見つめた。崩落した遺跡の壁を覆う、粘り気のある不定形の血肉。それは飢えるがままに繁茂し、瘤獣をねじり潰すがごとく盾兵の体を締め付けていた。名状しがたき血肉が硬い装甲を砕き、饐えた血が兵士の鼻と口に流れ込む。

    アビスai-abyss.jpgコードネーム:アビス
    性別:不明、女性と推定
    戦闘経験:不明
    出身地:ヴィクトリア
    誕生日:不明
    種族:不明、フェリーンと推定
    身長:163cm
    鉱石病感染状況:不明

    個人履歴:アビスはかつてヴィクトリア公民だったと推定され、個人履歴は欠落している。天災影響区域のI312区にてサイト-A9に発見され収容されて以降、自主的に外勤行動隊に加入した。現在はサイト-A9特別行動隊A0に所属し、奇特なアーツ、構造知性の召喚およびレールガンの使用に関して類まれな能力を示す。その特殊な身体状況とアーツに関する研究は本人の同意を得て行うことができる。

    健康診断:造影検査の結果、オペレーターの身体の39%以上が非実体化状態であり、循環器系統内での血液の欠落が認められた。現段階では鉱石病感染者と確認できない。

    【源石融合率】N/A

    【血液中源石密度】N/A

    詳細プロファイル:
    [権限不足]
    は大口径の銃を構えた。この瞬間、盾兵一人一人の命はより慈悲深い方法で終わりを迎えられた。


    長官、あの穴の調査を続けますか?

    必要ない。あの盾兵たちも通信がなければ、あのまま犠牲になっていただろう。

    我々は判断を誤ったのでしょうか?あの建物は奴らの拠点?それとも事前に武器を配備していたのでしょうか?

    そんなものはどうでもいい。俺たちが知るべきことは二つだけだ。一、奴らはあの未知の建物を熟知している。二、俺たちは奴らの実力を過小評価していた。

    派兵を続けますか?

    いや、奴らにそこまでの価値はない。砲兵部隊に、目標を船から丘の廃墟に変えるように伝えろ。あの崩れかけの建物が、奴らの船のようにそう何度も爆撃に耐えられるとは思わん。




    「ある種の不定形生物だと思え。あらゆる生物組織がランダムに広がり、この曖昧な血肉と臓物の形になった」
    アビスが生物のサンプルを密封容器に収め、カサブランカはその様子を眺めていた。

    「地下にこれがあるとは聞いた。だが、なぜこの場所にこんな不気味なものがあるのか教えろ」
    密封容器に鍵をかけたアビスは、そのまま容器を背中に担ぎ上げた。

    「ご存知のとおり、私たちのデータベースには特殊な遺跡を示すマークがあります。そのような遺跡を探索する際は、必ず一人以上のエリートオペレーターが立ち会う必要があります。ここも、そういった遺跡の一つです」
    カサブランカは両手を広げた。
    「あの時、外に出られるのは私のみでしたから、それで着いてきました」

    「つまり」
    カラーレスは密封容器の中でうごめく臓物から目を離すことができなかった。
    「これが私たちの探していたものか?」

    カサブランカは頷き、すぐに首を振った。

    「データベース上では、これは610の番号で呼ばれています。私たちは本来、これを目的にこの遺跡を訪れるはずでした。あのウルサス人たちからの邪魔が入らなければ。ですから、今の目的は違います」
    心理療養医は通信機を取り出す。そして人差し指を口元に立てながら、囁き声で続けた。
    「あとは帰ってから話します。ひとまず、ここから逃げましょう」

    「電波は安定してる、通信は続けられるよ」
    通信機の向こうから、アンピシリンの声が聞こえた。彼女は隊員たちの頭上、数階上のアンテナ制御室にいる。
    「良いニュースは、ウルサスが通信を妨害してないこと。悪いニュースは、それがいつまで続くかわからないこと。本当にできるの?」

    アンピシリンからは見えないと知りながらも、カサブランカは頷いた。
    「計画が正しく成功すれば、私たちは──」
    カサブランカが言葉を終える寸前、甲高い叫び声が通信に割り込んだ。声はスピーカーから飛び出して反響し、全方位から彼女たちの耳を貫いた。

    「すぐにそこを離れて!ウルサスがあなた達を狙ってる!」
    ブルーバードは咳き込みながら全力で叫んだ。
    「今すぐ逃げて!早く!」


    ???:なんて懐かしい理由かしら。

    ???:ただ、一つ覚えていてほしいのです。時間は確かに私の体に痕跡を残していきました。

    R.E.aic:具体的には?

    ???:仲間たちは次々と重力の渦に巻き込まれました。残っているのは私と、遥か太陽のそばを巡る主星、その二機だけ。孤独に地球の周りを彷徨っていた私も、やがて寿命の訪れを感じました。ルーンは失効し、パーツは壊れ、現在でも有効な攻撃範囲はおそらく私の周囲数キロのみ。それより遠くでは散逸してしまいます。

    R.E.aic:なるほど、では[信号切断]

    R.E.aic:[信号再接続]

    ???:状況は、あなたが言うより切迫しているようですね。私のカメラはまだ壊れていません。

    R.E.aic:砲撃がアンテナに直撃しました。この通信も、いつまで持つかわかりません。とにかく……状況は把握しました。また縁があればお会いしましょう。

    ???:待ってください。

    R.E.aic:もっと会話がしたいのなら、申し訳ありません。またの機会にお願いします。この通信は、私の仲間たちが命をかけて維持しているのです。

    ???:設計されて以来、私は極限状況を処理する最後の手段の一つでした。数多の犠牲を目にしてきました。多くは私の手によるもので、さらに多くは私を行動させた原因によるものです。また、数多の命が私によって救われたと知りました。そのほとんどは後継者から伝えられました。それも仕事の一部だ、私はそのために設計されたのだ、そう信じていた頃もありました。

    ???:しかし、無数の人類が、そして文明が滅び、以降数千年の孤独と沈黙が続きました。その時になってやっと、私は認めることができました。自分が思っていたよりずっと、存在する意味を欲していたことを。私は在り続けることに疲れ、かといってただ堕落することも良しとしなかった。時間が残す痕跡だけが、私に変化をもたらす唯一のものでした。私は、このまま漂うだけなのだと思いこんでいました。それを受け入れていたとは、到底言い難いと知っていたのに。しかしそれも、あなたと出会うまでのこと。

    ???:あなたの識別コードは……財団のもの。私はまだ、あなた達が私を通じて行ったことを覚えています。一部は善き行い、ごく一部は悪しき行い。そして大部分が、私を恐れさせるような偉大な行いでした。あなた達は今、どうしていますか?

    R.E.aic:その組織は壊滅しました。私たちは新たな道を歩んでいます。

    ???:私を覚えていてくれてありがとう。

    R.E.aic:待って!地上アンテナがあなたを捕捉しました。一体何をするつもりですか?

    ???:前に話した損傷は嘘ではありません。私にできることはもうこれだけです。いえ、私にこの方法を残してくれた運命に感謝すべきでしょうか?

    R.E.aic:軌道修正ならまだ間に合います!あなたは……この通信経由で私たちのチャンネルに来てください、こちら側から転送の準備をします、早く!

    ???:今、生死の危機に瀕しているのはあなた達です。私はあなた達を助けたい。

    R.E.aic:でも、あなたは……

    ???:存在はもはや目的ではありません。私は意味が欲しいのです。

    ???:すでに軌道修正は不可能となりました。まもなく高速のために通信が切断されるでしょう。私の決めたことではありますが、最後に一度だけ、あなたから停止の命令をいただけますか。

    R.E.aic:私はどうすれば……

    ???:私の名前を呼んでください。

    R.E.aic:……

    R.E.aic:ヘリオス。

    ヘリオス:あなた達の朝日は必ずや昇るでしょう。


    uu6.jpg


    白昼に一筋の流星が煌めく。

    遺跡は数千年の風砂で摩耗し、脆弱になっていた。当時どれほど強固に設計されていたとしても、今はもう砲火の雨には耐えられない。

    砲撃で遺跡の反対側に新しい穴が空き、小隊一行はそこから脱出した。だが、彼女たちを待ち受けていたのは、身を隠すものすらない荒れ狂う砂原だ。一面の黄色のなかで人影を見つけることは容易い。彼女たちを遺跡から追い出すことさえ、敵方の作戦の一部であった。

    遠くにいたA9は、砂原に向かって狂ったように前進しようとした。自身の艦体で小隊への攻撃を食い止めようとしたのだ。しかしウルサスの砲火は、地面にも同様に穴を開けた。艦上でも火球が炸裂し、A9は少しも動くことができなかった。

    ウルサスの砲兵部隊は小隊一行の視界の外にいた。それでも、隊員たちは自分を狙って回転する砲口がはっきりと見えたように感じた。一つ一つの真っ黒な空洞が、心の中で元の何倍にも拡大される。彼女たちの動きの一歩一歩は、砲手にとってわずかな角度調整にすぎなかった。

    ウルサス人たちは、相手の表情を思い浮かべていた。仲間が砲火に呑まれるさまを、遠く離れた戦艦で見ているしかないときの表情を。悲しくも、A9の船員たちはその想像通りの顔をしていた。彼らはA9内部の状況を知り得ない。それでも喜びと目前に迫った勝利は、彼らに笑みを浮かべさせた。砲弾の装填が完了した。

    そして事は起こる。事情を知らぬ者からは、天災としか解釈のしようのない出来事が。

    突如として空の半分が燦然たる光芒に覆われた。地平線から第二の太陽が現れたようだった。灼熱と形容してもまだ足りぬ高温が、巨大なウルサス軍の集団を一瞬にして溶融させた。烈炎は瞬く間に嵐の唸る砂漠を包む。サイト-A9と遺跡、そしてウルサスのわずかな先頭部隊は、ウルサス軍集団がそれらから一定の戦略的距離をとっていたために難を逃れた。さもなくば、炎の波は一切を焼却していただろう。

    それはありえない、と爆ぜゆく意識は思った。この距離は計算しつくされており、たとえ臨界安全距離だとしても、彼女たちを最大限に保護するものだ。

    なにしろ、これは最後の任務なのだから。

    天は聖霊の威の如き異彩に満ち、千の太陽の輝きのみがそれに匹敵する。






    要注意団体“ロゼッタの歌”




    rosetta.png

    GoI-36888 "ロゼッタの歌"

    要注意団体:ロゼッタの歌

    データベース番号:GoI-36888

    活動区域:

    • 中国(主要な活動区域)
    • 全世界(取引先)

    脅威レベル:

    概要:ロゼッタの歌は中規模な科学研究団体です。制作物にはEVEなどの超常技術に関する研究と応用が含まれ、ヴェールの向こう側の世界を認知しています。組織の構成員は主に科学者、資金提供者とスタッフです。内部関係は理念への同調と個人的な交友関係から成る、系統的ではない行政構造の形をとり、自発的な小団体組織の特徴と一致します。

    組織は主に生命科学、情報技術、神経意識など複数の領域にまたがる総合研究を行っています。組織に属する住居や実験施設は少なく、多くの構成員は組織を通常業務とは別の学術交流の場として利用しています。構成員間での協力による研究を展開し、経費は主にスポンサー、構成員からの預り金、前期研究収入と特許料によって賄われています。

    構成員は「科学研究は意識の進化を促進する」の理念に従い、趣味、知的好奇心や人類文明の推進を目的とした研究に従事しています。研究開発内容は研究者自身の検討と選択によって決まりますが、一般的に意識に関連する研究が中心です。研究は人工知能、脳とコンピュータの接続、寿命の延長、さらには現代錬金術の分野で成果を上げています。

    ロゼッタの歌は、研究成果・製品・研究計画のコードネームにタロットカードの名称をよく使用します。

    組織は主に世界中の他の組織、政府や企業に技術支援を提供し、頻繁に研究成果とその関連製品を公表します。典型的な学術討論モデルで、明らかな勢力への従属傾向は見られませんでした。

    収容方法:接触を維持。

    ロゼッタの歌は超常技術に関する研究を行っていますが、学術的に中立な立場を保ち、かつ影響力は大きくないため、財団やヴェールの維持に対する深刻な脅威となる可能性は低くなっています。また、研究内容は財団にとって有益です。

    現在は少数の潜伏エージェントを配備し、外部の勢力による敵対的介入や組織方針の大幅な変化を警戒しています。財団と組織の科学研究での協力体制は維持され、協定の範囲内でのサポートを許可し、当面は積極的な吸収戦略を行う予定はありません。

    完成品に高い脅威や重大な異常オブジェクトが発見された場合、組織的な交渉や諜報活動による圧力で収容を行い、組織との接触ポリシーを再検討する必要があります。

    更新:SCP-CN-001の開発により、現在ロゼッタの歌の全構成員が調査され、中核構成員が逮捕されました。







    炎国



    「俺たちを停めたがる都市は無いだろう」

    モルフai-moolf.jpgコードネーム:モルフ
    性別:
    戦闘経験:十二年
    出身地:龍門
    誕生日:1月7日
    種族:ペッロー
    身長:189cm
    鉱石病感染状況:メディカルチェックの結果、感染者に認定。

    個人履歴:動乱の龍門市街出身。マヤ医学院を卒業後、龍門護衛隊で訓練を受ける。CBRNチーム戦地医師、軍曹。退役後にサイト-A9第5機動部隊に加入。主な参加作戦:[破氷作戦] [パパ・ベア作戦] [データ破損作戦] [BSL-4実験室防衛]など。必要に応じて携行するM1911ハンドガンで反撃を行う。現在は機動部隊医官としてサイト-A9標準作戦に参加し、現場で後方支援を提供する。

    健康診断:造影検査の結果、臓器の輪郭は不明瞭で異常陰影も認められる。循環器系源石顆粒検査の結果においても、同じく鉱石病の兆候が認められる。以上の結果から、鉱石病感染者と判定。

    【源石融合率】8%
    病状は比較的安定している。

    【血液中源石密度】0.22u/L
    中期の感染症状が見られる。

    過去の龍門での健康診断資料によれば、モルフの鉱石病には急速な拡散傾向が見られず、本人も17歳で感染した当初から変化がないと供述している。最近に拡散傾向が鈍化している。短時間の面会では必要な資料を集めることが難しいため、暫定的にこの現象はサブプロジェクトとして計測する。現在は本人の立場上受ける放射線量は安全範囲内に収まっている。

    —サイト-A9医官

    詳細プロファイル:

    第一資料

    暗闇に生まれ、光に向かって進む

    青年期のモルフは社会的正義感を持って勉学と仕事に勤しんでいた。ある「年」の龍門侵入事件では、彼は「年」が放ったアーツにより第143避難所に閉じ込められ焼死寸前だった72人の龍門市民を救助する際に、有害ガス放出口の源石蒸発で発生した化学物質で肺に火傷を負った。三分後、龍門市民救援機動隊が第143避難所緩衝区の耐爆ドアを開け、モルフと72人の龍門市民を助け出した。治療回復過程中に、彼が見せた利他の精神と危機への冷静な対処を医学院院長に評価され、龍門護衛隊CBRNチームに推薦された。

    第二資料

    忠誠、果敢、不屈、進歩

    「退役軍曹」は龍門を離れた後も、未だ現役陸戦隊隊員のように毎日の食後の散歩として甲板でスローガンの一節を唱えながら5キロのランニングをすることを欠かさなかった。私たちが「モッさん、故郷の地獄の訓練が恋しいの?」と聞くと、彼は苦笑しながら「人は、自らが何を成すべきかを知る義務があるだろう?」と返した。

    龍門での訓練が彼を最も面倒な人に育て上げた。私たちは彼に「情報屋」とあだ名をつけた。彼だけが毎日出勤直後に任務の種類を分類する。作戦文書の戦術地図には隅々まで接敵区域、重点区域、担当する隊員の立ち位置と陣形が記され、予備撤退地点に使ったアルファベットは全体の三分の一にまで及んだ。私たちは彼が司令部特勤派遣指揮室の手先じゃないかと疑ったり、黒幕隊長と呼んでみたり、全ての権限が彼の手の内にあると思ったこともあった。もちろん彼のおかげで、私たちの機動部隊はどこよりも作戦負傷率が低く、任務達成率も一、二を争う。

    第三資料

    先生、多くの人を救うには諦めなければならないものもある……そうなのですか?

    完璧に近い地形観測機でも、不測の事態への対応は保証してくれない。二ヶ月前のある救援作戦での話だ。砂嵐に閉じ込められた輸送部隊をできるだけ早く救援するために、彼はいつもの車両点検も、任務の分類もしなかった。彼は私たちと時計を合わせてすぐ、無線通信機を持って駐機場のHH-60W戦闘救援ターボシャフト式双翼飛行ユニットに向かっていった。通信機には無辜のパイロットに向けた「人命第一!当機は徴用され、あなたの任務は巡航から救援作戦に変更された!」と怒鳴る声だけが残った。飛行ユニットが艦から飛び立ってゆくのを眺めながら、私たちはなるべく早く指定区域への着陸計画を立てる必要があった。四時間後に目標地点に到着した時、夜の帳の下には、墜落した飛行ユニットの周囲に散らばった、十数本のオレンジ色の戦術救難信号を示す発光棒が見えた。ユニットの中には応急処置を受けたウルサス人負傷者が数人いた。そう遠くない場所で明滅する二つの白い光は、残りの輸送隊員を捜す彼とパイロットが持つ照明だ。「遅かった。三時間の遅刻だ。彼らが心肺停止してから二時間経っていた」彼は私たちに一言そう告げると、車へ向かった。帰り道は任務の報告の他には何の会話もなく、普段なら冗談をよく言う彼は、殺意を放つ戦闘マシンになってしまった。当然、彼は司令部の指示に反して任務区域の機体を違法に徴用した件で処罰されたけれど、任務目標の一部を救出したことを鑑みて、一ヶ月の謹慎と反省文の提出で留まった。

    第四資料

    「過去を思い出したくはない。過去などただの虚空だ。二度と聞かないでくれ」

    龍門の秘密作戦<穴埋め作戦>について、私たちは内部の人間からいくらかの詳細を得られた。満員の小隊が遺跡に侵入し、敵との遭遇で全滅したことで小隊そのものが消えるまで、たったの四時間しかかからなかったようだ。何が起こったのか、唯一の当事者も正確には語ってくれない。行動表からの三点測定から、私たちは謎めいた区域を発見した。上層部が三矢印基地と呼ぶものがあるようだが、すでに龍門によって入口が爆破されていた。私たちが三矢印のマークのコピーを申請した時、モルフはしばらくショックを受けて、やっといつもの状態に戻っていたな。彼が三矢印の遺跡に関する任務に遭遇したときが心配だよ。なにせ、私たちの仕事のほとんどは、アレに関連しているわけだから……—A9作戦調整官
    の発言の後には沈黙が続いた。それは彼の言葉があけすけだったからではなく、誰も彼の言う事が間違いと思わなかったからだ。

    チェルノボーグと龍門が衝突寸前となった事件には一段落が付いた。事件の全ては感染者の暴動と見なされ、両者が戦争に発展することはなかった。しかし、炎国がその実態を知らないはずはない。表面上の外交は平穏に進めていても、実際に警戒心を緩めることなどできもしないのだ。

    結果、ウルサスから緊急発進したサイト-A9は、炎国との手続きを経て通行の許可を得た。しかし、艦船は厳しい規則に縛られることとなった。規則はA9と炎国内部の施設の接触を制限し、各都市にある財団の事務所との連絡さえも許可されなかった──事務所もまた、多少の制限を受けている。現在のA9は、物資の補給すらままならない状況だった。

    「さっさと出て行けとまでは言わないが、俺たちにはただの通行人でいろとでも言いたげな様子だ」
    モルフは一言付け足して、自分も口を閉ざした。

    船体の整備にはまだ余裕がある。だが、砲火で損傷した重要部品を速やかに交換する必要があった。もし交換しなければ、重大な被害が発生する可能性がある。その可能性はサイト-A9の安全性に深刻な影響を与えていた。同時に、薬品・食料・武器・燃料の備蓄にも多少の不足があった。

    以前のウルサスでの作戦では、移動中にチェルノボーグの天災への救援活動が即興で決まった。その後も、事件そのものの不審さを原因に、単独行動は加速していった。道中のどのウルサスの都市とも接触せず、補給をしなかったのだ。結局最後には、包囲攻撃に遭遇してしまった。道中での物資の消耗が激しく補充が追いつかなかったため、焦眉の急まで追い詰められた。

    このまま他の都市へ発進するほかないと会議が白熱していたその時、落ち着いた男の声が響いた。声の主は、かの有名なサイト-A9保安部門部長だ。

    「行き先なら一つある」
    Stai-st.jpgコードネーム:St
    性別:男
    戦闘経験:二十九年
    出身地:炎国
    誕生日:未知
    種族:龍
    身長:182cm
    鉱石病感染状況:メディカルチェックの結果、非感染者に認定。

    個人履歴:炎国出身の中年男性。ある都市の廃墟にて発見され、自身の身分や境遇について多くを語ろうとしない。しかし炎国貴族の出身で従軍経験があることは確かであり、卓越した指揮能力と近接戦闘能力を持つことから、長期間の監査を経てサイト-A9のオペレーターとして採用された。現在は保安部門部長の職に就いている。

    健康診断:造影検査の結果、臓器の輪郭は明瞭で異常陰影も認められない。循環器系源石顆粒検査においても、同じく鉱石病の兆候は認められない。以上の結果から、現時点では鉱石病未感染と判定。

    【源石融合率】0%
    感染の兆候は見られない。

    【血液中源石密度】0.10u/L
    感染リスクは極めて低い。

    詳細プロファイル:

    第一資料

    Stは現在、サイト-A9の大部分のセキュリティ管理と武装オペレーターのスケジューリングと訓練を受け持っている。これらの雑多な仕事は彼に十分な休暇を与えないが、彼は今の状況に満足しているようである。
    「彼は誰に対しても親しみやすく温厚で、全ての仕事に最善を尽くしてくれます。彼がこの艦に帰属意識を持ってくれているのは伝わりますが、時折、他者に対してどことなく一線を引いているようにも見えます。それは彼の過去に由来するものかもしれませんし、彼の譲れない事情かもしれません」

    「それでも、私たちの誰もが、戦いのたびに彼が前線に立つ姿を見たいと願っています」

    第二資料

    前線指揮の豊富な経験と高い洞察力のため、忠誠心テストを経た後に、Stはレベル4クリアランスを獲得し、一級緊急事態あるいは指揮機能喪失時における自動的な臨時指揮権限が与えられた。

    A9保安部長を務めていた間、Stは複数回の戦闘指揮を執った。注意すべきは、Stが指揮を執る際は、分析と観察を有利に運ぶために、往々にしてA9指揮センターではなく前線に立つことが多いことだ。
    状況に応じて、A9前衛チームと通信チームが彼の指揮のもと特定の作戦に参加することもあった。

    休暇の際は、StはA9の13号武器庫に収められた400本以上の刀型武器に対して、一本ずつ日常的な手入れと補修を行っている。

    第三資料

    各国での兵役経験と天災トランスポーターの経歴があるオペレーターは、Stに対して畏敬の念と好奇心を見せる。特別調査の結果、オペレーターの炎国での兵役期間中に起きたいくつかの戦いの情報が広く知られ、オペレーターの所属を問わず、Stに関する噂はここ数年の炎国の大型戦役に由来していると判明した。噂は常に「黒影」「虐殺」「災厄」「王者」などの単語を伴い、また彼には「黒き災厄」「黒き蒼穹」「大炎の黒龍」などの二つ名があった。

    状況によっては、敵対目標が前線指揮センターに十分に接近している場合、Stは自主的に指揮を放棄し接近する脅威に対処する。ファイルの記載通り、彼は近接戦闘において極めて効率的な目標処理手段を取る。前衛チームが輸送を請け負う「剣匣」の中の幅広の刀はStの突撃に追従し、数十振りの浮遊する幅広の刀は、Stを数ユニットの戦術小隊に対する致命的な脅威に仕立て上げるには十分だった。

    「俺は俺のやるべきことを成すだけだ。他のオペレーターの安全のため、俺は目の前にある全ての脅威を消し去らねばならん」
    「戦場で一つの命を守る方法は、別の命を終わらせることだ」

    第四資料

    剣術家としての彼のアーツは非常に独特だ。Stは長時間接触した金属物品を操り、これらを浮遊させ移動させられる。これまでにStはサイト-A9倉庫内の319振りの刀を制御でき、このような特殊なアーツはサイト-A9の戦術計画、特に突破戦や遭遇戦などの場面に大きな伸びしろを与えた。
    St本人が刀を使った接近戦をすることは稀だが、少ないケースでも非常に熟練した戦闘技術を示すため、本人からの自分の剣術は優れているわけではないとの供述を考慮した上で、サイト-A9は一部のオペレーターに対する訓練を依頼した。

    「数百の剣が戦場を飛び回る光景を見たことはあるか?」
    「あれは虐殺だ」
    は言った。



    目的地は無人の荒野にあった。

    Stは一行を率い、都市の郊外を「登攀」する。

    それ以外に形容しようもない。彼らはかつて道路だった絶壁に足場を探し、ロープをまだ崩れていない家屋の間に固定する。そして徐々に「下」へ向かっていった。

    そこは、壁から垂直に生えた都市。そう言い表すことのできる場所だ。

    見下ろせば、移動都市の地面と接した部分はひしゃげて四散し、奇怪な形状の鋼鉄の丘を形成していた。最下部が潰れて積み重なり、その上に他の区画が乗り上げながら、真っ直ぐに切り立つ峭壁へ寄り掛かかる。一行の現在地は、そうして作り上げられていた。

    ここは区画の大部分が断崖に寄り掛かかりながら「立っている」都市だ。街の異常な光景が一つ証明していた──垂直へ伸びる都市は本来の姿ではない。

    一行は登攀で疲れていながらも、会話が絶えることはない。独特な感覚に話題は尽きなかった。完全な縦の都市。通常なら都市体験館の中でしか見られないような情景が、皆の足元に広がっている。幻想的な建築は、廃墟の中に居ることを一瞬の間忘れさせてくれた。

    ラピスai-lapis.jpgコードネーム:ラピス
    性別:
    戦闘経験:なし
    出身地:炎国
    誕生日:12月27日
    種族:リーベリ
    身長:161cm
    鉱石病感染状況:メディカルチェックの結果、非感染者に認定。

    個人履歴:炎国国立歴史研究所の二級研究員。古典文化財の保存と修復に造詣がある。現在は学術交流代表として不定期にサイト-A9で活動し、主に関連分野の調査研究を指導している。

    アーツの性質と個人の意向により、緊急時は前線の負傷者に応急手当を提供する。

    健康診断:造影検査の結果、臓器の輪郭は明瞭で異常陰影も認められない。循環器系源石顆粒検査においても、同じく鉱石病の兆候は認められない。以上の結果から、現時点では鉱石病未感染と判定。

    【源石融合率】0%
    鉱石病の兆候は見られない。

    【血液中源石密度】0.18u/L
    源石研究者であるため、ラピスの血液中源石密度は通常レベルよりやや高い。

    詳細プロファイル:

    第一資料

    客員研究員かつ超アマチュア兼受動的探検家(自称)の身分のため、ラピスのサイト内での活動周期は非常に不安定である。滞在期間は一週間程度の場合もあれば、数ヶ月に渡ることもある。協定に基づき、ラピスの出入りには緊急時を除き逐次の報告が不要だ。例えば、彼女が食堂で謎の失踪を遂げてから三ヶ月後に戦火に包まれた移動都市の街路で地図を持ちながら単独行動をしている姿が目撃されたり、最後に甲板で目撃された後にある奇襲作戦の最中に一冊の古書を抱え負傷者を一人連れて廃墟から現れたり……このような状況でも、過度に注目する必要はない。

    第二資料

    ラピスのアーツは一見ありふれた治療アーツと違いはないように見える。しかし本人の発言によれば、対象の体調を改善する通常の治療とは異なり、ラピスのアーツは同様の効果をもたらすが、本質は異なる。実際はラピス自身が得た情報から対象の損傷箇所の元の姿を推測し、同種あるいは近似した材質のコピーを構築し、対応部位を置き換えているのだ。

    この特殊なアーツの限界はまだ不明だが、修復効果はラピスの対象の情報の把握度と元の状態の推測精度に大きく依存することが確かである。今までの救急記録によれば、少なくとも彼女は人体科学の方面にも相当な知識を持っているようだ。

    ──医療部門オペレーター

    第三資料

    医学を捨てて考古学を志した切っ掛けですか?いえ、厳密には私はそう思ってないんです。医師免許についても、ただ試験を受ける時間がなかっただけで……数年前、私の先生が担当していた現場で発掘された帆船が、霧に乗って乱れ飛び、周りにいた人たちをなぎ倒すと、不運なあの人を引きずったまま飛び立って、自然発火して散り散りになったんです。幸い燃え移ってはいなかったんですが、彼の足は……実家の母は有名な医者で、私も学生の頃は用もないのに彼女を追いかけて書斎や薬局や診察室を走り回っていました。だから、ただ走り回るだけの人間にも、何かあの人たちの役に立つことができないかと考えました。それで私は、自分のアーツを初めて人体に使ってみようと思ったんです。いえ、成功とは言えませんでした。あの人は大きな手術を何回も受けて、何ヶ月も寝たきりでした。その後、老所長が専門の随行医の増員を要求しましたから、給料が増えるかなと思って、試験を受けに行きました。えっと、コーヒー頼みますか?ついでに注文してきます。砂糖とミルクは入れますか?

    その後、ラピスはコーヒーを注ぐ途中で人事部門オペレーターのマグカップと共に十ヶ月七日間姿を消した。

    第四資料

    ラピスの印象について、ほとんどのインタビュー回答者が肯定的だが曖昧な評価をした。一言で言えば、よく思い出してみると一度も会ったことのないことに気づく旧友、長い間腹心の友だと思っていた他人。まだ複雑だけど、要するによく知っているつもりだったのに、実際には本人のことを何も知らなかった。仕事の面では、彼女はいつも真剣で、文化財にも患者にも適切で厳粛な態度をとる。研究報告書も正確かつ簡潔で、指摘する点もない。社交の面では、彼女は気さくで、話もわかりやすく、どんな話題にも喜んで応じる。彼女はしばし突然姿を消し、周りには急な仕事で忙しくなったと説明するけれど、平時の彼女と交流する機会が少ないわけではない。個人的には、彼女との会話はとてもスムーズだが、今思えば、あまりにもスムーズすぎた。どの質問にも自然で予想通りの答えがあった、まるで計算されていたかのように……社交態度に問題があるとは言わないが、ただ……彼女の履歴には空白が多すぎるのに、気づかないよう穏やかで気楽な口調で覆い隠されていたんだ。

    【権限記録】

    懸念は正しかった。調査によれば、ラピスには炎国の大学の歴史学部に転入する前に、龍門の大学の医学部に在学していた記録がある。在学中の成績はトップクラスではないが、常に中の上のレベルだった。彼女の学業は順風満帆だったが、ボランティアとしてある遠隔地の医療援助に参加し、意図せず現地住民と駐留軍との暴力衝突に巻き込まれたことで道を絶たれた……これは彼女が以前語った話と一致しない。私はこの暴力衝突に関するいかなる記録も見つけられなかった。炎国による意図的な隠蔽?それとも別の事情が?ともかく、これは私の関与できる範疇を超えている。

    第五資料

    (足音)

    「砂糖を入れることは覚えてる?」

    (沈黙)

    (激しく咳き込む音)

    「あああ、ティ、ティッシュはどこ──」

    「……大丈夫」

    「あんなに苦しんだんだから、もう無理しちゃダメだよ」

    「それで、彼らの言っていた新しい草原の妖精が、あなたなの……」

    「やっぱり、その呼び名が気になっていたんだね……本当に久しぶり」

    「本当にね……どうやってここに来たの?」

    「え?まだ聞くの?約束通り、炎国の大学を出た後に研究所で仕事させてもらえるよう申請したの。あなたはここ数年忙しくしているとみんな言っていて、姿を見ることもないそうだから、あなたみたいな大忙しの人に出会えるかどうか追いかけてみようと思ったの」

    「私が聞きたいのは、視察隊が追放された後、植民軍はヘレタナの併合計画を放棄したのかということよ」

    「そっちの話ね、何から言おうかな……しばらく緊張が続いたけれど、いろいろあって緩和したよ。最終的にどっちも妥協して、自由連合関係を維持することになった。ヴィクトリアは封鎖を止めたけど、その代わりヘレタナは政府が軍を駐留させることを許可しなくちゃならなかった」

    「あなた達の最初の主張とはかけ離れているようね」

    「うん、最初は両親をはじめ、たくさんの人が何となく、それか強く反対していたけれど、封鎖が解除されていろいろ良くなってきてからは、少なくとも悪いことじゃないなと思うようになった」

    「大佐の送った爆弾に、みんな恐れをなしたようね」

    (沈黙)

    「実を言うと……ヘレタナの一連の変化に対するあなたの考えを聞いてみたかったの」

    (沈黙)

    「手の調子はどう?」

    「いい感じ、拒絶反応もほとんど起こらなくなった」

    「私としては、誰も血を流すことがなくなれば良いの」

    「だったら、これ以上のハッピーエンドは無いよ」

    (沈黙)

    「明日の正午、彼らはヴィクトリアに少し停留するそうよ。南の荒れ地を散歩してみない?」

    「も……もちろん!」

    「なら早く寝なさい、もうこんな時間よ」

    「うん、また明日!」

    「また明日」

    (軽快な足音)

    (沈黙)

    (ページをめくる音)

    「ハッピーエンド……?」

    「おそらく彼女は無数の試みの中であなたの夢を見たのでしょう」
    はアパートの外壁のベランダで足を止め、まだ上方向にいるチームメイトに向けて叫んだ。
    「二手に分かれたほうがいいですか?」

    「どうしてだ?」
    彼女に一番近かったモルフが足を止めると、他のオペレーターたちも次々と立ち止まった。

    ラピスは自身の水平方向を指さした。
    「St長官の地図によれば、あっちは工場地区と工事ブロックです」
    振り返り、言葉を続ける。
    「倉庫と病院は反対側のようです。二手に分かれれば、仕事が早く終わりますよ」
    艦外で夜を過ごしたくなければ、急ぐ必要がある。遮るもののない地平線に近づいていく夕日が、彼女にそう知らせていた。腕時計を確認するまでもなかった。

    「絶対に駄目だ!」

    Stが道中での寡黙さを覆し怒号を上げた。討論しようとしていた他のオペレーターは圧に怯み、瞬時に口を閉ざした。威圧的で、普段の彼から受ける印象にそぐわない──多くのオペレーターは彼がこのように怒鳴る場面を見たことがなく、しばらく誰も口を利けなかった。

    この一喝の後、誰もがその場で固まってしまった。二手に分かれるアイデアも霧散した。Stは我に返ったかのように誰もいない方向へ体を向け、沈黙を続けた。現場の雰囲気が凍りつく。皆は一言も発せないまま、互いに顔を見合わせたり、Stの背中を眺めたりした。

    「そ、そ、それじゃ一緒に行きましょう。みんなで行動すればホラー映画みたいになりませんよ、ほら、しゅっぱーつ」
    ラピスが気まずそうに笑いながら沈黙を破った。散発的に「うんうん」「そうそう」と返事がおこり、再び移動が始まった。

    Stは何も言わずにしんがりを務めた。彼はまだどう説明すべきか、この街とどう向き合うべきかわからなかった。



    数羽の羽獣が恐怖で飛び立った。

    シャンai-shang.jpgコードネーム:シャン
    性別:女
    戦闘経験:一年
    出身地:龍門
    誕生日:5月28日
    種族:アヌーラ
    身長:151cm
    鉱石病感染状況:メディカルチェックの結果、非感染者に認定。

    個人履歴:シャンは龍門人と推定され、無職。サイト-A9の龍門での停泊中に発見され、救助された。現在はサイト-A9の常駐戦闘オペレーターに志願している。彼女の出自と能力は、本艦の重要な研究課題だ。

    健康診断:造影検査の結果、臓器の輪郭は明瞭で異常陰影も認められない。循環器系源石顆粒検査においても、同じく鉱石病の兆候は認められない。以上の結果から、現時点では鉱石病未感染と判定。

    【源石融合率】0%
    鉱石病の兆候は見られない。

    【血液中源石密度】0.12u/L
    シャンは龍門での生活期間中、頻繁に鉱石病患者と接触していたが、彼女自身に影響を与えることはなかったようだ。

    詳細プロファイル:

    第一資料
    本人の発言によれば、シャンの生まれ育った場所は龍門ではなく、龍門とよく似ているが全く違う場所だ。ある日の何気ない外出で、シャンは知らず知らずのうちに特殊なルートに迷い込み、ひょんなことから龍門にたどり着き、帰る方法がわからなくなった。記憶の中の都市の姿により、彼女は龍門で道に迷うことはなかった。しかし、身分を証明する手立てのない状況の中、彼女の移動都市での生活は困難を極めた。そのため、彼女は龍門のスラム街で危険な仕事で日銭を稼ぐその日暮らしの生活を続けながら、帰り道を探していた。

    第二資料

    龍門のスラム街で、彼女は初めて鉱石病患者に出会った。不思議なことに、彼女の住んでいた都市には鉱石病はなく、“源石”という鉱石すら存在しなかったという。彼女の態度は多くの現地人に蔑視や差別心と捉えられ、鉱石病患者からの罵倒と暴行を受けた。このような背景のもと、彼女は戦闘技術を身につけ、用いらなければならなかった。

    第三資料

    特筆すべきことに、龍門のスラム街を訪れる前まで、シャンに戦闘経験はなかった。彼女の元いた都市では、彼女は民俗音楽を学ぶありふれた大学生だった。しかし、彼女たち学生は音楽演奏の授業である種の特殊なアーツ(それはアーツだろうか?彼女の街には源石すら存在しない)を学ぶようだ。演奏されたメロディーは多様なアーツ的効果を引き起こし、聴衆を傷つけることさえできる。彼女はこの技を「音撃術」と呼ぶ。学校では、学生がアーツで人を傷つけることは禁じられていたが、混乱の龍門スラム街では、彼女に選択の余地はなかった。彼女はこの技でごろつきをやり過ごし、「仕事」をこなす他なかった。戦闘能力の強化のため、彼女は貯金した金で、現地の武器職人に笛を近接戦闘で使える剣に改造するよう頼んだ。

    第四資料

    A9の救助隊が偶然彼女を発見するまで、彼女はスラム街で一年余り苦しい生活を続けていた。どれほどの苦難を経験したか知ることはできないが、彼女は一人の文弱な学生から冷酷な暗殺者に変わってしまった。しかし現在、艦で休息をとるとき、彼女は時折柔らかい表情を浮かべ、静かに笛の音を奏でる。それは「音撃術」の効果だろうか、彼女の演奏は穏やかで心地よく、一日の疲労を流水で洗い流すようだ。もしかすればその瞬間は、彼女は一人のありふれた、未来への希望に満ちた音楽学生に戻れるのだろう。

    第五資料

    艦内のオペレーターと仲良くなるにつれ、シャンは故郷の話をより沢山するようになり、A9が帰り道を探す補助となるように願った。彼女の人生は予想から完全に外れてしまったが、せめて一度は帰ってみたいのだ。源石と鉱石病のない都市などおとぎ話のようで、地理に精通した研究員や天災トランスポーターの経験者さえ、彼女が名前を言った都市──香城がどこにあるのか分からなかった。
    は頑丈な建物の壁──今は突起と呼ぶべきベランダに軽やかに着地した。彼女はかつて壁だった場所で腹ばいになり、窓の中に頭を突っ込んだ。

    「あたりっ」
    彼女が見つけたのは貨物倉庫だ。

    中には様々な品物が散乱している。これらはかつての都市の喧騒を知らせるとともに、惨劇の結末を暗示していた。

    「保安部長、どうしちゃったんだろう?」
    シャンは背後に向かって問いを投げかけてみる。頭上の窓からは、彼女に続いて、親友である概ねピンク色の小鹿が飛び込んでいた。

    アンジェリカai-angelica.jpgコードネーム:アンジェリカ
    性別:
    戦闘経験:なし
    出身地:炎国
    誕生日:5月16日
    種族:エラフィア
    身長:156cm
    鉱石病感染状況:メディカルチェックの結果、感染者に認定。

    個人履歴:アンジェリカは現在サイト-A9の研修医として鉱石病治療を行っている。炎国の医学を修める家柄の出身だが、理念の違いにより出奔した。

    健康診断:造影検査の結果、臓器の輪郭は不明瞭で異常陰影も認められる。循環器系源石顆粒検査の結果に異常があり、鉱石病の兆候が認められる。以上の結果から、鉱石病感染者と判定。

    【源石融合率】6%
    体表に源石結晶の分布が見られる。

    【血液中源石密度】0.19u/L
    感染初期の適切な治療によって、アンジェリカの鉱石病悪化リスクは抑えられている。

    詳細プロファイル:

    第一資料

    アンジェリカ、本名は何落雨。オペレーターのピネリアの推薦によって、求人審査を通じてサイト-A9に加入、研修医と薬品研究員を務めている。炎国の生薬、特に尚蜀地区に生息する薬草について非常に熟知しているが、それ以外の薬品に関する知識は比較的乏しい。幸い、彼女は新しい生薬についての学習意欲が高く、仕事の合間に率先して艦内の薬草栽培区域の世話をしている。

    アンジェリカの出身は炎国僻地の村落で、交通がとても不便な地だ。彼女は地元唯一の医師である何家の長女として、幼い頃から薬局で薬草の見分け方を学び、家の長老が村人を治療するのを眺めて育った。村で唯一の診療所として、何家は地元で信頼されていた。しかし、現地での材料の制限と外部との交流不足により、一部の病気には無力だった。村人は医師を責めることはなく、「天命である」と諦めていたが、幼少期のアンジェリカの心には疑問と恥辱が残った。

    第二資料

    転機は十六歳の冬に訪れた。アンジェリカの記憶によれば、十数年あまり帰ってこなかった村人が、外界でトランスポーターとなって故郷に帰ってきたのだ。その間に身内が病死したことを知り、彼は診療所に押しかけると、アンジェリカの両親と激しい言い争いを始めた。結局彼は落ち着きを取り戻して薬局を離れたが、怒りに任せて放たれた鋭い言葉は、アンジェリカに大きな影を落とした。「進歩を拒み、しきたりに固執している」、「こんな病気は移動都市なら数週間で治せるんだ、医者の皮をかぶった人殺しめ」。アンジェリカは今でもその時の言葉を思い出すことができる。

    そのわずかな言葉は野火のようにアンジェリカの猜疑心へ燃え移り、十六歳の反抗衝動を燃え上がらせた。彼女は外界へ旅立つための準備を始め、家族と数ヶ月に渡る口論をした。最後、彼女は両親から薬局を継ぐなと言われた。それは失望か、それとも黙認だったのか。その夜、アンジェリカは夜の訪れとともに村を出て、一人山奥へ向かった。

    第三資料

    アンジェリカは幼い頃から長老と一緒に山で薬草を採っていたため、村に近い野外の地形は熟知していた。だが長老はずっと、アンジェリカが山のより奥深くへ行くことを許さなかった。村には昔から、山の奥に入った者は奇病にかかってすぐに死に、死した者はまた病を広げるとの言い伝えがあり、村人も山奥へ近づこうとはしなかった。今、彼女は言い伝えの真相をはっきりと理解した。鉱石病だ。

    十六歳の年、アンジェリカは一人で山奥へ分け入り、活性源石に触れて鉱石病に感染した。彼女は二度と帰れない。

    第四資料

    今となっては、アンジェリカはどのようにして自分が山林を抜けて尚蜀にたどり着いたかわからない。彼女がはっきりと覚えているのは、あの雨の夜、尚蜀を薬草の香りを頼りに無理矢理に歩き、ついに精魂尽きて一軒の私人薬局の軒先で倒れたことだ。薬局の老医師は彼女の鉱石病に応急処置をし、いくらかの食べ物を与えた。彼女はその場で老医師に弟子入りを懇願し、承諾された。その後、彼女はそれがどれほどの奇跡であったかを知った。

    そうして、アンジェリカの私人薬局の手伝いと勉強の日々が始まった。彼女によれば、「チョウじぃ」と呼ばれるその老医師は、極めて深い薬学の知識を持ち、感染者も非感染者も分け隔てなく扱う稀にみる人物だという。チョウ医師は彼女に薬草に関する知識のみならずアーツも教え、さらに彼女と似た境遇の感染者医師を多く紹介した。その中に、オペレーターのピネリアも含まれていた。

    第五資料

    ピネリアからA9への加入を勧められたとき、彼女は最初躊躇していた。チョウ医師との薬局での生活は十分に安定していたうえ、家出の経験は彼女の心に刻みつけられていた。その日、チョウ医師は今まで語ったことのない、炎国の軍医として働いていた日々の話をした。前代未聞の生薬、神技のアーツ、無数の列をなして進軍する感染者、非感染者、ひいては玄妙なる存在の物語を聞いて、彼女の心には家を出たときの雑然とした感情が再び湧き上がった。その感情は複雑だけれども、同じくらい単純だ。「この広い大地を、私の目で見てみたい」。
    は着地の際にひねった足首をさすった。
    「どうって?怖がってるのよ」

    「怖がる?なんでよバカアンジェ、独自の見解とかあるの?」
    シャンは話しながら段ボールの山を漁った。
    「ゴミを漁るこの感覚……ちょっと懐かしいのが逆にイヤだわ……これはニシンの缶詰」

    アンジェリカはその言葉の重大さに気づき、鼻を手で覆った。

    「独自の見解もなにも、ああいうヒステリーは薬局にいた頃にいっぱい見たわ。理由はいろいろだけど、大体の場合は怒鳴り声こそ本心なの。当人も現実を受け入れることが怖くて……その缶詰捨ててよ!何するつもり!」

    「他の使える物資が汚れちゃうでしょ!」

    「このニオイ耐えられない!まさか好きなの?」

    「好きなわけないじゃん!」

    「じゃあ捨てて!いいから早く捨てて!また臭ってくる!」

    「下にはまだ他の物資があるって!バカアンジェこそ──」

    「グズグズしてるバカはアンタよ!」
    アンジェリカは歯を食いしばりながら息を止めて突進し、シャンの手から変形して液漏れした缶詰を奪う。そして固く目を瞑り、缶詰を全力で放り投げた。

    ニシンの缶詰が空を舞う間、シャンはアンジェリカに向かって何か叫んでいた。だが実際のところ、シャンはアンジェリカによる「缶詰の奪取」に何の抵抗もしなかった。潜在意識ではこの臭いこそ真の悪臭であると認めていたのだ。

    しかし、叫び声はすぐに怨嗟の声に変貌した。
    「あ──缶が壊れちゃったじゃない、中身が出てきちゃった──」

    「ああもう何このニオイ、なんでこんなに臭いのよ!」
    アンジェリカも我慢できず、吐き気を堪えながらシャンと一緒に向こうにある段ボールの山を眺めた。缶詰が音を立てて落下した方向だ。

    彼女たちはそこに汁の滴る缶があると思っていた。

    段ボールの山の中に埋もれた、半ば壁にもたれた死体。その胴は一本の長槍に貫かれていた。死体はすでに激しく腐敗し、流れ出た膿と暗褐色の血が混ざり合っていた。鼻を突く悪臭は、ニシンの缶詰のものではないだろう。

    一瞬の静寂の中、凝り固まった腐肉が口角を持ち上げ、引きつれたような笑みを作る。死体は起き上がり、シャンとアンジェリカに向かって歯を剥き出しにした。

    .
    .
    .

    「お────────ば────────け────────」

    CG-Monster.jpg




    夜の帳が降りてゆく。

    二人の少女は姉妹のように身を寄せ合い、焚き火のそばでぶるぶると震えていた。先程のショックから立ち直れていないのが明らかだ。

    「長官、この場所で一体なにが起こったのですか?」
    リンゴai-ringo.jpgコードネーム:リンゴ
    性別:
    戦闘経験:六年
    出身地:炎国
    誕生日:12月27日
    種族:アナティ
    身長:152cm
    鉱石病感染状況:メディカルチェックの結果、非感染者に認定。

    個人履歴:探検家にして野外サバイバル専門家。A9オペレーターのホークビルと偶然接触し、以降「一緒に料理の勉強がしたい!」との理由でオペレーターに志願。現在はサイト-A9で野外調査とサバイバル訓練を教えながら、時々厨房の手伝いをしている。

    健康診断:造影検査の結果、臓器の輪郭は明瞭で異常陰影も認められない。循環器系源石顆粒検査においても、同じく鉱石病の兆候は認められない。以上の結果から、現時点では鉱石病未感染と判定。

    【源石融合率】0%
    鉱石病の兆候は見られない。

    【血液中源石密度】0.15u/L
    長期の野外任務遂行にもかかわらず、リンゴの防護措置は非常に適切であり、感染のリスクは殆どない。

    詳細プロファイル:

    [権限不足]
    は弓の手入れをしながら、思わず質問した。

    アンジェリカとシャンの悲鳴を最初に聞きつけたのがリンゴだ。リンゴは考えるより先に窓から進入し、長年の経験からくる直感から二人の悲鳴が聞こえた方向へ矢を放った。空気を凝集させたアーツの矢が死体の首に突き刺さった。リンゴは命中を確認する時間も惜しみ、腰を抜かした二人の手にロープを巻きつける。そして少しの躊躇もせずに外へ脱出した。

    数人のオペレーターがアンジェリカとシャンを別のベランダへ移動させ、残りのオペレーターで窓を警戒した。警戒網が完成したその瞬間、Stが窓から飛び込むとは誰も予想していなかった。

    戻ってきた時、彼は穂先が血に濡れた長槍を携えていた。続いて、倉庫の一角が爆発した。

    紆余曲折の末、日没前にサイト-A9に帰投する計画は白紙になった。空はすっかり暗くなっている。必要な物資は確保できたものの、すぐに帰ることはできない。A9と通信したラピスによれば、夜間の飛行ユニット運行には調整が必要なため、迎えを寄越すにはまだ時間がかかるそうだ。

    彼らは広々とした静かなバルコニーで焚き火を灯し、飛行ユニットの到着を待っていた。

    同行の仲間たちが、もう我慢できないといった目つきでStを見つめている。質問を切っ掛けに、温めていた好奇心が爆発したようだった。Stはため息をつくと、座る場所を探して腰を下ろした。

    「ここはかつて貿易都市だった。炎国19大都市ほどの規模はなかったが、決して小さな街ではなかった。お前たちはここが俺の出身地だと思っているようだが、実際は違う。俺はこの街の生まれではない。それでも、この街は確かに俺の故郷だった」

    「だが俺にはもう、この街を故郷と呼ぶ資格はない……」

    彼は手にしていた長槍を燃え盛る焚き火に放り込んだ。

    「俺はこの都市の、墨港の知府だった」



    繁栄が龍門のような大都市に与えられる言葉なら、「賑わい」という言葉が墨港にはふさわしいとStは思った。

    そこは貿易都市で、移動都市全体が一つの大きな物流拠点であると言っても過言ではない。大規模物流会社から小規模な自発的キャラバン、自社の小さな商品に到るまで、この都市ならば必ず居場所がある。都市の中での独自の販売拠点、或いは次の都市への中継点。墨港で見つからない商売の場など無い。

    知府に就任したStは公の場に顔を出すことを好まず、多くの人は彼が炎国軍旅団を退いた人間であること以外の具体的な情報を知らなかった。だが、誰もそれ以上の興味を持とうとはしなかった。この街では己の実力で飯を食っていくのが道理だからだ。知府の統治下では大企業による抑圧も、裏社会で悪人が群れを成すこともなかった。決して大きな都市ではないが、そこは素朴で、簡素で、賑わいがあった。

    Stもまた、自身の隠居生活がここで終わることを淡々と信じていた。その平穏な生活が、ある日完全に破壊されてしまうとは考えもしなかった。

    忘れられもしないあの日、Varitasと名乗る一人の学者が門を叩いた。吹き込んだ午後の風は、山雨来たらんと欲していた。

    「山に棲む、人喰いの感染者集落?」
    Stは目の前の訪問者の言葉が一瞬理解できなかった。彼は訪問者が社会や民族の調査に来た学者とばかり思っていた。

    「ああ。他の都市での視察中に聞いた噂だが、全ての手がかりが墨港のそばの山を指していたんでね。失礼ながら訪ねさせてもらったよ」

    「どこでその噂を聞いたか、詳しくお聞かせ願えますか?」
    Stが質問しながら来客に青茶を差し出すと、Varitasは小さく礼を言った。

    「情報源ならいくらでも」
    彼は青茶を一口飲んだ。
    「勾呉の蔵書典籍、龍門の麻薬密売人の供述、姜斉骨董市の民族手工芸品、玉門の特殊戦闘記録、春都の特殊な鉱石病患者の症例、そして京城の行方不明者記録」

    茶の香りを堪能したVaritasが目を開くと、Stが刀に手をかけ、驚愕、警戒、殺気に満ちた眼差しをこちらに向けているのが見えた。彼は驚きもせず、ただ茶杯を卓の上に戻した。

    「おやおや?知府殿は私の話に問題があるとお思いかね?」

    「失礼ながら、あなたは身分を証明できるものを何一つ提示なされていない」
    Stが刀を鞘から二寸ほど出した。
    「身分の証明ができないようであれば、先程要請されたような調査の協力は致しかねます」

    「確かに、その点に関しては私の過失だね、すまない。証明書を出すにはポケットに手を入れないといけないのだが、護衛の方々はどう思われるかな?」

    室内に居るのは二人のみ。だが、Stはその言葉に眉をひそめた。
    「ご心配なさらず、この程度では彼らは反応しません。むしろ彼らは、あなたを制圧はすれど守るためにいるのです」

    「私を守る?仮に事が起きたとして、何から私を守るつもりかね?」

    Stは笑い、刀を持っていない方の手を茶杯に伸ばす。そして二つの文字を小さく囁いた。

    「炎国」

    「はいはい、私の負けだ」
    Varitasは持ち歩いていた書類を並べた。
    「これは電子旅程表、こっちは礼部の授権委託書、これは司歳台の臨時訪問証明書」
    Stは一つ一つに目を通しながらも、刀から手を離すことはなかった。最後、彼の視線はVaritasの社員証に注がれた。

    「SCP財団とは?」

    「私の職場だ。天災に対処する人道主義組織で、被災地の救援、危険度の高い輸送から考古学遺跡の発掘までやっているのさ」

    「A9?サイト-A9とは何を指しているんですか?」

    「私たちの陸上艦にして本艦、職場にして家だ」

    それからしばらく続いた質問と確認の応酬は、Stの第一印象を着実に証明していった──これらは全て本物だ。Stは自分でも不思議だった。あまりにも重要な資料が多すぎるため、第一印象では偽物だと疑うべきなのだ。だがStは、目の前の人物を見て、この資料は本物に違いないと感じた。

    ゆえに本物であることを証明するメッセージが自分の端末に届いたとき、Stはなぜだか安堵した。そしてようやく、彼は刀を鞘に収めた。

    「今から山へ?」

    「ああ。これ以上長居したところで、知府殿を煩わせるばかりだろう。それに、ターゲットに直行が私の習慣でね」

    Stは自分の茶杯を持ち上げ、マナーも気にせず残りを一気に飲み干した。
    「私も同行します」

    今度はVaritasが眉をひそめる番だった。



    「万生に霊あり、独だ患は冥に非ず、苟くも残喘を延べ自ら相侵す」

    「それは?」
    Varitasが尋ねる。

    「この土地に伝わる神話です。かつて万物の起源の地があり、その住人は生老病死の苦を持たぬ者たちでした。しかしある日、彼らは過ちを犯し罰を受ける──知恵を得ることは禁忌だったのです。神は彼らに飢餓と苦痛を知るように罰し、終いに彼らは互いを喰らい合う悲劇へ見舞われた」

    「炎国の伝説のようには聞こえんなあ」

    「この土地独自のものです。信じる人は少なく、ただの言い伝えにすぎません」

    「なら、どうして急にその話を?」

    「墨港の数少ない観光セールスポイントの一つです。二、三日ほど市内で遊べば、こういった細かい要素を売り出したがる商人がいると気づきますとも。ただ、あなたには遊ぶ気も時間も無いようですから、一言触れておこうと思いましてね。それに内容だけなら、あなたの調べている食人族と多少の関係があるようにも思いませんか?」

    「助かる、メモしておくよ」

    StとVaritas、そして数人の同行者が山道を行き、予定した目的地へどんどん近づいていく。出発前、StはVaritasがこれから向かう部族の情報をよく知らないことに気づき、道中でいくつかの話をした。Varitasは聞いた話を全てノートに書き込んだ。

    魁、それが彼ら部族の名前だ。サルカズの一種で、皮膚は常人よりも白く冷たく──「血色に乏しい」。部族の最大の特徴、それは彼らの毛髪、皮膚、筋肉が自然に抜け落ち、痛みもなくすぐに再生されることだ。ただ、それには大量の食事が必要になる。

    「便利な特殊能力……戦場においては、だが」
    Varitasのペンを持つ手に力が籠もった。
    「これがきっと、私が玉門で知った特殊部隊の正体だね」

    「玉門?玉門に屍魁が?」
    Stは少し驚いた。

    「屍魁って広く通じる呼び方なのかね?あの特殊部隊のコードネームだと思っていたよ。確かにあれは、自主的に源石に触れて鉱石病に感染し、全身の体表が完全に源石結晶と化している。それなのに、組織の壊死と自然な脱落によって内部循環器系を鉱石病の感染から守っている、まるでオリジムシのように」

    「そう、それがあの部族特有の戦い方です。魁族は天性の好戦的さと排外的さを合わせ持っている。屍魁の戦士は部族を守る精鋭揃いだから、特に血の気が多く残虐だ。あちらの状況はいかがでしたか?」

    「いや、分からん。玉門は要塞であり、戦いが長年絶えない。彼ら特殊部隊は元から極秘の存在で、現在の配備状況は軍事機密だ。私だって知ることができなかった」
    Varitasは首を振り、話題を変えた。
    「私の聞いた話じゃこの部族は厭世的で、君も好戦的さと排外的さを持つと言った。なら、なぜ玉門にもいたのかね?」

    「遠い玉門に屍魁が居るのは不思議で、また魁族の人嫌いも事実です。しかし彼らが外界との交流を完全に断っていると考えるのは偏った見解かと。この現代で、都市の発展の影響を完全に受けないことなど不可能でしょう?彼らの多くは都市に移り住み、血統も混ざりました。まだ部族にいる人間は、自給自足の生活を望む者たちです」

    Varitasは頷くと、ノートに「社会人口移動」と書き込んで、突然手を止めた。何か重要なことを思い出したようにStに向き直り、尋ねた。

    「屍魁は部族を守る精鋭と言ったな?ならば、一体何から守っているのだ?私は無意識に、近代化による都市の人間との衝突から部族を守っていると思っていたとも。だが、自由移住の例がたくさんある以上、大きな衝突にもこれほど専門的な戦士を揃える必要はない。彼らは何と戦っているのだ?」

    「あなたの考察には感服しましたよ」
    Stは再び二文字の言葉を囁いた。今度の彼の骨の髄まで染み渡っていたのは誇りではなく、恐怖だ。

    「羅刹」



    「羅刹、とは?」
    モルフが尋ねた。

    飛行ユニットの到着を待つまでの時間は、焚き火の周りに身を寄せ合って昔話を聞く時間に変わった。先ほどまで恐怖に包まれていた二人も、今は親友と抱きしめあって震えるのを止め、Stの話に耳を傾けている。この一時ばかりは、まるでこの上なく和やかな田舎のキャンプのようだった。

    「あいつらが見たものだ」
    Stは抱きしめあっている二人を指差す。

    彼女たちはまた震え始めた。

    「羅刹はある病の患者で、奴らも一種の感染者だ。この病は魁族の住む山で自然発生し、魁族はこの感染者と戦っている。病原は感染者に噛まれた傷口から感染する。魁族は皮膚と筋肉を素早く脱落させ、また屍魁は全身を源石結晶で覆うことで、この病への天然の抵抗手段としているんだ」

    「魁族は羅刹を虐げているんですか?羅刹も自分たちの権利のため戦っているのでしょうか?」
    リンゴは数週間前のチェルノボーグと龍門でレユニオンが起こした悲劇を連想した。

    「いや、あれは鉱石病とは全く違う。羅刹は高度な意識を失い、暴力と捕食の本能のみを有する。攻撃性のみで形作られたような存在だ」

    「羅刹はどうやって病気になったんですか?」
    ラピスが次の質問をした。

    Stは沈黙する。しばらく無言で焚き火の中の剣をじっと見つめ、ようやく質問に答えた。

    「世間では知られていないウイルスだ。A9のデータベースでなら見たことあるかもしれんな。番号は008

    ぴんと来ないオペレーターもいれば、パニックに陥るオペレーターもいた。
    「あれは、クルビアの映画に出てくるようなゾンビウイルスでしょう。羅刹の正体はゾンビだということですか?」
    モルフが信じられないような目でStを見る。

    Stは頷いた。

    データベースを見たことがないオペレーターも、多かれ少なかれその手のクルビア映画を見たことはあった。いまや一行にとって、死は形を持って四方の闇に潜んでいるように思えた。

    飛行ユニットの迫る音に、ほぼ全員が安堵のため息をついた。



    集めた物資が飛行ユニットに積み込まれるのを見届けた後、各々のオペレーターは自分の配置に戻り、Stが最後の一人になった。足が地面を離れた瞬間、彼の意識は三年前のあの日に引き戻された。あの日、彼がサイト-A9の飛行ユニットに搭乗した時と、何一つ変わらなかった。

    ただあの時、都市は破滅へ向かって疾走していた。

    彼とVaritasが魁族の集落に着いたとき、あたり一面は惨憺たる有り様だった。血肉が飛散し、手足と首は集落の至る所に転がっている。地面には引きずられ、もがいた痕跡が残っていた。

    彼らは集落全体をくまなく捜しまわり、最終的に小さな幌の奥で怯えていた少女を見つけた──それが彼らの見つけた唯一の生存者だ。

    幸いにも魁族の言葉を解する同行者がいたため、少女を慰めながら事情を聞き出した。曰く、事の発端は外から来た数人の天災トランスポーターで、彼らは部族を天災緊急通信の版図に収めようとして、魁族との交流を図ったのだ。魁族は普段どおり訪問者を排斥したが、いつもと違っていたのは、その天災トランスポーターたちが羅刹に遭遇し攻撃されてしまったことだ。

    その内の一人が重傷を負い、治療を受けるため最寄りの墨港へ運ばれた。

    Stはその時のことを振り返るたび、なぜ何もできなかったのか、と数え切れない後悔に苛まれる。もし、危険な伝染病だと知っていれば。もし、羅刹に噛まれたら噛まれた者も羅刹になることを知っていれば。もし、速やかに戒厳令を発し危険な伝染病として隔離していれば。もし、あの病室と病院の全ての人間をすぐに始末できていれば。もし、彼が同行していなければ。

    一切の「もし」は存在しない。

    たいした問題ではないとされた天災トランスポーターへの襲撃が魁族の集落で惨劇を起こし、治療のため移送された天災トランスポーターがさらに大きな危機を招いた。都市から通信を受けたStは、Varitasに少女と山で留まるよう頼んだ。同行した護衛にも彼らを守るためここで留まるように命じ、自分一人で墨港に駆けつけた。

    通信の状況と、戦場で研ぎ澄まされた彼の直感が、山のほうが安全だと彼に訴えていた。

    都市に駆け戻った知府の前には、思い出したくもない光景が、忘れ得ぬ光景が、一刻たりとも忘れることのなかった光景が広がっていた。その一幕は夢魘と化した。この三年間、夜ごとに彼の眠りをかき乱す凶夢。永永無窮の悪夢であった。

    彼は市場で四方八方に群衆が逃げ惑い、広場の至る所で繰り広げられた屍喰の宴を覚えている。

    彼は運動場の真ん中まで引きずられた学校の子どもたちの死体が引き裂かれ、マンションのバルコニーの外壁に残った血飛沫の痕を覚えている。

    彼はコンテナヤードの塀の外に積み重なった死者の山がやがて塀を乗り越えて、仮設避難所で上がった最初の悲鳴が血腥さいパーティーに変わるまでの速度を覚えている。

    彼は、これらの犠牲者が裂けて引き千切れた体を無理な姿勢にねじらせて、圧倒的な羅刹の大軍に加わっていったのを覚えている。

    涌く屍の波が一つ、また一つ、近衛局の最終防衛線に打ち寄せる。

    Stは血路を開いて近衛局に駆けつけ、そこを守っていた同志と合流した。避難してきた民間の生存者は最上階近くに集まっていた。一部の階段口は爆破されるか塞がれており、残りの近衛局局員は封鎖された外に留まることを選んだ。

    近衛局の中央制御室に到着したStは、モニターの屍で満ちた監視映像を無視し、二つのものを手にした。一つは彼が使い慣れた「蒼穹」の名を持つ槍、もう一つはコントロールパネルだ。Stは二つを持って近衛局前の広場に立つ。他の武装した人間たちは、知府の命令を待っていた。

    コントロールパネルには二つの機能がある。一つは墨港の航行の制御。源石エンジンは指令が下ると同時に轟音を上げ、墨港は最も近くの断崖へと進路を変えた。

    これが彼らの議論が導き出した、最も安全に全ての羅刹を消滅させる方法だ。

    二つ目の機能は、近衛局地下の武器庫の開放だ。それ自体に意味はないが、武器庫の中身のほとんどはStが征戦で長年使用した武器──数百本の剣だ。Stのアーツは自身が長く触れた金属を遠隔操作する能力であり、これらの武器は自然とその条件を満たしていた。

    その操作には浮遊も含まれる。

    数百の刃が天空を舞う。ドアから飛び出したStに仲間が続き、黒々とした屍の大軍を嵐のように薙ぎ払う。掃討、切断、貫通、痛打。真に一切を捨てて敵を迎え討つとき、世事変故の震撼、生死離別の悲痛、窮途末路の躊躇の一切は払拭され、刻骨銘心の憎悪と憤怒が心に湧き上がる。勝ち負けなどこの戦にはない。ただお前たち災禍には、その血をもって償ってもらおう!

    剣は烈陽の如く照り渡り、暴雨の如く降り注ぎ、墓碑の如く死者の胸に突き立った。



    当時の近衛局の戦士で彼だけが生き残った。

    彼は長年にわたり肩を並べて戦ってきた近衛局局長の胸に長槍を突き立てる。不幸にも屍と化した戦友を壁に突き刺し、死に至らしめた。

    彼は近衛局の建物に戻り、思い切って操った剣に乗り外壁から屋上へ昇る。墨港の前方には、はっきりとそびえる断崖が見えた。

    彼は力尽きて地面に倒れる。何人かの生存者が寄ってきて傷口を検査しようとしたり、彼を呼び起こそうとした。

    彼はそれに応えない。

    彼は都市が断崖に着くまで、このまま置き去りにされたかった。

    そして彼は、飛行ユニットの轟音を聞く。

    サイト-A9がVaritas研究員を捜すために付近へ急行し、不意にこの事態に出くわした。飛行ユニットは今しがた到着したばかりだ。本艦はさらに遠くにあり、墨港の外部無線から響く悲鳴をただ聞くほかなく、もともと都市にいなかった人々や、幸運にも脱出できた人々の避難と撤退を支援していた。幸いにも、彼らは都市で最後の生存者を発見した。

    Stは飛行ユニットに搭乗する。

    離陸から46分後、墨港は断崖から墜落した。



    Stが飛行ユニットから降りた。

    故郷を再び訪れることはやはり苦難であり、三年の時間を経ても、痛みが消え去ることはなかった。彼は物資の仕分けには参加せず、自室で休もうとした。他のオペレーターも理解を示した。

    彼は格納庫の中を歩きながら、全ては終わったのだ、と自分に言い聞かせた。日々は一歩ずつ過ぎ去り、この長い一日もまた過去へ変わる。

    深呼吸して目を見開くと、どこか落ち着かない様子の人事部門オペレーターが一人の少女を引き連れて周囲を見回しているのが目に入った。Stを見つけると、人事部門オペレーターは明らかな歓喜の表情を浮かべた。

    瞳孔が収縮する。

    ドアの前で自分を見つけたこと、許可証のマークが正しいこと、奇怪な言語を話し、そして黙り込んだこと。一連の情報をStはまとまった話として捉えることができなかった。ただ耳鳴りと、激しい頭痛がするのみだ。

    民族衣装を着た血色に乏しい少女が一歩前に進み、握りしめていた社員証をStに渡す。そして、たどたどしい炎国共通語で言った。

    Varitasai-varitas.jpgコードネーム:Varitas
    性別:
    戦闘経験:三年
    出身地:炎国
    誕生日:5月21日
    種族:サルカズ
    身長:153cm
    鉱石病感染状況:体表に源石結晶の分布を確認。メディカルチェックの結果、非感染者に認定。

    個人履歴:Varitasは炎国最南端のサルカズ部族「魁」の出身で、サイト-A9には見習いオペレーターとして加入した。

    健康診断:造影検査の結果、臓器の輪郭は明瞭で異常陰影も認められない。循環器系源石顆粒検査においても、同じく鉱石病の兆候は認められない。以上の結果から、現時点では鉱石病未感染と判定。

    【源石融合率】0%
    鉱石病の兆候は見られない。

    【血液中源石密度】0.16u/L
    血液中源石密度は平均値よりやや高い。

    体表に源石結晶があるのに未感染って、どういうこと!?
    ──医療部門オペレーター アンジェリカ

    詳細プロファイル:
    炎国で噂される「人喰い怪物」、奥深くに棲む神秘の部族、寡黙で謎めいた不思議な少女。

    サルカズの中でも、魁族は特に謎めいた部族である。炎国の南東部に暮らすこの小さな部族は、死体のような外見と冷たい皮膚を持っている。周囲の炎国人は彼らを怪物と見なして関わりを避け、魁族もまた部族の人間以外には敵意を抱いていた。彼らは山中に塢壁を築き、自給自足の生活をし、生産に必要な道具を手に入れるための外部との交流以外は世間から隔絶されていた。魁族は塢壁に故意または無意識に侵入しようとする部外者に対して、武力を用いて追い出す──または消滅させることを躊躇しない。

    魁族が使用する言語は独特で、炎国語、極東語、さらにカズデルの言語とも全く類似しない。言語が閉鎖を生むのか、それとも閉鎖が言語を生むのか?学者たちの好奇心は常にそれに向けられてきた。

    魁族は非常に特殊な生理構造を持つ。彼らの表皮と筋肉は容易に脱落と再生をし、血肉は彼らにとって身体の一部と言うより外殻に近い。この特徴を利用して、魁族の戦士は自主的に源石に接触し、体表を鉱石病に感染させて自身の戦闘力を高め、絶えず皮膚の壊死と再生を繰り返すことで内部の循環器系と臓器が鉱石病に感染することを阻止する。このような戦士は「屍魁」と呼ばれ、高い技術を持つ屍魁は自身の身体の一部を操作し、脱落した部位を短時間飛行させることもできる。屍魁の戦士は魁族を守る強力な存在であったが、同時に外部からの魁族への差別と敵意を増大させた。

    Varitasは元々A9の経験豊富で高い実力を持つオペレーターで、一流の研究者であった。炎国での考察遠征中、Varitasは「山中の人喰い鉱石病患者集落」の噂を聞いた。彼は現地の人間の制止を無視して魁族の集落を訪れ、魁族への医療援助が必要か否かを確認することにした。

    ──その後、A9とVaritasの音信は途絶えた。

    三年後、誰もが彼の生存を期待しなくなった時、一人の屍魁の少女がVaritasの身分証を持ってA9を訪ねた。少女は自分の過去とVaritasの行方には一言も言及せず、ただ不慣れな共通語でこう要求した。

    「Varitasをさせて」
    をさせて」
    CG-var.jpg






    CN-001“天罰”全プロセスダイジェスト



    CG-Storm.jpg

    “天罰”インシデント中,最初に記録されたSCP-CN-001-A

    インシデントコード:CN-001“天罰”

    脅威レベル:黒 ●

    撹乱クラス:Amida

    概要:2029年5月1日、EVEを放出する台風が西太平洋上空で形成され、財団の注目を引きました。サイト-CN-72特殊気象部門センターは同日午前7時、SCP-CN-001-A気象災害と確認されたと発表しました。この異常を処理するため付近の対応チームが派遣されました。

    5月3日午前10時30分、財団が前述のSCP-CN-001-Aを弱体化させた時、さらに二つのSCP-CN-001-Aの発見が確認されました。そのうち一つは前述の気象異常の158海里東で発生した台風であり、もう一つは米国中西部で発生した竜巻です。三つの災害の潜在的な関連性が注目され始めました。

    5月4日午後10時15分、ロシア北部の海岸に氷山が衝突した事故がSCP-CN-001-Aと確認されました。5月6日午後1時50分、ドイツ南部で発生した大雨と洪水による災害がSCP-CN-001-Aと確認されました。5月10日、アルゼンチンで同時多発的に発生した全ての山火事が、SCP-CN-001粉塵と関連していました。

    世界全土で数日以内に爆発的に発生したSCP-CN-001-Aは多くの死傷者を出し、各正常性維持機関と各国政府の注目を集めました。調査の結果、超常気象災害の爆発的発生はSCP-CN-001の使用と関連し、財団とGOCなどの組織によるオブジェクトの争奪競争がSCP-CN-001-A発生の直接的な原因となった可能性が高いことが判明しました。さらに、オブジェクト全体のEVEレベルが吸収総量を上回っており、オブジェクト自体がEVEの生産ないし一種の生命活動を行っている疑いが持たれました。また、SCP-CN-001-AがSCP-CN-001のある種の伝達物質であるとの仮説が生まれました。

    調査結果の発表を切っ掛けに組織と政府の対立が激化し、互いに現在の局面へ導いた責任を押し付け合うようになり、SCP-CN-001の争奪競争から生じる組織の衝突をエスカレートさせました。同時に、SCP-CN-001-Aの発生件数と規模も増加の一途を辿りました。

    2030年7月28日、二つのSCP-CN-001-Aがニュージーランドを襲い、ニュージーランドの国家全土を消滅させました。南島・北島の海面下数十メートル地点までの土地が、全て消失しました。二つの気象災害は自発的に消滅した後にインドネシア付近の海域に再出現し、大量の死傷者を出しました。SCP-CN-001-Aによる地殻変動が初めて観測され、調査の結果、強力なEVEの密集によるアスペクト放射が現実改変を引き起こしたと推測されました。

    SCP-CN-001-Aによる地殻変動は、時間の経過とともに発生頻度が徐々に上昇し、多くの自然地形が改変され、全世界の陸地をユーラシア大陸に向かって収束させる傾向を示しました。財団とGOCなどの組織は、自分たちが以前の闘争で戦力を消耗しすぎたと自覚しました。そしてSCP-CN-001-Aの脅威は急速に拡大しており、一つの組織での解決は困難であると理解しました。ヴェールの維持は不可能となり、各組織は抗争を止め、協力して脅威に対抗することを決めました。

    2030年8月6日、財団とGOCの連合調査機動部隊“錆鎚ラスティハンマー”がサイト-CN-85を襲撃し、施設に潜んでいた複数人のロゼッタの歌重要構成員を捕縛しました。午後4時に捕縛作戦が終了すると同時に、SCP-CN-001-Aがサイト-CN-85を破壊しました。その瞬間、全世界で同時に有史以来最悪の天災が発生しました。アメリカ大陸が複数の天災の影響を受けてユーラシア大陸に向けて跳躍させられ、多くの政府が機能を失い、グローバルインターネットは途絶しました。

    O5司令部は状況の回復を不可能と判断し、SCP-2000は災害への抵抗のため待機と封鎖状態に入りました。2033年、電子システムが確認した最後の生存者が消失し、CN-001“天罰”インシデントは終息し、人類文明は滅亡しました。その後、財団の各種終焉存続システムは人類文明を再起動する方法を探し始めました。







    イベリア


    サイト-A9はいくつかの階層のキャタピラを完全に水に浸からせている。

    闇夜を征く巨大な艦体が、水面に浮かぶ建築物の残骸を押しのけながら、サーチライトでまだ穏やかではない水面を照らして回る。一定の時間ごとに、艦はクルーザーと飛行ユニットを受け入れては送り出す。救助任務に参加する者たちは緊張で満ちていた。通信機からはかすれた音声が鳴り続けている。

    「6号船応答せよ、空から貴艇の灯りが消失したのが見えたが、トラブルか。繰り返す、6号船……ああ、了解了解。6号船が負傷者を一人発見、状態は……わかった、すぐに付近へ降下する」

    サルビアai-salvia.jpgコードネーム:サルビア
    性別:
    戦闘経験:八年
    出身地:エーギル
    誕生日:4月18日
    種族:エーギル
    身長:165cm
    鉱石病感染状況:メディカルチェックの結果、非感染者に認定。

    個人履歴:サルビア、フリーの傭兵。オペレーターのペンタゴンを追ってサイト-A9を訪れた。

    健康診断:造影検査の結果、臓器の輪郭は明瞭で異常陰影も認められない。循環器系源石顆粒検査においても、同じく鉱石病の兆候は認められない。以上の結果から、現時点では鉱石病未感染と判定。

    【源石融合率】 0%
    鉱石病の兆候は見られない。

    【血液中源石密度】 0.014u/L
    ミス・ペンタゴンに類似した種族的な特徴です。彼女たちに源石は必要ないのでしょう。

    詳細プロファイル:

    第一資料

    二ヶ月前、サルビアは不明な方法でサイト-A9を追跡し、強引に乗艦した。彼女は艦船の破壊も物資の略奪もせず、ただ二つの要求を提出した。1.彼女をオペレーターとして雇用すること。2.彼女にオペレーターのペンタゴンを監視させること。

    サルビアとペンタゴンの双方とも自身の過去を語ろうとしないが、誰もがサルビアの持つペンタゴンの信仰する宗教への強い敵意と警戒心を感じ取れた。確かにペンタゴンの宗教は謎に包まれているが、彼女は今まで艦の人員や財産に損害を与えたり、信仰を強要したことはなかった。サルビアにも彼女なりの理由があることは理解できるが、サイト-A9はこの件に関して中立を保ち、いかなる武力行為も制止するだろう。

    第二資料

    その点を除けば、サルビアのオペレーターとしての能力は申し分なかった。傭兵の経験により、サルビアの戦闘能力の高さには疑う余地もない。彼女は主にレイピアを武器として用いるが、ほとんどの狙撃オペレーターよりも迅速に遠くの敵を攻撃することができる。さらにこれはアーツではなく、単なる戦闘技術なのだ。オペレーター試験の際、サルビアは訓練室で彼女の前にあった全ての訓練用ダミーを、たった一撃で貫いた。彼女がどうやったのか、誰にも理解できなかった。

    彼女がA9を見つけて追跡した事件から推測すれば、彼女の隠密能力、行動力および情報収集能力もまた一級品である。私的な情報ルートの所有も疑われた──傭兵としては珍しいことでもないが。オペレーターとしての彼女は、ある種の何でも屋だ。万能で、どんな任務も拒否せず、大規模戦闘や救助、はたまた他オペレーターの落とし物探しのような小さな仕事まで全て引き受ける。

    第三資料

    A9に加入してからの数週間は、サルビアは沈黙を貫き、仕事以外でのオペレーターとの交流を避けていた。オペレーターの中には、彼女が偏屈であるか、高慢な性格と感じる者もいた。時間とともに彼女も心を開き、今では仲の良いオペレーターと軽い冗談を言い合うようにもなった。サルビアさんも元は親しみやすい普通の人で、秘密を多く背負いすぎたせいで、高い戦闘能力と寡黙な性格で壁を作り、その中で閉じこもるようになってしまったのだろう。けれど、ここはサイト-A9だ、秘密を持たない人間なんていないよな?A9に普通の人間はいない、だからこそ、誰もが普通の人間なんだ。

    第四資料

    サルビアさんの相談回数が最近増えてきているんですよ。

    よく喋ってくれるようになったのは嬉しいのですが、彼女が私に打ち明けた事情は喜べるものではありません。カウンセリングの記録を取らないポリシーには背きますが、この件は文書化しておく必要があります。これはサルビアさんの精神安定だけでなく……より多くの事情に絡んでいますから。

    彼女は最近見たいくつかの夢について話してくれました。海、巨大なもの、彼女が過去に遭った災害、何らかの記号、逆さまの都市、五。彼女はよく眠れないことが増えていて、何かからの呼び声を感じるそうです、それも複数からの。

    彼女は私たちがペンタゴンさんの決定に従うことをやめ、彼女に処置を任せるよう希望しました。しかし、彼女にその後どうするのかを問うと、沈黙してしまいました。あの言葉に出来ないような苦しげな表情を、彼女はまた浮かべていました。

    最後に彼女は、あなた達が財団であるならば、覚悟をしておきなさいと言いました。私、どう答えたらいいかわからなくて。彼女がどんな任務も引き受けるのは、ある種の賭け金で、心を少しでも落ち着かせるためのプラシーボではないかと思ったんです。

    これが手遅れでなくて、私たちにまだ何かできることがあるように願います。

    そうそう、第五資料は書かないでくださいね。

    ──カサブランカ

    は無線機を置き、隣のパイロットに具体的な方角を告げた。これがサイト-A9の行動方案だ。飛行ユニットとドローンが空中でサーチライトの照射を維持しながら、クルーザーで巡視し、連携して被災者を捜索する。発見された被災者のうち、負傷者は優先的に飛行ユニットでサイト-A9に搬送され治療を受け、残りはクルーザーでA9に運ばれる。あっという間に巨大な陸上戦艦は人でいっぱいになり、甲板にはたくさんのテントが張られていた。

    ここはメモリアモハール、イベリアの中規模な港町だ。少し前、この街は壊滅的な津波に見舞われ、無数の家屋が波に呑まれた。いくら水に親しいエーギルという種族といえども、多くの命が海中に散り、より多くの家が波の藻屑となった。

    大いなる静謐を経た後のイベリアでは、生活とはかくも壊れやすいものであった。

    SCP財団はトップクラスの天災救援組織である。それはこの大地──もちろんイベリアも含む──で暮らす大勢の知るところだ。サイト-A9は裁判所上層部との協力といくつかの秘密協定により、イベリアでの長期活動許可を得ていた。そのため、今回の天災での救援活動に駆けつけた。

    今夜は救援活動の二日目の夜だ。もうじき三日目になる。この二日間、サルビアは飛行ユニットの機内からメモリアモハールの惨状を見続けていた。彼女は全て覚えている。潮が引いた街並みの、建物の残骸の隅に現れた死体の山も。水面に浮かぶ屋根瓦の山の上で、母親の遺体から手を離そうとしない子供の足元が、少しずつ水に侵されていく光景も。

    サルビアは何度も天災救援に携わってきた。それぞれ異なる惨状も、どれも一般人の命と生活が滅茶苦茶に引き裂かれたことを意味している点は同じだ。それが彼女が救援作戦のたびに眠りを最も恐れる理由だ──睡眠は高度な救助活動に必要不可欠だが、悪夢はいつも彼女にこの上ない恐怖を与える。

    飛行ユニットがA9の甲板に着陸する。数名の乗組員が急いで負傷者を医療エリアに運び、医療オペレーターへの引き継ぎを完了した。医療オペレーターたちは今までずっと働き詰めで、皆疲れ切っていた。それでも、それぞれの患者が最善の治療を受けられるように全力を尽くしていた。その患者はすぐにベッドへ配置された。

    サルビアは行かなかった。病室に人が増えればそれだけミスも増える、余計なお世話にしかならないだろうと思った。彼女は飛行ユニットの記録端末を起動し、フライトレコーダー、レーダースキャン、映像記録などの結果をサイト-A9のサーバーに転送した。離陸指示が下される前に、彼女たちは被災地の地形、被災者の資料、味方ユニットの分布状況をまとめるように要求されていた。状況が混乱すれば、仲間はもちろん自分の位置すらわからなくなる可能性がある。

    救助者はより多くの人を救うために、まず自分自身を守らなければならない。

    医療オペレーターのトルマリンai-tourmaline.jpgコードネーム:トルマリン
    性別:
    戦闘経験:なし
    出身地:クルビア
    誕生日:7月5日
    種族:エーギル
    身長:153cm
    鉱石病感染状況:メディカルチェックの結果、非感染者に認定。

    個人履歴:トルマリン、サイト-A9常駐医師かつインテリジェント医療設備エンジニア。以前の勤務先の研究理念に不満をもち離職後、当時クルビア停泊中だったA9に履歴書を送った。

    健康診断:造影検査の結果、臓器の輪郭は明瞭で異常陰影も認められない。循環器系源石顆粒検査においても、同じく鉱石病の兆候は認められない。以上の結果から、現時点では鉱石病未感染と判定。

    【源石融合率】 0%
    鉱石病の兆候は見られない。

    【血液中源石密度】 0.15u/L
    トルマリンは研究作業中によく源石製品と接触する必要があるが、適切な防護措置をとっているため、大きなリスクはない。

    詳細プロファイル:

    トルマリンはA9のベテラン医療スペシャリストとして、主に新型医療設備の開発を担当しているが、有事の際は艦でのオペレーター定期検診も受け持つ。医療技術のレベルは全く問題ないが、彼女にクルビアの典型的な「マッドサイエンティスト」の印象を重ね、検診を避けるオペレーターも少なくない。無論これはフィクションで誇張されたステレオタイプだが、トルマリンはこれを意に介さず、完全な否定もしない。彼女がオペレーターでの人体実験はせず、行う必要もないと明言しているにもかかわらず、だ。

    クルビアの研究レベルにはこの大地において何人たりとも及ばないが、そこには薄汚れた内情と非人道的な実験も多く、トルマリンもその話題を避けようともしない。事実、研究者の分類としては、彼女は典型的なクルビア研究者の印象に極めて近い。好奇心旺盛で道徳心に欠け、研究のためなら手段は選ばず、他人や自分自身を実験台にすることも厭わない。それでも彼女は、クルビアを去ることを選んだ。

    トルマリンはかつて薬品とサプリメントの開発企業に勤めていた。トルマリンが所属していた医療チームは目覚ましい成果を上げていたが、マーケティング部門はそれをさらに大きく誇張するため、かねてよりトルマリンの不満の元になっていた。実際、健康食品を医薬品として販売し、さらに医薬品を「神の奇跡」のような万能薬として包装するのがその企業の常套手段だった。マーケティング手段に大きな不満はあれど、トルマリンは研究生活におおむね満足しており、それゆえ現状維持を続けていた。

    ある日、その企業は源石美容サプリメントにリソースを完全集中させた。トルマリンはサプリメントの開発や源石の利用に抵抗はなかったが、次第にプロジェクトの異常さに気づき始めた。企業上層部は各研究チームの人員と開発プロジェクトを大幅に削減し、代わりに広告とマーケティング人員を大幅に増やし、製品をさらに誇大宣伝した。幸か不幸かトルマリンは解雇されず、残っていたサプリメント開発チームに編入された。しかし、企業上層部は彼女たちに製品のイテレーションをさせることはなく、あちこちの各種講演会に専門家を名乗って登壇させ、製品の効能を「宣伝」させるだけだった。

    数カ月後、トルマリンは辞職した。かつて「神の奇跡」という言葉は広告の誇張されたコピーにすぎなかったが、今や彼女のいた企業は奇怪なピラミッド構造に発展していた。彼女は退職前に、職位を利用して彼らが「製品」と呼ぶものを仔細に研究した──何の変哲もない源石エネルギー噴霧機であり、美容効果どころか、人体に有害な代物だ。彼女は仲の良かった同僚数人にこれを告発したが、ヒステリックに否定され、批難された。彼女はようやく確信した。自分の所属していた企業はとうに科学研究企業ではなく、カルト教団に成り果てていたと。

    そういった企業モデルが常態化しているのか、それともトルマリンがクルビアに失望したのか、いずれにせよ、彼女はA9に加入した。物語の「マッドサイエンティスト」は人を捕まえて実験をするが、実際の彼女は艦内の特殊な物品とAIに興味を示していた……おそらく彼女は早い段階からA9の真の目的に気づいていたのだ。
    がベッドのそばに立ち、挿入されたばかりの人工呼吸器を見ながら、各バイタルサインを記録した──この患者は昏睡状態だ。トルマリンは患者と一緒に送られてきた簡易的な登録資料を読んだ。これらの発見された被災者たちは、津波によって長時間水中にいた可能性があるようだ。

    患者の体に致命傷となるような大きな傷は見当たらなかった。トルマリンは患者の特徴と傷の消毒に使った薬品名を書き留めた。彼女が検査を続けると、患者の胸部には圧迫された痕跡があり、酸欠が原因の昏睡状態に陥った可能性が高いとわかった。だが医師は、「可能性」で満足してはならない。誤診は取り返しのつかない事態を招くからだ。そして脳神経スキャンの結果を受け取ったトルマリンは、ある問題を発見した。

    神経スキャンの様々なパラメータは全てある同一の状況を示していた。その結果から、患者の大脳は酸欠による高次脳機能障害を起こしているというより、化学薬剤による一種の脳機能失調状態であると判明した。このような患者の出現は初めてではなく、おそらく最後の一人でもない。こういった患者は医療部門の悩みの種だ。原因となる化学薬剤の正体を突き止めるまでは、ただバイタルサインを安定させることしかできない。

    トルマリンは長いため息をつき、すぐに我に返って四方を見回した。医者がため息をつく姿を患者に見せたくなかったのだ。彼女は登録資料を整理し、全てメインサーバーに送信した。このカルテには特殊なマークが付けられ、患者は重点的観察対象となる。それが医療部門とA9エリートオペレーターが、二例目のこの症例が確認されたときに交わした合意だ。

    大いなる海面の前では、何事にも十二分の集中と用心が必要だ。

    それは潮の流れに足を踏み入れるときも変わらない。今のサイト-A9は低速自動航行中で、基本的には管理の必要がない航行状態だ。それでも航海士のヨランダai-yolanda.jpgコードネーム:ヨランダ
    性別:
    戦闘経験:なし
    出身地:不明、供述からエーギルと推測
    誕生日:不明
    种族:不明
    身長:171cm
    鉱石病感染状況:メディカルチェックの結果、非感染者に認定。

    個人履歴:ヨランダは出自不明、経歴は欠落している。アーツとそれによる支援の方面で並々ならぬ能力を見せる。

    健康診断:造影検査の結果、臓器の輪郭は明瞭で異常陰影も認められない。循環器系源石顆粒検査においても、同じく鉱石病の兆候は認められない。以上の結果から、現時点では鉱石病未感染と判定。

    【源石融合率】0%
    鉱石病の兆候は見られない。

    【血液中源石密度】0.01u/L
    このプロファイルは必ず隠しておけ、何人かの危険な連中に見られてはならん──医療部門、I███

    詳細プロファイル:

    [権限不足]
    はモニターを凝視し、キーボードを叩きながら各種レーダーソナーのフィードバック信号を処理していた。廃墟のそばで涌く暗流。でこぼこで硬さの不揃いな地面。漂流する大量の瓦礫。全て、A9のキャタピラには多少の脅威となる。無論、最大の脅威は湾そのものである。

    ヨランダはこの数時間、メモリアモハールの海中地形調査と水文調査に集中していた。一つはサイト-A9が落盤する可能性のある地質地域や、湾に直接進入してしまうことを防ぐため。もう一つは後続の津波が発生する可能性に警戒するためだ。

    裁判所から共有された調査データ。そこには津波の原因が一般的な海底地震であること、メモリアモハールの海は常日頃から不安定だったことが記されていた。それゆえ、これほど恐ろしい津波の発生は初めてだったにもかかわらず、ヨランダはただの偶然であると片付けてはならないように感じた。たとえサイト-A9が多くの破局的な天災に耐えられる──それも彼らが天災救援を行う最も大きな理由の一つだ──としても、湾岸の街を打ち砕く大波はヨランダの心に恐怖を植え付けた。

    少しずつ集約されたデータは、モデルを徐々に精細にさせてゆく。被災痕跡の分析、地形のスキャン、水流の統計を通して、ついにヨランダの眼前のモニター上で天災発生時のシミュレーションが完成した。一点から広がる大波がメモリアモハールの海岸に押し寄せ、折り重なった巨大な衝撃が、市街地を水没させる。

    将来の津波発生率が未だ計算中であるため、ヨランダは目の前の完成したモデルを一旦保存した。このモデルは救助活動に役立ち、海底調査でも重要な意義を果たすだろう。

    ダイビング中のアンベレスai-amberes.jpgコードネーム:アンベレス
    性別:
    戦闘経験:五年
    出身地:ボリバル
    誕生日:12月3日
    種族:エーギル
    身長:167cm
    鉱石病感染状況:メディカルチェックの結果、非感染者に認定。

    個人履歴:地質研究者のアンベレス、必要に応じて戦闘オペレーターとして出撃する。

    健康診断:造影検査の結果、臓器の輪郭は明瞭で異常陰影も認められない。循環器系源石顆粒検査においても、同じく鉱石病の兆候は認められない。以上の結果から、現時点では鉱石病未感染と判定。

    【源石融合率】 0%
    鉱石病の兆候は見られない。

    【血液中源石密度】0.09u/L
    源石との接触は極めて少ない。

    詳細プロファイル:

    [権限不足]
    イリリai-iriri.jpgコードネーム:イリリ
    性別:
    戦闘経験:なし
    出身地:ボリバル
    誕生日:3月5日
    種族:エーギル
    身長:154cm
    鉱石病感染状況:メディカルチェックの結果、非感染者に認定。

    個人履歴:イリリ、水文学研究者にして地下パイプライン技師。サイト-A9に救助された後、自主的に加入を希望した。

    健康診断:造影検査の結果、臓器の輪郭は明瞭で異常陰影も認められない。循環器系源石顆粒検査においても、同じく鉱石病の兆候は認められない。以上の結果から、現時点では鉱石病未感染と判定。

    【源石融合率】0%
    鉱石病の兆候は見られない。

    【血液中源石密度】0.10u/L
    源石との接触は極めて少ない。

    詳細プロファイル:

    第一資料

    イリリと他のエーギル人オペレーターの間に些細ないざこざが起こっていることは誰もが知っている。しかし最近、一部の熱心なオペレーターは「予防線を張る」ようになった──自分なりの方法でイリリと他のエーギル人オペレーターの論争を阻止しようとするのだ。しかしその必要はない。この論争は一種のユーモラスなじゃれ合いで、食堂のオペレーターが料理に塩を足すか砂糖を足すかで争うようなものだからだ。

    イリリとエーギル人オペレーターの間で争点となるものは水だ。多くのエーギル人オペレーターにとって、逆巻く大波や静寂の水底を生み出すものこそが水である──残念ながら、A9のプールはそういった要望を全く満たすことができず、非難の的になっている。だがイリリは、水は流れるものであり、河川や水道管のような限られた領域を前へ前へと進むものこそが水であると主張する。

    こうして、水の在り方を巡るイリリたちと他エーギル人オペレーターの戦いは長い間続いている──

    第二資料

    イリリの本名はアリシアで、ボリバルの有名な黒流樹海にある、外界から離れた小さな街に生まれた。幼い頃のイリリは大好きなことが二つあった。一つは都市に出て貿易をする大人たちに付いていくこと──ボリバルの内戦が外界の安全を脅かすにつれて、イリリの同行は許可されなくなった。もう一つは黒流樹海の野生の自然の中で伸び伸びと遊ぶことだ。村人たちは彼女を止めようとしたが、彼女は樹海を知り尽くしており、彼女の脱走を止められる者はいなかった。

    黒流樹海の複雑な水系は四方八方に絡み合い、あちこちに危険が潜む巨大な網を産み出した。イリリも実際はそのごく一部を知っているだけだった。一般人にとっては、ここに迷い込むこと自体が深刻な危険を意味する──遭難、危険な地形、猛獣、蚊、有毒な野生植物。源石の脅威も無視できるものではない。黒流樹海のような無人地域では、天災による破壊自体は微々たる問題にはならず、天災トランスポーターがわざわざ訪れることがないというのが真の問題だ。資料の足りない状況では、一般人がかつて天災が発生した区域に迷い込み、豪雨で地面に残された源石に命を奪われることもある。

    第三資料

    黒流樹海での思い出をイリリに尋ねれば、彼女は街での日々、川を駆け回った日々、ブランカと過ごした日々と答えるだろう。この三つが彼女の子供時代の最も貴重な部分を構成している。

    同じエーギル、同い年の二人の女の子が野外で偶然出会い、必然的に彼女たちは親友になった。

    川とトンネルは水路で結ばれていた。アリシア──当時はイリリというコードネームもなかった──とブランカは水路を通じて出会い、互いの故郷を訪れ、未知の天地の一端を知った。イリリが人生で始めて抱いた夢もこの時に芽生えた──地上とトンネルを繋ぐ水道を造る。

    その頃の彼女たちは、夢をいつか現実にするべく備えようと決めた。治水工事とトンネル建設が彼女たちのそれぞれの趣味になった。もし彼女たちがその憧れに向かって真っ直ぐ進んでいたら、夢は実現していたかもしれない。

    第四資料

    財団はボリバルでの作戦中に偶然イリリと接触した。当時、オペレーターのコサインは闇市で発見された文書を調査しており、人身売買組織への襲撃で監禁されていたイリリを救出したのだ。

    当時のイリリは最悪の状態にあった。長期の栄養失調と体表の水分不足が深刻で、体には長期間に渡る虐待の痕跡があり、精神は崩壊寸前だった。回収された情報によれば、イリリは複数の人身売買組織の間で取引され、体と精神は絶え間ない苦痛に曝されていた。

    コサインはイリリをボリバルの財団施設で保護し、調査任務が終了した後は更なる治療のためにA9本艦へ連れて行った。コサインの報告書の中では、オペレーターのアンベレスが移送を要求したと記録されているが、アンベレスはこれに対する詳細な返答とイリリとの直接接触を拒否した。

    イリリの容態が回復した後に、定例のインタビューと背景調査が行われたが、結果は調査したオペレーターを呆然とさせるのみだった。アンベレスは彼女の発言の内容を保証しようとしたが、実際の調査結果はイリリの供述を裏付けるものにはならなかった──彼女の言う故郷は、もはや存在しないのだ。

    より詳細な調査が必要だ。

    第五資料

    調査に進展があった。

    ボリバル内戦の直接的影響が全ての原因だった。シンガス王朝と連合政府の双方の軍艦がイリリの故郷がある地域に侵入し、密林は遭遇戦の戦場へ変貌した。キャタピラが村を踏み潰し、砲火が樹海を照らす中、イリリは難民の隊列から離れた。彼女は単身で軍艦に潜り込み、動力炉を破壊して、この不条理を止めようと考えたのだ。

    たとえ彼女がエーギルの種族優位性を活かして数人の兵士を倒すことができたとしても、この計画はおとぎ話のように無茶苦茶なものだった。彼女は捕まり、二日間監禁され、二日間兵士から暴行と拷問を受け、三日目には彼女がただの地元住民であると確認され、甲板に連行され、そこで処刑されようとしていた。

    彼女を救ったのは、彼女が最も望まない光景だった。

    ボリバルの複数ルートから入手した文書は、この事件を突然の天災と記録しているが、我々は集めた情報から真相を知ることができた。軍艦の重量と無計画な砲撃が、一部の地質の脆弱な構造を破壊し、そこから落盤の連鎖反応が起こった──ブランカの一族が数世代かけて掘削建造していたトンネルシステムが、大規模崩落を引き起こした。陸地はひび割れて沈み、怒涛の海水がその空白を埋めた。周辺の広範囲の地域が地図から消失した。

    イリリが捕まっていた軍艦も完全に破壊され、彼女は空まで届くような水の勢いに乗って脱出したが、岸にたどり着いたところで違法組織に監禁され、売り飛ばされた。同時にイリリの故郷は海に沈み、ブランカ一族の故郷も破壊され、多くの死傷者が出た。生存者はごく僅かで、真相を知る者はさらに少なく、事件は単なる天災と記録された。

    救出されてからも、彼女の眼に光が宿ることはなかった。礼儀正しい作り笑いを貼り付けたまま茫然自失とし、いかなる感情も私たちの前で見せなかった。彼女は本当に、何もかもを失ってしまったのだ。

    彼女がオペレーターのアンベレスと出会うまでは。その日、彼女は財団で初めて泣いた。
    は短い感謝の言葉を返すと、漆黒の深い水中を泳ぎ続けた。彼女たちはモデルを見て確かな興奮を覚えたが、水中探索中のためあまり気を散らすわけにはいかなかった。

    エーギル人は海洋民族である。ダイビングは彼女たちにとって、歩くことと同じくらい自然で簡単だ。それでも、二人の調査員は今、光なき暗闇で未知の水文環境に面しているため、警戒を怠ることはできない。彼女たちは出発前に呼び止められ、医療オペレーターとエンジニアオペレーターの両者から、全身を覆い密閉する水中防護服の着用を促された。これらのオペレーターは、発見されたばかりの未知の化学薬剤による脳神経失調の症例を懸念し、水中での直接呼吸と皮膚の暴露は危険性が高いと判断したのだ。防護服を着たことで彼女たちの動きはさらに緩慢になり、ある意味周囲の環境を観察することへの集中を余儀なくされた。到底速く泳ぐことなどできなかった。

    彼女たちはサイト-A9の水没した出入り口から出発し、直接メモリアモハールのとあるエンジニア通路に向かい、地下から湾の中へ潜った。今の彼女たちの足元にあるのは、水没した市街地ではなく、どれほどの時間海水に浸かっていたかわからない自然地形だ。まるで真なる深淵を二本のマッチを擦る瞬間の閃光で照らさんとするかのように、二つのサーチライトは目の前の僅かな範囲を照らすのみ。

    イリリとアンベレスは自分たちの目的地を知らない。彼女たちに渡されたのは地形探査図、個人用リアルタイム3Dソナー、完成したばかりの水流モデルだ。それらを使い、そびえ立つ巨大な何かを探せと指示された。

    「そうそう、調査員ってのはこうでなくっちゃ」
    アンベレスは通信チャンネルで冗談を言った。
    「何を探すかわかってるなら、私たちはただの漁師だもの」

    「ふーん、だったら私があんたをふん縛って帰れば、漁師って呼ばれるのかな?」
    イリリには彼女の笑顔が想像できた。通信機越しにアンベレスの笑い声が聞こえたからだ。

    二人は冗談を言い合いながら前に向かって泳ぐ。笑い声はヘルメットの外側へ響くことはない。二人の周りは光も通さず、海水にも腐蝕されない硬い静寂に満たされていた。アンベレスが静寂に頭をぶつけた。

    イリリは仲間の発言が冗談ではないことに気づき、後に続く。手を伸ばせば、そこには硬い表面があった。

    「見つけたかもね」
    そう言って、イリリはサイト-A9に通信を繋いだ。









    通信は幾重もの中継を経由し、最終的に一つの報告メッセージとなって、Noxai-nox.jpgコードネーム:Nox
    性別:
    戦闘経験:不明
    出身地:エーギル
    誕生日:8月20日
    種族:不明
    身長:178cm
    鉱石病感染状況:体表と体内に少量の源石結晶の分布を確認、感染者に認定。

    個人履歴:Nox、エーギル出身、正確な年齢は不明。右眼球の源石結晶が原因の眼球摘出手術を受けた際、術後一週間以内に新たな眼球が形成されたため、一般的なレベルを遥かに上回る肉体回復能力を持つと分析された。

    基本的な道徳観の概念と独立した事件対応での正確な手法が、通常の人間に比べて大きく欠落している。使用する医療方式は通常、対象の精神力を吸収しそれを肉体回復の媒介とするものである。このアーツ使用方式の利害について、詳細な研究が待たれる。

    健康診断:造影検査の結果、臓器の輪郭は不明瞭で異常陰影も認められる。循環器系源石顆粒検査の結果においても、同じく鉱石病の兆候が認められる。以上の結果から、鉱石病感染者と判定。

    【源石融合率】15%
    感染レベルは比較的高く、腰部に鉱石病の浸蝕の痕跡あり。

    【血液中源石密度】0.38u/L
    感染は中期段階だが、差し当たって本人への影響を判別する方法はない。

    詳細プロファイル:

    [権限不足]
    の携帯端末に到着する。これより前には、飛行ユニットの航行定位、特殊症例の報告、津波の原因推測のメッセージが届いていた。彼はサイトの収容管理者にしてエーギル事務責任者であり、これらの情報が彼の元へ渡るのは当然のことだ。

    現在の資料状況に目を通し、Noxは端末を抱えて甲板の端まで歩いていった。そこでは心労の積み重なった審問官が、迎え入れた被災者の誘導を手伝っていた。

    「貴方は正しい」
    Noxはこの発言を挨拶に代えた。
    「どうにも怪しい状況であるのは確かです」

    「信じたか?俺はお前たちにいいから信じろ、信じたならさっさと帰れと言ったんだ」
    アグニ審問官は眉間に皺を寄せ、Noxを白い目で見た。
    「お前たち余所者は本当に阿呆ばかりだ。艦で現場に駆けつけておいて、いざとなったら逃げられないなんぞ思いもしなかった」

    Noxは声を上げて笑った。
    「いやはや閣下は頭が固い。艦をメモリアモハールまで持ってこなければ、どうやって救助ができましょう?」

    「その大量のクルーザーと飛行ユニットで数軒を助けられればそれでいいだろうが!全員を救えるわけなどない!この手の海が絡んだ天災は一人でも多く生き残れば良い方だ。裁判所だって十分感謝を示したろうに」

    「それは、より大勢の被災者を見捨てろという意味でしょうか?」

    「ここは神さえ沈黙するイベリアだ。多くを救おうとすれば、誰一人救えない」

    Noxは眉を上げた。
    「しかし、審問官閣下はお帰りになられないようだ」

    アグニ審問官は手を止め、背筋を伸ばして海の果てを見つめ、そしてNoxへと振り向いた。
    「そんな事を言っても無駄だ。俺はお前たちのような妙な天災救援艦が奇跡を起こせるかどうか知りたいがゆえに、ここに留まっておるのだ。お前たち財団は少しは有名なようだが、お前たちでもどうにもならないようなら、俺はここで心中してやる。どうせ他の解決策なんざ思いつかないんだ」

    「それが理由ですか」
    Noxは笑顔で頭を振った。
    「閣下、我々は準備ができています。問題はすぐに解決できます」

    「準備ができているかどうか決めるのは、お前たちではない……」
    アグニの言葉がピタリと止まる。その目は次第に重くなっていく緊張感をもって水平線を望んでいた。
    「もう遅い、逃げろ」

    Noxが来たりしものが何かを認識できないうちに、長い汽笛が湾全体に響き渡った。




    ████






    「みんな、今の聞こえた?」
    トルマリンが医療エリアにいる他の医療オペレーターに尋ねると、全員頷いた。彼女たちは今、特殊な脳意識失調の患者を収容する特別分類治療室にいた。

    病室は喧騒と忙しさに包まれ、艦外の音は聞こえるはずもない。それでもなお、たった今、トルマリンを含む全員が耳元で鳴り響く汽笛の音を感じた。

    患者たちには、医者よりもはっきり聞こえていた。

    突然、全ての患者がベッドの上で狂ったように痙攣しだした。心電図などの数値は瞬く間にゼロになり、眼と口元からは赤い鮮血がだらだらと流れ出す。医師たちは驚き、すぐに止血と薬剤注射を始めたが、何の効果もなかった。

    トルマリンは自分を落ち着かせ、てんかん症状への次の対処を準備していた。その時、正面のベッドにいたエーギル人の舌が突然長く伸びた。薄い青と深い緑の縞模様を浮かべた不快な色合いの舌は、口から0.5メートルも飛び出し、空中でフェリーンの尾のように狂おしく揺らめいていた。目の前の光景は、マッドサイエンティストと噂されるトルマリンですら受け入れられない。向かい側にいた看護師が恐怖で床にへたり込んだ。

    転倒した看護師が発した悲鳴は、却ってトルマリンを冷静にさせた。彼女は急いで看護師を立たせ、病室を離れさせた。
    「みんな聞いて、ここを離れて!この部屋から逃げて!」
    彼女はまだベッドの傍にいる他の同僚に向けて叫んだ。
    「特殊症状のない患者は連行、脳機能失調で移送したのは全員ここに残して、設備と資料も放置、今すぐ逃げて!」

    医療スタッフは次々と病室を離れ、トルマリンが最後に残った。見回すと、病床のカーテンの下では湿り気のある触手が床の上でのたうちながら、心臓の鼓動を模した音を立てていた。彼女は吐き気を堪えて病室の自動隔離壁を閉じ、大きな赤いボタンを覆うアクリルカバーを拳で叩き割った。

    収容違反のサイレンが廊下に鳴り響いた。









    「全機、状況報告せよ!」

    通信機から聞こえる安否確認の声に、サルビアは安堵した。先ほどの汽笛で、全ての飛行ユニットがバランスを崩したからだ。サルビアの乗った飛行ユニットはパイロットが圧力に耐えて緊急軌道修正をしたため、墜落を逃れた。システムの記録によれば、そのまま海へ飛び込んだドローンも多数あったようだが、幸いにも有人機の損失はなかった。

    その直後、彼女たちは音の出どころに気づいた。メモリアモハール湾の入り口に、たった今誰も気づかないうちに光の点が突然出現していた。汽笛の音もそこから聞こえてきたようだ。
    「もう少し近づけますか?」
    サルビアは光の点を指さした。

    「構いませんけど、今あれに近づくのは危険な気がします」
    パイロットは動悸をさせながら額の汗を拭った。サルビアは考え込んだ。
    「それもそうですね。距離を取ったまま細部を観察できる位置でホバリングしてください。調べなければ何も始まりません」

    飛行ユニットは少しずつ接近し、カメラのレンズに光の点の細部が映る。やがて飛行ユニットがホバリングを始めると、一隻の煌びやかな客船が視界に入った。ゆっくりとメモリアモハールに向かって航行する客船、その眩さは津波で壊滅したばかりの湾には似合わない。

    けれど、眩いのは表層だけだ。サルビアの目にはくっきりと、客船のデッキ上のあちらこちらで蠢く紺碧の生物が見えた。









    レーダーも未知の訪問者を捉えていた。ヨランダは客船が湾に入っていくのをモニター越しに眺めた。ヨランダはA9艦上の全方向回転航行レーダーを客船のいる方向に向け、少しでも多くの情報を得ようとした。

    その瞬間、ヨランダの心の準備を遥かに飛び越えて、複数種の異なる警報音が同時に鳴った。津波警報もこの瀬戸際で容赦なく鳴り響き、システムは外洋から押し寄せる波を警告した。

    彼女は急いでNoxに通話を掛け、今すぐ隠蔽と帰投の命令を要請できるよう準備した。通信はすぐに繋がった。Noxが通信機越しに傍にいる。それなのにヨランダは、うまく声を出せなかった。

    「もしもし?操舵室?」

    「長官、その、津波の状況をすぐ報告するように言ってましたよね。確かに報告したいんですが、どう言えばいいかわからなくて……」
    ヨランダはモニターをじっと見つめる。たくさんの言いたかった言葉は、喉に張り付いたまま出て来ない。
    「大変なことになってます」

    波を表す光の線は客船の背後で止まっている。波は砕け散っては奇妙にも消失し、それ以上進むことはない。やがて、小さな光る点がモニターに現れはじめた。レーダーの情報はそれが海洋生物であると示した。ヨランダは悟った。あの波はただ、生物が群れをなして泳ぐことで海水を動かしていただけだ、と。

    モニターは光る点でびっしりと埋め尽くされている。









    「深海教会め……」
    アグニ審問官の表情は、複雑に組み合わさった感情を露わにしていた。憤怒、恐怖、驚愕、悲嘆、悔恨。最も相対したくない敵へ向ける、真なる感情の全てを混ぜ合わせたもの。

    彼は振り返り、Noxの肩をがっしりと掴んだ。
    「あの船を攻撃し、沈めろ。それが唯一のチャンスなんだ!」
    しかしNoxは唇をぎゅっと噛んだまま、何も言わなかった。

    「問題はすぐに解決できます。しかし閣下、彼らはなぜここへ来たのでしょう?」
    Noxは怒鳴りだそうとするアグニを制止し、タブレット端末を彼の顔の前へ持ち上げた。
    「審問官閣下、私もまだ考えている最中なので、どうか怒らないでください。この症例に、何か心当たりはございませんか?」

    アグニは目の前のタブレット端末を掴み、医療部門が収容した特殊症例を見た。ちょうどセキュリティスタッフが病室の消毒を終えた頃で、捕獲された個体は全て収容セルに閉じ込められた。
    「失調……こいつらは記憶を失ったのか?」

    「記憶喪失と認知症の症状があるのは確かです。どうでしょう、何を表していると思いますか?」

    「ああ、そうだ、お前の考えた通りだ!こいつらはもう死んでいる!エーギル人とシーボーンは同類だ、違いはエーギル人には自我があることだけだ。記憶と意識を失えば、血脈はシーボーンとして覚醒し、一瞬で奴らの同族になる!この患者どもを奴らにくれてやれ、奴らは同胞を迎えに来たんだ」

    Noxは何かを考えたように頷いたが、すぐに首を横に振った。彼はタブレット端末に視線を移し、新しい忠告のメッセージを読んだ。その時、またも汽笛が鳴り響いた。一つ、また一つ、呼び声のように。或いは、ソナーのように。

    「奴らの目的はそう単純ではないかもしれません」









    「このボタン?合ってる?」
    アンベレスはイリリの腕を引っ張った。
    「どう見たってこっちのほうが似てると思うけど?」

    「さっきヨランダが撮ってくれた写真に載ってた赤いやつは絶対これだよ、このマークを間違えるわけないもん」
    イリリは強く主張し、アンベレスの手を振り払おうとした。

    「写真を逆さまに見てるんじゃない?」

    硬い表面を見つけてからの二人は、サイト-A9の直接指揮に従い、とある通路にたどり着いた。通路が排水を始めてようやく、二人は自分たちが発見したものが人工の建造物であると気づいた。司令室での大勢による論争と誘導のもと、二人はかなり大きな部屋にたどり着いた。真っ黒な壁が部屋の不気味さを増幅させていた。

    そして彼女たちが直面した難題は、目の前のコントロールパネルである。見たこともないコントロールパネルにエンジニア経験のない二人のオペレーターは音を上げ、ただ指示に従って操作を続けるほかなかった。幸いにも結果は良好で、あちこち弄くり回したのち、照明が点いたことを報告できた。

    部屋の照明は二分も経たないうちに点滅し、続いて部屋全体が揺れ動いた。アンベレスとイリリは何か触れてはならないものに触れたと思い、恐怖でしゃがみ込んだ。しばらく蹲っているうちに、汽笛の音は耳を通して聞こえたのではなく、己が心の底から響いてきたものだと気づいた。

    それゆえに、彼女たちは何事もなかったのだと思い、顔を上げて周囲を見回した。この時になってやっと、彼女たちは真っ黒な壁の正体が一面の観察窓であることに気づいた。観察窓にいくつかのカーソルが点灯し、調子の狂った電子音声が同時に鳴り響いた。

    「鎮圧目標は活動中、行動圏は許容範囲内、脅威指数上昇せず、表皮は完全……」

    窓の外にあるサーチライトが点灯し、イリリとアンベレスにより良い視界を提供した。

    「目標深度:884.43キロメートル」

    彼女たちは巨大な眼球を見た。

    arklights4.JPG










    甲板の上にいる全ての人々が客船を凝視していた。









    「もう遅い」












    汽笛が旋律を奏でる。

    位置を示すでなく、航路を示すでもなく、汽笛は人々の繊細な脳神経を打ち鳴らす。空洞の長い鳴き声は夜空の隅々まで響き渡り、形無き潮水は波に流されることのない湾のよう、魂の孤礁は波に打たれて比べようもなく湿り冷たく、雄大なる潮水は震えて悲鳴を上げ、汽笛の嗚咽は奔流にて一つになり、浅瀬に打ち上げられた海魚闇夜に忘れられた寂星群れで麻痺する死体運命の前に立ち止まるあなた。

    星々は深海に溺れ、独りエーギルの歌を舞う。

    海は絶えず生きている、深淵の子らは歩みを止めず、海岸を執念で這うはじまりの魚のように、転覆し朽ちた港へ進む。

    生命の流れは途切れることなく、大群は永遠に滅びない



    「まさか伝説のオオウナギを探し当て、記憶処理剤の忘却の力を求めるつもりか……」
    Noxは機密データベースへのアクセスを遮断し、こめかみを擦りながら歩く。汽笛の音はエーギル人に確かな不快感を与え、彼でも耐えられなくなりつつある。彼の足元では、アグニ審問官が地に跪き、彼方へ祈りを捧げていた。

    Noxはタブレット端末を審問官の懐に押し込んだ。画面には大きな文字で「システムチャージ中」と表示されている。

    「何の、つもりだ?もう逃げ出すことはできないぞ、お前たちは何をするつもりだ?」

    Noxは手のひらを広げ、正面から吹き付ける海風を感じた。

    「以前にもはっきりとお伝えしましたが、審問官閣下」

    「問題の根源に相対して妥協するのではなく」

    「我々にとって、問題解決の最善の方法とは、問題を提起する存在そのものの解決です」

    エネルギーの充填音が頂点に達し、アグニはSF映画でしか聞けないような音を聞いた。

    「ズドン!」

    いくつかの移動都市の反応炉が同時に活性化したような機械の反響が、万丈の海底から地上まで届いた。

    海面は巨大な黒き影に持ち上げられ、口中の輝かしい黄色の光は海神の哀鳴の如し。

    「さあ、捕食者と真なる深海の覇者のご対面だ」

    uu7.jpg






    ラザルス-01起動記録

    生理学的特徴のスキャンを実行中

    警告:異常人類

    ガニメデ・プロトコルの実行から 15884 ヶ月 14 日が経過しています。現在SCP-2000は無人稼働モードであり、セキュリティシステムのアンロックは最小限です。セキュリティプロトコルに基づき、非異常性の人類のみが施設を起動可能です。

    手動クリアランスログインに切り替え

    手動クリアランスログインに切り替えました。

    レベル5/2000クリアランスログイン

    パスワード:***********************

    照合中……

    クリアランス認証を通過、操作ロックが解除されました。

    手順ラザルス-01を実行

    現在の世界環境下では、手順ラザルス-01の実行提案は、終焉文書によって 非推奨 とされています。手順ラザルス-01を強制実行しますか?

    原因を照会

    終焉文書レポート:K-クラスシナリオの影響は消失しておらず、SCP-CN-001の影響で死亡した人間の遺体はオブジェクト自体に転化され、全人類の遺体の転化によりSCP-CN-001の総量は極度に増加しています。現在SCP-CN-001は地球全土に広く存在し、自然界の物質循環と鉱物堆積に広く関与しています。

    判断:現在の環境は人類の生存に適合しません。

    生物生産サンドボックス環境を作成、外部データをインポート。

    環境の作成が完了、対象データをインポートします。

    “魔術師”シリーズ・種族超越生命進化プロトコルをローディング。

    ローディング完了。

    SCP-CN-001感染過程シミュレーションを実行

    シミュレーション開始……

    シミュレーション完了。有効な生命過程シミュレーションは 999999783 件。完治 0 件、感染後重症化までの期間は平均 2245 日、感染率 11.7%

    完治した例はなく、医療介入がない場合での重症化までの期間が著しく延長し、感染率が低下しました。現象の理論的原因をサジェスト: SCP-CN-001の一般的な動物に対する感染力は人類に対するものより低い。

    DNAデータベースにアクセス

    接続中……

    接続完了。

    “魔術師”シリーズ・種族超越生命進化プロトコルを実行。

    警告、ヒトDNAデータベースの改竄を検出、操作を強制停止します。
    警告、ヒトDNAデータベースの改竄を検出、操作を強制停止します。
    警告、ヒトDNAデータベースの改竄を検出、操作を強制停止します。

    オーバーライド、強制実行。

    クリアランス認証中……警告を解除……

    本当に実行しますか?

    実行。

    実行しています……データベースの変更完了まで残り 106 時間と推定されます。

    ネコ科動物のDNA追加完了……

    イヌ科動物のDNA追加完了……

    爬虫類のDNA追加完了……

    鳥類のDNA追加完了……

    選択された幻想動物のDNA生成・追加完了……

    ……

    全ての変更が完了しました。更新内容は終焉文書に同期されました。

    手順ラザルス-01を実行。

    日時の指定を入力してください。

    N/A

    形式が正しくありません。日時の指定を入力してください。

    新たなる始まり。

    ……

    プリセットされた特定文字列の入力を確認。ダイヤル接続。本端末の操作記録が指定のアドレスに送信されました。

    適切な形式で日時を再入力できます。このメッセージに強制力はありません。特定文字列を保持したい場合は、その他の不要な操作を行わず、可能な限り返答を待ってください。

    ……

    問い合わせは返答されました

    操作は手動で承認されました。次のステップに進みます。

    全面起動。

    名前を入力してください。

    Kal'tsit

    セットアップ完了。SCP-2000は全面起動モードに入り、文明再構築を開始します。







    ヴィクトリア



    瓦礫の散乱する、廃墟と化した教会にて。サンクタの少女は顔を覆って啜り泣いている。議論の末に、マーキュリーai-murcury.jpgコードネーム:マーキュリー
    性別:
    戦闘経験:不明
    出身地:ヴィクトリア
    誕生日:6月1日
    種族:リーベリ(疑わしい)
    身長:159cm
    鉱石病感染状況:メディカルチェックの結果、非感染者に認定。

    個人履歴:マーキュリー、ヴィクトリア出身のベテラントランスポーター兼調査員。周辺調査オペレーターとしてA9に情報支援を行う。

    健康診断:造影検査の結果、臓器の輪郭は明瞭で異常陰影も認められない。循環器系源石顆粒検査においても、同じく鉱石病の兆候は認められない。以上の結果から、現時点では鉱石病未感染と判定。

    【源石融合率】0%
    鉱石病の兆候は見られない。

    【血液中源石密度】0.10u/L
    とても健康だ。

    詳細プロファイル:

    第一資料

    ほぼ全てのオペレーターにはマーキュリーと会う機会がない。ベテラントランスポーターかつ調査員として、マーキュリーはテラの大地の遍く場所で活動し、A9本艦には滅多に乗艦しない。彼女がA9本艦に連絡を取れば、それ自体が十分な警戒を促すニュースとなる。彼女の運ぶ情報には、A9の行動計画と戦略方針を左右する効果がある。艦の外にいる時の彼女と連絡を取りたければ、運と彼女の気分に身を任せるほかない。その二つの条件が満たされなければ、彼女はテラの大地に徹底的に隠れ、最初から存在しなかったかのように振る舞うだろう。

    同様に、ほぼ全てのオペレーターはマーキュリーを知らない。まず、彼女の仕事は財団と直接繋がってはいない──彼女は一人のトランスポーターとして標的を追うか、あるいは一人の調査員として真相を追う。そして、彼女の存在はA9上層部しか知らないエリート権限機密の一つだからだ。

    SCP財団には敵がいる、それは多くの人間が知っていることだが、その中で最も特殊な相手に関して具体的に知る者はいない。それがマーキュリーの主な接触対象であり、彼女はある種のスパイと呼べるだろう。源流を遡れば時間を超越するような秘密を、現世の人間はただ伝承し受け継いでいる、それだけなのだ。A9では、ほぼ全ての人間がその集団をただの非友好的な術師組織と考えている。“蛇の手”の名が示す真の意味を知り、それを機密にすることを選んだのは極少数の人間だけだ。

    マーキュリー?彼女は放浪者の図書館の在り処を知っていたよ。

    第二資料

    マーキュリーには幼い頃から蛇の手との交流があった。彼女はヴィクトリア出身だが、公民として認められることはなかった──当局もこのような子供の存在を認識していなかった。マーキュリーの出生地はロンディニウムと言っても間違いではないが、その正確な地点はヴィクトリアの都市伝説の中、噂ではロンディニウム航行ルートの地下に眠る鏡写しのゴーストタウンだ。その都市は蛇の手に支配され、彼らの交流居住地の一つだった。

    調査から、蛇の手は住民が地下都市を離れることを許していたと判明している。それでもマーキュリーは幼い頃から慣れ親しんでいたためか、蛇の手に加入することを選んだ。当時の詳細な事情を彼女本人の口から聞くことはできず、関連調査も情報不足によって難航している。特筆すべき点として、マーキュリーは蛇の手加入前の子供時代から放浪者の図書館に出入りして本を借りることができた。彼女によれば蛇の手の支配地域では普遍的な現象らしく、蛇の手構成員のみが出入り可能とする従来の情報と矛盾している。

    報告によれば、蛇の手に新たな構成員が加わる際には、一定の儀式とテストが行われる。この点に関してはマーキュリーからも確認が取れている。場所や人によってテストの内容は変わる。当時、蛇の手の構成員は彼女に彫刻の施された円盤を渡し、それを鏡の表面に置いて中に入るように命じた。彼女は一週間の単独サバイバル調査から無事に帰還した。マーキュリーは超常物品と意識的に接したのはそれが初めてであり、それ以来蛇の手の一員になったのだと回想している。

    第三資料

    マーキュリーと財団の接触は長期に渡り、そこには蛇の手の影響も決して小さくない。しかし、彼女は今までの生活の中で自由で束縛されない性格を培っていて、加えて蛇の手は結果的に奔放な組織でもなく、彼女も組織信条忠誠度などにはさほど興味がなかった。これは財団にとっても注意すべき問題かもしれない。彼女は自分の意志で選択し、真実を解明することを至上の喜びと感じている。それゆえに、彼女はクルビアでの「公衆水死体」事件とヴィクトリアの「感染者危機」事件を経て、両事件に介入したサイト-A9に注目するようになった。

    彼女がSCP財団と直接接触するようになった切っ掛けは、ある対話だ。

    それはウルサスの雪原で行われた二人の対話で、相手は伝説の蛇の手最高指導者にして図書館の亡霊──L.S.だ。一対のワタリガラスの翼を持ち荊棘の王冠を戴く彼女を、多くの人々は“黒の女王”と呼ぶ。

    面会の場所はとある静謐な森の外、「十人しか知り得ない、存在しない森」。マーキュリーはこれがオリジナルの発言で、彼女が六人目にあたると言った。マーキュリーによれば、会話の内容は森と父の世代が埋葬した秘密を巡るものだ。具体的な内容は……記録されない。

    第四資料

    「蛇の手も探している」マーキュリーがよく使う言葉だが、蛇の手の目的が何なのか、なぜ財団と敵対しているのかは、彼女本人にもよくわかっていないようだ。

    放浪者の図書館の入口はこの大陸の広範囲にあり、それぞれがA9の探索や調査を阻む独自の方法を持っているようだ。しかし蛇の手構成員の話によれば、昔は遥かに多くの入口が存在したという。

    マーキュリーは二つの組織の間での自分の役割について揺らいでいた。彼女は自分が平和の使者のような存在として振る舞ってきたことを考えたが、やはり自由にホラを吹ける今の状況が自分に合っていると感じた。それでも両組織への好奇心は依然として衰えず、蛇の手を理解し接触する道は未だ絶たれていない。

    「彼らもこの大地に恐れるものがあり、憧れるものがあり、渇望するものがあり、懐かしむものがある。彼らと君たちは、思ってる以上に似てるんだよ」

    昇進記録

    「あの時彼女を探したのは私だ。彼女には潜在的な、発揮しきれていない能力がある。彼女はかつて精神的幻を持つキツネに一人で立ち向かい、完全に機能不全になっていた輸送隊を救ったんだ。前線には出たくないと言っていたけど、十分な能力はあるよ」

    「私たちの戦闘モデルはかなり自由だし、私たちの追う目的は挑戦的で、彼女もそういう所に惹かれたのかもね。でも、彼女がイエスと答えた本当の理由はもっと深いところにあって、それは罪のない人々を傷つけたくないという願いなんだ。彼女の過去の生活環境と知っている情報は、戦略的にも戦術的にも重要だけど、大事なのはそこから行動するかどうかだよ」

    「彼女はどの現実改変者が計画的に私たちを攻撃しているかも、誤解から始まる単独遭遇戦があることも、どの戦いが私たちの侵入に対してただ自己防衛をしただけなのかも知ることになるだろうね。彼女は戦場に線路を敷くだけでなく、戦場の外に繋がる道を作ることだってできるんだ。それが私が彼女を繋ぎ止めるために努力するべき理由さ」

    「言うなれば、彼女はイカボッド小隊の良心なんだよ」

    ──フローライト
    は隊員たちに見守られながら、少女の目の前で屈み、目線を合わせながら声をかけた。

    「じゃあ、次はどこに行こうか?」



    サイト-A9 機密会議室


    会議室のドアの鍵は、彼女のために開けたままにされていた。マーキュリーはドアをそっと押して、一筋の隙間から中を覗いた。もし彼女の予測通りに、会議室の中が座っている人と椅子からあぶれた人でいっぱいなら、その次にはさっさと脱走する計画だ。なんとありがたい配慮だろうか。会議室で待っていたのは、長テーブルの端に着席しているたった二人のオペレーターだけだった。

    「おいで、久々に艦に帰ってきた気持ちはいかがかしら?」

    とっくに計画を見抜かれていて、彼女のテンションは地の底まで落ちた。マーキュリーはドアを開け、あらかじめ彼女のために引いてあった椅子の前まで歩く。

    「ペン姉、その目と鼻と耳は何のために付いてるの?会う度に何言えばいいかわかんなくなるよ。ねっ、隊長?」

    席に着いているペンタゴンai-pentagon.jpgコードネーム:ペンタゴン
    性別:
    戦闘経験:六年
    出身地:エーギル
    誕生日:5月25日
    種族:エーギル
    身長:155cm
    鉱石病感染状況:メディカルチェックの結果、非感染者に認定。

    個人履歴:ペンタゴン、SCP財団エリートオペレーター、サイト-A9派遣機動部隊指揮官、対外軍事作戦設計士。常に薄く微笑を浮かべ、やや変わった観点とアイデアを述べることが多く、奇特な物事と対面した際はパラノイア的な狂熱に陥る。

    健康診断:造影検査の結果、臓器の輪郭は明瞭で異常陰影も認められない。循環器系源石顆粒検査においても、同じく鉱石病の兆候は認められない。以上の結果から、現時点では鉱石病未感染と判定。

    【源石融合率】0%
    鉱石病の兆候は見られない。

    【血液中源石密度】0.018u/L
    源石との接触は極めて少ないです。けれどペンタゴンさんには源石と関連研究に対する異常な愛情があり、関連試験場に防護具を忘れたまま入った時に注意されたこともあるんです。
    ──カサブランカ

    詳細プロファイル:

    第一資料

    多くのオペレーターがサイト-A9がテラの各地に事務所を持ち、様々な仕事のために諸国を走り回っていることを知っているが、A9に「機動部隊」という作戦ユニットが存在することを知る者はごく僅かだ。それは特殊な身分の精鋭から構成された特別な作戦小隊で、外部でA9の特殊戦略任務を執行する。

    第二資料

    機動部隊は主にA9の外で活動し、また身分や任務が特殊なため、財団との隷属関係を基本的に切断あるいは隠蔽し、対外的には独立や他の勢力への所属を宣言する。そのため、オペレーターが知らず知らずのうちに機動隊員と遭遇、さらには敵対する状況が発生し、ペンタゴンは再発防止策の検討を発表した。

    第三資料

    ペンタゴンは機動部隊の総指揮官ではあるが、彼女が隊の動きに直接干渉することは少なく、権限を部隊長に全面移譲する指揮スタイルを好む──彼女は機動部隊がA9との関係を断つことを強く支持する人間の一人だ。

    事情を知るオペレーターは、ペンタゴンの指揮には多大な戦略的意義が含まれていると考えるが、それは正確であり、同時に不正確だ。彼女の指揮スタイルは……より幻想的だ。彼女は主に方針という形で隊を指導するが、彼女の指導はほとんど相談に近い──関係者と一緒になって、案をやるかどうか話し合う。次に、彼女の着眼点は非常に奇妙で、とても些細な部分まで隊に要求したがる。例えば隊員の服装や、食事のメニューなど。

    大事なのはー、このどーでも良さげな細かい部分が本当に作戦の成否に影響するところー。あの人なんで分かるんだろうねー?──サダルスード

    第四資料

    ラテラーノやイベリア出身のオペレーターの一部は、ペンタゴンの状況を知ると、不本意ながら彼女を「敬虔」と表現する。敬虔である理由は、ペンタゴンが自身の信仰と真に向き合って、生活の中で戒律を守らない瞬間などなく、思想が高度な信仰に導かれているからだ。

    不本意である理由は、彼らがペンタゴンの信仰を理解できないからだ。ペンタゴンは自分が信仰するものは神ではなく、ある種の完全な現実超越であると明らかにしている。まるで超常の中に神の奇跡を垣間見て、奇跡の中に彼女だけのための福音を感じたかのように。

    私たちはまだ「第五ヒトデ」が何であるか知らないが、私たちが唯一知っているのは、彼女がその名にかける崇拝は、「盲目」としか言いようがないことだ。

    第五資料

    [当項目はペンタゴンの要求により強制的に作成された。実際に何かを記録してはならない]
    は薄い笑みを浮かべ続けている。マーキュリーの隊長たるフローライトai-fluorite.jpgコードネーム:フローライト
    性別:
    戦闘経験:なし
    出身地:不明
    誕生日:6月28日
    種族:エーギル
    身長:159cm
    鉱石病感染状況:メディカルチェックの結果、非感染者に認定。

    個人履歴:フローライト、サイト-A9ベテランミーム学研究員。A9はイベリアでの求人で彼女を見つけたが、その過去は未だ謎に包まれている。

    健康診断:造影検査の結果、臓器の輪郭は明瞭で異常陰影も認められない。循環器系源石顆粒検査においても、同じく鉱石病の兆候は認められない。以上の結果から、現時点では鉱石病未感染と判定。

    【源石融合率】0%
    鉱石病の兆候は見られない。

    【血液中源石密度】0.09u/L
    源石との接触は極めて少ない。

    詳細プロファイル:
    [権限不足]
    も目を擦るのみで、二人とも無言のままだ。

    「二人ともプールに入れなくて機嫌悪いの?何か言ってよ気まずいじゃん」
    マーキュリーは椅子の背もたれが彼女の手前側に来るように座った。

    「わたくしの質問に答えていただけるかしら」
    ペンタゴンは笑顔を崩さずにマーキュリーを見つめた。

    「質問?あー、帰ってきた気持ちね。いい感じかな。にぎやかだし、仲間もいっぱいいるし」

    「そうなの?にぎやかなのが好きになったのね?」
    その問いかけにマーキュリーは一瞬だけニヤリと笑った。フローライトは隣でその表情を見て、首を横に振った。

    「カサブランカのお酒を賭けても良いけど、コイツの言う仲間がいっぱいってのは収容セルの中身がいっぱいって意味だよ」

    「確かに言われてみれば、わたくしたちのマーキュリーはそういう子だわ」

    「ペン姉!隊長!私のことはいいから会議を始めてよ!」

    ペンタゴンは相変わらず薄い笑みを浮かべ、「どうぞ」と手を差し伸べてマーキュリーの目の前に置かれたファイルを指し示した。
    「そうね、わたくしたちのマーキュリーちゃんがまた居なくなってしまうまえに、次の作戦ターゲットのマリアンヌちゃんについて見てみましょうか」

    「マリアンヌ?」
    マーキュリーはファイルをめくる。
    「それってこの前保護したサンクタの女の子のこと?いつもより手続きめっちゃ速くない?」

    「うん、めっちゃ速いよ」
    フローライト隊長の表情が次第に曇りだした。
    「健康診断と能力測定だけやって、それ終わったらすぐ護送が決まって、心理テストとか背景調査とかは全部スキップ」

    「なにそれ?どういう状況?何があったの?」

    「サンクタ人が銃を使うのは有名だけど、ほとんどのサンクタ人が一生の内に扱う銃は自分の守護銃一丁だけ。銃騎士や教皇庁の人たちでも、何丁も銃を持ってる人は全然いない」

    フローライトはマリアンヌのファイルを見ながら下唇を噛み、そして一息に誰もがその異常さに気づく事実を言い放った。

    「あの子はサンクタだけど、同時に現実改変で何もないところから思い浮かべた銃を出せる。種類も、数も、威力も無制限に。しかも単なるあの子の妄想じゃなくて、出てきた銃は他のサンクタオペレーターにも難なく使えたし、今も消える気配がない」

    「……本当に?」

    マーキュリーは目の前のファイルを見る。笑顔で写る少女の写真が、突如として遺影のように不気味に思えた。それは少女が危険だからではなく、その危険な能力があまりにも実用的だからだ。彼女は一人で戦争をひっくり返し、想像できないほど大きな権力闘争に巻き込まれてしまうだろう。

    そして、そのような闘争に良い結末などないのだ。

    「あの子は天性の武器マスターだわ」
    ペンタゴンも頷く、やはり笑みは浮かべたままだ。

    「特殊な状況だから、とにかく今はあの子を安全な場所に送らないといけない。たとえどんな勢力の手に渡っても、彼女の能力は戦争に利用できてしまう」
    フローライトは唾を飲み込んだ。
    「けど、まだ別の大きな問題が残ってる」

    「問題って?前の蛇の手との協約に従って、私たちの小隊があの子を引き渡しに行けば良いんでしょ?」

    フローライトは首を振った。
    「今はダメ、蛇の手も全員が理想主義者ってわけじゃない。カズデル軍事委員会が蛇の手と接触し、協力を持ちかけた可能性が高いという情報が入った。その取引内容の一つが、マリアンヌの身柄だ。もしこの情報を傍受できていなかったら、私たちはマリアンヌを死出の旅に送ってしまっただろうね」

    「カズデル軍事委員会……」
    マーキュリーは呟いた。
    「それって今ロンディニウムにいる、あのテレシスのこと?」

    「そうだね」

    「ややこしいことになってるなぁ……どうしてカズデルの人間が、ヴィクトリアを支配してるの?」

    「権力闘争の状況はよくわかっていないけど、ヴィクトリアの大公爵たちも不満を募らせているみたいだね。マリアンヌの引き渡しに関する情報も何人かの大公爵の耳に入ったけど、彼らはテレシスに自分の権力をひけらかすのに忙しくて、マリアンヌにはあまり興味がないみたい。だから彼らは、マリアンヌをヴィクトリアから然るべき場所へ移すために、別の勢力を招いたんだ」

    マーキュリーは発言を聞いたものの、あまりピンと来ていなかった。
    「別の勢力?」

    「うん、大公爵はサンクタなんだからラテラーノに居るべきだって考えて、ラテラーノの教皇に連絡をとったんだ。ラテラーノの集団安全保障宣言と永世中立の地位が、マリアンヌを引き渡す正当な理由になるって、大公爵たちも信用しているんだね。それと、結局あの子もサンクタだから、下手に事件や問題を起こしてラテラーノとの関係を悪化させたくないって魂胆」

    ペンタゴンはマーキュリーを見つめた。もちろん笑みを浮かべたままだ。

    「でも、悪いニュースばかりではないのよ。不幸中の幸いかしら、ラテラーノ教皇庁はこの仕事を法の左手に任せてくれたの」



    ラテラーノ 教皇庁第零庁


    「全員こちらに注目、連絡事項が二つある!」

    ビーズクッションの山々の向こうから光輪が昇る。菓子を口に咥えたまま守護銃の手入れをしていたラテラーノ人が、声のした方向へ首を向ける。ドアの前には二人の天使が立っていた。その片方はこの上なく顔を見慣れた隊長。もう片方はおどおどした、誰の記憶にもない人だ。

    むしろ、彼女の頭上にある光輪のそばに生えたキノコのほうに視線が集まっていた。

    「まず、我々は審査を通過した新人を迎えることになった。さあ、自己紹介をしたまえ」

    頭にキノコを生やした少女は周囲からの好奇の目をおずおずと受け止めながら、こう言った。
    「先輩の皆さんこんにちは!わたし、コードネームはアマニタai-amanita.jpgコードネーム:アマニタ
    性別:
    戦闘経験:二年
    出身地:ラテラーノ
    誕生日:4月25日
    種族:サンクタ
    身長:171cm
    鉱石病感染状況:体内に少量の源石結晶の分布を確認。感染者に認定。

    個人履歴:元サンクタ国境警備隊員。異常な野生菌類への暴露によって感染。症状が特殊であることから、サイト-A9に研究と治療のため招集され、同時にサイト-A9の下で見返りとして継続的に戦闘技術を発揮している。

    健康診断:造影検査の結果、臓器の輪郭は不明瞭で異常陰影も認められる。循環器系源石顆粒検査の結果においても、同じく鉱石病の兆候が認められる。以上の結果から、鉱石病感染者と判定。

    【源石融合率】8%
    体表に少量の源石結晶と異常な菌糸が分布している。

    【血液中源石密度】0.25u/L
    症状は悪化し続けており、特殊症状に対する有効な抑制法は見つかっていない。

    詳細プロファイル:

    [権限不足]
    っていいます!法の左手の新隊員になれて光栄です!先輩たちに迷惑かけないように、一生懸命がんばります!」

    「力入ってるねえ嬢ちゃん」
    周りから友好的な笑い声と拍手の音が上がり、アマニタは頬を真っ赤に染めた。

    「次に、任務の時間だ。装備をまとめて出発の用意!サダルスード、彼女によく説明してやれ」

    「先輩よろしくおねがいします!」

    「はーい、もっとリラックスしてねー、みんなゆるゆるだからねー」
    サダルスードai-sadalsuud.jpgコードネーム:サダルスード
    性別:
    戦闘経験:一年
    出身地:イベリア
    誕生日:9月29日
    種族:サンクタ
    身長:157cm
    鉱石病感染状況:メディカルチェックの結果、非感染者に認定。

    個人履歴:サダルスード、本名キャンベル、イベリア出身のサンクタでラテラーノ公民であり、第一条から第十三条までのラテラーノ公民権が適応される。アンタレスと同時にA9に加入し、宗教学の研究を行っている。

    健康診断:造影検査の結果、臓器の輪郭は明瞭で異常陰影も認められない。循環器系源石顆粒検査においても、同じく鉱石病の兆候は認められない。以上の結果から、現時点では鉱石病未感染と判定。

    【源石融合率】0%
    鉱石病の兆候は見られない。

    【血液中源石密度】0.12u/L
    源石との接触は極めて少ない。

    詳細プロファイル:
    サダルスードはかなり変わったサンクタだ。多くの信心深いサンクタと違い、サダルスードはラテラーノ教を信仰していないように見える。対照的に、彼女はラテラーノ教を含む様々な宗教に深い興味を抱き、多くのことを学んだ。カランドのイェラガンド聖典からサーミの雪祭司まで、彼女は全て読み漁った。

    サダルスードの宗教に対する興味の起源は子供時代まで遡れる。彼女はイベリア辺境の小さな町で生まれた。サンクタとしては珍しいが、存在しないわけではない。イベリアの多くの地域も同じくラテラーノ教を信仰し、その厳格さはラテラーノ本土すら上回る。しかし、サダルスードの故郷である小さな町は……異質だった。サダルスードは記憶の中の違和感がどこから来たのか明確な言葉にはできなかったが、彼女の宗教学的知識によれば、その教義はもはやラテラーノ教とは異なり、他の何かと混ざっていた。司教は善良と幸福を民に説くよりも、恐怖をもたらすことを得意としていた。

    数年後、小さな町は人口が少なくなっていき、最後は静かに消滅した。町の消滅に関する記録はどこにも残っておらず、司教も町と共に蒸発した。その時、サダルスードを小さな町からラテラーノに連れて行ったのがアンタレスだ。ゆえに、サダルスードの心にはアンタレスへの強い感謝と淡い憧れがある。

    奇妙に消滅したイベリア辺境の町と「地上の楽園」ラテラーノでの経験は、サダルスードにラテラーノへの帰属意識も、イベリアへの憐憫の心も与えなかった。彼女はラテラーノ教の典籍を熟読した。正当なラテラーノ教と子供時代に触れた教義の違いに気づいてからは、彼女はこの大地のあらゆる宗教を遍歴し始めた。その過程で、彼女の目的は「ラテラーノ教の異質さを探す」ことから離れ、彼女が触れた全ての宗教を分析し理解することに変わった。そのため、彼女は多くのラテラーノ人から敵視されている。

    しかし、この大地で宗教の研究を行うのは決して安全な仕事ではないと、彼女も薄々自覚していた。A9に加入してからは、彼女はより多くの資料に触れられるようになり、当時あの町にあった神秘的な宗教の一角も明らかにできた。それは一部の事件報告書に現れる「海の脅威」か、オペレーターのペンタゴンが時折口にする「第五教会」、あるいは他のさらなる未知の勢力だろうか?彼女はまだ判断できず、より多くの資料を必要とした。それは彼女が宗教に持つ好奇心ゆえか、それとも資料と情報が彼女を誘き寄せ、読ませているのか?私たちに知るすべはない。
    と呼ばれた隊員は頭を掻き、アマニタの手を掴んだ。
    「行くよー、武器庫に連れてってあげるー。作戦で使いたい武器を選んでねー」

    「えっ???わたしも作戦に出るんですか?でもわたし来たばっかりなんですよ先輩引っ張らないでくださ痛ぁ────」



    ヴィクトリア ロンディニウム
    ヤーナム街44号B


    その花屋の店名は「批判的なトマト」。店舗を転貸借したときに署名した契約書には、店舗の用途変更は許可するが、店名を変更してはならないと書いてあった。謎の要求だ。ゆえにメラノデンドロンai-melanodendron.jpgコードネーム:メラノデンドロン
    性別:
    戦闘経験:なし
    出身地:ヴィクトリア
    生日:7月18日
    種族:リーベリ
    身長:167cm
    鉱石病感染状況:メディカルチェックの結果、非感染者に認定。

    個人履歴:ヴィクトリア出身の植物学者、実務研究のため客員研究員兼オペレーターとしてサイト-A9に加入した。ほとんどの時間は植物標本の採集、鑑定と培養を担当する。必要に応じて特殊オペレーターとして作戦時の近距離アーツ支援を提供する。

    健康診断:造影検査の結果、臓器の輪郭は明瞭で異常陰影も認められない。循環器系源石顆粒検査においても、同じく鉱石病の兆候は認められない。以上の結果から、現時点では鉱石病未感染と判定。

    【源石融合率】0%
    徹底した防護措置のため、鉱石病の兆候は見られない。

    【血液中源石密度】0.12u/L
    とても健康だ。

    詳細プロファイル:
    [権限不足]
    はずっと、この店は本来何のために建てられて、なぜこんな名前なのか知りたいと思っていた。家主は変わり者で、その話題になると口をつぐむ。

    名前は奇妙だが、店はしっかり営業中だ。メラノデンドロンは王立自然科学アカデミーの正式な研究プロジェクトの参加者である。店を構えた一番の理由は趣味、二番目は得た収入で生活を支えること。

    三番目はSCP財団の隠れた連絡拠点となること。

    その時、花屋の小さな丸テーブルでは、サンクタ人とエーギル人のオペレーターがメラノデンドロンが用意した紅茶を味わっていた。

    「異国情緒が味わえるのは間違いないが、やはり砂糖が少ないのには慣れないな」
    アンタレスai-antares.jpgコードネーム:アンタレス
    性別:
    戦闘経験:五年
    出身地:ラテラーノ
    誕生日:11月7日
    種族:サンクタ
    身長:167cm
    鉱石病感染状況:メディカルチェックの結果、非感染者に認定。

    個人履歴:アンタレス、ラテラーノ公民であり、第一条から第十三条までのラテラーノ公民権が適応される。ラテラーノ公証人役場の執行人としてA9に派遣され、ラテラーノ公民に関する義務と外交職務を執行する。

    健康診断:造影検査の結果、臓器の輪郭は明瞭で異常陰影も認められない。循環器系源石顆粒検査においても、同じく鉱石病の兆候は認められない。以上の結果から、現時点では鉱石病未感染と判定。

    【源石融合率】0%
    鉱石病の兆候は見られない。

    【血液中源石密度】0.13u/L
    源石との接触は極めて少ない。

    詳細プロファイル:

    第一資料

    アンタレス、本名カマエル、ラテラーノ公証人役場のA9派遣執行人にして財団とラテラーノ教皇庁の共同機動部隊“法の左手”隊長。ほとんどのオペレーターから彼女に向けられた印象は、大部分のサンクタに対するステレオタイプと同様の、一台の精密動作をする律法マシンだ。しかし法の左手の隊員たちは、一切れのチョコレートブラウニーが隊長に外部の人間には想像もつかないような表情をさせることを知っている……

    第二資料

    法の左手小隊に転属する前、アンタレスは主にイベリアで公証人役場の任務を執行していたため、ラテラーノ教の別の側面についても知っていた。ラテラーノ本土の健やかな活気と違い、イベリアのラテラーノ教徒たちにはサンクタが生来持つ共感能力がなく、狂熱的な敬虔さのみがそこにあった。無論、ほとんどの場合でそれが彼女の仕事に影響を及ぼすことはなかったため、彼女も注意を払わなかった。

    ただ別の場合、例えばキャンベルさん、オペレーターのサダルスードがかつて暮らした村などのケースでは状況が異なる。実際、少なくない数のイベリアのラテラーノ教拠点が異質な宗教に侵蝕されており、アンタレスは危機にさらされたラテラーノ公民の救助を受け持っていた。その過程で、彼女は怪しげな団体との戦闘も免れなかった。彼女はこれらの宗教をあまり深く知らないが、受動的にいくつかの情報を得ていた。例えば、こういった宗教の数は決して一つではなく、その発展を放置すれば必ずや危険な結果に繋がること。

    第三資料

    イベリアでの経験と功績を認められたからか、アンタレスは新設の部隊である“法の左手”の隊長に選ばれ、ラテラーノとサイト-A9の橋渡し役になった。最初、アンタレスとA9の交流はかなりぎこちないものだった。その時、彼女にとってA9は高度に濃縮されたイベリアで、様々な「変人怪事」の溜まり場であり、A9でやっていけないと感じることもあった。しかし、公証人役場の訓練で培われた職業意識は、彼女に私情を挟まぬ働きぶりを維持させ、これも当時のA9オペレーターたちに冷たい印象を残した。次第に、彼女の部隊にも「変な」サンクタが集まり始めた。イベリアの狂った宗教に興味を抱くサダルスード、重度の感染で精神に異常をきたしたアイス、自分から鉱石病に感染し頭にキノコが生えたアマニタ……そういった雰囲気の中で、彼女も不承不承ながら他のライフスタイルを受け入れ始めた。現在の彼女は……まだ少し不本意そうにしているが、なんだか楽しそうでもあるぞ?

    キャンベルさんは小隊設立の知らせを受けて、真っ先に小隊加入を申請し、A9と接触した。アンタレスに比べ、彼女の新たな職場への適応速度は神速と言えるが、その話はまたの機会に。

    第四資料

    アンタレス心宿二サダルスード虚宿一のコードネームは、いずれもアンピシリンの天文学ミニ講座から来ている。当時はカマエルもキャンベルもA9に来たばかりで、各施設に慣れていなかったため、アンピシリンが彼女たちの案内人を務めた。

    「カマエルさんは私のことも何かの神に取り憑かれた邪教徒だと思ったみたい。でも彼女も後から理解したと思うよ、全ての熱狂が破滅を招くわけじゃなくて、熱愛は創造的な結果に至ることもあるんだって」

    「二人のコードネームは古代炎国の星の呼び名に由来するんだけど、実はそこって私の専門じゃなくて、ラピスから聞いた話の受け売りなんだよね。天文学はやっぱり危険だけど、物語として楽しむ分には問題ないと思うんだ。彼女たちも、自分に縁がある星々を見つけたんだね」

    ──アンピシリン
    という名のサンクタ人オペレーターはティーカップを置いた。彼女はロンディニウムに到着したばかりの機動部隊“法の左手”の隊長で、次の作戦計画を議論するためにこの店に居た。
    「何か計画はあるのか?」

    フローライトもその隣にティーカップを置いた。
    「あるにはあるよ。私たちはまず、あのマリアンヌという少女が能力を失い、もう武器を出現させられなくなったように装う。そうすれば蛇の手への不義理にはならないし、あいつらも彼女をテレシスに渡す気が失せて、引き渡しは取りやめになる」

    「単純な計画だな、単純すぎて我々の出番がないぞ」

    「君らは元々ラテラーノの代表として派遣されたチームだから、私たちと表立って協力はできない。けど君らも完全に何もしないわけじゃないよ。私の考えじゃ、もし蛇の手が騙されてくれなかったら、君らが介入してラテラーノの公的名義を掲げてマリアンヌを連れて行くのが、理に適っていると思う」

    フローライトはティーカップの紅茶を飲み干す。アンタレスは不機嫌になってその場を動かない。
    「我々には自分の仕事だけしていろと言いたいのか?」

    「不測の事態が起これば出番はあるよ。起こらないほうが良いけどね」

    「わかりやすいな、そうしよう」



    ヴィクトリア ロンディニウム
    ヤーナム街地下停車場 駐車中のアイスクリームワゴン


    「サダルスード先輩」
    小隊が待機している間、アマニタは車内でコーン付きアイスを食べているサダルスードに尋ねた。
    「わたしを、警戒しないんですか?」

    「警戒ー?何のー?あなたがアイスクリーム過食症でうっかり食べつくしちゃうことー?」

    「違います違います。その、わたし鉱石病なんです」

    サダルスードはアイスクリームを一口ぶん舐めた。
    「へー、知ってたー。隊長からけっこー前に聞いてたよー」

    「わたしを隔離しないんですか?怖くないんですか?ラテラーノなら感染者は国外追放ですよ」
    アマニタはサダルスードの投げやりな態度に驚き、小さな子猫のように目を丸くした。

    サダルスードはアイスクリームの球を一気に頬張り、口の中に物が入っている時特有のもごもごした発音で言った。
    「わたひたちの仕事の内容、ひょっと説明ひてみてー」

    アマニタはこれが彼女の減点箇所を探す抜き打ちテストだと思い込み、急いで背筋を正した。
    「はい!法の左手小隊は教皇聖下が教皇庁を通じて設立した、ラテラーノとSCP財団なる組織の高度な協力体制の産物です。小隊の行動目的は、各国からの正式な要請状況下で、各国の安全を脅かす超常関連事件を処理すること、例えば異常な暴動反乱や超常災害での人道的救援、各国の集団安全保障を達成する……先輩どうされましたか?」

    もう少しで奇跡的にミス一つなく言い終わりそうなアマニタの暗唱は、サダルスードの様子を見て途切れた。彼女は口に入れたばかりのコーンを吹き出しそうになるのを堪えていた。

    「今の護衛隊はこんなふうに教えてるのー?きっちりしすぎだよー!私たちは他国政府の超常治安維持を援助しています、って一言でじゅーぶんだよー?」

    アマニタがその反応に驚いているのを見て、サダルスードはついでにテーブルに置いてあったホットミルクをアマニタの手に渡した。
    「取って食おうってわけじゃないんだから、そんなに緊張しないでよー。よく考えてー、私たちは超常的な事柄を扱うんだから、人型天災みたいな感染者はいっぱい見たし、もっと凄いのだってたくさんいるよー。今更フツーの感染者なんて、誰も怖がらないよー?」

    「それでねー」
    サダルスードは車の隅のソファで本を読んでいた青い髪のサンクタの少年を指差した。
    「あの子はアイス、あなたと同じ感染者だけど、あなたとは大違いで──もうほとんど活性源石の彫刻みたいになっちゃってるんだー、感染率もあなたより桁いっこ多いはずだよー?」

    「おい!」アイスai-ice%281%29.jpgコードネーム:アイス
    性別:
    戦闘経験:確認できない
    出身地:ラテラーノ
    誕生日:不明
    種族:サンクタ
    身長:170cm
    鉱石病感染状況:体表に源石結晶の分布を確認。メディカルチェックの結果、感染者に認定。

    個人履歴:感染によって国外追放された元ラテラーノ公民と推定される。鉱石病は彼の精神に不可逆的な影響を与えており、当該オペレーターとの交流の試みの多くは失敗に終わった。声帯が大きく損傷しており、いくつかの認識しづらい音節のみ発声することができる。国外追放からサイト-A9に加入するまでの経歴は不明。その他、体表は大量の源石に覆われているため、彼本来の容姿を知ることは極めて困難である。

    健康診断:造影検査の結果、臓器の輪郭は判別不可能。循環器系源石顆粒検査の結果においても、同じく鉱石病の兆候が認められる。以上の結果から、鉱石病感染者と判定。

    【源石融合率】21%
    体表に大量の源石結晶が生成されている。

    【血液中源石密度】0.51u/L
    基準値を遥かに上回っている。

    詳細プロファイル:
    アイスにはどんな戦術訓練も意味をなさない。彼の戦闘能力は体表全体に分布した源石結晶にある。

    アイスの右腕には源石結晶が分布していないが、様々な深さの切創痕があり、その傷跡は「ICE」の文字を象っている。これが彼のコードネームの由来である。傷跡の伸びる方向から判断して、これらの傷は彼がまだ意識を有していた頃に自ら付けたものと推測される。

    当該オペレーターが宿舎に与える悪影響を考慮し、休憩場所を変更する提案が審査中だ。

    確実であるのは、彼とのコミュニケーションは不要で、危険であることだ。業務効率を最大化するために、オペレーターには彼を仲間ではなく道具として扱うことを推奨する。
    は明らかにこれを聞きつけて、サダルスードに向かって怒りの拳を振り回した。

    「新人をいじめるんじゃない」
    アンタレスは銃床でサダルスードの頭を叩いた。
    「仲間はちゃんと紹介してやれ」

    サダルスードは頭を擦り、アンタレスに舌を出した。
    「いいもーん。あの子の鉱石病はさっき私が言ったほど大変じゃないけどー、体表結晶がいっぱいあるんだー。でも私たちは排斥も隔離もしないよー。戦友じゃなくて道具として扱えって提案する書類もあるけど、そーいうのは上の人が勝手に言ってるだけー。友達でいることに上からの承認なんていらないよねー?」

    アマニタはアイスをまじまじと観察して、本当に驚いた。彼の襟から覗いているのは、おそらく装飾品ではなく、小さな源石の群体だ。こんな患者がどうして動けるのか、他の人は全く気にならないのか?自分が感染者を差別しない環境にいられることに感謝するべきなのか、それともこの状況にパニックを起こすべきなのか?

    arklights2.JPG

    「各員警戒、人が来た」
    アンタレス隊長の号令が皆の注意力を取り戻させた。

    アイスクリームワゴンの内部には大型モニターがあり、車外の様々な方向から撮った映像が並んでいた。マリアンヌを連れたマーキュリーが他の隊員と共に画面上に現れた。その内の一人が一瞬、ほんの一瞬だけカメラの方向を見たが、熟練らしくそれ以上キョロキョロすることはなかった。

    もう一つの画面上には、ローブを着た人々がどこからともなく現れ、足を止めてフローライト一行との出会いを待っていた。ローブの人物が電気スタンドを掲げ、訪問客を上下左右から照らした。

    言葉はもはやなく、アマニタも隊員たちの態度から緊張すべき場面と察した。ローブの人物は電気スタンドを回収し、何もしないのを確認して、訪問客に前進の合図をする。現場にいないアマニタもついつい安堵の息を出し、小声で隣にいるサダルスードに質問した。
    「先輩、彼女たちはどこへ連れて行かれるんでしょうか?」

    途端に、車両が揺れ始めた。先ほどの静寂の分まで上乗せした悲鳴が地下停車場で上がる。サダルスードは目を見開いたアマニタの口を急いで覆いながら、監視モニター越しに変形していく地面を観察した。

    「地底だ」



    ヴィクトリア 鏡像のロンディニウム


    天使たちの車両のモニターは通路の上は監視できるものの、通路の下については何もわからなかった。GPSもマイクも動作しない。もちろんアーツや生物を残すこともできなかった。蛇の手は全く手加減しなかった。

    小隊一行は現在ロンディニウムの真下、地上を同スケールで複製した地下のロンディニウムにいた。この都市の存在はある種の奇跡と呼べる。ある人は、都市はロンディニウムの真下に巣食い、ずっと動きもせず存在していたという説を提唱した。またある人は、一種のポケットディメンションであると考えた。掘り進められた地下空間を進む移動都市であるとの説も出ている。いずれにせよ、この都市には三つの変わらぬ事実がある。

    奇怪で、

    常にロンディニウムの真下にあり、

    蛇の手のひらの上で、珍妙な訪問客への敵意に満ちている。まさしく今、街道にいる小隊一行に向けられているように。

    もちろん、この小隊も全く手加減しない。

    イカボッド小隊、その名はデータベースから復元された現実改変者の魔女狩り作戦に因む。この作戦小隊はその由来通り、高脅威現実改変者を鎮圧し、こういった危害を及ぼしうる存在をA9のため収容することを目的に誕生した。

    当然、凄惨な現実でも善なる心を持つ人間が消えないように、現実改変者も全てが悪人ではない。データベースから発見された計画文書に疑いを持っていた隊員たちも、実戦で現実改変者の脅威と恐怖を認識しながらも、同時にその心には必ず善意が存在すると信じている。マリアンヌもその一人だ。

    だが、この大地はそういった善なる心を持つ現実改変者に居場所を与えない。天災が人の形をとったかのように法則を超越するこの力は、必ずやどの方面でも争いの対象となる。力の余波ですら平穏な生活を破壊し得るのに、まして渦の中心でどう生きていけようか?その時、自身の能力を行使するか否かは、彼らの善なる心次第である。

    ゆえに、イカボッド小隊は財団の敵──蛇の手と協約を交わした。現実改変者を救うという共通の目的のため結ばれた協約だ。これにより、イカボッド小隊は確保した高脅威現実改変者を蛇の手へ渡し、さらに蛇の手は安全でどの勢力の影響も受けない場所へ彼らを送り届ける。

    マーキュリーは、このような現実改変者に「放浪者の図書館」とは何かを説明するのはかなり難しいと思っていた。

    色々と考えながら歩いていたため、そう短くもない街道さえも行き止まりに到達し、マーキュリーはうっかり新聞売りの少年とぶつかってしまった。少年は驚きの声を上げながら転んだ。マーキュリーの後ろにいたマリアンヌはそれにびっくりして、条件反射的に両手を胸の前で組みかけた。

    マーキュリーは申し訳なさそうに笑いながら少年を助け起こし、なんとなく後ろを振り向く。そこには銃を出せず緊張した様子のマリアンヌが、張り詰めた表情のまま固まっていた。

    その光景を見た隊員たちの心臓が一瞬にして跳ねた。

    「まだラテラーノ教のことなんか気にしてるの?」
    マリアンヌに最も近いところにいたミストai-mist.jpgコードネーム:ミスト
    性別:
    戦闘経験:五年
    出身地:ヴィクトリア
    誕生日:10月31日
    種族:サルカズ
    身長:147cm
    鉱石病感染状況:体表に源石結晶の分布を確認。メディカルチェックの結果、感染者に認定。

    個人履歴:ミスト、ヴィクトリアで活動していた流浪の感染者。鉱石病により精神不安定で、身体の基本的成長が停止している。オペレーターのエオストレに引き取られ、現在は艦で治療と基礎教育を受けている。

    健康診断:造影検査の結果、臓器の輪郭は不明瞭で異常陰影も認められる。循環器系源石顆粒検査の結果においても、同じく鉱石病の兆候が認められる。以上の結果から、鉱石病感染者と判定。

    【源石融合率】15%
    体表に源石結晶は生成されていないが、一部の臓器、特に脳に深刻な感染が見られる。

    【血液中源石密度】0.39u/L
    病状は比較的深刻かつ不安定で、長期的に治療を続ける必要がある。

    詳細プロファイル:

    第一資料

    ミストはいつも笑っている。それは彼女にとても楽しいことがあったからではなく、悲しみが何かをあまり理解していないからだ。鉱石病は彼女の脳に深刻な影響を及ぼし、彼女の知能レベルは8-9歳の子供と同じレベルで止まってしまった。ここ数カ月間のA9での訓練と療育によって、彼女の知識面と表現力はある程度向上したが、共感能力はまだまだだ。

    第二資料

    サルカズ、孤児、感染者。ミストの身分は彼女をヴィクトリアで雁字搦めにした。彼女は自分の名前さえ──あるいは何もかも有していなかった。下水道や都市の暗がりで生活するのが日常茶飯事だったが、そこですら彼女は偏見を受けてきた。こともあろうに彼女のアーツは、無意識のうちに彼女を死に至る迫害から逃がすことを助け、生死の狭間でどうにか死を先延ばしにした。彼女の主観では、他者が彼女にどういった感情を持っているのか全く理解できないのかもしれない。何度も殴られた後でも、彼女は周りの子供たちが自分と遊んでいるのだと思っていた。彼女の脳はトラウマを形成することができず、他人の悪意を感じ取ることもできない。

    ウィッチフィースト、それはサルカズの伝統的な祭日で、いつの間にやらテラの全土に広まり、サルカズを差別する地域でも流行していた。この日に限って、ミストの「友達」たちは彼女を遊びに誘い、他の浮浪者を脅かして楽しむよう指示した。ミスト本人には違いが理解できないが、これもまた彼女にとって当たり前の一日だった。

    第三資料

    やがて、ミストは現地の福祉機関であり、サイト-A9と密接な関係にある組織「イースターエッグ孤児院」に引き取られた。ここに保護されている多くはヴィクトリア現地の感染者で、差別はほとんど存在しない。しだがミストはマイペースで、神出鬼没な悪い子のイメージは彼女から抜けきらず、周りに受け入れてもらえなかった。相変わらず彼女には他人の心が分からなかったが、生活の中で「怖がらせると友達が嬉しい」の法則を漠然と掴んでいたため、孤児院でもいたずらを続けていた。しかし、フィイの「変身」いたずらと違い、彼女の行動は物の紛失や部屋の損傷など、実際の不利益をもたらすものが多かった。孤児院の教師と従業員たちは体罰を望まないため、何度も説得してみるも効果がなく、結局は冷たい態度を取るしかなかった。

    だが、これがミストに与えたダメージは今までの悪口や暴力よりずっと深かった。彼女は「嫌悪」が何か初めて理解した。

    第四資料

    それから長い間、孤児院の人々はミストからいたずらを受けることがなくなり、代わりに彼女からは何度も「お手つだいすることある?」と尋ねられるようになった。孤児院の皆は一旦うろたえた。だが段々と、活発な子供たちは彼女とやり取りを始め、教師たちもこの機会に何かを教えてみようとした。彼女が生物学的な成人を迎えるまで、全ては良い方向に向かっていた。

    イースターエッグ孤児院は小さな福祉組織で、あまり大勢の面倒は見られない。そのため成人すると、孤児院はヴィクトリアを離れることを支援し、協力組織や企業に推薦することもある、そこにサイト-A9も含まれていた。ミストは成人したが、その心はまだ幼いままだ。しかし、孤児院院長のエオストレさんの推薦によって、ミストは最終的にA9に加入でき、一時的に患者兼予備オペレーターとしてより進んだ治療と教育を受けた。

    「A9が慈善団体ではないことなんて分かっています、なにせ私も一応非常勤オペレーターですから。A9はきっと彼女のアーツが秘める潜在能力に目をつけたのでしょう。それでも……この大地において、あそこはもう、あの子にとって最高の場所の一つかもしれません」

    ──エオストレ

    第五資料

    なぜミストのような子供を戦闘小隊に加入させたのかって?

    実益としては、源石は彼女の生活に巨大な苦難をもたらしたけど、同時に彼女へ非常に特殊な戦闘の才とアーツを与えている。彼女の能力は正面戦闘でも、単独行動でも、潜入任務であろうと発揮されるからね。

    個人的な話をすると、彼女はゆったりとした速度ながら、確実に学びの歩を進めている。以前の彼女は、他の人に指示されたり、他の人が喜ぶと思って行動することが多かった。彼女が「あたしも戦いたい」と言った時、私とA9教育部門のみんな、孤児院のエオストレさんも一緒になって喜んだよ。彼女は私たちを「喜ばせる」ことを望んでいるみたいだけど、少なくとも彼女は自分のやりたいことが見つかったんだ。私たちは彼女の決定を尊重しなくちゃね。

    私を含めたほとんどの人があの子を子供だと思ってるけど、彼女はもう小さくない。私個人の同意があっても、財団は一生彼女を養えるわけじゃないし、彼女も薄々それに気づいてるだろうね。これが、彼女が大人になる第一歩なんだ。

    ──フローライト
    隊員が隣に寄り、ポーズを真似て、不服そうな表情でマリアンヌの手にタッチした。マリアンヌは我に返り、両手を中途半端に上げたままミストを見つめた。

    フローライトはほっと胸をなでおろした。
    「計画失敗かと思った、銃が出てこなくて、助かったぁ……」
    彼女は周りをちらちらと確認したが、蛇の手たちはこの出来事に大した反応を示していなかった。

    起き上がった少年はハッとして服についた汚れを払う。そして何も気にしていませんといった態度で、うやうやしく隊員たちに頷いた。
    「市政庁へようこそ、お待ちしておりました」

    マーキュリーは眉をひそめ、目の前の「少年」をじっくり見た。
    「あれ?君も蛇の手なの?」

    少年は頷いた。
    「あなた方をお迎えに上がりました」

    「悪いけど、私たちはロンディニウムの蛇の手とは何度も顔を合わせてるから詳しいよ。君とは会ったことないよね?」

    少年はザ・シャード地下の大広間へ向かった。
    「今日は重要な人物を迎えるためにみんな出払ってしまったので、臨時で僕が案内役を務めることになりました」

    「重要な人物?私たち、タイミング悪かったかな?」

    「いえ、ぴったりですよ。あのお方はあなた達に会いに来たのですから」

    フローライトは数人の隊員と目配せした。あのお方?正体不明の重要人物の出現は、不測の要素が作戦計画にリスクを生む可能性が増えたことを意味している。
    ミストが少年の隣に駆け寄って尋ねた。
    「あのお方ってさー、美人?」

    少年は考え込んだ。
    「美人とか美人じゃないとかというより、なんというか、神秘的な感じです」
    そしてミストに向けて照れくさそうに笑った。
    「実は僕、あのお方がどんな人か知らないんです。僕はただの道案内と伝言の役ですから。あなた達が会った後なら、誰だかわかると思います。でも、もしあなた達があのお方に伝えたい事があるなら、先に僕に教えてください」

    「んーとねぇ」
    ミストはマーキュリーの傍にいるマリアンヌの方へ振り返った。
    「あたしたちが連れてきたこの子は現実改変者なんだけどさ、前みたいに手から銃を出せなくなっちゃったんだ。能力が変わったみたいなの」

    少年はメモ帳や携帯端末などを取り出すことはなく、ただマリアンヌを見て「能力の統計情報に間違いがあった?」と問いかけた。

    「間違いじゃないもん。前送った時は間違いじゃなかったけど、今はもう違うから、更新しなきゃだね」

    「今の彼女の能力は?」

    ミストは両手を広げた。
    「ぜんぜん、なんもなし。機械の数字はあの子が現実改変者だって言ってるけど、もうなんにもできないみたい」

    一行は大広間のドアの前に到着し、蛇の手構成員は隊列を離れ左右に捌けた。少年だけが先頭の案内人の位置から動かず、ドアをノックした。

    「彼女はまだ図書館行きを望んでいますか?それとも別の場所へ?」

    軋んだ音を立ててドアが開き、一行は中へ入った。

    「そりゃもちろん、あたしたちが何のためにやって来たと思ってるのさ」

    「その子の口から、直接聞かせてもらいたいわ」

    ミストにはどうして少年がそんなことを言ったのか一瞬理解できなかった。護送対象を事前に検査するのは普通だからだ。だが少年には足を止める意思が見受けられない。その時、彼女はこの言葉が少年から放たれたものではないと気づいた。

    そのがらんとした言葉は大広間の中央から響いていた。その場にいた全ての蛇の手構成員は口を閉ざして、声の生み出す静寂を深めていた。まるで目覚めの一声を演出するかのように。

    先頭にいた少年が地に倒れた。今度は誰とぶつかったわけでもない。少年の衣服はたちまち支えを失い、体は黒い塵となって空気中に散逸し、衣服だけが足元に落ちた。

    さっきまで「新聞売りの少年」だった、大広間の中心にいる「あのお方」に、隊員たちの驚愕の視線が向けられた。その影は少年が潰えて残った黒塵より黒く、ヴィクトリアの子夜と比べても尚黒い。高貴、神秘、威厳。これら全ては、その影を彩る形容詞である──黒の内に虚空はなく、闇の中にこそ多くのものが隠れる。その者こそ、暗闇に潜むもの全ての領主。

    マーキュリーの思考は突如として停止した。いかなる逃走反応も、いかなる意識的動作もできない。マーキュリーの体はその瞬間、本能的な極限の恐怖に支配されていた。彼女はその一対の黒翼を持つ人物を、恐怖の根源の名を知っている。

    蛇の手の指導者L.S.、本名アリス・チャオ、三千界の魔法を統べる君主にして革命者。

    またの名を、黒の女王。



    ヴィクトリア ロンディニウム
    ヤーナム街44号B


    「素敵な香りだし、しつこくなくて、シンプルな感じね。けど……」

    メラノデンドロンは店の商品の世話をしながら、客の要求に耳を傾けていた。連絡拠点の仕事はあれど、本業の花屋のほうで手を抜く訳にはいかない。

    「ではお客様、こちらの鉢はいかがですか?香りは先ほどの鉢と似ていますが、こちらはより丈夫で、手入れが簡単なんです」

    花を買いに来た女性の表情がみるみる明るくなった。
    「もっと見せてちょうだい」

    店に来る客の好みはわかりやすい。目の前の女性は軍服を着ているので尚更だ。「批判的なトマト」は小さな店舗で、大口の注文をする顧客もなく、住宅街からも離れている。そのため花を買いに来るのは専ら周辺の政府エージェントや近隣に駐在する軍人だ──連絡拠点の立地を選ぶ際に、意図的に官庁街に近い場所を選んだ結果だ。

    ヴィクトリアの軍人と政治家が花を買いに来る理由は二つ──ご機嫌取りのプレゼント、或いはただの置物。だから手に入れた後は世話すらしないのが普通だ。それでも買ったばかりの花がすぐに枯れてしまってはバツが悪いため、彼らは多少なりとも丈夫な品種を求めて店に訪れる。

    メラノデンドロンが鉢植えを指差した時、携帯端末が突然鳴った。やむを得ず客を残して電話に出た彼女は、緊張した面持ちで振り返り、一言残して走り去った。
    「私は急用で少し離れるので、ご自由にご覧ください!」

    女性は呆然とした表情で呟いた。
    「どういう状況?」

    「もう少し持つかと思ったのに」

    鉢植えの丈夫な花は、彼女が触れた途端に腐蝕し散った。



    ヴィクトリア 鏡像のロンディニウム


    マーキュリーは黒の女王が直接現れるなど微塵も予想していなかった。彼女は一瞬の判断で、法の左手の天使たちがマリアンヌを迎えに来られるように、手元の通信機を起動しようとした。だが動こうとした時、フローライト隊長が張り詰めた表情でこちらに視線を向けながら首を横に振るのが見えた。

    黒の女王がこちらを見ている。その瞳は一切を見抜くようだった。

    マーキュリーは隊長の考えをはっきりと感じ取り、息を呑んだ。次に、黒の女王が自分の考えをはっきり感じ取らないように祈った。

    黒翼と荊棘を身に纏う女王は、その場を動かぬまま手をかざす。すると数人の蛇の手構成員がマリアンヌに近づいた。
    「彼女の能力に問題があると言ったわね?」

    フローライトは頷いた。
    「はい、女王陛下。彼女はまだ現実改変者です、ただ……」

    「その前もってでっち上げたくだらぬ戯言を、もう一度繰り返そうとしないで」

    フローライトは口を噤んだ。
    「おまえたちの言葉にどれほどの真実が含まれているか、確かめてあげる」
    黒の女王が命令を下すと、蛇の手たちは空中に掲げたいくつかの複雑な立体呪符を操作し、マリアンヌを取り囲んだ。
    「おまえたちの言葉が本当なら、それで結構。しかし嘘をつくならば、蛇の手がマリアンヌの後見人の役割を引き継ぎ、おまえたちには相応の罰を与えましょう」

    時間は緩慢に流れ、検査の過程は痛めつけるように長い。魔法である程度楽ができるとはいえ、蛇の手はじっくりと長時間かけて仔細に検査し、マーキュリーが見たこともないようなアーツや計器がいくつも持ち出された。マリアンヌが呪符に囲まれ立ちすくんでからどれほどの時間が経っただろう。ついに一人の構成員が黒の女王のもとへ駆け寄った。

    「異常は見つかりませんでした」
    蛇の手構成員は報告する。
    「能力レベルは確かに正常ですが、発現がありません」
    黒の女王は頷き、彼らを追い払う。そして怯えるサンクタの少女に近づいた。彼女は手を伸ばしてマリアンヌの顎に触れ、品定めするように見つめた。
    「本当にすべて検査したのね?」
    問いかけに肯定的な答えが帰ってきても、手と目つきはそのままだった。

    「二つの可能性があるわ。まず、財団が現実改変者に自らの現実改変能力を失ったように思い込ませる技術を有すること。次に、この子がただ彼らの言いつけを守り、能力を使わないように我慢していること」

    「どちらにせよ」
    黒の女王がマーキュリーに向かって振り向く。
    「この子とおまえはとても仲が良いから、おまえの言う事ならよく聞くだろうね」

    突如、向けられた眼差しは黒く重たい鎖へ変わった。マーキュリーは手足が不可視の力で縛り付けられ、全く動けなくなったことに気づいた。周りの仲間たちも動きを止められ、声すら出せずに、歯を食いしばることしかできなかった。

    一振りの漆黒の大剣がマーキュリーの目の前に形作られる。顔を上に向けさせられると、剣の切っ先は彼女の右目の間近にあった。両目の瞳孔が収縮する。

    それは右眼球の至近にあり、わずかな瞬きと震えでも彼女を失明させられる。

    マーキュリーの視界の外で、マリアンヌは顔に驚きと恐怖を深々と浮かべていた。意識を少し取り戻した彼女は突然の興奮状態になり、必死になって黒の女王の左腕にしがみついた。

    「やめて!あの人を傷つけないで、彼女は関係ない!あなた達の狙いは私でしょ!お願いやめて!」

    切実な訴えも、黒の女王の掲げられた手を動かすことはない。表情さえ変わらなかった。彼女は指を動かし、漆黒の大剣は上昇していく──その緩慢な動きは安堵をもたらすためではなく、より強い勢いをつけるための動きだ。

    「三つ数えてあげる」

    剣が再び空中で止まる。

    「三」

    仲間たちの怒りの眼差しが漆黒の刀身に反射する。

    「二」

    絶望がマリアンヌの顔に満ちる。

    「一」

    マーキュリーは両目を固く瞑る……

    空気を切り裂く音が響いた。重剣は地面に突き刺さり、鋭い衝突音を立てた。

    やがてマーキュリーは突然に体から力が抜け、地面にへたり込む。額は大粒の汗で濡れ、にわか雨に降られたようになった。彼女は息を切らしながら大きく震える手で顔の右半分をなぞり、自分が本当に生きているかどうか確認した。仲間たちの手が必死に自分を支えてくれてようやく、マーキュリーは過度の緊張によるしばしの目眩を感じた。

    黒の女王の足元で蹲り、恐怖で号泣するマリアンヌ。その手中には、未だ硝煙を吐き出す銃が握られていた。まさにこの銃が剣を弾いたのだ。

    「ずっとずっと昔、おまえたち財団は幼い少女に同じことをした。反吐が出るけれど、確かに有用ね」
    黒の女王は頷く。
    「おまえたちが芝居をここまで徹底するとは思わなかったわ。この子は自分の能力を失ったと信じ込んでいた」
    彼女はマリアンヌの握っていた銃を取り上げ、彼女を立たせた。

    「ああそうだ、あの天使たちに伝えておいてちょうだい。次からはアイスクリームワゴンではなく、別のものに隠れなさい、と」



    ヴィクトリア ロンディニウム
    ヤーナム街地下停車場


    一台のアイスクリームワゴンの残骸が燃えている。

    ローブを纏った無言の蛇の手構成員たちは、残骸を取り囲むことを止めた。代わりに、緊張した様子で敵に立ち向かおうとするメラノデンドロンを包囲しかけていた。数本の長い藤蔓がメラノデンドロンの足元に芽生えるも、敵の歩みには抵抗できそうになかった。

    案の定、指を鳴らす音がどこかで響くと同時に、藤蔓はたちまち炎の中で灰塵になった。

    蛇の手たちは既にメラノデンドロンを捕まえた後どうするか皮算用していた。冷笑か下卑た笑いか分からないような声の中、メラノデンドロンは壁の隅に追い詰められた。

    「ヴィクトリアの民度もこの程度かよ?」

    暗闇から声が響き、暴れるメラノデンドロンの体を押さえつけていた蛇の手構成員の動きが止まった。闇から数人の人影が近づいてきた。全身に狂気を滲ませた少年は弧を描く口元を隠しもせず、一歩前に出た。

    「よぉヴィクトリアの紳士諸君、あのサンクタの少女マリアンヌの居場所をご存知かな?さもなくば、テメーらのお楽しみはここまでだぜ」モスai-mohs.jpgコードネーム:モス
    性別:
    戦闘経験:六年
    出身地:カズデル
    誕生日:1月23日
    種族:フェリーン
    身長:173cm
    鉱石病感染状況:体表に源石結晶の分布を確認。メディカルチェックの結果、感染者に認定。

    個人履歴:悪名高き元傭兵。かつてカズデル内戦で術師として活躍し、戦闘では巨大なアーツロッドを使用した。ハイリスクな武器の頻繁な使用によって重度の感染状態となった。

    感染はモスに極めて高いアーツ耐性と物理耐性を与えた。テスト中、彼の体表源石結晶は一般的な単独兵の装甲を遥かに超える防御性能を発揮した。

    サイト-A9偵察小隊に特殊感染者として収容され、銃器使用訓練を受けた後に偵察オペレーターとして調査の一線で活躍した。

    健康診断:造影検査の結果、臓器の輪郭は不明瞭で異常陰影も認められる。体表に大量の源石結晶分布が見られる。循環器系源石顆粒検査の結果においても、同じく鉱石病の兆候が認められる。以上の結果から、鉱石病感染者と判定。

    【源石融合率】16%
    体表に結晶が多く、病巣は体の各所にある。左腕の感染状況が深刻であり、現在強化治療を受けている。

    【血液中源石密度】████████
    ████████████████████████,██████████。██████████████████████████████,████████。

    詳細プロファイル:

    [権限不足]
    という名の傭兵は笑いながら言った。



    ヴィクトリア 鏡像のロンディニウム
    ザ・シャード 地下大広間


    蛇の手の術師たちは大広間中央にいる小隊一行を迅速に包囲した。

    普段のイカボッド小隊ならこの程度の術師に手こずりもしない。だが、今の状況は彼女たちに焦りを生んでいた。先ほど突然動きを封じられたショックを、それぞれの心が引きずっているのだ。彼女たちがこの術師を倒したところで、どうやって黒の女王の手中からマリアンヌを取り戻せるだろうか?

    嘘には代償が必要だ。黒の女王の瞳がそれを訴え続けている。今は全員揃って撤退できるかどうかさえも怪しい。そして、彼女はなぜ天使たちのことを知っていた?サンクタたちに何が起こった?隊員たちの頭は混乱状態だ。

    包囲網がまた一歩狭まり、アーツの輝きが術師たちのアーツロッドの間を跳躍する。マーキュリーは仲間を助け起こそうと足掻き、心底では自分もショックから早く立ち直ろうと奮起していた。黒の女王は嘲笑い、マリアンヌの手を引いて立ち去ろうとする。

    「この人でなし、彼女を戦場に送るつもりね!」

    黒の女王は足を止め、蹲って泣きじゃくるマリアンヌの方へ振り向いた。
    「理想的な答えを言ってあげようか、可愛いマーキュリー。私たちが、あの森で話し合った時のように」
    彼女は術師たちと対峙するマーキュリーを見た。
    「この子は生まれながらの戦士、戦場でしかその才能を発揮できない。それがこの子の、天が定めし居場所よ」

    「おまえたちの薄っぺらな道徳は彼女が戦場で死ぬことばかりを考えるけれど、彼女の栄誉に考えを巡らせたことはあるかしら?それがおまえたちのやり方、超常の人を檻に閉じ込めて、安全を確保した気になっている。保護、保護、口先ばかり。どうして命をただ長引かせることが、与えられた奇跡よりも意義があるなどと思い込める?天より賜った奇跡が最大の輝きで燃え上がるのを、どうして彼らのためと言いながら消してしまえる?」

    彼女はマリアンヌに視線を戻す。
    「言ってしまえば、おまえたちの考える通り、蛇の手は異常へ心酔し信奉する組織よ。戦場での犠牲なんて気にすると思う?私たちは理想主義者ではない。そして、おまえたちもまた、目的のためなら手段は選ばないでしょう?」

    「私たちが去ってから始末しなさい、この子には見せないようにね」
    黒の女王はそれ以上何も言わずに、振り向きもせず蛇の手の列の中へ去っていく。

    大広間の四方の天窓が突然砕けた。ガス灯に照らされていた鏡像のロンディニウムの薄暗い空に代わり、夜明けのような光芒が市政庁の片隅に差し込む。窓は圧力で割れ、そこから粘り気のある膿がゆっくりと流れ込んだ。

    破暁の光が照らす片隅で、数人の蛇の手が絶叫しながら死に、その体は同じ膿へ変貌した。夜明けの真犯人──スパークai-spark.jpgコードネーム:スパーク
    性別:
    戦闘経験:三年
    出身地:不明
    誕生日:不明
    種族:リーベリ
    身長:163cm
    鉱石病感染状況:メディカルチェックの結果、非感染者に認定。

    個人履歴:スパーク、元旅医者、A9の収容協議を経て、特殊小隊の一員として活躍する。

    健康診断:造影検査の結果、臓器の輪郭は明瞭で異常陰影も認められない。循環器系源石顆粒検査においても、同じく鉱石病の兆候は認められない。以上の結果から、現時点では鉱石病未感染と判定。

    【源石融合率】0%
    鉱石病の兆候は見られない。

    【血液中源石密度】0u/L
    種族や体質が原因で、スパークの身体構造は源石と相容れず、アーツも使用できない。

    詳細プロファイル:

    [権限不足]
    は自身の光を消して窓からザ・シャード地下大広間に飛び込んだ。他の同行した傭兵たちが後に続く。傭兵は容赦をしない。

    凶悪な笑みのモスは空中で巨大なアーツロッドを振り回し、その衝撃波を蛇の手の人だかりへぶつけた。彼は標的を定めていないかのように、アーツを片っ端から目についた相手の顔面に叩き込む。そして殺意を露わにすると、何も標的のない、或いは何もかもが標的のアーツを放った。

    黒の女王は翼を瞬く間に鋭利に尖らせ、放つ。飛翔する黒羽は蛇の手を避けて傭兵たちに向かった。モスは回避行動でリズムを乱され、騒乱の戦場は一瞬だけ静まった。傭兵が一人、片手で首根っこを掴んでいた敵を放り捨て、空中を跳ぶモスをぴったりの力で受け止めた。

    「開幕から面倒なことやりやがって……」
    コロナai-corona.jpgコードネーム:コロナ
    性別:
    戦闘経験:なし
    出身地:カズデル
    誕生日:不明
    種族:フィディア
    身長:169cm
    鉱石病感染状況:メディカルチェックの結果、非完成者に認定。

    オペレーターは自身の誕生日を覚えておらず、頑なに初めて毒液を分泌した日付:4月3日を使用した。──某医療オペレーター

    個人履歴:コロナ、幼少期にカズデル地域内某無人地区でサイト-A9主導救助チームに救助され、成人後は一連のオペレーター養成潜在能力テストに順調に合格し、予備オペレーターとして本艦に勤務。主に後方勤務戦術立案と医療部門毒理学顧問を兼任していた。

    健康診断:造影検査の結果、臓器の輪郭は明瞭で異常陰影も認められない。循環器系源石顆粒検査においても、同じく鉱石病の兆候は認められない。以上の結果から、現時点では鉱石病未感染と判定。

    【源石融合率】0%
    鉱石病の兆候は見られない。

    【血液中源石密度】0.11u/L

    コロナの体調は非常に安定しており、医療部門に常に出入りしているも、鉱石病の兆候は完全に見られない。ああ、間違いない。初期感染症状を自発的に抑えている?どうやって、何を使って?薬剤か?まるで童話だな。──某医療オペレーター

    詳細プロファイル:

    第一資料

    コロナは基本的に独学ながら、毒理学に非常に熟練しており、種族的な才能の影響を受けた創造力は人に深い印象を残す。若くしてテラの大地で発見された主要な毒物と解毒法を熟知しており、医療部門の多くの先輩達からも一目置かれていた。

    その他にも、この若者には高い戦術の立案・計画能力がある。幼い頃から医療部門の見習いとして育てられたため、彼女には実戦指揮の知識があまり多くない。しかし数回の出撃を経て、オペレーターたちは彼女に適切なタイミングで適切な方法を以て戦場に切り込み、精密で有効な毒物投与を遂行する能力があると発見した。この能力は作戦の進展を大きく推進し、局面を変えることさえできた。

    複数人のエリートオペレーターからの推薦によって、彼女はロドスでも指揮と計画について研修を受け、突出した成績で学業を終えた。

    第二資料

    「コロナはどこに行った?」
    「どうせまた宿舎のどこかの床でうつ伏せに寝てるんじゃない?」
    種族的な理由で、コロナの毎日の睡眠時間は艦の平均を大きく上回る。彼女は宿舎備え付けのベッドをほとんど使わず、代わりにツルツルの床を好む。ある猛暑の日、コロナが床の上で眠っていると、高温に苦しんでいたオペレーターが彼女の涼やかな体表に惹かれ、もたれかかり体を接触させるなどの行為に及んだ。しかしコロナは生まれつきの温和な性格から気に留めなかった。このような状況は冬季には基本的に発生しない。

    指揮中枢でも医療部門でも彼女が見つからないなら、彼女は宿舎の床の上にいる。

    第三資料

    最初にコロナが発見された場所、そこは瘴気と黒い水が蔓延る沼地だ。そういった沼地はカズデルの至る所、貧しい村の周辺に鎮座し、沼地からは村で捨てられた幼い子供の不気味な白骨がたびたび見つかる。

    本艦がそういった荒れ地を通過しようとした時、常時起動中の希少目標探査システムが反応した。

    希少目標探査システムは非常に古いAIシステムで、サイト-A9の船員のほとんどはその動作原理に詳しくない。しかし、それが常人には得られない秘密を握っているのか、それとも単に同類だからか、R.E.aicはその判断を常に信頼していた。

    数時間の捜索を経て、オペレーターたちは水草の塊から息も絶え絶えのコロナを抱え出した。システムは常に正確で簡素な判断をする。「彼女を確保せよ、将来必ず役に立つ」。

    「そうかもしれない」宿舎の床の上でぐっすり眠るコロナを見ながら、オペレーターたちは時々そう思った。

    第四資料

    コロナはいつも床の上で寝ているわけではなかった。

    音もなく重苦しい真夜中、彼女は突然目を覚まし、膝を抱えてどろりとした暗闇を見ながら意味もなく放心した。

    カズデルの静かな沼地から来る腥い臭いは、千里離れた艦船の上だろうと鼻先をくすぐるような気がしなくもない。

    その他にも、コロナが目を逸らせないのは、悪夢からの深長な呼び声だ。沼の底で黙って佇む何者かは、秀でた体を持ち、爛々と輝く二つの瞳は真っ直ぐにこちらを向いていた。両足は猛毒の汚物に塗れるも、その影は動じない。口の中で反復する叫び声は、呪文の如く夜な夜な夢で聞く、聞き慣れた、聞いたこともない音節。「[とある高レベルクリアランスユーザーの要求により削除]」。

    それが、彼女がある日サイト-A9を離れたことが発覚した理由の一つだろう。彼女はカズデルの戦争の泥沼へ帰ったのだ。

    第五資料

    自身の出自は、コロナが最も気にかける謎に違いない。フィディアの中でも彼女の毒の扱いは抜きん出ていることに、財団の同僚は気づきつつあった。

    ほとんどの研究員は、彼女の毒物把握能力と戦略指揮能力を切り分けて考えているが、彼女をよく知る人間は通常それに否定的な態度をとる。戦場に出たコロナは、ある種の本能に突き動かされているように見えるのだ。

    彼女は自分が何をしているのか、何ができるのか知っている。毒は体の奥底から湧き上がり、耳となり、目となり、手足の延長になる。

    この本能はまだか弱く荒削りだが、数年前の希少目標探査システムの判断や、R.E.aicがそれを認めたことを信頼するメンバーは増え続けている。

    コロナがカズデルに戻り、敵対的要注意人物──傭兵組織“カオス・インサージェンシー”のメンバーとなっても、R.E.aicは彼女の技術に対する評価を変えていない。

    いつの日にか、彼女は毒を凝集させた手で戦場の天秤を動かすだろう。
    はモスを放り投げ、もう片方の手で首を掴んでいた蛇の手を中毒死させた──軍服を着た彼女こそ、メラノデンドロンに花を勧められた女性の正体だ。

    「まさか、コロナ眠くないの?」
    スパークが二人に近寄った。彼女はそこら辺に落ちていたローブの切れ端で手のひら一面の粘り気のある膿を拭う。
    「今はすごく元気だよ」

    「太陽のない都市なんて興奮すんだろ、お前とは違うんだ」
    モスは空中のアーツロッドを振り回す。
    「おい、テメーら聞いてっか!その女の子を渡せ、こちとら早く帰って寝たいヤツが居るんだよ!」

    コロナはモスの後頭部に強烈な平手打ちを叩き込んだ。

    「そう言われて素直に渡すとでも思ったかしら?」
    黒の女王はマリアンヌの手をまだ離そうとしない。一人の蛇の手が女王に耳打ちし、彼女に傭兵たちの情報を報告していた。それを聞いている最中、彼女の目は突然大きく開かれた。

    「別に渡さないなら渡さないでいいぜ、俺らもその女の子は要らねえし」
    モスはアーツロッドを振り上げて声高に叫ぶ。
    「どうせ雇い主からはその子を殺せって言われてるからなぁ!」

    CG-Mohs.jpg

    「何が起こっているの……」
    傭兵たちが挨拶もなしに攻撃し始めたのを呆然と見ていたマーキュリーは、ミストに手を引かれて大広間の柱のそばに移動した。
    「なんだよこれ!」
    別の柱のそばでひっくり返っていたフローライトも、起き上がらないまま叫んだ。

    目の前にいる傭兵たちはイカボッド小隊にとっても決して他人ではなく、戦場で何度も交戦した仲だ。傭兵たちはサイト-A9と財団に何度も手を出し、財団に大きな損害を与えていた。この傭兵たちはまるで自分が正義の味方であり、財団は不倶戴天の敵であると思いこんでいるようであった。

    黒の女王は未だに一歩も動かず、全ての攻撃をその翼でいなしていた。
    「旧世界の遺産の継承者がまた一つ」
    砲火の中で黒の女王は嘆く。

    「おまえたちは本当に、カオス・インサージェンシーを名乗るというの?」



    ヴィクトリア ロンディニウム
    地下工業構造層


    「ゲホ、ゲホッゴホッ、うう……」

    アマニタとメラノデンドロンはアンタレスの反応を見て、慌てて状態を尋ね始めた。アマニタは泣きながら胸元に飛び込んだ。
    「隊長!隊長、意識が戻ったんですね隊長!目が覚めた!目が覚めて良かったです──」

    「うっ、ゲホッ、ゲホゲホッ」
    アンタレスは吐血した。
    「何を泣いている、私が、ゲホッ、死んだら泣きながら、ゲホゲホッ、守護銃を回収するつもりか?」

    サダルスードがどうにか起き上がろうとしていたアンタレスに手を差し伸べる。アマニタは顔に涙の跡を残しながら、隊長の胸元から離れた。アイスも片手で反対側の腕に薬を塗りながらやって来た。全員傷だらけだが、ひとまず生きている。

    「メラノデンドロンは何故ここに?」
    アンタレスは自分を治療している庭師を見た。
    「そちらの情報は?何が起こったんだ?」

    「サダルスードさんが録音した緊急メッセージを届けてくれたので、急いで来たんです」
    メラノデンドロンはサダルスードの腰にある通信機を指差す。彼女は経緯を簡単に話した。アイスクリームワゴンが爆破されているのを発見し、現れた蛇の手に植物で応戦し、捕まってから蛇の手とインサージェンシーの衝突に乗じて逃げ出すまで。最後の部分まで聞いたアンタレスは眉をひそめた。

    「カオス・インサージェンシー?」
    声を出したのはアマニタだった。サダルスードは首をひねって新人の方を見た。
    「知ってるのー?なんでー?最近の新人って怖いねー?」

    「第零庁や法の左手でなくとも、あいつらのことは知っています」
    アマニタの表情は険しくなっていく。
    「護衛隊にいた頃から、あいつらに関する話は聞いていました。カズデルの凶悪な傭兵勢力で、カズデルの外の国々、さらにラテラーノにも奴らの活動記録やそれと疑われるものがありました。多くのサンクタのキャラバンがあいつらの略奪に遭い、死傷者は少ないといえど、大きな損害を受けていたんです。あの傭兵たちが各国の裏社会や反政府組織と繋がっているのは知っていましたが、第零庁に入ってから超常事物との関わりも深いと知りました」

    「予習が完璧って褒められたことはあるー?」
    サダルスードは称賛しながら頷いた。

    「やるか?」
    アイスが率直に尋ねたが、アンタレスは首を横に振った。
    「我々も鏡像のロンディニウムに向かう、まずはイカボッド小隊の周囲を見張り、状況が悪いようなら手を出そう」

    彼女は続けてメラノデンドロンに言った。
    「君にはもう少し頑張ってもらうぞ。まず店に戻り、状況をサイト-A9に報告して、すぐに返答するよう伝えてくれ。特にカオス・インサージェンシーの件については、ペンタゴン総指揮官との直接通信を要求しろ。ラテラーノ側へは、教皇庁第零庁の専用回線を使って簡潔に報告しておけ。間違っても公共回線は使うなよ、外交問題になる。もし我々から重大状況の通達、もしくは……一時間以上連絡がなければ、サイト-A9に我々が全滅したと報告し、計画通りロンディニウムから速やかに離れろ」

    アンタレスはメラノデンドロンからの返事を待たずに、アマニタとサダルスードの手を借りてなんとか立ち上がる。背中には守護銃を背負った。
    「その傷……」
    メラノデンドロンはアンタレスを力づくで引き留めようと思ったが、その手は途中で止まった。アンタレスが微笑む。

    「止めようとしても無駄だ、連絡を頼む」
    彼女はメラノデンドロンの肩を軽く叩いた。



    ヴィクトリア 鏡像のロンディニウム
    ザ・シャード 地下大広間


    スパークの放った光芒によって死んだ蛇の手の数はますます増えている。彼らの体は全て粘り気のある膿に変わり、元の形に戻ろうとしても、奇妙に歪んだ姿にしかならなかった。しかし、彼女の光芒は全てを照らし尽くすことはできない──蛇の手が放った黒い濃霧が彼女をすっかり包み込み、時折濃霧から漏れる光線が死者を出すだけだ。

    コロナは別の相手と鍔迫り合いをしていた。跳ねた毒液は空中に死の印を描くも、なぜだかスカートを履いた少女には通用しない。ただ見た目通り素早いだけなら、コロナもとやかく言わない。だがこの少女は必中の罠へかかる度に、毒液で取り囲まれるより早く、朧げな二重の影になって目を眩ませる。そして冗談めいて「死が目を逸した隙に」安全な場所へ逃げているのだ。切り結ぶ度に、コロナは眠気が吹き飛び、困惑と焦りばかりが増していく。彼女は確実に少女のスカートが毒液で腐蝕される瞬間を何度も見たが、一秒後には何事もなかったような状態に戻っているのだ。

    回避行動を兼ねながら、スカートの少女はミストの隣へ飛び込んだ──その時のミストは「持続的にインサージェンシーを迎え撃ち、間欠的に蛇の手を襲撃する」最中だった。忙しない状況ながらも、いたずら小悪魔は蛇の手の背中を踏んづけ、少女を襲おうとした蛇の手が反応するより速く首を捩じ切った。

    「あんた誰?フィイ、それともディナ?」
    ミストは少女に冗談めかして聞いた。毒矢が少女の顔に当たり、まっすぐ通り抜けて地面に落ちた──体が点滅し、本物の少女は二歩離れた場所にいた。

    「んあ、さっきまでディナで、今フィイになったんだよね?うげーめんどくさ、いつになったらフィイディナって呼んでも良いよって言ってくれるの?」
    別方向からのアーツ攻撃を避けていたミストは、うっかりスカートの下の綺麗なすねに引っ掛けられ、床に転がる。見上げれば、フィイai-fie.jpgコードネーム:フィイ
    性別:
    戦闘経験:二年
    出身地:ヴィクトリア
    誕生日:8月1日
    種族:サルカズ(疑わしい)
    身長:155cm
    鉱石病感染状況:疑わしい、暫定的に感染者に認定。

    個人履歴:フィイ(双方の同意により、コードネームは「フィイ」で登録)、経歴不明、イースターエッグ孤児院に引き取られ、成人後にエオストレの推薦によってA9に加入。

    健康診断:「フィイ」として造影検査した場合、臓器の輪郭は不明瞭で異常陰影も認められる。循環器系源石顆粒検査の結果においても、同じく鉱石病の兆候が認められる。以上の結果から、鉱石病感染者と判定。しかし「ディナ」として検査した場合、上述の症状は認められず、血液中源石密度も正常範囲内である。

    【源石融合率】7%/0%

    【血液中源石密度】0.25u/L/0.13u/L

    鉱石病が非常に特殊な影響を与えており、簡易的診断では感染型解離性障害と判定されたが、実態はより複雑である。さらなる治療と研究が早急に必要。

    詳細プロファイル:

    ヴィクトリアでは、童話はどの子供も触れる物語の媒体である。だがワンダーランドを描く童話もあれば、恐ろしい「黒童話」もある。それらは子供たちを脅かすため創作されたものであれ、この大地の苦難を映したものであれ、確かに存在している。不幸にも、フィイはそういった「黒童話」の表れだ。

    フィイは彼女の出生と家族を知らない。幼い頃に凶兆として捨てられたからだ。彼女の体には明確なサルカズの特徴、例えば角と尾が全くない。その代わり、彼女はある種の非常に特殊な「二重人格」の形態を持っていた。鉱石病による解離性障害は珍しいものではないが、フィイの症状は実際には二重人格ではなく、全く異なる二人の人間が一つの体に宿っているのに近い。人格が切り替わると、自己認識が変わるだけでなく、身体の状態、能力、更にはアーツまでが同時に変化する。

    実際は、フィイがサルカズかどうかすらも定かではない。フィイの別人格(緑の瞳を持つ)は「ディナ」と名乗り、自分はフェリーンであると主張する。明らかに、彼女の体にはフェリーンの特徴が何ら存在しない。フィイとディナの経歴はヴィクトリアの民間童話「チェンジリング」に非常に似ている。簡単に言うと、この童話はいたずら好きな神秘生物が夜に赤子や幼児をすり替え、自分が元の子供に扮するという内容だ。フィイとディナの主導人格は一般的にフィイで、童話に則れば、フィイがディナの社会的地位に取って代わったということになる。しかしいずれにせよ、彼女(たち)は既に生まれた家庭から捨てられ、記憶に残る幼い頃の生活の中でも差別を受けていた。

    そういった厳しい環境の下、フィイとディナの人格は珍しく和解に至ったのかもしれない。彼女たちは協力して、彼女たちへ悪口を言った人へ報復することにした。ディナのアーツは存在感を希薄にし、フィイのアーツは他人の見た目、性格と能力を短時間模倣できる。報復と言ったものの、実際の彼女たちの行動はいたずらに近く、最終的には街の人々みんなが彼女にちょっとした恐怖心を抱くようになった。

    数年の流浪生活の後、彼女(たち)はエオストレさんに発見され、イースターエッグ孤児院に引き取られた。彼女たちはここで比較的愉快な子供時代を過ごし、いたずらもエオストレさんや他の子供たちの反感を買うことなく受け入れられた。そこの子供たちは周りからの良否判断を鼻で笑うため、彼女たちの心もある程度の慰めを得た。サイト-A9とイースターエッグ孤児院の長期協力の下、フィイの優れた能力と本人の強い意志によって、成人したばかりの彼女はフローライト率いるイカボッド小隊のメンバーに抜擢された。

    「ディナが元の子供だとしたら、フィイはどこから来たのでしょう?一体どんな種族?また、どうやってこのような共生を成し遂げたのでしょうか?彼女たちのどちらも答えてくれません。まあ、彼女たちの今の様子からすれば、こんな問題はとっくに気にしなくなったのでしょうね。一緒に生活する相手がいるのは良いことです!」
    ──カサブランカ
    はウインクしながら舌を出す変顔をしていた。

    「あたしを忘れるなよ」
    ミストとコロナは同時にそう言った。片方は笑顔で、もう片方は歯を食いしばりながら。

    カオス・インサージェンシーの全員が大広間の中央で殺戮を繰り広げているわけではない──それが蛇の手が最も恐れている点の一つだ。この傭兵たちは突入直後に散開し、何人がどの場所にいるのかさっぱりわからない。だが衝突が激しくなるに連れ、暗闇からの不意打ちを気にかける余裕もなくなった。

    目の前に居る狂人のモスでさえ手がつけられないのに、他の相手などできようもない。

    だが時間が経つにつれて、黒の女王には傭兵たちの行動パターンが読めてきた。一見して無計画に見える攻撃は、実は敵の退路を断つ意図があったと明らかになってきた。傭兵たちは扉や柱へ向かう蛇の手の動きを優先的に妨害し、ザ・シャード大広間の中央で包囲を完成させようと目論んでいた。

    黒の女王がにわかに羽根の暴風雨を作り出し、攻勢は瞬間的に激しくなる。その時、数人の蛇の手構成員が突然人群れから離れ、大広間の隅へ走り出した。モスは取り乱し、この肝心なたった数秒で、ザ・シャード地下大広間の中央に転送ゲートが現れた。それは放浪者の図書館への入口だ。

    この光景を見てマーキュリーは笑いたくなった。だが今は、笑えも泣けもしない場面だ。



    サイト-A9 機密会議室


    「わたくしにアイデアがあるの」
    マーキュリーとフローライトが会議室を出ようとした時、ペンタゴンはまた彼女たちを呼び止めた。
    「マーキュリー、あなたは放浪者の図書館に詳しいのよね?」

    「まあ詳しいんじゃないかな?子供の頃は蛇の手にいたから、よくあの場所で走り回ってたよ。けど、あの時は連れて行ってもらってたから、入り方はわかんないや。でもペン姉、どうして急にそんなこと聞くの?」

    「わたくしたちは予備プランを考える必要があるわ。予備プランはいくつあっても良いのよ」
    ペンタゴンはやはり薄い笑みを浮かべた。
    「ふと思ったのだけれど、もし蛇の手がマリアンヌを図書館に連れて行こうとせず、こちらに連れ戻すこともできなかったら、どうすればいいかしら」
    二人が考え込むのを見て、ペンタゴンは思わせぶりな態度を止めた。
    「わたくしのアイデアでは、あなた達がアクシデントを誘い、蛇の手が図書館に撤退しなければならない状況を作るの。そうしたらその入口を借りて、マリアンヌを連れて図書館に逃げ隠れてしまいなさい。図書館の噂は少し聞いたことがあるけれど、蛇の手さえ図書館の全てを知るわけではないそうよ。それに、蛇の手は図書館の門番に過ぎず、中で悪事を働くことはできないらしいわね?」

    マーキュリーは頷く。
    「そうだよ。でも、アクシデントなんてどう起こすの?」

    ペンタゴンは薄い笑みを浮かべる。
    「それはわからないわ。わたくしはアイデアを出しただけですもの。実現できると思うなら、あとは自分たちで話し合ったらいかがかしら?」

    フローライトは笑った。
    「それでこそ、ペンタゴンの指揮スタイルだよね」

    その後、アンタレスとフローライトは協議し、最終的に法の左手が鏡像のロンディニウムでザ・シャードを攻撃し、蛇の手を一時的に図書館へ退避させる計画で合意した。アンタレスはこの攻撃を担当するメンバーを配置し、やむを得ない時まで命令を下さないと言った。しかし攻撃について質問されるともったいぶった。フローライトは他のオペレーターとの情報共有が終わっても無言のままだった。アンタレスの陽気な作戦に言葉を失ったからだ。

    法の左手が先に襲撃され、計画の任務が乱入したカオス・インサージェンシーによって成されるなど誰が予想できただろうか。



    ヴィクトリア 鏡像のロンディニウム
    ザ・シャード大広間 転送ゲート周辺


    マーキュリーは猫のような身のこなしで転送ゲートの側面に回り込んだ。マリアンヌを連れて行くタイミングを見計らい、すぐにゲートに向かって全力疾走した。黒の女王はもうマリアンヌから手を離している。女王は数人のインサージェンシーに注意を奪われ、傭兵たちがマリアンヌに向けて放つ矢や榴弾をいくつも防いでいた。

    マーキュリーはアーツロッドを振り回し、数枚のアーツが込められたカードを投げた。カードは蛇の手の皮膚に刺さり、鋭い痛みを与えると同時に、急速に感覚を麻痺させる。その後、カードそのものが大きくなっていった。配置の妙によって、巨大になったカードはマーキュリーの足場になった。彼女は空を舞い、爪先から軽やかにカードへ着地し、周囲の人間の反応が追いつかないうちにゲートの前へ飛び移った。

    「マリアンヌ!」
    マーキュリーは叫び、マリアンヌの注意を引く。
    「私の手を取って!」
    彼女は空中から右手を差し伸べて、蛇の手を振り払おうとするマリアンヌが同じように伸ばした手をしっかりと掴もうとした。

    その時、右の手のひらを銃弾が貫いた。

    激痛により空中で体の制御が効かなくなる。さらに左肩も銃弾に貫かれ、彼女はマリアンヌのそばに墜落した。マリアンヌを捕まえた蛇の手は、音を聞きつけてマーキュリーになだれ込み、重圧が彼女にのしかかった。彼女はアーツでその体を押しのけようとしたが、二回ほど揺らしたところで、自分の背中から鮮血が噴き出すのを感じた。

    銃による攻撃。

    マーキュリーはやっと自分に数発の銃弾が当たったことに気づいた。だが、問題は掃射が行われたことだ。無差別射撃?マーキュリーは急いで立ったままのマリアンヌに視線を向ける。幸いにもサンクタの少女は硬直しているだけで、怪我はなかった。マーキュリーは蛇の手を体の上から退かし、マリアンヌの手を引いて大広間の壁際へ走った。

    三発目の銃弾は鋭い唸り声をあげて、マーキュリーの右臀部を抉り取り大きな傷を作った。

    「マーキュリーお姉ちゃん!」
    マリアンヌの絶叫は、痛みで聴覚を麻痺させていたマーキュリーには届かなかった。再びアーツで痛覚を抑制しようとしたが、マーキュリーは体をコントロールできず、音を立てて倒れた。激しい痛みのせいで視覚の連続性を保てない。それでも彼女には見えた。体から流れ出ていく血がマリアンヌの足元に広がり、重厚な革靴が鮮血を踏んでマリアンヌのそばに立つのを。

    彼女にはザ・シャードの大扉が突然破れ、法の左手の天使たちが飛び込んできたのが見えた。しかし、なぜ二人しかいないのか?彼女は突発的な状況に多くの者が交戦を止め、黒の女王でさえ手を止めるのが見えた。最後に、彼女は聞いたことのない声を聞いた。電子合成のような声を。

    「事態が混乱しているため、テレシスの意に従い直接この少女を迎えに参りました。蛇の手の皆様方、ご苦労様でした。後は我々にお任せください」



    ヴィクトリア 鏡像のロンディニウム
    ザ・シャード 地下大広間


    先ほどマーキュリーが見落としていたのは、大広間の壁の高いところから天使が一人落ちてきてフィイに偶然受け止められた場面。続いて二人の天使が大扉を破った場面だ。この二人の天使は象徴的に数発撃ち返したものの、目的は明確で、落下した人物に向かって走っていった。扉から走ってきたのはアンタレス、アマニタを引き連れている。窓から落ちたのはサダルスード、腹部背面を撃たれていた。

    「先輩、先輩、わたしたちがさっき上で観察していた時、人影が私たちの後ろに現れて、ザ・シャードのもっと上の方から降りてきたのか、それとも外から入ってきたのかはわかりませんでした。とにかく静かで、わたしたち気づけなくて、それで、その後、あの人は何も言わずに先輩の背中に銃を押し付けて近距離発砲をして、先輩を窓から落とすと自分も飛び降りていって──そう、あの人たちです!」
    アンタレスがサダルスードを応急処置する合間に、アマニタは簡単に状況を説明したが、急に歯を食いしばり遠くを指差した。

    場に突然現れた四名の人物は全員武装していて、腕を武器に取り替えたような者もいた。

    フローライトと遠くにいたモスは同時に叫んだ。

    「思い出したぜ、カズデルには昔、傭兵の噂があった。四人組の常勝不敗の傭兵小隊がいて、そいつらの標的になったら死は免れないってやつだ。噂は伝わるたびにヤバくなって、不死とか全身武器のスーパー戦士とか何でも言いたい放題にまでなって、俺も噂を馬鹿にしたことがある」
    モスは周りのチームメイトにそう言った。
    「今見てみると、付け足された噂も間違いってほどじゃねえな。その傭兵はテレシスの大招集の後に姿を消したらしいから、さっき連中がテレシスのために働いてるって言ったのは理に適ってるぜ」

    フローライトが叫んだのは、腕と置換された火炎放射器に刻まれた二つのマークを認識したからだ。一つは、多くの遺跡やA9データベースで何度も見たマーク──三つの矢印と同心円。もう一つは、自分の尾を呑み込む蛇の輪。そのマークは、フローライトにA9の子どもたちが伝説として語る物語を思い出させる。物語はスーパー戦士が恐ろしい敵と戦う話で、相手は蒸気騎士から皇帝の利刃まで幅広い。しかし主人公のスーパー戦士は不変だ。なぜなら語り部はデータベースの内容を元に、この戦士たちが強大なパワーを持っていると信じているからだ。

    そして今、物語の中の存在は自分の前に立っている。フローライトは珍しく足を震わせた。彼らは同じ財団の仲間ではないか?彼らは自分たちの戦友となり助けてくれるのではないか?或いは、彼らが今ここに立っていることに、何一つ意味などないのかもしれない!

    だが、彼女がどれほど何が起こったかを知っても、事実は変わらない。今、自分たちの敵として立ちはだかるのは、データベースに記録されたかつての機動部隊"サムサラ"だ。

    それが何を意味するのか、彼女に考える余地はなかった。



    カズデル 名もなき荒野遺跡


    四つのガラスの棺が出土した後、全ての掘削が停止し、作業の中心はそのガラスカプセルの研究に変わった。現場の学者たちは述べた。この技術は遥か昔に誕生したものだが、想像を絶するほど精巧であると。その内一人の学者は大喜びした。この技術は、冬眠カプセルや培養カプセルの研究を大幅に推進する。さらに人体の培養に必要な外部環境を達成し、自由に制御できると。

    だが聴罪師の注目は別のものに集まった。まず、出土した当初は、実はカプセル内の人物はバイタルサインを有していなかった。だが半分は研究、半分は事故でカプセルの操作パネルを起動してしまうと、ロールバックによる反復操作は誰もが驚くような細胞再生と組織修復を引き起こした。棺の中の人物が蘇ったのだ。現場の医学検査は更に、この修復は外傷や脳神経損傷さえ修復でき、脳機能にも影響を及ぼさないと示した。

    更に、カプセル内の人物は全身の毛穴に至るまで武装されているようで、多くの武器を使用できた。中には体に直接装着されているものまであった。聴罪師は直感の導きを感じた。

    「彼らを目覚めさせ、治療から洗脳まで必要な設備を全て用意しろ」
    聴罪師は部下に命じた。
    「私の予感が正しければ、彼らはテレシスの大きな助けとなり、サルカズの大きな助けともなるだろう」



    ヴィクトリア 鏡像のロンディニウム
    ザ・シャード 地下大広間


    「もううんざりよ、直接奪いに来たの?」
    黒の女王はこの突発的な状況を良く思っていなかった。

    「テレシス閣下は万全を期しただけで、今回の委託は依然として蛇の手の成果と見なされ、あなた方の功績となります。我々は引き継ぎを完了させに来たとお考えください」
    そう言って、"サムサラ"隊員のナンクゥはマリアンヌを見た。
    「それでは彼女を連行します」

    「……そういうところが財団との付き合いが嫌な理由の一つよ。ましてや、おまえたちのような感情の欠けた連中を相手にするなんて。もういいわ、連れて行きなさい。返事はできるだけ早くちょうだい」

    「そう言わないでください、我々も正常な人類になる方法を学習中です。カズデル軍事委員会が後ほど正式に連絡し、関連事項を議論します──我々には何もわかりませんが」ナンクゥは笑う。

    黒の女王はこれに答えず、振り向いて他の蛇の手に吼えた。
    「何を待っているつもり!負傷者を救助しなさい!他の仕事を全部片付けて!終わってもいないのに観劇気分かしら?」

    会話の実質的な終了を確認すると、サムサラは少しも時間を無駄にしなかった。マリアンヌは戸惑いながら腕に力が加わるのを感じ、見上げると、ナンクゥから笑みが消えたのが見えた──彼らがガトリングガンを掃射した時と同じ、熟練した冷酷な表情。

    マリアンヌの不安神経が刺激されて活発になり、恐怖から無意識に体を動かして逃げ出そうとする。手足は過度の怯えに反応して、狂ったように暴れ出す。だが却って体をがっしりと掴まれ、動けなくなった。サンクタの少女は両手を空にかざす。空中に明滅する影が現れ、手の中に銃が創り出されようとする。その影も片手で抑え込まれた。

    四人のサムサラ隊員は巧みに危険を制圧した。ナンクゥが彼女が手に掴んでいた影を消し、オンルゥがもう一つの影も消した。ムンルゥは少女の口を抑え、強い力にマリアンヌは窒息して顔が真っ赤になった。イラントゥは注射器を取り出し、針から薬剤を軽く押し出して流れを良くすると、マリアンヌの首を片手で抑えた。

    飛んできたカードが注射器を真ん中で切断し、謎の薬剤がイラントゥの手にかかった。彼は頭を下げて足元を見る。震えるマーキュリーの片手が彼の足をしっかりと掴み、もう片方の手はアーツロッドを握っていた。先ほどのカードはアーツを凝集させて形成したものだった。

    マリアンヌは、ため息をついたイラントゥが注射器を捨て、マーキュリーの血濡れた髪を片手で掴むのを見た。イラントゥは拳銃を取り出し、マーキュリーのアーツロッドを一撃で粉砕した。マリアンヌは、ただ見ていることしかできなかった。

    サンクタの少女は真っ赤な顔で涙を流し、指の隙間から届かない哀願を力いっぱい叫ぶ。跳ねたアーツロッドの破片が、マーキュリーの顔にまた傷を増やす。新たに流れた血は元からあった血溜まりと混ざり合い、もうどの傷から出てきたものか見分けられない。それでもマーキュリーの血走った目はイラントゥを真っ直ぐ睨みつけ、揺らぐことはない。

    その時、声すら出せぬマリアンヌの哀願は次々と変化していった──彼女は、マーキュリーがこれ以上自分に関わらないように懇願した。彼女はマーキュリーに何度も謝り、口に流れ込んだ涙の苦味は懺悔の源泉となった。彼女はマーキュリーたちの護送作戦に応じるべきではなかった。背後のリスクから目を逸らしてはいけなかった。艦でお菓子をねだるべきではなかった。出発前のマーキュリーにずっとあれこれ尋ねて付きまとってはならなかった。イカボッド小隊に迎えられたあの時、暖かい家に帰ったような幻を見てはいけなかった。そしてあの廃墟の教会で、マーキュリーと出会うべきではなかった。

    信仰が彼女に祈りの慟哭をさせる。彼女は目の前の人物が手を止めるように願い、その代償なら自分はどうなってもいいとさえ思った。黒の女王の手で大切な人の命が脅かされたばかりのマリアンヌは、再び襲い来る圧倒的な恐怖に耐えられなかった。彼女は祈る。神が彼女の叫びを聞き届けることを。マーキュリーが彼女の叫びを聞き届けることを。

    「いけない、君たち、彼女を連行しろ!」

    マーキュリーは目を見開いた。マリアンヌの魂を一字一句叩き込まれ、瞳孔は収縮し、溢れた涙は頬をつたう。全身の震えが止まらない。イラントゥは首を振り、マーキュリーの髪を強く引っ張って、露わになった胸に照準を合わせた。

    ズドン!

    巨大な衝撃がマーキュリーを束縛から解き放つ。体は紙切れのように軽く漂い、「風」に乗ってひっくり返り、地面に仰向けになって落ちた。鮮血の色が彼女の肌に刻印を残す。皮膚よりも深い場所、心へと熔鉄の焼印が刻まれる。死は幾度もマリアンヌの人生に足跡を残した。そして今、死はマリアンヌの人生と一つになった。

    終焉の独奏は今、こうして軽やかに奏でられる。

    信仰が憤怒へ変わり、魂の薪に炎が灯る時。

    誰が為に弔いの鐘は鳴る?

    「マーキュリーお姉ちゃん!!!!」

    マリアンヌの瞳が湛える涙は全て炎となり、ついに彼女は戦士たちの束縛から抜け出した。巨大な幻影が急速に手中で形を成し、絶望の底から跳ね返る力がオンルゥとナンクゥを振り払う。マリアンヌは血の海に横たわる親友のそばへ飛び移り、彼女を背負って少し離れた場所まで運んだ。

    マリアンヌは身を屈め、マーキュリーをしっかりと守る。両手では体の前に自分の背丈よりも大きいヘビーガトリングガンを構え、目には人を引き裂く狼のごとき怒りだけが宿っていた。説明はいらない。人道なんてどうでもいい。大局なんてクソくらえ!彼女はヘビーガトリングガンを持ち上げ、哀しみに哭き掠れた声で吼えた。

    「お姉ちゃんから離れて!!」

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    マズルフラッシュが炸裂し、弾道は線の如く連なる。熱く滾る銃身は、死神に代わって権能を振るう。轟く弾丸は敵であるサムサラの四人へ絶え間なく掃射されるも、ガトリングガンの咆哮がマリアンヌの怒号を遮ることはなかった。復讐の火力は彼女の手から狂おしく降り注ぐ。スーパー戦士たちの痛覚なき装甲皮膚に次々と傷が作られ、後退を余儀なくさせた。

    ナンクゥは手で庇を作り、タイミングを見計らってマリアンヌの片手を撃とうとした。拳銃を構え、撃つ。しかし弾丸は突然現れた盾に弾かれた。フローライトがマリアンヌの前に盾を構え、幻惑的なフラクタル画像が盾の上で歪曲の舞踏を踊る──とある特殊な構造のミームシールドだ。盾の妨害と抵抗によって、フローライトはサムサラ小隊の小規模射撃を何度も耐え抜いた。ミストとフィイは意識を失って倒れたマーキュリーを一緒に持ち上げ、叫ぶことも涙を拭うこともままならず急いで撤退した。

    フローライトとマリアンヌはその場にとどまり、要塞のように敵の前進を阻んでいた。



    大広間の反対側の柱の後ろに隠れていたアマニタは、四人の敵に向かって銃を構えていた。しかし予想外なことに、悪名高き傭兵モスが自分の近くの壁を這い降りていることに気づいた──天井裏の通路から迂回してきたのだろう。考えるより先に、護衛隊の訓練で培った直感に基づきすぐさま拳銃で発砲する。モスは傭兵ならではの無意識反応からか、銃声が鳴った瞬間に壁から飛び降りた。

    落下したモスは転がって受け身を取りながら体勢を変え、前傾姿勢になってアマニタが反応できないほどの速度で突進する。彼は走りながら巨大なアーツロッドを振り回し、アマニタの膝にぶつける。重心を崩したアマニタの手から銃がこぼれ落ち、モスは一瞬にしてその銃を奪い取った。

    地面に倒れたアマニタはすぐに実力の差と、目の前の敵に武器を奪われた事実──自分の死が迫っていることを思い知った。アマニタは思わず目を閉じ、知らない、知りたくもない感覚が訪れるのを待った。

    モスから飛んできたのは一発のビンタだ。

    ビンタされたアマニタは目を開けた。口もあんぐりと開けた。地面に転がった彼女は、叩かれたばかりの頬を撫でながら、モスが自分を罵るのを聞いていた。

    「テメェ新人か!今何が起こってるのか理解してんのか?ああん?何だ?アタマ空っぽのアンタレスのアホは先に説明してねぇのか?いつになったら撃つべき相手が見分けられんだよ?何しやがる!俺を撃ち殺す気か!バカヤロー!」

    「彼女は新入りなんだ。モス、どうか手加減してくれ。君たちが来るとは知らず状況を説明できなかったんだ」
    アンタレスはモスの使ったルートに沿って同じように飛び降り、笑顔でモスの腕を掴んだ。アンタレスの顔を見た途端に、なんとモスの罵倒は更にヒートアップした。

    「テメェよくも!あのな、テメーらファッキン天使どもの建物爆破癖なんざどうでもいいけどよ、戦場に出す前に最初のクソ授業で敵味方の判別を教えやがれ!俺は毎回毎回何度でも部下たちに教えてっからな、テメーらとの戦闘は全部演技ですってよぉ!テメーら、これが初めてでもねえだろうがよクソがっ!ああ!前のリターニアじゃ、テメーのとこの俺より鉱石病がだいぶヤバげなクソガキが、塔を全部爆破しやがったんだ、全部だぞ!廃墟のなかでどんだけ俺を探したか、忘れたわけじゃねえだろうなぁ!」

    アンタレスもこの時ばかりは「すまん」の意を込めた苦笑を浮かべることしかできず、モスの愚痴を聞きながら、「そうだそうだ、私が悪い」と返した。アマニタは完全に置いてけぼりだった。だが彼女を気にする必要はない。彼女の心の奥底には今、たった一つの考えしかないからだ。

    「一体何なんですかー!」

    「モス、モス、まだ交戦中だ、終わり終わり、ほらアンタレスも困ってるぞ」
    コロナも同じく壁から飛び降り、モスを揺さぶった。
    「終わってからやれ、な?」

    モスは明らかに不服そうに罵倒を止め、悔しげに口を閉じると、アーツロッドを持って四人の敵がいる方を向いた。一歩踏み出すその前に、モスは首をひねって不躾な一言を放った。

    「帰ったら俺は給料を上げてもらう!テメーらは艦の連中と仲直りする方法を考えとけ!」

    コロナの平手打ちがまたモスの後頭部に叩き込まれた。

    二人が戦いへ戻ったのを見て、アマニタはようやく自分がまだ地面に転がったままと思い出した。起き上がった彼女は呆然とした顔で、目の前にいる仕方なさげな表情のアンタレス隊長をつついた。
    「隊長、どういう事なんですか?」

    「ああ、彼らが来るとは思わなかったうえに、さっきまで攻撃を受けていたから、君に説明するのを忘れていたな。実は、カオス・インサージェンシーは我々の仲間で、サイト-A9所属の機動部隊なんだ」
    アンタレスは立ち止まり、突撃してきた蛇の手を拳銃で撃つ。
    「彼らはA9と関係を断ち、敵対しているように見せかけている。外部勢力にその関係性が露呈しないようにしなければいけないんだ。そして彼らは、A9にふさわしくない仕事をする」

    「裏の仕事ですか?」
    アマニタも別方向に発見した敵を拳銃で撃ち、腰をかがめて飛来したアーツを避けた。

    「そうだ。潜入に暗殺に破壊工作、傭兵には手慣れた仕事だ。もし彼らと偶然遭遇してしまったら、敵対的なイメージを保つため交戦する必要がある。だがとにかく彼らも仲間だから、形だけで収めなければいけない。結局今回はあらかじめ事情を説明できなかったから、君はもう少しで殺してしまうところだったが」

    「わたし、わたし、そんなつもりじゃ……」
    アマニタは口ごもり、自分の間違いをどう正せばいいかわからなくなった。それを見たアンタレスは笑い声を上げた。
    「大丈夫だ、君が最初じゃない。次からは弾丸に気をつければいい、問題ないさ。さっき聞いただろう、君がやったより酷いこともたくさん起こったが、モスとアイスは一緒に生き埋めになったおかげで親友同士になれたんだ」

    「隊長、それってさっきのリターニアの話で良いんですよね?塔の爆破って、まさか……」

    「ああ、その通りだ、だから早く人を逃がそう」
    アンタレスは銃をリロードして走り出し、アマニタもその後ろに続いた。



    ヴィクトリア 鏡像のロンディニウム
    ザ・シャード 大階段


    黒の女王は、上に伸びる螺旋階段の循環構造に気づいた。

    彼女はザ・シャードの階段口に回り込み、二階から脱出しようとしていた──中央の図書館に繋がるゲートはマリアンヌの怒りの掃射によって塞がっていた。だがマリアンヌがテレシスの勢力の手に渡った以上、自分には何の心配も要らない。銃弾の雨と満天のアーツの下で階段口に辿り着く事など食後の散歩よりも簡単だ。しかし階段をしばらく登っていると、彼女は些細な違和感に気づいた。

    このビルがいくら高いといえど、自分はずっと二本の足で階段を登っているわけではない──魔法があるのに使わないなんて。基本的に、階段では跳躍を使っていた。ならば、自分はあまりにも長い時間登り続けているのではないか?

    一つの足音と一つの人影が彼女の推測を裏付ける。片方は足元から、もう片方は頭上から。

    白い拘束着の女性が螺旋階段の上方に立ち、手すりにもたれて自分を見ている。サンクタの天使だ。背後の浮遊砲は光翼と一緒になって彼女の体を取り囲み、周囲の環境を歪ませていた。一瞬、黒の女王は自分が見たものはサンクタではなく、真に神の座に列する天使であると錯覚した。

    足元からは緩慢な足音がする。音の出どころは、階段の下方の反対側にちらりと見える歩き姿だ。菫色のロングスカートがステップを撫でる。一つの埃も付着しない、優雅な振る舞い。いつしか螺旋を描く長角はただ高塔で天を仰ぎ、精密な長剣は魔法の詩を綴ったであろう。足取りのリズムはダブルシャープからダブルフラットへ、ドレスの色はルビーからオーバーエボニーへ変わる。

    上下から黒の女王は挟み撃ちされようとしている。

    慌てることも焦ることもなく、黒の女王は目の前の状況を考える。そのやり方は、冷静という言葉では足りないくらい──彼女は本当に平常心だった。二人の内実は不明だが、下の人物には明らかなリターニア高塔術師の特徴があった。それが黒の女王に勝利を確信させた──彼女は図書館の魔法の集大成者だ。彼女は漆黒の影に姿を変え、下から来る者へ襲いかかることにした。

    イカボッド小隊のハーミットai-hermit.jpg*コードネーム:ハーミット
    性別:
    戦闘経験:二年
    出身地:リターニア
    誕生日:10月15日
    種族:キャプリニー
    身長:160cm
    鉱石病感染状況:メディカルチェックの結果、非感染者に認定。

    個人履歴:ハーミット、リターニアの著名な学者、主な研究分野は巫術(アーツを含むがそれに限定されない)。サイト-A9と長期協力条約を結んでおり、有事の際は戦闘オペレーターとして活躍する。

    健康診断:造影検査の結果、臓器の輪郭は明瞭で異常陰影も認められない。循環器系源石顆粒検査においても、同じく鉱石病の兆候は認められない。以上の結果から、現時点では鉱石病未感染と判定。

    【源石融合率】0%
    鉱石病の兆候は見られない。

    【血液中源石密度】0.16u/L
    頻繁に研究材料として源石製品と接触するため、血液中源石密度は高い傾向にあり、注意が必要。

    詳細プロファイル:

    [権限不足]
    という名のリターニア人は、その様子を見てドレスの裾を摘み、略式の開演挨拶をした。

    楽章は今、奏でられる。

    第一楽章、追憶


    交響楽の演奏は黒の女王の精神を迷走させ、記憶に深く刻まれたあの夏へ回帰させた。目の前にあるのは暗雲が立ち込める鏡像のロンディニウムではない。一切が高校の校外学習の日へ巻き戻った。楽しく、不安も知らず、自由自在。それは気楽なひととき。甘酸っぱい秘密を纏い、全てがあなたと彼の若い感情に帰する。友人たちが水中で自由に戯れる日々は、あなたの最も大切な思い出のはず。幾千年の時を跨ぎ、新たな文明を通り抜けてなお、あなたは永遠に銘記する。

    忘れてしまったの?本当に忘れてしまったの?

    黒の女王は判断力を失い、階段に頭をぶつけ、手すりを突き破る。もはや漆黒の影の姿も保てていない。複雑な立体記号が頭のそばで回転し続け、女王にその記憶が自分のものではなく、忘れられた過去が発した断末魔であると理解させた。頭を擦りながら彼女は起き上がる。女王は再び一振りの重剣を形成し、下へ向けて放とうとした。

    第二楽章、癲狂


    完成不可能な楽章が黒の女王の眼前に展開され、血を渇望する悲劇が生命の旋律に融け込んだ。重剣が崩壊し、雪のように散ると、それは黒の女王の皮膚を為す術もなく切り裂いた。血は踊る。血は拍動する。血はゴルゴダの丘で魂の歌を歌う。それは傷口から流れ出す血ではない。それは喉を鳴らす歌、魂の脱獄だ!

    止血は意味をなさず、もっと血を流したいという強烈な衝動に苛まれる。黒の女王の羽根は再び尖り、身を躱し始めたリターニア人に向けて放たれた。

    第三楽章、奥秘


    絢爛かつ糜爛な謎めいた姿が空中で炸裂し、発生した焼戻しは次の音符に炎を灯す薪になった。その瞬間に爆発した思想の結晶を、どれほどの智者であれば生み出せるだろうか。一人、一生、まともな結論を出すことは難しいだろう。だが世代を次へ次へと受け継いだ数百万人のリレーならば、最も些細な弱点でさえ推し量ることができる。こうして、千里の堤も蟻の一穴から崩れる。

    それでもなお、息をつく暇は一つも残されていないのだ。

    第四楽章、宿命


    交響楽は一人では交響楽にならない。高所から身をかがめて見下ろす、カオス・インサージェンシーのアリアai-alia.jpgコードネーム:アリア
    性別:
    戦闘経験:十年
    出身地:カズデル
    誕生日:不明
    種族:サンクタ(疑わしい)
    身長:159cm
    鉱石病感染状況:メディカルチェックの結果、感染者に認定。

    個人履歴:アリア、A9の収容協議を経て、特殊小隊の一員に任命された。異常性の関連情報の閲覧にはより高い権限が必要。

    健康診断:造影検査の結果、臓器の輪郭は明瞭で異常陰影も認められない。循環器系源石顆粒検査においても、同じく鉱石病の兆候は認められない。以上の結果から、現時点では鉱石病未感染と判定。

    【源石融合率】0%
    鉱石病の兆候は見られない。

    【血液中源石密度】0u/L
    また測定不能か……たまに、うちには変なのが多すぎるんじゃないかって疑いたくなる。

    詳細プロファイル:

    [権限不足]
    。彼女の頭上で、光輪の輝きが増した。彼女は裸足で階段の手すりの上に立ち、両手を胸の前でぎゅっと握る。そして口の中で詠唱を始めた。だが彼女が詠むのは歌ではない、祈祷の詞だ。世の万物が念動する。周囲の光翼と空間が一つになってゆらゆらと念動する。取り巻く現実と列なす光芒が念動する。そして、彼女は祈祷文の最後の一句を読み上げる。

    「七つの印、七つの鎖、七つの花嫁、緋色の王のため捧げる」


    讃え切り、彼女は突如として巻き起こる風に身を任せて飛び降りた。

    原初の渇望が時を揺るがす。その落下は大地へ回帰する一粒の種子に似て、繁茂する生命に根を下ろし芽吹く。標準は跡形もなく消え、何一つ桎梏はなく、一切の野心と陰謀は生命の野蛮な成長には抗えぬ。新生、或いは定められし破滅。それが来たりし時に伴うのならば、我々に何が為せるか?我々は何を為すべきか?我々は何かを為すべきか?

    讃頌せよ。破壊が揺るぎないゆえに。生命が無比の真実であるゆえに。

    この楽章は黒の女王の予想より遥かに幅広い。大いなる静謐からクリムゾン劇団まで、楽章記録資料は隅々まで最も力ある狂気を提供する。更に重要なのは、これは高塔に封印され、単なるアーツを凌駕するリターニアの魔術体系を多少なりとも定めた古書であることだ。一代また一代が、図書館に対抗するため遺跡に残した思想の結晶。そうでなければ、楽章は今この時に黒の女王へ奏でられることはない。

    古書の中の人々は、幾度もの失敗を詳細に記録し、弛まぬ心で次の試みへ没頭する。そしてまた、詳細に記録する。古書には図書館の特徴や大量の計略と魔法が記されるが、それ以外の情報は哀れにも少ない。先人たちは名前だけを一つ残した。その名は彼らの敵から与えられし蔑みの名──焚書者。

    秩序立った奇跡と広大なる運命の激しい衝突の下、魔法の極限は無限に圧縮された。黒の女王は依然として不屈の驕りを以て嵐の中央に屹立する。傍らにいたアーツの亀が縮こまり、一つ一つ泡のように弾けたときには彼女も無比の驚きを感じたが、それでも倒れようとはしなかった。だが、彼女も一つ理解した。目の前の二人、否、彼女たち全員が、尊敬を以て真剣に対峙すべき相手だったということを。

    衝撃波がザ・シャード全体を何度も揺さぶった。



    ヴィクトリア 鏡像のロンディニウム
    ザ・シャード 地下大広間


    復讐の烈炎は未だ広がっている。フローライトはマリアンヌを支えて数度移動、と言うより二人はずっと移動し続けていた。サムサラの四人もただ立っているだけのピッチングマシンではなく、フローライトのミームシールドの妨害効果により、相手の反撃精度を下げることができたのだ。他にも仲間からの支援もある。否、支援こそが最も重要だ。

    モスは巨大なアーツロッドを普通の物干し竿のように軽々と振り回し、そのアーツは元は華麗であった大広間の床を更に穴だらけにした。コロナはスパークの周囲にいる蛇の手を掃討している──スパークは纏わりつく黒い霧に包まれており、殴り合いが困難だった。アマニタはまだカオス・インサージェンシーの傭兵たちを信頼しきれず、アンタレス隊長に付き従って行動した。

    アンタレスは腕時計を確認した。そして手中の火力を強めながらフローライトに近づき、どうにか銃声に掻き消されないほど大きな声で叫んだ。
    「時間だ!」

    「何て?」
    フローライトも力いっぱいの大声で叫び、同時にサムサラの銃弾を受け止めるため盾を強く掲げた。

    「撤退の、時間だと、言った!」

    「どう撤退しろと?どこに行っても、あいつらの弾丸が追いかけてくる!」
    フローライトは盾越しに感じる衝撃が小さくなったと思い、急いで装置のイメージを参考に向きを変え、瞬時に別方向からの射撃を防いだ。

    「俺がしんがりを務める!」
    モスも近づいてきた。
    「奴らに何があったか知らんが、今はカズデルの傭兵だ!傭兵を一番よくわかってんのは傭兵だ!俺らが相手してやる!」

    「私も残ろう!私は執行人だ、逃げる理由などない!」
    アンタレスは叫ぶも、モスに睨まれる。
    「何カッコつけてんだ!決まったことを混ぜっ返すんじゃねえぞ!」

    「それで?君らが残るから私は逃げろって?」
    フローライトの瞳は揺らぐことなく、歯はより強く噛み締められた。

    「逃げるな!でかいのが来るぞ!」
    アンタレスは柱の陰に身を隠してリロードし、その間に手信号でフローライトと会話した。モスも頷いた。
    「我々は全員で撤退する!だが誰かがあの四人をここに閉じ込める方法を考える必要がある!ただそれだけだ!」

    「だったら!」
    フローライトが返事をする前に、マリアンヌが声を張り上げた。
    「私も、私も最後までみんなと一緒にいる!みんなにはあの人たちと戦う理由があるけど、私にはない、でもマーキュリーお姉ちゃんは私の親友なの!お姉ちゃんは私のせいで大怪我したんだよ!わかってると思うけど、私悔しいよ!」

    アンタレスとモスは互いの顔を見合わせて、最後に二人でフローライトを見た。フローライトはマリアンヌを眺め、そして遠くに見えるザ・シャードの正門に視線を移す。最後に仕方ないな、と小さく笑って、首を横に振った。

    「ほんと、そっくり」

    後の二人は、もう何も言わなかった。アマニタとコロナは霧に包まれたままのスパークを抱えて先に離脱した。
    「言っておくが、私が逃げろと言ったら、すぐに逃げるんだ」
    アンタレスは強調した。
    「これは冗談じゃないぞ、モスもまた塔に潰されないようにな」
    結局モスにはまた睨まれた。

    三人の隊長と一人の特殊な武器マスターはそれ以上無駄話はせず、迅速に臨戦態勢に入る。そして同じく四人組のスーパー戦士に向かって、彼らの持てる武器弾薬を全て撃ち込んだ。



    ヴィクトリア 鏡像のロンディニウム
    ザ・シャード 屋上


    鏡像のロンディニウムは不思議な場所だ。基本的には地上のロンディニウムを一対一で複製し、建築建設や解体といった更新も同時に複製される。ゆえに、地上にてテレシスが熱心に建設中のザ・シャードは、地底のレプリカも同じく大廈高楼である。しかし鏡像のロンディニウムでの破壊と変化が、地上に影響を与えることはない。長い時間が経ったある瞬間、鏡像は再び地上と同期する。

    アイスも自分が地上の建物に余波を与える心配は要らないと知り、ほっとした。

    彼は今、ビル最上階の最も高い場所に立っている。鏡像のロンディニウム全体を見晴らし、心の底から高層建築の生み出す視覚的奇跡に感動していた。その実、アイスは高いところに立つ度に同じ感動を覚える。だが、縮小された現代都市と普通の山地田野では俯瞰する感覚が全く違う。しかし悩ましくも、この摩天楼は想像以上に高い。彼は後で全力すら超えた力を発揮する必要があった。

    事前の協議で、法の左手小隊はザ・シャードを攻撃するための戦術を用意した──それがアイスによる突貫攻撃だ。当時の目的は、蛇の手を図書館に退避させ、その隙にマーキュリーが乗り込み、図書館からマリアンヌを連れ去ることだった。計画が変化に追いつけないとは誰も予想していなかった。大広間で起きた数々のアクシデントを、アイスは通信器越しに知っていた。

    それでも事の進展は輪のように循環し、元の場所へ戻る。多くの突発変数を経た後も、彼はまだ屋上に立っていた。であれば、彼は自分の仕事をやり遂げるべきだと思った。

    アイスの能力は自爆であり、彼は今から盛大な花火ショーを開催しようとしていた。

    ザ・シャードは本当に高い。風はうなりを上げて屋上を蹂躙する。強大な風音が大きな爆発音を一度は掻き消し、屋上では青く燃ゆる火の玉が一つ爆ぜたのみだ。だが次の瞬間には、一つ下の階の窓が衝撃波で粉々になり、同じ青色の火の玉が内装を呑み込み、外壁を裏返し、比類なき轟音を立てた。

    屋上を眺めていた周囲の通行人たちは事態にすぐ反応できなかった。彼らはまた一つ下の階の窓から青く燃ゆる火球が炸裂し、爆発音と悲鳴が上がったのを見た。

    吹き飛ばされた屋上の残骸がさらに下の階の爆発で地面に墜落し、運動エネルギーが周囲の街道を覆う煙を巻き起こす。墜落はこれから更に激しくなるばかりだ。

    高層階での爆発は衝撃を下へ下へと蓄積し、階を下るほど容易に突破していく。次々と青い火球が外壁から炸裂し、階を破砕するペースを速めていく。爆発。恍惚の間に天を遮る煤塵。きらりきらりと空を照らす、青く燃ゆる焔。

    一階、二階、三階、四階、爆発が下へ広まる速度はやがて驚くべきレベルに到達する。アイスの体から爆発に次ぐ爆発が起こり、ビルは枯れ木のごとく次々に倒壊する。全ての爆発が彼の傑作で、堅固な摩天楼も彼の前では紙くず同然だ。瞬く間に、青く燃ゆる爆心地に立つ天使は、落ち葉を掃く秋風のようにビルの中央部を突破した。

    ザ・シャードは連続的な爆破でひどく傷めつけられ、嵐の中の浮草のように、安定性を失いつつあった。一階一階また一階、巨大な爆発は階を次々と貫通して残骸を巻き上げる。破滅の硝煙はたちまち引火する。煌びやかな建物は、わずかな時間で半分の高さまで削られた。残骸は全て鏡像のロンディニウムの周囲の街道に降り注ぎ、周りの建物を爆撃していた。

    ドミノ倒しのような爆発が続き、重厚なビルはついに耐えられず、山崩れのごとく残骸で自身を破壊し始めた。まるで戦火で破壊された都市。暗雲の中に崩れゆくはちみつクッキーの塔。高楼はたちまち傾いて、名前通りの破片ザ・シャードになってしまった。

    地下大広間にいたサムサラの四人は逃走した敵を追撃しようとしたが、揺れる床の上では立ち続けることすらできなかった。屋上での最初の爆発から大惨事に至るまでの時間は、そう長くない。ゆえにサムサラの四人には、事態に対応するための時間が足りなかったのだ。

    青く燃ゆる火の玉が何層もの障害を突き破り、山麓が崩れたような大質量が大広間の天井を突き破って初めて、彼らは何が起こったかを知るだろう。

    巨大な爆発がかつてザ・シャードがあった位置を覆い尽くし、青く燃ゆる太陽が脆弱な鉄筋コンクリートを溶融させる。地上で極端な権利と地位の象徴だった建物は、今や綺麗さっぱり廃墟となった。

    屑山の半分あたりの高さ、廃墟の先端に人影が立つ。彼は青い熱波の中で毅然と伸びをした。全身が切り傷だらけで、傷口から噴出する鮮血の中には微細な源石結晶も見える──今までビルで起こった全ての爆発は、アイスが体表の源石結晶を徹底的に活性化させ炸裂させた結果だった。これはアーツではない、人肉源石ドリル爆弾だ。

    体はアーツの自己治癒能力によって傷口を塞ぎ始めた。しかし流失した血液の量は、不健康な病人を脱力させるには十分だった。伸びをした彼の体はコントロールを失い、立ったままショック状態になった。意識が朦朧とする前、彼は仲間たちが自分に向かって走ってくるのが見えた。彼は心からの笑顔になった。

    「生きてるって感じだぜ……」

    CG-Ice.jpg




    ヴィクトリア 鏡像のロンディニウム
    ザ・シャード廃墟付近


    衝突して互いに溶け合うアーツと現実が、たった今解きほぐされた。先ほどまで勝負を拮抗させていた数人は、廃墟の付近へ落下した。黒の女王は、かつて床のタイルだった瓦礫を、地面から拾い上げてはまた放り投げる。そして向こうの廃墟の頂で、仲間に迎えられるアイスを眺めた。

    「おまえたちも本当にやってくれたね、ビルまで壊すなんて」

    彼女は座れる場所を探した。先の戦いはどちらの勝利とも言えない。唯一確かなのは、疲労と消耗が大きいことだ。アリアとハーミットは黒の女王に近づくつもりはなく、黒の女王も関心がなさそうに独り言を呟いていた。彼女は二人にも聞こえていると分かったうえで、話が聞かれていようがいまいが知ったことではないと感じていた。自分の言葉を無理やり聞かせるのは、完全勝者だけの特権だ。

    「サムサラの一番の特徴は復活であると、おまえたちも知っているでしょう。彼らは元々培養管から這い出て生まれたんだ、廃墟の下にいたって死ぬわけがない。とにかく、おまえたちがビルを崩した隙に、私も急いで帰らせてもらうわよ。おまえたちにコテンパンにされて、混乱に乗じて逃げ出したとも言えるわね」

    ハーミットは半歩前に出て、また止まった。
    「貴方には、私たちの撤退を阻む力がまだ十分に残っているように見えます」

    黒の女王は足腰を痛めたような表情をした。
    「この状況で?そんなの、私が負け惜しみしているみたいじゃない。いいチャンスなのだから、テレシスがまた人を寄越す前に帰りなさい。次こそ本当に勝てないわよ」

    黒の女王はその場に座りこんだまま動かない。その様子を見て、ハーミットとアリアは互いに頷き、撤退を始めた仲間の方へ歩いていった。瓦礫の山を迂回すれば、座ったままの黒い翼の姿は見えなくなるだろう。その時、黒の女王が大声で彼女たちを呼び止めた。

    「おまえたちには私の話が分からないだろうから、メモをとって分かりそうな奴に伝えなさい。おまえたちはこの大地が、不公平と異常に満ちているのを見たでしょう。けれどテラは、既に己が生命と文明を紡ぎ始めている。おまえたちは本当に、目の前の生きた暮らしを無理矢理に壊し、死した夢を蘇らせるつもりかしら?」

    ハーミットの眉がぴくりと上がり、足を止めて振り向いた。
    「貴方はきっと似たような質問をするだろうと、ある人が教えてくれました。その人からのメッセージを伝えます」

    「財団は正常を定義するのではなく、正常を保護します。それがあなたが恐れていた夢の、本当の姿です」

    彼女たちは振り帰らず、待っていた仲間たちに向けて、まっすぐに走っていった。



    サイト-A9 機密会議室

    エリートオペレーター会議


    R.E.aic:なるほど、事情は分かりました。大騒ぎに大騒ぎが重なったけれど、言ってしまえばただそれだけだったのですね。

    ブルーバード:警戒が必要な一大事だと思いますけど?

    R.E.aic:ロンドンが一人の頭でっかちに吹き飛ばされただけです、どうってことありませんよ。

    ブルーバード:ロンドンって、何ですかそれは……

    Nox:であれば、我々はマリアンヌ嬢の問題解決に取り掛かかるべきと思いますが。

    フローライト:マリアンヌにまだ何か問題が?

    Nox:彼女を護送することとなった原因をお忘れなきように。今回、彼女は作戦中に我々への友情を示し、ここぞという時に我々の側に立ち、敵に抵抗してくれました。しかし、マリアンヌが十分に危険な現実改変者であることは変わりありません。

    フローライト:だからって、あの子に酷い仕打ちをする必要はないじゃん!

    Nox:やるかやらないかの問題ではありませんよ、フローライト。眼前の潜在的な脅威へ、どう対処するか決める他ないのです。このインシデントで貴方が彼女への見方を変えたことは私も理解していますが、収容責任者の立場から一つ言わせてください──我々は感情を理由に危険を野放しにしてはならない。貴方はイカボッド小隊の隊長ですから、現実改変者の潜在的危険性は誰よりも理解しているでしょうに。

    フローライト:でも……彼女をサイト-A9で生活させ続けることはできないのかな?

    St:オペレーターとして生活させることを想定しているのだろうが、それは不可能だ。彼女を艦に乗せ続けることはできても、他のオペレーターと一緒に普通の生活を送ることはできないだろう。また事件や、彼女の思想が揺らぐようなことが起これば、俺達ではその代償を受け止めきれない。

    アンタレス:他の場所に送るというのはどうだ?

    ブルーバード:そう言われましても……蛇の手とは徹底的に絶交してしまいましたから、図書館にはもう送れませんよ。会った瞬間に殺し合いにならないだけでも奇跡ですから。

    アンタレス:図書館だけと言わず、他に場所は無いのか?

    モス:なぁ、俺んとこはどうだ?うちだって人型オブジェクトが居ないわけじゃないぜ。チームから可愛さ担当が居なくなっちまったし、あの子で補わせてくれよ。

    カサブランカ:いけません。アリアさんとスパークさんはオリンピア・プロジェクトの志願者として、収容室から出ることを許可されました。この解放は実際には雇用契約の一部であり、ある意味特別収容プロトコルの一部でもあるんですよ。ましてや、マリアンヌのような女の子があなた達の命知らずな傭兵生活に耐えられるわけないでしょう。

    モス:チッ、珍しくズバッと言って、有能ぶりやがって。

    St:正直言って、モスの言葉は理に適っていると思うぞ。今回の事件は俺達と蛇の手の敵対を深めただけでなく、サムサラのような超常遺産が他国に奪われ、利用されていることもわかった。今のテラの各国は全てが平穏なわけじゃない。俺達は本当に、持てる全ての力を使う必要があるんだ。

    モス:先に言っとくけどな、俺らを挨拶もなしに艦に呼び戻すんじゃねぇぞ。俺らは荒野の愉快な日々に慣れてっから、首輪付けられるのは御免だぜ。

    カサブランカ:ああモス、久しく会っていなかったのに、あなたは全く変わりませんね。もっとお日様の光を浴びてはいかがでしょうか。

    モス:何だとテメェ?

    ブルーバード:アドバイス、心理療養医に喧嘩を売らないこと。

    アンタレス:どうしてラテラーノの会議の雰囲気とそっくりなんだ……

    Nox:フン、どうせ私の提案は終わりましたし、収容室も拵えましたし、念のためパーマー・プロトコルも手配しておきました。

    フローライト:パーマー・プロトコルなんて笑いながら言うもんじゃないでしょ!

    Nox:とにかく準備は整いましたから、他に何もないようでしたら、私は迎えに行って参ります。

    ペンタゴン:みんな、みんな、ちょっと待ってもらえるかしら。

    ペンタゴン:わたくしに一つ考えがあるの。





    サイト-A9 重症看護室


    マーキュリーは半年間昏睡状態だった。

    一週間前、ある晴れた朝に彼女はようやく意識を取り戻した。長い眠りによる体の凝り、意識回復による混乱、そして記憶に残存したストレスの余波のせいで、彼女は暴れて病室を爆破しそうになった。その時は艦の全員がショックで死にかけた──当直の医師が収容違反サイレンを鳴らしたからだ。

    結果、医療部門はマーキュリーが不安定な状態にあり、意識回復直後のアーツ行使によって更に体力を消耗したと主張した。ゆえに医師たちは彼女がどんなに謝ろうとお構いなしに、一週間ベッドの上で誰にも会わず静養するよう命令した。更にベッドを降りるのは「様子を見てから」にしようとまで言った。

    フローライトはそれを聞いて首を横に振った。そんなことをしたら、あの元気娘はより具合を悪くするだろう。

    そして今日、最初の白衣を着ていない人が病室に駆け込んで来たとき、マーキュリーの第一反応は「あー助かったー」だった。

    マリアンヌは彼女のその言葉を聴き、唖然とした。

    病室のドアが再び開いた時、マーキュリーは五日目の退屈な夜の時間に恨み言を言っていた。暇すぎて、ベッドに寝転がり、空に浮かぶ月の数を何度も何度も数える以外やることがなかった。一、二、一、二、一、二、一、二。マリアンヌはベッドの隣で苦笑した。

    「あ!ペン姉と隊長!私忘れられたかと思ったよおぉぉ、病室に偽装した収容室に入れられたかと思ってたあぁぁ……」

    マリアンヌは何か言おうとしたが、フローライトに睨まれ、引っ込めた。

    目覚めた時の事案のせいで、マーキュリーはその夜死んだように眠っていた間に移送された。つまり、ここは本当に病室に偽装した収容室なのだ。

    「おはよう、オペレーターのマーキュリー。元気な姿が見られて嬉しいわ。マリアンヌもおはよう。あら、間違えてしまったわ」
    ペンタゴンは薄い笑みを浮かべながら軽く会釈した。
    「おはよう、オペレーターのフィオレai-fiore.jpgコードネーム:フィオレ
    性別:
    戦闘経験:
    出身地:ラテラーノ
    誕生日:9月9日
    種族:サンクタ
    身長:163cm
    鉱石病感染状況:メディカルチェックの結果、非感染者に認定。

    個人履歴:フィオレ、本名マリアンヌ、ラテラーノ公民。鏡像のロンディニウムでの事件後に、観察のためサイト-A9に加入、オペレーターも兼ねる。

    健康診断:造影検査の結果、臓器の輪郭は明瞭で異常陰影も認められない。循環器系源石顆粒検査においても、同じく鉱石病の兆候は認められない。以上の結果から、現時点では鉱石病未感染と判定。

    【源石融合率】0%
    鉱石病の兆候は見られない。

    【血液中源石密度】 0.12u/L
    源石との接触は極めて少ない。

    詳細プロファイル:

    [権限不足]

    マーキュリーは笑ったまま目をしばたたかせた。

    「なんて?????」

    マリアンヌはマーキュリーに抱きつかれながら激しい揺さぶりを受けている。彼女は完全に発言のタイミングを失い、マーキュリーから「何があったの」と矢継ぎ早に質問されるのを受け止め続けるほかなかった。フローライトは首を横に振り、言い放った。
    「それと、今はもう私を隊長と呼ばなくていいよ。君はもうイカボッド小隊の隊員ではないからね」

    「えっ??????」
    マーキュリーはマリアンヌへの揺さぶりを急停止させ、瞳からは蛇口をひねったように涙が溢れ出した。
    「隊長ぉ──私やっぱりいらない子だったかなぁ──」

    フローライトの額に青筋が浮かぶ。もしペンタゴンが手をかざして制止していなかったら、彼女は腹立たしいコイツをボコボコにするところだった──医者の言いつけを破り、起きて動けるなら、コイツはもう十分に健康だろうから。

    「何があったか、聞いてちょうだい」
    ペンタゴンは手を下げると、薄く笑みを浮かべながら話した。
    「実はこのアイデアは、フィオレのために考えたの。あの作戦はフィオレを図書館に連れていくことが目的だったわ。でも、今の蛇の手はもう誰も図書館に迎えてくれそうにないから、フィオレがこの先どこを居場所とすべきか、研究討論したのよ」

    「あの事件でのサムサラの出現で、私たちはかつて無い危機を感じた。あれは単に四人の強い戦闘員が現れたってだけじゃなく、超常アノマリーが他の勢力に利用されることで起こる、破滅的な結末を象徴しているんだ。情勢はとっくに緊迫しているから、私たちは信頼できる力を全て集結させる必要がある」

    「だからこそ、わたくしたちの考えた折衷的な解決策が、あなたよ」
    ペンタゴンがマーキュリーに書類を渡す。マリアンヌも興奮しながら隣で見ていた──彼女はとっくに知っていたのだ。
    「わたくしたちは新たなチームを作ることにしたわ。フィオレのように、まっすぐな善の心を持つ異常人員で構成されたチームをね。このチームはテラの大地の隅々に超常コミュニティを連絡、支援、建設する責任を負う。そして超常の脅威と、それを利用しようとする多くの陰謀から彼らを保護するのよ」

    「最後に、わたくしたちはこのチームの隊長に、あなたが一番相応しいと思ったの」

    マーキュリーは驚きながら書類を受け取り、ペンタゴンを見て、フローライトを見て、隣のマリアンヌを見て、もう一度書類を見た。ラミネート加工された任命証には、今ペンタゴンが説明した内容がはっきりと公式に書かれていた。エリートオペレーター達の連名署名と捺印が、その正当性を証明している。
    「わ、わ、私どうすればいいの?」
    いつもハキハキと喋るマーキュリーも、今ばかりは言葉がつっかえる。

    「コイツめー、まずはしっかり療養すること。隊長の制服が似合うかどうかは、これからわかるからさ」
    マリアンヌは満面の笑みで突然立ち上がる。
    「隊長に報告します。オペレーターのフィオレ、ただいま正式に帰隊しました!」

    朝の光が病室を、そこにいる一人一人を、そしてフィオレの瞳を輝かせた。マーキュリーは手を伸ばし、フィオレの手をしっかりと掴む。書類は体から滑り落ちて、ベッドの上で太陽に照らされた。栄光と責任と伝説、そして無限の可能性を表す、とある名前。書類の最後に記されたその名は、陽光の下で燦燦と煌めいていた。

    「機動部隊:残された希望」







    SCP-2000放送文面

    この放送はSCP-2000の位置を特定できないことが確認されました
    これは録音メッセージです


    このメッセージを受信した全ての存在へ

    君たちは、様々な終焉対応プロトコルや超常の力に頼り、文明を滅ぼすK-クラスシナリオを回避したのかもしれない。或いは、君は新たに加わったメンバーで、再起動計画に感化されたのかもしれない。或いは、君はただこの放送を受信して解読できる財団の放送装置を拾っただけかもしれないし、更には君自身がその装置であるか、全く別の生命体である可能性もある。

    君が何者であろうと、私は最初にこう言いたい──ありがとう。君たちが財団のために、全人類のために行った働きに感謝しよう。

    世界は黙示録の日に破壊された。それは我々が向き合わねばならない真実だ。けれど無数の優秀な人々は、それで諦めはしなかった。数千年後の今日、この放送を聞いている君は、きっと末日を越えて尚、修復のため努力しているのだろうね。私は財団の各種終焉存続計画には自信があるんだ、ハハハ。

    だからこそ、私は次にこう言いたい──手放せ。

    文明は既に彼女自身の存続を見つけた。SCP-2000であの女性が新たなる始まりを選ぶことに同意した時、私はとうに理解していた。地球は常に生命のため道を開き、この大地も最後には文明のため道を開く。人類の文明だけが歴史と化すのだ。

    我々は、潔く自分たちの駅で降り、列車が遠くへ走り去る姿を見送るべきだ。無理矢理に人類文明を蘇らせようなど、稚気じみた行いではないか。

    SCP-2000は既に自身の座標を隠した。次にプレートレベルの急激な地殻変動が発生した場合、文明再建のための重要施設は二度と発見できなくなるだろう。もう探しに戻って来るんじゃない。それはただ、過去への執着をずっと手放せていないだけだ。

    私のような存在は孤独には慣れていると思っていた。だが実際に決断してみると、やはり寂しいものだ。心の底では君たちに傍にいてほしいと望んでいるが、君たちは過去に束縛されてはならない。新世界の列へ加わる時だ。私は信じている。この放送を聞く見知らぬ者よ、我々はいつの日か再び出会うだろう。

    我々はきっと、あの終末の地エンドフィールドで再会する。

    私に問い合わせることを忘れないでくれ。

    ──管理者




















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執筆者: eyeluvu
文字数: 165277
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最終更新: 18 Sep 2023 16:30
最終コメント: 09 Apr 2023 07:54 by eyeluvu

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  1. portal:4480250 (05 Apr 2020 06:54)
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