リビングは相変わらず秩序の下にあった。いつもと同じ夜8時ぴったりに三上は昔ながらのクッション張りの安楽椅子に腰掛け、目を閉じながらオーディオからの旋律に耳を傾けている。曲目は学生時分から愛聴しているヴァイオリンソナタだ。取り立てて有名でもない曲だが、どういう訳か気に入って転地してもこのレコードだけは手元に残してある。この大邸宅の唯一の住人である三上にとって、この曲を聴く時間ほど心の平穏を感じる時間はなかった。世の中の雑事から切り離されることによってまるで自分以外の人間は滅び去り、自分がこの世界に君臨する神のような心持ちになる。とりわけ今夜のような荒天にあっては、容赦なく屋根を穿とうとする雨粒も外壁を削らんばかりに吹き荒ぶ風が織りなす大いなる大気のうねりが曲目の一部のように響いて、梶井基次郎が書いた「器楽的幻覚」を追体験するような心地にさせた。言い得ぬ全能感が三上の五臓六腑に染み渡っていた。事実として三上は財団職員として世の異常非異常を問わず見るべきものは見てきたし、自らの手腕を武器として偽装サイトの長にまで上り詰めた。したがって第三者からは思い上がりと捉えられても仕方がないというようなこの自意識も、事実として彼の職能に裏打ちされたものなのである。この世の摂理を深く理解したうえでそれらに適切に対処できてきたし、今後も手を煩わせるような事態には見舞われないだろうという余裕が今の三上にはあった。しかし、一方で三上は自分の中に何かが欠落している気がしてならなかった。何一つとして不自由のないこの現状にこそ不満の種は萌芽し、アスファルトで固めたような自意識の地面を貫こうとしている。ヴァイオリンとピアノの演奏を背景にして三上は学生時分にかじった西洋哲学の講義を思い出していた。チョークと煙草の煙がもうもうと立ち込める階段教室でそれは繰り広げられていた。確かラカンという哲学者だったか、人間は目的を成就したとしても、同時に対象への幻滅を覚えるという論が紹介された。この主張に関しては三上は経験的に把握していた。ラカン某の持論については学者ごとに立場が分かれた。その対象への幻滅とそれに至る過程さえもひとえに空虚なものであると結論づけてニヒリズムに耽溺する者もいれば、この峻厳なる論を前に開き直って、要するに人間はそういうものだと割り切ったうえで更なる幻滅へと誘うターゲットを狩りに出ようとする者である。三上は後者だと自覚している。この古風な西洋屋敷も、自身が腰かけているポストと安楽椅子の愉悦にはとっくに飽いている。しかし、幸い新たな願望を成就させる機会が訪れる予兆は確かにある。それも今宵だ。今宵、飽くなき欲望にかりそめの終止符をこの手で打つ予定だ。
ピアノとヴァイオリンがじゃれ合う節が続き、ほどなくしてヴァイオリンだけが空間に取り残された。それでもヴァイオリンは健気に旋律を奏で続けている。普段ならばこの器楽が織りなす悦楽に身を任せ、職場から持ち出したウイスキーをロックかトワイスアップにしてちびちびと喉に流し込み、食道と胃の粘膜が焼けただれるのを楽しんでいたものだが、今夜はそうはいかない。計画の遂行には万全を期さねばならないからだ。ましてや商売道具の酒で足をすくわれてしまってはなんともやりきれない幕切れとなるだろうことは、三上も重々承知していた。
全能性に満ちたこの空間に突如として楽譜にない無粋なノックの音が響いた。音の出どころはリビングをすぐ出たところの玄関からだということは明白だった。ついで、レコードを止めに行く猶予も与えないやかましい追撃がドアを襲った。もうそろそろだろうと思っていたものの、三上は舌打ちをした後、神経を昂らせながらもその素振りを見せないよう悠然とした足取りで玄関に向かった。この数歩のうちに気力が一気に消耗した気がした。革靴を履いて扉の前に立つ。向こうには見慣れた仇敵が立っているはずだ。開け慣れたはずのドアは重かった。ドアのきしむ音が高くなるにつれ、天井の照明が招かれざる招待客の全貌をためらいがちに照らしていった。扉は完全に開け放たれた。そこに立っていたのは他でもない、三上自身が呼んだ五十幡副所長だった。
「来てくれたね」
三上は形式ばった微笑みをたたえた。
これに対し五十幡は不承不承といった様子で目礼をした。明らかに三上から顔を背けたがっている。昼間、研究室の同僚に見せるひょうきんな態度も今は見る影もない。ご自慢の車から軒先までのわずかな距離を歩いただけにもかかわらず、暴風のせいで全身すっかり濡れてしまっていて、紙のように白くなった顔にはこの邸宅の庇にたどり着くまでの苦闘がありありと見て取れた。三上にとっては五十幡の受難は痛快だったし、しかもこれから自身を襲う激烈な不幸を自ら予告しているように見えて一層滑稽に思えたのだった。そんな三上の気も知らないで五十幡は悄然とした様子で前髪からこぼれる水滴をただただ見つめていた。
「こんな天気だ。夜も長いし、家に入ろう」
「はあ」
気のない返事を確認してから三上は五十幡を招じ入れた。
五十幡は落人のような恰好で頼りなく三上の手招きに応じた。三上はすでにこの時点で計画の成功を確信していた。気になる点といえば、無作法にも開きかけのビニール傘から雨水を滴らせ、ビロードのカーペットを汚していることくらいだった。玄関の傘立てに立てかける気は元よりないようだった。話を早く済ませようという魂胆があるのかもしれない。三上はその蛮行に鼻持ちならなかったがしかし、これも自身の地位をより確固たるものにする手段だと言い聞かせて自制した。五十幡は形ばかりの黙礼をした後、三上の後を追った。家主の先導の下、一行は不調和なコロニアル風の内装の廊下を抜け、ダイニングキッチンにたどり着いた。空々しい懐古趣味的なタイルの床がその部屋の唯一の個性だった。
生活圏の中枢に戻ったことで三上は安心してため息を吐いた。そして台所の奥へ身を退いた。その間五十幡はカウンターに肘をもたせかけて気だるげな様子で辺りの調度を見回していた。今夜の会合によりどんな成果が得られるか、また数ある自分の語彙でどのようにして相手の懐に切り込むか、そういった算段を立てている最中なのかもしれない。しかし三上は相手がどう出ようと致死的な手法で眼前の仇敵を討つのに変わりがなかったため、幾分五十幡よりも楽な立場に置かれていた。ただ、今から繰り広げられるであろう茶番という名の口論で相手を打ちのめしてこそ、真の威厳は保たれるのだという気負いがないわけでもなかった。五十幡に振り向き、三上は当主らしい威厳を発しながら言った。
「すまないねこんな天気の中呼び出して。ひと心地入れた方がいい。コーヒーはどうだ」
「結構です」
三上は無視してコーヒーの入ったポットを傾けた。五十幡の分を注ぐつもりは毛頭なかった。
普段のひょうきんな物言いも鳴りを潜めている。相当頭にきていると言っていいだろう。
三上は口火を切った。
「考え直してくれたか」
話を切り出すと五十幡の顔の陰影が更に深くなった。
「何度言っても無駄ですよ」
何度も聞いた答えが返ってきた。そう言うと分かっていたので三上は大して驚かなかった。
「明日朝にもサイト支部の会誌に告発します。あなたが私の研究成果を横取りして発表したとね」
今夜で何度目の再演となるだろうか。他の研究員がはけた後の研究室、五十幡の書斎、深夜のカフェテリアの片隅でこのト書きは繰り返されてきた。そして千秋楽を迎えるのが他でもない三上の自宅となるわけだ。三上は何かしらの因果を感じた。少々感慨に浸った後、三上は机を爪で叩きながら口を開いた。
「口の聞き方は大学院で習わなかったのかな?」
形ばかりの笑みを作って五十幡は言う。
「もちろん心得ているつもりですよ。ハイエナを前にした口の聞き方は習うまでもない」
「そうなると」
三上は蔑みの視線を投げながら
「お前は生粋の強請り屋ということになるな」
五十幡はせせら笑った。
「強請り屋とは人聞きの悪い。私は自分の著作に対する正当な権利を主張しているだけですよ。あの論文の執筆と諸々の実験に関しては、私しかタッチしていない。あなたの名前を記載するだけの紙幅など、もとより用意されているわけがないでしょう」
物分かりの悪い生徒を諫めるような口調だ。
高踏的な物言いに三上はたまらずやり返した。
「そもそもは、だ。自分のちゃちな研究を世に出したいと頼んできたのはお前じゃないか。この実験が果たして安定した成果が得られるかどうかも怪しいから、ひとまず形ばかりの査読を俺が通してから会誌に掲載するという流れについてはお前も同意の上だったろう」
三上はしまった、と思った。獲物を前にして声を荒らげては捕食者の名折れだ。
これ幸いとばかりに五十幡が一気呵成に切り込んだ。
「ああ、そこまではよかったさ。しかしあんたが俺に何も相談しないで共著という体裁にして、しまいには掲載直前になって俺の名前を消してあんたの名前だけを記載した。言うまでもなく盗用じゃないか。」
形勢が五十幡に傾き始めた。三上はやり返した。
「口利きに対する当然の見返りだろう。今までろくな実績もなかった人間が書いた論文なんて誰が見ると思う?確かに君の財団での肩書きは立派だがそれを下支えする土台は何もないじゃないか」
「その言葉はそっくりあんたに返そう」
五十幡は追撃の手を緩めなかった。三上は奥歯が軋むのを感じた。
「記憶処理の抽出についてはあんたよりも相当の経験があるし、あんたの知識は俺が教えた閾をでない。俺自身確かに同業者よりかは研究の実績は少ないかもしれん。だが今はどうだ。え?記憶処理薬の抽出、そして精錬方法の画期的な能率向上。財団薬学部門の誰もが机上で、画面上で夢見た成果を、俺は実際にこの手で生み出した。この分野に疎いあんたのような人間は分からないだろうがな、俺の研究は瞬く間に日本、地球外を含めた全世界に影響を及ぼすはずだ。いいか、これは俺でないと完遂できなかった研究だ。そして俺にこそ考案者としての栄誉に与る資格がある」
五十幡の演説が全方位の壁という壁に反響し、三上を包囲した。そう思った矢先、五十幡の口から同情のような、憐れみのような調子で。
「あんたはもう酒造りが趣味の隠居じゃないか。今更最先端の論文を出しても怪しまれるだけだ」
引導を渡しているつもりらしい。その哀惜に満ちた声音が三上の反抗心を一層駆り立てた。
「それでも今、研究者として名が売れているのは俺の方さ」
「新しいそば焼酎の発明者としてか?」
この時ばかりは三上は相手の胸倉につかみかかろうと思った。今、五十幡は三上の目をまっすぐ見据えている。挑みかかるような視線を投げ、三上の挙動を完全に牽制する効果を発揮していた。三上はここでの討論はあきらめることにした。これ以上会話を続けても倦怠期の夫婦以上の会話が生まれないことは分かり切っていたことだ。
途端に三上はしおらしく肩をすくめた。
「分かった、分かったよ。俺の負けだ。五十幡君、君は実に見込みのある研究者で組織人だ。こうして見ると俺はかなり分が悪い。成果物の横取りなんて世間が許さないだろうしな。俺が自首するのを手伝ってはくれないかな、五十幡副所長」
三上の心変わりは予想していなかったようで、五十幡の表情に狼狽の色が浮かんだ。しかしそれもほんの一瞬のことで、自身の名誉回復の手段を突然鼻先に掲げられて、まんまと三上の掌の上に降り立つこととなった。三上は笑みをこらえながら
「そうだ、自前の装置で試験した結果が今頃できていることだろう。どうやらこの雨でネットの基地局がやられているみたいだ。古風な手段で大変申し訳ないが、USBでデータをとってくれないかな。データの入っているコンピューターは書斎にある」
書斎のロッカーから黒いつなぎを取り出して素早く着用した。このつなぎはサイト設備の保守を専門とする設備部門の制服である。五十幡の殺人計画を思い立った直後、三上はこれをくすねた。そして今日のような激しい雨の降る夜を辛抱強く待った。
屋敷の正面に車をつけ、西洋風の門扉を開け放つ。仕事から帰ってきた時と変わらず外は荒天が続いている。三上は路面を打ちつける雨音とともに遥か上空を流れる大気の唸りを聞いた。それはまるでたった今邸内で行われた非道に対する天の怒りのようで、三上の決意を若干鈍らせた。雨は凄まじく、息をするごとにむせ返りそうなほどだった。普段なら車を使うとしても外出を躊躇うような天気だ。そのためこんな状況にもかかわらず三上は建物の庇から出ていくのを億劫に感じた。彼は邸宅を振り返った。そこには依然として五十幡の死体が転がっている。彼は生じた迷いを振り払うべく首を軽く振り、作業に取りかかった。外を歩く者がいないことを門まで歩いて確認し、建物に引き返した。
三上が気づいた時にはベッドの中に身を収めていた。身体が尋常ではないほど発熱している。一息するごとに冷たい外気が肺を侵食していく感覚があった。この時すでに三上は不眠を予感した。
本部に所属していた頃保安部門と仕事を共にする機会があったが、彼らには財団科学の産物をどうにも持て余しているように見えたし、捜査方針は行き当たりばったりで外部の警察機関と大差ないと感じていた。
三上が殺人が実行された後に分かったことだが、その夜は折からの台風により山裾を流れる一級河川が氾濫し、偽装サイトを頂く〇〇山は完全に孤立した。辛くも通信設備は被害を免れ外界との交信は存続したものの、下界との往来は全く絶えて、サイトと麓を結ぶ道路の復旧は財団の技術を以ってしても
三上にとっては願ってもいない僥倖だった。
底知れぬ野心を慰めるための検査室からはあまりにも離れすぎていた。今や財団の記憶処理の精製分野に革新をもたらすための手段は、決裁の簡略化や根回しの効率化くらいしか残されていなかった。しかしやはり残った手札で所謂正直なポーカーをする気にもなれず、三上は犯行に及んだのである。
試練の朝がやってきた。三上は遂に殺人を実行した。しかし殺人事件の本番はむしろその後である。殺人それ自体は序章に過ぎない。これから三上が自分への名誉を守りおおせた上で残りの人生を安寧のうちに過ごせるかは、他ならぬ三上の双肩にかかっているのだ。しかし、いくらか覚悟を決めていたとはいえ、これから司直の追及を免れるためにあくせくしなくてはならないのは少々厄介なことだと三上は思わないではなかった。
まだ神経が昂っているためか心持ち早く起きてしまったようだ。しかし遅すぎるよりかは良い。今日はあらかじめ休みをとっていたので それまで
そして自分が毛布すら掛けず裸のままうつぶせになっていることに気が付いた。そしてこの状況が昨夜の幻覚のような惨劇の残滓であることに目が冴えていくとともに自覚されていった。
「今朝亡くなっているところを発見されました」
この衝撃的な情報が相手にもたらす心理的な効果を見定めているように見える。
「五十幡君が?」
三上は言葉を無くしたといった様子で頼逸を見つめ返す。頼逸は部下を亡くした人間に対するしおらしい態度を見せた。故人の元上司としての演技は上々だろう。
「どうして、どこでです」
「こちらから少し離れた雑木林の中です。敷地内ではありますが。後ろから首を絞められたようです」
よくよく近くで見ると一層シチリアンマフィアのような出立ちをしていた。
痩躯に黒いシャツをまとい、しかも黒を基調としたスーツを羽織っているときた。特に三上の目を引いたのは胸元に燦然と輝く臙脂色のネクタイで、常識的な範囲でめかしこんでいる。保安部門らしからぬ優雅な足取りで頼逸は三上に歩み寄った。どことなく親愛を込めたスムーズな足取りで。
ふかふかのタオルで撫でられたコーギーのような屈託のない笑みを見せていた。
「外行き用の名刺しかございませんがこちらでよろしければ」
言うや否や頼逸はスーツの内ポケットから手慣れた手つきで名刺を取り出して片手で相手に見せた。流麗な手つきだったので不思議と不作法だとは思わなかった。
若干気圧されつつ見た名刺にはこう書かれていた。
潮渦中央公園探偵事務所 所長
頼逸京介
神奈川県横浜市
「ほう、捜査官としてはうってつけの肩書きですな」
優位に立とうと持って回ったような
「桜ノ宮という部下がおります。生憎別用で現場を離れていてご紹介はできませんが」
頼逸は申し訳なさそうなポーズをとった。
案外仕事ができるように見えて、その実鈍感なのかもしれない。
「現場に出して経験を積ませるべきだとは分かっているんですが、なにせぼくの唯一の部下でして、これまた新人ときているから大切に扱いたいのです。これも親バカというべきなんですかねえ」はにかんだ。
「事務部門の小郷部長にご無理を申しまして、空いている独身寮の部屋をあてがっていただきました。数日のうちはそちらに腰を据えて捜査に取り組む所存です」
「他の人員は?」
その問いに頼逸は急に立ち止まった。そのため危うく三上はぬかるみに足を取られて転ぶところだった。頼逸は舞台俳優がするように額に手をやって首を振って言った。
「お伝えするのをすっかり失念しておりました。私は外のサイトからの増援と一緒に夜明けとともにこの山を上がり始めたんですが、途中で突然大木が風にあおられて道を寸断してしまいまして。運よく自分の車だけ山頂側にあったものですからひとまずお前だけ先に上に行けと言われたんです。かっこつけていうなら私は先遣隊のようなものです」
「ああ、雨の中かわいそうに」
この言葉は五十幡ではなく自分に対して発したつもりだった。
夜間の雨により今や死体がそこにあった痕跡を全て洗い流されてしまったようで、しかし、
土に染み入った五十幡の霊魂が、今にも叫び声を上げて三上の犯罪を告発してきやしないかと内心気が気でなかった。財団職員だからこそ、科学ではどうしようのないものの存在を嫌というほど見せられてきたのだ。それが起こらない保証などどこにある?三上は昨晩の陶酔に似た幻覚を思い出してふらついた。少し慌てた様子で頼逸は歩み寄った。
「大丈夫ですか。辛いことをさせてしまって申し訳ございません」
「いや、いいんだ。これも捜査の一環なんだから」
そして、自らの名誉のためなのだと心の中で付け足した。三上は自分にやるせない憤りを感じた。昨晩の五十幡との言葉の応酬で喫した敗北感が三上の脳裏に閃いた。
(確かに俺は失敗した)
三上は思った。しかし今度ばかりは失敗できない。目の前にいる男を口封じのために殺す手段はないし、実際にそうしたとしてもとても逃げおおせることはできまい。一瞬の合間にこんな思考が三上の脳髄を占めた。すっかり殺人者の思考に染まってしまっただなと三上は心中で自嘲した。
午前9時頃になって小郷部長を座長に公式の聴取の場が設けられた。列席したのは病欠の三上所長を除いた部門の長、五十幡副所長の研究室の面々といった具合だった。会合自体は厳粛な雰囲気で執り行われたものの、殺害に至るまでの経緯は頼逸自身が現場を回って得られた以上の成果はなかった。遺体が発見されるまでの経過も特段考慮に値しないほどのものだった。概略としては今朝6時頃に職員寮からジョギングに出ていた若月硏究助手が現場を通りかかったところ、薮の奥に目を惹く白い物が覗いているのに気付き、近づいてみたところそれが血の気の失せた五十幡副所長の顔だと分かり、すぐにサイト内の保安部門を呼んだという。世にある死体発見の状況のテンプレートのようなものだ。会合の直前に割り出された死亡推定時刻は昨夜11時頃から本日未明の3時頃までの間で、ちょうど台風が猛威を振るっていた頃だとされる。頼逸にとっての発見はこの点にのみとどまった。生前の五十幡副所長の人となりについては、実に起伏の乏しい情報しか出てこなかった。上層部が得られる限定的かつ皮相的な評判や、どれだけ勤勉で他の職員の模範たる人物だったかとか、弔辞を読み上げるような物悲しい調子で述べられただけだった。サイトの根幹を喪った職員達の心痛は推して知るべしというものだが、上辺を撫でただけの人物評は犯罪捜査においては何の意味も成さない。頼逸はハナからスキャンダルの暴露を期待していたわけではなかった。しかし、こうも小手先の表現を変えただけの情報が堂々巡りになってはこの会見に費やされている時間が双方にとって無駄に思えてならなかった。頼逸の眼前にあるのは、五十幡副所長の一大弁護団と言っても差し支えなかった。それでも頼逸は始終愛想よく振舞い、相手の言葉の端に哀惜の音色を聴き取るたびお悔やみの言葉を挟みつつ話を本筋に戻すようそれとなく促し、新たな情報の提供を粘り強く待った。しかし、これは全くの徒労だった。やがてサイト側からの報告が尽きたと見るや、頼逸は誰を指名するともなく質問した。
「あまり本筋とは関係ない質問で恐縮ですが」
仰々しく前置きをして言った。
「三上所長は今日お休みだそうですね」
何気ない質問に会議室全体が神経質に蠢いた。
「三上は病欠でございます」
代表して小郷部長が答えた。
捜査本部の本隊が到着するまでの時間稼ぎで、リハーサルの場に過ぎなかった。
「三上所長は、詳しくは覚えてませんが前は本部の部長級のポストについていて、五十幡副所長は和歌山にあるサイトの管理官をやっていたと聞いたことがあります。それまでお二人とも面識はなかったとか」
「見栄はって今日の昼までには着くと息巻いてますが本当のところ日没までに間に合えば上々でしょう」
「頼逸さんのことだし、もう事件の真相には辿り着いたんでしょう?」
「買いかぶらないでください」
頼逸は思わず苦笑した。熊代は能力を買ってくれているとはいえ、
「俺の上司に広島に勤務していた人がいましてね、そこで三上所長と働いていましたよ。評判は聞いています。はっきり言ってワンマンで、すぐ転勤になることをいいことに管理部門に横暴を働いていたとか、決裁の一つでも自分の思い通りにいかないところがあると癇癪を起すわでろくな人間ではなかったと。まあ、俺が直接会ったわけではないですが悪評は相当なものだと聞いています」
「なにせあの口うるさいものだから現場に色々しわ寄せが来まして、逆にとっとと昇進させて隔離しようという動きさえあったとも言っていました」
「それは相当ですね」
食堂はまさに職種のるつぼだった。一見したところでは研究職、技師職、事務職の人間が押し合いへし合い机を占領しようと躍起になっていた。比較的大きい机では職種ごとに固まって熱い討議を交わしていた。頼逸はこのサイトの人間の勤勉さに感心するような、呆然とするような心持ちになった。
悪戦苦闘の末、窓側のカウンター席が空いていることに気づいた頼逸は熟練のウエイターのような手つきで盆を手に持ちするすると人の間を縫って行った。
肘でコツコツとつつかれた。最初は喧騒の中でたまたまかすっていると思われたが、一定の間隔で何回も当たるので頼逸は横を向いた。見ると、灰色とも茶色とも言えない地味な色合いのベストとスカートを身にまとった事務員風の女性だった。背が低いうえに目が悪いようで頼逸は一瞬睨まれているように感じた。
「何か御用ですか」
「本部の方ですよね」
「そうです。分かりますか」
厳密には本部の使い走りのような立場だが、余計な会話を避けるために首肯した。
「そんな変わった格好している人このサイトにはいないんですもの」
「そうですかね」
改めて自分の服装をまじまじと確認し始めた頼逸を見てその女性はくつくつと笑った。
「本当に何でもいいんです。」
「大学で心理学やってて、実際こういうことも演習でしたことがあったんです」
童心に帰った様子で楽しそうに語る。
「フロイトの自由連想法ですか」
「そうです。よくご存じですね。あなたも心理学を?」
「英米文学です。エラリー・クイーン、フィッツジェラルド、ジョイスやらを。さあ、また集中してみてください。連想法をご存じなら話が早い。本当に何でもいいんですよ。どんな小さいことでも結構です。今朝はいつもより歯磨き粉を多く使ってしまったとか、前より上司の髪が薄くなったとか」
「これはまた大物が釣れましたね」
心から感心していった。貢献できたことに満更でもない様子だった。
「桜ノ宮さんにそう伝えておきますよ」
「ご存知かとは思いますが警備隊は保安部門の精鋭で構成されています。日曜学校の生徒やシルバー人材の寄せ集めではありません。訓練と実践経験を積んだプロです。彼らの網にかからないとなればやはり内部犯を嫌でも疑わざるを得ません。そう思いませんか」
「内部犯を疑う要因はもう一つあります」
「このサイトから出ていった方法をひとまず無視してもし外部犯だったら、どうして五十幡所長を連れ去らなかったのでしょう。発見が遅れれば遅れるほど犯人が逃走する時間を稼げるし、遅いに越したことはない」
「凶器をその場に置いていって殺しのプロとしてはお遊戯会レベルです。お粗末すぎる。お遊戯会で殺人劇をやるかは別として……」
殺人犯を前に滔々と私論を述べる。三上にとっては挑発以外の何物でもなく、不快そのものだった。
「しかし……」
「動機がない」
「そうなんです。そこなんですよ。所謂状況証拠は内部の人間の犯行であることを示しているのに、この研究所では、もちろん三上所長を含めて動機のある人間がいない。出世欲が動機であるはずがありません。仮に五十幡副所長を殺したとしてもその椅子には本部の人間があてがわれます。私怨のセンも今のところ全くありません。ぼくが聞き取った範囲では特にね」
2階の窓から盗み見ると、頼逸は歩いて研究棟に向かうつもりらしく、所々犬の鼻のように湿った路面を避けつつやや大股気味だが器用な足取りで前進を続けていた。しかし突如頼逸は立ち止まって木の葉に隠れた空を見上げた。腰に手を添えその様は不作を呪う農夫のようにも、三振を喫したバッターのようにも見えた。ともかく、頼逸の背には早くもこの事件が一筋縄ではいかないという覚悟と懸念がないまぜになった情感が宿っているように三上には見てとれた。いいぞ、いいぞ。そのままドツボにはまれ。お前にはGOCの犯行という逃げ道が残されている。面倒臭くなったらそう事件報告書に書くといい。保安部門の落ち度になるだろうが俺は構わない。何しろ俺はその場凌ぎのお飾りのポストにあるのだから。
記憶処理薬の精製を劇的に効率化させる方法
ほう、彼女があなたの愛娘ですか。
いずれにせよ私は暗闇の内に死にゆくさだめなのです。
音符の雨が降っては落ちた。
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任意A任意B任意C- portal:4440715 (17 Dec 2019 13:00)
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