カーラジオが音量を上げたと同時にサクラは目を覚ました。見回すと、サクラは車の後部座席に腰を沈めていた。
夢なのだろうか。それとももうここはゲームの中なのか?車の振動、暖房のかすかな埃っぽい臭い。移ろいゆく車外の景色。五感を通して得る感覚の全てがリアルで現実世界の延長のように感じられる。違和感は全くといっていいほどない。さっきまでいた実験室とは大きく異なるこの状況からして、これが現実ではないことは明らかだ。しかし、この絶妙な再現性のせいで、新米エージェントがそのことを受け入れるには多少の時間を要した。
ふと横に目をやれば、真田が車の進行方向をまっすぐ見据えて座っている。自分の体勢を確認してみる。サクラは彼の腕に寄りかかって眠りこけていたことに気づいた。慌てて座り直して外の景色に目を移した。少々取り乱しているところを彼に見られたりしていないだろうか。上司であるとはいえ異性であるので、多少はそういうことも気になる。窓の外を見やる。
手前のガードレールの過ぎ去り方を見るに、車は法定速度の上限を優に越しているだろう。
車は真冬の山中を疾走しているようで、大粒の雪が窓に叩きつけられては舞い上がっている。
林を抜けて時折開けた場所に出るが、雪がどっさりと積もっただだっ広い休耕地のような場所ばかりで、また地表には地吹雪が絶えず吹き付けていて見ているだけで体の芯が震えてくる。建物といえば、放棄されたと見えるトタン屋根の小屋がたまにある程度で、ここがとんだ片田舎だということは容易に想像ができた。サクラはしばらく車外の景色をぼんやりと眺めていたが、風景に関してこれ以上特筆すべきものもなければ収穫もなかった。
前に向き直ると、やはりと言うべきかメーターは雪道であるにもかかわらず70km前後を指していた。サクラはそれに若干の不安を覚えた。舞台に着く前に死にたくはない。
「おっ、目を覚ましたかな眠り姫」
男の声がした。このキザな台詞を発したのは真田ではなく、運転席に座っている男性だった。
その声は往年の吹替声優のようで、深みのあるバリトンだった。顔はバックミラーの角度のせいで見えないが、きっとダンディーな男性に違いない。
「いや、すみません。うちの桜ノ宮は地方への取材は初めてでして、長旅に慣れていないんです」
すかさず真田がフォローに入る。意識を取り戻したタイミングは自分と同じだったろうに、そんな気の利いた台詞をすぐに口に出せる辺り順応力が高いんだなーとサクラは不思議と感心してしまった。そういえば、私はここでは出版社の編集者だったな。自分はまだ夢うつつなので、自分もしっかりせねば。
「いやー、行きの」
「え?」
やってしまった。サクラは血の気がサーッと引くのを感じた。
「」
戸柱は混線し始めたラジオを切り、ハンドルを握りなおす。
十字路に差し掛かると車は急に減速し、乗員の上体はがくんと前のめりになった。
「どうしたんですか急に」
「急にごめんね。こういうとこにマッポが張ってるからさ」
渋い声でマッポという俗な単語が出てきたことにサクラは虚を突かれた思いをした。人は見かけや声だけではないということか。
何気なくそう考えた時、サクラはハッとした。同じ出版社の同じ編集部という一見我々に近い立場の人間でも、これから起こる予定の殺人の犯人である可能性は捨てきれないのだ。語り部と親しい人間が犯人であるケースも今まで読んできた推理小説の展開ではままあったことだ。
そうか、
(まあこんなことは山荘に着いてから考えればいいか)
外の景色といい、車内の会話がとても自然で旅館のゲームの筐体を通してこの世界を見渡していることになかなか慣れない。まだ事件は起こっていないのに、この時点でサクラはページをパラパラ繰るだけでは味わえなかった臨場感を噛みしめていた。その間も、小さい
サクラ達を乗せた車は黒い屋根の邸宅の前に止まった。建築に造詣が深くないサクラにも、この家の外観がなかなか意匠を凝らしたものだと想像できた。
車を降りたサクラは辺りを見回す。
サクラ達が目覚めた辺りでは平野が見渡せたが、それから30分後くらいに車は森に入って行った。そこからまた山並みを遠慮がちに分け入っていく小道を辿った先にあるのがこの豊雪邸だ。
「へえ、小説でも使えそうな名前だ」
私はゲームの中でも名前を面白がられる運命にあるのか、とサクラは辟易する。
「いやー、私としたことがこの先工事中の標識を見逃しましてね。そのまま一本道のところに入ったっけ、そっからまた引き返して一山余計に越えて来たんですよ」
「標識を見落とすとは荻野君らしくないね」
「ちょうど国道でも一本道に入る直前のとこで工事をしてたんですよ。車線変更に気を取られて気がつかなかったんですよ」
唇は薄く顔つきは狐の面のようで、先程の言動も相まって軽薄そうな印象をサクラに与えた。
しかし、何よりサクラにとっては鼻持ちならなかった。
女性の方は忙しなく小さな手に息をはあはあ吹きかけている。車の暖房が効いていなかったのだろうか、手は青磁もかくやといわんばかりに青白い。
西野勝浩はその巨体をソファーに沈めた。
背もたれの付け根にしっかりと腰かけているようだが、腹の贅肉は太ももに乗っかっている。そのあまりの貫禄から、もし我々が西野夫婦よりも到着が遅かったら、西野をこの家の主人と勘違いしただろうとサクラは思った。
リビングの絨毯の上で暫く談笑していると、奥のドアが開く音がした。
サクラと真田は気づいたようだが、他の面々は気づいていない様子である。
「あ!」
それとほぼ同時に西野夫人が黄色い声を上げる。
スラっとした体格の女性がおずおずとした様子で入室してきた。
「ああ、深雪、起きてきたか。早く皆さんに挨拶しなさい」
深雪と呼ばれた女性は早歩きでテーブルに近づき一同にぺこりと頭を垂れた。まだ寝ぼけているようだ。彼女の立居振る舞いから、深雪が人前にあまり出たことがない類の人間だとはなんとなく二人には理解できた。
一言も喋らずおどおどしている娘に痺れを切らしてか、豊雪が口を開く。
「あー、真田君と桜ノ宮さん以外はご存知かもしれないが、こいつは私の愛娘である深雪だ」
愛娘と聞いて深雪は気恥ずかしいのかますますもじもじする。
彼女はくたびれてところどころ毛玉がついた濃紺のタートルネックのニットに色が落ちかかった水色のジーンズという荻野とは対照的にカジュアルな格好をしている。人によってはずぼらと表現するかもしれない。しかし、ニットの上からでも分かるほどのほっそりとした体格と、石膏の彫刻のように端正な顔立ち、そして伏目がちな視線も相まってどことなく物憂げで薄幸な雰囲気を醸し出しており、服装をものともしないほどに美を体現している。
少なくとも、サクラを若干嫉妬させるくらいには美しかったのである。
素肌が見えている部分は今しがた豊雪邸に到着した西野夫人と同等か、それ以上に白い。痩せぎすとまではいかないが、線の細い体型とその整った顔立ちは深窓の佳人という言葉がピッタリ当てはまる。
豊雪の紹介が終わるや否や、先ほど
役者は出揃った、ということか。
この中の誰かが人を殺し、誰かが殺されることとなる。
先程からサクラは忘れそうになるが、
影法師
深雪はマグカップの中身を真っ黒な液体が占めていくのをしげしげと横から見つめていた。
「何にする?」
「ポート・ワインをお願いします」
おそらく・(なかぐろ)がつくであろうところも律儀に間を置いて喋る。
「はいはい、いつものね」
葵は慣れた手つきで棚からボトルを取り出した。長年この豊雪邸には出入りしているのだろう。
その途端、荻野は「あ」と短く声を上げて戸柱の方に向き直る。
「これから座談会ですけど、少しくらいなら飲んでいいですよね?」
頼む前に確認しとけよとサクラは思ったが口には出さなかった。
「ええ、口が滑らかになって喋りやすくなるからいいですよ」
「ポート・ワインっていうのはね」
サクラは早くも荻野の喋り方に辟易としてきた。
「そうだ忘れてた」
彼は人差し指を立てて言った。
「ポート・ワインは葉巻と合うんだ」
「へえ、葉巻ですか」
頼井は興味深そうに眉を上げる。
「ちょっと」
突然、葵がキッチンから口を挟んできた。
「吸うなら他の部屋で吸ってよね、深雪ちゃんタバコの臭い苦手なんだから」
台所の方へ振り向くと葵の横で深雪は申し訳なさそうにお辞儀をしていた。
「ああ、分かってますよ」
荻野は演技っぽく不貞腐れながら言う。
「ちょっとばかり柳井先生の葉巻を拝借してこようか」
「今の僕にとって葉巻はエラリー・クイーンにとってのファルコナーの初版本並みに優先順位が高いんだ」
とりあえず、作家たちが到着した順番をメモに書くことにした。
「君も小説を書くの?」
突然横から声をかけられてサクラは情けない声を出しそうになった。脇を見ると、人の好さそうな
「そんなに熱心にメモを取ってるなんて、僕らみたいだね」
横にいる勝浩に同意を求める。
怪しまれたか。
「いやいや小説なんて!私は想像力がないのでそんな」
サクラはなんとかしてこの話をうやむやにして終わらせたかった。
しかし、それでは終わらせてくれず一場は少々熱のこもった調子で続ける。
「いや、どんなジャンルであれ小説は想像力が全てじゃないよ。ぼくは調べた情報の数が物を言うと思ってる」
「なにも一から物語を紡ぎ出さなくていいってことだよ」
「そしてその調べた情報を飽くまでもひけらかそうとせずに、自然に物語に挿入させるんだ」
格好だけ見てふてぶてしいと思っていたが、勝浩は案外良い人かもしれない。
サクラが思案投首していると、
先ほどの家庭的な雰囲気は影を潜め、艶めかしいオーラを周囲に発散している。彼女の緩慢な動きから、酒を飲んでいることは明らかだった。
雲よりも遠い
酒の一口目を飲んだ直後に誰かが昏倒し、
乾杯の音頭を任されたのは戸柱だった。
各々がガラスを傾けるのを、サクラは注意深く観察した。
しかし、サクラの読みは幸か不幸か外れた。誰も一口目で倒れる人間はいなかったのだ。
サクラは心のどこかで残念がる自分がいることに若干不謹慎だと思いながらも、他の作家達との酒宴に参加した。
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