アダマント・アロー

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Cold Water

 空はいつも期待以上の姿を現す。冬山に閉じ込められた時の星空は、計画通りに行かずに荒んだ心を洗い流してくれる。がたがた揺れる戦闘機で何も考えずにアフターバーナーを点火し、ブルーからブラックに色を変える空を見るのも良い。しかし、そこに潜む魔物たちも、もれなく期待以上を見せる。黒ずんだ銀のような色の海と、粉雪が舞う白い空。一九八四年十月の、例年より幾分か早い雪が、冷たい水に浮かぶベーリング海沖の海上プラントに降り注いでいた。

 この石油採掘プラントに偽装された基地には、財団の初期収容任務および防衛を主任務とするアラスカ第二航空隊が駐留している。米空軍からここに配属替えになった四人のパイロットたちは、こぢんまりとした会議室に集められていた。白く無機質な壁が包み込む空間。無骨な蛍光灯と偽の木でできた机を、パイプ椅子で飾り付けたような退屈な部屋だった。机に置かれていた紙の資料をペラペラめくっていると、いかにも情報将校風の神経質そうな男が部屋に立ち入ってきた。背中がピンと伸びており、制服をしっかり着込んだ眼鏡の彼の階級章を見るに、どうやら少佐であるらしい。

「さて、エルメンドルフからこの海上プラント、オリヴィエに来て早速で悪いが、諸君らには空に上ってもらう。教導隊の強い希望で、オリエンテーションは空から始めることにした。奴らにどんな意図があるのかは知らんが、とにかく手元の資料には目を通しておけ。多少操縦特性が変わっているとはいえ、諸君らは空軍のF-15によく慣れているだろうから、我々の機体にもすぐに慣れてくれるだろう。まあ、そんなに気張らないでくれ。今日が気楽でいられる最後の日なんだ。それじゃあ、三十分後に格納庫でいつでも飛べる状態でいてくれ。」

 見た目に反して、朗々とブリーフィングを済ませた彼は、来たときと同じように手早く退室した。資料によると、財団はF-15に多数の改造を施したらしい。米軍に供給されているものよりも出力が四割大きいエンジンや、ミサイルを二二本まで積むことができるハードポイントに、対機ミサイルや長距離空対空ミサイル運用能力の追加、それにデータリンクの強化など、多岐に渡っていた。外見は殆ど変わらなくとも、中身はまるで別物だ。F-15の別名はイーグルだが、財団の大鷲に比べたら、米軍のそれはせいぜいトンビがいいところなのではないか。これを十全に駆ることができたら、ひとまずは向かうところ敵なしになるのではないか。4人の新入生パイロットたちは、各々の思いを抱いて格納庫へと向かった。


 灰色の空と鉛色の海。その狭間を、無理やり布を引きちぎるみたいな音を立てながら熱波を吹かせて加速する金属の鳥が二羽。鷲の名を冠したその戦闘機は、チタン合金の軽量の機体に二機の巨大な出力を誇るターボファン・エンジンを搭載している。燃料庫から透明の液体がエンジンに吹き込まれ、空気と混合されて加熱される。不安定な炭素と水素が結合した分子は即座に空気中の酸素と化合され、高熱を発しながら二酸化炭素と水蒸気にその組成を変化させる。これによって発生した高温高速の噴流と、エンジンの脇を通った低温低速のそれが混ざり合い、航空機にとって最適な速度の気体の流れを作り出す。その力に押されながら、二機の灰色の鷲はなおも加速していく。

「新入生のやつら、わたし達にぜんっぜん気づいてないわ!先生!」

「そう叫ぶんじゃない。頭にガンガン響くからな。第一気づいてないのはお前の技術のおかげじゃなく、チャフのおかげだろう。」

 ミリ波帯による通信を通じて、鷲の駆り手たちは会話を交わす。片方は相当に若い女で、もう片方は相当に年を召している老人だった。二人の声からは、たしかに歓喜が漏れていた。お化け屋敷で怖がらせる側に回った時みたいな歓喜だ。飛行教導隊Σ-13は、北米に配属される財団の新人パイロットが最初に受ける洗礼だった。海面のはるか上には、四機のF-15がきれいな編隊を組んで飛んでいる。それと垂直の方向に向かって飛ぶ海面の二機は、その四機に向けてグンと機首を上に向け、そしてアフターバーナーを点火する。米軍に供給されているそれよりも数段出力の高いエンジン。その排気に含まれる余剰酸素がすべて燃料に食らい尽くされ、エンジンから二本の蒼炎が走る。1を下回ったパワー・ウエイト・レシオは完全な垂直上昇を可能にするのだ。一般に使用されるレーダー波の波長と同程度の粒径の金属粒子がアフターバーナーの光を散乱して、大鷲たちが天使の翼めいた靄を纏った。


 新入生隊一番機は困惑していた。先程まではうんともすんとも言わなかったレーダーに、機影が二つ写り込んだからだ。それも、自分たちの真下に。なぜいままで気づけなかったのか。まだレーダー波を吸収するような素材は実用化されていないのではなかったのか。米空軍で教えられたことを忠実に守ったのが仇になったか。彼の脳内の中で、数多くの仮説が立てられ、そして消え去る。なりふりかまっていられなくなったのは、レーダー照射の警告が耳朶を打ったときだった。

 しまった、反応が 

 編隊を組む新入生機の隙間を、さながらレーザー光線を針の穴に通すみたいな正確さと勢いをもって、蒼炎走る2機の大鷲が貫く。その風圧と気配に圧倒されて、新入生らは反射的に操縦桿をかたむけ、その機体たちを空に滑らせた。彼らは空軍の訓練では常に好成績を叩き出していた。それでいい気になってアグレッサー入隊の打診を蹴って、代わりにこの物々しい名前の財団に来てしまったのが彼らの運の尽きだ。出力のまるで違う機体に慣れぬまま空に放り出され、実戦ならば間違いなく二度はやられていたであろう無様を晒す。見せつけるようにスモークを炊く二機の派手な塗装の機体をにらめつけ、いつかギャフンと言わせる決意を胸にいだいた。


「諸君らは諸君ら自身にとらわれている」

 そうやって狭い会議室で講評、というよりは堅苦しい演説を始めたのは、齢六十ばかりの老人だった。確実に生き残り組だ。どのような手品を使っているかはよく知らないが、衰える体をどうにか動かしながら空にしがみついているような印象を受けた。彼の顔に刻まれたシワは、激戦を戦い抜いた戦闘機の弾痕の補修跡みたいに、誇り高くも痛々しく輝いている。彼の後ろに直立して不動でいる女は、この老人と全ての構成要素が逆であるように感じられた。男と女、老人と若人、堅苦しさとお気楽さ。唯一の共通点は、青い瞳だった。それすらも質の違う青色に見えてくる。配られた資料によると、二人が良き師弟関係だというのに驚くくらいだった。

「諸君がこれから入る世界には、あり得ぬことなどない。我々が想像できるものも、できないものも、何もかもが起こりうる世界だ。一瞬先の可能性は揺蕩い、諸君らの操縦桿の傾き一つが諸君らの二階級特進、あるいはアメリカが滅びる最初の一手になることもある。諸君らが入門しようとしているのは、このような世界だ。我々の至上命題は、人類と、その総意と、それが定義する全ての保護にある。どうか諸君らが我々の送り出していった雛鳥たちと同等以上の卵であると期待する。」

 言いたいことを言い終えた様子の彼は、女の方に目配せをしてやって、会議室を後にした。女はセミロングの金髪を後ろに一度流してから、老人の立っていた位置に一歩足を踏み出した。部屋を覆っていた重苦しい空気が霧散する。彼女の高原を吹く風のような爽やかさが、少女めいた起伏の乏しい外見とよく調和していた。

「きみたちが先生の声を聞く機会はそう多くないから、覚えておくと良いわ。空戦の理論はわたしが解説する。財団の開発したレーダー吸収材の特性、実際に私達が送り出した部隊の実績もわたしが解説する。さあ、必死こいて着いてくるのよ。ここではすべてが起こりうる。けど、自分を見失わないでね。以上、オリエンテーションは終わりとします。」

 手元の資料に想像よりも一音高い彼女の声は、しかし有無を言わせないような迫力を持っていた。しかし、先程の老人のような圧迫感と空虚を押し付けてくるような感じは一切なく、むしろ子供を優しく諭す母親のほうが近いような雰囲気だった。

Sky, Deep Sky

 青い空に白い雲。深い空の海と表現するが正しいその場所から、ひとつの影が現れた。それは巨大だ。最新鋭のジェット旅客機などとは比較にならないくらい巨大だ。大きめの空母くらいはあるのではないかという影は、空を舞うものとしてはいささか奇妙な形をしている。概ね正方形であり、長い尾を空中にたなびかせ、頭の部分には二つの触覚めいた突起が生えていた。翼には片方ずつ8個のプロペラが備え付けられている。その翼自体も波打ち、見た目よりだいぶ軽い機体を宙に浮かばせるだけの揚力を得ている。

 おそろしく生物的なフォルムのそれは、まさしく宙を泳ぐマンタと言い表すのにふさわしい。それは、体表の色を構造色めいて次々と変化させて周りの風景に溶け込み、そして太陽光を青くキラキラと散乱する靄を纏って雲海を悠然と切り裂いて泳ぐ。財団が米空軍と秘密裡に開発した空中空母=モービュラ号だ。この機は世界各地に迅速に武力を派遣できるコンセプトをもって、衛星軌道上で文字通りに飼育された。小規模の町が消費する程度の食料を燃料に、メンテナンス要らずで寿命尽きるまで飛び続ける理想の母機だ。普段はカナダの森林のはるか上に居るモービュラ号であるが、本格的な試験のため今日に限ってはベーリング海で回遊していた。

 薄暗く、そして生臭い匂いの漂う戦闘司令所は、いくらかの大型液晶ディスプレイと計器類の光に照らされている。この空中空母はいまだ試験運用中であるために、司令所の中にはレーダー担当、航空管制担当、操機担当、そして機長くらいしかいなかった。その他の兵装などは、すべて搭載されたシステムに任せるままだ。この機はレーダー波をよく散乱する金属粒子を絶え間なく放出しているし、肉眼に対しても体表の色を変化させることで目立たなくなっている。発見される余地などは殆どない。よしんばソ連に発見されたとしても今の疲弊しきったソビエトに何かが出来るとは思えない。財団はこのような経緯で、モービュラ号に派遣する人員を最小限にとどめているのだ。

「全く、下の基地にフェイルセーフはあるとはいえ、なんでわざわざベーリング海なんざ危なっかしいところに機を出すかね。 両舷全速、接近する大鷲と速度を合わせるぞ」

「両舷全速!」

 機長の号令を操機手が復唱し、柔らかい操作感のスロットル・レバーをいっぱいに押し込む。モービュラ号の両翼に備え付けられたプロペラが回転数を増し、同時に腹の底から突き上げる心音のような音が何重にも連続して機橋を揺らす。

「カーゴが接近。機尾格納庫扉、開きます。」

 航空管制官の号令とともに機尾が開き、そこからアンコウの提灯のように誘導灯が展開される。二機のF-15がモービュラ号と相対速度を合わせ、誘導灯の間に侵入した。ランディング・ギアをカメレオンの舌めいて絡め取るようにして固定すると、誘導灯は切り離され、自己消化のプログラムに従って水と二酸化炭素、それにいくらかの金属酸化物とアンモニアに変化して消滅した。二機の戦闘機をしまい込んだ機尾は再び閉じる。すると、機尾が開くことなんて知らないような、白くつなぎ目の一切ない曲面がそこには残された。

「何度見てもこの赤いのがランディング・ギアを食べるみたいに固定するのは気持ち悪いっすね、機長」

「仕方なかろう。これはそういう機なんだよ。わたしも正直この生臭さには辟易しているがね……。」


 モービュラ号の戦闘要員待機室は、不思議なことに松脂のような香りが漂っている。ビロード地が貼られた安楽椅子は心地よい柔らかさで、木製の机と毛足の長いカーペットは、何も知らない人がみたらスイートルームの一室かと思うほどの高級感を放っている。部屋の中には見事な髪をドレッドヘアにまとめ上げた筋骨隆々の黒人の男=ミッキー・ロウ少佐と、側頭部を派手に刈り上げた線の細めな白人の男=マーカス・ライアン少佐がいた。

「なあ、ミッキーさんよぉ。テストパイロットが来るんだって?二人もか?またサリヴァンの差し金かよ」

「そう、二人来るんだ。それと少し静かにしてくれないか、マーカス。あとちょっとでこの十一手詰めのショーギが解けそうなんだ。」

 へいへい、とクラシックギターの調律をしているライアンは机の上にブーツを投げ出した。毛足の長いカーペットを踏み荒らすそれを、ミッキーは胡乱げな黒い瞳で一瞥したあと、盤面に集中する。モービュラ号は、実験機であることも相まって、最低限の戦力しか搭載していなかった。それがこの二人からなるアイビス小隊である。大戦がおよそ三十年前に終わり、冷戦真っ只中のベーリング海上空において、ひたすらに演習を積む日々だった。マーカスはアグレッサーに行くよりも面白そうだからという理由で実験飛行隊に志願した。

「急に総意だの何だの言われてもねえ、実感なんざ沸かねえよ」

「どうした?」

 マーカスは手短に「なんでもない」と返した。いま、彼は過去の自分を殴れるものなら一発殴ってやりたい気分だ。煙草を胸ポケットから取り出し、火をつけようとするが、ミッキーの咎めるような視線を感じて思いとどまった。モービュラ号に与える影響が計り知れないので、この機はすべての区画が禁煙なのだ。目を閉じて、大げさにため息をつく。ミッキーは将棋の駒と盤をいそいそと片付ける。大柄な男がミニ・サイズの木片を取り扱うさまは、ジャックと豆の木を想起させて、いささかおかしさが感じられた。机の端に寄せられていた資料を足で寄せ、そしてざっと目を通す。それは「神経接続システムを利用した三次元空間認識能力の拡大」と題された論文だった。付随して、性能試験にやってくる機体の諸元表もある。

「サイコ・イーグルね。さすがはDARPAさんだ。」

 ライアンは毛玉を放るように言葉を投げた。その音は空中でほつれ、まわり、やがて消え去っていった。


 機橋に挨拶を済ませたあと、メリッサ・ニューランズはかつて師であった寡黙な老人を先導して、指定された待機室へと向かった。今年にΣ-13に送られる新人がいないことに作為的な何かを感じる。彼女のまとめられた首くらいの長さの金髪が宙にたなびく。なぜだか試験機とは別便の、食料品を山程積んだロケットのようなものでこのモービュラ号に乗り込んだ彼女は、機内にただよう牧場みたいな香りにいささか辟易していた。最初は新鮮な感覚だと思って面白かったが、慣れてくると良いものでもないことに気づく。親に連れられたつまらない牧場のことを思い出すからだ。背後の上背の高い老人は必要なこと以外何も言わない。自分の瞳と同じ青い空に憧れてパイロットを始めた彼女は、ただただ白いだけの曇り空に囚われていた。殺風景で生暖かい廊下を、案内に従ってしばらく歩いていると、それらしい木の扉にぶち当たった。強めにノックし、名前を名乗ってから扉を開ける。そこには、四つの安楽椅子を二つ並べて寝転がっている白人男と、それを困った目で見ている黒人男がいた。

「おやおや、女王の御成だ。後ろにいるのは爺やか?両方少佐だな。じゃあ楽でいい。俺はマーカス・ライアン。よろしくね。」

 女王じゃない!わたしはメリッサ。メリッサ・ニューランズです。後ろのお方は」

「フィリップ・ケイ。本日付でアイビス実験飛行小隊に配属された。宜しく頼む。」

「おい、マーカス。空に出られなくて苛立つのはわかるがいい加減にしないか。すまない。わたしはミッキー・ロウ。この通り、全員少佐だ。ふたりとも、宜しく頼む。」

「あ、靴は脱がなくていいぜ。女の生足は刺激が強いし、爺の枯れ枝も見たくねえ。」

 頭を抱えるミッキーの横に座り、そして小脇に抱えていたヘルメットを机の上に荒々しく置く。左足から左胸、そして折れ曲がって体の正中線を通るように二本の細いストライプがあしらわれているマットブラックのパイロット・スーツ。メリッサの首元には金木犀の模様が刻まれており、フィリップの方には薔薇が刻まれていた。ビロード地と擦れて奇妙な音を発する。マーカスはそれをその道10年のスリのように拾い上げ、何回か空中に放った。空中でくるくる回転するヘルメットを、メリッサはぽかんとした面持ちでみる。軍隊といえば、規律の厳しいところではないのか。しかし、この空間はまるでホームパーティ明けの朝のようで、すっかり弛み切っているように見えた。しかし、よく観察すると、ふたりとも歴戦の戦士独特の儚い目をしていた。マーカスの海の底みたいな目は常に品定めするようにこちらを捉えているし、ミッキーの木の洞のような目は常にフィリップの方を見ていた。

「ひゅー、かっこいい。このストライプが良いね。お嬢ちゃんのはオレンジで、じいさんの方は赤色か。さすがは泣く子も黙る財団サマだ。」

「返してもらうわ。あなたもわたしも知らないような技術が仕込まれてるのよ。落として壊したらどうするのかしらね。」

 マーカスがヘルメットを宙に放ったタイミングでメリッサは机に足を乗せて体を乗り出させ、ヘルメットをむんずと捕まえた。一連の流れを黙って見ていたフィリップは、赤いストライプのヘルメットを胸に抱えた。彼はパイロット・スーツの下に、地中に埋めたらそのままミイラになってしまいそうな体を無理やり動かすための人工筋肉の装衣も纏っていた。いつの間に全員の分のコーヒーを淹れていたミッキーは、机上の惨状にわざと大げさに眉をしかめてみせた。

「お前らは思春期のティーンか?ほら、これ飲んで落ち着けよ。」

 ライアンともどもミルクたっぷりの甘いカフェオレを渡されたメリッサは、この皮肉のセンスに失笑を漏らした。目の前のライアンをみれば、彼も温かいカフェオレを手に持って笑いをこらえていた。ミッキー自身とフィリップはキレののあるブラックを飲んでいるようだ。甘党のメリッサにとって、この皮肉は正直ありがたかった。


 この二人はいつもこうだ。新しい人間が来たらいじくり倒して出迎え、いつの間に仲間に取り入れてしまう。去るときには一筆認めるだけで、清い別れ方をする。パスカル・ビヨー機長はこの二人の存在がありがたかった。監視カメラで待機室を覗いていたクルーはもれなく吹き出し、パスカル自身も少し感じていた嫌な予感を払拭した。豊かなブラウンの口ひげを撫でる。制帽を正し、そして機長席に座った彼は、マイクに声を吹き込んだ。

「よし、仲良くなったようだな。諸君らは元気も残っているみたいだし、このまま試験機の性能チェックに出てもらおう。身構えなくていい。トムとジェリーみたいなもんだ。まあ、トムキャットは海軍に取られたがな。」

 画面の中で四人が敬礼し、ミッキーがブーツを履き、順々に部屋を退室したことを確認した彼は、監視カメラのディスプレイ電源を落とした。本来は新設される空母打撃群に配属される予定のパスカルだったが、様々な政治的な力学が絡み合ってこんな空飛ぶ実験機に落ち着くことになった。本来は海軍の少将であるが、空軍が操機のノウハウを持つ人間を強く希望し、更に物騒な名前の財団も圧力を掛けてきたので、半ば人柱になる形で空軍に配属替えになった。設備は上等だし、送られてくる物資も軒並み高級なものだから、文句を言うのは筋違いであろうと結論づけた。

「あれ、機長。神経接続一七から三六、カタパルトがロストしてますね。」

「む、またか。管制官、再起動は試したか?」

 もちろん、と返す彼に近寄る。すると、何の脈絡もなく後ろの方で隔壁が閉まる音がした。扉の上の表示が「機橋」から「エンジンベイ(立入禁止)」に即座に変わる。蛹の中身のようにいちど文字がドロドロになってから別のものに組み替えられた。ただならぬ物々しさを感じた彼は、号令を発した。

「状況を報告しろ。いいや、総員退機だ!いや、その前に飛行機を空に上げろ!爆砕ボルトを発破するんだ!」

「了解! 待機室、厨房、エンジンベイもロストしました!これは……緊急脱出プロトコルが進行中です!」

「クソッ、下に友軍がいるとは限らんのだぞ!」

 機長席の樹脂カバーに覆われた赤いレバーを引く。確かマニュアルにはこう書いてあった。「緊急脱出プロトコルには逆らうべからず」と。がらんどうの必要最低限の人数で回していた機橋の座席が次々に床に吸い込まれていく。この様子をもし空中から見ていた者がいたとするならば、マンタが産卵したようだと形容するだろう。羊水に非常によく似た栄養と酸素に豊富な液体と人間一人を包んだカプセルが次々と投下されていく。機橋に一人残ったパスカルが最後に見たのは、自らに襲いかかる赤く蠢く塊だった。


 敬礼をしたあと、メリッサはがらんどうの格納庫に立っていた。本来なら数十機の戦闘機を格納できるだろう空間にただ六機のF-15が鎮座しているさまは、まるで腹をすかせたサメの胃の中であろう。尾翼の片方に金木犀が刻まれている機体に乗り込み、なぜかぬめりを感じるシートに辟易しながら、パイロット・スーツの配線を手早くつないでいく。神経接続を使うこの機体は戦闘状況に応じて様々な薬剤を投与するのだ。このぬめりがどうしても気になって、整備士に聞いてみると、どうやら無人誘導に使ったダミーニューロンの残滓だったそうだ。

 機体の形状も普通のF-15とはだいぶ異なっており、コクピットの後ろあたりに尖った耳のようなカナード翼が搭載されており、エンジンの排気口は四角く、そしてそれぞれが独立して上下に動く。なぜか同情するような意識を感じながら、メリッサはカタパルトに上げられる機体の中で座り込んでいた。普通のF-15とはアビオニクスがかなり違うようで、フライ・バイ・ワイヤ1の採用によって、本来中央にあるべき操縦桿は右手を自然に伸ばした位置にあるし、ダイヤル類も全てが液晶のタッチディスプレイに置換されている。それにも関わらず、通常のイーグルより視界が狭く感じられるのは、神経接続を前提としているからだろうか。

 暗いカタパルトのなか、ひたすら待てども発射のGを感じるときは来なかった。左には尾翼に"01"と記されているミッキー機が、右を見てみれば尾翼に薔薇のフィリップ機が待機している。突如、フィリップ機が装備していたサイドワインダーがカタパルト上に落ちる。割れた白い外殻から頭を出しているのは、爆薬でも電子機器でもなく、ただ赤黒い塊だった。コクピットの中を見ると、マッスル・スーツが異様に膨張していた。ヘルメットのバイザーから覗く瞳には、ただただ冷たさがあったように見える。案内標識がぐちゃぐちゃになったあと、体がシートに引っ張られるような感覚。何回か経験した神経接続の予兆だ。そのまま意識が泥のように引き伸ばされ、手足の感覚が失われる。停止ボタンを押す間もなく。

 メリッサは今までの彼女の人生の巻き戻しを見ていた。冬のアラスカ、枝だけの針葉樹。灰色の海に、誰もいない町並み。頼んでもいないのに口説いてくるクラスの男子と、それを冷たい目で見る女子。つまらない牧場、青空。青い海、赤い夕日。つまらない牧場。姉の声。黄色い空。つまらない牧場。出産する牝馬。姉の声。姉の体温。やわらかさ。

「ロージー姉さん、あのお馬さん、苦しそう」

「いずれああなるのよ。メリッサ。あなたも、私もね。」

 それらすべてが凝縮され、まるで夢を見ているようだった。手足は翼に変わり、いま、彼女は空を泳いでいる。体内に感じる気持ち悪い温みはなんだろうか。自分が自分でなくなってしまうような心地よさだった。次の瞬間、彼女は体の中心に強い熱の輝きを感じる。それが爆発したあと、背中にちりりと痛みを受けて、彼女の意識は一旦途切れた。


 神経接続が切れた彼女が次に目を開けて見たものは、散開する二機のF-15と、口器に黒い棒のようなものが突き刺さったモービュラ号だった。機の背中には痛々しいまでに赤い裂傷が生じ、それがまるでテープを逆再生するかのように急速に塞がっていく。それは、あまりにも生々しい光景だった。

 一九八六年八月二五日。ベーリング海上空は所によって曇り。世界は鉄のヴェールで二つに分かたれ、全国的に狂気を観測している。

Pardon, Please

 ロシア西部、モスクワからおよそ四〇〇キロに位置するアルザマス市。アテナイの神殿を思わせる作りに擬宝珠のような形の屋根を何個かくっつけたような風合いの復活大聖堂は、人でごった返していた。復活祭の日にキリストの復活を記念する聖堂に人が満ちるのは自然なことだろう。絢爛な黄金の宗教画が包み込む身廊は信者たちで満たされており、聖歌隊の歌を今か今かと待っている。それは、待ち人がようやく来たジョニー・キリヤコフも同様だった。隣りに座った男=ソコロフは典型的なスラヴ系に見られる鼻が立った顔で、ずいぶんと毛根が後退していた。

「天の岩戸」

「ノックしてハロー」

 符牒で対象の人物が本人であることを確かめる。本人でしか知り得ない情報を鍵として暗号文を送った甲斐があったものだ。ソコロフはひどく怯えたハスキーのように震えながら、ヒビの入った革手袋を取った。ハンチング帽を目深にかぶって新聞を広げているジョニーの膝に手袋を乗せると、ジョニーは二回瞬きをした。

「お前が亡命希望の科学者だな」

「ええ……。いかにもそうでございます。しかし、何を開発しているかは問わないでくださいませ。ここで話すなど、あまりにもヤバくていけません。」

 寄付袋を持った男が講壇の方から歩みをすすめる。人が多い室内とはいえ、初春のアルザマスは寒い。男は異様なほどに汗をかいていた。その男の風体になにか感じ取ったジョニーは、あたりをキョロキョロと見渡した。同僚は何人か手の届く位置にいる。万が一自分が死んだとしても、同僚がうまく事を処理してくれるだろう。彼は不安げなソコロフを横目に、新聞を閉じる。そして、立ち上がって人の視線に逆らうように扉の方へと歩みを進めた。コツコツと反響する靴音。突然の轟音+左肩の熱さ=銃撃された。貫通はしていないから、前に倒れるのが正解。来たるショックに備えて、息を深く吸った。

 狙撃手=募金袋の男はすぐさま立ち上がった彼の同僚のひとりに取り押さえられ、そしてスモークを炊くことで現場をパニックに陥れる。その隙にソコロフはもうひとりの同僚に連れ出され、広場に止まったバンに押し込まれた。あたりを記憶処理の煙が包むまで、あと三十秒。


 吸音材が敷き詰められた部屋のステンドグラスは、年月を刻み込まれるようにして反り返っていた。まどから覗くアルプス山脈は、盛夏であるというのに雪をその頂にたたえ、ただそこに黙って在る。一三の椅子で囲まれているマホガニー製の長机のお誕生日席には、メガネを掛けた中年の男が座っていた。スイスはチューリッヒ。市街地中心から少し離れたところにある変哲のないビルの中。先の大戦で中立地帯に会合場所を作らざるを得なかった財団のセーフハウスの一つだ。男は呆れた顔つきで来ない待ち人を待つ。上質な棚から値段も知らないようなウイスキー瓶を取り出して勝手に飲んでいいことになっているのは非常にありがたいことだが、そろそろ医者から怒られやしないだろうかと感じる。ショットグラス三杯目。喉を通る熱くぬるりとした感覚と、よく燻したような木の香り。後味に僅かな甘みを感じる液体を喉奥に流し込んだ。

「遅れてすいません、パーシーさん」

「遅れ過ぎだ、ハリソンくん。毎度のこと待たされるこちらの身にもなりたまえ。つぎ遅れたら人事部に通告だぞ。」

「失礼しました。退職後はカメラマンでもやろうかと思います。」

 ノックもせずに扉を開けたのは、仕立てた黒無地のスーツを着た男=ベネディクト・ハリソンだ。190センチを超える長身の英国紳士である彼は、"ビッグ・ベン"という愛称を頂いていた。三年前まで早期警戒管制機に乗っていた彼は、ある日突然受けさせられた適性試験を突破し、財団管理部門中央統合司令局、通称"サマルカンド・クラブ"直属の監察官として雇用された。スーツを適当に放り、椅子にわざと音を立てて座る彼のもとに一ショットのウイスキーが滑り込む。彼はそれを無遠慮に飲み、感嘆の顔を作ったあと、上司に抗議の視線をやった。彼の赤いネクタイと薔薇のタイピンがいつにも増して喧しく見えた。

「きみにそういう目を向けられる筋合いはないね。復活祭の失態はいい。きみはまるで何かを知っていたかのように完璧にカバーしてみせたね。エージェント・キリヤコフも依願退職はしたものの有事の際には戻ってくれると約束してくれた。内部の漏水調査は、わたしがしよう。」

「そりゃ、ソコロフはやっと掴み取れそうな切符ですから。にしても、減給でも言い渡されるかと思いましたよ。いやいや、ぼくは貧乏人なので昼間っからこんな上等な酒を何杯も飲めるパーシーさんが羨ましいですね。」

 がらんどうの部屋に男二人の笑い声が満ちる。それも響くことはなく、吸音材の狭間に消えていく。不思議なほどに静かなアルプスの麓の部屋の中、彼らは同時に溜息をこぼした。莫大な金がかかった空中空母をロストしたのだ。フィードバックをもとに二隻目を飼育中とはいえ、これは大きな損失だった。クルーは軒並み深刻なトラウマを抱えて話せる状況にないし、パイロットたちもいまどこかに隔離されて連絡がつかない。

「目玉が飛び出るような値段のやけ酒することは実に楽しい試みだ。さて、きみを呼んだのはきみの従軍時代の縁を使いたいからだ。マンタのロストにはP部局が関わっていると見ている。サリヴァン中将には目を光らせているよ。逃げ出そうとしたらすぐに拘束できるようにしてある。きみには、東側の目論見を探ってほしい。」

「しかし、マンタのロストは昨日起こったことですよ。なぜあなたが知っているのです?昨夜は非番だったでしょう。」

「昨夜、外で深酒をしていてな。行きつけのバーに電報が届いたのだよ。さあ、さっさと行きたまえ。」

 ウイスキーをもう1ショット。ベネディクトはそれをもって、了承の返事とした。


 薄暗い塗り壁の殺風景な廊下を歩いていると、ベネディクトは向かいから知り合いが歩いてくるのが見えた。ロザムンド・ニューランズは彼の同僚だ。日本から戻ってきた様子らしい彼女は、どうやら自分と入れ替わりに報告に来たらしい。手を触れれば切れてしまいそうなほどに高い頬骨と濃い金髪、長身痩躯の彼女は冷たい印象を与えていたが、今日だけはやけに疲れが顔ににじみ出ているようだった。

「どうした、ロージー。随分と疲れているようだが。」

「みんな私のことをロスって呼ぶわ。妹が面会謝絶になったんだもの。誰だって疲れるわよ。」

「そうか。その件はぼくが取り扱う事になったんだ。それで、どうだった?日本は。」

 彼女は見えない空を仰ぎ見て、こめかみに指を与えた。家族間の関係はあまり良くないであろうと推察していたベネディクトであるが、彼はどうやらその評価を改めねばならないようだった。関係はあまり良くないが、つながりは強い。

「フーロ・イラガミは未熟なれど良いところを突いてくるわ。上はイラガミが何かを抱えていると見てるけど、私の印象じゃシロね。」

 あの人達に謀略は無理だわ、と彼女はひらひらと手を振りながら、会談室へと向かった。彼女が引きずっていた僅かな疲れた雰囲気は、見事なまでに消え去っていた。いつものカフェで、と繊細そうなブルーブラックの文字が書かれた紙が懐に入っているのに気づいた彼は、その紙片を目についたゴミ箱に投げ入れた。


 石造りの階段を降り、重苦しい金属の扉を開ける。その部屋には、一人が生活するのに十分な広さに、簡易キッチンに机と椅子、それにベッドが備え付けられていた。むき出しの壁の冷たい印象の部屋の中、ベッドに腰掛けるのは毛根がより後退したように見えるソコロフだ。慣れない国の慣れない生活で気が参っているのだろう。ベネディクトの入室にも気づかないくらい疲弊してしまっているようだ。ベネディクトはベッドに横になっているソコロフのそばに腰掛けた。

「我々としてもこうしてきみを狭い部屋に閉じ込めておくのは不本意なんだ」

 きれいなロシア語だ。ソコロフは思わず振り返る。自らの母国語が飛んでくるとは思っていなかったからだ。ベネディクトの新緑の瞳と彼の灰色のそれが交差する。ソコロフはベネディクトの横に腰掛け、背中を丸めて手をこすり合わせた。盛夏だというのに、この部屋は確かに凍える寒さだ。ベネディクトは懐にあるスキットルの存在を確かめた。パーシーに酒をもらったときにくすねてきたのだ。

「パーシーさんのまずい飯を食べさせられるのには同情するよ。だが、アレも慣れてしまえば悪くはない。ほら、これをあげるよ。だから、何を作っていたのか教えてはくれまいか?」

「ああ……ありがとうございます。でもわたしは酒を飲まんのです。それに、あなたもご存知でしょう。言ってしまえばわたしは心臓が麻痺して死ぬ。だから言えないんです。あなた達が医者を用意してくれるのなら別ですが 

 ソコロフは毛布にくるまった。彼は平均程度の身長だ。しかし、ベネディクトと比べてしまうと、どうしてもひどく小さく見える。ベネディクトは立ち上がり、スキットルを机の上に置いた。

「そうか。厄介なものだな。じゃあ、わたしはこれで失礼する。話す気になったらまた連絡したまえ。このスキットルは置いていくことにするよ。」

 そのまま外に出てしまおうとすると、後ろから「あの」と声が投げかけられた。ひどく震えた細い声だった。

「あの、あなた達が守っているという総意現実ってなんですか。こうしてまで守るべきものなのですか。」

 ベネディクトは曖昧な笑みを作って、部屋を退出した。


 むき出しの電球が照らす木造のカフェで、二人の男女が向き合っていた。午後時の店には、平日であるというのに人が満ちている。よく映画で見る食事の喧騒が実在していたことにベネディクトはいささか感慨を覚えていた。窓を背にして座るベネディクトはエスプレッソを頼み、小さいコップにこれでもかというほどの砂糖をねじ込んでいる。他方、ロザムンドは紅茶のケーキとブランデー入りのミルクティーを頼み、鮮紅色に塗った唇を濡らしていた。はたから見ればデートに見えなくもない。実際、ベネディクトも実際そう囃されることもあったが、彼は向かいに座っている女が果たして人間なのか疑っているくらいだ。

「何の用か?」

「用がなければ呼んじゃいけないのかしら?心を込めたお手紙を捨てられるなんて、私心が痛いわ。」

「貴公に脳以外の機能している部品があることにぼくは驚いているよ」

 ドイツ語、フランス語、イタリア語が飛び交う周りに合わせて、フランス語で話す。きれいなチューリッヒ訛りだったから、彼ら二人が外国人であると気づくものは誰もいないであろう。仏頂面で液体と固体を消費し終わった二人は、同時にカップをソーサーに戻した。ロザムンドは四人席の広い机の端に食器を寄せ、かばんから取り出した書類をベネディクトの方に滑らせた。彼がその書類をめくると、ロザムンドと耳の形がよく似た少女といっても良いような見た目の写真が現れた。仏頂面の写真の中の彼女と、ロザムンドの顔を見比べて、ベネディクトはぷっと吹き出した。

「妹君を見習ったらどうかね?少しは愛らしさを振りまけば交渉も有利になるだろうに。」

「そんなのはどうでもいいわ。圧力鍋って、圧をかければかけるほど肉が柔らかくなるじゃない?」

 ポニーテールにまとめられた色素の薄い金髪、幼い丸顔で起伏のない体型。それに、空の向こうをそのまま写したみたいな深青の瞳。メリッサ・ニューランズはアラスカ州立空軍でパイロットとして勤務し、二二歳の若さでアグレッサー隊入隊の打診を受けるも、これを蹴って財団のテストパイロットのスカウトを受け、エージェントとして必要な教育を受けたあと、すぐさまマンタに派遣された。プロファイリングの達人である彼は、顔の形や体型から性格が類推できることを知っていた。

「彼女、すごく共感性が高いように見えるんだが」

「そうね。昔一緒に行った牧場で牝馬が出産した時、お腹を押さえていたわ。それくらい強いの。人類全員と例外なく共感しあえるって言われても驚かないわ。」

 それがどうした?とでも問いたげなロザムンドを、ベネディクトは半ば憐れむような視線で見つめた。共感性が極めて高い妹に、極めて低い姉。運動が得意な妹に、苦手な姉。大人びた姉に、子供っぽい妹。姉妹間の関係を良いと推察することは出来なかった。気がつけば彼女はもう一組の書類をかばんから取り出し、今度はベネディクトに手渡そうとしていた。それを受け取ると、もうひとりのテストパイロットのプロフィールが記されていた。

 フィリップ・ケイ。ミッドウェー海戦にも参加したこの男は、米空軍パイロットの生き残り組の最後の一人だ。愛国心が極めて高く、財団の理念を心から信奉している彼は、マンタのロストと合わせてMIA扱いとなっていた。財団にスカウトされた一ヶ月後にはマッスル・スーツを受領し、そしてマンタに配属されている。ベネディクトは、ふと大英博物館で見た即身仏のことを思い出した。思いを成就させるためには自らを人柱にしてもおかしくないと思わせる迫力が、フィリップの白く変じた狼のような瞳にはあった。

「マンタの存在は知っていたか?」

「さっき知ったところよ。書類保管庫からこれを取ってきたときね。核分裂エンジン搭載の空中空母なんて、アメリカ人はやることが派手で楽しいわ。」

「貴様もアメリカ人だろうに」

 レベル4以上の情報は、厳重な反ミームのもと保護されている。対抗ミームを摂取していない人員には何も見えず、よしんば音声で伝えられたとしてもただ紙がこすれるような音にしか聞こえない。ミームの組はつい一週間前に変更されたところだったし、素人が取り扱おうものなら文字通りに頭が爆発してもおかしくない危険性がある。このミーム組の詳細と取り扱い方法を知っているのは、O5評議会の一人だけだ。二組の紙束を手提げ鞄にしまったベネディクトは、再びロザムンドと向き合った。

「書類持ち出し厳禁のルールはぼくの記憶違いか?」

「上司がベロンベロンに酔っている隙におねだりしたらすんなり許可が取れたのよ。 支払いは私が持つわ。だってあなた、貧乏なんでしょう?」

 席を立つロザムンドが残していったのは、僅かばかりのいぶした木材のような香りのみ。姉妹仲が良くないのは間違いないだろうが、互いへの関心が低いわけではなさそうだとベネディクトは結論づける。彼女の深海から見上げた空みたいな瞳に、ちらりと哀れみの色が映った。

Shallow Water

 四角い空だ。まるで檻に閉じ込められているみたいだった。上下左右に揺れる戦闘機のなか、両足の間に屹立している操縦桿を、革の手袋がしかと握りしめている。その中で、手が上下左右に震えていた。海面に近い高度。ダイヤルの計器類がエンジン出力の低下を示しているし、藍色の翼の方に目をやってみればいくらかの弾痕が空いている。荒い息がマスクの中をほとばしった。背中にくくりつけられている落下傘の感触を確かめる。きっとまだ開く。この高さから落ちても落下傘さえ開いてしまえば助かる。思考はいつまでもグルグルと回り続ける。目の前で回っているプロペラよりも速く回り続ける。しかし、致命的に回転数が合っていない。一体どうしたら 

 途端、エンジン音が近く耳の中を響いた。自分のものではない。勢いが良いからだ。温めたナイフでバターでも切るかのように空気を切り裂くのは、緑色の機体。斜め上からまっすぐ近づいてきている。米軍のそれと比べて随分と細いシルエットのそれと遭遇したときには、絶対に格闘戦をしてはいけない。機体の剛性に物を言わせて急降下するのだ。しかし、そのための空間も、もうない。錆びたような緑色の翼に備え付けられた銃口が火を吹いたのが見えた。やけに時間がゆっくりと過ぎていく。まるで空中を飛ぶ二〇ミリの弾丸一つ一つを感じているようだった。

 しかし、時が引き伸ばされたのは一瞬だけのことだった。弾丸は頑丈にできているはずの機体をいともたやすく貫いた。エンジンから黒煙が漏れ、ついで液体のような紅焔が吹き出す。風防ガラスは陽光を反射してチラチラと砕けさり、左腕に熱い感覚が走る。もうダメだ。脱出して少しでも生き延びる確率を上げなければ。強迫観念に駆られるように風防をどうにか開け、機体の外に飛び出した。肩についている紐を勢いよく引けば、背中からパラシュートが飛び出してくる。広がった一枚の帆布が空気に阻まれ、まるでロープで上から引っ張られているかのように、落下速度を減少させる。後ろをみれば、悠然と青空を飛んでいる機体が見えた。そのはるか下に、バラバラに砕け散る自分の愛機。ふともう一度、敵はどうしているかと上を見る。銃口をまっすぐ自分に向けているそれは、こんどはプロペラの奥から八ミリ弱の弾丸が自分めがけて飛び出す。いよいよ死を覚悟し、目を閉じる。しかし、次の瞬間も意識を保つことに成功していた。代わりに、ふわりと体が宙に浮き上がった。

 青い海は透明である。それを強く実感したのは、冷たい浅瀬に叩き込まれたからだ。海の上から空を見上げると、どちらが海でどちらが空かわからなくなってしまう。左腕からとめどなく血が流れ出る。このままだとサメに食われて死ぬのも時間の問題だ。そんなのは嫌だ。自分は空の上で死ぬんだ 


「メリッサ、聞こえるか。メリッサ・ニューランズ少佐、応答しろ。」

 ヘッドセットからミッキー・ロウの声が耳の奥めがけて投げ出される。一語一語よく切ってリズムよく発せられる野太い声だった。メリッサはF-15のコクピットで意識を保つことに失敗していた。マンタから撃ち出されて、撃ち出される前に何かが流れ込んで、撃ち出された後にも何かが流れ込んできたような思いだ。夢と現実の区別がついていないような感覚だ。暗雲に覆われている空の向こうと水平線が接続し、自分を捉えに来ているようだった。紙袋でも被されているような息苦しさに辟易しながら、なんとかヘルメットのバイザーを上げる。ミッキー機が、自分の機体の数十メートル右方を速度をあわせて飛んでいた。

 あー……。神経接続って結構キツイんだね。聞こえるよ。わたしは生きてます。」

「それは何よりだ。オリヴィエに降りる許可が出た。多分あんたの古巣だろうな。マーカスは先に行ったぞ。俺たちも行こう。」

 緩やかに方向舵を傾けるミッキー・ロウに合わせて、メリッサもフットペダルを踏み込む。その動きには、一切の淀みも見られなかった。このあたりの海図を全て頭の中に叩き込んでいるメリッサは、目をつぶっても海上プラントにたどり着ける自信があった。操縦桿を捻りこみ、機体の動作に異常がないか確かめる。やはり神経接続を前提としているのか、どこか動きがぎこちないように感じた。いや、神経接続を知る前の操縦感はこんなものだっただろうか。

 ニューコム、すなわち神経と対話をするための装置が後部座席に相当する位置に詰め込まれている以上、重量は一〇〇キロ程度増えているはずだが、莫大なエンジン出力の前にはその程度関係ないのだろうか。機体について考察をすすめるうちに、火を元気に吐き出している、まるで十字架のような形の海上プラントが水平線の向こうから姿を現した。石油プラントに偽装しているこの場所は、実際にいくらか石油の採掘も行っているのだ。

 ヘッドマウント・ディスプレイに表示される誘導線に従い、飛行機を滑走路に滑り込ませる。エアブレーキが展開され、その空気抵抗によってF-15の運動エネルギーを全て食らい付くした。ヘルメットを外す。長い髪の毛のせいで、少し蒸れてしまっているようだ。そのままコクピットを開け、そして地面に向かって飛び降りる。細い金の糸のような髪の毛が、ふわりと宙に舞った。タンポポの綿毛みたいだった。

「メリッサ・ニューランズ少佐。わたしが部屋まで案内いたします。他の二人はすでに待機中です。」

「部屋番号だけ教えてくれれば、自分で行くわ」

「そういうわけにも参りません。上からの指示です。」

 二年前に自分が教えた教え子の一人だ。彼はひどく困惑した様子で、慇懃に敬礼をした。メリッサは、彼の手が常に拳銃のホルスターに当てられているのに気がついた。動かない空母と形容するのが正しいこの海上プラントは、およそ基地一つ分と同じ程度の戦力を持っている。つまり、それなりに広いのだ。ジープに乗り込んだメリッサは、元教え子の優しい運転に揺られながら、海風を感じていた。パイロット・スーツは以外にも通気性が良いのだ。かいた汗を素早く待機中に逃してくれる。盛夏の終わりとともに、ひどく冷たい風が吹き込んだ。


 卓上灯と蛍光灯の照らす狭い部屋で、神経質そうな男と金髪の女が向き合っていた。メリッサら三人のパイロットにとって、この男は地上に住む友人の一人だった。情報士官であるこの男は、上司からマンタの喪失の詳細を報告書にまとめるように命令されていた。

「さて、メリッサ。疲れているだろうから簡潔に済ませてしまおう。我々に時間があるというわけではないが、それでも二週間くらいは猶予があると見ている。」

「でっかいマンタが爆発したわ」

「それでいい。こちらもモービュラ号の機橋から通信を受け取っているから、今日の分は本当にそれで良いんだ。ただ、明日からは別の士官がきみを質問攻めにする。こちらとしても心が痛むが、すまない。我慢してくれ。」

 メリッサはだらんとパイプ椅子にもたれかかり、天井を見上げた。灰色の無個性なむき出しの壁は、アラスカの海よりもまだ冷たい。鼻からよどみきった空気を肺一杯吸い込む。中途半端な匂いの空気だった。


 狭い部屋に三人もろとも閉じ込められて四日目だ。男女を同室に閉じ込めた上層部が何を考えているのかは知らないが、まかり間違ってもその手の間違いは起こっていない。無表情な円形の蛍光灯の照らす、無機質な白い塗り壁と安っぽい金属の机がガタガタ音を立てている部屋は、東西冷戦もかくやといった雰囲気を纏って三つに別れていた。メリッサは部屋の隅に置かれているベッドで膝を抱えて動かないし、ライアンといえば散乱した服に区切られた自分の領域を歩き回って体操しているし、ミッキーは真ん中の机で『ロング・グッドバイ』の一七八ページ目を四日前からずっと見つめている。

「今日は何を聞かれるンかね」

 毎日のように情報士官から入れ替わりでの質問攻めを食らっているのだ。記憶の一つ一つを解剖され、目の前で検分されるのは非常に不愉快だった。とくに相手の考えていることがわかってしまうメリッサにとっては、下手な拷問よりも辛かった。彼らは自分のことを見ているわけではなく、自分の頭の中を覗きたいだけなのだ。隙があれば脳蓋を開いて中身を机の上に広げていそうな雰囲気を纏っていたのだ。マーカスの疑問も、たっぷり五分間部屋の中を漂った。

「知らないわ。報告書は詳細な方が良いでしょう?」

「わたしも知らんな。覚えていることは全部話したつもりだが 

 部屋の中を静かな憤懣が満たしている。アイビス隊の二人はモービュラ号の居心地の良い船室がどこまでも恋しかったし、メリッサは空に上がれないことが何より負担になっていた。三人とも全てをわきまえた大人の軍人上がりだから爆発こそしてはいないが、もしここに四人目が来ようものならすぐさま部屋が文字通りに火の玉になってもおかしくはないだろう。部屋にはただ三人の息遣いが満ちていた。マーカスは床に座り込んでしまったし、ミッキーは本を自分の頭の上にかぶせている。メリッサは、膝を丸め込んだまま髪の毛で顔を全て覆い隠した。

 コンコン、と扉がノックされる。三人は反射的にいつもは拳銃を納めているはずのホルスターに手を伸ばした。扉を開けて現れたのは、例の神経質そうな情報士官だ。彼は鳩が豆鉄砲を食らったような間抜けな顔で、廊下と部屋のちょうど境目に立っていた。三対の鋭い目つきに少したじろいだ様子の彼は、すぐさまに部屋の空気を理解し、おどけたように両手を上げた。

「視線で殺されそうだよ」

 部屋の隅でホコリを被っていたパイプ椅子を三つ取り出し、机のそばに並べる。ライアンは散乱した服を部屋のそばに積み上げ、ミッキーはジェットボイラーで湯を沸かし、インスタントコーヒーの袋を準備していた。しばらくして机を囲んだ四人は、マグカップに並々注がれた熱くも薄い味のコーヒーを一気に飲み干し、ため息を同時に漏らした。

「そうだ、試験機の性能試験がいよいよ許可されたんだ。四日間上に掛け合った甲斐があったよ。」

「おお……」

 そうやって声を漏らしたのは誰だったか。一気に緊張が緩和した様子の部屋の中、三人のパイロットはそれぞれ自分のヘルメットを掴み、パイロット・スーツの様子を確かめていた。行動がとにかく素早かった三人を、情報士官は優しい眼差しで見つめた。


 蛍光色の服に身を包む誘導員に導かれ、滑走路を走る二機のF-15。ミッキー・ロウとマーカス・ライアンは久しぶりの実戦形式の演習に幾ばくかの心地よい緊張を感じていた。メリッサの機体はエネルギー優位2を得るために、すでに十分前に空に上っていた。各機体の位置は空にほぼ常駐している早期警戒管制機AWACSが全て伝えてくれる。チャフの使用は禁止のため、相手の位置も自分の位置も、隠し立てするものはなにもない。純然たる殴り合いだ。

 エンジンに火を入れる。後方から爆発するような力とともに、椅子に押さえつけられるような慣性力を感じた。そのままミッキーは空に上がっていく。実戦形式であり、かつベーリング海という非常に微妙な地域で訓練をするため、実際に火薬が入っているミサイルを積んでいる。そのせいで動きはいささか鈍くなってしまっているが、それでも大出力のエンジンが機体を素早く白い空に押し出していく。マーカス・ライアンが自分の機体の右後ろ約一メートルの位置についたのを確認した彼は、演習開始高度である高度三〇〇〇メートルめがけて機首を上げた。

 そこは白い世界だった。落し蓋でもされているかような曇り空の中は、極めて視界が悪い。右後方を飛んでいるはずのライアン機の姿すらも見えないのだ。レーダーでその存在を確かめる。窓の外を見ても何の役にも立たないから、デジタル・ディスプレイの計器とにらめっこだ。それによると、今自分の高度はちょうど海面から三〇〇〇メートルで、海面と平行を保って飛行しているらしい。目を閉じて、周りになにかないかを感じてみる。メリッサによると、敵の位置は大体わかるらしい。自分にはその素質がないのか、何も感じることはなかった。

「AWACSチャンドラグプタ。こちらミッキー・ロウ。指定空域に到達した。これより訓練を開始する。」

「こちらラブリーでチャーミングなチャンドラグプタ。訓練開始了解し 十時方向からレーダー照射を受けているぞ!」

 ピピピ、と鳴り響く警告音。そのおかげで、頭の切り替えがすぐさまにできた。レーダーを確認すると、確かに十時方向に機影が一つある。そこからミサイルが飛んでくるのも時間の問題だろう。ミッキー・ロウは「回避する」と短く告げて、機体を左に急旋回させた。脊椎を上から押しつぶすようなGを感じる。脳から失われる血流をどうにか留めるために心臓が早鐘を打つ。高G旋回を感じ取って、パイロット・スーツが膨張する。脚を締め付けるような力とともに、彼らは雲の切れ間から青空に飛び出した。

「レーダー照射だと!?思考誘導はどうしたんだよ!」

「短い付き合いだが、記録を見る限りあいつは何でも全力でやるタイプだ。なめているというわけじゃなかろう!」

 マーカスの叫びに対して、あくまで冷静に返答する。彼も納得した様子で息を短く漏らした。しかし、しばらく経ってもミサイルの発射を示すレーダー信号はキャッチできていなかった。ハッタリか、それとも別の意図があるのか。どちらにせよ、余計な機動で速度をだいぶ失ってしまった。レーダーを確認すると、メリッサ機は三時方向を飛んでいた。緩速で離れているその機影は、次の瞬間回頭してこちらに向かってきた。二度目のレーダー照射。こんどはハッタリではない。

「メリッサ、FOX3。お前らふたりとも狙われてるぞ。ほら、避けろ避けろ!」

 マーカスはアフターバーナーを点火し、数十キロ先から放たれた設定のAMRAAMを避ける。バレルロールで速度を維持しつつ、ミサイルが算出する未来位置を急速に変化させる。これにより、ミサイルに余計な機動を強い、効率の良い回避を可能とする。しかし、この機動によって運動エネルギーがいくらか失われてしまったのは確かだ。それを見逃すメリッサではなく、尾翼に金木犀の機体がアフターバーナーすら焚かずにマーカスの機体の後ろにつける。マーカスとは対照的に、ミサイルと向かい合わせになることで回避したミッキーは、それを見て思わず舌打ちを打った。

「メリッサ、FOX2。残念ながらライアンはここで退場だ。」

「あーあ、うますぎるだろ……」

 ドレッドヘアに汗が染み付くのを感じる。高度はこちらが有利だが、速度は向こうのほうがだいぶ速い。このままいちどループし、彼女と対面してから格闘戦に持ち込むのが良いか。メリッサ機の方に目をやると、彼女はどうやら下から突き上げを狙っているらしい。操縦桿を左に傾け、思いっきり引く。機体が左急旋回のGに対抗して金属の叫び声を上げた。メリッサはミサイルを撃っても当たらないと判断したのか、バルカン砲を回転させ、何発もの二〇ミリ砲弾を発射した。少なくともそういうことにはなっていた。

「メリッサ、ガン発射。ミス!」

「よーし、こんどはこっちの番だ……!」

 がんばれー、と気の抜けたマーカスの応援が耳に入った。どうやらいい感じのガス抜きになったようだ。こんどは機体を海面と垂直に半回転させ、メリッサ機を前に出すことを狙う。両機の速度は同程度。この一回りですべてが決まる。メリッサの機体が自分から見て上に確認できる。速度は同程度とはいえこちらのほうが低いようだ。赤外線誘導ミサイルのシーカー3を開ける。ブウウウンと蜂が飛び回るような音がコクピットを満たす。ちょうどメリッサの真後ろだ。

「FOX2!」

「ミッキー、FOX2。メリッサは撃墜、と。」

 乱れた機体の姿勢を整える。気がつけばマーカスとメリッサも自分の近くに集まっていた。早鐘を打つ心音とわずかに上がった体温が心地よい。おそらく色の白い二人は、頬をきれいに紅潮させているだろう。この演習でメリッサが神経接続を使った形跡が無いことが唯一の気がかりだったが、そんなことはほとんどどうでも良かった。

「あ、そうそう。ニューコムはなぜだか起動しなかったわ。戦闘中にシステム再起動するわけにも行かないし、無線でこっちの状況を伝えようにもなぜか封鎖されてるしで、そのままやるしかなかったの。ゴメンネ!」

 ごきげんな様子でメリッサは謝罪した。エネルギー有利の状況だったとはいえ、数の不利をひっくり返して一機撃墜したのは、間違いなく彼女の技量が高いことを示していた。そのままメリッサはヒマラヤ山脈も超えるくらいの高笑いを始めた。それにつられて、ミッキーとマーカスも笑い始める。チャンドラグプタに制止されるまで、それはずっと続いた。

 無線封鎖だと?そんなことはしとらんが……」

「あれ、おかしいわね。ずっとノイズだらけだったじゃないの。最初のミサイルも何故か判定されなかったから困ってたのよ。」

「これは戦闘訓練だぞ。無線を封鎖して 

 何にもならない。互いが互いの存在を確認した上での戦闘訓練は、相当の場合において無線を開いたまま行われる。そう告げようとしたチャンドラグプタは、しかし黙り込んでしまった。何かを思考しているのだろうか。三人のパイロットは、ただならぬ雰囲気を感じた。何かをすることもないので、指示があるまで編隊を維持しつつ、高度を少しずつ上げていった。

「まあいい。分析は別のやつに任せよう。さ、次はエネルギー状況を逆転させての 待て。一二時方向上空に不明機二機!」


 不明機の存在を、メリッサははっきりと感じ取っていた。いつもは曇った度の合っていないメガネで見ているような感覚だが、今回は何よりも明瞭だ。メガネを変えた次の朝みたいな視界だった。機体の形すらわかるような気がする。目を閉じる。視界がなくなる。耳も閉じる。音がなくなる。ただ、自分と愛機、そして二機の不明機のみの空間だ。実際に目で見えているわけではないが、その存在は知っていた。どこか親しみすら感じるその二つの気配は、自分に向かって何かの意思を発しているような感覚すらあった。

 目を開ける。ヘルメットのヘッドマウント・ディスプレイには青い文字で'NEUCOM ACTIVATION'と点滅していた。パイロット・スーツが膨らみ、血の流れを助ける。同時に、機動時のGによる負担を低減するために、座席がほとんど平らになった。フットペダルと操縦桿、それにスロットル・レバーはしまい込まれ、そこに半ば拘束されるように手足の接続コネクタに杭のようなものが差し込まれる。メリッサは、まるで自分が十字架に吊られる聖人のようだと思った。やけに冷静な思考だ。グチャリ、と粘土が叩きつけられるように、時間が引き伸ばされた。

「そこの不明機、所属と目的を言え!おいメリッサ、何をしているか!戦闘許可は出ていないぞ!」

 編隊を抜け、金木犀が青空に舞う。AWACSの制止も聞かずに派手にアフターバーナーを焚いているその機体は、明らかにカタログ上の出力を超えた様子だった。そのまま中に人が乗っているとは思えないような急機動で機首を空に向ける。ミサイルを二二本積んでいることをまるで知らないようなその機体は、誰の目から見ても自由だった。そのまま重力の井戸すら抜けて宇宙に飛び去ってしまいそうなくらい自由だった。陽光を反射するキャノピーが、金木犀の色に輝いたように見えた。

「メリッサ機、武装が有効になっている!どういうことか!……権限がオーバーライドされているのか?いいか、メリッサ。聞こえているなら応答しろ。戦闘許可が出るまで絶対におっぱじめるんじゃないぞ!」

 不明機はどうやらF-15らしい。きれいな編隊を組んで飛んでいる二機は、メリッサの存在を感じ取って左右に分かれる。二本の短距離空対空ミサイルというお土産も残して。わずかに機体を震わせたメリッサは、バルカン砲から砲弾が吐き出されるのを知った。その砲弾はまっすぐミサイルに向かっていき、片方を爆破させた。もう片方は機体を一度ロールさせることによっていともたやすく回避する。翼にぶら下がっていた思考誘導ミサイルに火が灯される。かかる重力と空気抵抗を物ともせず、大鷲から放たれた二本の槍は空を飛翔した。

「こちらミッキー。基地の位置がばれるとまずい。戦闘許可を願う!」

「戦闘許可だ!戦闘許可!ミッキーとマーカスは二人でメリッサを支援しろ!基地の位置は死んでもバラすなよ!」

 チャンドラグプタは、半ば叫ぶようにして戦闘許可を出した。了解、と同時に応答した二機は、しかし戦闘に参加することができなかった。ただ見ていることしかできなかったのだ。自分のはるか上空を舞う三機の大鷲が入り乱れ、外れたはずのミサイルはありえない機動をしてまた目標を追尾し始める。まるで氷上でワルツでも踊っているかのような戦いだった。

 思考誘導ミサイルの尾部にぶら下がっている鋭い針のような部品が、激しく上下左右に動く。先端が特別に重く作られているそれが縦横無尽に動くことによって慣性力が生じ、素早い方向転換を可能にする。メリッサは確かに一度ミサイルが外れたのを感じた。しかし、常識を超えた速度の方向転換が可能であるとも知っていた。宙に飛んでいるミサイルは、そろそろ両の手で収まらないくらいになっていた。数キロメートル立方の領域に、それだけのミサイルがうごめいているのは、明らかな異常事態だった。

 不明機の二機も、同様に中に人が乗っているとは思えないほどの急機動を見せる。しかし、処理能力を超えているのか、だんだんとミサイルに追い込まれているように見えた。一発、二発とミサイルが機体に刺さる。そして、派手な爆発。空に薔薇が咲いたかのような赤い炎だった。空に二輪の薔薇が咲いた後、静寂がそこを支配した。雲があるわけでもないのに、あたりを大きな影が包み込んだ。


 戦闘許可が出る直前とはいえ、許可が出る前に火力を投射してしまったメリッサは、独房めいた部屋に閉じ込められていた。三畳ばかりの部屋には、トイレと洗面台、それにベッドのみが無表情に配置されていた。重い鉄のドアの向こうには、一人の男が立っているのを感じる。パイロット・スーツを脱ぎ、下着姿のメリッサはベッドの上でゴワゴワする毛布に身を包めていた。悲しいときに自分を抱きとめてくれた姉のことを思い出すからだ。

 扉の向こうにもう一つの気配を感じる。それはドアの向こうに立っている一人の男に何かを渡し、そして思い鉄の扉を開いた。優しい黒い瞳に深く煎ったコーヒー豆のような肌。豊かなドレッドヘアが特徴のミッキー・ロウだ。彼は脱ぎ捨てられてトイレの横に転がっているパイロット・スーツに胡乱げな視線を送ったあと、メリッサを見る。彼女がどのような格好をしているか瞬時に理解した彼は、視線をそらしてメリッサの横に座った。

「疲れたか?」

「そりゃあ、もちろん」

 そうか、と短く返したミッキーを見る。太いドレッドヘアをどのようにしてヘルメットに納めているのかは謎だった。彼の大柄な体躯と落ち着いた息遣いは、どこか年月を重ねた大木を思わせて安心感があった。よく見てみると、ドレッドヘアにはいくらかの白い筋が混じっていた。顔にも、薄いながらしわが刻まれている。

「わたしはこの仕事をやって長い。もう二〇年にはなるかな。いろんなパイロットを見てきたよ。中にはエースと呼ばれたやつも何人もいた。実戦に出たわけじゃないが、とにかく上手い奴らのことをそう呼ぶんだ。奴らにはいろんな種類がいるんだ。とにかく操縦が正確な奴、戦況を読むのがうまい奴 でも、奴ら全員に共通しているのは、そうだな。」

 体が勝手に動いたんだろ?と優しく問いかけるバリトンボイスに頷く。髪の毛とブランケットが擦れて、耳に巻き付いた。体が勝手に動いたのか、それとも自分の意志を拾って機体が勝手に動いたのか知らないが、何かが勝手に動いたのは確かだった。

「お前は何がしたい?」

「ただ、空を飛んでいたいの。何にも邪魔されずに、流れ星みたいに自由に。自分で自分の道を描きたい。」

「そうか。それならおまえもきっと良いパイロットになれる。精進しろよ。わたしと違って、おまえは若いんだからな。」

 肩に温かい感触が二度。深緑のパイロット・スーツに身を包むミッキーは、ブーツの硬質な足音を響かせて、鉄の扉を開いた。

「今日がどれだけクソッタレでも、一日はずっと二四時間だ。つまり、待ってりゃ星も朝日も登ってくる。忘れるんじゃないぞ。」

 扉を閉じる間際に言葉を残した彼と入れ替わりに、こんどはマーカスが入ってくる。彼はどこから引っ張り出してきたのか、チェロを脇に抱えていた。パイロット・スーツ姿の痩身の男がギターを持っている光景は、なんとも様になっていた。

「よくやったな。正直見ていて清々しいくらいだったぜ。あそこに参加できなかったのは悔しいくらいだ。」

 ふっと笑う彼は、ミッキーの座った場所と全く同じところに腰掛けた。どうやら除隊したパイロットが置いていったらしいチェロのチューニングをする彼の横顔は、思ったよりも端正だった。普段はヘラヘラと笑って全てを誤魔化したような態度をとっている彼とは、同一人物とは思えないほど真剣な顔だ。

「つまり、あんたになら隊長を任せてもいいってことだ。おれは熱くなりすぎるフシがあるし、ミッキーのやつは静かすぎる。」

 調律が終わったらしい彼は、確かめるようにして様々な音を出す。古ぼけているからこその、棘のない柔らかな音が部屋を満たす。

「何が聞きたい?」

「アヴェ・マリア。もちろん歌えるわ。」

「意外と信心深いんだな」

「そういうわけじゃない。音が好きなだけよ。」

 まあいいや、とこぼしたマーカスは途端、チェロを荒々しくかき鳴らした。楽器そのものを叩くことでドラムの代わりにすらしている。やさしい賛美歌であるこの歌にかぶせるアレンジではないかとメリッサは思ったが、これはこれでいいとまた思い直した。ドイツの冬のような曲が、いまは南イタリアよりも情熱的になっていた。前奏が終わり、メリッサは歌い出す。勇ましいアレンジに合わせて、声を思いっきり張り上げる。毛布をそのあたりに投げ捨てたい衝動に襲われたが、どうにかして包まったままでいた。独房が、いまだけは花束に覆われているようだった。

Buffeting Sky

 チューリッヒのセーフハウスには、いま六人の紳士たちが詰めていた。彼らは国際貿易ブローカーということになっており、またこの集まりは貿易品の分配と収集を会議する会合ということになっている。スイスの午後の冷たい陽光が差し込む部屋の中は、喧々囂々と怒声で満ちていた。

「どういうことか!マンタの喪失に加えて、不明なF-15がオリヴィエに飛んで撃墜されただと!パーシー、きみの管轄ではないのかね?」

「MJ、たしかにこれはわたしの管轄ですが、わたしとて全能というわけではないのですよ」

 MJは老年の風格を漂わせ、ツイード地のスーツを着込んでいる。彼は深いしわが谷間のように走る顔を歪ませて叫んでいた。スイスとはいえ、夏はいくらか暑くなるが、彼は相当の寒がりなのだろう。反対に、パーシーは飄々と自分の手を揉んで血流を巡らせていた。

「最近はカオスの連中が動いていないのも気になりますな」

 ブルドッグのような顔をした男がボソリとつぶやいた。部屋には煙草の煙が満ち、いささか靄すらかかっていた。互いの顔ははっきりと見えるが、どこか耳栓が詰まったみたいな感覚がある。パーシーはそのつぶやきに返答する。

「監督官に問い合わせても、彼らはただ黙っているだけだった。それよりもこれを見てほしい。」

 パーシーは本革の肩掛けカバンから一枚の書類を取り出した。そこには確かに長距離大陸間弾道ミサイルの基地が写っていた。場所はシベリアの奥深く。ワシントンに攻撃するには十分に近いところだった。

「ソコロフがちょっとだけ話してくれましたよ。P部局はこんなものを作っていたらしい。」

「そんなもの、いくらでも撮れるだろう!」

「ホワイトハウスは把握しているのか?」

 やじを飛ばす大人たちに辟易しながら、パーシーは言葉を進めた。腹の底から声を出し、まるで演劇でもやっているかのような言葉だった。

「超能力兵の研究も大台に乗ったとも言っていたね。それでミサイルを誘導するとかなんとか 

 MJは突然、水が並々注がれたコップに吸っていた煙草を突き刺し、それを地面に叩きつけた。彼の異常な行動に、残りの五人は一斉にMJの方を見る。MJは濡れた子犬みたいに顔を震わせていた。

「もういい、今日は解散だ」

「しかし 

「もうたくさんだ!全員ここから出ていけ!今すぐに!」

 その声に駆られるようにして、五人の紳士たちはそそくさと荷物をまとめて退室した。部屋には飾り気のない窓と一人の疲れた老人のみが残された。


 ロンドンのランベス。高層ビルが立ち並ぶ近代的なこの地区に、ベネディクト・ハリソンは住んでいた。彼のアパートの一階部分にはカフェが入っており、朝などはそこのサンドイッチに世話になることが多かった。厚手のシーツ一枚のみを纏った彼は安楽椅子に沈み込んで、今にでも来るはずの客を待っていた。どこに穴が空いているかを知らぬ現状、誰かと協力するのは妙手とは言えなかったが、さすがに暖炉の上に置いてある文鳥のぬいぐるみに話しかけるのも限界が来た。議論がしたい。そうしなければ考えが進まないような気がする。

 呼び鈴が鳴る。マイクに「どうぞ」と吹き込み、階段が踏まれる音を聞く。彼の居室に現れたのは、ロザムンドだった。彼女はあからさまに不機嫌そうな顔でちょうど部屋の入口のところに直立していた。ロンドンの反対側から呼び出されたので、ここに来るのにかなり時間がかかったはずだ。ベネディクトの部屋は控えめに言って足の踏み場がなく、整理整頓しなければ発狂してしまうような性格のロザムンドは、見せつけるようにため息をついた。

「済まないが、これを持っておいてくれないか」

「紙束を持たせるために呼び出したの?わたしを、ロンドンの反対側から?」

 いかにも、とベネディクトは返事をし、足で散乱した書類を部屋の隅に寄せ、脱ぎ捨てられた服を適当にクローゼットに押し込む。空いた隙間に小さい丸机を寄せ、そしてもう一つ別の安楽椅子を引っ張り出した。仄暗い部屋にチリが舞う。ロザムンドはどうぞ、と席をすすめるベネディクトのことを怪しい宗教家でも見るかのような視線で見つめつつ、そっとホコリを立てないように椅子に座り込んだ。

「ありがとう。その書類は机に置いておいてくれ。」

「で、どうしたの?まさか本当に紙束を持たせるためだけに 

「そんな訳はないだろう。話し相手が欲しかっただけだ。」

「あら、カワイイところあるのね」

 ベネディクトは書類をめくった。先日の戦闘の報告書、サイコ・イーグルの諸元、それに事故の顛末がまとめられている書類だった。しかし、情報に直接言及することは避けられている様子で、どうもとりとめがない文章で書かれていた。それをもういちどロザムンドに渡す。彼女はそれを見て、あからさまに顔をしかめた。彼女の表情のパターンが少ないと知ったベネディクトは、思わず口の隙間から笑みが漏れた。

「何を笑ってるのかしら?笑い事ではないはずでしょう。」

「いや、なんでもないよ。さて、ここに与えられている情報から推理を始めよう。反ミームは自らの気づきを誘導することで突破できる。」

 彼はシーツをひらひらさせながら、部屋の隅から黒板とチョークを取り出した。曇り空から差し込む僅かな光を散乱して、炭酸カルシウムの粉が宙を舞う。やけに短く見えるチョークを三本の長い指でしっかり掴んだ彼は、軽快な音を立てて黒板に文字を刻みはじめた。

「俗に空中空母、正式名称を長距離空中航空機回収/発進プラットフォームというこの機体 海軍と空軍は仲が悪いから空母という名称はできるだけ使いたくないらしい は、およそ三〇〇メートルの翼幅と全長を持つ、ほとんど空飛ぶひし形のマンタに等しい。高度八〇〇〇メートル以上をおよそ時速六〇〇キロで飛行することで、戦闘機の格納と発射を効率的に行うわけだな。マンタと形容したのは、これが間違いなく生きているからだ。」

「生きている?核分裂エンジンで駆動してるんじゃないの?」

「財団の悪癖の一つだよ。異常物品もそうだが、必要以上に情報を隠したがる。今回の一件も、適切に情報を公開していれば防げたはずだ。」

 深緑の黒板には大きなマンタの絵と、その長さが書かれており、そして"ALIVE!"という文字列に丸がされていた。確かに生きているとするならば、全てを金属で作るよりも遥かに軽く済むし、メンテナンスも要らない。食料さえ十分ならば、勝手に代謝をしてくれるからだ。ロザムンドはそれを瞬時に理解し、納得した様子で足を組んだ。彼女の前のめりな姿勢は、正直ありがたかった。

「そして、昨今の財団のもう一つの悪癖、人間以外の知性を必要以上に恐れている事をみるに、おそらくこいつにはもともと知性は搭載されていなかったのだろう。」

「そういうことね。この報告の案内標識が変わったというのは。」

「そう、知性が芽生えたのだろう。ここはぼくの予想に過ぎないが、おそらくもともと搭載されていた電算機と神経回路が融合でもしたんだろうな。」

「それで、サイコ・イーグルのニューコムを通じてメリッサはマンタの痛みを感じた 

 ベネディクトは黒板の絵に神経回路と艦橋の位置、そして"INTELLECTUAL!"と新たに書き込んだ。次いで彼はマンタの下に鷲の絵を書き加えた。彼はロザムンドの方に向き直り、ずり落ちかけたシーツを肩にもう一度かけた。

「そのとおり。マンタも落ちたわけじゃなさそうだ。これの運営方法は機密指定だし、補給もおそらく届かないだろう。これを乗っ取った勢力の行動として最も考えられるのは、マンタを質量兵器にすることだ。さて、次はニューコムだな。」

 鷲の横に二階の偏微分方程式を清流のようにスラスラ書いた彼は、同じようにそれをよどみなく解き切った。三次元空間に伝わる振動の式だ。ベネディクトはニューコムのソース・コードが記された紙束をロザムンドに渡した。

「ある意識体が存在する時、周りのヒューム場はこの式に従って振動することが知られている。そのままみればこれはかなり微小な量だし、統計的にみればこの振動は何の意味も持たない。しかし、何かしらの手段で増幅させ、それを脳にフィードバックするような装置を組んでやることで、本来三次元空間の認識が不得手な脳を高性能な演算装置として使用し、同じようにニューコムを搭載したミサイルなどの兵器を操作することが可能となる。」

 なにこれ」

 ロザムンドはそのソース・コードを見て、驚きの声を漏らした。彼女はこの専門家というわけではなかったが、それでも監察官となるときに最低限の教育は受けたのだ。

「そう。こんなものを搭載することなど原型機のF-15S/MTDとはいえど想定されていない。ウェポン・システムのセキュリティ・ホールを突いているな。高位の権限があるとき、外部からの操作 この外部というのはコクピット内のパイロットも含むが を受け付けない。しかし、ハードウェアからアクセスしてやれば権限のオーバーライドが可能なのだ。これを利用して、サイコ・イーグルは同型機からの敵意を感じ取ったときに強制的にニューコムを起動させ、敵機の排除を行うようになっている。この機体はマクドネル・ダグラスと共同で開発したらしい。つまり、開発部の奴らは 

「同型機が敵対する前提でシステムを組んだ……」

「賢くて助かる。文鳥は愛らしい代わりにこうは行かないからな。」

 黒板にニューコムのスケッチを書き込む。およそ直方体に近い形のそれは、どちらかというと棺桶と形容するのが正しかった。ロザムンドは思わず身震いをする。何を想像したのか、彼女は書類を脇に置いて自分の体を強く抱きしめていた。彼女の明らかな異常行動を茶化すことが出来るほど、ベネディクトにも余裕があるわけではなかった。

「明らかに内部に食い込んでいるわね。いえ、内部から生まれ出たと言うのが正しいかしら?」

「そう、ソビエトがやっているとは思えん。チェルノブイリが爆発してから、奴らは息を切らしたように情報をばらまいているからな。実際に息を切らせているんだろう。前任者たちとは違って、ゴルバチョフは改革に躍起になっている。」

「財団も一枚岩じゃない……」

 ベネディクトは裸足で部屋を一周歩き回り、そしてロザムンドの横に腰掛けた。そのまま彼はそばに置いてあったスリッパの中からタバコ葉を取り出し、パイプに詰め、点火する。喉を刺すような心地よい刺激を感じ、彼は紫煙を空中に吐き出した。

「カオス・インサージェンシー。離反者と言われている奴らの動きをよく分析してみると、うまく政治的に面倒なところを飛ばして我々が動けるように作戦を展開している。六年前のオブジェクト移送事件では、サイト-82とサイト-64のどちらに移すか決まらないままに荷物が出発し、そして道中で襲撃を喰らい、問題のオブジェクトが奪取される。すぐさま機動部隊が出撃し、これを再奪取。現場の判断で近い方のサイト-64に移送することに決まった。他にも 

「サイトの自己終了のために核爆弾を配備することに陸軍からツッコミが入った時、示し合わせたようにSafeクラスを主に収容していたサイト-23が襲撃され、多数のオブジェクトと人員が失われたのは記憶に新しいわね。財団は陸軍に情報を一部開示し、半ば力技で核爆弾配備を通した。本当に離反しているのかしら?」

「ここで財団の悪癖その三だ。存在が秘匿されているのをいいことに、パワープレイで全てを解決しようとする。さて、我々はとっととここを出なきゃならん。」

「どこに行くのかしら?」

「少なくとも、まともな服を着ていきたいところだ。それにロージー。きみも久しぶりに妹に会いたかろう?ヨーロッパの処理はジョニー・キリヤコフに任せることになっているから、安心するが良いさ。」

 ベネディクトはロザムンドに指で向こうを向くように指示した後、素早く着替えた。煙草の灰を処理した彼は、部屋の隅に埋もれていた旅行かばんを二つ発掘し、そのうちひとつをロザムンドに渡す。ヒースロー空港での集合時間を手早く伝えた彼は、部屋に備え付けられた電話に、「サンドイッチ二つ」と吹き込んだ。

「許可は?」

「もらえない。悪癖その四さ。だから偽造したよ。パーシーはキナ臭いから、採取しておいたMJの指紋と筆跡をコピーして、誰から見てもツッコミの入らないようなものをね。なに、成功すればお咎めなしだ。」

「その吊り橋、縄が切れてるわよ」

「これまでも、ずっとそうだっただろう?ぼくらは人類と、その総意と、総意が規定する全てを守る財団で仕事をしてるんだから。」

 ロザムンドはふっと笑った。冷戦のこの時期、上級監察官とはスパイ・マスターの同義語となってしまっていた。同時にこの職についた二人の間で、いま奇妙な友情のようなものさえ生まれた気がした。

 しばらく待っていると、インターホンが鳴る。扉を開けると、そこには給仕服に身を包んだ少年がいた。彼から丁寧に紙に包まれているサンドイッチ二つを受け取って、扉を閉めようとする。しかし、少年の手がしまろうとする扉の間に差し出された。

「何か?」

「こちら、あなたに電報が届いております」

「ああ、ありがとう」

 サンドイッチ片方をロザムンドに渡し、自分の分を口に詰め込んで折りたたまれた紙を開く。「太平洋が薔薇になる」。文章の後ろにはvとiで下向きの矢印が三つ作られて並んでいる。その文字列をにらめつけたベネディクトは、サンドイッチを吸い込むようにして食べきった。


 アラスカの漁港で船を借りた二人は、オリヴィエ海上プラントへと舵を進めている。海上プラントに立ち入るための書類のコピーと軍属時代の身分証はすでに電子メールを通じて送られていた。だから、海上プラント側からの警告はないはずだ。灰色の空と、同じ色の海。薄暗く不気味さすら感じさせるその海域には、常に財団のAWACSが目を光らせているのだ。船の無線機に通信が入る。僅かなノイズのあと、そこからはベネディクトのよく知っている声が吐き出された。

「こちらチャンドラグプタ。船籍ERTFG3、航路を外れているぞ。」

「チャンドラグプタ。こちらビッグ・ベン。久しぶりだな。急な用事でオリヴィエに行くことになった。ぼくの記憶が正しければ、そろそろ補給に降りる時間だろう?そこで一旦会わないか。」

「何?ちょっと待て、今問い合わせる。 確かにお前は今日オリヴィエに派遣されることになってるな。どういう風の吹き回しだ?」

「それは後でまるごと説明する。通信終わり。」

 荒々しく通信を終える。船室から顔を出したベネディクトは、船の縁に座っているロザムンドを認めた。彼女は風に濃い金髪をたなびかせ、はっきりとした目も合わさって、さながらハリウッド女優が撮影でもしているかのようだった。彼女の周りだけ、晴れの空で青い海であるという錯覚すら覚えるほどだ。空が一度身じろぎをしたような気がした。ベネディクトは、思わず念の為にと持ってきたサングラスをかけた。

 いちどクジラかと見紛うほどの旅客機と同じくらいの機影に追い越されてから一〇分ほど。水平線の向こうから火を吹き出す海上プラントが頭を出し、そして近づくにつれてそれが大きくなっていく。十字架のような形をしているのも相まって、下に聖人でも埋まっているのかな、とロザムンドは思考した。どうやら口に出ていたようで、彼女の方にベネディクトがサングラス越しに細い視線をやる。

「あなたも大きいけど、この基地も大概ね」

「よく言われるさ。オリヴィエのビッグ・ベンといえばぼくのことだ。」

 やがて小さな漁船は基地を支えている足の一つの根本にたどり着いた。そこから通用口を開け、エレベーターに乗る。海上およそ四〇メートルまで一気呵成に上がり、エレベーターの出口で待機していた兵に率いられて、応接間に通された。今のベネディクトは中将ということになっている。基地の中では最も高い階級だった。それゆえ、いくらか丁重な扱いもしてもらえていた。ソファに座って待っていると、制服姿の男が部屋に立ち入って、敬礼をした。彼に敬礼を返し、椅子に座るようにすすめると、慇懃な様子で椅子に座り込んだ。

「わたしはサリヴァン少将、二年前からここの基地の司令官をやっております。」

「ぼくはベネディクト・ハリソン。三年前までここの基地で些細なポストを努めていた。これより一週間、宜しく頼む。彼女はロザムンド。ぼくの秘書だ。」

 凛とした様子の抗議の意思を無視しつつ、ベネディクトは書類をサリヴァンに差し出した。そこには監督官指示と大仰な文字で書かれており、近代的なフォントが紙面で踊っていた。曰く、ベネディクト・ハリソンはこの基地に監察に入り、体制の問題や汚職などがないかを見るらしい。このとき、必要な権限は彼に移譲されるとのことだ。全てが財団のプロトコルに従った書類であり、それに穴が空くほど目を通したサリヴァンは、机に置いてあったボールペンでそれにサインした。

「急な話ですな。それにハリソン中将、階級章と制服はどちらに?」

「制服姿で民衆に紛れられるか? 書類は見事なものだろう。ぼくも内部の反逆者が偽造したかと疑ったよ。」

「……失礼しました」

「早速で悪いが、二時間後にパイロットを全員集めてほしい。アラスカ第二航空隊もアイビス小隊もAWACSの奴らも、全員だ。ぼくはちょっと一休みさせてもらうよ。なんせイギリスから飛んできて眠いんだ。」


 ロザムンドと別れ、ベネディクトは割り当てられた自室に向かうために足を動かしていた。蛍光灯が照らす無機質な廊下には、光が濃いところと影が濃いところで交互になっている。まるで昼夜が連続して訪れているみたいだと理由もないことを思ったベネディクトは、わずかに自嘲した。ふと廊下の向こうに目をやってみると、一人の男がこちらに向かって歩みを進めているようだ。インド系の顔を色濃く見せる彼は、間違いなくチャンドラグプタだった。ベネディクトは手早く監視カメラの存在を確かめ、ここが死角になっていることを確認し、顔を崩した。

「おう、ビッグ・ベン。久しぶりだな。まさか本当に来るとは……。」

「三年ぶりだな。ぼくはスパイ・マスターなんて柄じゃないことやってるよ。娘ができたんだってな。風のうわさで聞いた。」

「ああ、本当に可愛いんだぜ。おれの娘は魔法使いさ。おれの心を捉えて離さないんだ。」

 そうやって彼はベネディクトに懐から取り出した写真を見せた。生えかけの黒い髪に、浅黒い肌。眉の間に赤い丸があり、インド系の丸っこい顔をしている彼女は、確かに愛らしかった。

「それ、嫁さんにも言ってなかったか?まあいいや、ぼくはいま中将ということになっている。人前ではそれっぽく振る舞ってくれ。」

「なにやら面倒なことに巻き込まれてそうだな。招集はかかるしよ。あいわかった。それでは、後はヨロシクオネガイシマス!中将サマ!」

 チャンドラグプタはあからさまなインド訛りを投げ出す。そして、彼はは大げさに敬礼をした。ベネディクトはそれに苦笑を漏らし、肺いっぱいに息を吸った。塗料のような匂いのする空気が、彼の全身を満たした。


 殺風景な会議室には、いま三五人ばかりの大人達が詰め込まれていて、にぎやかなハイ・スクールの教室といった雰囲気を出していた。しかし、彼らは種類に差異こそあれど例外なく歴戦のパイロットたちであり、会話の内容も核がどうのやミサイルがどうのと物騒であった。話題の中心は配られていた書類だ。とりとめのない言葉ではあるが、しかし巧妙に思考をある結論に誘導するように書かれているそれからは、書き手の技量が現れている。扉が開き、長身で細身の男が部屋に入った。ささやき声で満ちている部屋を一瞥した後、彼は大きな両手を二度叩いて部屋を静かにした。

「ぼくはベネディクト・ハリソン。ビッグ・ベンとでも呼んでくれ。階級は中将だ。監督司令部の命令で、一時的に基地の権限を受け取った。これより、諸君らに作戦を説明する。本作戦の主眼は、モービュラ号、通称マンタの撃墜にある。その資料に書いてある情報から推察できる通り、マンタは生物だ。つまり、自己消化プログラムを起動するか、外部から適切な酵素を撃ち込めばその肉体は分解され、ただの肉の塊に転ずる。いま、前者が期待できない以上、航空機によっての撃墜作戦を取るしかあるまい。経緯を説明しよう。普段はカナダの奥地を回遊しているマンタだが、演習のためベーリング海まで飛行。この際、フェイルセーフの空対空特殊酵素ミサイルが本基地に輸送された。一週間の試験飛行を経た後、メリッサ・ニューランズ及びフィリップ・ケイがマンタに搭乗し、資料に記されているとおりサイコ・イーグルの性能試験を行う運びとなった。しかし、突如フィリップ機から肉のような質感の何かが噴出。それと同時に、マンタに黒い杭のようなものが着弾した。カタパルトに上げられていたアイビス小隊二機及びメリッサは即座に脱出、フィリップ・ケイはマンタとともにMIAとなった。便宜上、いまマンタを支配下に置いている勢力をCと呼ぶ。現状、Cはマンタを運用するノウハウを持たず、よって質量兵器としてこれを用いると考えられる。Cが何か面倒な兵器を開発しているとの情報も入っている。それに日の目を見させないためにも、マンタを落とさねばならない。さて、フォーメーションの確認だ。技量に優れるアイビス小隊三機を突出させ、マンタからの空対空ミサイルをひきつけてもらう。このミサイル群は、新開発のレーザー兵器で落としてもらう。レーザーのエネルギーでシーカーに不具合を起こさせて起爆するわけだな。ある程度近い距離から一定時間以上の照射が必要だから、当然ながら全てのミサイルを無力化出来るわけではない。撃ち漏らしは各自避けること。次はニューコム搭載ミサイルによってマンタに搭載されている近接防御火器を潰す。おそらくはチャフによってレーダー誘導が効かない以上、このあたりはサイコ・イーグルにまかせておけ。最後に特殊酵素ミサイルによってのマンタの撃墜だ。諸君らは基本的に視界外から特殊酵素ミサイルを発射し、途中で誘導をサイコ・イーグルに引き継ぐことになる。いま、整備員の連中がシーカーをニューコムに取り替えている。最低限落とすためには三〇本必要らしいが、諸君らには支給された一〇〇本全てを一度に撃ってもらう。マンタが変質している可能性がある上、失敗したときに体制を立て直してもう一度作戦を展開する時間的余裕はない。サイコ・イーグルの仕様上、可能な範囲のはずだ。ぼくはAWACS・チャンドラグプタに乗り込む。三時間後には全員空に上がったいるようにしておくんだ。コールサインはメリッサ、ミッキー、マーカスの順番でオズマントス、エボニー、カメリア。アラスカ第二航空隊はいつもどおりだ。」

 素早く、しかし明瞭な発音でブリーフィングを終えたベネディクトは、一度深呼吸をした後、再び口を開く。

「形はどうあれ、我々は『人類および総意の保護に関する財団4』の職員だ。いま、我々の矢は壊れようとしている。ここが瀬戸際だぞ。」


 オリヴィエの食堂は、いま閑散としていた。ロザムンドはなんとなく空腹を感じて、カウンターからカレーを受け取る。金属の無骨な皿に注ぎ込まれているカレーは、かぐわしいスパイスの香りを放っていた。その横に添えられたチャパティも、自分の顔ほどかというほどに大きい。少食気味のロザムンドは、食べきれるかと少し不安になった。ふと顔をあげると、見慣れたセミロングの金髪が遅めのを夕食を摂っているのが見える。妹だ。ロザムンドは彼女の方に行くかたっぷり二秒ほど迷い、結局行くことにした。

「あれ、姉さん。なんでこんなところに?」

「仕事よ。中将さんのつきそい。」

 ふうん、と言いながらシチューを頬張る彼女からは、昔と何も変わらない愛嬌が感じ取れた。空の模様はいつも変わっていくけど、彼女はいつまでも彼女のままだ。いきなり別人になったりするわけではない。ロザムンドは、根拠もなくそう思った。彼女は妹に手招きをし、顔を近づける。メリッサは周りに人がいないことを確認してから、姉の穴が空いたような青い瞳に吸い込まれるようにして顔を近づけていった。

「実のところ、全部ウソ。あいつは中将なんて器じゃないし、私は秘書なんかじゃないわ。あいつの奇妙な脳みそによると、どうやらこれから世界が救われるらしいの。メリッサ、あなたヒーローになるのよ。」

「ええっ……!」

 大げさに顎を引いて口元に手を当て、メリッサはまるい目を見開く。自分とは対照的に丸い顔をしている彼女がこうも驚く姿は、それこそまだ少女だった時ぶりではないか。ロザムンドは思わずおかしくなって、その仏頂面を崩した。南東を向いた窓から覗く黒い海すら笑っているようだった。

「姉さん、わたし頑張るよ。なんとかしてみせる。」

 両の拳を固く握りしめて目をきらめかせる彼女には、正しく小動物めいた雰囲気があった。この子が空に一度上がればおよそ手のつけられない一流のパイロットになるのだから、世界は驚きで満ちている。ロザムンドは、深くその事実を噛み締めた。レーンにトレイを返しに行く時、カタンと音がしてメリッサの方を確かめると、彼女は何やら考え込んでいるように見える。

「姉さん。賢い姉さんに聞くけどさ、総意って何かな。ずっと考えてるけど、わからないや。」

 ロザムンドはトレイを返すのも忘れて、立ち尽くしてしまった。妹が半ば泣きながらパイロット候補生の学科試験を突破した時に勉強を手伝ってやった記憶が思い出された。ロザムンドは答えが無いことを極めて苦手としていたのだ。そのまま呆然としていると、妹がふっと笑った。

「わからないなら、いいよ。きっと自分で見つける。」

 そう。じゃあ、戻ってきたら答え合わせね。」

 彼女はそのまま空に浮き上がって消えてしまいそうなほどに儚い雰囲気を纏っていた。

Broken Arrows

 「壊れた矢」その単語がメリッサの脳内でリフレインしていた。彼女がミッキーとマーカスを連れて空に上がる前にふとその言葉を思い出し、高度一万二千メートルで赤い朝日を浴びている今も同じことを考えていた。この単語は、もともと不具合を起こした核兵器を指している。いま問題になっているものは、核兵器よりもおそらくタチの悪いマンタである。マンタが質量兵器になってしまえば、都市の一つくらいは台無しに出来るのではないか。それに、肉が侵食したとのことらしいが、それが都市にばらまかれたら、財団は隠匿を解いて表舞台に出なければいけないのではないか。この意味で、壊れた矢という単語は、いささか不適格に思えた。必中必滅の矢が自分に向かってきた感じだろうか。

 無線を通じて、すべての機体が空中に上がり、戦闘準備が整ったことが知らされる。三機揃って軽く翼端を揺らす。防眩フィルターによっていくらか光量が減らされているとはいえ、横から照る朝日はなんとも眩しかった。機体の戦闘準備が整っていることと、電子戦装備が有効になっていると最後にもう一度確認した。ジェット・エンジンの高音と静寂が支配するコクピットのなか、メリッサは深呼吸をした。

「オズマントス。ニューコム起動。」

 操縦桿とスロットル・レバーのボタンを同時に押す。パイロット・スーツが膨張し、ヘッドマウント・ディスプレイに青い文字が点滅する。座席がほとんど平面になり、同時に操縦桿とスロットル・レバーが吸い込まれ、フットペダルが奥にしまい込まれる。胴体と両手両足が拘束され、薬剤が注入されたのを感じた彼女の意識は、僅かな時間だけ暗転する。彼女の意思を後部座席に搭載したニューコムが受け取り、水平線いっぱいまでそれを押し広げた。

 メリッサのすぐ横を飛んでいるミッキーとマーカスはもちろんのこと、今しがた戦闘準備が整ったばかりのアラスカ第二航空隊の二〇機、そして戦場を俯瞰する位置を飛んでいるAWACS・チャンドラグプタのクルー全てに至るまでがいま、歌を聞いていた。いや、聞いているわけではない。聞こえていることを知っているだけだ。無線を通じて流れているわけではない。直接脳内に響いているような感覚だ。ともすればローティーンの少女とも形容できる声が嘆願するように歌う祈りの歌。マーカスは、『歌っている』のがメリッサであり、曲が『アヴェ・マリア』であると瞬時に理解した。

「こちらカメリア。チャンドラグプタと第二航空隊、歌は気にしないでくれ。彼女なりの生存報告だ。」

「こちらチャンドラグプタ。了解した。ターゲットを確認次第、作戦を開始せよ。」

「ウィルコ5

 マーカスはメリッサの機体の方に視線を向ける。朝日を反射して、さながらコクピットが金木犀の色に輝いているようだった。ふと水平線の方を見ると、何本もの白い筋が空に向かって伸びている。レーダー照射の警告がなかったということは、向こうもニューコムを使っているということか。やっとお出ましかよ、と小さくつぶやいたマーカスは、メリッサ機の急上昇に合わせ、機首を上に向けた。

「アイビス隊、交戦開始」

 ミッキーが手短に告げた。三機の大鷲を鏑矢として、状況が開始する。メリッサ機から紫色の光線が放たれ、空に1つ目の薔薇が咲く。ミッキーとマーカスはそれぞれ散開し、ミサイルの誘導を混乱させる。鋭角の軌道を描くミサイルの次の瞬間の位置を予測してレーザーを放つのはいかに優秀なパルス・ドップラー・レーダーを搭載しているF-15といえど一苦労であった。しかし、一瞬でもレーザーが当たれば、熱に弱いらしいニューコムは狂い、直線的な動きになる。前後ともに同じ出力のレーザーを放つことが出来るため、相対速度を減らすようにミサイルに背を向ける。腹を天に向けて宙返りするさまは、さながらシャチのようであった。

「カメリア、トーチ6!」

 祈りの歌に、レーザー発振装置の発するヴァイオリンのような高音と、ミサイルの爆発するドラムのような低音。これらが混ざり、宙を舞い、全てが溶け合っていく。どこまでも現実感のない感覚は、最近の休日にやったネメシス7によく似ている。宇宙がまるごとやってくるわけではないが、赤黒い空とそこに浮かぶ火の玉は、十分にそれに近いものを感じさせた。


 ミサイルを無力化するためには、レーザーはおよそ五キロの距離から三秒ほど照射すれば十分である。照射時間は距離が縮まれば縮まるほど、指数関数的に減少していく。しかし、なんと言ってもミサイルの数が多い。いま、何本撃ち落としたか数え切れないほどだった。実際に何本かは漏らしているし、そのうちの一本か二本を回避することに失敗している様子だった。被弾の直前に特殊酵素ミサイルを何やら発射している様子らしく、時折それを示す符号=ダイジェストが無線に乗る。長大な射程を誇る一〇本のそれは、しかしメリッサのニューコムによってはるか上空に誘導される。

「エボニー、トーチ!……リーク8!リーク!」

 ミッキーの怒号が無線に乗る。脅威度が低いと判断されたのか、マンタの撃つミサイルがあからさまにアイビス隊を避け、後ろで待機している第二航空隊に食らいつく。また一機落ちた。レーザー兵器の数がちょうど三つしかなかったとはいえ、三機で全てのミサイルを撃ち落とそうとするのは無茶があったようだ。ニューコムを通じて機体を文字通り己の手足のように扱っているメリッサは、動翼だけでなくエンジンのノズルを動かすことによって、風に吹かれた落ち葉のように鋭角な軌道を実現していた。ただし、速度は音速を超えている。彼女だけは、一発たりともミサイルを漏らさなかった。宙に舞った爆炎の数と撃ち漏らした五本の白い煙を合計すると、四七。あと三発は残っている計算だった。

 そこにミサイルがあるのを見たわけでも、聞いたわけでもない。ただ知っているだけだ。メリッサは己の意思を手繰り寄せるようにして、レーザーを発振させる。搭載された非線形フォトニック結晶が励起、そして元のエネルギーに戻るときのエネルギー差が、そのまま光になって空中を秒速三十万キロで驀進する。それはやがてミサイルの尖った先端に直撃した。一秒、二秒、三秒。一度直撃させてしまえば、大半が有機物で構成されているニューコムが変性する。三秒間照らせば、中に詰め込まれている不安定なHMX爆薬が発火し、そして大量のエネルギーを放出しながらより安定な化合物、すなわち二酸化炭素、水蒸気、そして窒素酸化物に変ずる。これが一つの爆発である。

 レーザー装置は直ちに空冷され、次のミサイルに備える。しかし、いつまで経っても飛翔体を感知することができなかった。残り二発のミサイルは、どうやら僚機が処理してくれたらしい。メリッサは高揚した自分の心音がだんだんと鎮まっていくのを感じた。空を満たしている歌は、いま間奏に入る。三羽の大鷲が宙を切り裂く音のシンフォニーだった。

「山場は超えたか……」

 マーカスがつぶやく。機体の姿勢を整え、もう一度最初のようにメリッサの横に集合する。荒い息を吐いている彼のパイロット・スーツの中は、汗でしっとりと濡れていた。この心地よい感覚は、マラソンの後によく似ていた。息を整える。冷たい空気が肺を満たす。密度の高い酸素をたっぷりと吸収した体は、その熱を宙に放射した。同じように通気性の良いパイロット・スーツが汗を空中に放出し、体表面が急速に乾いていく。

「こちらチャンドラグプタ。第二段階へ移行。アイビス隊はマンタに接近し、近接防御火器を無力化せよ。」

「ウィルコ」

 やや日が高くなり、空も青くなってきた。海との境界線が曖昧なそこから現れたのは、やはり大きなマンタのような、生々しい雰囲気の機体だった。背中にいくつもの六角形の穴が空いているそれは、記憶の中よりもいささか刺々しかった。長く伸びている尾部の先端が棍棒のように太くなり、そして翼の縁には不揃いの細かいプロペラが生えてゆっくりと回っている。もはや空を飛んでいるのが奇跡といった様子だった。メリッサはクジラの鳴き声めいた音を知覚したあと、強い悔恨の念を感じ取った。それに重なって、強い敵意と親しみのある雰囲気も感じる。やはり中には艦長の意識がまだ残っているのだろうか。彼女はそう思考した。

「エボニー、目標を視認した。RACOON!」

 符号の宣言と同時に、ニューコム・ミサイルを発射する。三機に懸架された五四本のうち、三六本が発射される。同時にマンタは幾門もの六連装の二〇ミリ砲身を回転させ、機関砲弾を宙にばらまく。しかし、質量移動によって生じる慣性力による鋭角な機動を見せるニューコム・ミサイルを全て迎撃することは叶わず、二〇本ほどのそれがマンタに殺到した。次々にマンタに突き刺さり、そして赤い爆発を見せる。数秒のうちに煙は晴れ、まるで派手な爆撃を受けた飛行場のような背中が姿を表していた。真紅の裂傷。マンタが身を捩ったような気がした。

「こちらカメリア。伐採完了!」

「こちらチャンドラグプタ。伐採完了了解した。これより第三段階だ。全機、特殊酵素ミサイルを発射せよ。」

 後方で待機している第二航空隊が全てのミサイルを発射する。射程ギリギリから放たれたそれは、すぐさま誘導をメリッサのニューコムに引き継ぎ、同様に搭載された質量移動システムによって、複雑な軌道を描く。丸裸になったマンタは、それを回避する術を持っていなかった。試験機であるがゆえに、搭載していた防御火器も貧弱だったのだ。メリッサは上空に誘導されたミサイルも誘導し直し、一〇〇本全てがマンタの無防備でやわらかい肉体に殺到する。突き刺さる直前、ミサイルのカバーが外れ、中からドリルのようなものが露出する。そのままミサイルは肉体の中に潜り込んだ。メリッサは、肉体を突き刺す針のような痛みを感じ取った。実際に痛いというわけではなかった。ただ、痛みを知っていただけだ。祈りの歌に悲しみが交じる。次の瞬間、マンタはその尾を丸め、全てのプロペラを反り返らせ、内側から赤い煙となって爆発四散した。そこに残っていたのは、ただ赤黒い塊だけだった。メリッサは、確かに感謝する意識を知っていた。しかし、敵意は未だに残っている。

「うへえ、きたねえ薔薇だ」

「私語厳禁!こちらで着弾は確認した。状況終了だ。ただ、警戒は緩めるなよ。」

 無線を開けていたことを忘れていたマーカスは、極めて申し訳無さそうに一言謝罪した。

Nightfall

 チューリッヒのセーフハウスは、いま数十人の機動部隊員に包囲されていた。サマルカンド・クラブの会議室で、酒瓶を挟んで二人の男が向き合っている。片方はそれなりに年齢を召しており、もう片方は若者だ。ベネディクトに呼び戻されたキリヤコフは、彼の命令のままこの場所に来たのだ。どうやらパーシーはカオス・インサージェンシーと通じていたらしい。パーシーはキリヤコフに会うたびに飯なり酒なりをおごっていた。年長者の義務だそうだ。いつか自分が年長者になった時、彼のことを見習おうとキリヤコフは決心していたほどだった。

「なぜ、裏切ったんです?あなたほどの男が。」

「悲しい奴もいたもんだな。最初は嬉しかったさ。なにせ世界を守る仕事なんて、子供の頃憧れたヒーローそのものだ。だが、ヒーローなんてのはいないんだ。命は湯水のように消えていくし、財団の理念と政治が衝突しはじめた頃、わたしはここを見限ったのだ。」

 誰も息を荒げることはない。醸成されたウイスキーのような空間だった。開け放たれた窓からチューリッヒの喧騒が流れ込む。人の話し声と、車のクラクション。反ミームで保護された機動部隊に気づく人間は一切いなかった。

「どういうことです?」

「我々は、未来のない光の中に旅立つことなどできないんだ。だから、零からやり直して確固たる総意を定義しなければならなかった。」

 パーシーは目の前の酒盃を呷った。数十秒もしないうちに、彼の顔面は蒼白になり、口から泡が吹き出る。キリヤコフはそれを見て、落胆とともに椅子に沈み込んだ。明日は変わらずにやってくる。少なくともしばらくの間、それが保証された。

Adamant Arrow

 早期警戒管制機内でレーダーの画面とにらめっこしていたベネディクト・ハリソンは、鍋の焦げ付きのような腑に落ちない何かを感じ取っていた。何か一つだけ、致命的なものを見落としているのではないかという思念に、戦闘開始時から囚われていたのであった。この件に関わるもので、自分が見たもののうち意味を見出せていないのはなにか。冷静に要素を一つ一つ展開していく。薔薇、爆発、フィリップ・ケイ、太平洋。メリッサの師匠。彼は今どこにいるんだ?そもそもなぜニューコムを搭載していないはずのマンタがニューコム・ミサイルを撃ってきたんだ?答えは一つだった。それをチャンドラグプタに告げる前に、慌しい様子で通信が入った。

「こちらカメリア!マンタ残骸から不明機!尾翼に薔薇の刻印あり!機影はサイコ・イーグルに見える!あと……腹になんか抱えてやがる!」

「アイビス隊、直ちに撃墜せよ!戦場をかき回されたらたまったものではない!」

 チャンドラグプタの声が機内に響く。レーダーに機影を認めたベネディクトはすぐさま立ち上がり、チャンドラグプタのマイクを奪い取った。あまりに突然の行動に、彼は一瞬困惑するが、しかしベネディクトの必死の様子を見て落ち着いた。まるで明日世界が終わるみたいに必死だった。

「こちらビッグ・ベン。奴らの狙いは環太平洋火山帯だ!どんな魔法を使うのかは知らんが、それら全部を一気に爆破するつもりらしい!」

「おい、ビッグ・ベン。それは確かか?」

「信頼できるソースからの情報を統合した!あり得ぬものを排除したのが後に残るのが砂金のような真実だ! すまない、取り乱した。」

 ベネディクトはマイクをチャンドラグプタに返す。レーダーの画面には、不明機を示す赤い点が煌々と光っていた。


 自分にだけ向けられる激しい敵意。メリッサ・ニューランズは親しみの混じった敵意がここまで痛く、そして悲しいものであると知らなかった。たとえるなら全てを巻き込むどす黒い海嘯。全てを押し流して、零からもう一度始める事を強いる波濤。メリッサは、あまりにも耐えられずに、自分の内側に引きこもっていく。優しい父親、優しい母親。姉。暖炉。煌々と燃える金木犀色の炎。かぐわしい香り。わたしのいえ。わたしのせかい。わたしだけのせかい。孤独なはずのその空間に、いま一人の少年が現れた。空の底のような色の瞳をしている彼は、膝を抱いて安楽椅子に座っているメリッサの手をやさしく握った。

「どうして、パイロットになったの?」

「何にも縛られずに、空を飛びたかったからよ。自分にも縛られずに、ただ流星のように自由に。」

 自分の問いに自分で答える。やさしく、幼い暖かさは彼女の恐怖を少しずつ和らげていった。少年は彼女の手を取り、そっと暖炉に近づけていく。感じるはずの棘のような熱波はなく、かわりに冬に潜り込んだ布団のようなゾッとする冷たさがあった。しかし、それもだんだんと自分の体温と、炎の熱で溶けてゆく。少年の顔を見る。色の薄く、少し癖のついた金髪が、利発そうな印象だった。

「じゃあ、もっと高いところに行こうよ。ここは一番底だから。零からもう一度、見てみようよ。」

 メリッサの手が炎に触れる。その瞬間、体内を爆発するような、しかし威風堂々と心地よい熱さが駆け巡った。気づけばもとの空の上。形のない敵意から一本の光線が自分に向かって伸びていることを自覚した。しまった、反応が遅れた 。そのとき、音速を優に超えた速度で自分の前に割り込む荒々しい意識を感じ取った。マーカス・ライアンだ。

「隊長は死なせんよ!」

 彼の機体が、メリッサの座っているコクピットを焼くはずだった光線を押し留めた。代わりに、エンジンから派手に煙を吐き、姿勢を完膚なきまでに崩している。半ばスピンに入っているその機体をどうにかして整えた彼は、符号を発声することもなくニューコム・ミサイルを全弾発射した。メリッサはそれを目の前の敵意に誘導する。相手は通常の機体なら確実に刺さっていただろう軌道だが、その敵意はミサイルと同様の急機動を見せ、全てを回避してしまった。

「出力低下、離脱する!メリッサ、聞こえてるかどうかわからんが、おれのミドルネームはジョシュアだ!あんたのガキ 

 やかましい、とでも言いたげに、その敵意がマーカスに向かってもう一度光線を放った。もう一つのエンジンに着弾したのか、彼の機体は無惨なまでに爆発四散する。沈黙する無線がうるさいまでに痛かった。マーカスはどこに行ったのか。今のメリッサにそれを知る余地はなかった。

「カメリア、ロスト。直ちに救助隊を向かわせろ!全機退避だ!生き残ることを主眼に置け!」

 尾翼に薔薇の機体が、腹に抱えていた赤い線の走る黒い杭のようなものを投下する。メリッサは、それが地面の中で起爆するとまずいと直感した。ミッキーはそれを察してかニューコム・ミサイルを放ち、そしてメリッサはその杭に向かって誘導した。ミッキーは指示に従ってすでに数キロの彼方にいる。ここでたとえ起爆しても死ぬのはわたしと、この敵だけだ。全てを白い閃光が塗りつぶす。歌声はもうなかった。


 そこには地獄が広がっていた。ニューヨークの空を撫でるように高い高層ビルは無惨に燃え上がり、地上には地獄の門が開いたせいか、サタンのような見た目をした存在が犇めいていた。世界貿易センタービルには穴が空いているように見える。眼下に広がるのはセントラル・パークだろうか。本来は緑に満ち、子どもたちの笑い声で湧き上がっているその場所は、しかし靄がかかったような実体に覆われていた。はるか遠くには、下手なコラージュ画像のように空間と連続性がない巨人が見える。その巨人の頭は、山羊の頭骨のような異形さを持っていた。

「ここは……」

 いつの間に神経接続が切れていたようだ。空を見れば、そこには白い穴が空いている。自分はそこからこの異空間にやってきたのだろうか。ならば、そこを通れば戻れるのだろうか。操縦桿を握り、そして引く。上に行けども行けども穴は遠ざかっているようで、自分を迎え入れてはくれなかった。ふと知らない光を感じてキャノピーガラスに反射する自分のヘルメットを見てみると、ちょうど耳のところに魔法陣のようなものが展開されているのが見えた。突如、そこから「あーあー、聞こえてますか?」声が響く。あまりにも唐突だったため、メリッサは機体の姿勢を崩しかけた。若干鼻にかかったようなインド訛りの、せいぜいハイティーンがいいところの少女の声だった。

「メリッサ・ニューランズさんですね?」

「そうよ。聞こえてるかしら?なんと呼んだら良いの?」

 明らかに困惑したメリッサの声に、魔法陣の向こうの少女は苦笑を漏らした。次の瞬間、ニューコム・ミサイルが突如切り離され、翼に魔法陣が生成される。メリッサは反射的にミサイルを空の上の方に移動させた。それが消えたとき、いつの間に懸架されていたのは、サーフ・ボードのような形のものが四枚と、明らかに空力を無視した様子の、バルカン砲のような見た目のものの銃底に薄橙の金木犀の花びらのような形の追加ユニットが接着されているものが六つだった。

「私はサムドラグプタ、噛んじゃいそうだったらヴィーナでも良いわ!このN-ビットたちは近くの基地からかき集めてきたの。サーフボードはこれだけだけど、金木犀の飛行砲台の方はいっぱいある!残弾数も気にしないでいいわ!あなたのおかげで、わたし一七なのに博士号を取ることになったんですよ。そこのコロンビア大でね!全く、青春を返してほしいです!」

「わかりました。ヴィーナ。恩に着る!」


 'UNKNOWN NEUCOM DEVICE CONNECTED'と控えめに主張する赤い文字の警告をそばにやり、事前に暗記したマニュアル通りにディスプレイの操作をする。機体が懸架されたN-ビットをようやく認識した頃、メリッサは自分に向けられた強い敵意を感じ取った。またあの機体だ。このとき、メリッサは初めてその機体を目視した。尾翼に赤い薔薇。フィリップ・ケイだ。AWACSとの通信も効かないし、データリンクも全て切れてしまっている。孤軍奮闘にほかならない状況だ。

「下に何が見える?思想の境界も、総意も見えぬだろう。」

 気づけばN-ビットは自分の機体の周りを回転するように飛んでいた。その姿は、さながら女王を守る騎士のようだった。まるで手足が増えたような感覚に、メリッサは顔をしかめながらも、操縦桿とスロットル・レバーのボタンを同時に押した。ニューコムが起動し、意識が機体と同化する。そのまま水平線いっぱいの意識を感じ取った彼女は、その痛みに思わず気を失いそうになった。切れ味の悪い刃で腹を貫かれて、そのまま内臓をかき回される。足の小指から一ミリずつ削られて行かれるようなショックだった。

 何本もの光の帯が赤い薔薇の機体から放たれる。イオン化した空気が光を放っているのだ。温度が数千℃にも及ぶそれにかすろうものなら、すぐさま落ちてしまうのは明らかだ。それはまるで、一羽のひな鳥を追い詰める檻のようだった。バルカン砲の花弁が高速で回転し、ショック・コーンのようなものを形成する。ヒューム場の定常波が、薄くも破れない壁を生んでいるのだ。それによって空気抵抗が殆どなくなったN-ビットは薔薇の機体に殺到する。放たれる弾丸は、どれも例外なく金木犀の色に光っている。メリッサは、確かにそれから魔法の力を感じ取っていた。たかが光の檻など、このサイコ・イーグルで引きちぎってやる。メリッサは固く決意する。

 あえて弾を集めるのではなく、ある特定の領域に向かってばらけた十字砲火を形成する。常にフィリップの行く先を読んで放たれる弾丸を、全て回避するのは不可能な話だった。フィリップ機の周りに薄膜のようなものが展開され、一瞬だけエンジンの出力が落ちる。一つや二つかすった程度で機能を停止してしまうほどサイコ・イーグルはヤワに作られていないのだ。

 メリッサの意思が文字通り空間を揺らす。それに後押しされて、弾丸も加速する。一つが翼端をかすめた後、空には文字通り薔薇が咲いた。赤い薔薇だった。血よりも赤い薔薇だ。それをなかば機体の速度を失速させるようにして急制御し、回避する。
 メリッサはいまサイコ・イーグルそのものといっても良い状態だった。自由に草原を走る馬の子のように機体を駆る。動翼をそれぞれ個別に動かし、行きたい方向に推力偏向ノズルを動かす。急激に減速して目の前に咲いた青薔薇を避けたかと思えば、次の瞬間にはアフターバーナーを焚いてありえない加速を見せる。

「囚われているな。自分自身に。己のエゴに。」

 メリッサめがけて光線が走る。それを防ぐように四枚の、コの字に折れ曲がったサーフボードが目の前に入り込み、ヒューム場の定在波を作り出す。それに包まれるように光線は速度を減らし、メリッサが回避するための時間を稼いでくれた。自分自身に囚われたって良い。エゴを追い求めるのが人間だ。流星だって重力にとらわれて自由を失うんだから。メリッサはそう思考した。

 一人の人間が総意を背負うなど無理である。メリッサはそれを誰よりもよく知っていた。空に登ってから、ヒーローを自称するような傲慢なやつも、神もいないと知った。そんな者がいるならば、世界はすこしだけ正気に戻るからだ。それでも、自分の手からこぼれ落ちて行くものをこぼしたくない。空軍に志願した理由は、こんな感じだったような気がする。

 いくら弾丸を撃ち込んでも、それは光の檻に焼き切られるか、あるいは機体に肉薄したとてヒューム場の薄膜に弾かれてしまう。しかし、メリッサはこの世界に完璧なものがないことを知っていた。それに、マクドネル・ダグラスも財団も、この二機がぶつかり合うことを想定して開発したのだ。どのような形にしろ、千日手にはなるはずがなかった。

 光線が一筋メリッサの機体に食らいつく。彼女は反射的にサーフボードを動かして薄膜を張る。次の瞬間、空に一輪の小さな金木犀が咲いた。サーフボードが一基爆発したのだ。一度防がれたと学んだフィリップは、盾を直接削ることを選んだのだ。三基残っているなら、まだ壁は張れる。N-ビットの操作をより注意深く行うと決意した。

 フィリップが機体を急速に反転させる。コクピットの中の人間が赤い泥になっていると言われても納得してしまうほどに急な機動だった。メリッサの思考を受信したのか、フィリップが彼女の進行方向目の前に薔薇を咲かせる。それが物理的にそこに存在していようと、していまいと、少したりとも掠るつもりはなかった。

 サーフボードが機体と再接続する。翼下でその先端を一〇〇Gを超える力をもって動かす。それによって生じた力と動翼の抵抗、そして推力偏向ノズルが上に向くことで、その場で機体が瞬時に回転する。一八〇度回転する直前、回転の前と全く逆の操作を行うことで、その力を打ち消した。エンジンを少し吹かせば、翼から剥がれ落ちた空気の層がすぐさま整流され、揚力を取り戻す。いま、空には幼い祈りの歌が満ちていた。

「ならば全て掴んでみせろ、エースよ」

 その思念はどこまでも孤独だった。心を南洋の島の空に置いてきたかのように。

 六方向から弾丸を浴びせかける。薔薇の機体からすぐさま光線が放たれ、宙を舞う重金属の塊すら蒸発させ、その大本の銃口に突き刺さり、宙に六輪の金木犀が咲く。次の瞬間には空域の外から同じ数だけのN-ビットが飛んできて、先程と同じように弾丸の雨を降らせる。まかり間違っても下にいる避難民に被害が出ないように、弾丸はどれも水平より上を向いて空を飛ぶ。それに気づいたフィリップは機体をひねりこみ、下に向けた。メリッサは常にフィリップの下に陣取っていたN-ビットを更に下に動かす。普段は高度がそのまま有利に働く空戦だったが、いまはそのセオリーから逸脱していた。高度が低いほど狙われず、そして相手を狙いやすいのだ。

 すぐさまそれを悟った二機は、摩天楼の隙間を文字通り縫うようにして機体を潜行させる。さながら岩礁に紛れ込む潜水艦のように、互いの存在が一瞬だけ知覚できなくなった。メリッサはN-ビットを操作し、薔薇の機体に体当たりをさせるようにして動かす。こんなところではろくに射撃もできない。わずかばかりの息苦しさを感じた彼女は、いますぐにでも機首を空に向けてしまいたい欲望に駆られた。これでは光の檻が石と鉄の檻に変わっただけではないか。噴気ノズルが明滅し、そしてサーフボードを含めた機体の可動部が縦横無尽に動き回る。一つの摩天楼にまとわりつくように機体を回転させ、そしてまた加速する。リズム・ゲームをやっているような感覚は、存外に悪いものでもなかった。

 突如、数ブロック先のビルが赤熱する。それを突き破って光線がメリッサの進行を遮った。彼女はサーフボードを動かし、それを切るようにして薄膜を形成する。押し留められるのは一瞬だけだが、通過するには十分な時間だった。ふと彼女は先ほど切り離されたニューコム・ミサイルのことを思い出す。はるか上空で円を描いているそれを、薔薇の機体に食いつかせる。高温の怪光線とて、光速で空を切り裂いているわけではない。能動質量制御とスラスターの偏向も合わせて、刃よりも鋭く動きまわるおよそ一〇本のそれを、フィリップは十分に迎撃することが叶わなかった。主翼部に着弾する軌道のミサイルはヒューム場の薄膜で受け、前後から挟み込むように飛来するそれは、着弾の直前に機体をわずかに捻ることで回避する。

 空中で衝突したニューコム・ミサイルが霧散する。それを如実に感じ取ったメリッサは、ある一つの結論を思い至った。虹色の薄膜で外界から隔絶されている機体が唯一外とつながっている点はどこか。エンジンの吸排気口だけはヒューム膜で覆うわけにはいかないだろう。ニューヨークの南から真ん中まで来たメリッサは、至近に北から来たフィリップを感じた。エンパイア・ステート・ビルに絡みつくように、埒が明かないと判断した二機は二重螺旋を描き、空に登ってゆく。摩天楼の岩礁を脱した瞬間、空を薔薇と刺々しい茎のような熱線が埋め尽くした。

 メリッサはサーフボードを機体から再び切り離し、そして薔薇を挟むように配置したあと、虹色の薄膜でそれを包み込んだ。瞬時に薔薇は色あせ、そして枯れる。腐り落ちたような色を見せるその中心から、雄しべや雌しべのような質感のものが放たれる。それはミサイルのようにメリッサの機体に食いつこうとした。彼女は機体に懸架されたレーザー発振装置を起動し、それらに向かって紫色の閃光を放つ。高いエネルギーに焼かれたそれは、すぐさま蒸発した。ふと、はるか遠くで同じように支援をしているヴィーナの意識を感じる。彼女に向かってN-ビットを増やしてほしいと思念を送ると、すぐさま翼下に一〇のバルカン砲が出現した。

 合計一六の飛行砲台をフィリップ機に対する有効射程ギリギリを維持するように動かし、彼の機体を捉える銃弾の檻を作る。すぐさま青いバラが咲いて全ての弾丸を吹き飛ばす。しかし、次の瞬間には雨あられのような光弾が空間を満たした。メリッサは二つの飛行砲台を突出させる。一方が他方の影に位置するように飛翔するそれにめがけて一筋の熱線。瞬間、前を飛んでいる方の飛行砲台が盾になって爆発する。それを切り裂いて、フィリップに肉薄したもう一方は、ありったけの鉛玉を吐き出した。

 この瞬間、二機のニューコムは飛行砲台を介して直結した。二機の大鷲の間でヒューム場の共振が発生し、そこを中心としてヒューム場の振動がニューヨーク中に広がった。


 何やら独房の中にいるらしい。メリッサは自分の体に触れるパイロット・スーツを感じた。トイレの横には、折れたチェロが転がっている。いつの間にかに硬いベッドの上で膝を抱え込んでいる彼女は、扉の向こうで何かを渡す素振りをした意識が、境界をすり抜けて自分の横に腰掛けた。マットブラックに鮮紅のラインが二本引かれているパイロット・スーツに身を包んだ男の方に目をやる。彼の狼のような灰色で、厳しい瞳は、無表情を顕にしてメリッサを覗き込んでいた。自分のダークブルーが彼の灰色に反射する。

「もはや総意など存在しない。人類全てが同じ秩序のもと、団結することなど不可能なのだよ。」

「総意って、そういうものなんですか?」

 フィリップは立ち上がる。衣擦れの音がまるで響かなかったから、ここはきっと夢の中なのだろう。一つ天井付近に空いた小窓を見る。そこには、燃え上がるような赤い空と、そこでピタリと止まっている二機のサイコ・イーグルが映っていた。長身の彼の肉体は枯れ切ってしまっている。もはや信念だけで動いているように見えた。

「私の三本の矢は、全てが壊れてしまった。だから、環太平洋火山帯に着火し、そして世界の秩序を一度に組み直すという、デルタコマンドの意思に賛同した。」

「そんなの……」

 独房を出るフィリップに付き従って、メリッサも部屋を出た。狭く、生臭い匂いのする廊下を渡り、長い毛足のカーペットが敷かれている部屋にたどり着く。机には将棋の駒が散乱し、四個のマグカップが割れていた。メリッサは安楽椅子に腰掛ける。対面に座り込んだフィリップは、何かを飲むような仕草をした。

「重すぎますよ。そんなの。一人の背負えるものって、意外と少ないんですよ。何も秩序だけが総意ってわけじゃないと思います。」

 上等なコーヒーの苦味と酸味。旨いブラック・コーヒーは甘い事をメリッサは思い出した。無意識のうちにマグカップを机に置く仕草をした。その手はいつの間にか古ぼけた操縦桿を掴んでいた。スロットル・レバーを動かしても、痰を吐くように悶えるエンジンの出力は上がらず、したがって高度が下がってゆく。空は青い。海は赤い。透明な赤さのそこに、二羽の大鷲が浮かんでいた。

「ならば、お前の言葉で総意を語ってみせろ」

 赤い海はどこまでも濁っていた。


 コロンビア大学に避難した少年は、空に咲く薔薇を見つけた。母にその存在を知らせようにも、体が動かない。その薔薇を切り裂く光点は、この希望のない空間で見えた唯一の希望のように見えた。明日もママの美味しいクラムチャウダーが食べられますようにと少年は思わず祈った。幼い歌に、一人の祈りが重なる。

 セントラル・パークで銃をリロードする警官は、空に咲く薔薇を見つけた。青とも、赤とも取れるそれは、いままで自分が見た薔薇の中で最も気味が悪かった。妻の誕生日に薔薇を贈るのをやめようかと決意するほどだった。しかし、それを突如切り裂くやさしい意思を知覚した。時間が早送りされるようにバラが枯れる。思わず懐にしまった妻の写真に手を当てる。明日も妻と無事を祝えますように。幼い歌に、一人の祈りが重なる。それはまるで、アラスカに降る静かな雪のように。

 初めてのニューヨークだった。憧れの大都市でこんな災害に巻き込まれるなんて、と少女は思った。これが終わって生きて帰れたらしばらく田舎で寝ているだろうと少女は確信した。ふと空を見上げると、そこには大輪の薔薇が咲いていた。赤黒く空に溶けるようなそれを、虹色の薄膜が包む。まるでブーケトスのようで、何よりも美しく見えた。きっと明日、田舎で幼馴染とまた会えますように。一人の祈りが重なる。それはまるで、青空を包む黒い成層圏のように。


 直結のフィードバックにより、ニューコムから強制的に切断されたメリッサは、一つ深い呼吸をした。寝起きと非常によく似て靄がかかったような意識が、体内に酸素の風が吹くにつれ、明瞭になってゆく。目の前には、エンジンから煙を吐くフィリップの機体が見えた。すぐに煙は収まり、代わりにエンジンからは、薔薇の花びらのように赤い燐光が放たれる。エンジンにはもう火が入っていないはずなのに、音もなくその機体は上空に飛び去った。

 意思によるヒューム場の微弱な振動は、それぞれの意思はそれぞれのことを思っているがゆえに、互いに打ち消しあって統計的には意味を持たない。しかし、いま、空を見上げている人々の意思は誰ひとりとして違わなかった。どうにかして、いつものように明日の朝日を見て、いつものように仕事や勉強をして、そして登る星に見守られながら、温かい我が家の中で眠りたい。そういう願いだった。それをニューコムも介さずに直接知ったメリッサは、すぐさま機体と神経接続した。その瞬間、彼女の額のあたりで閃光のようなものが走った気がした。

 幾人もの意思を受け取ったメリッサは、それをそのままニューコムに流し込む。ニューコムはそれをもとに周辺のヒューム場を激しく振動させる。その共振によって、機体の下部に結晶のようなものが現れた。六角形の、アラスカに降る粉雪のように儚いそれは、サーフボードによって絡め取られ、レーザー発振装置の周りに固まる。宙を待っていた飛行砲台も、サーフボードも、全てが結晶によって一つになった。いま、メリッサの機体は黒い空に向いている。エンジンの出力が〇になり、そして金木犀色のかけらがそこから吹き出す。彼女も音もなく、空へと舞っていった。

 結晶がほどける時、莫大なエネルギーが放出される。それは全て光と熱に変じ、永遠に壊れぬ金剛の矢となって血の色の空と時を切り裂いた。

On Your Highness

 気がつけば、ふかふかのベッドの中にいた。パイロット・スーツを脱がされ、下着姿になっているメリッサは、肌と触れる目の細かい綿の布の感触を認めた。アルコールのような匂いの中、やわらかい羽毛布団を押しのけると、シュルシュルと擦れるような音がする。自分の手足を確かめるように曲げ、一片たりとも違和感がないのを確かめる。何やらオリヴィエの医務室にいるらしい。枕元に置かれた白く丈の長いワンピースに体を通し、楽なスニーカーに足を包める。姉が持ってきてくれたのだろうか。そんな事を思っていると、服と体の隙間に、何か紙が挟まれている感覚があった。

 少し飛び跳ねてみると、パサリと音を立てて一つの便箋が地面に落ちた。それを開くと、すぐに食堂に来るように書かれていた。ぼやけた頭で部屋の鏡に顔を向けた。それとなく手櫛で寝癖を整えた後、彼女はオリヴィエの内部構造を思い出した。歩いて二分もかからないであろう距離を、彼女はたっぷり五分かけてゆっくりと進んだ。

 食堂の扉を開けると、そこにはアヴェ・マリアが響いていた。歌っているのは部屋にいる全員だ。オリヴィエに詰めている職員が全員集合している様子だった。扉のところで呆然と立っているメリッサを誰かが見つけ、その存在を部屋中に知らしめた。次の瞬間、彼女は荒々しいパイロットの連中に胴上げされていた。釈然としない顔で宙を舞う彼女は、全てが終わったことを悟った。

 空腹を自覚する。その流れでレーンに並ぶと、調理担当の人間からこれでもかというほどの料理を盛られる。健啖家であるという自覚はあったが、果たしてこの量を食べきれるかと少し不安になった。部屋を見渡すと、隅の方に見知った顔が詰めているのを見つけた。姉と、ミッキーと、ベネディクトだった。

「姉さん、わたしが空で頑張ってた間、こんなかっこいいオニイサンとイチャついてたの?やるじゃん。」

 そうやって皮肉を投げかけると、ロザムンドとベネディクトは揃って鼻で笑った。「あー?」と奇妙なうめき声を上げているミッキーは、だいぶ酒で出来上がっている様子だった。ちびちびと食物を少しずつ、胃を驚かせないように食べる。ビーフシチューにはトマトの甘味と僅かなほろ苦さがよく効いていた。サンドイッチのスモーク・サーモンの塩気とマフィンの甘さはよく調和していたし、オレンジジュースからはアルコールのような味すらした。

「ニューコムの戦闘記録、見たぞ。ありゃあすごかったな。マーカスも浮かばれるというものだ。」

「勝手に殺すなよ。まったく、恥ずかしいぜ。」

 わたしのミドルネームはマウスだ、と冗談めかして言うミッキーの姿に、マーカスは顔を押さえた。被弾の直前に、彼は地面と垂直になった機体から脱出していたのだ。車椅子に座っているマーカスは、当分空には上がれないだろう。しかし、彼の胸に輝く星は一つ増えていた。

「じゃあ、俺たちは失礼するぜ。家族団らんを楽しみな。」

「それじゃあ、わたしも失礼しよう。ロージー、妹と気楽に答え合わせをするが良い。」

 待って、とメリッサは思わずベネディクトの腕を掴んだ。高い身長に見合って、そこそこ太い腕だった。彼女の方を向き直った彼は、少し面食らったような顔をしていた。予想外の行動だったからだ。

「報告書、一緒に書いてほしいです……」

「あら、カワイイ妹の頼みよ」

 ロザムンドが援護射撃を飛ばす。これを無碍に断ってしまえるほど、ベネディクトは情を捨てたつもりではなかった。実際に空で動いていたパイロットと話し合いながらのほうが、確かにより効果的な報告書と提言書が書けるだろうと、彼は自分に言い訳を付けた。

「それと、チャンドラグプタさんに本を渡してほしいです。リストは報告書を書くときにでも。」

「……承知した」

 さて、とメリッサはロザムンドの方を向いた。まるで先生に発表をする生徒のような姿だ。「答えは出たかしら」と確かめるように聞くロザムンドの言葉に、メリッサは頷く。窓から覗く空は白み始めていた。それは段々と金木犀みたいな黄色を帯びてゆき、そして空を青く染めてゆく。

 メリッサは、東の空に浮かぼうとしている太陽を指差す。一瞬だけ、水平線に緑の閃光が走ったような気がした。

In Your Dream

 二〇歳の誕生日を目前としたジョシュア・アイランズは、ふと畳部屋のなか、自分の人生を振り返った。叔母に連れられ、中学に上がるときにアラスカから日本に移った彼は、一度何らかの理由で自分の苗字を変えていた事を思い出した。旧姓を探ろうとすると、意識が別の何かに向く。記憶にプロテクトがかかっているらしい。叔母の奇妙な縁でこの大阪の歴史ある家に世話になることができたことはありがたかったが、自分の来歴に雲がかかっているのはいい気分ではなかった。ただ、冬の寒さと灰色の空、それと同じくらい灰色の海を見ると、何かを思い出すことは確かだった。それは心地よくもあり、そして少しだけほろ苦かった。

 ふと、奈良の叔母の拠点に行かねばならぬと思い出した。いつ予定に入れたは思い出せなかったが、行かなければならないことだけは確かだった。手帳を見ても、青黒いインクでそう書いてある。その周りの日に書き込まれた予定の色は、それと比べて少しだけ明るかった。ふと彼は、この家のことについて考える。当主には良くしてもらっているが、その息子には少し避けられているような気がする。多感な時期だから仕方なかろうが、どうにかして仲良くなりたいものだ。彼は白く細い指で、自分の顔をなでる。叔母によく似て高い頬骨の感触が硬かった。

 電車を乗り継いで、叔母の家の最寄り駅までおよそ一時間半。珍しく駅で待っていた彼女は、ジョシュアのことを認めると、少しだけ手を振った。彼が珍しいものを見た顔をしていると、叔母はあからさまに顔をしかめた。それがどうも作り物みたいで、ジョシュアは少し吹き出してしまった。呆れた彼女は、一つため息をつく。

「ジョシュア。あなた明日で二〇になるのよね。」

 自分を通して誰かを見ているような口調だった。ジョシュアは、彼女のそんな風な喋り方があまり得意ではなかった。たっぷり二秒どう答えるか悩んだ彼は、結局普通に会話を進めることにした。

「そうですね、ロージーおばさん」

「そう。じゃあ、これあげるわ。明日、色々思い出せるといいわね。」

 ゲームセンターの筐体にコインでも入れるかというほどの気軽さで渡されたその写真には、目の前に座っている叔母と、その面影のある若い女性、それに驚くほどに上背のある紳士だった。奈良にあるロザムンドの家に来たときに、時たま見せてくれた写真だ。ものに無頓着な彼女はそれを大事そうにいつも引き出しにしまっていたのだ。それを何故、今になって自分に渡してくるのだろう。ジョシュアは軽く思考を回したが、目の前の女性はいつもの怪傑めいた視線を放っているだけだった。懐の、自分には不相応なほどに上等な万年筆の硬い感触を明確に感じた。

 その二人に妙な懐かしさを感じたジョシュアは、ふと最近決まって見る二つの夢のことについて思い出した。

Blue to Black

 空をそのまま持ってきたような青さの海と、雲をそのまま持ってきたような砂浜。厳重な監視をつけられているとはいえ、少年の日常の一部となった、アラスカの灰色の通りとは真逆な世界に彼はいささかめまいを覚えていた。彼の母親は人一倍元気がある。かわりに、少年は父の頭の中身をいつもはかりかねていた。母親の髪はきれいな金色で、父親のはこげ茶。母親は丸顔で、父親の頬骨は手を切りそうなほどに立っている。母親の背は高いほうでなく、父親は極めて長身。性質も見た目も真反対の二人が、如何にしてくっついたのか。子供心ながら、少年はいつも不思議に思っていた。

 砂浜に一歩だけ足を踏み入れる。サンダルのおかげか、あまり熱さを感じなかった。光線が目に沁みてしまったのか、少年は目を細める。父親は彼のかけていたサングラスを少年に渡した。いつも大きいと思っていたサングラスは、思ったよりも大きいものだった。少年はふと思い出す。共通点のない両親だが、時たま似たようなことを話していたことを。どんな相手でも、絶対に会話することをあきらめちゃいけない。そのあとに続く言葉は、完全に逆と言ってよいものだった。母は「絶対なんとかなる」と言うし、父は「見定めることしかできない」と言う。やはり、少年は不思議な気持ちになった。

「どうして、ママは戦闘機のパイロットなんてやってたの?」

 少年は父親から、そして時たま家にやってくる大人たちから母親の武勇伝をいやというほど聞かされていた。いつもはやさしく、角のない印象の母親が、空の上だと途端に情け容赦なしのパイロットだっただなんて、にわかに信じることができなかったからだ。きっと本当だったろう。なぜなら、壁には軽い上に恐ろしく丈夫なヘルメットと、勲章が山ほど飾られていたから。彼の母親は何かを見せたくてたまらない少女のように波打ち際に向かって駆け出し、そして砂を両手いっぱいにすくったあと、空中にそれを撒いた。あまりに唐突な行動に、少年は足とサンダルに詰まった砂の感触すら忘れてしまった。

「だって、空の上にある星は、地球の砂よりも多いんだもの!」

 彼の背後で、パシャリとシャッターの音が鳴った。彼の母は、全部大丈夫になるだろうと確信させるような笑顔をしていた。


 少年は、母親に連れられて物々しい雰囲気漂う基地に来ていた。飛行機の墓場とも形容されるそこに、少年は少しだけの恐怖を感じている。母親に連れられて、パイロット・スーツに着替える。マットブラックにオレンジのライン、そして首元に金木犀があしらわれている、少しくたびれたそれに身を包む母を見ていると、何よりも安心を感じることができた。

 鉛筆のような形の戦闘機の後部座席に乗せられる。母は前に乗っており、どうやら運転は任せていいらしい。ヘルメットを被り、バイザーを下げる。灰色の空がのしかかるようで、少し気味が悪かった。

 やがて、エンジンに火が灯り、少しずつ加速の力を感じる。想像より長い距離を使って空に上がったそれは、まっすぐと雲の底を目指していった。白い世界を抜けると、そこは一面の青だった。地上で見るよりも、わずかに濃い青。がたがた震える機体は、しかし微塵の恐怖を想起させることもなかった。

 青はやがて濃くなり、そして黒へと変わってゆく。もうほとんど加速の力を感じることはなくなった。きっと、空の底なんだ。少年は、高笑いをする母の後ろで、そんな事を思った。少年の瞳は、ここと同じ色をしていた。

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  1. portal:4294437 (03 Jul 2018 10:07)
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