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 目の前で眠る女が死体に見えた。
 滞在先のぼろ旅館、布団に臥した痩躯。

 ゆえに、手を伸ばす。素人の検死。
 真夜中の暗がりで手探る、美しい肋骨。皮膚越しに触れる、内臓の生暖かさと骨の硬さ。やすらか、なだらかな凹凸をなぞりながら心臓の真上に手を置く。とくとくと打つ心臓は、黄昏に染められた星屑の明滅に似た、郷愁の三拍子を刻んでいた。ああ、生きている。彼女の身体を奔る微細な拍動が、自分の心拍と同調する。
 窓からさす月光が凛と闇をくり抜いているのは、彼女の臍のあたり。ここの皮膚を暴いたなら、その中はグロテスクで蠱惑的なベリージャムと純の真珠。そのまま視線を垂直におろす。下腹部、骨盤の硬さが、薄い肉と皮膚の層の先にあるのが目視でも分かる。過剰な美意識にのっとったとしても、もう少し肉の層が厚くて当たり前だ。骨格標本を削り出している最中みたいな体格をしている。
 体温でたちのぼる懐かしい匂い。ベビーパウダーとさらさらした汗が混じったもの。今ひとつ部屋が冷え切らない冷房独特の、埃の匂いの中に鉱脈のように存在する彼女の代謝の証、彼女が生命である証。短く切った、黒猫のような細い癖毛が汗に濡れている。髪が張り付いた額に目をやる。そうして少しして―やがて私が眉間を凝視していたのは無意識だった。
 眉間を見つめたまま、この盛夏に不釣り合いなジャケットの内側、胸元のハーネスに掛けられたグロックに手を伸ばす。深呼吸のリズムで、少しの音も立てないように。耳を澄まし、目を凝らして、照準を眉間へ。トリガーには決して触れない。冷酷なプレッシャーが手のひらから全身に伝う。
 愛機まで神経を張り巡らせる。鉛製の、辺獄への片道切符。
 沈黙。
 一秒ずつ―
 やさしさでトリガーを引いたのなら。
 
「―考えすぎるね、環」

 先程まで死体を模倣していた彼女は生者となり、気怠げな声帯がふるえて音になる。
 横たわったまま、目だけがぱちりと開かれ、ころころと黒目を動かしてこちらを見た。

「私がそんなに好きかい?」

 彼女は、そのことがさも愉快であると言いたげに喉で笑う。その顔にすっかり緊張が冷めて、私は銃を下ろした。

「いや、消音器が無いなって」

 音で騒ぎを起こすのは御免。ぶちまけた脳漿や血液の処理を考えると尚更。警察と野次馬の誘蛾灯にはなりたくない。

「なんだ、そんなこと」

 そう言って、可笑しそうに小さく笑う。挙動に合わせて、闇の中で雪原のように明るい白いシーツに皺が寄った。白蠟めいて、シーツの反射する微細な明かりに映える肌。火を灯したのならそのまま溶け落ちるのだろう、肉が焼ける醜さなんてどこにも持たないままの溶融。美しいものは美しいままで形を変える。

「君ならお構いなしだと思っていたよ」
「そんなわけあるか」

 私はジャケットを乱雑に剥ぎ取って、ハーネスのホルダーに銃を収納する。そのハーネスも取り払い、凝り固まった身体を伸ばす。

「私たちは逃亡者。場末とはいえ旅館に泊まることさえリスキーなのに。その上騒ぎを起こすなんてするはずないだろう。ここが山奥なら殺してた」

 情なんかない。私はワイシャツとスラックスを脱ぎ、畳の上に足を伸ばして前屈しつつ、ぶっきらぼうに言う。凝固していた筋肉が、少しずつ生命らしさを取り戻してゆく。

「照れ隠しが下手だなあ」
「自惚れろ」

 私は質の悪い悪態を吐きつつ、彼女の身体に目を向ける。そしてすぐ逸らす。美しくて目に毒のように思えたから。
 女体の曲線美のことごとくを排した、薄く細い身体。仰向けに寝そべっていると、その儚さ、あるいは死体との近似がありありと分かる。彼女は生きていることを見せつけるかのように、上体をゆっくり起こした。深い夜闇を真っ直ぐに貫く、カーテンの隙間から射し込む月光が、彼女の肋骨に淡い影を作る。おんなの象徴たる胸部にさえ骨がうっすら浮いている。彼女が纏っているものはボクサータイプのショーツだけ。印象だけで話すなら、本来の彼女の身分である成人女性より「少年」のほうがよほどしっくりくる。しかし彼女の汗ばんで湿った肌の引力に、彼女が聖母からは最も遠い存在だと知っていても、まったく嫌味のない白百合の花弁を思い出してしまった。
 彼女は寝癖の髪を手櫛で梳き、欠伸をして笑う。

「きみに心配されることに不快は伴わないんだな。むしろ優越感って感じだ。どう?大っ嫌いなはずの人間を殺せないのはどんな気持ち?」
「すごく厭」
「私は嬉しいけどな。この間宮巽は君にとても愛されてるって思うと」

 間宮巽。女を乗っ取った悪霊が、正体を隠しきれなくなったみたいな人間。不健全や好死の兆候を内包して、なおもあっけらかんと乾いた態度。箱の中の猫のような存在の不確かさをひらめかせて、したり顔。

「最悪」
 私は、彼女の不健全な、タナトス質の美を際立たせる月光を殺したくて蛍光灯を付けようと電気の紐に手を伸ばす。寝支度を整えたい。今は午前三時。出立までの残る四時間を無駄にしたくはない。風呂に入る暇はないにしても、化粧くらいはクレンジングシートで落としておきたい。

「あ、灯りをつけるのはやめた方が良いよ。虫が集る。蚊とか、蛾とか。田舎だから」
 そう言われちゃ仕方がない。彼女に魅了された月光のおこぼれを頼りに、私はキャリーケースをまさぐった。
「今夜は?」

 目当てのものを見つけ、湿潤な布で顔を拭う。マスカラ、アイシャドウ、口紅、眉、今日一日の私を作っていたすべての特徴が擦り取られる。

「家族に命より保険金を優先された医者の男。元々健康診断の結果が異常値ギリギリだったから直ぐだった」
 拭き取って、少しつっぱる皮膚。トラベル用の小さな洗顔料を手に、洗面台へ向かう。
「報酬は?」

 掌で泡を作りながら、提示されたまま鵜呑みにした数字を思い出した。

「150くらい」

 顔に泡を滑らせる。私の顔はこの世を渡る便利な道具にはなってくれないし、自分や誰かのために磨きたいわけでもないから、この工程も適当で良い。ざばざばと冷たい水を顔に浴びせて、タオルを押し当て、終わり。

「そっか。じゃあしばらくは困らないね」
「使い方次第だろうよ」

 顔だけが涼しい。全身に汗をかいているからシャワーを浴びたいが、このぼろ旅館では隣室に水の音が響くだろう。明日の出立前に軽く済ませることにする。とりいそぎの処置として汗拭きのフレグランスシートで、汗の溜まった関節周りや首を拭いた。

「桃の香り?」
「多分」

 そもそもがティーンエイジャー向けの商品だ。狭い部屋のなか、安っぽくて甘い、嘘つきの桃の匂いがきらきらと降る。

「面白いなあ、ヒットマンから桃の香りがするなんて。随分可愛いことだ」
「やかましい」
「たしか私、むかし機動隊にいた時に君のロッカーに綺麗な小瓶を見たことがあったと思う。それに君はいい匂いがしていたし。やっぱりあれは香水だったの?」

 そんなこともあったか、とざらついた記憶の先を睨む。うすい琥珀色の液体を手首に擦り付けて、けなげにも真っ当な女の人であろうとしたころの。

「香水。知らないブランドの、知らない名前の匂い」
「ライチみたいな……都会の女の人みたいな匂いがしてた。もう付けないの?」
「必要なくなったから」

 全身に汗拭きシートの清涼感が渡る。使い終わった2枚をまとめてゴミ袋に入れ、袋の持ち手を縛る。二度手間ではあるが再び洗面台に赴き、歯を磨いて居室に戻る。その間彼女は携帯をいじっていたようで、薄い板からもれる青白い光が彼女の頬骨に陰影を作っていた。

「朝になったらシャワー入る。寝る」
 そう言って、彼女の寝る布団から十数センチという微妙な距離だけ離された布団の上に座り込んだ。そのまま身体を倒して、つめたいとぬるいの間にある白いシーツの清潔さを感じる。

「はあい、おやすみ」
「巽も寝ろよ」
「もう少ししたらね」

 彼女とは反対の方向に寝返りをうって、気持ち程度清潔になった自分の身体の質量を感じていた。けして麗しく豊満ではないし、言い表すなら筋肉質で無骨。筋肉が重力に圧迫される。それが、私はこの世の理にはまだ爪弾きにされていないことを教えてくれているようで、心地よかった。
 心音を聞きながら、どろどろと重たくて冷えた眠りに落ちる。次に目が覚めた瞬間のことは考えないのが寝落ちるコツだ。ずるずると意識が、暗がりへなだれ込もうとする。
 それに邪魔が入った。彼女が私に触れている。肩くらいまで伸びた髪に、トントントン・ツーツーツー・トントントンのリズムで触れている。

「何」
「ねえ、君もう寝るだろ」
「そりゃまあ」
「ならその前に聞いてほしいな」
「何」
「この逃亡……旅……道行きの果て、もし君が私をうまく殺せたのなら」
「……何」
「やっぱなんでもない。おやすみ、相棒」

 相棒。
 もう違う、と言おうとして、苦しくて、やめた。

「……おやすみ」

 夏の夜を泳ぐ静の糸が、私の口を縫い閉じる。言葉を無駄にしないように。代わりに心臓が、焦げて燻っていくのを感じた。何の感情が燃料に焼けているかはわからなかったけど、それが情であることはわかった。

 起きがけに浴びたシャワーは、温水機能が壊れ気味で冷たかったけれどかえって心地よかった。汗、思考、昨日の汚れ、全てをすすいでくれる。その後でボディラインを隠すオーバーサイズのTシャツと、すこし煙草の匂いが残るジーンズを纏う。化粧は眉を書いただけだ。私の方が先に目を覚まし朝の支度を始めたが、私の支度が終わる頃には既に彼女も支度を済ませていた。
「おはよう環。忘れ物はない?」
「多分」
「じゃあチェックアウトだ」

 七月三十日。夏に訪れる朝は早い。ぼろぼろの旅館のフロントを守るにこやかな老婆に、できる限り愛想良く鍵を返して滞在の礼を述べた。
 駐車場、白い軽自動車。キャリーケースを二つ後部座席に放り込むと、私が運転席へ、巽が助手席へ乗り込む。携帯端末に表示した地図を指で辿りながら、
「今日はどこまで行く?」
 そう巽をつつくと、
「チャイナタウンのあたりは如何?人が多いから暫く紛れるには丁度良いと思うけれど」
 そんなのんびりした声が返ってきた。
「チャイナタウン……」

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