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窓から差す僅かな朝焼けと共に彼は目覚める。
2m強の身長に90kg強の体重。彼の五体はまさに弩級の戦艦がごとく強靭だということが一目でわかる。剛という言葉は彼のためにある。
30分も掛けず朝の支度を済ませると、玄関にて大きなランニングシューズを履く。手際良く靴ヒモを綺麗に結ぶ。立ち上がって足先を揺らして履き心地を確かめる。
玄関のドアを開けると爽やかな日差しが差し込む。ドアの鍵を閉めてキーをポケットに入れ、彼は駆け出す。いつものランニングコースだ。家の近くに流れる川に沿って走る。
彼の走りはその巨体とは裏腹に非常に軽やかで、ぐんぐんと加速していく。一歩一歩の間隔が非常に長いため跳ねているように見える。
しかし彼は程なくして減速し、橋の手前辺りで立ち止まった。膝をさすり僅かに顔を歪める。しばらく膝を揉んだ後、走ることをやめて歩き出した。橋を渡り戻りのルートを歩く。無人の寂れた小さな公園や小さな喫茶店の横を通り過ぎる。河川敷には誰もいない。いつも変わらぬ日常として彼もまた溶け込んでいる。
しばらく歩き小さな古い橋を渡る。軋みこそないが……手すりは鯖びていた。
「我々はあなたを知っている。デウス・エクス・マッスル。」
自宅前に戻ると彼は背後から声をかけられた。
2人の黒いスーツを着た屈強な男。1人の白衣を着たブリーフケースを持つ屈強な男。計3人の屈強な男がそこにいた。
デウス・エクス・マッスルと呼ばれた彼は男たちを自宅のテーブルに座らせた。
デウスは人数分のグラスを置くと使い古されたポッドからコーヒーのようなものを注ぐ。
「ああ、どうも」
礼を言って白衣の男がコーヒーもどきを飲み、2人の黒服もそれに続いた。
「……?」
彼らはコーヒーに似ても似つかぬ味に顔をしかめたが一気に飲み干した。
「まぁいい。詳細を説明しよう」
白衣の男はコップを置きそう言った。黒服が物々しいブリーフケースを開けると数枚の書類を取り出す。白衣の男がそれをデウスへと渡して語り始めた。
「異常が検知されたのは3ヶ月前。とある収容ルーム……いや、言ってしまおう。選手番号2317……『貪る者』の最後の封印が破壊された」
デウスのコップを口へと運ぶ手がピタリと止まる。
「そうだ。あなたの想像より今回の事態は切迫している。一刻も早い『再収容』が必要なんだ」
その言葉を咀嚼するかのように一拍おく。デウスはコップを口へと運び直し一口で飲み切る。
「あなたがもし協力してくれるなら我々はリングを用意する」
白衣の男はデウスを見つめてハッキリと告げる。
「世界を救うセキュア・コンテイン・プロレスだ」
「……」
「プロレスによって彼を打ち負かす。それしか道はない」
デウスは指で机を叩き始める。
「……もしあなたが協力してくれなければ、我々は076や682といったナンバリングされたスキッパーズだけでは足りないだろう。よって動員できる全ての職員ーー私も含まれるーーをもってして彼を打ち負かすまで勝負を挑む。恐らく勝てないが万に一つというものがある」
指は止まらない。
「社会へ解き放たれた『貪る者』はありとあらゆる『武』を根絶するつもりだ。空手や柔道は勿論、剣道やフェンシングなどの東洋西洋問わず全ての剣術。功夫の長い歴史も幕が下りるだろう。ボクシングはもちろん、カポエイラやシステマ、果てはパルクールだって滅ぼされる。我々がまだ知らない未開の部族の秘武術すら跡形も残らない。……武の根絶。すなわち世界の滅亡だよ」
白衣の男はそう締めくくった。デウスの指はいつの間にか止まっていた。
「……」
「頼む」
「……」
デウスは4つのコップを片づけて玄関を指差した。
「……オレはもう、疲れたんだ」
白衣の男は悲痛な叫びを噛み堪えて黒服たちは俯いていた。しかし、彼らは引き下がり消え入るような声で別れを告げた。席を立ち玄関をくぐり外へと戻る。
「じゃあな。『サーティーン』」
それだけ言うとデウスは玄関を閉める。
「……心変わりしたら連絡してくれ。私は時間が許す限り待っている。1週間だ」
白衣の男、サーティーンはデウスの背中へ声を絞り出して言った。
しかしデウスは振り返る素振りすら見せずドアは閉まりきった。
真夏の太陽が彼等の影を濃くしていた。
6日後。
とても快晴とは言えない曇天の中でデウスは日課通りのランニングをしていた。上流で雨が降っているのか、川は濁っていた。
それを横目に見ながら走り続けるもまたしても橋の手前で立ち止まる。自らの膝を眺めてしばらく揉むと、走る事をやめて歩き出した。ここ10年近く彼の膝から痛みが消えたことはなかった。
橋を渡り対岸の歩道をゆっくりと歩く。蒸し暑く不愉快な湿気が肌にベタつく。生い茂る草木は心なしかしなだれていた。
無人の公園を通り過ぎて喫茶店の前を通りがかる。老夫婦が営む小さな店だ。客は誰もいないが『自己満足の域だから』と老夫婦はいつも笑い飛ばしている。
「おうい」
唐突に背後から声をかけられる。デウスが振り返ると彼を呼ぶ声が無人のはずの公園から聞こえてくる。
車避けのポールの間を抜け雑草が生い茂る空間に出る。小さな滑り台と木製ブランコがそれぞれ1つ。どちらも風化して今にも崩れそうであった。そのためか、立ち入り禁止のテープが巻かれている。
「こっちだ、こっち」
よく見ると滑り台の裏側に人影が見えた。デウスを大きく上回る巨漢で、背丈は3mは確実にある。しかもハグで滑り台を余裕で潰せそうなほどガタイが良く、まさに巨人であった。
「俺が誰だか分かるか?」
巨人はデウスに歩み寄って悠然と見下ろした。
「2317」
「正解!」
巨人、2317は手を叩いて嬉しそうに顔を綻ばせる。
「何の用だ」
デウスは常通りの無感情さだったが、その声には僅かな苛立ちが込められていた。
「そう焦るなよ、兄弟。コミュニケーションを楽しもう」
にやけながら2317は滑り台に上る。しかし坂の直前のスペースに巨体が収まりきらず、仕方なく2317は手すりの上に立つ。
「オレとお前は兄弟でもないし、楽しむつもりはない」
デウスがそう吐き捨てると2317は大きなため息をつき、サーフィンのように滑り台を滑る。
「せっかちだな、兄弟」
2317の顔から笑みが消え先程より真剣な表情になる。己より小さな滑り台に背を預けて口を開く。
「なんで俺とやらねぇんだ?」
「もう疲れたんだよ。色々とな」
デウスは頭を掻く。
「お前以外にゃ、俺は倒せねえぞ?」
「……」
表情を変えなかったが、デウスの影は濃くなったような気がした。
「1つ、問題を出そう」
両手をパンと合わせて2317が語りかける。
「なぜお前はこの滑り台で滑らないのか?」
「……そうする理由がないからだ」
「違う、違うんだよ兄弟」
2317は指を振りチッチッ、と舌を鳴らす。
「つまらないからさ」
「同じことじゃないか」
「全く異なるぜ。つまりなぁ……」
2317が唐突に振り返ったかと思うと、10tトラックが衝突したかのような轟音が響き砂塵が舞う。
砂塵につつまれたデウスが目を擦り、再び2317の方を見る。そこには飛散した鉄屑……滑り台だったものが散らばっていた。
「お前、何を」
「俺は面白いのさ」
「は?」
「無茶苦茶にしたい。連なったドミノを見たガキみたいに」
顔が裂けそうなほど口角が上がった2317は興奮して捲し立てる。
「ガキん時は理由なんかなかったろ?つまらないか面白いかの2択!殴るか殴らないか!こんな世の中吐き気がする!何が空手だ柔道だ!ナマ言ってんじゃねぇよッ!更地にしてやる!俺が全部輝かしい暴力に戻してやるッ!」
「……」
「お前もそうだったんだろ?『筋肉仕掛けの神』さんよ。何もかも真っ白だ。凡庸な生活なんて俺やお前にゃ無理だ」
ギリ、とデウスは奥歯を噛み締める。拳が硬く握り締められる。川の流れよりも早く過ぎ去ったここ10年を意識させられる。
「俺たちはな、結局、人を殴るのが大好きなろくでなしだ」
巨大な物体がひしゃげて飛散する轟音が再び響く。今度はブランコが粉砕された。破片たちは滑り台より原型を留めておらず、破砕機から出てきた破片と大差ない。
……拳を振り抜いたのはデウス。顔に血管が浮き出て真っ赤になっている。隆起した筋肉で着ていたTシャツの右腕部分が弾けていた。
「待ってるぜ」
ほどなくして重厚な装備に身を包まれた屈強な男たちが公園になだれ込む。彼らは2317をいずこかへ連れて行った。
屈強な白衣の男……サーティーンが遅れて現れる。
「もう時間がない。今すぐ決めてくれ」
息を荒くするデウスの背中にサーティーンは選択を促す。
デウスは憤怒を吼えながら地面を踏みつけ、亀裂を走らせた。
そして、差し出されたサーティーンの手を握った。
Woooooooooo!!!!
控室にも響く恐ろしいほどの歓声を聞き流しながらデウスはクツのヒモを硬く結ぶ。
前座が終わる頃の時刻であった。立ち上がって足先を揺らし、履き心地を確かめる。
デウスはふと己の膝を眺める。ブランコを殴り飛ばしてから膝が痛まない。
彼のコンディションは絶好調であった。
控室の扉がノックされて時間だと告げられ、デウスは扉を開けてリングへと歩みを進める。歓声がデウスの体をビリビリと震わせる。デウスはそのことにどうしようもなく悦びを感じていた。
……社会から秘匿された超人たち、“スキッパーズ”を闘わせることで正常な社会を維持せんとする超常興行 “Special Contain Professional-wrestling”。
彼は選手番号2000 『筋肉仕掛けの神』、デウス・エクス・マッスル。超常興行最後の砦である。
観衆の叫びが収まる気配はなく世界の危機だということを微塵も感じさせない。……知らされていないのだ。
デウスは大歓声と共にリングに飛び乗ると2317は既に立っており凶悪な笑みを浮かべていた。ここに立ったからには最早言葉はいらない。
ゴングの槌が振りかぶられる。
SCP-2317『異世界への扉』、開幕。
鼓膜をつん裂く歓声はもう耳に入らない。
巨人たちは睨み合いそのままピクリとも動かない。ギリシアの彫像もかくやである。
2人の額に汗が滲み出る。どちらも瞬きすらしていない。一瞬でも隙を見せた瞬間に先手を取られる。汗が頬をつたう。
睨み合う眼は赤く充血しつつあり、どちらも限界が近いことがわかる。デウスは密かに覚悟を決め、悟られぬように即座に瞬きをした。
2317は降りる瞼を見逃さず両足を踏み出して飛びかかる。デウスの視界が塞がったタイミングで不意をついて押し倒してマウントをとり一方的にダメージを与える。
が、踏み出した足は止められた!デウスは瞬きと同時に踏み出していた。鈍い衝撃音と共に両者は組み合う!重戦車同士が衝突したようなエネルギーを観客は感じた。
筋肉や骨が軋む音がする。リングの床が耐えられず足首ほどまでに陥没すると同時に2人は飛び退く。先程まで立っていた場所にはくっきりと足跡が残っていた。
定石ならどちらか1人は相手を中心に時計回りに円を描いて隙を窺う。だが2人とも微動だにしない。張り詰めた空気はまるで物理的な影響を持っているかのようで、あまりの緊張に幾人かの観客が卒倒した。
無限のような10秒が流れる。
「やめだやめ!」
唐突に2317が叫ぶとずんずんとデウスに詰め寄り、握手をするような距離まで近づく。
「いいか、今から全力でお前を殴る」
そう言い放つと2317はスレッジハンマーのような鉄拳を握りしめて振りかぶる。デウスに避けるという選択肢は無い。
これはプロレスであり、技の全ては受けねばならない!観客がそれを望んでいるからだ。
「舐めるなよ。木偶の坊」
デウスは数秒で息を整え、腕を交差して盾にして身体を硬める。こうなったデウスはパイルバンカーでも歯が立たない。この守りを破るためには戦車砲でも持ち出さねばならぬ。
「受け切れよ、兄弟」
凶悪な笑顔と共に拳が迫り来る。デウスは何故か今の光景に既視感を覚えた。が、それを思索する間も無く巨大なエネルギーが迸る。戦車の砲撃を直に受け止めたような衝撃が体を貫く。
受け止め切れず靴裏から恐ろしいほどの擦過音を響かせてリングロープに叩きつけられる。リングロープは大きくたわんだが、デウスを支え切った。痛みはするものの骨や筋に致命的なダメージはない。顔を上げ反撃の手段を練る。
「一発で終わりだって誰が言ったかよ⁉︎」
2317が既に拳を振り上げていた。2発目だ!マトモな体勢も取れず、モロに衝撃を受ける。
「ハガッ……!」
デウスは背中をリングロープに打ち付け息が肺から絞り出される。リングロープは再び大きくたわみ……限界まで張り詰める。朦朧としつつある意識の中でデウスがかろうじて保つ視界にはすかさず拳を振りかざす2317の姿が映っていた。
「オオォッ!」拳撃!リングロープが1本千切れた!「オオォッ!」拳撃!リングロープが1本千切れた!「オオォッ!」拳撃!リングロープが1本千切れた!
「グォッ……!」
支えとなっていたリングロープが全て千切れてデウスはリングの外へと殴り飛ばされた。盾となっていた両腕は真っ赤、いや真っ黒に腫れている。
「これで、終わりか、兄弟?」
肩で息をしながら汗を濁流のように流す2317は眼下のデウスに言う。デウスはピクリとも動かず、全身から力が抜けているように見えた。レフェリーがカウントを始める。
「マジで終わりなのか⁉︎」
憤るような素振りを見せた2317はリングの端に立って膝を曲げて腰を落とす。彼が両腕を後ろに回すと、足の筋肉が隆起する。グゥ、グゥ、グゥ、と巨大な橋を支えるワイヤーを思い起こすような音が聞こえる。
レフェリーが異音に気が付き振り向くと顔を青ざめさせて脱兎のようにその場から駆け出す。ほぼ同時に2317がエネルギーを解放し、『飛んだ』。身長の3倍はある高さまで跳び上がり空中で一瞬ふわりと滞空した後に自由落下を始める。
小さなビルの屋上と同じくらいの位置エネルギーと膨大な質量……そして真下のデウスに鋭く向けられる両踵。隕石のような衝撃を想像させるその光景に観客たちはデウスが内臓を撒き散らす悲惨な結末を想像し悲鳴を上げた。2317が衝撃に備えて身体をこわばらせる。
この一撃で何もかもを終わらすつもりであった。
2317の頬をつたう涙はレフェリーも観客も、本人ですらも……ついに誰も気づかなかった。
インパクト!この日1番の轟音が響き渡り、埃が巻き上がった。その場にいる誰もが決着を想像した。
しかし、そうはならなかった。2317は地面に叩きつけられていた!躱されるわけでも、防がれるわけでもなく、力のベクトルを奇妙に捻じ曲げられて地面に叩きつけられた!
「てめぇ……何泣いてんだよォッ‼︎」
そして……デウスただ1人だけが情けない涙に気づいていた。
デウスはもう取り繕わない。
自分は結局人でなし。ここでやらねば世界が終わってしまう。己1匹が修羅になれば済む話だ。人並みの幸福なんぞそもそも願うべきで無かった……。
2317は呼吸を整えながら点滅する視界にデウスを捉える。一気に体力を持っていかれた。幸い致命的なダメージはどの部位にもないが、同じ技はもう放てないだろう。
2人はリングに戻る。度重なる暴力の余波によって見るに堪えない破損具合であったが、ここが彼らの決着に相応しい場であった。
膠着状態に陥る前に2317が再び先手を取った。先ほどの大砲のような拳ではなくスピードに長けた比較的軽い水平チョップ。風を切ってデウスの胴に迫る。
通常ならば腕で簡単に防がれるが、今のデウスの腕は使い物にならない。さらにプロレスゆえ技は受けねばならない。先ほどの奇妙な現象はデウス逆転勝利のムードを醸し出したが、実際はまだまだ追い込まれたままである。
水平チョップが迫る。デウスは両目でそれを捉えると……消えた!チョップは空を切る!
技を避けてしまったのか?プロレスにおいて許されることではない!観客がどよめくと同時に、2317はチョップを放った手先にわずかな荷重が感じた。
手の平の上にデウスが立っていた。
2317は目を見開く。ありえない!デウスはどう見ても80kg、いや100kgはある!でなければ最初のかち合いで終わっている。にもかかわらず手先にはリンゴを持った時のような重みしかかかっていない!
デウスは慄く2317を見下ろし、首を鳴らす。すると荷重が戻った!唐突な荷重は2317の体幹を崩し、膝をつかせた。すかさずデウスは2317の膝を踏み台にして肩車のように彼の首に足を巻き付ける。
2317はようやく理解した。デウスはチョップを受けていた。チョップの衝撃をそのまま利用して跳び上がることで手の平に降り立ったのだろう。だが……
「いくら……いくらなんでも異常だぞ!」
2317は吼える。その後の荷重の変動は説明がつかない!質量保存則を無視しているが如くの現象は単純な身のこなしだけではありえない!
「何をした!」
「お前がやってこなかった事」
足を2317の首に固定する。外そうともがいてはいるが、腰の入らない体勢では大した力は出せなかった。
「武術だ」
デウスは淡白にそう言い切ると上下方向に180度回転した。デウスの体と共に2317の顔が逆さを向く。鳴ってはならない音がいくつも響き、ついに巨体が地に倒れた。
しかし、彼は理屈ではなく、怒りで生きていた。
立ち上がる2317を見てもデウスには驚きや動揺は一切合切無かった。あの程度で終わるなら自分はここにいない。
「ア、アァー、あ……よし、治った」
2317は自らの手で頭の向きを無理矢理戻し、声を出して調子を確認する。
「そろそろ本当にバケモノだな」
「効いたぜ。兄弟」
デウスの悪態に2317はニヤリと笑い首を鳴らす。両者は再び距離を縮める。
また睨み合いが始まるかと思いきや2317がそのまま勢いよく踏み込む。腕をデウスの首に引っ掛けた後、幅跳びのように飛んだ!そのまま2317の圧倒的な重量によりデウスは体を倒されて頭部を床に叩きつけられてしまった!誰もが一度は見たことがある名技!
デウスは叩きつけられた瞬間、蠕動するかのように下半身を跳ね上げる。さらにその勢いに任せて逆上がりがごとく宙返り。再び、2317の腕に飛び乗った!およそ似つかぬ身のこなし!
2317は眉をひそめる。やはり軽い。からくりが分からない。しかし同じ手は食わない。彼は動揺せずもう片方の手でデウスの脚を掴みぶうんと振り回す!
デウスは自由な脚で2317の頭部を執拗に叩くが彼は怯まない。やはり打撃は効果が薄い。2317が一瞬ニヤリと笑った。ぶうん、とデウスが2317をさらにもう一周振り回す。
もう一周!もう一周!もう一周!もう一周!もう一周!
手放す!弾丸のようにデウスは背中からリングロープに打ち付けられた!リングロープは大きくたわみ……反動により投石器のようにデウスを飛ばした!
2317は数歩下がる。サッカーボールを蹴るような姿勢だ!デウスは足を槍のように2317へ向けて滑空する。2317がほくそ笑む。正面からのぶつかり合いならこっちに分がある。
2317から居合がごとく抜き放たれた蹴りとデウスの槍のような飛び蹴りが衝突する!観客は戦艦の砲弾同士がかち合うような音を聞いた!
デウスは勢いそのままリングの床に膝を大きく曲げて着陸する。彼の足全体が真っ赤に腫れていた……。2317は確かに手応えを感じると同時に落胆した。
たしかに強い。が、これじゃあダメだ。こんなはずじゃあなかった。再び怒りが燃え上がる。ふらつきながら立ち上がるデウスの背中に叫ぶ。
「お前っ、不甲斐ない野郎が!真っ直ぐ立てよ……!」
「真っ直ぐ立つべきなのは、お前の方だ」
デウスが2317の膝を指差す。2317が見下ろすと、工作機械でくり抜かれたように欠損した両膝がそこにあった。噴き出す血と共に痛みが駆け巡る。が、2317は踏ん張る。たちまち血が止まる。しかし先の首のようには膝は戻らない。無くなっているからだ。
2317はバランスを保てなくなり倒れそうになるがリングロープに背を預けることでかろうじて立ち続ける。焦りを感じると共に歓喜が体を突き抜ける。
「ようやく目が覚めたんだな、デウス・エクス・マッスル……!」
切創15。擦過傷35。裂挫創16。刺創28。咬傷9。打撲創56。
膝を無くして動けなくなってから2317に刻まれた外傷の数である。外傷のみでこれだけの数であった。体内は及びもつかない。
デウスに一切の躊躇は無く、リングロープに寄りかかる2317に対して全力で攻撃した。もはやプロレスではなく公開処刑であった。
それでも2317はそこにいた。
掠れる呼吸、流れ続ける大量の血、傷口から見え隠れする骨……しかしその眼は爛々と輝いている。頼みの治癒力が限界を迎えてもなおその巨躯は健在であった。
デウスは淡々とトドメを差そうとする。足を軽く揺らして調子を整え、深呼吸する。全身を脱力して剛力に備える。
2317はデウスを見据えていた。爛々とした眼に込められた感情は、デウスには分からなかった。瞬間デウスの足が抜き放たれる。最も鋭い、居合のような回し蹴りであった。
その蹴りは2317の首へ吸い込まれるように迫り……。
紙一重の差で、外れた。
デウスは初めて動揺した。
膝が痛み始める。何年間も味わったあの痛みだ。
2317は動いていない。デウスの足が避けたのだ。
鼓動に合わせて膝が痛む。橋を走り切れない痛み。
汗が吹き出る。疲労ではない、なにか強い感情によるものだ。
膝が痛む。真っ白だった十何年もの月日。
恐怖。恐怖だ。諦めではなく焦燥に似た感情。
上手く作れないコーヒー。舌にひりつく苦味。
何か、何かがあったはずだ。
膝の痛みが治まらない。たまらず体勢が崩れる。
頭上に影が落ちる。2317だ。顔は見えない。
彼はデウスを片手で引っ掴んで持ち上げ……怒りを吠えながらデウスを殴り飛ばした!
デウスは2317の顔が見えた。
その目は、怒りに満ち満ちていた。
……デウスは思い出した。
この拳は、過去に食らったことがある。
とても、とても痛かった。
1番、痛かった。
殴り飛ばされたデウスはリングに叩きつけられる。彼はようやく、2317が怒りに震えていることに気づいた。
「……やっと思い出したか?兄貴‼︎」
人より少し、体を動かせた。
人より少し、責任感が強かった。
言ってしまえばそれだけの人間であった。
多少鍛えて見知らぬ屈強な黒服にスカウトされた際も、大した人間ではなかった。
黙って家を去ろうとした俺に気付いた幼い弟が泣いて暴れるのを宥めることすらできなかった。ワンワン泣いて振り回す彼の拳を黙って食らうことしか思いつかなかった。
……とても痛かった。
だのに、俺は忘れていた。
全部、思い出した。
俺は記憶の濁流に揉まれながらも立ち上がる。
「すまなかった。一言だけでも、何か言うべきだった」
「『すまなかった』⁉︎てめぇ、それで済むと思ってんのか⁉︎」
2317……いや、弟が怒っている。あの時のように殴りかかってくる。俺は黙って受け止める。
「オレ、オレ達がどんだけ……!それを一言で……ふざけるな!ふざけるなよォッ!」
ひたすらに痛い。身も心も震える。もっと早く、こうすべきだった。
「何とか言えよォッ‼︎」
弟は咆哮をあげて襲い掛かる。もう何も聞こえちゃいないだろう。俺の不甲斐なさがこんなにしてしまった。
だが、けじめをつけることはできる。迫る弟の拳を見据える。迫り、迫り、迫りーー。
俺の顔面に叩き込まれた。最初に食らった大砲のような拳……いや、それ以上!一気に意識が空白に染まる。が、耐える。
これは武術でも何でもない。ただの意地だ。
2発、3発と続いて叩き込まれる。顔面の骨という骨が砕けていくのを感じる。だが避けちゃあいけない。この引き絞った拳を緩めるわけにはいかない。
一瞬、猛攻に隙ができる。弟が血に染まる俺の顔を見て固まっていた。俺を殴るのを躊躇していた。
やっぱりお前は優しいやつだ。だから……
「家に、帰ろう」
拳を抜き放つ。生涯で1番力を込めた拳。それは弟の顔面とぶつかり、彼を地面に叩きつけた。
同時に俺の意識が一気に白に染まる。どうやら1発、もらってしまったようだった。
……だが、もう終わった。
消えゆく世界の中で、俺は引き分けのゴングを確かに聞いた。
SCP-2317:終了
結果:引き分け
備考:両者は治療中に脱走。現在捜索中であるが未だ行方不明。
「見つからないものはしょうがないでしょうよ」
白衣の男、サーティーンが電話に応えながらコーヒーを啜る。その小さな喫茶店の窓からは小川が見える。
「ま、時間の問題です。それでは」
彼は何かしら捲し立てる相手をよそに電話を一方的に切り、ゆったりとコーヒーを味わう。豊かな苦味……サーティーンはコーヒーに造詣が深いわけではないが、良い味であることは確かだった。
ふと子どもたちの笑い声が聞こえてくる。隣の公園からだ。この間まではすっかり寂れていたらしいが、ここの喫茶店を営む老夫婦の息子たちが遊具などを整備して再び公園として蘇らせたそうだ。
お陰で公園の隣に位置するこの喫茶店の客足は増えつつある。それよりも、老夫婦は成長した息子たちが戻ってきたことを嬉しそうに語っていたが……。
良い話だな、とその話を直接聞いたサーティーンは純粋に思った。
席を立ち、会計を済ませて外に出る。いつのまにか秋はすっかり終わって冬が顔を覗かせていた。彼はぶるりと震えながら川沿いに進む。
デウスと2317は未だ見つかっていない。今回の件に深く関わったサーティーンが彼らの捜索の任務を押し付けられていた。
古びた橋を渡る。軋みこそないが、錆びている。
「ああ、そこの兄ちゃん。今からこの橋の工事が始まるから……」
サーティーンの背後から声をかけられる。声の主は非常に大きな体躯であり、サーティーンは彼に覚えがあった。
「あなたって確かあの公園の整備をしてらしたとか」
「兄貴と一緒にやったから一応そうだが……それが?」
「いや、喫茶店のオーナーからお話を聞きまして……月並みですが良い話だなと」
「おう、ありがとよ」
それだけ言うと、サーティーンは引き返してもう一つある橋へと向かう。喫茶店の方向にあるので、引き返すような道のりになる。
喫茶店をちらりと見ると老夫婦とその息子が談笑していた。ふと空を見るとすっかり夕方。雲が紅く染まっている。小さな公園では子どもたちが各々の家へと帰っていこうと自転車に乗り込んでいた。
子どもたちの自転車に抜かされながら、サーティーンはようやくもうひとつの橋に着く。こちらはごくごく普通の橋。特に何もありはしなかった。
サーティーンが橋を渡り終えたとき、橋の今来た方角……背後から誰かが走りながら彼を呼びかけていた。大柄な男、喫茶店のオーナーの息子たちのもう1人で兄の方だ。
彼は体躯に似合わない軽やかな走りで瞬く間に橋を渡り切り、追いついた。
「これ、アンタのだろ?」
彼の手にはサーティーンの携帯があった。
「すまない。気づくのが遅かった」
「……」
「どうした?違うのか?」
サーティーンは意を決したようにその携帯を受け取り、面と向かって彼に言った。
「あなたは、良い人だ」
ひとりの息子であり、兄であり、何より良い人であった彼は、それを聞いて照れたように微笑んだ。
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ジャンル
アクションSFオカルト/都市伝説感動系ギャグ/コミカルシリアスシュールダーク人間ドラマ/恋愛ホラー/サスペンスメタフィクション歴史任意
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- portal:3776694 (04 Jun 2018 22:14)
SCP-2000 - 機械仕掛けの神
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SCP-2317 - 異世界への扉
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