Lesson-1: "無意識"を意識せよ。

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「"無意識"を意識せよ。」ナンセンスな広告だ。無意識を意識できたなら、それはもう無意識でない別のナニかだろうに。

地下鉄。終電。残業帰り。あらゆる気だるい要素と疲労によって、男の身体は汚泥のように座席にへばりついている。車内に垂れ下がる中吊り広告を見上げたまま、男には視線を外す気力すら残っていない。身も心も疲れ果てていた。

今はただ、フカフカで暖かな椅子の中に、黙って収まっていたかった。この椅子の確かなぬくもりは、自分が漏らしたのではないかという程の熱量と爽快感をたたえていたのだ。

このまま一生、この椅子の上に座っていたいような、一種の夢見心地のような気分だった。


地下鉄。終電。残業帰り。男は次の日も電車の椅子に収まっていた。時刻は昨日と変わらず、草木も眠る丑三つ時。真っ黒な車窓に映る唯一の乗客の顔は暗かった。

今日のオブジェクト試験は失敗だった。大事な兆候をことごとく見過ごしてしまった。結果は大失敗、研究員にあるまじき失態だ。

職場の先輩に睨まれる映像が暗闇の車窓と重なる。男は椅子の柔らかさに身を投げ出し、歯ぎしりしながら車内へと目線を戻す。

そこに、広告は1枚たりともぶら下がってはいなかった。


地下鉄。終電。残業帰り。男はその次の日も電車の椅子に収まっている。いつもと変わらない椅子の感触を味わいながら、今日はとりとめない考えに頭を巡らせてみる。

財団運営の秘匿地下鉄道"マクロライン"の終電は遅い。普通の鉄道なら確実に行かない時と場所に自分を連れて行ってくれる。職場と家のベッドが直通になってるようなものだ。それは楽でありがたくもあり、同時に毎日往復するだけの悪夢のような生活をももたらしてくれる。なんという無味乾燥。人生の砂漠に1人ぼっちの気分だ。

そうして男はいつものように車内を見渡す。ここで初めて、実際車内には男以外の誰も乗っていない事に気がついた。


地下鉄。終電。残業帰り。男は今日も電車の椅子に収まっている。今日の男は苛立ちを覚えていて、身動きできない程だった身体の倦怠感を忘れ始めていた。

今日も残業のち終電。いい加減おかしくないか?身に覚えがない訳じゃないが、これほどまで財団はブラックだったのか。毎日判を押したような作業ばかりだ。挙げ句に、昨日も今日も実験で同じミス。同じく無価値な測定値。同じ叱責。同じ時刻の最終電車。同じ椅子のぬくもり。

男はふと思考を止めて、癖になっていた椅子を弄る手を見つめる。この椅子はいつも同じ触り心地だが、毎日常に同じ感覚なのは少しばかり妙じゃなかろうか?


地下鉄。終電。残業帰り。男は今日も電車の椅子に収まっている。椅子の感触は今日も暖かで柔らかく、そして昨日と同じだ。

いよいよ妙な気がしてきたな。鉄道網の車両は日々入れ替わるのが常だ。一見同じ車両でも、型番から内装、経年劣化具合までそれぞれ微妙に異なっている。それに、温度。これが常に等温とは思えない。気温と、その日の混雑量によって必ず変わってくるはずだ。

車内は今日も男が1人。車窓は不変の常闇と影。車内灯の下には広告1枚もない殺風景な風景と、いつもと同じ座席があるばかり。普段意識せず見過ごしてきた感覚が、ここに来て急激になだれ込んでくる。男に取ってそれは一種のホラーで、早く帰りたいと願うばかりだった。


地下鉄。終電。残業帰り。男は今日も電車の椅子に収まっている。収まっている自分を認識した途端、男は驚き身の毛がよだつのを感じた。

アレだけ妙だと思い至った昨日の今日、同じ電車の同じ座席に座るかフツー?車両を変えたり早退してみたり、たまには電車以外で帰ったりしても良いだろう。勤務サイトと自宅の間なら、他にも道が…。

男は椅子の上で硬直した。自分の無知を思い知ったからだ。普段意識もしないで乗り過ごしていたこの車両は、いつもと変わらないこの椅子の感触は、今は男にある事実を告げていた。

男には、自分が乗った駅も、降りる駅も記憶になかった。そもそも男はサイト内宿舎住みで電車通勤などしていない。


地下鉄。終電。残業帰り。男は今日も電車の椅子に収まっている。男は自身の身体を椅子の上に認識し、そして大声で叫び出しそうになったが、すんでのところで思いとどまった。

冷静になろう。状況を整理するんだ。…恐らく、電車内の状況だけがループしている。よくよく考えれば、自分にはこの電車に乗る前後の記憶が無い。地下鉄、終電、残業帰り。この確かな認識だけはあるが、それは記憶の上での話だ。第一、電車通勤はしていないはずだ。少なくとも、今のところは。

男はハッと気づき、車内を見渡し、椅子の手触りを確かめる。男にはこの感覚に覚えがあった。かつて財団に雇用される前、一般企業に勤めていたその頃のルーチンワーク。地元の地下鉄の風景と全く同一だった。


地下鉄。終電。残業帰り。男は今日も電車の椅子に収まっている。ここでいつものルーチンを実行、車内を見渡し椅子を一触りする。やはり、今は亡き昔なじみの地下鉄に瓜二つだった。

確か、この路線は既に現実では廃線となっていたはずだ。ならばここは何処だ。時空間異常?表象領域?記憶の中とでも言うのか?何故自分は入り込んだ?何故気づけなかった?…何故、自分は気づけた?

ずっと椅子を弄っていた手を止める。この進みゆく電車の中で、自己の認識を呼び覚ましたのは幼い頃からの触り癖だった。見過ごし、流され、我を失ってしまうこの空間の中で、自分を縫い止めたのは変わらず続けてきたこのルーチンワークの感覚だった。無意識のままに行動し、その感覚が意識を引き出したのだ。

「"無意識"を意識せよ。」

その問い掛けが、鮮明に視界に焼き付けられた。


地下鉄。終電。残業帰り。男は今日も電車の椅子に収まっている。しかし今日、男は新たな自我に目覚めることになる。まずいつものルーチン、車内をぐるんと見渡し、椅子を手のひら全体でわしゃわしゃと触る。"ココは車内"、"自分は椅子の上"。そして、"ココは恐らく、現実ではない"。ココから離れなければならない。

男は足に力を入れ、ゆっくりと席を立った。男が着席してから実に91日目のことだった。暖かな椅子は視界から消え失せ、男は硬直した冷たい床の上に足を下ろす。今まで見過ごし続けてきたこの状況、この電車内の風景は、よくよく観察すれば異質だらけの空間だった。

まず、連結部。左右のどちらからでも車両が延々と連なっているのが見える。その全てはカラッポで、車両はおよそ無限に続いているようだ。現実にはあり得ない。

次に、車窓。外には一切の明かりもなく、ただの暗闇が広がっている。良く意識すれば認識できるが、トンネル灯や壁面が見えないのは通常ならおかしい。試しに覗き込んで見ると、窓の向こうには何もない空間が無限に広がっているだけだった。これも現実にはあり得ない。

最後に、あらゆる物の内部。普段なら当然見る気にもならない内部も、分解してみれば良く分かる。この空間はテキトーだった。ドアの内側には開閉するための装置が備わっておらず、モニターを割ってみれば液晶以外の部品が無い。そして椅子を壊してみれば、クッションの下はカラッポで暖める装置が入っていなかった。現実にはあり得ないづくしだ。

これでハッキリした。ココは、自分の記憶と認知によって形成された世界だ。車窓や車内は前職のブラック時代の心象風景そのままだし、作り込まれてない部分は自分が詳細を知らない部分だ。このような世界の例を、自分は1例知っている。

男は振り返り、こちらに向かって応えた。

「こりゃ夢だな。」


地下鉄、終電。男は今日も電車の椅子に収まっている。しかし、今日はいつもと異なる点が2つほどあった。

1つ、男は残業帰りではなく疲れていないこと。そしてもう1つは。

「ご名答!良くできましたね。」

隣の車両の扉から、にこやかな初老の男性が入ってきたことだった。

「えーっと、"クリア日数: 91日目"かな?うんうん、合格合格。早かったね。」

にゅるりと白衣の内ポケットからバインダーを取り出して、何やら嬉しそうに書き込む老人。そのバインダーはポケットには到底入らないサイズで、ここが夢の中なのだと改めて男に認識させた。

「あー…とりあえず、あんた誰だ?ここ、夢なんだよな?感覚がハッキリし過ぎてそんな気がしないけど…。記憶に無いんだよな、あんた。」

力なく椅子にもたれる男を見て、老人は男に笑顔を向ける。

「うん、気になるよね。分かるよ。とりあえず質問に答えると、"ココは君の夢の中"、"ボクは君の夢の登場人物"、"キミは意識がありながら夢を見ている"、だね。いわゆる"明晰夢"、英語でルシッドドリームと呼ばれる現象の中だよ、ここは。」

老人は男の隣にどっかりと腰掛ける。辺りには電車の進む音、椅子のぬくもり、そして老人の体重と息遣い。どれも現実さながら、あるいは現実以上に明瞭だった。男はやはり訝しむ。

「なら何故、知らない事を知っている?明晰夢の英名なんて知らないぞ。」

隣の老人は微笑みを崩さない。

「それはまあ、ボクは君の脳内キャラじゃないからだね。外から君の夢の中にお邪魔してるんだよ。…おっと、怪しい者じゃないよ。これを見てくれ。」

そう言って老人は白衣を裏返す。そこには見慣れたあのロゴマーク、内側に向かう三本矢、財団ロゴが刺繍されていた。

ファウンデーション・コレクティブって知らないかな。まだ君のクリアランスじゃ開示されてなかったかな?まあ、そういう"夢の中の財団集団"があるんだよ。ボクはそこの職員ね。」

呆気にとられて顔を向ける男に、老人はバッチリとウインクしてみせた。

「"何だそれ"、"何で自分に"って感じだと思うけどちょっと待ってね。次のサイクルには自動的に入っちゃうから。」


地下鉄、終電。男は今日も電車の椅子に収まっている。ただ、もはやルーチンは必要なく、男は状況を掴み始めていた。電車内には似つかわしくないホワイトボードが設置され、いつの間にやら座席には熱々のコーヒーとスポンジ・ベーグルが用意されていた。それに加え、教壇に立った財団ロゴ入り白衣の老人が自分を指差していたからだ。

「"夢と夢は繋がっている"。最初に気づいた人が誰かは判然としない。だけどボクらは、この領域を"夢界"と呼んでいる。それは恐らくボクたち生物の脳をホストに広がっていて、誰でも不可思議な経路から出入りできるものだ。」

ただし、と老人は手に持っていた指示棒を振り回す。

「行動には自我が必要だ…特に、夢の中では。夢界に入るのは容易いが、活動的であるのは素養と能力が必須なんだ。それらを備え、夢界で意識的に活動する肉体持ちをボクらは"アクティブ・シャドウ"と呼んでいる。アクティブ・シャドウを持つ人材は、常に人手不足のボクらFCファウンデーション・コレクティブとしては喉から手が出るほど欲しいんだ。そこで、今回のようなレッスンの出番だ。」

ぐにゃり、と景色が歪む。それは一瞬のことだったが、男は確かに脳を撫でるざらつきと混濁を目の当たりにした。男の視界には既に、広告でいっぱいになった車内が広がっていた。

「"無意識"を意識せよ。」

老人は呟く。脳裏によぎる問い掛けを。

「これは新人向けレッスン1の標準課題なんだけど、元は第一次夢界調査団監督者の金言なんだ。君もそうだったと思うけど、無意識活動は意識を目覚めさせられるんだよ。財団の夢界研究によれば、ここは生物の無意識上に成り立っているとされる。だから無意識を意識し、"寝過さない"ことが肝心とされているんだ。」

新人向けレッスン、寝過さないこと、老人の言葉が脳内でぐるぐると反響する。面白いことに同様の文字は実際に空中へと現れ、ゆらゆらと男の傍を周回している。それは脆く柔らかく、触れると男の手のひらの中に染み込んでいった。

「つまり…この夢は、貴方が訓練のために作ったと?それで"寝過ごす"か"無意識を意識できる"か選別していた、と。…こんなトラウマで出来た夢の中で、3ヶ月間も費やして?」

脱力して椅子にもたれ、手元のベーグルを齧ってみる。見た目に反し中は綿菓子のようにふわふわと甘く、そして実在性が低くよく溢れた。その切れ端をキャッチして、老人はかがみ込むように男を見つめた。

「いや、不快な思いをさせて済まない。夢界改変の内容は特に指定しなかったんだ。この夢を見ている肉体は君だから、内容は君の投影、作りの雑さと不安定性は言ってしまえば君の想像力不足によるものだよ。」

でも、と老人は呟き、くたびれた男の手を取りあげる。その手は老人としては考えられないほど若くツヤがあり、確かな熱量を持っていた。

「91日っていう記録は、実は結構好タイムなんだ。多くの人間は夢に気づけない。強制終了するまで2000年も繰り返した職員だって居た。君は、素養があるんだよ。…現実でも多忙とは思う、肉体休息も減ってしまう、だが是非とも、ボクらFCに加入して欲しい。FCスカウト担当職員だから、だけじゃない。これはボク自身からのお誘いだよ。」

老人の瞳には意志がこもっていた。その目は意識的にできるものではない。無意識の海に漕ぎ出し、無秩序の夢界でも財団の使命を果たす、維持され続ける1つの意識によるものだ。改めて意識させられた財団職員の魂に、男は久方ぶりの高揚を隠せなかった。

「わかりました。何とかやってみます。」

そう言って意識的に、熱く手を握り返した。


地下鉄、終電。男は今日、椅子には座っていなかった。電車は既に止まっていて、開いたドアからは駅のホームを見ることができた。長く続いた電車旅は終着したのだ。

「こちらではオネイロイとしての通名を名乗るのが一般的だ。君は手癖でレッスンをクリアしたから、"ハンドラ"とかどうかな。」

ちなみにボクは単に"教授"と呼ばれてるよ、と老人は笑った。男は新たな名前に期待を寄せる。奇妙な名前も、この世界にはピッタリに思えた。

これから配属となる夢界サイトには、見た目も名前も奇妙な、更には肉体的特徴も一致しない様々な存在が夢界で財団職員として働いているという。男、ことハンドラの胸は高まるばかりだった。

二人は電車を降り、駅の出口へと歩き始める。出口の向こうは既に地下鉄駅構内ではなく、青空の下に立派な白亜の研究施設が広がっていた。それはセクター81LD、夢界研究とトレーニングの拠点だ。二人は共に仲良く肩を寄せ合い、夢界特有のふわふわした足取りで、サイトの方へと歩みを進めていく。

ゆっくりと、電車のドアが閉まり始める。ハンドラの表情は和らぎ、少しの輝きを帯び始めた。

「ああ、あと伝えておく事が1つ。」

教授は唐突にハンドラの方を向き、ポカンとしたその顔にそっと告げる。

「今回のレッスンには3ヶ月以上費やしたと言ってたよね?うん、いや、これはまだ君の勤務初日だよ。現実世界ではね。」

ドアが閉まる。床が消える。椅子は暗黒に消え去り、車内の一切が熔ける。後には黒々とした無と、神経細胞のスパークが稀に光る暗闇だけが残された。


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