Tale下書き/Xコン(嘘)『財団メシ:幽霊職員がいく!エリア-81JHの裏メシラーメン』

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目次

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0.

「おっうちの、ウッラには、店があるー。う、ら、メ、シ、屋! Foo〜♪」

孤独は、人を容易に狂わせる。誰もいないマクロライン  財団有する専用の地下鉄道  に乗り込んでどこにも下車せず、ひたすらに面白くもない創作歌を口ずさむ若い女性を見たら、誰もがそう思うかもしれない。このマクロラインは環状線で、彼女がこの席に腰を降ろしてからちょうど8周目を迎えるところだった。

ただ、彼女が誰かに咎められることも、眉を潜められることも、実際には起こりえない。

「サイト-8100〜、8100〜。」

ガタンと列車が止まり、ガヤガヤと数人の男女が乗ってくる。彼女はそちらをチラとだけ見やるが、灰色のワンピースをはためかせ、両の足をパタパタ動かすのを止めない。あわや乗客にぶつかりそうになってもお構いなしである。……むしろ、彼女はその行為を、叱られたいと思ってやっているフシがあった。

その願いが叶ったか叶っていないのか、眼の前に立ったスーツの中年男性に足が触れる。かと思うと、男性は彼女の顔にお尻を向け、上から思い切り座り込んだ。

「……おえっ」

嗚咽が彼女から漏れ出す。男の尻は彼女の顔から胴体に掛けてを"貫通"し、そのままどっかりとイスに腰掛けた。押さえつけられるような圧迫感と不快感に彼女が顔をしかめる。ズルリと隣の開いた席に滲み出し、実に恨めしそうな表情でその中年男の顔を見上げた。彼女の半透明の身体が男の生ぬるい体内を思い出し、込み上げる嫌悪感に身震いが走った。

彼女、幽谷 陽菜かそや ひなは、財団のエージェントである以前に、故人である。"財団職員は死ねる方が楽だ"とは良く言われるが、幽谷の場合はもっと悪い。死んだと思いきや、今度は幽霊として、成仏の仕方も分からないまま元の世界に放り出されたのだ。これで幽谷は、もう1度死ぬことも、ましてや生きることも叶わなくなった。

さらに悪いことがある。幽谷は任務中に遭遇してしまった未知の異常存在に食い殺され絶命している。その化け物のことを、幽谷は"良く覚えていない"ことを覚えていた。反ミーム。情報の伝達と記憶の保持を阻害する異常性だ。幽谷はその牙のある四つ足の獣に、顔左半分、首一部、右腕、腹部の大半、左足首から下と、魂の全てを、食い散らかされ、殺された。以来、食べられたそれらは、この世の全てから、勝手に付与された反ミーム性によって隠されている。……端的に言えば、誰にも見えず、触れられず、気づかれることも無い、反ミームの幽霊として、この世に置き去りにされたのだ。残りの肉体と、わずかな私物だけが、財団の手で火葬され一足お先にあの世へと旅立っていった。その瞬間を、火が点いて消えるまで、幽谷はじいっと眺めていた。

自分を食い殺したアレを、幽谷は許していない。永遠に。今も、一人で、探し続けている。

……とは言うものの、当てもない手掛かりを求めて日本支部中を旅する生活も、嫌気が指すというもので。目指す悲願こそ変わらないものの、果ての無い独りでいく道に、一時は精神崩壊の憂き目にあったりしたものだった。(それすらも誰にも気づかれなかったので) 時間が経つにつれて収まり、今のようなギリギリセーフのメンタルに持ち直したという経緯がある。

そんな幽谷の最近の趣味は、もっぱらぼんやりと漆黒に流れ飛ぶトンネル灯の光を眺めることである。このマクロラインのような環状線は、今や幽谷のお気に入りの場所だ。死後、幽霊となった幽谷は、冷たい土の下で繰り返し周回し続ける、自分と似た境遇を感じるこの場所が好きになっていた。以来、毎日のように先頭車両の中程の同じ席に座り、降り先を運に任せて、ルーレット上の球のように周回を続けている。今日も、明日も、気が済むまで、永遠に。


1.

と、また列車が止まり、今度は若い男衆が4, 5人乗って来た。機動部隊員の同期などだろうか。それに気づいた幽谷は、ひゅるりと重力を無視して飛び上がり、天井を背に付けながら上下に1回転。その内の1人の男の横に腰掛けた。

最近の幽谷の他の趣味 (一応、情報収集の実益を兼ねる) の一つに、「立ち聞き」がある。幽谷は幽霊であるがゆえ霊感や霊視装備を身に着けた専門家でない限り視認できない。その上、視認できたとて反ミーム性により「視認したこと」を認識できない。完璧な布陣を前に、幽谷の立ち聞きは完全犯罪なのである。これにより、幽谷は日本支部中、特にサイト-8100~8181周辺のあらゆる醜聞を把握することに成功していた。最も、伝える相手は誰もいないのだが。

男は、腹を空かせているのか、しきりにメシの話をしているようだ。なぜか口調は、怪談を話すようなおどろおどろしい表現だった。

エリア-81JHの噂をしってるか? なんでも、食堂に、とにかく胡散臭い店員が居るらしい。ソイツに秘密の合言葉を言うと、賄いメシの旨いラーメン、通称"裏メシ"が出てくるらしいぞ。」

この噂に、幽谷の薄灰色の脳細胞が閃きを生んだ。聞いたことがある。エリア-81JHのうさんくさ店員の噂、もとい伝説だ。この環状線を周回する限り、本日で言えば4度目の言及だった。老若男女問わず噂されるその店員は、しかし「胡散臭かった」「本当に胡散臭い」「胡散臭星人」ということしか分からず、その性別すら判然としていない。謎に包まれた存在なのだ。人々が異口同音に言うのは、「とにかく行けば分かる」ということだけ。財団広しといえど、そんな高純度の胡散臭い人物が存在するモノだろうか?

それよりも。幽谷は浮足立つ思いで (実際イスに腰掛けた姿勢のまま3cmは浮き上がっていた)、今聞いた噂を反芻する。らーめんとな。

幽谷は天を仰いだ。円形の蛍光灯が、天使の輪のようにチカリと明滅している。ラーメン。生前好きで良く食べていたが、死んでこのかた食べたことがない。あの温かくて味の濃い汁の中に浮かぶ、黄色い麺に緑の野菜が湯気の中でダンスする様が、たまらなく懐かしく感じられた。

「おなかすいたなぁ……」

自然と、幽谷の口からこぼれ出た。幽霊だからといって、空腹と無縁かと思ったら大間違いだ。むしろ肉体があった時より、餓えに苦しみ、無いお腹をさすって温かなメシを恋しく思うものなのである。

気づけば、幽谷が夢想している間に、男たちは見知らぬ駅で下車していった。車内には幽谷だけが残される。列車の揺れだけが、幽谷の無い身体を揺らす。元通りの実に空虚な空間。そんな場所に居ては、満たされない気持ちがより耐え難く感じられるというもの。

幽谷は、環状線8周分のうち、ここに来て初めて車内案内板を見た。"エリア-81JH"は、幸いに今いる場所からおよそ3駅の近場らしい。

「よし。」

長らく続けた永遠ごっこに終止符を打つ。幽谷は遂に行き先を心に決め、エリア-81JHに向かうべく、経由地のターミナル-8100を目指して進行方向に睨みを効かせた。


2.

列車を降り立ち、地下ターミナルから長い階段や廊下を、歩いたり、浮いたり、飛んだり、人にしがみついたり、様々な手段で駆け抜けてきた幽谷。彼女はエリア-81JH大食堂に到着した瞬間、思わず目を見張った。

「うわぁーーーっ! 広! 生き生きした食堂ね! 死んでる私が言うのもなんだけど!」

多くの職員でごった返す店内と、人々々々の喧騒、喧騒。忙しない配膳に、湯気と香ばしい匂いの渦巻く室内の空気。流転する混沌とした制服の人間たちの景色が、あふれる活気がそこにはあった。

エリア-81JHは、1988年に建築された大規模収容研究拠点だという。割と歴史があり大規模な場所だとは以前から聞いていたけれど。幽谷は、生前死後含めてここに来るのは初めてだった。そういえば、幽谷の元同僚でもあり、妹分と言える存在だったマリーちゃんも、一時はココの所属だったと聞いた。「賑やかで良い場所だよ~*\(>o<)/*」とは彼女談だったけれど、なるほど、確かに。この活気を見れば、人好きな彼女なら可愛がられていたことだろうな。幽谷は1人、満足気に頷いた。

幽谷はすういと食堂の周りを周遊しながら、生命力あふれるこの空間を眺める。生前、どちらかというと幽谷は人付き合いをする方だったし、賑やかな場所が好きだった。しかし死んでしまってからというもの、このような人に溢れた場所は縁が遠い。どれだけ人ごみに紛れてもぶつかるどころかすり抜けてしまうし、何をしても誰も振り向かないのだ。死にたての頃は、むしろ人ごみの中の方が、孤独が際立つ気がして。泣き出したり、喚き散らしたり、ポルターガイストを起こしてみたり、発狂して地面でのたうち回ってそして……とあまり良い思い出が無い。(ただし、いずれもお咎めは無かった。幸か不幸か。)

それでも、こうして平然と、人々の間を縫って飛んでいけるようになったのは、最近の進捗か。幽谷は控え目な胸を張り、にんまりと嬉しそうに笑顔をこぼす。辺りに満ちる、今までの孤独を紛らわすような"生"の熱気に酔いしれていた。

「さて。そろそろお目当ての胡乱店員さん、探しちゃおうかな。」

ふわ~と、フードコートのような広大なイートインスペースに飛んで侵入する。今日の目当ては、噂の店員と、その店員に合言葉を言うことで提供される、幻の賄いラーメン。まずは、店員とやらを探すところから始まるのだが……。

「見れば分かるって言ってたけど、こんな広いエリア内で、そんな人     

目を見張る。居た。一発で分かった。

その人物は、食堂のホール……出来上がった食事の配膳に従事しているようだった。まず目を引くのが、何故かチャイナドレスを着用していること。この店の制服なのだろうか? やたらガッツリ入った足のスリットは、女性の幽谷もドキッとするくらいバックリと割け、惜しげもなく若々しい肌を晒している。その次に目を引いたのが、その人物が飛んでいることであった。

……比喩ではなく、本当に飛んでいた。いや、実際にはまるで飛んでいるように見えるほどの華麗な空中ジャンプなのかもしれない。ともかく、そのチャイナドレスが眩しい麗人は、テーブルからテーブルへ華麗な身のこなしで飛び移り、物凄い勢いでアクロバティックに配膳をこなしていた。なんだあれ。両手にはお盆とお冷と大盛り担々麺と大盛り炒飯のてんこ盛り、パラパラとサラサラのチャンポンで溢さない要素は無いはずなのだが。何故か一滴一粒も溢す気配がなく、空中歩法ともバク転とも付かない珍妙な身のこなしで、食堂中の宙を舞っている。

幽霊の幽谷ですら、ぽかーんと見惚れるしかない光景な訳で。そっと周囲の様子をうかがってみれば、存外、件の人はエリアの人気者らしかった。盆を持ったまま空中で旋回、どんぶりを投げて (良いのか?) 配膳を終えると、綺麗な着地を見せる。その瞬間、配膳された職員たちからは大歓声が上がった。

歓声を受け、そのチャイナドレスの給仕さんが恭しく礼をする。ここ食事をメインの行う場所だったよね?「謝謝! 許サン、感謝感激雨霰!」今しがた上げた名乗りを聞くに、どうやら許さんという人物らしい。このエリアには異常中華人も職員として雇われているのだろうか?

「いやあ、いつ見ても許さんのおみ足……捌きは素晴らしいな。この食堂名物じゃないか?」
「いや、ああ見えて、ここは日雇いのバイト勤務らしい。なんでも長命故に財団の人事部から年功序列型の給与支払いを渋られたらしく、エージェント一本では喰うに困る金欠であるための決断だとか。」
「いやいや、俺は財団仙拳普及之会と名前が似ているからと野球拳会と抗争になり、あえなく敗北して身ぐるみ剝がされたが為に、修行を兼ねてバイトしていると聞いたぞ?」
「いやいやいや……」
「いやいやいやいや……」

やいのやいのと、男どもが群がって喧々諤々けんけんがくがくの議論に発展した。幽谷は有益な情報が出るかとじっと耳を澄ましていたものだが、結果的には心底どうでもいい。ただただ、胡散臭いんだな~ということだけは良く分かった。

気を取り直して、幽谷は許さんを見……飛び回っていて視線が合いづらいが……を見た。それにしても、脚が色々な意味で抜群である。そもそも、あの人は男と女のどっちなんだろうか? この麗人ぶりで見れば、どちらでも通用しそうなものだが……。むくりと、自身の無い身体の中に興味が湧きたつのを幽谷は感じた。幽谷の反ミーム性を悪用駆使すれば、許さんの私室やら[編集済み]やら[削除済み]に忍び込むことは容易いし、もっと直接的には霊体としてその身体の中に飛び込んでしまえば、彼? 彼女? のシンボリックな部分を直接覗き見てやることだってできるのだが……。

「や~めよ」

幽谷の興味は、そんなことより偶然目の前の他人の元に配膳された料理の方に釘付けになった。湯気を立てる、油とスパイスの絡んだ本格中華。ドロリとした油と浮かびたつ茶色い味溜まりの中に浮かぶキャベツと人参。回鍋肉。ここエリア-81JHの食堂は、許さんが飛び回ってるだけあり、本格的な中華料理もやっているものらしい。食欲をそそる匂いに、裏メシのラーメンへの期待も高まるというものだ。そもそもこっちが本来の目的でもあるわけだし。早いところ、店員に合言葉を伝えて提供してもらいたい。

まだ後ろでガヤガヤやっていた許さんファンクラブ? の男どもは放っておいて、幽谷は地を蹴りふわりと空中に身を躍らせた。フードエリアのドームのようにせりあがった高い天井の下を、悠々と遊泳する。眼下に広がるテーブルの群れには、今か今かと食べられるのを待ちわびる美味しそうな食卓の数々が並んでいた。……そういえば、あんなに飛び回って、何故許さんのチャイナドレスから下着は見えてしまわないんだろうな? 何か超常的な力が働いているに違いない。そう幽谷はぼんやり考えた。自分がワンピーススカートのまま、どうせ見えないし見えても知覚されないからと、人目もはばからずに浮遊し始めるようになったのは、一体いつ頃だっただろうか。少し、許さんが羨ましく思えた。

と、ふわふわ上空から浮かんでいて、ようやく許さんの移動経路が露わになってきた。食堂の北側に、食券機と、食品提供窓口がある。許さんはそこで料理を受け取り、そこを起点に近い順から (おそらく必要以上にアクロバット飛行をキメて) 各テーブルに配膳を行うようだ。と、すれば、待ち構えるは北側。幽谷はキュッと目をつむって、食券機の辺りを強くイメージする。その怨念的思考が繋がった感覚に目を開くと、そこは食券機の前だった。このプチテレポートのように、幽霊をやって初めて磨かれたスキルも案外多い。

「来た来た。」

そうこうしているうちに、にこやかに手を振りながら側転を決めた許さんが食品提供窓口に駆けてくる。その僅かな直線を狙って、幽谷は地面を蹴ってひゅるりと空を飛び、跳ね飛ぶ許さんの首筋に絡みついた。手と手を許さんの頬辺りに付けて、これで離さない限りは離れない。半ば取り憑いた格好だが、これも幽谷幽霊スキルの1つである。

ここまでくれば、後は根気勝負だ。幽谷は霊界と反ミームの壁の向こうから、許さんの耳元で、呪詛のように染み付くような言葉を囁きかけた。

「裏メシラーメン下さい……」「……?」

許さんは、そのにこやかな笑顔をほんの僅かに顰めた。大丈夫だ。そもそも霊感があったとしても、反ミームが故に無視されるのが幽谷の相場だった。だが……反ミームとは、反認知であり、反知覚ではない。決して見えないわけでも、聞こえないわけでもなく、ただ脳が無視しているだけなのだ。であれば……何度も、何度も、延々と、執念深く、囁き続ければ、一体どうなるだろうか?

「裏メシラーメン下さい」「う……」「裏メシラーメンですよ。う、ら、め、し。」「うーん……?」

さあ始まった。幽霊VS胡乱華人の賄い裏メシを掛けた無限ASMR対決の開幕だ! 幽谷は、自身の無い心臓に、確かに闘志の炎が宿るのを感じ取った。


3.

「うらめし……」
「いらっしゃいアルヨー!」
「う、うらめし……」
「ハイ、ヨロコンデ―!」
「う、う……」

食堂の中央、の上空2m辺りで、幽谷は遂にキレた。

「あーっもおう! 全然聞いてくれないじゃない!」

許さんの首筋に腕を絡めたまま、食堂中を縦横無尽上下左右東西南北に飛び跳ね回っていく。三半規管が無いので酔うということは無くその点は問題なかったのだが、許さんは全く裏メシのうの字も脳裏に浮かんだように見えない。中々に手ごわい相手と言えよう。普通なら、そろそろ意識はしなくとも、潜在意識辺りに呪いのようにワードが刷り込まれていき精神的に嫌な感じになってくる筈なのだが。

「まさか……本当に合言葉が無いと、作る気にもならない、とか?」

許さんと一緒に視界が360度回転しながら、幽谷は青ざめる。どうしよう、仮にそうだとすると、自分は合言葉をまるで知らない。というか誰に聞いても教えてくれるわけがないので、自力で見つけるしかないのだ。メニュー表にある表メニューならいざしらず、裏メニューの合言葉をぶつぶつ呟いているような都合の良い人間は、あの世には居てもこの世にはきっと居ないだろう。

「は、ハイ、許さん。あの~……合言葉とか、教えてもらうとかって……?」
「……」

お、普段快活なのに、珍しく押し黙った。幽谷の胸中に期待が宿る。例え理解はしていなくても、本能的には合言葉というワードに反応しているのかもしれない。そして正しい答えなら……幽谷は許さんの側にピッタリ身を寄せ、手を耳に当てて、色々囁いてみることにした。

「開けゴマっ」「……」
「あぶらかたぶらっ」「……」
「えっと、確保収容保護」「……」
「Don't be a dick ?」「フフッ……」
「あ、ちょっと笑いませんでした?」「……」

あーっ。幽谷の慟哭が食堂に反響して誰にも聞こえない。許さんも、聞こえているんだか聞こえていないのだかイマイチ反応が分からない。いや理解していないのは分かっているのだが、暖簾に腕押し、糠に釘という感じで、押しても引いてもあまりに手ごたえが無いのだった。せっかくココまで来たのに。許さんに取り憑いてみたのに。遅々として進まない攻防と収まらない空腹に、幽谷のイライラもピークに達しようとしていた。

結局、この声だって、誰にも届きやしない。

「うう、う、うらめしやーっ!!!」「了! ウラメシアルヨー!」

ドキリと、心臓が止まるような感覚が幽谷を襲った。そのまま、とさりと許さんの身体から剥がれて、地面に落っこちてしまう。返事が。返事? 死んで初めて、返答が返ってきた、のだろうか。見上げれば、あれだけ飛び回っていた許さんは足を止め、こちらに振り返っているように見えた。

「う、うあ、あ、あ」

声にならない声が、幽谷の口からこぼれ出る。自然と、涙がボロボロとこぼれ、服も床も濡らさない。地に這いつくばって、ずるずると、足元にすがるようにして近づくことしかできない。手が震え、足が崩れ、べちゃべちゃと身体の至る部位が脱落して、取り繕っていた死の見た目に近づいていく。許さんの表情は、にっこりと歯を見せて笑っていた。嗚呼。

「ようやく、ようやく、なんですか? わたし、ずっとひとりで、さびしくて、あ、う、ああ」

ガリガリと、床を爪で引っ掻き、手を伸ばす。その神々しい御御足に、幽谷のか細く青白い手が、掛かろうとした時。

「よかった、まだあったか。俺の分、よろしく頼む。」
「毎度! 只今お作りするアルヨー。」

すっと許さんの足が動き、幽谷の頭を上から貫通した。え、え? と幽谷が混乱して振り返ると、許さんの見るほう、幽谷が寝ころんでいた場所のもう少し後ろに、ガタイの良いおっさんが立っていた。

「それにしても……裏メシ1,200円はこの食堂じゃ強気じゃないか? あと合言葉が『裏メシあるかー?』なのも安直というか……」
「味、自信アル。何故なら許さん御手製だから。合言葉は簡素簡潔シンプルイズベストがモットーにあるアルよ。シャッチョさん!」
「時任だって。エージェント・時任。というか81JH仲間だったろ。」

わやわや、がやがや……。2人はどうやら旧知の仲らしく、そこそこ会話に花を咲かせていた。その2人の背後で、呆けたようにへたり込むのは、幽谷だった。

「……なーんだ! ああビックリして損した!」

にゅるっと、動揺で崩れた霊体を元に戻す。ちゃんと両の足で立ち上がると、2人の方を恨めしそうに流し見た。……大丈夫、よくあること。と幽谷は考えている。もう短くは無くなってしまった幽霊生活の中で、誰かにキチンと認識されたことはただの一度だって無いのだ。分かってる。それは何処だろうと誰だろうとそうだったので、彼女は努めて、いつものように、気にしないことにした。気にされないことも、気にしないことも、今の彼女にとっては得意分野だった。

とはいえ、ここで時任が現れたのは収穫だ。幽谷の囁き攻撃では、精々が潜在意識に働きかけて、何となく賄いが食べたくなる/不合理に賄いを作ってしまう、を狙う他なかった。それをこの男が注文してくれたのだから、手配する手間が省けたというものだ。

「それじゃ裏メシ作ってくるアルヨ。再来!」

ぴょーんと時任を飛び越え、許さんが厨房に飛んでいく。幽谷もえいやっと時任を飛び越えて後を追う。後ろの方で、おー、とか上を見上げて感心する時任の声が聞こえた。

先ほどの会話と状況から裏メシは許さんが持っていくものらしい。 (というより、幽谷はここに来て気が付いたが、この食堂には許さん以外の給仕というものが居ないらしい。どうやって回っているんだろうか?) なので、これから裏メシを作る許さんにくっついていれば、お目当てのラーメンにありつけるということだろう。

とはいえ、許さんが立ったのは、厨房の中ではなく食品提供窓口の方である。何をするのだろうと思っていたら、にこにこと食堂のおば様方と談笑しているようだった。

「あらー! 許ちゃん、眼福だわあ。」
「謝謝、また裏飯準備、よろしくアルヨ!」
「任せて~。腕によりを掛けちゃうワ。」

おば様に人気らしい。まあ確かに、可愛い女性とも、美麗な男性とも取れる許さんの見た目は魅力がある。案外、バイト雇用の真相は裏方に好かれているから、なのかもしれない。

と、思いを巡らせているうちに、準備が整ったのかお盆が許さんの前に差し出される。湯気を立てるラーメンどんぶりと、しゃきしゃきの山盛り野菜炒め……。いや、待ってほしい。

「ちょっと、許さん! ただの塩タンメンと野菜炒めでいいの?」

思わず幽谷が聞こえもしないツッコミを入れてしまうが、そうなのである。運ばれてきたものは素材ではなく完成した料理そのもので、どちらもしっかり表のメニューに載っている。まさか、これを組み合わせるだけで完成というつもりだろうか?

と、思っていると、許さんの手元に見慣れない物が握られていた。

「白い、粉……? どこから?」

慌てて窓口から身を乗り出し、辺りを見渡してみる。すると幽谷の目に、すぐにそれらしきものが飛び込んできた。

「片栗粉!」
「アイヨー!」

許さんの声に振り向いてみれば、もう片方の手に握られたのはぐらぐらに煮えた湯が入った雪平鍋だった。その真上に、サッと片栗粉が弧を描いて空中に投じられる。そしてそのまま返す手で、どこから持ち出したのか菜箸を持つと、粉が鍋の中に落ちきる前に、ほとんど神速の勢いで鍋の中を掻き回し始めた。この間、僅か3秒。

「なんて神業……をなぜココでっ?!」

その上、許さんは一連の所業を片足立ちでやって見せた。片足立ちの理由は不明である。

「ハイ、アンの完成アル。」

誰に言っているのやら、そうはっきり口にすると、ジャッと雪平鍋の中身が塩タンメンと野菜炒めの両方に掛けられた。ポンと鍋が放りなげられ、綺麗に洗い物場へとダイブしていく。という一連の動きは幽谷以外誰も見ていなかったので本当になんで行ったのか謎だが、呆気にとられた幽谷が振り返れば、許さんはもう仕上げの「和え」に入っていた。

「おおー、これは……美味しそうなとろみじゃない?」

幽谷が呟くのも無理はない。スープも、野菜炒めも、片栗粉のとろみを加えられてピカリと輝いている。餡には味付けの意味もあったらしく、胡椒の効いた良い香りが漂っていた。この食堂のメニューには醤ベースのあんかけはあったが、今作っているような塩ベースのあんかけは確かに見たことが無かった。これが、許さん御手製の裏メニューなのだ。

「ハイ、麺 (みぇん) にブチ込んで、完成アルヨ!」

どさりと、温かなとろみ塩タンメンの上に、とろみ野菜炒めが惜しげもなく掛けられる。キャベツに人参、キクラゲにタケノコ、良く火の通った豚肉が、塩餡の中でとろみを得て輝いている。食堂のどのメニューにも載っていない裏メシラーメンが、遂に完成したのである!

「横浜名物! 塩サンマーメン、一丁上がりヨ~~~」

エリア-81JH群馬県吾妻郡名物じゃないの?! そんな一種悲痛な幽谷のツッコミが、食堂中にこだまして消えた。


4.

「塩サンマーメン! そう言うのもあるのか……」

どことなく筋張った表情を見せながら、顎鬚を撫でる時任。どこか遠くの方で響いた許さんの声に、彼は独りで……静かで……豊かな食事のひと時を想像した。嗚呼、早く裏メシとやらにあり付きたいものだ。時任はこの日も朝から要注意団体との交戦を切り抜け、熱い闘魂を敵サンへ注入してきたばかりなのだ。その限界までペコペコにすいた腹が、ありもしない幻覚を、メシが宙を舞う様を見せてくる……。

「裏メシヨーーーーーーーー!!!」

ただの事実であった。空中で前転を披露した許さんは、時任のテーブルへと華麗にどんぶりをダンク・シュートして見せた。香りを逃がす隙を与えず、最短航路で配膳されるアツアツの塩サンマーメン。それは時任の鼻先を掠め、しかしなぜか1滴も中身を溢さないまま、机の上に鎮座していた。

「おま……もうちょっと優しく……」
「否否。食堂之鉄則、早い安い旨い。シャッチョサンは安くない言うだから、その分速さでカバーさせてもらった。文句ナイアルヨ。」
「ん? 文句あるの? ないの?」
「ナイアルヨ。」
「いやだからどっち……」

喧々諤々けんけんがくがく喧喧囂囂かんかんごうごう。ほっかほかの麺を前に、大の大人が言い争っている。その時に、時任を中心に巻き起こる恐怖のポルターガイスト現象が人知れず発生していたことを、彼は知る由もない。

「あ?! 俺のラーメンは!?」

許さんの整った顔と豊かな肢体が目にうるさいので目線を逸らした時任は、しかし手元のテーブルに何も載っていないことに気づく。その刹那、自然と時任の体は、空虚で真っ白なプラスチックの天板へと縋りついていた。時任は、できる男なので、心の中だけでおいおい涙を流して泣いた。心の外では、呆然と無を見つめる男の寂しい背中が残るばかりだ。

「アレー? 可笑しいアルネ。絶対キチンと置いた筈アルヨ。……シャッチョサン、もう一個持ってくるから、気を落とさないで。アイヤー!」

びよーんと許さんの足があっという間に空を掛けて遠ざかって行って。後には途方に暮れ、虚空をもぐもぐと貪る時任の姿だけが残された。「俺のラーメン……」

そのラーメンは、物理的には時任の顔のすぐ隣に、ふわふわと浮かんでいた。

「時任さん……ごめんなさい!」

幽谷が両の腕で、大事そうにどんぶりを抱える。これは一種の限定的なポルターガイストで、本来干渉できないはずの物理的存在を、科学的には複雑なプロセスを経て、幽体が持ち上げたものだった。しかも、幽谷の身体で包むことで、持ち前の反ミーム性を付与した状態で。

幽谷は、キュッと目を瞑ってその場から遁走する。幽谷とて他人から食事を奪うのは心苦しくないわけがない。ただ幽谷は食券を持って窓口に並んだとしても給仕してもらえる立場にない。この世は弱肉強食。喰う喰われるや、どんな手を使ってでも喰う選択をしない物は、喰われるのである。

あと、財団の福利厚生の一環でこの食堂の食べ物はみんな無料だ。だから時任のお財布にも打撃は無いのだけれど……。それでも、年頃の女の子。ちょっとだけ良心が痛む幽谷なのであった。





食堂の端っこの方に、誰も座っていないテーブルがある。幽谷は手に持つ塩サンマーメンに反ミーム性を込めた念を送ると、そのアツアツのどんぶりをそっとテーブルの上に載せた。ちょっとくらいであれば、幽谷は自身の反ミーム性を御裾分けできるのだ。そうして置いたどんぶりからは、ほかほかと、温かな白い湯気が火山のように吹き上った。

それを見ると、幽谷のほんのちょっと湧き上がっていた食料強奪の罪悪感も、すーっと溶けるように無くなっていく。いそいそと、ポルターガイストで椅子を引っ張り、座った姿勢のまま浮遊して空中からダイブ。椅子の上へと着陸した。

「美味しそう……!」

幽谷の小さな声が自然とこぼれる。おおぶりなどんぶりから立ち上る温かな水蒸気の中には、ざく切りに刻まれて餡の中で光る、色とりどりの野菜たちがある。キャベツの黄緑にニンジンの橙、もやしの白にきくらげの焦茶色。塩サンマーを謳うだけある、透明で澄んだ塩スープが、色とりどりの具材たちを静かに包みこんでいる。その下では、温かなスープの中を、黄色の縮れ麺が優雅に泳いでいるのだ。

ごくりと、唾を飲み込む。幽谷は側の箸立てから超常的作用をもって割り箸を取り出すと、怨念を込めて引きちぎるように割捌いた。パキンと、綺麗な木の音が誰にも認識されず広がっていく。

この状況になれば、人間の取る行動は1つである。

「いただきます。」

箸を手に、目を閉じ、うやうやしく合掌する。待ち望んだ温かなラーメンが、幽谷を待っている。箸を突き入れ、柔らかな餡が箸の間からこぼれ出すのを。レンゲを手に取り沈め、温かで澄んだスープでそのくぼみが満たされていくのを。幽谷はうっとりとした目で眺めた。

やがて、箸が、レンゲが。食事を載せて、幽谷の口元へと吸い寄せられるように進んでいった。


5.

「ごちそうさまでした。」

箸を置き、丁寧に両手を合わせる。もう立ち上る湯気も無くなった塩サンマーメンのどんぶりを前に、幽谷は静々と黙祷を捧げて見せる。

"ごちそうさま"は、祈りの儀式に似ている。命をくれた食材に感謝し、繋ぎ止められた自身の生に思いを寄せる行為。幽谷は既に生を手放して久しいが、その行為の尊さは死してなおのこと理解できた。それは幽谷にとって生者の真似事でしかない。だが、いのちない幽谷が自身を慰めるには、このような真似事くらいしか方法は無いのだ。そのことを短くない幽霊生活で理解していた幽谷の幽体には、自然に力が入るというものである。

「いただきます。……ほら、お前も」

そんな幽谷とは同じ姿勢で対照の言葉を口にする男の姿が見える。向かいのテーブル席には、屈強そうな男たちの一団が座っていた。迷彩柄の服装は機動部隊の構成員を思わせる。彼らが普段あまり脱がないであろう帽子を脱ぎ、胸元に当てて黙祷するように"いただきます"を口にしていたものだから、幽谷はすぐにピンと来てしまった。ここ財団では時たま見る、誰かが逝った後の食事なのだろう。幽谷の満ち足りていた表情に、影が差した。

それを察して余りあるのは、男たちの沈痛そうな表情があるからだけではない。お前も言えと、肩に手を掛けられて揺さぶられている、ひと際若い男がいるからだ。彼はべそべそに泣きじゃくっていて、その手は隣の席に伸びて離れない。幽谷は、無い心の臓がズキンと痛んだ気がして、慌てて目を逸らした。動悸の感覚が止まらない。そこには、人数より1つ多い、誰も手を付けようとしない、かすかに湯気を立てる、まだ温もりの残るご飯が添えられていたから。

泣いていた男は、その手つかずのお椀にすがりつくように倒れ込むと、一層のこと嗚咽を漏らした。「食えない」「食えない」とうわ言のように繰り返している。幽谷はその、悲痛な声に耐えられなくて、ギュッと手を握りしめて下を向く。灰のスカート越しの太腿が、震えていることに気づいた。その瞬間、泣いている彼の隣で彼を睨んでいたであろう、恐らく先輩の男の、吐き捨てるような大声が響き渡った。

「食え。死んだアイツはもう二度と食えない。生き残った俺たちが、食うしかないんだ!」

弾かれたように、幽谷は顔を上げた。止めて、そんなこと言わないで。声にならない悲鳴は声にしても決して届かないので、声になることすら無い。目の前には、先輩の胸の中で泣きじゃくる男と、湯気の絶えた、誰も手のつけないお米の茶碗だけが残されていた。

息が、詰まる気がする。元よりしていないのに。幽谷は、自分の手が震えていることに気づく。どうしてこんなにも震えているの。その疑問を、頭の外に追いやろうと、見ていた手から目の焦点を外した途端。

幽谷は、眼の前のテーブルを目にしてしまった。

「……ぁ」

声にも満たない風音が口からこぼれる。その眼下には、ラーメンの死体が転がっていた。

どんぶりの中に野晒しにされた、伸び切った麺。麺に吸いつくされ、底に汚泥のように溜まるのみとなった干上がった汁。緑に黄に橙に白に、色とりどりの野菜の死骸。ただ無駄になった、食材たちの山。

最初から、食べられるはずがなかったのだ。だって、幽谷は、自分は、幽霊だから。いのちを失ったものだから。知っていた。いのちの無いものが、いのちを喰らうことなど、できる筈もないことは。

ただ、それができると、自分は生きているのだと、錯覚したかった。目を背けていたかった。ただ、それだけの願いなのに。空腹感は永遠に満たされないまま、生を生きるナニモノにも交わることはできない。いくら真似ても、中身のない透明な身体を素通りしていくだけだった。

幽谷は、ゆっくりと、下を見た。下とは、幽谷の身体の下の、腰掛けた椅子のことだ。半透明のスカートを見つめて、見ないようにしていた椅子の座面。その上には、汁と麺と肉と野菜が、いのちのかけらが、レンゲごと自分の口をすり抜けて滑り落ちていった跡が、ビタビタと音を立てて椅子の上に散らばった食材たちが、実に惨めな末路を晒していた。

「いや……いやぁぁぁ!!!」

ぶんぶんと、幽谷は被りを振る。食堂のテーブルを前に、幽谷はまるで駄々っ子がイヤイヤをするように身体を振り回した。それなのに、嘘つきの幽体は現実には何も起こせやしない。

消えない。幽谷がどんなに首を振っても、風1つ起こせない辺りの空気には、生命に満ち溢れた美味しい食事の匂いを孕んだまま。

触れられない。幽谷がどんなに手を伸ばしても、テーブルも食器も箸でさえも、幽谷が強い念を込めてポルターガイストを起こさない限り、ぴくりとも動かない。

聞こえない。どんなにテーブルを蹴り、椅子をはねのけ、金切り声を上げて叫んだとしても、聞こえるどころか聞こえたとて振り返る者は無い。

なぜなら、幽谷は、生の世界には何一つ触れられない、死者であるから。

「うわぁぁぁあああああぁぁあぁあああ!!!」

どんぶりを手に取り、地面に叩きつける。ガシャンと凄まじい音がして、まるで鮮血が飛び散るように勢いよく色とりどりの冷えた具材がぶち撒けられる。足元にビタビタと広がり髪の毛のようにまとわりつくブヨブヨになった麺を見て、幽谷は初めて、自分が無意識にポルターガイストを起こしたのだと気がついた。

ぞっとするような寒気が幽谷を襲う。「ごめんなさい!」そんな無意味な言葉を叫びながら、幽谷は今にも泣きそうな顔を周囲に向けて巡らせた。

誰も、幽谷を見ていなかった。反ミームを掛けたどんぶりは、砕け散り中身を飛び散らせたとしても、誰も気にかける者が無かった。

そのことが、いのちあるべき温かな食べ物を、自分が汚してしまったような気がして。幽谷は罪悪感に押しつぶされ、まるで死にたいような気持ちになった。「ごめんなさい、ごめんなさい」誰ともなしに口からこぼれ出た言葉が地に落ちるよりも前に、幽谷は足元にへたり込んだ。破片を、カケラを、せめて拾って、すくい上げないと。そう思った。そうしないと、本当に生命を冒涜した、取り返しの付かないことになってしまうように感じられた。

しゃがみ込む幽谷の視界は、とっくにぼやけている。死んでも涙は出る。その何も濡らさない涙が滴り落ちる先、粉々に砕けた鋭利な食器の破片と、グチャグチャになったラーメンだったものを拾い集めようと、幽谷は、白い手を必死に伸ばそうとして……。

その手を、血色の良い美しい脚が踏み抜いた。ガチリ、バリンと。カケラが砕け散る音がした。

「え」

ただの音が幽谷の口から漏れて、自然と顔を上げる。そこには、息1つ上げず、満面の笑みを浮かべた、許さんの顔が浮かんでいた。

「配膳投射いくアルヨー! ハイ、ハイ!」

許さんが、華麗なステップを踏んで、両手に抱えた煌めく銀のお盆から、ラーメンのどんぶりを何個も投げ運んで行く。お客からの拍手喝采の嵐と、温かな湯気の軌跡が上空に満たされる。その下で、冷たくなったラーメンとどんぶりのカケラは、幽谷のスカスカの腕と一緒に足蹴にされて踏み砕かれる。何度も、何度も、何度も、何度も、何度も。

「…………やめて……やめてよう……」

嗚咽と涙がボロボロとこぼれても、幽谷は何もできない。動くことすら敵わない。これは、罰なのかもしれない。生を冒涜した、死者たる私への。永い足蹴のダンスの中、幽谷はかろうじて、そのことだけを噛み締めていた。

やがて、許さんは身を翻してその場を立ち去る。歓声の中、熱狂的なファンと思われる男たちが、通路を通って後を追いかけていく。その急ぎ足の脚たちに、床に散らばったいのちだったものと、いのちだった幽谷が、繰り返しすり抜けられ、ただ踏みにじられていった。

人の波が引き、ようやく幽谷が泣き腫らした目で、そこを見た時。そこに、いのちの結晶であったはずのメシの残滓は、何処にも転がっていなかった。

幽谷は、声を上げて泣いた。泣き続けた。その声は、活気あふれる食卓の団らんの音にかき消され、誰の耳にも届くことはなかった。




tale jp エージェント・許さん xコン23 _イベント2 _イベント3



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執筆者: sanks269
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最終更新: 09 Sep 2023 10:59
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