自分が自分であるために

彼はイグサの匂いに満ちた寂れた空間に佇んでいた。彼の抱える闇の様に黒い眼が視線を落とす先には、眩しいほどに白い光を返す紙がある。私は彼の前に身体を縮めて座り、その所作を目に焼き付けようとしていた。

なぜ私がこの場に立ち会えているのか?それは彼たっての希望であった。彼は根っからの求道者である。彼はこれまで自らの力の在り方を模索し、自らを虐め抜いた。

彼の強みは並外れた運動能力にある。筋骨隆々とした身体は、彼の卓越した動きを表現するに十分すぎるものだ。というのも、今まで一度も挑んだことのなかったスピードスケートやマラソンも難なくこなしてしまったというのだ。天から才を授けられたと言っても、それは過言ではなかった。

しかし、神は完璧な存在を創らないらしい。ある時彼が、自分は精神が未熟なのだと吐き捨てるように言ったのをよく覚えている。彼は繊細だった。自らの好敵手を探すため、大会に出場することも頻繁にあったが、彼は予期せぬミスで良い成績を逃すことがあった。ある大会で失敗した夜、寝床に身体を投げ出し、悔し泣きをした彼の姿を私は忘れはしないだろう。彼はメンタルコントロールを身につけるべく、永い修行を行った。その時の決意に満ちた表情と凛々しさといえば、まるで寒立馬を想起させ、私を圧倒したものだった。

彼は精神修行と題し、将棋やチェス、囲碁を学び始めた。彼にとってそれは向いているようだったが、彼の精神力は彼の求める水準に未だ達していない。未熟な自分を追い込み、研鑽に励んだ。若い頃から彼を見知っている私は、彼を陰ながら見守り続けた。そして私は今、変わろうとする彼を見つめている。その場に立ち会っている。彼は変わる。

彼は、紙の前に座し、固形墨を取り出した。
すずりに数滴の雫を垂らし、固形墨を丁寧に擦りつけていく。書家が精神を集中させ、紙に相対するこの時間。彼は穏やかな表情をしていた。ゴリゴリとも、サラサラとも取れる音が響き渡る。墨が形を崩し、緊張した空気を溶かしあい、墨液となってゆく。

彼は動きを止め、いよいよ毛筆を取り出した。自らの毛を供出し、作り上げた逸品である。自らを表現するのに相応しい代物だと彼は語っていた。毛の一つ一つに魂が宿っている。それは力を迸らせて逆立っているようにも見えた。

墨液に浸し、形を整えていく。それは、純白で混じりけのない、目の前の紙に向かう彼そのものを表していた。張り詰めた空間に、私は息を呑んだ。
刹那、彼は一画を書き出さんと、筆を動かした。筆と紙はその墨汁を以て、彼の世界を繋げる。渾身であった。一画を書き終え、彼は流れるように二画目の始筆に動いた。毛筆の動きは草原を駆け抜ける風のようで、なだらかな丸みを表現していた。

筆をゆったりと持ち上げ、彼は一呼吸置いた。再び硯で筆を整え、迷いなく、再び紙へと向かった。その時の彼の動きは、今でもよく覚えている。虹を渡る天馬がそこには居た。力強い始筆に、脆く、切ない感覚さえ覚えてしまいそうな終筆。ここに彼の精神を体現する作品が完成したのだった。

感動という言葉は安っぽいかもしれないが、確かに私は、えも言われぬ気分でそれを見届けたのだ。そこには彼の天を貫かんとする嘶きがあった。

私は尋ねた。その作品はどうするのかと。彼は座したまま、物憂げに言った。私は、他の誰かに論評され、評価され、認めてもらうことにしか生きられないと。私は彼を悲しい生き物だと思った。暗く輝く星のような瞳は、諦観らしき光さえ放っていた。ひどく寂しい光だった。だがその中には、今までになかった新しい光があった。

彼はその新たな輝きを放つ瞬間を、私に見届けて欲しかったのだろうか。

彼は立ち上がり、1枚の紙にぶつけられた自らの形をその場に残し、部屋を立ち去った。残された墨の香り。

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