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オリエンテーションが終わった。10分間の休憩を言い渡されたが、先の話が呑み込めずにいた私は感じていた尿意のこともすっかりと忘れてしまった。自分が今立っている組織の全容が全く理解できず、少ない同期が動揺してる様を深い共感と共に眺め続けることしかできなかった。無残に死にゆく人材が用意されていることも、正体が全く分からない12人のトップが支配していることも、お飾りの組織が何も考えず意味もなくハンコを押し続けることも、常識的に考えられない。自分の頭の中で過供給なまでの情報が錯綜し、脳が眠気と共に糖分を要求していた。

リノリウムの床を歩くことは日常に変わりない。しかし、へこみが何一つないただ平らなリノリウムの床は見たことがなかった。器具や、何なら筆記用具を落としただけで軽くへこむはずだ。防火扉は一つの廊下に一個あれば十分だ。でも、目の前には3mごとに設置された頑丈な合金製の’防火扉’が無機質に配置されている。

研究所にはそれなりの生活感が伴う。しかし、ここは映画の中の「研究所」のようだった。全ての扉にはパスワードを要求するタッチパネルが備えられ、全ては秩序に従い収納されている。そして、あらゆる場所に埃も、汚れも存在しなかった。

言ってしまえば、ただこれだけだ。少し頑丈な床をしていただけ。ものすごく綺麗だっただけ。しかし、仮にも最高峰の研究所に勤めていた自分にとってこの風景はあまりにも異質だった。

先輩からもらったチョコレートを口の中で転がしながら、昔に思いを馳せていた。


躍起になって真相を解明しようとする時、誰も知らなかった知識を手に入れる時、足跡のない雪原に思いっきり体を投げ出すような満足感を得ていた。
彼が意気揚々と踏み出した雪原は既に踏み固められていた。


寒さが和らぎ、みぞれがよく降るようになった。冬の間は雪を踏み固める快感を、毎朝の楽しみにしていた。

眩しい光が目に入る。

今日は晴れてるせいで一段と寒い。朝食もとらず、通い慣れた道を横目に遠回りする。ここ数日間雪が降っていない。踏み固められ、氷となった雪が道を占領している。人があまり通らないところを探し、歩く。

ザクッ、ザクッ、ザクッ、ザクッ…

一歩進めるたび、冷たさが靴越しにが伝わる。

ザクッ、ザクッ、ザクッ、ザクッ…

一歩進めるたび、静かな快感が心を震わせる。

普通に歩けば5分で済む道を2倍近い時間をかけて歩く。彼はこの行動を何とも思っていない。それは当然の行動であって、何か特別な意味を持っているとすら考えていない。

ただ、満足があるだけだった。


財団に雇用され、1ヶ月がたった。外では桜が蕾をつけ始め、春を感じる機会が増えていった。働けば働くほど、何も知らせず、そっと守られていた事実を知る羽目になった。自然法則は美しい。それは秩序を構築する上での‘無駄’を省いた姿だ。今まで自分が絶対的な原則だと信じて疑わなかったものは多くの目に見えないフィルターを通されていた。

そして、今。フィルターは擬態をやめた。

渡された端末から閲覧できる報告書は殆ど無い。せいぜい、直接研究に関わっている───とはいえ実情は雑用だが───2つだ。さらには検閲で肝心な部分は覆い隠される。編集、黒塗り、クリアランス制限、削除。

しかし、見える。見えない部分が、隠された部分を確実に。

見ることができないもどかしさと、隠されていることをはっきりと自覚できる安心感が心の中で渦巻いている。彼は検閲を取り除き、再び雪原を踏みしめる機会を得る手段を探し求めていた。

「先輩」

「またか。」

「この検閲部を教えてください。考察に使います。」

「お前が見ることが出来ないのなら、それはお前に必要ない情報だ。」

「重要な部分なんです。」

「見たいなら昇進するしかない。地道に雑用するこった。必要ない作業をするのは命取りだ。わかったらさっさと戻れ。」

「しかし───」

「いいか?クリアランス違反は自身に危険が及ぶだけじゃない。おっそろしい監査が来る。場合によっちゃ解雇処分だ。これ以上同じ話をさせないでくれ。」

彼は先輩の人命より監査が恐ろしいような言い振りに反感を抱いた。少なくても、彼はその感情をそう捉えていた。


桜の花びらが散る頃。先輩は私に一つの大原則を復唱させた。

Need to Know

彼にとってこの原則は非合理極まりなかった。なぜこの原則が存在するか、先輩に問い詰めたい衝動に駆られたが、先輩の柔軟性のないルール解釈に基づく講義を受ける気分にはなれず、言葉を飲み込んだ。

この世に、知らない方が良いことなど無い。


財団に来て、半年が経過した。同僚が昇進し、研究助手となった。私は何も変わらなかった。祝賀会では同僚を祝いつつ、仄暗い嫉妬と焦燥が薄く心を包んでいく様を自覚できた。周りがお酒を飲みながら上機嫌になっている。普段あんなに気難しい先輩も、唐揚げにレモンをかけながら緩んだ顔をしている。バツが悪くなり、目を外に向けた。空には少しの雲がただ横たわっていた。

夜も更け、東の空が白む中。彼は一足先に研究所へ向かった。いつもの端末を使い、今日の実験の下準備をしておかねばならない。起動して、データベースにアクセスし、待ち受けるのは無骨で、非情な日常だった。


秋も終わろうとする頃、検索機能が実装された。今までなかったのが不思議なくらいだ。検索機能には報告書はもちろん、実験の上でのtipsなど案外有益な情報も手に入れることができた。休憩中、それとなく検索機能の話題を出した時、先輩が「もうそんな時期か。」と独り言を放ったことを聞き逃さなかった。先輩からは検索機能を利用した資料の請求を頼まれた。

先輩から頼まれた資料や情報を収集しようとしたが、クリアランス制限が厳しく、アクセスできない。アクセスはできないが、概要だけは読める。3行程度の要約だが、それでも新しい情報だ。別の仕事も放置して、思いつくワードを片っ端から検索boxに入れ続けた。新たな情報を渇望していた私はオアシスに身を投じた。

かなりの時間を検索に費やしたあとに、せいぜい500文字に満たないような文を読んで満足していることに気がつき、虚無感が襲った。私が読みたいのはこんな情報じゃない。もっと根本的な部分だ。こんな情報じゃない。こんな…

不意に、焦燥心が、キーボードを叩いた。

検閲 除く 方法

一つの、動画ファイルが現れた。

Get_rid_of_the_veil.mp4

概要には何も書かれていない。私のクリアランスでも見ることができる。一度、自分のクリアランスで読むことができる全てのファイルを絞り込む検索をかけたことがあるにも関わらず、初めて見るものだった。何も考えず、再生した。

新たなウィンドウが開き、動画が始まった。

同時に背後からは備え付けのドアの鍵が勝手に閉まる音が聞こえてきた。

初老の男が椅子に座っている。

[咳払い]
やぁ、君はどうやら好奇心旺盛のようだね。おっと、このウィンドウを閉じることはお勧めしないな。君がこのファイルを開くにはそれなりに厳しい条件をクリアしなきゃいけない。折角のチャンスを失うのはもったいない。だろ?
このファイルの存在を知ってるのは全財団職員の中で君だけだ。俺はこれの撮影が済んだら記憶処理だ。ったく勘弁してほしい。老体にはそれなりに堪えるんだ。
さて、これから話すのは君の未来についてだ。そのためにこのファイルが表示される条件の話をしよう。


唐突過ぎて何が何だかわからない。このファイルは私しか知らない?そんなことがあるのか?

一つ、検閲の剥がし方を検索すること。これ自体は検索出来るようになったら絶対にやることだな。財団に来るような奴らは優秀で、知的好奇心に溢れてる。検索しないはずがないさ。
二つ、検索機能が与えられてから10時間以内に検索すること。これも満たす奴が多い。真っ先に検索する奴が殆どだしな。
三つ、自分のクリアランスでは閲覧できない概要を最低でも400個以上漁ることだ。これらを一気に満たす奴は殆どいないし、実際君までは一人もいなかった。ラッキーだな。
そもそもクリアランスが足りないファイルを徹底的に漁り続けるなんてよっぽどおかしい奴じゃないとできない上、そんな奴は根本的に財団職員に向いてない。行き過ぎた好奇心は身を滅ぼす。だろう?


嫌な予感がする。心で強い感情が渦巻くのを感じる。

詰まるところ、君は財団職員には向いてない。特に研究員としての素質は皆無だね。おっと、誤解しないでくれ。決して頭が悪いと言っているんじゃない。君の広範囲への知識欲はSCiPと対峙しながら研究するには向いてなさすぎるだけだ。
今から伝えることは決定事項だ。君は研究員を辞職する。そして、新たな道を選ばなければならない。


強烈な頭痛と共に、糖分が欲しくなる。不意にあの日が重なる。

選ぶ道は二つ。
一つ、記憶処理を受け、一般人に逆戻りする。潔く、全てを忘れ、無知なるあの頃に戻るのさ。
二つ、君が探し求め続けた世界を見る。黒塗りもクリアランス制限も、削除も無い。あるのは全てを知る義務とちょっとした雑事だ。そのために、私たちの一員となってもらう。どうだい?


私の1年間の常識はまたしても無慈悲に破られそうになることを辛うじて理解した。嘆く時間すら惜しかった。

君に考える時間は無い。猶予は五分だ。五分以内に画面のアカウントにログインすることがなかったら、機動部隊が君を取り押さえる。不正アクセス者としてね。
その後、記憶処理を受ける前に、二択を迫られる。
一般人へ戻るか、事務に溺れるか。


私は迷っていた。が、答えはずっと変わらない。実は迷ってすらいなかったのかもしれない。
職員コード
パスワード

まずはオリエンテーションを後で受けてもらう。前の職場は気にしなくていい。君のことを覚えてる人は明日にはいなくなっている。到着した機動部隊にこう言ってくれ。
「倫理委員会に加入した」と。
ここには目を塞ぎたくなるような真実が溢れている。君が最初のオリエンテーションでDクラスがどう扱われるか講義を受けたかい?それを設定したのは私たちだ。
財団は冷酷だが残酷ではない。私たちは何が残酷かを決めるんだ。そのために、多大な量の前例の考慮が必要になる。君みたいな好奇心旺盛で、知識欲の塊みたいな奴が必要なんだ。
ここに知らなくていい事なんて一つもない。
私たちは君を歓迎するよ。


ビデオの再生が終わり、近くで騒ぎ声が上がった。人々が雪原を競って進む中、彼は世界の裏側に立った。彼にかけられていたベールは全て剥がされ、凶暴なまでの真実に最も近い位置に立った。

彼は期待していた。新雪は身を切る痛み伴い、地上へ現れる。いつだって痛みは満足の前兆だった。

しかし、彼は決して雪を踏む事は許されない。

しかし、彼は雪原に杭を打たねばならない。

冬が来る。


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