黄昏に飛び立つ

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グラス博士のオフィスに足を踏み入れたのは実に2年ぶりだった。整理整頓されており、床には塵一つ落ちていない。自分のオフィスとは大違いだな、と思わずひとりごちた。

「久しぶりだねクレフ。コーヒーでも飲むかい?」
「頂こう。ミルクと砂糖を忘れないでくれ」
「で、君がこんな所に何の用事だい?」
「最近特定の地域で自殺者が急増しているんだが、この区画で何かそれらしい報告を受けていないか?」

グラスは首を振った。

「私の管轄下では特にないね。念のため調査はしてみようと思うけど」
「よろしく頼む。それから、自殺関連で気になる出来事は無いか?」
「気になる自殺者か。SCP-2295関連で1件あるね」
「SCP-2295か?あのパッチワークのテディベアだよな?」

予想外のな組み合わせに思わず聞き返した。SCP-2295は損傷した臓器をパッチワークで模倣した物と入れ替えて修復する異常性を持ち、オブジェクトとしては珍しくほぼ無害と言える。あのオブジェクトが自殺にどう影響すると言うのか。

「いや、異常性とは関係ないんだよ。クレフはSCP-2295の発見経緯を覚えているか?」
「確か遠方の孤島に住む老婆が孫に送ったテディベアを財団が確保したんだよな」
「1週間前、その孫のトミーを含む一家が心中した」
「生存者は?」
「ゼロだ。焼身自殺だったようで家ごと焼けてしまってね。遺留品もあまり残っていないんだよ」
「壮絶だな。原因は分かっているのか?」
「まだ調査中だが、トミーは学校でのいじめが原因で引きこもっていて、それをきっかけに両親が新興宗教に入信したらしい」
「つまり財団がSCP-2295を確保しなければトミー一家は助かった可能性が高いと」
「恐らくはそうだね」

SCP-2295の異常性は脳を入れ替える事だけは出来ない。すなわち、脳や心身症は直接治す事が出来ない。
後の実験で判明した事だが、この場合もSCP-2295は全くの無力と言う訳ではなく、対象に寄り添い涙を流す性質を持つ。SCP-2295が涙を流している間は苦痛が和らぐ異常性があるという。トミーへの贈り物と考えると、心の傷を持つ人物に寄り添う事が異常性の本質なのかもしれない。一時的な安らぎであっても、苦しい時に支えてくれる存在が自死を選ぼうとする人に対してどれだけ救いになる事だろうか。

「まあ、良くある話だな」

財団は人類の守護者を自負しているが、その『人類』には『より多くの』と言う但し書きが付く。小さな悲劇に向き合っていては財団の業務などこなす事が出来ない。

「ばっさり切り捨てるね」
「財団が介入出来る要件じゃないんだし仕方ないだろう。まさか学校のいじめに異常性が絡んでいたとでも言うつもりか?」
「トミーの祖母は異常物品の製造者だろう?トミー一家も異常なストレスがかかる状況下ならオブジェクトを生み出してもおかしくないと問題提起すれば……」

グラスは有能ではあるがオブジェクトに感情移入し過ぎて左遷された経歴を持つ。財団外なら好ましい人格と呼ばれるかもしれないが、財団にいる限りこの優しさは無用の長物としか言いようが無い。私は砂糖の飽和水溶液となったコーヒーを一気にあおり、話題を変えた。

「たらればの話をしてどうするんだ。この件の詳細分かったら後で報告回してくれるか?担当者は誰だ?」
「担当は私だよ」
「君が直接調べる程の案件か?その程度部下に任せたらいいじゃないか」
「いや、部下に任せてたんだが長期休暇を取って旅行中だから引き継いだんだよ」
「この忙しい時期に長期休暇か。羨ましいな。どこに行ってるんだ?」
「日本の██島って所だよ」

私も海の近くでゆっくりしたい物だと答えようとして、何かが引っかかった。

「██島ってどこかで聞いたような」
「え?気のせいじゃないかな?」
「そうだ、SCP-2295の製作者の住む島じゃなかったか?」

グラスの目をしばらくの間見つめていると、グラスは観念したように目をそらした。

「あー、実はその部下はSCP-2295の製作者の様子を見るために5日ほど出張に行ったんだよ」
「子供と孫が亡くなったから様子を見に行ったのか。身柄をさらってきても良かったんじゃないか?」
「██島は観光地でもないしネット環境も村役場にしか無い位の完全な孤島だからな。危険度が低いから様子見で十分だったんだ」
「危険度が低いならそれこそさっさと帰ってくれば良いだろう」
「まあその、落ち込む老婆を置いておけないという事で、しばらく島に残りたいと言って部下が長期休暇を申請したんだよ」
「甘やかしすぎじゃないか?」
「元々長期休暇を取る時期だしこれ以外の仕事を抱えていなかったから問題はないんだよ。そう、偶然出張先と同じ場所を偶然旅行先に選んでしまっただけだ」

まるで性風俗店のような言い訳だ。グラスは口では問題無いと言いながらも、無理があると思っているのかその顔には私はやましい事をしていますと大きく書かれている。

「鍛えなおしてやろうか?」
「やめてくれ。期待している部下なんだ」

私を何だと思っているんだ。

「ならグラス2世を作るような教育を止めるべきだな」
「いや、これにはちゃんとした理由があるんだ。どんな生き物でも、例えば機械的に統制されている蟻や蜂であっても、集団が生き延びるには最適化されていない個体が紛れていた方が良いんだよ。そういう奴がいないと予想外の事態で全滅する事があるんだ」

私は弁明を鼻で笑った。目を反らしながら言わなければ多少は説得力があったろう。

「まあ、仕事はきっちりやってくれよ」

そう言い残し、グラスのオフィスを後にした。


「何故私が調査チームから外されなければいけないんだ」

私は端末ごしにO5-3に不満をぶつけた。

「クレフ、同じ話を何回するつもりだ?今の状況は君も理解しているだろう」

2週間ほど前、私と同様に集団自殺の原因を探っていた別動隊の調査チームが、財団内でミーム災害のパンデミックを引き起こした。その影響はすさまじく、複数のサイトが機能不全に陥り閉鎖され、グラスを含む優秀な人材が多く失われた。何も分かっていない段階でグラスを調査に巻き込んでしまったのは結果的に大失敗だった。彼が無事なら大きな戦力になっていたはずだ。

パンデミック以降私は調査チームから外され、財団内のセキュリティは異常なほど強化された。ちょっとした情報のやり取りですら子供向けスマートフォンでポルノサイトを見る位に難しい。それだけの被害を受けてもなお、財団は集団自殺の原因を正確に絞り込めていない。現在確実に言える事は、極めて感染力の高い異常なミーム災害によるもので、あらゆるメディア媒体で拡散される性質を持ち、自殺を誘発しそれに違和感が持てなくなるように認識が改変されるという事くらいだ。十分な対策を行うには具体的な感染条件を知る必要があるが同様の被害を出す事を防ぐため遠まわしに調べて行くしかない。

「調査チームから重要な戦力を削いだ馬鹿がいる事は理解しているつもりだが」
「いいかクレフ、もし君のプライドを傷つけたと言うのなら謝ろう。君が重要な戦力だと評価しているからこそ今の段階で君をチームに加える事は出来ないんだ。今の調査チームを信用してくれ」
「信用はしているさ。君を含め上から下まで無能揃いだとね。この2週間で状況は悪化しかしていないじゃないか。人類が滅んだ後に何をさせるつもりなんだ?」
「その2週間前の出来事でどれだけ被害が出たのか忘れた訳じゃないだろう?実体を掴む前に財団全体が機能不全に陥ってしまっては意味が無いんだよ」

一理はある。が、この調子で実体の把握が遅れて行った場合、有効な対策を実行に移す時間が無くなっている可能性がある。

「このまま一般社会で爆発的に拡散されてしまった場合はどちらにしろ手遅れだと言ってるんだ」
「そのバランスを取った結果が今の状況だ」
「そのバランスがおかしいと言っているんだ」

話はどこまで行っても平行線のようだ。O5-3は大きなため息をつく。

「君にはサイト管理官と同等以上の権限を与えているんだ。周囲にどういう影響を与えているかよく考えて欲しい」
「調査チームでその責務を果たして」

話の途中で、電話が切れた音がした。掛けなおしてみたが、悪名高いセキュリティ管理者、マリア・ジョーンズの機械音声が流れてくる。お決まりのアクセス制限が云々と言う話だ。放り投げた端末は書類とごみの中に消えて行った。

財団職員となってからは常に最前線で人類の危機と戦い、一定の結果を残してきた。今のようにただただ悪化していく状況を他人に任せ、指を咥えて見ているだけと言うのがこれほど苦痛に感じるとは思ってもみなかった。

しばし目を閉じてウクレレを弾き、落ち着こうとしたがやはり限界だった。次はO5-4への電話だな。そう思い、書類の山に消えて行った端末を探した。……が、見つからない。ポケットディメンションに呑み込まれたのだろうか。私はやむを得ず机の奥から古く画面が割れている端末を引っ張り出した。

電源を入れると、端末変更を連絡していなかった職員からのメールが山のように来ていた。【緊急】【至急連絡下さい】などの文字が並ぶが、情報共有が制限された2週間前からは激減している。その中で、一昨日来たメールの宛先が目に留まった。

グラスだ。

グラスがいたエリアは閉鎖され、少なくとも正気を保っている生存者はいないはずだ。仮にグラスが生存していたとして、何故マリア・ジョーンズの監視を潜り抜けてメールが届いたのだろうか。だが、原因は分からないが届いたのは事実だ。まあ、届いてしまったのなら仕方ない。私はメールを解析に回す事にした。肝心なところで役に立たないセキュリティが悪いだけだ。


結論から言うと、グラスのメールはミーム汚染されていなかった。それどころか従来の感染者とは全く異なる行動として、ミームの具体的な説明と対抗ミーム開発依頼などの対策方法について簡潔に示されていた。

焦りがあったのか、メール本文はグラスにしては珍しく誤字脱字だらけだった。そして、グラスの説明には十分な根拠が示されておらず、信用出来る内容ではなかった。だが、他にあてがある訳でもなく、検証を行った結果ほぼ正しいという事が分かった。正しい結論を導き出したグラスが根拠を提示しなかったのは時間が無かっただけか、提示出来る情報ではなかったのか、その両方か。その後グラスに連絡を取ろうとしたがなしのつぶてだった。

SCP-3519に指定されたミーム災害は調査が進められていった。オブジェクトの暴露条件は特定の日付を指定した終末論の情報を知る事、たったそれだけだ。終末論に関連すると言う推定はされていたが、その条件は絞り切れていなかった。暴露した対象はそれだけで終末が来る事を確信し、生きる事を諦めようとしてしまう。財団にとっては最悪と言っていいほど相性の悪い存在だ。対抗ミームの開発や機動部隊の編制など対策は進めているが、あまりにも遅すぎた。財団の検閲をすり抜け一般社会に潜伏していたSCP-3519が次々に顕在化し始めており、状況は悪化の一途を辿っている。私は最悪の事態に備えて単独で動く事にした。この先どうなるにせよ、グラスがどうやってSCP-3519の汚染区域から正しい情報を送る事が出来たのか知っておくべきだろう。

そうして、私はおよそ2か月ぶりにグラスのいたエリアにやって来ていた。

予想していた通り、このエリアに人の動きはない。
高所から飛び降り、原形をとどめていない遺体。
水面に浮かび、腹が大きく膨れている遺体。
服毒により変色したのだろうか、蛆すら湧いていない遺体。

SCP-3519が猛威を振るうようになってからは見慣れた光景だ。あの中のどこかにグラスが転がっているのだろうが、探そうと言う気にはなれなかった。それより日が暮れる前に探索を終わらせたい所だ。

グラスのオフィスは扉と正面の窓が開けっ放しだった。窓から風が吹き込み少し書類が散乱していたものの、2か月前とほとんど変わらなかった。グラスの作業机には食べかけのキングサイズ・キャンディバーが放置されていた。デスクトップPCは電源が落とされておらず、見慣れない私物のタブレットが接続されていた。

デスクトップPCのキーボードを適当に叩くとスリープモードが解除され、そのまま作業画面が表示された。トミーの死因の調査に関するメモ書きのファイルがあるのを見つけたので開く事にした。

18/12/21
両親が所属していたアンドロメダ座教会は新興宗教としては穏健な団体で、あまり悪い噂は無いようだ。
家庭環境は想定より悪く無かったのかもしれない。

18/12/22
トミーはプログラミングに興味を持ったようで、死の1か月位前に両親と外出して入門用の参考書を買いに行った形跡がある。
ハローワールドを表示するプログラムを実行して喜んだ日記が出て来た。
鬱は治りかけが危ないとは言うが、トミーは現状を変えようと努力し、両親はトミーに無理させないように気を使っているようだ。一家心中に繋がる家庭環境には思えない。

18/12/23
焼け残ったトミーのタブレットは表示系が壊れただけで内部データは無事なようだ。
データを復元した結果、コピー不能な謎の大容量データが存在していた。
さらに大量に終末論について調べた形跡が見つかった。
奇妙な事に終末論は時間と場所のみ破損しており復元できなかった。この辺り掘り下げてみた方がいいかもしれない。

18/12/24
先ほどアンドロメダ座教会の信徒が集団自殺したというニュースを見た。
トミーの両親が入信していた新興宗教団体だ。
本件に関して調査チームが組まれているらしい。連携して調査を行ってみようと思う。

この翌日以降の記録は削除されている。この時の調査チームこそがパンデミックを引き起こした元凶だ。そしておよそ2週間後に正気を取り戻し、身辺整理を行った後に私へSCP-3519の情報を送ってきたことになる。

私はその時何があったのか確かめるため、この部屋の監視カメラの映像を確認する事にした。グラスが私にメールを送った時間より少し前の時刻を指定し、再生した。

グラスはSCP-3519の影響下にあったためか著しく衰弱していたが、鬼気迫る様子でモニターに食らいついている。SCP-3519に関する情報をまとめた後、外部との連絡を取ろうとしているが、財団のセキュリティにより制限されており、上手く行っていないようだ。
グラスの肩にはパッチワークで作られたテディベア—SCP-2295が乗っている。その両目からは恐らく生理食塩水であろう涙が零れている。すでに中身の綿は無くなり平らになっており、生地も腰から下は消滅している。

つまり、グラスは一時的にSCP-2295の影響で死の恐怖から逃れて正気に戻り、ミームに暴露した時の実体験を基に考察した事になる。他者から見れば何の根拠にもならず疑われるだけなので、検証は送り先に任せたのだろう。

グラスは財団のセキュリティホールを発見し、私宛にメールを送る事に成功したようだ。グラスは一息つき、大きく伸びをした。その時、SCP-2295の流す涙が、机の上で液体から綿や記事に戻り、パッチワークで出来た長方形の板のようなものが出来上がっている事に気付いた。その板はしばらくすると消滅した。
グラスは辺りを見渡した。当然だが、グラスにそのような臓器は無い。しばらく机の周りを探している内に、新品のタブレットが出て来た。

『トミーのタブレット、君が治したのかい?』

グラスの問いにSCP-2295は何も反応せず、涙を流し続けている。SCP-2295はすでに動く事も出来なくなっているようだ。グラスに残された時間も限界が来ている事を物語っていた。
グラスがトミーのタブレットに電源を入れると、そこにはイラスト化された犬の尻が映っていた。犬種はボーダーコリーだろうか、穴を掘るような仕草をしている。

『なんだこれは』

私もなんだこれは、と思わず呟いてしまった。トミーの作ったデスクトップマスコット的な物なのだろうか。しかしプログラミング初心者のトミーに作れたとは思えない出来だ。

グラスは少し考え込んだ後、犬の尻をタップした。犬が振り向き、会話用のコンソールが立ち上がった。

『うわっ、なになに?』
『初めまして、私はグラス、このクマさんはカイロス君だ』
『はじめまして!ぼくのなまえは……えっと……まだないよ!』
『君を作ったのはトミー、この端末の持ち主かい?』
『そうだよ』
『なるほど、トミーがアノマリーを生み出したのか』
『あのまりーってなに?』
『大した事じゃない。気にしないでくれ。君が持っているデータは破損しているようだがこれは君がやったのかい?』
『そうだよ』
『じゃあ、こことここって直接繋がって無かったと思うんだけどもしかしてそれも君がやったのかい?』
『そうだよ?もしかしてなにかだめだったの?』
『いや、そんな事は無い。良くやってくれた。良い子だ!』
『えへへ』

本当なら、特定の単語を破損させ、セキュリティホールを作り出す現象はこの電子犬がやっていたという事になる。トミーの願いがこの異常性を生み出したのだろうか。

電子犬は褒められて笑顔を見せていたが、はっとした表情を見せた。

『なんでかいろすくんはないてるの?くるしいの?』
『カイロス君は私の代わりに泣いているんだよ』
『じゃあ、なんでぐらすさんはにこにこしてるの?』
『カイロス君の代わりに笑っているのさ』
『へんなの!』

電子犬はまた笑顔を見せた。

『だれかといるとたのしいね!』
『悪いが、これから行かないといけない所があるんだ』
『え?まだおはなししたいよ?』
『代わりに私の部下の所に行ってあげて欲しいんだ』
『どんなひとなの?』
『五條と言う名前で、私に似ていて……未熟な所もあるけどいい奴だ。支えてあげてくれないか』
『わかった!ごじょうさんだね!』
『今からメール送るからそれについていってくれ』
『うん、またおはなししようね!』

その後、グラスはメールで部下の五條研究員に2か月ほど孤島で待機し、対抗ミームを開発するサイトに向かうよう指示を出した。正常性が担保されている人員がいるのは頼もしい限りだ。

グラスは部下へのメールを送ると憑き物が落ちたような表情を見せた。肩に乗ったSCP-2295はすでに首から上しか残っておらず、グラスのシャツを濡らしている。
グラスは少しの間SCP-2295を撫で、監視カメラの方を見ていたが、意を決したように立ち上がり、部屋の外へと歩いて行った。グラスの姿は見えなくなり、ドアを開ける音と、窓がカラカラと開いた音が響いた。

私は顔を上げ、ドアの方を見た。入室時と変わらずドアも窓も開いたままだ。正面から見える窓の先には薄暗い夕暮れが広がっていた。私はしばし目を閉じ、グラスとの想い出に浸り—タブレットを手に取った

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