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 夜無やぶ 鳴子なるこのオフィス兼診察室のドアには、『お休み中』のプレートが掛けられていた。その内側では、銅鑼にハリセン、果ては電撃ペンなど、統一感のない雑多なものに囲まれて、白衣を着た二人の男がパソコンの画面を眺めている。

「狩猪さんのニューロンも、相変わらず大概だねえ」

 夜無は画面に表示されるfMRIの画像の、特に真っ赤に染まった部分を指差して笑った。
 その対面に座る男──狩猪かるい 重悟じゅうごも、「わかりやすくてありがたいです」と、無造作にみえるセンターパートを揺らして笑う。

「ミラーニューロンの活性なんですが、前回と有意差はありますかねぇ」
「うーん、ない気はするけど。とりあえずちょっとここ、分析かけてみるか」

 夜無が細い腕を伸ばして素早くキーボードを叩くと、パソコンは小さく唸りを上げながら計算を開始した。
 黙ってその進行を見つめる。やがて夜無が少しずつ前後に揺れ始めたかと思うと、バタっとデスクに突っ伏した。
 規則的な寝息が聞こえる。狩猪はそれを気にも留めない様子で、画面をじっと眺めている。パソコンの光を受けて、狩猪のレンズに翅脈のような模様がうっすらと浮かび上がった。
 夜無が突発的に眠るのは日常茶飯事。医療部門にもよく出入りする狩猪にとって、驚くようなことではなかった。むしろ話している最中に寝られるより待ち時間に寝ていてもらった方が、狩猪としてもありがたい。

 進行が50%に達したあたりだろうか。後ろの扉をノックする音が聞こえた。夜無はピクリとも動かない。狩猪が代わりに「どうぞー」と返す。
 ゆっくりと開いた扉から顔をのぞかせたのは、スーツを着込み、白髪交じりの髪をかきあげた男。角ばった眼鏡の奥、閉じられた左の瞼には大きな傷跡が残っている。

聴涛きくなみ参事でしたかぁ。今日はどうされましたかぁ?」
「いや、ここはあなたのオフィスじゃないでしょう。なぜこちらに?」
「実験と定期検診です。夜無先生にご協力をいただいているんですよぉ」
「それなら『お休み中』じゃあ──いや、休んでいることに間違いはありませんか」

 デスクに突っ伏す夜無を一瞥して、呆れたようにため息を吐く。

「そこの寝坊助さんが、提出書類を溜めていましてね」

 聴涛は大股で夜無に近付き、デスクの横に掛かっていた大きめのハリセンを手に取る。それからためらいもなく、それを夜無の後頭部に振り下ろした。
 衝撃の瞬間、乾いた音に混じってバチっという音が響き、夜無が飛び起きる。

「これは効くねえ! ──って聴涛さんじゃない。どうしただい? おなかの調子でも悪い?」
「お元気そうで何より。おっしゃる通り最近は胃が痛くて敵いません」
「あれま、胃薬とか出しておこうか?」
「いえ、健診関係の提出資料があれば治ります」
「──あっ」
「はぁ、もうこれ以上締め切りは伸ばせませんよ」

 夜無は唸りながら頭を捻る。
 それから突然閃いたように目を開いて、

「あ、ほらでも。今ちょっと打ち合わせ中だからさ。明日まで待ってちょうだいよ。ね?」

 狩猪を見てウインクする。狩猪は優しく微笑みを返す。

「書類の方を優先していただいて大丈夫ですよぉ。今日は僕もお休みですからねぇ」
「だ、そうです。ほら観念なさい」
「狩猪さん~~~~」

 情けない声で助けを求める夜無だったが、聴涛に睨みつけられて観念したのか、分析と並行して、不平を零しながら書類の作成を始める。
 カタカタというタイピング音が、部屋にひしめく雑貨達の中にに吸い込まれていく。
 思い出したように、聴涛が口を開いた。

「そういえば。狩猪さんも書類の提出をお忘れですよ。ほら、転属希望調査票」
「あれ、すみません。忘れてましたぁ」
「はぁ、もう締め切りを二週間は過ぎています。良ければここでお書きになってください」

 聴涛はそういうと、ビジネスバッグから一枚の紙とペンを取り出して狩猪に差し出す。

「今の所属は──研究部門でしたね。それに医療部門、対話部門にも臨時職員として所属している」
「そうですねぇ。色々な方とお仕事をさせてもらっています」
「それですが、多すぎませんか。今日だって休日にもかかわらず半分仕事みたいなことをやっているわけでしょう。総務としては過労を看過できません」

 狩猪は曖昧に微笑んで、「過労ってほどでもないんですけどねぇ」と呟く。

「その眼鏡のレンズだってあなたが開発したものだと聞きましたよ。今でも一部応用されているらしいじゃありませんか。それだけの実力があるなら、研究部門一筋でもいいでしょう。どうしてカウンセラーにこだわるんですか?」

 狩猪は少し考えるような素振りをして、小さく肩を竦めた。

「話が長くなりますよぉ」
「構いません。どうせ彼を待たなければいけませんから」

 そうですねぇ、と笑って、狩猪は語り始める。



◇◇◇



 ──泣いている人を見て泣く人が不思議だったから。
 高校時代、狩猪が心理学の道を選んだ理由だ。よりありきたりに言いなおせば、人の心が知りたかった。
 共感能力がないわけではない。多少鈍感といわれることもあったが、生活に支障があるほどではなかった。だからこそ、自分と地続きのはずのただの人間がそこまで強烈に他人の感情を体験できることに興味を惹かれた。他人の感情で色付いた世界というのが、少し羨ましくもあった。

 だが意気揚々と入学した心理学部で狩猪を出迎えたのは、無秩序に拡大した先行研究の山だった。
 先人たちが積み上げてきた感情モデルはもはや違法建築の様相を呈していて、学術用語と日常語彙が統一定義を持たないまま入り交じり、概念のこねくり回しの果てに哲学の領域まで先祖返りするという有様だ。教師も古い理論に固執することで、なんとかこの混乱から目を逸らしている。とても学部生に扱えるものではないとすぐにわかった。
 結局彼は、専門を知覚に定めることにした。比較的議論が整理されているという理由もあったが、なによりやってみて楽しかったし、適性があった。卒業論文を書き、優秀賞を勝ち取って、当然のように院に進学した。

 あの人と出会ったのは、その頃だ。学府か何かの懇親会で、たまたま正面に座ったのが彼女だった。
 笑い話の要領で、感情を扱おうとして挫折したエピソードを語ると、彼女は残念そうに口を尖らせる。

「感情、面白いんだけどね」

 彼女の専攻は臨床心理学だった。狩猪の専攻である実験心理学とは、厳密には異なる学問である。実験心理学が人間一般の精神の仕組みを解き明かそうとするのに対して、臨床心理学は何かしら問題を抱えた精神を研究し、その仕組みや、それを修正する方法を追求する。当然だが、感情に触れざるを得ない領域だ。
 そうなんだけど、と狩猪は笑う。

「あの分野で実績を出す自信は、あんまりないかな」
「え、実績とか考えて研究してるの?」

 口に運ぼうとしていたグラスが止まる。
 アルコールが入って少し赤くなった彼女の顔には、知らない動物を見たときのような素直な驚きが浮かんでいる。嫌味ではない。純粋に質問している様子だった。

「ま、まあ、そりゃあね。研究者としてやっていくなら、論文書くのが仕事だからさ」
「へー、大変なんだね。私は臨床心理士になって、実務をやるのが目標だからさ。あんまりそういうの考えてなかったな」

 それじゃ興味があっても楽しめないよね、と残念そうに口を曲げる。
 感情豊かで、無理にそれを抑えようとしない。その仕草に狩猪はあまりにも自然に惹かれていた。彼でも明瞭に感じられる他人の感情が嬉しかった。

「じゃあさ、教えてよ。感情」

 学部生時代は研究ばかりしてきた男だ。酒の勢いに任せたからこそ言えた言葉だが、勢い任せで不格好だった。
 彼女は目をぱちくりさせて言葉を失っている。酒とは関係なく、狩猪の顔が赤らんでいく。
 それを見て、彼女はぷっと噴き出した。

「ロボットにしてはわかりやすいね?」
「い、いや、感情を知らないってわけじゃなくて──」
「ははは、冗談だって。大丈夫。いいよ。私もアウトプット先が欲しかったんだ」

 そこから二人が恋人関係になるまで、そう長い時間はかからなかった。
 すぐにわかったのは、狩猪より数段彼女が他人の感情に敏く、そして有能だということだ。
 狩猪が博士後期課程でそこそこの実績を積む間、すでに就職していた彼女はそのカウンセラーとしての能力を遺憾なく発揮し、精神科所属の臨床心理士として多くの人々を救っていった。
 どうやら凄腕のカウンセラーがいるらしい、という噂が地域の外にも広まりだしたあたりだった。彼女がいきなりおかしなことを言いだしたのは。

「転職することにした」
「え?」

 仕事から帰ってくるなり、彼女は告げた。理解が追い付かず、狩猪は素っ頓狂な声を上げる。

「なんかスカウトされてさ。本当にやばい職場環境で人が病みまくってるらしいから、助けたいと思って」

 正直、「そんな職場にいくなよ」と狩猪は思った。だが彼女の眼は、もう完全に意思を決めている眼だ。こうなるともう止まらないことは、数年の付き合いでよくわかっていた。

「わかったよ。どこらへんになる? 引っ越しの準備しないとね」
「ついてくるの?」
「え、僕置いていかれるの?」
「いや、社宅があるって聞いて安心しちゃって、あなたのこと考えるの忘れてた。ごめん」

 ぽかんとする狩猪をよそに、彼女はうーんと考え込む。少し経って、何かを閃いたように人差し指を立てた。

「とりあえず、めっちゃ研究頑張ってよ。そしたら何とかなるかも」

 よくわからないが、このままだと置いていかれる。
 焦燥感に追い立てられて、狩猪は今までにも増して研究に励んだ。家に帰っても論文を睨みつけ、髪もどんどん伸びる一方だ。そんな生活を続けていくうちに、とうとうその努力が実を結び、あるいは半分偶然に、論文が有名誌に採用されることになった。
 掲載が決まったその日、ささやかなご褒美としてケーキを二つ買って帰ると、玄関に見知らぬ黒い革靴があった。
 何事かと焦ってリビングに走ると、そこでは彼女と、黒ずくめのスーツに身を包んだ男が座って何やら話している。彼女は狩猪に気付くと、呑気に「おかえりー」と手を振った。

「よかったね。スカウト来たよ」
「え?」

 訳もわからぬまま、スーツの男が差し出した名刺を受け取る。企業名が書かれるべきところには、ただ「財団」とあった。
 一方的な説明を終え、スーツの男が帰った後、ハッと思い出して箱を開ける。走ったせいか、せっかくのケーキは崩れていた。

「焦りすぎだって」

 彼女はぷっと噴き出す。不格好ではあったが、二人で笑いながら食べれば、形なんて気にならなかった。


 財団に勤めてからも、二人の生活はそれほど変わらなかった。財団から提供された2LDKのアパートに同居し、彼女は医療部門のカウンセラーとして、狩猪は研究部門の心理学者として、それぞれがそれぞれの仕事を淡々とこなす。
 その日も、狩猪はいつも通り職務をこなしていた。研究室に戻り、疲れ果てた同僚たちの顔が目に入る。
 その瞬間、猛烈な吐き気に襲われ、狩猪はその場に蹲った。人型オブジェクトの心理検査を終えたあとだった。
 異常性暴露の疑いあり。医療部門に搬送され、隔離処置をされる。運が悪かった、と思った。財団職員はいつだってこういう事故に巻き込まれる可能性がある。どれだけ注意を払っていても、それは防ぎようのないことだ。
 覚悟はしていた。場合によっては、このまま死んでしまうかもしれない。ただ最後に一度でも、彼女に会いたいと思った。

 そこまでひどい状態ではないとわかったのは、それから一週間の検査入院が終わる頃だった。実験で確かめられたのは、感染性はなく、致死性もないということ。ただし、人の顔を見ると多少気持ち悪くなるという異常の影響はずっと残存していた。
 とはいえ、そこまでひどい吐き気に襲われるわけでもない。詳しい異常性の検査と対策は、職務に復帰しつつ考えよう。それが担当医と出した結論だった。

 退院の日、隔離病室を出ると、遠くからばたばたと騒がしい足音が響いてきた。見ると、彼女が廊下の向こうから走ってきていた。その表情には、不安と喜びがないまぜになった感情がこれでもかと浮かんでいる。
 一応ちゃんと心配してくれていたんだな。そう思って安心した瞬間、狩猪は立っていられないほどの不快感に襲われた。突き上げるような胃のむかつき、加速する拍動、腸には虫が這うような違和感。
 その場で膝をつき、嘔吐する。
 意識が明滅する。視界の隅で、彼女が何かを叫びながら駆け寄るのが見えた。



◇◇◇



「説明しよう。ミラーニューロンの異常活性に代表される、運動表象の過剰シミュレーション。狩猪さんの症状は、とりあえずこういうものだということになっている」

 書類作成に飽きたのか、それとも眠気がピークを迎えたのか、夜無が椅子を回して勝手に補足説明を始める。

「心理学には、『人は悲しいから泣くのか? 泣くから悲しいのか?』という古典的な問いがある。誤解を恐れずに言えば、感情が先に生じるのか、それとも体の反応が先に生じるのかという議論だ。聴涛さんはどう思う?」
「普通に考えれば、悲しいから泣くのでしょう」

 やれやれ、と夜無は口元を歪めて首を横に振る。
 ハリセンに手を伸ばそうとした聴涛に、狩猪は肩を竦めて笑いかける。

「これが心理学の面白いところなんですよぉ。実はいくつかの研究が『泣くから悲しい』という結論を支持しているんです。つまり、感情は体の反応を逆算したもの──というより、特定の状況で生まれる体の感覚のセットを、感情という塊にまとめて解釈しているらしいですねぇ。もちろん、あくまでこういう説もあるというお話ですけど」

 聴涛は眉間に皺を寄せながら、「ふむ」と頷いた。
 四肢の力が抜けて、表情筋が収縮し、涙が流れるのを見て、悲しいと感じる。歯を食いしばる感覚と、頭に血が上る感覚を以て、怒りを感じる。
 確かに思い返してみれば、感情というものは何かしらの感覚を伴うものだ。それに、「あのときは怒っていた」と過去の経験にあとから名前を与えることも多い。反応が先だという話も、一定の説得力があるように感じられた。
 
「重要なのは、感情があるならば、例え見えにくくとも、体の反応が必ず生じているということだ。そして、人間には相手の行動や感情を自動的にシミュレーションする機能が備わっている。ミラーニューロンというのも、その機能を果たす脳神経システムの一つだ。狩猪さんはそれが異常に活性化しているせいで、相手の感覚を"実感"しすぎてしまう」
「つまりあなたは、人の感情が読める、と」
「大雑把に言えば、そういうことになりますねぇ」

 頷きながら肯定する狩猪に、「いやいや」と夜無が突っ込みを入れる。

「そんなに便利なものではない。さきほど感情は感覚をまとめたものだと話したが、そのまとめかたは人によって様々だ。バラバラにされた不快感パズルのピースを投げつけられているような感覚のはずだよ。そのままでは日常生活なんて送れるはずがない」
「それで出来たのが、その眼鏡ですか」

 狩猪は頷いて眼鏡をはずし、聴涛に差し出す。そのレンズには蜘蛛の巣や翅脈のようなパターンが、控えめな虹色で浮かび上がっていた。

「表情知覚抑制パターンレンズといいます。かけてみますかぁ?」

 受け取った眼鏡をかけ、夜無と狩猪の顔を交互に見る。
 誰かの判別はできる。だが、それぞれの感情の読み取りがよくできない。直感的には、二人共無表情であるように感じる。一つ一つのパーツの形は分かるし、そこから理性的に推測すれば感情を推し量ることもできるが、すぐにそれを理解することができない。

「これは──奇妙な感覚ですね」

 眼鏡を返して、もう一度二人の顔を見る。狩猪はわずかな微笑みをたたえていて、夜無はどこか眠そうだった。

「これと感覚麻酔薬というものを併用して、症状を抑えているんです。レンズで外からの情報を減らし、薬で体内の感覚を曖昧にするわけですねぇ」

 ぴろん、とパソコンが音が鳴らし、分析が完了したことを知らせる。

「ありゃ、結構早く終わったな。狩猪さん、結果はどうする?」
「お話を途中で切るのもよくありませんからねぇ。送っておいてもらえますかぁ」
「了解。それで、このレンズの仕組みなんだけどね──」

 夜無は話を続けようとする。しかも長い話になりそうだ。どうにかしてサボろうという魂胆が見え透いていた。
 聴涛は黙って夜無を睨みつける。夜無は口を尖らせて椅子を戻し、しぶしぶ作業に戻っていった。

「それじゃあ、続きをお話しましょうかぁ」

 狩猪が微笑んで、再び語り始める。



◇◇◇



 一か月に渡る隔離入院の延長と追加検査は、狩猪の症状が相手の感情の読み取りに起因することを明らかにした。
 とはいえ、病室で寝ていてよくなるものでもなく、いずれ職務に復帰しなくてはならない。
 対症療法的に与えられたのは、認識災害の対策にも利用される、弱い感覚麻酔薬だった。外から入る感情情報のブロックは難しいので、感情シミュレーションが内側で巻き起こす感覚たちを鈍らせようという対応である。

「ごめんね、私のせいで」

 久しぶりの帰宅。彼女の顔を一瞬捉えて、すぐに目を逸らす。それだけですでに体内が蠢きだすのを感じた。
 薬の量は、あくまで、日常的に摂取しても体への影響が小さい範囲。症状が消え去るわけではなく、多少の軽減にしかならない。

「いやいや、君は何も悪くないよ」

 視線を外したままで笑う。

 退院後の狩猪は、てんで役立たずだった。感覚麻酔薬は全体的な感覚を鈍らせる。知らぬうちに火傷や切り傷を負う可能性があり、料理もできなくなったうえ、暖かいものも食べにくくなった。体が思うように動かず、今まで担当してきた家事全般に支障が出始める。
 彼女はそんな狩猪のために仕事を早く切り上げ、いくつかの家事を担当してくれるようになった。彼女がときおり学生時代のようにカウンセラーの哲学を語りながら作るブルスケッタは絶品だった。だけどもその味を思い出すたびに、彼女の時間を奪い、彼女のやりたいことを邪魔しているという感覚が、狩猪に重くのしかかる。

「いいのいいの、全然気にしないでよ。こういうときに助け合わないとさ」

 彼女は笑う。狩猪はその笑顔から目を逸らす。
 一番彼を追い詰めたのは、彼女の感情がわかるようになったことだった。
 強い感情は、それだけ強い反応を喚起する。逆に言えば、日常生活を送る上で現れる程度の弱い感情であれば、薬の作用で問題がないレベルまで抑えられた。とはいえ、シミュレーションが止まるわけではない。彼女の顔をみると、ときどきじっとりとした不快感が体の内側を撫でる。
 この人は、自分と過ごす中で、こんなに色々なことを感じている。些細なものかもしれないけれど、その中にはネガティブなものも含まれている。
 それを見せつけられて、狩猪は急に恐ろしくなった。笑顔を見るのさえ怖くなった。それを見れば、きっとその中に潜む不快感を知ってしまう。

「あのさ、ちょっとこれから研究室に籠ることになりそう」

 薬の影響で上手く回らない口をゆっくりと動かしながら、狩猪はそう告げた。

「え、しばらく帰ってこないってこと?」
「うん。この症状さ、早く治したくて」
「無理しなくていいんだよ?」
「でもまたさ、君と一緒にいろんなことを楽しみたいから」

 その言葉を聞いて彼女がどんな表情をしたか、狩猪は覚えていない。きっと見てすらいなかった。

 それからというもの、狩猪は研究室に籠って、知覚抑制パターンの開発に専念した。研究棟に備え付けられた宿泊スペースで生活するようになり、家に帰ることはまれだった。
 いちいち倫理審査を通さなくてもよい、自分という被験者もいる。おかげで研究の進みは素晴らしかった。だからこそ、ますます家に戻る理由を失った。
 ときどき帰ったときの会話はぎこちなくなっていったが、研究ばかりしているせいで話題がないだけだと、狩猪は気にしないようにした。

 おおよそ一年後、一か月にわたる長い研究室籠りを終えて、ついに知覚抑制パターンが完成する。
 狩猪は試作品と購買で買った二人分のケーキを持って、久しぶりに帰宅した。
 だが、玄関に靴はなかった。いつもなら彼女が帰っている時間だ。焦燥を感じながら電気をつけ、部屋に駆け込む。
 そこで、ダイニングテーブルに置かれた別れの手紙と、本棚の影に落ちていた睡眠薬のシートを見つけた。
 狩猪は一人には広い部屋の中で、力なくへたり込む。

「僕は、逃げたかっただけか──」

 大切なのは人の心がわかることじゃない。想像して、向き合う勇気だ。だけれどそれに気づいたとき、もう全ては手遅れだった。
 ふらりと視界が揺らぐのを感じて、抗うこともできずに倒れ込んだ。背中で箱の中のケーキが潰れるのを感じる。だが、誰も笑ってくれる人はいない。



◇◇◇



「それで、病んでしまった彼女の代わりを果たそうと、カウンセラーになった訳ですか」
「いやいや、彼女はそんなことで折れる人間じゃないですよぉ。今も財団でカウンセラーをやっていますし、幸せな家庭を築いています」

 結局置いていかれてしまいましたねぇ、と狩猪は遠くを見つめる。

「では、どうしてカウンセラーを?」
「心に向き合うことを忘れないためです。人は弱いですからねぇ。自分で思うだけではすぐに忘れてしまいます。それに、彼女がしていたことを知って、向き合えなかったものに少しでも向き合いたいんです」
「──だけども、そんな悲劇の記憶ばかり追っていては辛いだけでしょう」
「ははは、悲劇に聞こえますか。でもこれは、単に私が恋人をほったらかしにする酷い男だったというだけですよぉ。そこにドラマはありません。異常に巻き込まれていなくても、いつかこうなっていたんだと思います」

 悲しみを感じさせないからりとした笑い。感覚麻酔薬による影響なのか、それとも彼が努めてそうしているのか、聴涛にはわからない。ただ、肌を刺すような痛々しさだけが確かだった。

「随分と自責的な言葉を使うものですね」
「言葉を使う仕事をしていますからねぇ。言葉を使えば、自分を美しく着飾り、醜さを悲劇に偽ることができます。自分さえも騙せてしまうほどに。でもそれを許せば、幸せだった記憶も全て改ざんしてしまう。それはいやですねぇ」

 狩猪は穏やかな手つきで、転属希望調査票の「転属希望なし」に〇をつける。

「私は、私の全ての苦しみを苦しみのまま保たなければいけないんですよぉ」

 書類を聴涛に手渡すと、狩猪は腕時計を見ながら、「あれ、話しすぎちゃいましたねぇ」と笑う。

「そろそろ時間なので、お先に失礼しますねぇ」

 軽やかな足取りで診察室を出ていく狩猪を、二人は黙って見送る。
 ふーっと息を吐き、聴涛が口を開いた。

「いつもの『死ぬねえ』はどうしたんですか」
「いやぁ、さすがにあの話のあとに誇張表現はできないよ」
「驚きました。誇張という自覚があったとは」

 夜無はいやいや、と言い訳を付け足す。「いつ眠るかわからないから、端的に結論を伝えるためには仕方ないんだよ」
 聴涛は呆れた目で夜無を一瞥して、小さく首を振った。

「ただ今回の場合は、あながち誇張ではないと思いますが」

 うーん、と唸り、夜無は手を顎に当てて俯く。
 寝息が聞こえてこないか意識を集中しながら、聴涛は続く答えを待った。

「まあでも、こればっかりは何もできないよね!」
「はあ?」

 夜無は完全に諦めたという風に、さらりと言ってのけた。聴涛はおもわず額に皺を寄せた。

「だって相手は精神の専門家だもん。専門外の僕から言えることなんてないよ。それにああ見えて、自分の思考の歪みは自分で理解できているんだ。そのうえで歪み続ける道を選んだ。歪みながら生きる苦痛を知っているから、それに誘う対話部門の仕事が嫌いだし、その大切さも知っているから、あの仕事を続けているんだろうねぇ」
「医者の不養生は助けられないと?」

 挑発的に問う聴涛に、夜無は「わかってるくせに」と笑う。

「死にそうになったときに、逃げてこられる場所をちゃんと用意しておくのが僕たちの役目でしょ」
「まあ、居眠り坊やにしては立派なことをいうものですね」

 口調とは裏腹に、聴涛の表情は満足げだ。
 それを確認すると、夜無はわざとらしく笑顔を作ってから、出口を指さす。
 
「じゃ、僕は今からここを守るからさ。狩猪さんから返事も貰ったことだし、聴涛さんも帰ったら? 忙しいでしょ?」

 反応も待たずに、引き出しから枕を取り出してデスクに置き、夜無は顔をうずめた。

「書類は後でメールで送るよ~」

 だが聴涛は知っている。この男、途中から狩猪の話をきいていて、まったく作業が進んでいない。

「何を言いますか。きちんと書類を用意していただけるまで寝かせませんよ」

 ぽん、とデスクに体を預けた夜無の肩に手を置く。反抗するように、夜無はじたばたと体を揺らした。

「いやだよお! もう今日四時間くらいは起きてるよぉ!」
「そうですか。このままいくと私は徹夜です。ほら、私の健康のためにも早く作業に取り掛かりなさい」
「やだ眠い! そういう風に厳しいから裏でママって呼ばれるんだ!」

 ぴきっと、聴涛の額に青筋が浮き出す。表情が一瞬固まって、徐々に歪んだ笑みに変わる。

「安心なさい。私はそこらの母親とは違います。ダメ人間に呆れたからといって、寝坊を放置するようなことはしません」

 聴涛はハリセンを手に取る。診察室は照明は、しばらくの間消えることはなさそうだった。


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