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夏休み明け初日の学校は特別日程である。授業はなく、始業式や宿題の提出、自由研究の発表が終わった正午ごろには終業となる。
とはいえ久しぶりの再会で盛り上がった小学生の少年少女が、学校が終わったからと言って早々に解散するかというとそんなことはないだろう。むしろたっぷり余った放課後の時間を、どこかに集まってはしゃぐのに費やすものだった。親もそれを見越して、今日ばかりは少しの小遣いを与えるか、弁当なんかを持たせている。
その弁当を、菅野光希すがの こうきは一人でつついていた。学校から離れた場所にある公園のベンチ。太陽に照らされて額にはじんわりと汗が浮かんでいる。公園には彼しかいない。
彼はこの時期が苦手だった。夏休み中どこへ行っただとか、何を買ってもらっただとか、そういう話で盛り上がる友達の輪に入ることができないからだ。
どこかの研究所で働いているらしい父は多忙でほとんど顔を見ることもできず、母もパートで日中は家に居ない。休日に母が遊びに連れて行ってくれることはあったが、夏休みだから特別なところにいくというわけでもなく、少々遠くにある大きな公園か地元の水族館、それか回転ずしが定番だった。
彼は幼いながらにそれが仕方のないことだと理解していたが、だけども両親との思い出で盛り上がる同級生たちとは、一種の壁を感じていた──より正確には、自分がどこか落ちこぼれであるかのように感じていた。
これを食べ終わってしまったら、そのあと何をしよう。そう迷う少年の表情は暗い。あまりに早く帰ると、友達がいないのではないかと母親を心配させてしまうだろう。だけども、そこらへんを適当に歩き回るのも避けたかった。用事があるからといって同級生から逃げ出した手前、一人でいるのを見られたくない。
最後に残った卵焼きを箸で転がしていると、突然自分に投げかけられていた光が遮られた。目を上げると、一人の男が目の前に立っている。父親と同じくらいの年齢だろうか。夏だというのに黒いタートルネックの上から白衣を羽織っていて、薄くあご髭を生やし、さらに黒い手袋まではめている。
「坊や、ちょっといいかな」
不審者だ。一瞬驚いて固まった後、少年は立ち上がろうとして弁当箱を取り落とす。その様子に男性は焦って、疑念を否定するかのように片手を振る。
「いや違うんだ違うんだ。怪しいものにみえるかもしれないけど、そこでこれを拾ってね」
男がそういって少年に差し出したのは、父親にもらったセミの形のキーホルダーだった。非常に見えにくいが腹にボタンがあって、それを強く押すと防犯ブザーのように振動し、大きな音を鳴らすことができる。絶対に手放さないようにと言われ、ランドセルの横に提げていたのだが、気付かないうちに落していたらしい。少年は恐る恐る男からそれを受け取った。
「よかった。やっぱり君のだったんだね」
「あ、ありがとうございます。でもなんで僕のだって」
「そこの道端に落ちてて、多分小学生のものだっていうのはわかったんだけどね。この辺り、全然小学生いなくて。最初に目に入ったのが君だったんだ。それがビンゴ! ラッキーだったよ」
男は爽やかに笑ってから、地面に落ちた弁当箱を拾い上げる。それからポケットに手を突っ込んで真っ白なハンカチを取り出し、土のついてしまった部分を拭った。
「ごめんね。驚かしちゃったな」
少年は差し出されるままに綺麗になった弁当箱を受け取り、首を振った。
「いや、僕もごめんなさい。あの、ハンカチ……」
少年の目線の先には、薄茶色に汚れてしまったハンカチ。男は首を振って、それをポケットに戻す。
「いやいやいいんだ! 気にしないでくれ。ただちょっと歩いて疲れちゃったから、お隣いいかな?」
男の額に浮かんだ汗を見て、少年はこくりと頷き、スペースをあける。男はよっこらしょ、とベンチに腰掛けた。
「僕は研究者をやっていてね。生き物を専門に研究しているんだ。今日は休みで、たまたまこの辺りを散歩してたんだよ」
だから白衣を着ているのか、と少年は納得する。学校の理科の先生も白衣を着ていたし、きっと父親も職場では白衣を着ているのだろう。横に座る男へ、少し親近感が湧いた気がした。
「君はどうしてここに? お弁当なら、こんな暑いところじゃなくて、家に帰って食べたらいいじゃないか」
「それは……」
何気ない男の言葉に、少年は口ごもった。男は心配そうに少年を見つめる。
「もしかして、帰れない理由が? 親に酷いことをされているとか」
少年はぶんぶんとかぶりを振って強く否定する。
「違います。パパとママは悪くないです。ただ、あの、ママを心配させたくないし……」
「……そうか、優しいんだね」
「いや、そんなこと──」
「もしよかったら、どうして帰るとお母さんが心配するのか、教えてもらえるかな?」
穏やかな声色で男は尋ねた。少年は拙いながらも導かれるように、少しずつ事情を話し始める。両親が忙しいこと、自分が周りと違って両親との思い出が少ないこと、そのせいで自分がだめな人間のように思えること。
「そうか……なるほどね」
少年の説明を聞いて、男は少し考えるようなそぶりを見せる。少年は緊張した。この苦しさを両親のせいにすることが悪いような気がしていて、それを非難されるかもしれないと思った。男がゆっくりと口を開く。
「モグラをみたことはあるかい?」
モグラ──? 想定外の問いに戸惑いながら、少年は小さく首を振る。名前は聞いたことがあったが、実物を見たことはなかった。
「そうだよね。いまどき見たことのある人の方が少ないかもしれない」
男はポケットからスマートフォンを取り出して一枚の画像を見せた。そこには盛り上がった地面が写し出されている。
「これ、モグラの巣だよ。実はさっきこの辺りで撮ったんだ。モグラは穴を掘って暮らしているってことは知っているかな?」
少年が小さく頷くと、男は「よかった」と微笑んで話をつづけた。
「モグラは地面の下でとっても長い穴を掘って、そこからは滅多に出てこない。それに穴の中には基本的に、一匹のモグラしかいないんだ。だから他のモグラと出会うこともほとんどない。出会ったところですぐ喧嘩になって、お互いの穴に戻ってしまうしね」
「それは、あの、寂しくないんですか」
少年にとって、穴の中は、暗くて冷たくて、恐ろしい場所のような気がした。口を突いて出た少年の素直な疑問に、男はゆっくりと頷く。
「うん。確かにちょっと寂しいかもしれないね。だけども彼らは他のモグラのことなんて気にしないんだ。ただ自分の穴を広げて、満足して死んでいく。自分の穴と他のモグラの穴を比べて、大きさや、形の違いに悩んだりしない。他人に縛られないんだ。それも、良い生き方だと思わないか?」
問いかけに少年は答えない。男は「ちょっと難しい話になっちゃったね」と笑う。
「つまりは坊や、自分の穴を掘るんだよ。他人のことなど気にせず、自分にしかできないことをするんだ。それはきっととても価値があって、そして楽しいことだ」
少年は休み時間の教室を思い浮かべていた。そこで談笑し、あるいは文房具を使って遊ぶ友人たち。その中には彼自身の姿もある。だけども、男の言葉によって、その一人一人の周りを薄い壁が取り囲んだような気がした。不鮮明で曖昧に暖かく溶けあっていた友人たちと、急に引き剥がされて隔てられてしまったような気持ちがした。
彼はそれを恐ろしくて寂しいことだと思う反面、肩にのしかかっていた何かが消えていく感覚もあった。
「よかったら、一緒に巣を見に行こうか? すぐそこなんだ」
男は立ち上がって手を差し出す。少年が逡巡していると、男はそのまま手を伸ばして少年の手を取り、「きっと楽しいよ」と微笑んで軽く持ち上げた。厚手の手袋は体温を通さないのかひんやりと冷えていて、その奥には固くがっしりとした感触があり、冷たい缶ジュースを手に持ったときのような心地よさを感じる。少年は手を引かれるままに、小さく頷いて立ち上がった。
雑音だった蝉の音は途端に風物詩となり、一人の寂しさが独占の特別感に変貌する。熱いだけの淡泊な夏に彩が加えられる期待で、少年は胸が高鳴るのを感じていた。
二人が公園を出ていく。日光が滴った汗のあとを消し去り、温い風が淡い足跡たちをかき消してしまう。ベンチの下、弁当箱から零れ落ちた土まみれの卵焼きだけが、頑として少年の痕跡を主張していた。
◇◇◇
十メートル四方の部屋は静まり返り、無機質な照明を合成樹脂の塗り床が冷たく照り返す。中央では、二人の男が睨み合っていた。
一方は、首元に黒いチョーカーをつけたやや小柄な男。軽くもちあげられたグレーの前髪が、小刻みにステップを刻む男に合わせ、ゆらゆらと揺れている。その射刺すような視線に反して、男の口角は僅かに上がっていた。
それに相対するは、対照的に大柄な男。その構えは不動であり、短く切り揃えられた黒髪にも一切の揺らぎはない。首筋には巻き付くように黒い痣が見える。口を一文字に結んで、目を見開き、じっと相手の動きを見定めるようだった。
「熊原くまばらぁ、相変わらず消極的だな」
口を開き、動き出したのは小柄な男──名を白鹿はっかという──だった。彼は小さく跳ね、ぐいと右足を曲げる。熊原と呼ばれた男は、冷静に胸の位置に腕を構えた。案の定、続いて繰り出された薙ぐような蹴りは丸太のような前腕に受け止められる。
今度は熊原が白鹿に両手で掴みかかる。しかし、一瞬の笑みを残像として残し、彼の姿が消えた。代わりに、ガードの解けた顔面に、かかとを上にした蹴りが飛び込んでくる。熊原の掴みを見越していたのだろう。白鹿は半回転して背を向けながら素早くに腰を下ろし、さらにそこから手をついて後ろ蹴りを繰り出していた。全身を連動させた蹴りの速度はすさまじく、当たれば鼻の軟骨などひとたまりもないだろう。しかし熊原は何とか一歩引き、ぎりぎり眼前で止まった足首を左手で取って、ぐいと引っ張った。
白鹿は態勢を崩されまいと、腕で上体を押し上げながら体を捻って立ち上がるが、熊原は回転する足首をうまく手の内で滑らせて離さず、そのまま顔面へ右ストレートを放つ。直撃すれば明らかに無事では済まない。白鹿はなんとか上体を逸らしてその砲弾のような拳を回避する。そして今度は勢いそのままに地面を蹴って、突き出された腕に足で組み付いた。さすがの熊原もこれにはたまらず手を離してよろめく。
白鹿は素早く絡みつけていた脚を解いて着地、姿勢を落とし、足払いで熊原を転倒させた。そのまま彼の首に、横から膝絞をかける。
「これで終わ……うおっ!?」
ぐっと脚が上に引っ張られる。熊原が、首に白鹿の脚を巻きつけたまま無理やり立ち上がろうとしていた。
想定外の蛮行に驚きつつも咄嗟に脚を解こうとするが、熊原の大きな手は両の足首を挟んでそれを許さない。そのまま白鹿は、熊原に肩で担がれるような形で持ち上げられた。なすすべもない白鹿の額に、熊原は容赦のないでこぴんを浴びせる。
「痛ってぇ!」
両手で額を抑える白鹿を、熊原はゆっくりと下ろしてやる。
「白鹿、君はやっぱり詰めが甘いね」
「首極められても立ち上がる方がおかしいだろ!」
「ははは、おかげさまで首は強いんだよ」
白鹿がぶつぶつと不平を零しながら立ち上がったところで、訓練室の扉が開き、一人の青年が入ってくる。身長は白鹿よりもさらに小さく、顔つきもどこか幼い。この場所にいなければ少年と見間違えられることもあるだろう。その少年性を隠すように、青年は白シャツに黒のスラックスというオフィススタイルに身を包んでいて、右の人差し指には指輪のように茨の刺青が入っていた。青年は数度手拍子を打って二人の注意を引く。
「はいはい、訓練も程度を弁えてくださいね。怪我されちゃたまんないんで」
呆れたような物言いが癇に障ったのか、白鹿は意地の悪い笑みを浮かべながら青年に詰め寄る。
「鼡井淵そいぶちもやるかぁ? 今なら手加減してやってもいいぞ」
「遠慮しときますよ。あなたを怪我させたら僕が怒られるんですから」
「おー? 言うじゃねえか。お前なんか俺に──」
ごつん、と鈍い音が響き、白鹿が頭を押さえてうずくまる。熊原がしかめっ面で、その大きな拳を握りしめていた。
「──ッ! 何すんだよ!」
熊原が黙って白鹿を睨みつけると、悪かったよ、と白鹿はバツの悪そうにそっぽを向く。
熊原は片目を細めて「痛そー」と口を動かす青年──鼡井淵に、優しく微笑んだ。
「ごめんね鼡井くん。さっき負けたせいでイライラしているんです、この馬鹿は」
「ええ、はあ。いや、僕も喧嘩を買っちゃったので……」
「気にしないでいいですよ。それで、突然どうしたんですか? 訓練に来たわけではないですよね?」
「はい。"犬憑き"指名で、緊急で任務が入ったので、お知らせしに来たんです。とりあえず概要だけでもここで確認しますか?」
"犬憑き"、この三人が所属する小さなチームの通称だ。いつからそう呼ばれるようになったのか、自称か他称かも曖昧だが、大抵の人間は彼らのことをそう呼んでいた。長い正式名称日本支部第15特殊排除作戦分遣隊は改まった文書の中でしか使われず、白鹿に至っては記憶が曖昧でよく間違える始末である。
提案に熊原が頷くと、鼡井淵は手に提げていたブリーフケースから二つのタブレットを取り出し、彼らに手渡した。タブレットのロックを解除すると、作戦の概要と資料が表示される。画面をスクロールしながら、最初に顔を上げたのは熊原だった。
「なるほど、誘拐被害者の救出任務ですか」
「はい。救出対象は菅野光希くん、研究部門職員の息子さんです。事件が起こるまでは母親と一緒に一般社会で暮らしていました」
「つまり、昼の住人ってことですね」
「そういうことです。彼らは我々財団どころか、超常コミュニティーについて全くの無知です」
「それなのにこちらの世界に巻き込まれてしまうなんて──」
資料を眺めながら、熊原は悲しげに眉を顰めた。写真の中の少年は屈託のない笑みを浮かべ、こちらにピースサインを向けている。背景から察するに、おそらくは昼頃の公園。休日、家族で遊びに行ったのだろう。なんということはない。ありふれた日常の光景だ。プロフィールもさっと確認するが、特筆すべき情報はない。素行も良好。そんな何の瑕疵もなく光の中を生きていた少年が、父親の仕事のせいで、突然闇へと引き込まれた。
「事件が起きたのは2日前の夕方ごろ。目標は下校途中一人になったタイミングで誘拐されたものと考えられています。その後財団の調査によって、要注意人物の関与が明らかになりました。次のページを」
端末をスクロールすると、髭面の男の写真が表示される。目元には隈があって、不健康に痩せ細っている。典型的な研究者の見た目といっていいだろう。結婚歴はあるが、子供が生まれてすぐに離婚している。財団が確認した時点では、異常能力や現実改変の類は保有していないようだ。
「四宮健吾しのみや けんご、かつてニッソに所属していた研究者です。専門は人体改造、特に他の生物の機能を追加する人体のキマイラ化でした。財団は既に数体、彼が作成した異常存在を収容しています」
「なんか、やけに情報が詳しいじゃねえか?」
さらに資料を読み進めると、交友関係や基本的なプロフィール、経歴の他に、声の録音やニッソ在籍時の研究記録等まで添付されていた。野放しになっている要注意人物の情報といえば基本ほとんど空欄になるようなものだが、今回に限ってはあまりに充実していた。
「確保したオブジェクトやニッソの人員を通して財団も以前から情報を収集していましたが、加えて、特事からも情報提供があったんです」
「特事だって? 公安のか?」
「そうです。四宮は以前にも一件の誘拐事件への関与が疑われていたようで、特事が独自に調査を行っていたみたいですね。ただ、逮捕には至らなかったようです。あとの情報は放棄されたニッソの施設から発見したものをこちらでまとめました」
財団が持たない情報を特事が蓄えていることに、白鹿は素直に驚く。地道な聞き込みや一般市民が関係するような事件の場合、やはり警察組織のコネクションが役に立つのかもしれない。
「鼡井くん、いつも仕事が早くて助かります。ところで一つ確認してもいいですか?」
「はい。もちろんです」
「私たちに担当が回されたということは、このPoIは"確保"する必要がないということですね?」
財団は確保・収容・保護と高々に掲げるものの、財団はホテルではなく、またその部屋数は有限だ。
どこの組織にも当てはまることだが、理念には限界があり、その矛盾を処理する者が必ずいる。大抵彼らは汚れ役と呼ばれ忌避されることになるのだが、"犬憑き"はまさにその汚れ役であった。
彼らの主任務は収容価値の低い存在──特に人型実体やPoI──の排除、殺害だ。もちろんそれ以外にも他部隊のサポートや非戦闘チームの護衛に投入されることはあるものの、基本的には、価値のない迷惑客をあらかじめ排除し、空き部屋を空き部屋にしておくことが、彼らの仕事だった。
「そういうことです。四宮は単純に利用価値がほとんどありません。技術の方は既に確保された実体と回収した記録で何とかなりますし、特段珍しい技術を用いているわけではないことがわかっています。ニッソでも地位は高くなかったようですから、情報源にも交渉材料にもなりません」
上も酷な判断をするもんだな、と白鹿は苦笑いして資料を読み進める。財団が知る限り、四宮本人に異常は認められていない。元々戦闘員でもなかったようだ。だがそれだけでは、彼らがわざわざ呼ばれることもないだろう。
「敵がその四宮一人ってわけじゃないよな?」
「当然です。ニッソから回収した資料によると、四宮が作成した実体の内、二体を財団は確保できていません。現場や周辺に残った痕跡から、これらは四宮と行動を共にしているとみていいでしょう。──あ、ちょうど請求してた資料が届いたんで、転送しますね」
熊原は頷きながら敵の詳細を確認する。トラとアルマジロをベースにした人型のキメラが一体ずつ。フィジカル面での強化はあるが、そこまで厄介な異常ではないという印象だった。
「これならそんなに複雑な作戦にはならなさそうですね。実行日はいつですか?」
「救出任務なので、可能な限り早い方がいいでしょう。お二人の準備もあると思うので、上に掛け合えばある程度の猶予は用意できると思いますが」
「鼡井くんの方の準備は大丈夫ですか?」
「まあ今回はそんなにやることないですからね。今夜にでも行けますよ」
「じゃあ今夜だな。そうと決まれば、さっさと準備するぞ」
勝手に決定した白鹿は、鼡井淵の肩をポンと叩き、大股で意気揚々と出口へ向かう。残された二人は呆れた様子で肩を竦めた。
「まったく、調子のいい人ですね」
「昔はもっと丁寧な奴だったんですよ。最近はあんまり仕事がなかったから、張り切ってるだけかもしれないですけど」
「張り切るのは良いとして、こっちの苦労も察して欲しいものですが」
「ははは、そうですね。お仕事が早くて助かってますよ。鼡井くん、いつもありがとう」
先に行ってますね、と鼡井淵の頭を優しく撫でてから、熊原も部屋を出ていく。
「んもう、調子狂うなあ……」
鼡井淵は撫でられた頭に軽く触れて小さく頬を膨らませ、修練場を後にする。残された小さなため息が静かな部屋に漂い、そして吸い込まれていった。
◇◇◇
菅野光希は薄暗い部屋で目を覚ました。腕と足を縛られていて、立ち上がることができない。見たことのない白く汚れた天井。首を捻れば、横には薄い緑色のプラスチックの壁。
「おや、目を覚ましたかい」
コツコツと足音が近づいてくる。足音の方を見ようとして壁の反対へ振り返り、少年は自分のいる場所が椅子の上であることに気が付いた。
部屋には何列か椅子が並んでいて、そのうちの一列に少年は寝かされているのだ。壁だと思っていたのはその背もたれで、少年の視界を制限するように不気味に並んでいる。
並んだ椅子の向こうから、白衣の下にタートルネックを来た髭面の男がぬるりと現れた。その瞬間、少年は意識を失う直前の記憶を取り戻す。
公園でこの男に会ったあと、少年は男と共に近くにあった林に入った。そこでモグラの巣穴を見つけたのだが、よく観察しようと屈んだ瞬間、少年は首筋に何かが刺さるのを感じ、急激に眠くなったのを覚えている。それ以降の記憶はない。
──僕は、攫われたんだ。
全身から血の気が引き、体温がすっと下がった気がした。不安が喉元にこみ上げ、情けない泣き声となって漏れ出してしまう。少年は半ばパニックになって、縛られたまま激しく暴れるが、そのせいで埃まみれの床に落ちてしまった。少年の顔を覗き込んで、男は困ったように笑う。
「こらこら、そんなに暴れたら怪我をするよ。タイガ、アルマ、手伝ってくれ!」
男が手を叩くと、どこからともなく二つの人影が現れて、肩と足を持ち上げ、少年を椅子の上に戻した。
その二つの姿をみて、少年は絶句する。それは戦隊モノでみる怪人そのものだった。一体は人の体に虎の毛を生やし、そして虎の頭をくっつけたような姿で、鋭い爪と牙を備えている。
もう一体はもっと奇怪な風体で、体には薄茶色の体毛がびっしりと生えていたが、顔は前方にとがっていて、額と頭はひび割れたグラウンドのような鱗で覆われていた。体の幅は異様に広く、背中は額と同じ鱗で出来た、大きな甲羅のようなものに覆われているようだった。
「よしよし、偉いぞ」
男は暖かく微笑みながら、犬を可愛がるように二体の頭を撫でてやる。すると彼らは、満足したように唸り声をあげて少年の視界から消えていった。
ただでさえ誘拐されて混乱しているというのに、突如突き付けられた非現実的な存在。少年の処理能力はすでに限界を迎え、すべてが夢であるような気持ちになり始めていた。
「彼らはね、坊やにも分かるように言うと、改造人間なんだ。でも突然襲ったりはしないから、安心してほしい」
こみ上げる不安に抗えず、少年は震える声で問う。
「あの、僕も、改造されるんですか?」
「おお、それもいいね。迷うなぁ。もともとは殺すつもりだったんだけど」
何でもないかのように男が発した、殺すという言葉。淡々と使われるからこそ、それが冗談でないことは明白だった。少年の手足を縛る縄、固い椅子の感触、埃臭さのすべてが重さを取り戻し、再び少年に逃れられない現実を突きつける。少年は不安と恐怖に押しつぶされて、声を発することもままならない。
「とにかく、ここにいる間は暴れないこと。静かにすること。逃げないこと。これは返してあげるから。いいね?」
男はそれが防犯ブザーだと知らずに、少年にセミのキーホルダーを渡した。どちらにせよ、ここで大きな音を鳴らしたとて、助けは期待できないだろう。それでもそれは、少しばかり少年を落ち着かせる効果があった。
少年がキーホルダーを握って頷くと、男は優しく微笑んで、異形たちにしたのと同じように少年の頭を撫でた。
「うん。偉いね。約束を破ったら殺さないといけないから、ちゃんと守るんだよ」
それだけ伝えて、男はまた少年のもとを去っていく。少年はこれ以上恐ろしいものを見ないよう、息を押し殺し、固く目を瞑った。
◇◇◇
森は暗さに沈んでいた。日中けたたましく喚いていた蝉どもも、今となってはすっかり鳴りを潜めている。夜は獣の時間で、日中を謳歌するにものたちにとってはあまりに無秩序だった。風が吹けば木の枝が擦れ合って嗤い、その声に紛れて餌を求める獣たちが落ち葉を踏み荒らす。どこへ行ってもカケスたちの咳き込みから逃げることはできない。病と悪意と死がそこら中に隠れていて、一歩間違えれば足を掬われてしまう。その不気味さに月も影を纏って逃げてしまった。見守る者を失った、新月の夜である。
森の高台に囲まれ窪んだ場所に、控えめに光を放つ建物が一軒ある。ずいぶん前に廃れた小さな病院だ。正面入口は開いたままで、点滅する古びた白熱灯の光はそこから漏れていた。ただし比較的明るいのは正面だけで、一階と二階の窓は何かに遮られているための中を伺うことはできない。入り口前には十字路があり、左右は途中で直角に曲がって裏手まで続いていた。
「裏口は無理なんだよな?」
廃病院から離れた茂みで、望遠鏡を構えた白鹿が問うた。
「ああ、事前調査で無理やり塞がれているのが確認されている。窓も塞がれているから、大人しく正面から入るしかないな」
熊原は手元で箱型探知装置を調整しながら答えた。段取りの確認を終えじっと時を待つ二人の上空を、一羽のフクロウが颯爽と通り過ぎて行く。特殊なカーボン素材で構成された財団謹製のタクティカルスーツは、二人を井戸底のような黒で包み、フクロウの視覚もそれを捉えるのは困難だろう。機動性と隠密性のために装備は最低限だ。
白鹿は腰に二丁の拳銃と、二本のナイフを装備している。一方の熊原は腰に拳銃一丁といくつかの小さなツールを巻き付け、背中には小銃を抱えている。また彼のグローブはナックルダスターや鉄貫の如く、右手には斧の如き重厚な刃、左手には太く鋭い五本の棘を備えていた。もちろん、これらの装備のどれもが黒く塗りつぶされ、闇に溶け込んでいる。やがて通信用のイヤホンから、ジジジ、とノイズが走った。
「こちら鼡井淵。通信に問題はありませんか」
鼡井淵は離れた地点で脱出用の車両と共に待機している。また、現場での指揮も彼の役目だった。
「こちら白鹿。通信は良好。熊原と共に現在作戦開始位置で待機中だ」
「了解です。ではこれより作戦の最終確認を行います。今回の主目標は光希少年の救出。副次的目標は四宮及び関連する異常存在の排除です。救出目標の安全のため、隠密での潜入を基本とします」
「ああ、事前確認の通り、目標の救出以前は接敵時は可能な限り無音での無力化を試みる。侵入経路は正面入口で問題ないか?」
「はい。侵入可能な経路は正面入口のみです。なので、正面入口はおそらく敵戦力が配置されていると予想されます。侵入前には振動探知装置を用いて索敵を試みてください。他に確認事項はありますか?」
「いいや、問題ない」
「では現時刻をもって作戦を開始します。幸運を。そして──」
無線越しに、鼡井淵は小さく息を吸い込み、呪文を唱える。
「おまわりだ、犬憑きども。まわれ!Turn, Haunting Hounds. Turn!」
作戦の開始を告げる決まり文句は、白鹿と熊原の目を大きく開き、その瞳を生気で満たして、バラクラバに隠された口角を歪に持ち上げる。風は一層強まり、二匹の犬の昂った鼓動の音をかき消していく。
夜の闇に紛れ、白鹿と熊原は二手に分かれて廃病院へと忍び寄る。ちょうど正面入口を左右から挟むような形で展開し、外壁まで到達したところで、熊原は箱型の索敵装置を設置した。受動的振動探知のために広範囲の索敵は不可能だが、近距離であれば壁を通して屋内の敵の位置を把握できる。
設置からしばらくすると、探知の結果が室内図面と共に装置に表示された。結果は白鹿のゴーグルにも映し出される。鼡井淵の予測通り、入口付近に二体の動体反応があり、エントランスホールを間をあけて時計回りに巡回しているようだった。一階にそのほかの反応はない。問題は、この二体をどう処理するか。
『俺が先に突入する』
ハンドサインで白鹿がそう伝えると、熊原は異論なしと首肯した。白鹿は、片手にナイフを構えて足に力を込め、ゴーグルに表示される敵の位置を注意深く見守る。
先を歩く一体が、向こうから正面入口前へと近づいてきた。まだ、白鹿は動かない。やがてその一体がすぐ近くまでやってくる。だが、まだ早い。先の一体が通り過ぎ、次の一体が正面入口前に差し掛かる──ここだ。
白鹿が地を蹴り、病院内に飛び込む。目の前にはサーベルタイガーのように鋭い牙を露出させた、虎の顔を持つ人型のキメラ。その喉仏に旋回しながら肘打ちを喰らわせた。めり込ませるような音のない一撃。虎は目を見開くが、声を出すことができない。
白鹿は虎への追撃をせず、先を歩く一体へ背後から接近する。背中から後頭部をアルマジロの硬い装甲で覆われたその人型は、まだ白鹿の侵入に気付けていない。
白鹿は後ろからその装甲の途切れる頭頂部を左手で掴み、アルマジロが反応する前に柔らかな皮膚が露出した喉をナイフで掻き切った。異形の身体は硬直し、気管からは空気が漏れ出て、声帯を震わすことも叶わない。次いで、左手を強く引っ張りながら異形の足を払う。後ろに倒れ込む異形の体重を上体で受け止めると、ナイフで胸から腹部にかけてを一撫でし、その凹凸でおおよその骨の位置を確認。そして間髪あけず、その隙間たちへナイフを何度も振り下ろした。黒いナイフはまるで実体を持たない影のようになんの抵抗も体に吸い込まれていく。その一振りのたびに異形の体がびくりと揺れ、裂けた喉から漏れ出る空気が掠れた音を微かに立てた。それを白鹿は耳元で聞き、ゴーグルの奥で目を細めた。
その背後では、態勢を立て直した虎の異形が白鹿をねめつけていた。当の白鹿は後ろを気にすることもなく、ゆっくりとアルマジロの死体を床に倒している最中だ。
虎はその首筋を噛み砕かんと、静かに一歩、また一歩と近づき、とうとう白鹿の背後に立った。異形は口をかっぴらこうと顎に力を込める──しかし、口は開かない。
前方に突き出したネコ科の特有の口元は、何かに包まれ、抑え込まれていた。いつの間にか背後に立っていた大男が、片手で異形の口を塞いでいたのだ。抵抗しようとするも、いつの間にかもう片方の腕が抱きしめるように体に回されていて、動くこともままならない。
やがて異形は自身の首元で、ごきっと何かが壊れ、外れる音を聞いた。そうして、見ることができないはずの、後ろに立つ男の顔を見た。口元の黒布が左右に引き延ばされてできた深い皺を見た。異形の意識が薄れていく。それは大男に支えられながら、ゆっくりと崩れ落ちた。
白鹿は倒れた異形の服でナイフを拭って腰に戻し、周囲を見渡す。
青白く点滅する白熱灯に、規則正しく並べられた朽ちかけの椅子たちが照らされている。足元には埃が積もっていて、数多の足跡が刻まれていた。熊原が異形たちの獣めいた足跡の中に、人間の靴のものを発見する。大きさから察するに、四宮のものだろう。その靴跡は二階へ続く階段へと延びていた。二人は小さく頷きあって、白鹿を先頭に階段を上る。
二階は長い廊下が伸びていて、廊下の両端にはスライド式の扉が並んでいる。向かい合わせの一対が八つ並んでいるので、突き当りの部屋を除けば合計十六の部屋があった。
廊下の照明は辛うじて生きていて、ナイトヴィジョンの必要はなさそうだ。おそらく、この部屋のどこかに救出目標が閉じ込められている。──それと、四宮も。
目標の安全を考えるのであれば、四宮に見つからずに目標を発見するのがベストだろう。それぞれの部屋は消灯されているが、廊下の突き当りにある部屋からは明かりが漏れ出ていた。四宮がいるとすれば、あの部屋か。
白鹿は一番近い扉に近付いて、ゆっくりと引く。幸い扉は静かに動いた。中は六人用の病室で、人の気配はない。
二人はまた次の部屋に向かうが、誰にも使われないベッドが朽ち果てるのを待っているだけで、そこにも目標の姿はなかった。こうして虱潰しに部屋を確認するたび、どんどん突き当りの部屋が近づいてくる。残りは十四部屋。次いで、十三、十二、十一、そして十。まだ見つからない。
二人は最悪のケース──四宮が目標と同じ部屋にいるときのことを想定する。目標を人質に取られれば、一気に行動が制限されてしまう。
残り九、八。突き当りの部屋が近づき、そこからガタガタと物音が聞こえる。七、ずっと同じような病室だ。六、代わり映えのない景色が続く。五、ここもまた同じ──いや。
白鹿と熊原は目を合わせる。二人の鼻が、枯れた生臭さを感じ取った。乾いた人の血の臭いだ。
扉をゆっくりと閉じ、地面を照らす。人が行き来した足跡が微かに残っている。白鹿がその足跡を追うと、一つのベッドに辿り着いた。一つだけマットレスが引き剥がされ骨組みだけになっていて、周囲も掃除をしたように埃が取り払われていた。白鹿はライトをあて、その骨組みをよく観察する。すると、わずかに黒い汚れがこびりついているのが見て取れた。拭いきれなかった血の跡が、黒く変色したものだ。白鹿の表情は険しくなる。目標は無事なのか?
白鹿が顔を上げると、熊原が部屋の隅に立っていた。その目の前には、大きなロッカー。ちょうど大人ひとりが入れそうな大きさだ。この周辺にも足跡が残っている。熊原は白鹿とアイコンタクトを取ると、その扉に手をかける。しかし、開かない。鍵がかかっている。
『少し時間をくれ』
そうハンドサインで伝え、熊原は腰から棒状のピッキングツールを取り出す。その瞬間、部屋の外で勢いよく扉が開く音がした。
「タイガ、アルマ、ごはんの時間だぞ!」
四宮の声だ。おそらく一階にいた二体の人型に呼び掛けているのだろう。当然だが、反応は返ってこない。
「タイガ! アルマ!」
四宮はもう一度呼びかける。しかし返ってくるのは、院内で空しく反響する男の声だけだ。しばらくの無言の後、男が小さく唸るのが聞こえる。
「うん。そうか……」
二人の間に緊張が走る。様子を確認しに行くでもなく、何かを察したような言葉。その意味を伝えるように、足音がこちらへと近づいてくる。
熊原はピッキングの手を止めない。代わりに白鹿は彼の背中から小銃を取って、熊原と扉を結ぶ直線上に陣取った。
コツコツと、居場所を隠す気もない軽快な音がすぐそこまで迫る。このペースだと、おそらく解錠より先に四宮はここに辿り着くだろう。白鹿は呼吸を落ち着け、セレクタレバーを直角に起こして銃を構える。
部屋の前で足音が止まる。ちょうど白鹿の後ろで、カチッとロッカーの鍵が開く音がした。それに合わせるように、病室の扉が揺れ──
ガシャン! 突然突き当りの部屋の方面から、ガラスの割れたような音が響く。次いで、何か重いものが落ちるような低い音。
「ああクソ、しまった!」
四宮の焦ったような声がして、足音は遠ざかっていった。しばらくして、また何かが落ちるような音。
白鹿は小さく息を吐いて、セーフティーを戻し、銃を降ろした。そうして振り返る。熊原がロッカーをあけると、中には少年がいた。菅野光希で間違いない。縛られてはいるが目立った外傷はなく、呼吸もしている。眠っているようだった。
熊原が少年の肩を揺らすと、少年はゆっくりと目を開いた。すぐさま熊原は口の前で人差し指を立て、縄を切りながら小さな声で語り掛ける。
「何か変なことはされなかったかい?」
少年は首を横に振る。その手が何かを握りしめていることに、熊原が気付いた。
「その手の中身は?」
少年が手を開くと、小さなセミのキーホルダーが現れる。熊原が受け取ろうと手を差し出すと、少年はそれを拒否するように首を振った。熊原が困ったように首を傾げてもう一度手を差し出そうとするが、白鹿はポンと熊原の肩を叩く。
「大切なものなんだな。しっかり持っていろよ」
『危険物だったらどうするんだ』、そう目線で抗議する熊原に、白鹿は『変に奪って騒がれても厄介だろ?』と肩を竦めて返した。白鹿は熊原に小銃を返し、熊原は鼡井淵に目標の確保を連絡する。何はともあれ、あとは少年を連れて帰還するだけだ。
熊原が小銃を構え、扉の前に立つ。その後ろに少年、白鹿が続く。三人は耳をそばだてるが、廊下から物音はしない。
まずは熊原が飛び出し、周囲の状況を確認。階段までの扉はすべて閉まっていて、急襲の心配はなさそうだった。今度は白鹿が先頭、熊原がしんがりを務め、少年を挟むように階段へと向かう。白鹿は階下を確認するが、四宮はいない。白鹿と熊原はポジションを入れ替え、熊原が階下へと歩みを進める。正面入口はすぐそこだ。
「ああ、お前たちのせいで散々だよ」
三人が階段を下りきったところで、正面入口の外から声がした。少年はとっさに白鹿の後ろに身を隠す。白鹿は拳銃を、熊原は小銃を構え、暗闇へと向ける。
「耳を塞いどきな」
白鹿の指示に従って、少年は下を向いて両手で耳を覆う。
暗闇からぬっと白衣を来た男が現れ、その胡散臭い髭面が見えた瞬間、熊原が引き金を引いた。サプレッサーによって魂を抜かれた軽く高い連射音が響き、周囲に排ガスのような不快なにおいを伴う硝煙が滞留する。力の流れを把握しリコイルを制御した正確な連射は、靄の向こうで男の正中線を捉え、彼はそのまま後ろに倒れ込んだ。
その様子をみた少年が不安げに口を開こうとするが、白鹿をそれを片手で制止する。
「これだから制式化されるようなのは信頼できねえんだ」
白鹿は素早く構えていた拳銃を腰に戻し、もう一丁を手に取った。先ほどの現代的な拳銃とは程遠い、古めかしい上下二連銃身中折式のデリンジャーだ。倒れた男は動かないが、熊原も白鹿も銃を構えてそれを睨みつけるだけで、身じろぎ一つしない。
「ふん、やっぱり財団の犬は鼻が利くな。死んだふりじゃ誤魔化せないか」
しばらくの無音ののち、四宮が何事もなかったかのように、むくりと立ち上がった。顔の皮膚が裂け、肉の代わりに金属光沢をもった黒い鱗が覗いている。ボロボロに破れた衣服がはだけて落ちると、鎧のように全身を黒い鱗で覆われたその姿が露わになった。それを見て、白鹿は熊原に耳打ちする。
「熊原、行けると思うか?」
「いや、ここは安全を取ったほうがいい」
四宮は余裕そうな笑みを浮かべながら、一歩、また一歩と緩慢にこちらへ近づいてくる。
「僕の大切な子供たちをこんなにして、酷いじゃないか」
軽薄な言葉に耳を貸さず、熊原は再び引き金を引いた。しかし甲高い衝突音が鳴るばかりで、男は全く動じない。熊原はそれを確認すると、もはや動きの邪魔にしかならない小銃を後方へ投げ捨てる。
「効かない効かない! この金属製の鱗に銃弾なんて通るわけがない。見ればわかると思うんだがなぁ?」
白鹿は少年の前に立ち、そして拳銃で四宮の腹部に狙いを定めた。
「おお、年代物かな? でもアサルトライフルが効かない相手に、そんなおもちゃが──」
突如響く爆発音。発砲音というにはあまりに野蛮。少なくともデリンジャーが発するようなものではなかった。銃口から飛び出した.45-70の強装弾が、その銅のコーティングに光を反射させながら飛行し、まっすぐに四宮の腹部に到達する。接触の瞬間弾頭が潰れ、衝撃は余すことなく体内へと伝えられる。
「ぐっ、うおっ」
鱗に損傷こそなかったが、予期しない衝撃と痛みに四宮は腹を抑え、膝をついた。M-4 Alaskan Survival。デリンジャーで熊を撃つなんて馬鹿げたコンセプトの銃だが、だからこそ白鹿はこの銃を気に入っていたし、何より慢心した化け物にはよく効いた。白鹿はそれを熊原に投げ渡し、熊原は自分の拳銃を捨ててそれをホルスターに納める。
「預ける! 大事に使えよ!」
「結局整備するのは俺だろう!」
熊原は拳を握りしめて前進し、四宮の横っ面に強烈な左を喰らわせる。もちろん銃ほどの威力はなく、拳に付けられた五本の円錐も金属の鱗に阻まれて敵を突き刺すには至らないが、それでも重心の偏りを的確に突く打撃によって四宮はバランスを崩し、横にある椅子へと倒れ込んだ。
白鹿はひょいと少年を抱えると、椅子の上を軽やかに飛び跳ねて四宮の横を抜け、正面入口へとたどり着く。
「あとは任せたぞ!」
白鹿はそれだけ言い残して、背負った少年と共に夜の闇へと溶けていった。そうして、エントランスには二人が残される。
「ああ、痛い、痛いなあ」
熊原が数歩後退し様子を見ていると、ゆらりと四宮が立ち上がった。顔に張り付いていた皮膚は上半分しか残っていない。彼の鱗に覆われた口角は釣り上がって、白い歯が覗いていた。
「でも、痛いだけだ。効いちゃいない。全くもって効かないじゃないか。クッククッ、ハッハッハ──」
目元を抑えて天を仰ぎ心底愉快そうに笑う四宮へ、熊原は語りかける。
「どうしてこんなことをした?」
ひとしきり笑い終えて、四宮は答える。
「やっとまともに口をきいてくれたな。嬉しいよ。それとも足止めのつもりかい?」
四宮の視線が熊原の冷たい眼に向けられるが、熊原は答えを返さない。ふっと、四宮の表情から笑みが消えた。
「先に奪ったのはお前たちだ」
「お前が作ったオブジェクトの話か?」
熊原は床に倒れ伏している二体のキメラに目を遣る。財団は四宮が作成したオブジェクトを他にも収容しているという。作成したオブジェクトを奪われたことの復讐と考えると、話の筋が通りそうだ。しかし、彼は不快そうに目を細め、首を振る。
「それだけじゃない!」
みるみる内に男の瞳孔は開き、その周りには赤い血管が浮き上がる。相手の興奮を察知して、熊原は逆に深く、静かに息を吸った。
「お前たちは僕から、明るい未来を奪ったんだ! 順調にいけば今頃昇進して、社内でも認められて、それで幸せに暮らしてた。だがお前らのせいで、ニタニタと笑ってばかりのクソ野郎に先を越されたうえに、ボスにまで見放されたんだよ! 全部お前らが僕の子供たちを奪ったせいだ!」
財団が奴の製作物を確保したことで、成果が認められず、結果昇進もできなかったという理屈だろう。財団に反抗するPoIにありがちな理由だ。唾を飛ばしながら叫ぶ言葉の残響が、カケスたちの咳き込みと不協和音を奏でた。四宮の声がわずかにトーンダウンする。
「だから僕も、お前たちから奪うことにした。僕は悪くない。悪いのはお前たちだ……」
敵は冷静でない方がいい。落ち着き始めた四宮に、熊原は挑発の言葉を投げかけた。
「同情するよ。だが子供は返してもらったし、お前にはここで死んでもらうことになっている」
しかし、四宮は余裕ぶってにたりと笑う。我慢しきれずに漏れ出るようなそれは、単なる慢心ではなく、何か裏に仕掛けがあるとき特有の笑み。熊原はそこに不吉を見た。
「確かに君はタフそうだけど、お荷物の子供とちっこい世話係だけで行かせてよかったのかい?」
「……どういう意味だ?」
「足止めされているのがどっちか、ちゃんと考えたほうがいいってことだよ!」
四宮が前に飛び出し拳を突き出す。それを熊原はそれを下へと受け流し、前のめりに態勢を崩した男の背中に重い肘打ちを見舞った。白熱灯が拍手を送るエントランス。黒曜に包まれた二匹の獣の衝突が、開戦を知らせるように一際甲高い音を響かせる──
◇◇◇
月光の差さない森は、少年が経験したことのない強大な暗闇に満たされていた。
もちろん少年も、日常で真っ暗な中に身を置くことはあるだろう。だが布団に包まっただけならば、体に感じるその重さが外に光のあることを教えてくれる。部屋の電気を消したならば、手に残ったスイッチの感触が、いつでも光を得られることの証左となる。だがいま彼の周りにあるのは、捉えられないほどの延長を持ち、抗う術もない、理不尽な黒だった。自分を背負う男の輪郭さえも曖昧で、男のヘッドライトから照射されるあまりに心許ない光と、背中から伝わる振動だけが前進を知らせる希望だった。
不足した視覚情報を埋めるように、少年の脳は直前に見た光景を再生する。黒い鱗に覆われた男、明らかに息絶えている二人のキメラ。一体は首があり得ない方向にねじ曲がり、もう一体は胸から腹部までを真っ赤に染めていた。少年にも彼らの命を奪ったのは誰か察しが付く。震える唇を動かして、少年は問う。
「あ、あのおじさんは、どうなるんですか?」
白鹿は少年が四宮を恐れているのだろうと考えて、慣れないなりに優しい声で宥めようとする。
「安心しな。もう君には近づかせねえからさ」
「殺しちゃうんですか?」
うわずった声は、白鹿が煙に巻こうとした部分を問い詰める。白鹿も鈍感ではない。どうやら少年が四宮の身を案じているらしいということを瞬時に察し、紡ぐべき言葉を入れ替える。
「──いいや、捕まえるんだよ」
ほんのわずかな間。それを引き起こした何かを説得するように、少年は必死に言葉を選ぶ。
「確かに怖い人だけど、でも悪い人じゃないと思うんです! だから……」
「あの人に、何か言われたのか?」
「……大事なことを、教えてもらいました」
白鹿は足を止め、少しの沈黙のあと「そうか」と呟く。
「わかった。殺さない。だから安心してくれよ。な?」
「……はい」
そのとき、後方から甲高い音が響いた。少年は不安げに振り返るが、木に阻まれて廃病院の様子は見えない。一方白鹿は、それが本格的な戦闘開始を告げるものであることを理解していた。
はやくこの少年を送り届けなければ──そう思いなおして地を蹴ろうとした瞬間、足裏で妙な振動を感じる。
「なんだ!?」
白鹿が反射的に飛び退くと、先ほどまで居た場所から十本の長く鋭い象牙のような突起物が天に向かって伸びた。だが、これで終わりではない。もっと大きな振動が地下から迫っていた。
地面が盛り上がり、そしていとも容易く突き破られる。飛び出したのは二メートルを優に超える巨体。それは勢いのまま中空に浮いた。ヘッドライトがその巨躯を照らす。人型ではあったが、腕と足は異常に発達し、さらにそれでもまだ不釣り合いなほどに大きな手を持っている。各指の先からは、長い爪が生えていた。先に現れた突起物は、この爪だったのだ。衣服は纏っていないが、前身は短い毛に覆われ、それに紛れるように体のいくつかの場所には彼岸花のように開いたひだがついていた。顔はというと全部がそのひだに覆われていて、そのほかのパーツはみることもできない。
それが着地すると、その衝撃で地が細かく揺れる。もし一秒でも白鹿の退避が遅れていたのなら、爪に貫かれ、巨体による運動エネルギーでぐちゃぐちゃにされていただろう。
「モグラだ──」
少年の声をかき消すように、異形は雄たけびをあげ、その巨大な爪を振りかぶった。
◇◇◇
熊原の耳は、遠くに地響きのような鈍い音を捉えた。思わず気を取られそうになるが、すぐに意識を前方に戻し、顔に飛び込んでくる蹴りを軽く払う。四宮は一歩引いて、薄ら笑いを浮かべた。
「始まったようだね」
目の前の男の余裕、特事課が追っていたという誘拐事件、少年が閉じ込められていた病室で白鹿が見つけた古い血痕、そしてガラスの割れる音と落下音。それぞれの情報が結びつき、熊原は瞬時に状況を理解する。
「……もう一匹用意していたのか」
「ニッソを抜けた後に作ったんだ。お前らみたいにコソコソと影に潜り、そして見境なく不合理な膂力を振り回す。いうことも聞かず、こちらの都合なんて考えない、まさに傑作さ。さっき逃げられたときはどうなるかと思ったけど、上手い具合に暴れてくれているみたいでよかったよ」
よく喋るやつだ、と熊原は眉を顰める。四宮の攻撃は遅く、対処自体は容易だった。金属製の鱗はかなりの重量で、そのために動きが制限されているのだろう。ただ一方でその鱗のためにこちらの攻撃も通らない。銃弾を受けてもぴんぴんしていることを考えると、外殻だけでなく体内にも手を加えているようだ。
「でも二対一だとさすがに分が悪いからね。君にはあのチビが死ぬまでこっちに付き合ってもらうよ!」
四宮は深く腰を下ろし、そこから膝をばねのように伸ばして突進してくる。鎧に絶対の自信があるからこそ可能な、防御もカウンターも無視した粗暴な突撃。熊原は両手を突き出し、それを捉えた。そしてそれを力で押しとどめるのではなく、むしろ上体を脱力し、両手にかかる抵抗をわずかばかり左下に押し下げる。腕にかかる重さで、相手の体の重心がわずかにぶれるのがわかる。あとは自身を歯車のように回し、勢いのベクトルを体幹の耐えられない外側へ逸らしてやる──
「──!」
体を捩じりながら、かかとに何かがぶつかるのを感じた。見えていなかった椅子の土台が、足の動きを阻害する。
熊原は咄嗟に、抜いていた力を再び上体に込め直し、四宮の体を腕で押し出して、その反動で背中側へ大きく飛んだ。四宮は並んだ椅子に突っ込むが、椅子を構成するプラスチックの割れる音がけたたましく響くのみで、四宮にダメージが入った様子はない。
環境がどうにも悪かった。並んだ椅子は壊れたり一部撤去されたりして均一ではなく、放棄された棚、壊れて凹んだ床など邪魔になるものが多い。ちょうど今のように見落としていたものに動きを妨害される可能性があるうえ、万が一吹き飛ばされたときに、こうも物が多いと受け身も失敗しかねない。四宮が装甲によってこの危険を無視できる分、ここで戦うのは熊原にとって一方的に不利な状況だ。
ここは場所を移動するのが得策だろう──そう熊原は考え、四宮と正面入口を結ぶ直線上に、右手を前で構えて立つ。
「動きが覚束ないけど大丈夫かなぁ?」
四宮が嘲りながら立ち上がり、再び飛び込んでくる。熊原はそれをぎりぎりまで引き付け、構えた右手で首根っこを掴んだ。そのまま勢いを殺さないように後ろに倒れ、四宮の腹を蹴り上げる。巴投げだ。強烈かつ直線的なエネルギーは回転に変換され、四宮は受け身もとれずに正面入口まで転がっていく。
熊原はすぐさま距離を詰め、立ち上がろうと両手をついて四つん這いになった男の後頭部に拳を振り下ろす。叩きつけられた四宮の額が劣化した床にひびを入れ、そのままバウンドして上を向く。不愉快そうに細められた目と熊原の視線が交差する。
「鬱陶しいな! 効かないといっているだろ!」
「その割には首が座ってないみたいだな」
熊原の蹴り上げが四宮の顎を捉える。たまらず四宮は仰け反り、廃病院の外へと転がり出た。
足に残る感触で熊原は確信する。四宮は拡張された筋力で無理やり重い体を操っているが、完全に制御できているわけではない。体の芯が安定せずすぐに態勢を崩すし、関節周りに無用な負荷がかかりすぎている。ここなら破壊できる。
熊原は敢えてゆっくりと近づき、ふらふらと立ち上がる四宮の前で鼻を鳴らす。
「おいおい、突っ込むしか能がないのか?」
「調子に乗るなよ、財団の犬風情が!」
四宮は腰を落とし、左のボディブローを放つ。熊原はガードを下げそれを受け止めるが、その衝撃はあまりに小さい。このときにはすでに、上から振り下ろされた右が熊原の顔面に迫っていた。だが──
「フェイントが見え見えなんだよ」
まるで老人に道を譲るように、熊原は半身でそれを躱す。さらに伸び切った腕を右手で抑え、肘に強烈な左を見舞った。
「──うッ」
四宮は関節があらぬ角度に曲がろうとするのを力で何とか抑え込む。しかし熊原は疎かになった足元を見逃さない。足を払われ、四宮は後方に転倒してしまう。
熊原は腰を下ろし、掴んでいる右腕と咄嗟にあがった左腕を量の脚で挟み込んだ。そのまま足を取って堅牢な腕十字へと移行し、右肘に圧力をかける。四宮は抜け出そうと必死に体を捩るが、熊原を振りほどくには至らない。
「クソッ、こんな組み技ごとき──」
「無駄だ。観念しろ。人の体がベースである以上、そう簡単には抜けられない」
四宮は右腕に精一杯の力を込め、無理やり開かれていく肘を閉じようとする。恐ろしい力だな──と熊原は内心感心するが、それでも伝統と物理学に裏付けられた優位状況を打ち破れるほどではない。ギリギリと少しずつ腕は伸びていき、やがてわずかな反りを見せる。その時点でミシミシと、身体の内側で筋と骨が最後の抵抗をする音が聞こえ始めた。熊原はラストスパートに一層力を込めようとして──接触部分で波立つような感触を得た。
「……人だと? お前も、僕をそうやって馬鹿にするのか? ニッソの連中と同じように──」
様子がおかしい。とっさに技を解いて熊原は後退する。その足元に何かが転がった。熊原はそれを手に取る。今まで剥がれることのなかった、四宮の鱗だった。黒く、廃病院の点滅する白熱灯を照り返す光沢があって、ずっしりと重い。側面は刃物のように鋭利で、全体としては先のすぼんだ矢じりのような形状をしていた。
「人を越えられない未熟者、常識に囚われた半端者、欲に身を任せられない臆病者……罵られるたびに疑問だった。じゃあお前たちは何なんだ?」
ぼとぼとと重い物が次々に地面に降り、金属同士のこすれ合う音が鳴る。ふらふらと立ち上がる四宮の体から、次々に鱗が脱落していく。同時に、猫が全身の毛を逆立てるように、あるいは烈火の中の松かさが花開くように、残った分の鱗が立ち上がって、その攻撃的な先端を外側へと向けた。
「そしてわかったんだ。獣だ。獣になればいい。そうして僕はお前らを喰らう側に回るんだ」
血走った眼が熊原を捉え、そして赤黒の軌跡を描いて熊原の懐へと飛び込む。熊原は咄嗟に両腕で守りの態勢に入る。
ガードは成功し腹部の直撃は妨げたものの、熊原はそのまま後方へと吹き飛ばされ、廃病院の壁にぶつかって止まる。熊原は声にならない唸りをあげた。鱗の一部が貫通し、腕から血が滴る。まだ傷は浅いが、何度も直撃を貰えば耐えられないだろう。
先ほどとは比べ物にならない速度のタックルだった。防御力を減少させる覚悟で鱗を削ぎ落し、自由になった膂力をスピードと身体操作に割り振っている。もう組技も効くか怪しい。開いた鱗のせいで、接触自体がリスクになる。
「ほら、第二ラウンドだ。用意はできているかな?」
四宮は余裕ぶった笑みを取り戻し、地を強く蹴って宙へ跳んだ。
◇◇◇
「はぁ、はぁ、埒が明かねえ」
白鹿はヘッドライトの明かりを頼りに森の中を走り続ける。後ろから少しずつ震動が追ってくるのを足裏で感じていた。
長い爪の初撃を躱し、藪に紛れて逃げ出したが、視界の悪さなどお構いなしに異形は少し後ろを地中から追ってきているようだった。
このまま鼡井淵に合流することも考えたが、あの巨躯ならば脱出用の車両を破壊されかねない。合流は敵を撒くか、処理してからにしたかった。ただ撒こうにも位置を感知されて逃げ切ることができず、処理するにしても、少年を抱えながらではさすがに分が悪い。
白鹿の背中では、少年が小刻みに震えている。どこかに安全地帯さえあれば──
「光希君、さっきモグラって言ってたが、何か心当たりでもあるのか?」
「あ、はい。あのおじさんが、最近モグラのことを調べてるって」
エントランスに配置されていた二体の異形の姿から考えるに、事前情報通り四宮の技術は人をベースに他の生物の特徴を付け加えるものと考えていいだろう。海底には金属の鎧を纏う貝がいると聞く。四宮のあの鎧のような鱗も単なる人体改造ではなく、キメラ的改造か。ならば、あの異形もモグラをベースにしていると考えるのは妥当そうである。そこまで考えたところで、通信機が反応した。
「こちら鼡井淵、合流ルートを外れていますが何かありましたか?」
「こちら白鹿、ちょうどいま連絡しようとしていたところだ。現在敵実体一体に追跡されていて、それへの対処をしてる」
「こちらから合流しましょうか?」
「いや、敵の図体がデカいせいで車両が壊される危険がある。合流は得策じゃない──それより、モグラには詳しいか?」
「大抵のことには詳しいですが?」
「ったく大した自信だよ──それでこの敵実体なんだが、どうやらモグラの能力を持っているらしい。そのせいで地面の中からでもお構いなしに追ってくるんだが、この理屈に心当たりはあるか?」
「なるほど。モグラのキメラだと考えたときに、見た目に不自然な点はありませんでしたか?」
「体中になんか気持ち悪いピンクの突起が生えてたな。花みたいな感じで」
「ああ、きっとアイマー器官ですね。それなら、おそらく振動であなたの位置を感知してるんでしょう」
「振動だな。了解した。それなら合流は待ってくれ。そっちに行かれると大変だ。処理が終わったら再度連絡する」
「わかりました。ただ死ぬ前にはちゃんと呼んでくださいよ」
あいあい、と軽く返して通信を終え、白鹿は周囲を見渡す。幸いにもここは森。お眼鏡にかなうものはすぐ見つかった。白鹿は背中の少年に語り掛ける。
「深呼吸だ。深呼吸してリラックスしろ。怖がってもいい。だけどなるべく震えるな。できるな?」
少年は目を瞑って深く息を吸い込み、突然与えられた無理難題に応えようとする。
呼吸を繰り返していくと、敵の姿が見えないこともことも幸いして、少しずつ少年は落ち着きを取り戻し、徐々に震えも収まっていった。
「偉いぞ。ちょっと怖いかもしれないが、しっかり掴まってくれよ」
白鹿は一際太い樹木の根元に駆け寄ったかと思うと、ひょいと飛び上がり、左手と両足を器用に使って枝から枝へとパルクールのように飛び移っていく。そしてあっという間に木の半ばまで登り、そして特に太く頑丈な枝が並んで伸びているところに、少年を降ろした。そして、横にある枝をしっかりと掴ませる。
「俺は降りるが、すぐ戻ってくるから心配するな。だから俺が戻ってくるまで、枝を絶対に離すんじゃないぞ。いいな?」
少年はこくりと頷く。白鹿は少年の頭をぽんと叩いて、軽い身のこなしで地面に降り、木から距離を置いた。
振動で感知しているというのなら、地面に直接接さない木の上は比較的安全な場所のはずだ。白鹿は腰に提げていた二本の大型ナイフを手に取り、両手に構える。相手を待ち焦がれる必要はなかった。地の揺れが、異形がすぐそこまで迫っていることを伝える。
すぐに、足元が一際強く揺れた。白鹿はギリギリまでそれを引き付けてから飛び退く。予想通り、爪が地を突き刺し、土を砕いて巨体が地面から飛び出した。
白鹿は落ち着いた様子でその様子を観察し、作戦を練る。飛び出した瞬間の隙は大きいが、自分の真下から現れるために回避に専念しなければいけない。誰かを囮にできるならば空中の隙を狩って一気に処理できそうだが、少年を囮に使うわけにもいかないだろう。敵の攻撃をいなして隙を作り、少しずつ削っていくことになりそうだ。拳銃は……最後の手段だろう。この巨体を一発で仕留められる保証がないし、なにより両手を防御に回せないのは心許ない。
着地と同時に、モグラの異形はやはり大きく爪を振りかぶり、振り下ろす。白鹿は姿勢を低くして内側に入り込み、二本のナイフを腹部へと突き刺す。伝わるのは、木のまな板に包丁を突き立てたときのような抵抗。骨とも違う。皮膚の下がかなり高い密度の筋肉の層で覆われているのだろう。ナイフが収縮する筋肉に絡み取られる前に、手首を引き戻し、素早く距離を取る。
痛み自体は感じているようで、異形は低い唸り声をあげ、今度は薙ぐように右手を振った。内側の守りが硬いなら、外側から削って行けばいい。白鹿は一歩踏み込み、肥大化した手のひらを右手のナイフで受け、毛むくじゃらの腕と地面の間に滑り込む。ちょうどそこには、ピンク色のひだが花開いている。鼡井淵がアイマー器官と呼んでいた部分。感覚器官というのなら、神経の塊なのだろう。その根元を左のナイフで刈る。驚くほどナイフは抵抗なく組織に侵入し、瞬く間にそれを切り離した。
恐らくは痛みのために、異形が一瞬硬直する。その隙を逃さず、白鹿はさらに右足に生えた二つのアイマー器官を刈り取った。白鹿はその傷口を強く蹴り飛ばして、その反動で離脱する。異形は倒れ込み、体を捩って無造作に腕を振り回し始めた。見てくれは駄々をこねる子供のようだが、その長い爪と巨体のために、当たればただでは済まないだろう。
白鹿は安定を取って距離を取る。確かに敵の一撃一撃は重いが、動きが単調で隙をつくのも容易だ。確実にダメージも蓄積している。このまま攻撃を続づければ、思ったよりも早く処理できるだろう。
白鹿が近くにいないことがわかると、異形は回転し、ぬるりと立ち上がる。そのまま白鹿の方を向いて、一瞬屈んだかと思うと、天を仰ぎながらひときわ大きな咆哮をあげた。その低い響きは白鹿の体だけでなく空気を、森全体を震わせ、遠くで恐れをなした鳥たちが喚きながら飛び立つのが聞こえる。カバーストーリー担当が大変だな、と白鹿は冷静に眉を顰めた。異形が体を震わせ、一歩前に出ようとする──
その瞬間、異形がばっと後ろを振り返り、走り出した。ちょうどその方向、少し離れたところに、少年が隠れる木。白鹿が少年に目を遣ると、少年が遠目にでも震えているのがわかった。しまった──白鹿は咄嗟に状況を理解する。少年は先ほどの咆哮に完全にあてられてしまっていた。
「おい、こっち向け!」
白鹿の声に異形は反応しない。巨体と爪を考慮すれば、あの木に異形が登ることは難しいだろう。だが木に体当たりでもされて、万一その揺れで少年が手を離して落ちてしまえば大変なことになる。接近してナイフで切りつけるのも間に合うかわからない。
「クソ、仕方ねえ──」
白鹿は異形を追いながら素早くナイフを腰に戻し、代わりに拳銃を手に取る。熊原が装備しているのと同じ、"通常の"拳銃だ。正直あの巨体にどれだけの威力が見込めるかはわからない。
目の前では木の下に辿り着いた異形が上を向いて、長い爪を振りかぶっている。白鹿はすぐにセーフティを解除し、ひだで覆われた頭に向け発砲する。
一発、銃弾は脇にそれて命中しない。二発、今度は頭のすぐ横を通り抜ける。それに反応してか、異形の動きが一瞬止まる。三発、銃弾がちょうど人でいえば耳のある部分をかすめた。当たった部分のひだがちぎれて飛ぶ。異形が金切り声をあげて、白鹿の方へ振り返った。
白鹿が安心した瞬間、異形は振りかぶった手をそのままに白鹿に飛び込んでくる。ナイフによる防御は間に合わない。白鹿は腕でガードをしながら後退し回避を試みるが、爪の一本が白鹿を捕らえた。幸いにも腕で受けることには成功するも、その強烈な薙ぎで白鹿は思いきり吹き飛ばされ、地を転がって木へと激突する。
背中に強い衝撃が走り、呼吸が止まる。視界が揺れ、意識が薄れていく。その中で何とか通信機に手を伸ばすが、そこで白鹿の意識は暗転した。
◇◇◇
暗闇に取り残された少年は、その暗闇を忘れられるようにと、枝にしがみつき、じっと目を瞑っていた。やがて少し離れたところから、地響きと何かが飛び散る音が聞こえる。すぐに、先ほどのモグラの化け物が現れたことがわかった。少年は太い枝をより一層強く抱きかかえる。
──大丈夫。きっとあのお兄さんがなんとかしてくれる。
そう自分に言い聞かせて、少年は必死に恐怖を紛らわせる。あの恐ろしいその姿を記憶の底に押し込める。低い唸り声に、耳を貸さないようにする。外の世界と自分を遮断して、瞼の裏の安全な暗闇の中に一人で閉じこもっているのだと思い込む。
だが突然、その想像の部屋をこじ開けるように、異形の咆哮が響いた。びりびりと体が芯から揺らされて、先ほどの光景がフラッシュバックする。生き物とは思えない姿、体ごと心を震え上がらせるような雄たけび、振り上げられた鋭利な爪。その恐怖で、足が小さく震えはじめる。
──止めないと、止めないと……!
焦るほどに、体の震えは増していく。すぐに震えは、太い枝が揺れて葉が音を立てるほどに大きくなっていた。
「おい、こっち向け!」
白鹿の声に反応して、咄嗟に少年は目を開いた。真下をみると、恐ろしい化け物が自分のいる木の下で爪を振りかざしている。化け物は確実に少年のことを狙っていた。少年の頭は不安でいっぱいになる。登ってくるのか? それとも、あの爪なら木を倒すこともできるのだろうか? どちらにしても、もうここで死ぬんだ──
諦めて少年が目を閉じようとしたとき、銃声が鳴り響いた。同時に、鈍い音が響いて白鹿が吹き飛ばされるのが見えた。
地面を転がった白鹿は身動きの一つも取らない。気を失っているんだ、と少年はすぐに理解する。それと同時に、震えた自分を庇った結果がこれなのだとも。
──助けなきゃ。でも、どうやって……
化け物はその長い爪で地を掘って、地中へと姿を消した。その様子を見て、ハッと、少年はポケットの中の防犯ブザーを思い出す。彼は白鹿が通信機越しに振動について話しているのを聞いていた。何も見えない地中で、あの化け物が振動を頼りに動いているのなら、この防犯ブザーを囮にできるかもしれない。
だけども同時に思い出すのは、廃病院の入り口に転がっていた二体の無惨なキメラの死体。少年は白鹿と熊原に助けられたときから、その二人の表情の裏に何か冷たいものを感じていた。おそらくその冷たいものが、あの死体を作ったのだ。少年はその冷たさに加担することが、どうしても恐ろしいと感じていた。ここで白鹿を助けることで、自分も悪者になってしまう気がして、それが怖かった。
恐怖が別の記憶を蘇らせる。それは、大人たちの言いつけ。
『光希、これはね、特別製の防犯ブザーなんだ。絶対に手放しちゃだめだからな』
『俺が戻ってくるまで、枝を絶対に離すんじゃないぞ。いいな?』
少年はついこの間まで、大人に従うことは正しいことだと信じていた。実際、言いつけを守らずに知らない人間についていった結果が今の状況である。少年は逡巡した。やはり、ここは何もせずに息を潜め、じっとしているべきだろうか?
その問いに答えるように、糸を辿るようにいくつもの光景が思い出される。まず浮かんだのは、廃病院から逃げ出す間際に見た四宮の意地の悪い笑顔だった。
──やっぱり、おじさんは悪い人なんだろう。僕のことを攫ったし、きっと酷いことをするつもりだった。
だけども同時に、陽光の照る公園で手を差し伸べた男の暖かい笑顔と声を思い出す。
『坊や、自分の穴を掘るんだよ。他人のことなど気にせず、自分にしかできないことをするんだ』
──でも、おじさんの教えてくれたことは、きっと大切なことだ。
少年は息を深く吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。体の震えが収まっていく。
──きっと本当の問題は、言いつけを守るとか、守らないとかじゃない。なんとなくで流されるのが、一番悪いことなんだ。流されて言われることを守っているだけじゃ、ずっと周りと違う自分に苦しむことになる。でも他人の言葉に流されて悪い大人についていけば、危険な目にあう。本当に大切なのは自分で考えて、自分がやるべきだと思ったことをすることなんだ。
少年は息を呑み、意を決す。
──僕は、僕の穴を掘らなくちゃいけない!
少年は枝から右手を離して、ポケットからセミの形をした防犯ブザーを取り出す。そして左手だけで体を支えながら、ボタンを強く押し、右手で全力で放り投げた。それはけたたましい警告音と振動を伴いながら、宙を舞う。
──お願いします。上手く行きますように……!
少年は防犯ブザーの着地点を、自分の堀った穴の先を見届けるため、その幼げな目を見開く。
◇◇◇
自然のざわめきを切り裂く人工。耳をつんざく警告音と振動音が白鹿の意識を引き戻す。ほんの一瞬の微睡から目覚め、彼は咄嗟に周囲を見渡した。
──周囲にモグラ野郎の姿はない。若干揺れも感じる。地中に潜ったか? ならこの音は……
はっと木を見れば、少年が片手を枝から離し、中空を見つめていた。その視線の先には、放物線を描いて落ちていく小さなセミのキーホルダー。音はそこから出ているようだった。彼は少年の意図を察し、放物線の到達点に向かって歩を進める。
足裏を伝わる振動は少しずつ大きくなり、見えない敵が自分の足音を頼りにまっすぐ迫ってきているのがわかる。だが白鹿は敢えてその足を止めない。むしろ自分の位置を知らせるように、地を強く踏みしめる。その目は地下ではなく、ただ前を見据える。
キーホルダーが地面に近付く。着地まであと一秒もかからないだろう。そこで、白鹿は突然足を止めた。
プラスチック製のセミは白鹿の少し前の地面に衝突し、跳ね、転がる。そしてまるで本物さながらに、命を乞うて足掻くように、震えて己の位置を主張する。
白鹿は息を止め、地下を進む震えの行く先を感じる。自身を追うように近づいていたそれは、まさに今自分の直下を進んでいた。やがてそれは、自分の足元を通過していき──そして、彼の目の前の地面から爪が伸びる。
セミが串刺しにされて砕け散る。地面から巨体が顔を出す。
ここだ。白鹿は異形に向かって高く飛び上がり、その頸へ両脚で組み付いた。異形は異常を察知して空中で激しく頭を振るが、白鹿はそんな抵抗など意に介さず、バク宙のように自分の体を後方に回転させる。
異形は頸を引っ張られて前のめりになったかと思うと、そこに自身の上昇運動が加わって前方に投げ出され、半回転して背中から落下する。地鳴りのように鈍い音が響き、巨躯が小さくバウンドする。自身の巨大な質量が生み出すエネルギーを一身に受けた異形は、金属が擦れるような悲鳴をあげた。
そこへ馬乗りになった白鹿は、立ち上がると両手でナイフを持ち、それを異形の首元へと振り下ろす。ナイフは半ばまで入り込むが、筋肉に阻まれてそれ以上奥まで進まない。
白鹿は全体重をかけ、ナイフの柄を乱暴に踏みつけた。ナイフが少し沈む。巨体がびくりと震える。一度では終わらない。何度も、何度も、白鹿は足を振り下ろす。そのたびにナイフは少しずつ筋繊維を寸断し、沈み、異形の体を震わせる。やがて刃が全て異形の体毛の向こうに隠れると、白鹿は足を思いきり後方へ引いて、サッカーボールでも蹴るように、横からナイフを蹴り飛ばした。沈み込んでいたナイフがレバーのように傾き、開いた傷口から噴水のごとく血が噴き出す。
白鹿はそれに塗れることも厭わず、両手でナイフを掴んで引き抜いた。
白鹿は異形に背を向け、少年のいる木に向かって歩き出す。
異形は掠れるような悲鳴をあげながら腕を振り回していたが、噴き出す血の勢いが弱まるにつれて声も動きも小さくなっていく。そうしてすぐに、異形の叫びは完全な沈黙に取って代わられた。
白鹿は木に登って、少年に手を差し伸べる。少年はゴーグルの奥に、男の目尻が震えているのを見る。そしてその陰に、噛み殺された笑顔の冷たさを直感する。それでも彼は、小さく息を飲み、血みどろの男の手を取った。
◇◇◇
「おいおい、ちゃんと勝つ気はあるのかなぁ」
声に呆れを孕ませて、四宮は悠々と歩きながら何度も何度も拳を突き出す。森を背にしてそれに相対する熊原は、執拗に迫る拳や跳び蹴りを何とか受け流しながら、少しずつ後退していた。逆立った鱗のせいで迂闊に攻撃できないだけでなく、素早い攻撃に対処し続けているせいで、集中力、体力ともに限界が近い。
──ここまでか。
熊原の意識が、白鹿に預けられた拳銃に向けられる。残弾は一発。これが頼りだ。
「僕も、いや僕こそが獣なんだ。見てみろ、この体を! ハハ、財団の犬なんかではまるで歯が立たない!」
目まぐるしい攻防の中で、しかし熊原は確実に相手に届けるよう、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「獣、か。素晴らしい心構えだな。確かに、夜は人の身にはあまりに過酷だ」
「そうだろう? だから僕は──」
「だがそのくせ、口を開けば『悪いのはお前らだ』、『俺は悪くない』──善悪や責任なんて、随分複雑なことを語るじゃないか」
「──おい、何が言いたい?」
四宮の声色が一気に冷え込み、攻撃の手が緩む。その隙をついて熊原は右ストレートを打ち込んだ。拳に取り付けられた厚い刃が四宮の腹部を捉え、傷つけるには至らないものの、男を僅かに後退させる。一方で、鱗と強く衝突したスーツの一部は小さく裂け、そこからは血が滲んでいた。
状況としては依然熊原が不利。しかし彼は、畳みかけるように、叱りつけるように、ぴしゃりと言い放つ。
「遠吠えが人臭いぞ! 野良猫でさえ他の猫の子を躊躇なく殺して回る。お前が獣だというのなら、あの子供をさっさと殺しているはずだ。自分の子供でも思い出したか? 情に絆されておいて、何が獣だ」
四宮は黙り込む。その表情は怒りに歪んでいき、擦れる鱗が刃を研ぐような音を奏で、雄弁に殺意を伝える。しかし沈黙の後、歪み切った顔から口から発せられた声は、赤い烈火というより、青く静かな炎だった。
「お前にはわからないさ。人として生きることを許されなかった生き物の気持ちなんて」
四宮は深く腰を落とし、熊原を睨みつける。熊原はすぐに理解した。あの突進が来る。
「だけど気にするな。獣に襲われたのなら、人はわけもわからず、ただ恐怖の中で死んでいくものさ」
四宮が強く地面を蹴り、一瞬で熊原の目の前に躍り出る。熊原は両腕をクロスさせて四宮の首を掴み、身を翻してその衝撃を背中で受けた。
鋭利な鱗が頑強なスーツを突き破って皮膚に突き刺さり、背に激痛が走る。熊原はそれでも怯むことなく、思いきり体を丸めて四宮を投げ飛ばした。四宮は廃病院前の十字路、その中心へと転がっていく。すぐに立ち上がった男へ、熊原は拳銃を向けた。
「ああ、そうだな。死はいつだって理不尽だ」
再び強烈な破裂音が響き、デリンジャーから不釣り合いな弾が飛び出す。四宮は咄嗟に腕で体を守ろうとするが、それも間に合わない。強装弾は遮られることなく、四宮の腹部へ到達する。金属同士が激突する鈍さと甲高さを含んだ音が響いた。
四宮は膝をつき、うずくまる。熊原は横に回り込むように移動してから、四宮の背後にある高台に目を遣った。世界の端からは少しずつ光が漏れていて、もうすぐ夜が終わることを告げている。
鳥たちも逃げ出し、草木の揺れる音だけが響く森の中に、四宮の咳き込む音が溶けていく。しかしそれは徐々に詰まるような声に変わっていき──そして甲高い笑い声となった。
「ククッ……ハハハッ! 最後の手段だったみたいだけど、残念だったね!」
四宮は両手を広げ、自分の腹部を確認する。何枚か鱗が脱落し、銀色に輝く滑らかな皮膚が覗いているが、それ以外に損傷は見当たらない。
「この通り、ほとんど無傷だ! 子犬風情が僕を殺せるわけ──」
遠く、背後で花火が爆ぜたような音がした。四宮は咄嗟に音の方向へと振り返る。しかし、なぜか小人にでもなったかのように、自分の視線が低くなっていく。
「あれ、何が──」
やがて、視野の端に見慣れない黒い塊が侵入する。数秒かかってやっと、四宮はそれが、自分の下半身だと気付く。腰のあたりが、内側から爆ぜたように抉れて消え、真っ赤な内側が覗いていた。状況を理解できずに、四宮は自らの脚へと手を伸ばす。しかしそれも届くことはなく、上体だけになった男は仰向けに地面に落ちた。
◇◇◇
まだ面影に幼さを残す青年は、高台に伏せて、自身の身長の1.5倍はあろうかというライフル銃を構えていた。横に置かれた観測機器には、各所の様子が映し出されている。
分割された画面の中で、白鹿が爪の一撃を受けて転がった。青年──鼡井淵は銃の側面に取り付けられたクランクハンドルをぐるぐると回してコッキングを完了する。続いて画面を操作し、白鹿のスーツに搭載された計測装置から送られるデータを映し出して、地中にいるだろう異形の大体の位置を予測した。──準備は万端だ。仲間の危機だというのに、青年の目には緊張ではなく、遠足前日の少年のような興奮があった。
スコープを覗き、引き金に手をかけて白鹿の近くの地面を狙う。……しかしそこで、突然白鹿が目覚めて立ち上がった。青年は小さく舌打ちをしてから、誰に聞かせるでもなく口を尖らせて呟く。
「ほんと、僕に少しくらい分けてくれてもいいじゃないですか」
ライフルの位置を調整して画面を元に戻し、今度は熊原の状況を確認する。彼も相変わらず泥臭い戦闘を続けているようだった。
「熊原さんもこういうとき強情だからなあ」
再びスコープを覗く。防戦一方の熊原の様子を見ながら、青年は退屈そうに、童謡のようなリズムを口ずさむ。
『ねずみが一匹やってきて、友達チーズが出迎えた。固いチーズが好きだって、ねずみはすぐに帰っちゃった』
激しい戦闘の中で、二人が何か言葉を交わしている。
『ねずみが一匹やってきて、カビカビチーズが出迎えた。きれいなチーズが好きだって、ねずみはすぐに帰っちゃった』
四宮が姿勢を低くしたかと思うと突進し、熊原はそれを正面から捕らえた。
『ねずみがが一匹やってきて、つるつるチーズが出迎えた。今度は何も言わないで、ねずみはすぐに帰っちゃった』
四宮が投げ飛ばされ、十字路の中心に転がった。立ち上がった四宮へ、熊原がデリンジャーを構え、引き金を引く。
『悪い泥棒やってきて、チーズは撃たれて穴だらけ。寂しいチーズは死んじゃった。ねずみはその日は来なかった』
熊原がすっと斜線を抜けるように横に回って、鼡井淵のいる高台を見た。スコープ越しに目が合って、鼡井淵はぱっと笑顔になる。
深く息を吸い込んで、正確に狙いを定める。興奮が瞳孔を開き、口角が釣り上がる。そうして四宮が両手を広げた瞬間、引き金を引いた。肩を伝わる途轍もない衝撃と鼓膜を乱暴に叩く発砲音。スコープの向こうでは、四宮の腰が弾け、上半身が地面にずり落ちた。
青年はそれを見届けると、小さくガッツポーズをして、体を起こす。そうして手際よく銃を分解してケースに詰めながら、青年は上機嫌に最後の一節を歌った。
『ねずみが一匹やってきて、今日はとっても喜んだ。嬉しい嬉しいプレゼント、大好物のエメンタール──』
◇◇◇
明るくなり始めた空の下。熊原は情けなく転がった四宮を見下ろす。部分部分の鱗が剥がれて、魚のような銀色の肌が露出していた。
当たりどころが良かったのだろう。まだ息絶えるまでに少々時間がかかりそうだった。だがこれ以上何をすることも叶わないだろう。熊原は身を翻し、廃病院で投げ捨てた装備の回収へ向かう。
「待ってくれ!」
背後で、ごぼっと口から血を零しながら四宮が喚いた。しかし、熊原はそれを無視する。
「止まってくれ、お願いだ! せめて日が昇る前に殺してくれ!」
身勝手な哀願に、ぴたりと熊原の足が止まる。
「悪いが、仲間の獲物に手を付ける気はない」
「そんな、嫌だ、終わりだけ暖かいのなんて嫌なんだ。頼むよ……」
熊原はギリギリと奥歯を噛み締める。そして踵を返し、大股で四宮へ近づいていく。
「ああ、ありが──」
感謝の言葉を遮り、熊原は厚い刃のついた拳を四宮の首元へ振り下ろした。刃こぼれした鉄拳も鱗を失った皮膚を裂くには十分で、薄ら暗い森に血しぶきが舞う。何度も何度も、骨を寸断するまで、熊原は無言で殴りつけた。気づけば、もう四宮は動かない。
「……人臭い」
吐き捨てるように呟いて、熊原は廃病院の中へと消えていった。
◇◇◇
作戦から数日後の休日、強い陽光に照らされながら、白鹿と熊原は歩道を二人並んで歩いていた。ときどき、道行く人々が彼らを不思議そうに一瞥しながら通り過ぎていく。それも仕方のないことで、二人は身長も体型も正反対だが、身なりも全く異なっていた。
白鹿は黒のストローハットにサングラス、チョーカーはつけたままで、ゆるめの七分袖にカーゴパンツとラフな印象でまとめている。
一方熊原の方は、首の痣こそコンシーラーで隠しているものの、白い無地の半袖にジーパンという、よく言えばシンプルな出で立ちだ。
熊原の誘いで久しぶりに訪れた百貨店からの帰り道。鼡井淵の獲物を奪ったお詫びをしたいということで、彼の好きなワインを買ってきたところだった。
「さすがに買いすぎじゃねえか? こんなん一生飲み終わらんぞ」
「いやあ、どういうのが好きかわからないからさ。それに、意外とすぐなくなっちゃう量だと思うけど」
「ったく、酒馬鹿で孫馬鹿の爺さんかよ……」
何でもない風に歩いている熊原だが、その右肩からぶら下がる厚手のトートバッグには、十本近くのボトルが詰まっていた。それだけでもかなりの重量だが、左手にも白鹿が買った服やらコーヒーやらが入った紙袋をいくつか提げている。
「そもそも鼡井淵もそんなに気にしてねえって! あのトリガーハッピーは撃って壊せれば満足するタイプなんだから」
「え? いやいや、鼡井くんちょっと怒ってたって。ほら、合流したとき少し頬っぺた膨らんでたでしょ」
「あれマジで怒ってるやつなのか!? ずっとふざけてんのかと思ってたわ」
「あのねぇ、君はもうちょっと年下を優しくしてあげたほうがいい」
「あ? そんなこといったら俺だってお前より若いんだからよ──」
「うん? 優しく欲しいのか?」
「──ッ、そうじゃねえよ! 年下だからって特別扱いする必要はねえってことだって!」
白鹿は熊原から自分の紙袋を奪い取って、ばつが悪そうに林の方を向いた。しばらくの無言があって、熊原はぽつりと尋ねる。
「──聞かないのか? 俺が最後に止めを刺した理由」
「まあ別に始末書に書くわけでもねえしなぁ。お前のことだからちゃんとワケがあってのことなんだろうさ」
それから、そっぽを向いたまま付け加える。
「まあでも、聞いて欲しいときは聞いてやるよ」
それはありがとう、と熊原は笑って返した。
また少し歩いて、信号の前で二人は立ち止まる。ここを渡った先は、コンクリートの舗装がなくなって地面が剝き出しになり、人工林の中を進む遊歩道が続いていた。木陰になっているので、今よりは幾分涼しくなるだろう。
横断歩道を渡ろうとして左右を見たとき、熊原が何かに気付いた。
「あ、あの子……」
横にある公園のベンチに、菅野光希が一人で座っていた。何をするでもなく、足をぶらぶらとさせている。横断歩道を渡りながら、二人は少年の様子を眺めている。
「確か記憶処理されたって話だったね」
「ああ。まあ、そうなるよなあ……」
「なんか残念そうだけど」
「あの夜を通して一皮むけた感があったんだけどな。その記憶も全部なくして元に戻っちまったのか、って思うと、ちょっと勿体ない感じがしてなぁ」
熊原は、合流時に見た少年を思い出す。先ほどまで怯えるだけだった少年の目には力がみなぎっていて、丁寧にお礼を言われたときは大したものだと感心した。それでも、と熊原は続ける。
「元に戻るのはいいことだよ。歪なものに触れて得た成長なんて、いつか結局歪になってしまうんだし。彼はこっちの住人じゃないんだからさ」
「んまあ、それもそうか。成長なんていつでもでき──うぉっ!?」
白鹿が何かに躓く。よく見ると、足元に一筋の盛り上がりができていた。モグラの巣だ。それは遊歩道を横切って林の中まで続いている。白鹿は思い出したように眉を顰めた。「あのキメラ、マジでキモかったわ」「え、キモカワじゃないか?」「……センスがニッソはマジでやばいぞ」──そんな他愛もないことを話しながら、二人は薄暗い林の中へ入っていく。
遊具もなにもない公園。少年は一本だけ植えられた木の陰にあるベンチに座って、幹にとまった蝉を眺めていた。
なんだか、夏休みが終わってから数日の記憶が曖昧である。高熱を出して倒れていたと聞かされたが、その割には体はぴんぴんしていた。父親の様子も変である。絶対になくすなと言われた防犯ブザーをなくしたにもかかわらず、父親は一切怒らず自分を抱きしめるだけだった。そんなに酷い熱だったのだろうか?
「あれ、光希じゃん!」
ぼうっとしていると、公園の入り口から声が聞こえた。見ると、サッカーボールを抱えた同級生が手を振って駆け寄ってくる。
「熱直ったの!? すげー熱でてたって先生言ってたよ」
「あ、うん。もう元気だよ。あんま覚えてないんだけどね」
「え、マジ!? 記憶喪失じゃん! すげー!」
「すごくはない、と思うけど……」
若干引き気味の光希だが、同級生は目を輝かせながら畳みかける。
「てか元気なら遊ぼ! こっからでかい公園行くんだよね」
少年は迷う。母親には、病み上がりなのだからあまり動かないように、と言われていた。だが公園に行けば間違いなくサッカーが始まるだろう。──少年が考え込んでいる間、同級生はにこにこしながらも黙って答えを待っていた。少しして、少年は決心する。
「うん、行こう!」
少年は誰に手を引かれるでもなく、自分で立ち上がり、照り付ける太陽の下へと歩き出た。
無人の公園では、蝉がうるさく鳴いている。まだまだ、夏は続く。
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アクションSFオカルト/都市伝説感動系ギャグ/コミカルシリアスシュールダーク人間ドラマ/恋愛ホラー/サスペンスメタフィクション歴史任意
任意A任意B任意C- portal:3383689 (04 Jun 2018 06:02)
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