服を脱ぐ

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 寝起きの髪を軽く手で漉く。ぷちぷち、という音。抜けた長い毛が指に巻き付いている。
 そうか、散髪にいかないと。ほかには……
 ぼうっとする頭を無理に働かせながら、テーブルの上の"注文書"に目を向ける。今日の夜までに満たさなければいけない条件と、少しの仕事のリスト。ほとんどの項目に丸がついていて、残っているのはほんの一部だけだ。買い溜めたケロッグのチョコシリアルと購買の牛乳をかき混ぜながら、今日の予定を立てる。シャワーを浴びたらサイト備え付けの理容室に行って、それから衣装の受け取り。あとは、担当者との打ち合わせ。
 一日の段取りが定まってしまったら、まだ固いシリアルを口に運びながら、"注文書"の文字を追う。特に楽しいわけではない。ただ、頭を動かしていると、漠然とした不快感を無視できるから。そう、漠然とした不快感。悲しいとか、怒りとか、ウザいとか。そういうのじゃなくて、未分節で稚拙なモノ。もう長い間ずっと私の中に座り込んでいる居候。しかも、感じるというより、なんとなく、わかるだけだ。今自分は不快なんだろうな、と。でも、実感はない。不快に感じているのは私なのに、私は他人のことのようにそれを見ている。不快感が、私の身の中を駆け巡っていかない。牛乳にチョコが溶けて茶色くなってきた―― そう、こんな感じだ。牛乳が茶色になったことを、私は見て、頭で理解する。漠然とした不快感も同じで、私ではなくて、私の脳みそが理解するのだ。牛乳が茶色に染まっていくのを、体で感じることなんてできない。私が薄暗く染まっていくのも、同じだ。
 空になったどんぶりを流しに下げ、軽くゆすいでから、すでに三つ並んだ先客と同じように水を張る。それから寝巻のタンクトップと下着を脱いで、洗濯機の中――布溜めの一部に加える。
 いつもならそのまま仕事着に着替えるところだが、代わりに浴室の扉を開く。昨晩から溜まっていた湿っぽい空気が流れ出た。
 朝風呂も、いつもと違うことをするのも、どちらも好きではない。だけども、今日はそうすべき理由があった。
 一つ。午前中は事実上の休暇で、仕事着を着る必要がないから。
 二つ。散髪に行く前にもう一度髪を洗っておきたいから。
 そして、最後に一つ。
 私は今日、オブジェクトに抱かれるから。

◇◇◇


 剃刀で顔をなぞる。久しぶりのことで、なるべくけがをしないように慎重に。細かい毛が、剃刀の薄い刃の上に集まっていく。
 続けて腕や腹、そして鼠径部とその周辺の毛もできるだけ残さないようにする。ここに剃刀を使うのはさすがに危ない気がしたから、一昨日買ってきたシェーバーを慣れない手つきで動かす。毛の処理は、オブジェクトからの注文だった。変な趣味があるというわけではなく、単純に性器をよく観察したから、とのことで。だから本当は、腕や腹の毛なんて剃らなくてもいいのだけれども、人目に触れる可能性がある以上、手入れを全くしないというのも憚られる。
 シェーバーからは塵のようになった黒い体毛がはらはらと落ちて、カビか何かのように浴槽の床を薄ら黒くしていた。腋から落ちるものは、それよりもっと太く長く、硬い。そういえば、男性の脛毛も、こんな感じだったような気がする。思い出すのは、中学一年生の秋。二つ上の兄が初めて脛毛を剃った日。
 

「なにしてるの!」
 通信教育の音声に割り込んできたのは、母の悲鳴にも似た怒号だった。また兄が何かしでかしたのだろう。母の声色から、それはすぐにわかった。
 兄は一言でいえば、反抗的だった。だけども、髪を染めるとか、悪い友達とつるむとか、そういうわけではない。学業成績は私よりも良かったし、部活でもそれなりの立場にいたようだ。ただ、変なところで親に逆らう。特に母だ。母の嫌がるようなことばかりする。父は何も言わなかったが、母はいつも頭を悩ませているようだった。
 怒号を合図に私は添削を始める。どうせ丸を付けるだけの作業。案の定、すぐに終わった。そうして私は、階段を下る。リビングに丸付けを終えたテキストを置いてから、母の声をたどって薄暗い脱衣所を覗くと、寝巻を着た兄が箒と塵取りを持っていた。そして床には、髪の毛とはまた違った、大量の黒く太い毛。反対に、兄の脛は心なしかスッキリしているように見えた。
「どうしてって聞いてるでしょ!」
 母は後ろから覗く私にも気づかず、兄を責めたてる。疑問形を取ってはいるが、答えは聞いていない。誰でもわかることだ。求められている言葉はただ一つ。「ごめんなさい」。それなのに――
「なんでって、彼女のためだけど」
 兄はなんでもないことのように、さらりと言い放った。本当に、簡単な足し算の答えを発表するようで。きっとそれが、母にとっては余計に衝撃だったに違いない。子供らしい無邪気な葛藤や、従順さゆえの後ろめたさを望んでいた母にとっては。それで、母は言葉を発する代わりに、ムカデの類が目の前の壁を這っているのに気付いたときのように――しかし周りに人がいて、大声を出すわけにもいかないときのように――ぐっと上体を後ろに引いた。きっとその表情は、想像しないほうがいい。
 どうして? イラつきと疑問が私の頭蓋をぎしぎしと削る。百歩譲って謝らなくてもいいとして、もっと良い言い訳はたくさんある。部活で走るときに邪魔だとか、暑いとか……本人でないから脛毛のデメリットはよくわからないけども、とにかくそこら辺のことを言っておけば――母も叱りだした面子があるから簡単に引き下がりはしないだろうけども――それなりに丸くは収まったはずなのに。「彼女のため」なんて、最悪の答え。それは兄も知っているはず。恋愛ドラマのCMを見るたびに「はしたない」と吐き捨てる母を、私たちは何度も見てきたのだから。知っているから、彼女がいることを母に隠しているものだと思っていた。いや、実際そうなのだろう。兄はすべてわかっている。私より賢くて、すべてわかっている……そのくせに、愚かにふるまう意味が分からなくて、腹が立つ。
 そんな私の苛立ちも母のショックもまるで関係のない風に、兄は箒と塵取りで散らばった毛を集めていた。別に怒られたからというわけではなく、最初からそうするつもりだったのだろう。
 突然、何かが弾けるような音がした。兄の手から塵取りがゆっくり落ちて、せっかく集められた毛が、また床に散らばった。母が、兄をぶった。
「どうしてお母さんのいうことが聞けないの?」
 母の声は震えていた。そんな母の顔を、兄は痛むだろう頬も押さえずに、じっと見ている。怒るでもなく後悔するでもなく、ただ母の視線を確かめるように。
「脛毛を剃るななんて、いわれたことないよ」
「ちがう。彼女がいるなんて初めて聞いた」
「それは、言ってないから」
「お母さん、もし誰かとお付き合いするなら教えてって言ったよね」
「言われたけど、わかんないっていったよ」
「そうやって言い訳ばっかり……親の言うことでしょ! お母さんもお母さん同士のつながりとか、いろいろあるのよ。どうしてわかってくれないの。付き合ってるんなら、お母さん同士も仲よくしないと、あなたたちのためにもならないのよ」
「僕たちには関係ないよ」
「あなたはまだ子供でしょ。わからないことがいっぱいあるの。だから、お母さんの言うことは聞いて――」
 母の剣幕と、それを突っぱねるような兄の冷静さがぶつかり合って、脱衣所の湿って暑苦しい空気が私の方まで膨張してくる。何かが落ちる音がして、私の足元に小さな鹿の置物が転がった。すぐそばにあるラックに置いてあったものだ。私はそこで初めて、自分が無意識に一歩退いていたことに気が付いた。置物は私の腕に引っかかって、ラックから引きずり落されたのだった。
 物音に気付いて、母がこちらへ振り返った。私の顔を見て、厳しく収縮した表情筋が和らいでいくのが、目に見えて分かった。
「あらごめんねぇ。お勉強中に」
 子供に話しかけるにふさわしい、甘くてふわふわした声色。私は母のこの声が好きだった。私にだけ向けられる、私だけのための母の声。私にだけそれを受け取る資格があって、それが幸せだった。
「ううん。ちょうど丸付けまで終わったところ」
「そう! それならお母さんに見せて頂戴」
 母はそう言って私の頭を撫でた。綿あめのような声はわずかに震えていて、きっと多少の無理をして出しているのだろうけども、それでも私の頭の上に載っていたのは、暖かくて、安心する手のひらだった。リビングにおいておいたよ、という私に、偉いねと微笑んで、母は兄の方へ向き直る。
「あなたも、もうちょっと妹のことを見習ってほしいわ。ああもう、時間も遅いでしょ。早く寝ちゃいなさい。その汚いのは、あとでお父さんに片づけてもらうから」
 そう言い残して、兄に反論のための間隙も与えず、母はリビングへと歩いて行った。その場に、私と兄が取り残された。兄は小さくため息をついて、箒を手に取る。それがまた、腹立たしかった。
「なんで、あんなこと言ったの」
 小声で、だけども問い詰めるように。しんと静まった脱衣所の空気は、それでもまだ少し震えていた。
「ん?」
 ぶたれた頬をさすりながら、兄は不思議そうに眉を寄せる。
「彼女がって」
「まあ、本当だし」
 そういうことが聞きたいんじゃないの。そう言いたかったが、言っても無駄な気がして口をつぐんだ。兄は愚かだ。私たちは親に食べさせてもらって、勉強もさせてもらっている。だから、そのお返しに、そしてそれがこれからも続くように、親が望む良い子であるのは当たり前。それなのに、それがわかっていない。わがままな子供のままだ。
 私が何も言わないのを察すると、兄はまた箒と塵取りをもって、毛を集め出した。私はあきれる。どうして、先ほど言われたことも守れないの。
「なにしてるの」
「掃除。次からは紙敷いてやったほうがいいかもな。ちょっと面倒だし――」
「いや、早く寝なさいって言われたじゃん。お父さんに捨ててもらいなよ。その……汚いの」
 兄が、がばっと顔を上げた。目は見開かれていて、口は閉じ切らず、眉はやや下がったような……特徴の羅列でしか言い表せない、無理に例えるならそれこそ”泣いてしまいそうな”――そんな、顔をしていた。初めて向けられた表情だった。
 私は兄が何かを言う前に、その場を立ち去った。もともと、長話をする気はなかったから。それに、母がテキストを確認し終えるまでに戻らなければいけなかったから。

◇◇◇


 散髪へ出かける用意を整えて、やり残した準備がないか、最後に命令書を確認する。"注文書"に添付されていたものだ。「当該オブジェクトとの性交渉を命ずる」の締めくくりが、なんとも忌々しい。特に、「命ずる」という部分が。理由はよくわからないけども、あの漠然とした不快感がそう教えている。どうして、こんな命令書なんて受け取ってしまったのだろうか。いや、どうしてもなにも、きっと拒否することなんてできなかっただろう。最下部に書かれた直属の上司である主任研究員のサインは、私の意向を無視できるだけの力を持っている。彼女がどういう気持ちでこの命令書を発行したかは知らないが、彼女の決定に、私の大切なものがぐちゃぐちゃにされてしまったような気がする。激烈な感情はない。ぐちゃぐちゃにされてしまったというところまで形を持てた不快感も、すぐ漠然としたものの中に溶けていってしまう。
 命令書の中盤には、実験中に保証される権利やら細則やらが羅列されている。その中の一つ、「精神的・身体的な苦痛は、計画実行中止の十分な理由となる」という文言が、ほかの部分に増して主任研究員の声で再生された。頭の中に、走った後の吐息を吹き込まれたようで、心地が悪い。命令書と銘打っておきながら、「嫌になったらやめていいよ」と? 彼女らしい、生暖かい言葉。彼女の声に、心配しなくても問題ありませんよ、とつぶやく。だからあなたは何もせずにいてください、と。
 精神的なものはともかくとして、肉体的な苦痛を感じるかどうかは、もう確かめた。わかりきっていたことではあったけども、問題はない。きっと痛みを感じることはないだろう。浴室に出しっぱなしにしてある三年前に買ったディルドが、こんなところで役立つとは思わなかった。
 性の経験が豊富だというわけではない。むしろ貧困な方だろう。まともな性交の経験は、以前の恋人とだけだ。私の五つ上で、警備部門で長身なのに、覇気のない、柔和な男。クローゼットの上で倒れ、埃をかぶっている写真立ての中の男。
 彼はとにかく私にあわなかった。そう、私は、彼が好きではなかった。そもそも、まともな男女関係というものをほとんど経験していないこともあって、あまり恋愛に積極的ではなかった。知り合ったのも、彼がかつての同僚の兄で、その同僚がおせっかいにも彼を紹介してきたからだし、関係を始めるきっかけになったのも私ではない。彼が私に近づいてきたのだ。
 ランチから始まって、何度かのデートの後、彼は付き合ってほしいと切り出した。表情は冷静を装っていたけども、組んだ指はむずむずとうごめいていた。彼の気持ちは何となく察していたし、驚くこともなかった。独り身でいると何かと周りの目が面倒だから、流れに身を任せるように頷いた。また幾度かデートをして、彼の顔が近づいた。瞳に私が映っていた。見たくなくて目を閉じると、唇が接した。キスの感触はゼリーのようなものかと思っていたけども、それは毎朝自分の唇がそうであるのと同じように、ずっと渇いていて、オブラートを押し当てられているようだった。それが少し残念で、淡い夢が一つ壊れた悲しい隙間を埋めるために彼と同じベッドに入った。初めては痛かったけども、すぐに慣れて痛みも消え、それは何でもないことの一つになった。
 付き合いは四年間続いた。同棲はしなかったが、彼はよくこの部屋に来て、私を抱いて、そして勝手に朝食を作り、部屋を掃除して帰っていった。部屋に彼の体温が染みついていくようで気持ちが悪かったけども、別れることはしなかった。職場で変な気遣いをうけたくもなかったから。
 それで、三年前だ。彼が私の部屋に来なくなった。案の定周りからの気遣いに辟易させられたが、来なくなってしまったものは仕方ないと割り切るしかなかった。私は彼の私物を全部捨てた。背の高い彼がクローゼットの上に置いた二人の写真だけ、わざわざ取るのが面倒で、そのままにしておいた。どうせ高いところにありすぎて、目にも入らなかったから。いつぞやの地震でそれが倒れたのも、かなり時間が経つまで気づかなかった。
 ディルドはそのころに買った。男がいなくても、性欲は湧いて出る。指で満足できていたのが、彼と寝るのが習慣になってから、どうしてもそれだけでは物足りなくなっていた。捨てられない彼の痕跡に苛立ちながら、まずは振動するものから試したが、ダメだった。音がうるさくて、集中できなかったから。それで、ディルドが必要だった。ピンク色は私に似合わなくて、その上淫らで汚らわしいような気がした。だから、白いシリコン製の、ともすればただの棒にしか見えないようなものを買った。
 結局それを使い続けているのだけれども、そのおかげで、今夜また初めてのときのような痛みを感じることもないだろう。私を抱くオブジェクトは、体を変形することができる。男性器を再現する際は常識的な大きさにするということも、すでに同意済みの事項だった。
 命令書の確認を一通り済ませて立ち上がる。玄関のドアノブに手をかけたところで、浴室のディルドがまた思い出された。のっぺりと長いだけの、見る人がみれば手抜きと言いそうな、グニャグニャ曲がって、浴室にひっそり佇み、必要なときに何も言わず私を満足させてきただけの、得体のしれないシリコンの塊。背中にソレの視線を感じた。今まで感じたことがなかったざわめきが、背中を駆けていった。もし今晩、事件も何もなくすべてが無事に終わったら、あの白い棒は私に魂を半分寄こせと言うだろう。「万事快調に終わったのは、ワタシのおかげなのだから」、と。だけども、私はお前に命を譲る方法を知らないんだよ。
 私は玄関から引き返して、浴室の扉を開け、ディルドをつかんだ。そしてそれを、五千円札と一緒に購買のビニール袋に詰めて、ゴミ箱へ放り込む。万が一私の身に何かがあったとき、浴室にアレがあるのは見られたくないから。これでやっと、安心できる。

◇◇◇


 職員用の美容室は、サイトのサービス区画の隅の一室にひっそりと収まっている。ガラス越しに、美容師にしてはあまりに筋肉質な男が、やや形の崩れかけているシャツにエプロンを付け、イスに腰かけて雑誌を開いているのが見えた。
「すみません、カット、お願いします」
 彼は「いらっしゃいませ」と顔を上げて、それから不思議そうに、何かを思い出そうとするように、私の顔をじっと見つめた。
「あれ、お客さん。前にいらっしゃったことありましたか?」
「いえ? 初めてですけども」
「そうでしたか…… ああいえ、変なことを聞いて申し訳ありません。ささ、こちらへどうぞ」
 彼はすぐにビジネススマイルに切り替えて、私を席に案内する。こういう仕事をしていると、相当似ている人に出会うこともあるのだろう。この広いサイトのどこかに、私に似ている誰かが勤めているのかもしれない。あまり、自分には関係のないことだけれども。彼に促されるまま、席に座って、注文を伝える。ミスがないように、担当者から受け取った見本写真付きで。
「なるほど、スウィングショートですね。承知しました」
 あいまいに「お願いします」と返事しておく。写真の髪形がどうやらそういう名前らしいということは聞いていたけども、もともと髪形に頓着がなく、名前を言われてもあまりイメージがわかない。
 彼は手際よく私の伸び切った髪を切り落していく。見た目からはにわかには信じがたいけども、もう美容師として働いて十年になるという。
「もともとは機動部隊員だったんですけどね。あの仕事は若いうちしかできませんから」
「なるほど。それで、そんなに健康的なお体なんですね」
「えー、ははは。そうですね。ただ、どうしても初めてのお客さんは入って来にくいみたいで。悩みどころです」
「入って来にくい、ですか」
「ええ。お客さんはほとんど研究職の方ですけど、どうしても私の体格は威圧的に見えるって方も多くて。特にこう、引っ込み思案な人は、私に嫌われないか不安だったりするそうですよ」 
 それでか、と。彼の最初の反応に合点がいった。「以前来たことがあるか」と尋ねたのは、私に似ている誰かがいるというだけではなくて、私が不安がる様子を見せなかったからだろう。
 実際、不安ではなかった。体つきのいい人がみんな暴力的なわけはないし、まして、嫌われるかもしれないなんて、考えもしなかった。美容室なんて、むしろ不安の対極にあるところではないのか。客は注文通りにカットすることを理容師に望む。美容師は客に、金払いを求める。適当に美容師の話に相槌を打てればなお良しだけども、最悪できなくたって、お互い満足する最低限の条件は満たせる。明快で分かりやすい。
 それより、普段の人間付き合いのほうがもっと複雑だ。誰かと私が関係を結ぶなら、私は相手の望む条件を満たさなくてはいけない。それが何かを探るのは、結構骨が折れる。
 まあでも、そもそも嫌われるのが怖いなんて、おかしな話に思える。結局、お互いがお互いの望む条件を満たせなかっただけ。それで、関係が終わるのは仕方ない。関係なんてのは、人と人の結びつきじゃなくて、人の外側にあるものだから。関係の糸は相手の条件と、私から出たモノを結びつける。例えば、"行動"とか、私が相手に与えた何かとか。出てしまった"行動"はもう、私の外側にある。見方や解釈に晒されて、私から独り歩きしていく。
 それで結局、好かれるか嫌われるかというのは、私の外にあるモノが、相手の望む条件を満たすか満たさないかということ。好きだというのは、相手の外にあるモノが、私の望む条件に合致しただけ。私自身と相手自身はつながらない。外にあるものとのつながりで、関係はできている。家の外にある小石がいくら蹴られても私が傷を負わないのと同じで、外のモノをいくら嫌われたって、私はなんともない。相手がいなくなっても、望むなら同じような"行動"を出力してくれる代わりを持ってくればいい。
 だから、嫌われることはそこまで怖くない。嫌われることが怖いという人がいるというのも理解はできるけども、共感も擁護もできない。だってそれは、幼いから。他人に自分を好きでいろという無償の義務を押し付ける、素朴すぎて、無責任な考えだから。
「あ、そうか……」
 ぽっと漏れ出てしまったような、独り言か語りかけとも判然としない理容師の呟きが、私を思考の沼から掬い上げる。しかし、言葉は続かない。言うべきか迷っているようだった。
「どうしたんですか?」
 声色と鏡に映る表情で、常識の範囲内ならどうぞお構いなく、と伝える。変に疑問を残されても、どちらもいい気持ちにはならない。
「お客さんに見覚えがあったわけをね、思い出したんですよ。でもちょっと、直接お会いしたわけではなくて」
「どういうことですか?」
「いやあ、だいぶん前に来た方がね、お客さんの写真を持ってきたんですよ」
「え……」
 予想の斜め上を行く答えに、不安というよりも単純な疑問が優先する。心当たりがない。そもそも理容室に他人の写真を持ってくる理由は? 私の髪形を真似たかったということ? もちろん、やはり私とよく似た他人の写真だという可能性もあるけども。
「男性の方でね、お客さんのことを恋人だっておっしゃってましたよ」
 あの人が? ますます意味が分からなくなっていく。
「それで、この女性の髪形に似合う髪形にしてくれって。正直困りましたけどね、そんなご注文初めてでしたから。だから思い出せたんですが」
 理容師はこちらの反応をうかがいながら――もちろんそれは怯えるといった様子ではなく、どちらかというと気を遣うといった様子で――、慎重に言葉を紡いでいく。当然だ。万一の場合、写真を持ってきたのが私の知らない男だったら、恐ろしい話になってしまう。ストーカーとか、そういう可能性もあるだろうから。
 彼は私が思い浮かべている可能性に思い至ったようで、急いで付け加える。
「もちろん、盗撮されたものとかじゃなかったですよ。その男性とお客さんが並んでる写真でしたし、親しそうな感じですから」
 私は、肺に張り付いた空気を吐き出して、大丈夫ですよと微笑んで見せる。正直、安心した。私にストーカーなんているはずないし、そもそも彼が言う通りなら……
「その写真は、きっと私じゃありませんよ」
 あまりにきっぱりと告げた私に、彼は少々面食らったようで、次の言葉まで一瞬間が空く。
「……ああ、そうでしたか! 人違いでしたか!」
「はい。きっと私とよく似た方がいるんですね」
 ――だって私の恋人は、私の髪形に、あまり興味がありませんでしたから。
 飲み込んだ言葉。彼との付き合いの中で、何度か望まれるような髪形にしようと試してみたこともあった。だけども、ついぞ一度も彼がそれを褒めたり、喜んだりすることはなかった。彼はいつも、いつも通りだった。
 理容師は一つ胸のつかえがとれたようで、若干重々しかったハサミの動きも軽快になっている。
 そう、彼であるわけがないのだ。恋人の髪形に自分の髪形を合わせるほど恋にのぼせていたのなら、人生を謳歌していたのなら、三年前に突然死ななかっただろう。生きているのが楽しいはずなんだから。少なくとも警備部門だからって、他人を守って自分が死ぬなんてことは、なかったはずだ。

◇◇◇


 衣装の受け取り場所の確認のためにスマホを開く。メッセージアプリに一件の通知。横隔膜のあたりがもぞもぞと疼いて、スマホの重量が増した。差出人は見なくてもわかる。兄だ。
 兄はずっと、こうして定期的に連絡を寄こしてくる。大抵は近況報告と、私の現状に対する質問だ。特に、恋人とか、友人だとかの話を聞いてくる。それで私は、情報管理部門が用意した"体のいいメッセージのリスト"から適切な誤魔化しを選んで、それをあしらう。兄の中での私は、数人の親しい友人がいて、何度かの恋愛を経験している。
 ああ、面倒だろうに。こうしていつまでも連絡を送ってくる理由がわからない。
 ――わからない? どうして?
 この疑問符は思考の開始点ではない。思考をせき止めるための壁。咄嗟に口を抑えるように、流れ出した考えを止めるための、冷静な監視人が司る水門。押し寄せる波を抑えるために、疑問は連絡の理由から、もっと大きい異変へ向けられた。すなわち"どうして自分は連絡の理由を気にしているのか"ということに。
 今まで兄がどうして連絡をしてくるかなんて、ほとんど気にしてこなかった。一つの解答を持っていて、気にする必要がなかったから。
 兄は、良い兄でありたい。そのために、私を気にかける。両親も死んでしまった今では、唯一の肉親であるという義務感もあるのかもしれない。兄が私に求めている条件は、気遣いを素直に受け入れて、適度に感謝すること。それが、兄が良い兄であることの証明になって、兄の自尊心を満たすだろう。だから私は、熱心にではないものの、それに応えられるだけの返事を書いているつもりだった。
 つもりだったんだ。すでに水門はひび割れている。監視人の目は潰れている。どうしてかわからない。このタイミングで、私はそれを自覚してしまった。
 あの兄が、私の返信が単なる無味乾燥な誤魔化しであることに、気づいていないわけがないんだ。
 どれだけうまく繕っても――たとえ財団の潜入要員が仕込まれる演技指導を受けたとしても――いくら感謝の言葉を並べたところで、それが虚構であるのは明らかだ。だって私は、母と兄が険悪になってから今まで、一度だって直接感謝の言葉を伝えていないのだから。
 それなら、兄は私に何を求めている? 私は、何に応えなければいけない? ああ、気持ちが悪い。私は、兄が嫌いだ。どうして、兄は私と連絡を取ろうとするのだろう? 兄が父と家を出ていった日から、ずっと。
 真っ先に掘り起こされた風景は、自宅の前の車一台しか通れない狭い道と、そこにぎゅうと押し込んだように止められた白いバン。父の仕事場のロゴが入っていて、中には父と兄の持ち物が詰め込まれていた。母は家から出てこない。高校にあがったばかりの私と、目線を合わせるようにかがんだ父。そしてその横の兄が、外で肌寒い秋の風に吹かれていた。
 円満離婚、といえるのかもしれない。特に争いもなく、すべては決まった。言い出したのは母で、実質母が兄と父を追い出したようなものだったが、誰もそれに抵抗はしなかった。私は父と母のどちらについていくか選べたけれども、もちろん母を選んだ。
 目の前で私を瞳に映す父は、得体の知れないのっぺらぼうだった。小さな頃は多くの時間を父と遊んですごしたようだったけども、中学にあがったころくらいからだろうか、突然、彼が形の定まらないもののように見え始めて、それからはなんとなく避けるようになっていった。父は冷たくなった私に何も言わないどころか、今までと何か違った態度をとるようなことはほとんどなかった。それがまた、彼の形を隠していった。
「サヤカ」
 父が、私の名前を呼ぶ。いつも通りの緩んだ表情で。
「それで、お兄ちゃんと一緒に来る気には、やっぱりならないのかい」
 爽快を舐めとるような生暖かい風が吹いた。私は首を横に振った。父は少し目を伏せた。そのとき、私は久しぶりに父の輪郭を見た。急速に彼が人の形を取った気がした。そのために、うん、と頷けないのが残念で、また怖くもあった。
 母と同じように無視を決め込んで、家の中に引きこもってしまうこともできた。それでもこうして見送りに出てきたのは、きっと将来父の援助が必要になるからだった。母の稼ぎだけでは大学進学、ひいては一人暮らしとなったときに心もとない。自分でアルバイトで稼ぐという選択肢もあるにはあるが、受けられる援助は受けたかった。
 そのために、父が喜ぶような"理想の娘"の印象を、最後に少しでも刻み付ける必要がある。だから、首を横に振ったあとで怖くなった。これで印象を損ねてしまえば、将来の不利益になるから。だから、思ってもいないことが口から流れ出た。
「本当はもっとお父さんと一緒にいたいけど、そういうわけにもいかないから」
 さらに、すこし微笑んでまで見せる。父の穏やかな表情の裏を、切実さが横切った。
「それなら今からでも……」
 私の手を握ろうと、父の腕が伸ばされる。だけども、それが私の手に達する前に、父の肩を、兄が掴む。
「父さん」
 兄の言葉で父は動きを止めて、ゆったりと立ち上がる。そして、二三の言葉と別れの挨拶を交わした後、車に乗り込んで消えていった。そして、私と兄が残った。
「母さんのこと、どう思ってる?」
「好きだよ。お母さんも、私のことを愛してくれてるし」
 心からの答えだった。母を選んだのは、父が嫌いだからという消極的な理由ではない。私は母を愛していて、母も私を愛していた。私の贈り物を母は喜んで、母の贈り物に私は喜んだ。
「それは」
 兄は言葉を、声が突然枯れたように、そこで打ち切った。兄の言いたかったことが、兄の内側で何かに阻まれたことが、そしてその何かが良識であったことは、容易に想像できた。だから、私はそれの追及をしなかった。兄は失った言葉の代わりに、それでも枯れ枝が重なり合ってこすれるような声で尋ねた。
「父さんと、俺は?」
「それ、直接聞くこと?」
 笑って誤魔化す。本当は嫌いだ。二人とも、見えない幽霊のように私を追い詰めていく。だけどもそんなこと、言うべきでないのは明らかだった。
「いや、俺はでも、大事だから。サヤカのこと」
 大真面目な表情で兄はそう言った。秋風が、兄と私の間を吹き抜けていく。
 そう、そういうところが嫌いだ。気持ち悪い。母からのそういった言葉は心地良かった。だけども、父と兄の言葉はそうではない。とにかく受け付けられない。邪悪で、昔スパイ映画で見た、ギャンブルのシーンのセリフのようだ。笑顔で相手を気遣いながら、それは相手を逃がさないための罠で、最後にはきっちりすべてを徴収する。相手はすべてを奪われて、破滅する。
 吐き気を抑えるために閉じようとする口を、震わせながら無理やり薄く開いて微笑んだ。ありがとうとは言わなかった。
 兄の表情は覚えていない。吐き気でうずくまりたいのをこらえるのに必死だった。それから父がまた車から出てきて何かを言っていたけども、それも記憶にない。覚えているのは、兄が車に戻る直前、
「よろしく」
 と、私の靴へ視線を落として呟いたことだけだった。結局、何を頼まれているのかはわからなかったけど、私は曖昧に頷いた。父と兄はそうして、我が家から追放された。
 その日の夜のうちに、兄からメールが来た。内容は、父が言ったことの反復だった。要は、いつでも頼ってほしいということ。永遠にそういう機会は来ないだろうと思ったけども、私は母と並んで映画を見ながら返事を考え、その日が終わる前に、当たり障りのない返事を送信した。
 そうして、そんなやり取りを続けたまま、今に至った。兄が送り、私が返す。そのストロークが、違法駐輪を取り締まる鎖のように、私にぐるぐると巻き付いてくる。罰金の書かれた違反切符は日々増え、鎖はますます重くなっていく。
 鎖は断ち切らないといけない。
 ことん、と音がした。我に返って、急いでいつの間にか手から滑り落ちたスマホを拾う。無地のロック画面に表示された時刻が、早く次のタスクをこなせと告げる。私は早歩きで、入り組んだサイトの通路を右に曲がった。

◇◇◇


 ほとんど人のいない服飾部門のメイク室。何度かの衣装合わせは済んでいて、今日はもう受け取りだけだった。
 扉が開いて、すっかりお互いの顔も覚えた担当者が入ってくる。彼が気づくのに合わせるように、小さく礼をする。
「それじゃあこれですね。特に前と変わってるところはないので、着方も大丈夫ですか?」
 彼が差し出した紙袋を受け取って、はい、と首を上下に揺らす。お礼の言葉を続けようと小さく息を吸い込んで、突然肺が伸縮を止めた。やや遅れて、香りの侵略を脳が理解する。白檀とシトラスの香り。気道で、肺で、胃で……細胞壁を越えて全身を内側から染め上げようとするそれに、脳は肉体を固めて対抗するけども、そんなことはお構いなしにそれはすぐに脳を浸し、麻痺させてゆく。
「あの、香水……」
 それは、現実の確認だった。目の前にいるのが、あの服飾部門の彼であることの。香水の種類が知りたかったわけではない。それはすでに知っている。かつての恋人がつけていた香水だから。
「あ、わかりますか。変えたんですよね。購買で売ってるやつで。もしかして、強かったですか?」
 目の前の男性は無邪気に笑って見せた。上手い笑顔だ。そう、それは笑うのが下手な"彼"とは違う。
「いえ、違うんです。ちょっと驚いてしまっただけで」
 らしくない動揺と、胃を撫でる吐き気を抑え込むように、笑顔を作る。節くれだった指、どちらかというと低めの身長、目の前の男性は"彼"ではない。当然だ。"彼"はもう消えた。なのに、どうでもいい疑問が頭に反響して、あの居候の不快感が暴れ出す。腸を伝って全身に行き渡り、ついに実感を伴って吐き気を加速させる。変なことを聞いてしまうのですが、と前置いて、吐瀉物の代わりに質問を吐き出す。
「この衣装、手が込んでますよね。何度か調整もしてもらってますし」
「そう、ですね。そういう部類には入ると思います」
「その分って、ちゃんとお給料とか出てるんでしょうか?」
 彼は一瞬キョトンと止まって、それから控えめにからからと笑った。
「ええ、はい。大丈夫ですよ。ちゃんと時間外労働の分はいただいてますし、難しい仕事はボーナスでも考慮されますよ」
 きっと彼は私の気持ちを「手間をかけた申し訳なさ」として読み取ってくれたのだろう。安心させるような微笑みをこちらにむける。正体不明の吐き気は再びどこかに去っていく構えを見せた。けれども。
「それに、この衣装は作っていていい気分でした。注文した方が、着る人のことをとても考えていることがわかったので」
 続く言葉は、その構えを解くのに十分だった。
「それってどういう……」
「注文されたのは多分上司の方だと思うんですけど、着用者に負担の少ない素材やデザインだとか、脱ぐときに肌を巻き込まないチャックだとか。細かいところまで指定されていたので」
 ぱっと主任の顔が頭に浮かんだ。昔から――かつて上司ではなく、同僚であったころから――変わらない、恩着せがましく笑う顔。
 また、あなたですか。
 頼んでいなくても、たとえ断ったって、何かと私に構ってくる。煙たいし、何より気持ちが悪い。
「そうなんですか。あとでお礼を言っておかないと」
 そうですね、と笑う彼から逃げるように、手短に言葉を交わして、メイク室を後にする。主任の顔はまだ頭から消えていかない。不安が変質して、不快感が歯ぎしりを伴う。これは不安というより――
 ――あれ、痛い?
 じんわりとした痛みと熱を、右耳の下あたりに感じた。指で触ると、かさぶたができているのがわかる。その形からすると、きっと朝の毛の処理のときに切ってしまっていたのだろう。
 おかしい。痛みを感じていなかったのがおかしいのではない。むしろ、痛みを感じるのがおかしいんだ。最近は痛みに対してずっと鈍感になっていた。それは年のせいだと思っていた。
 けれど、今感じている痛みはそれを否定する。私の中の、私の知らないところで、何かが綻んでいる。見るもおぞましい体躯をした蛇が、綻びからこちらに何かを語りかけようとしている。きっとこのままでは、今日の仕事を台無しにされてしまう。
 一度、深く呼吸をする。こんなに混乱をさせられたのは、かなり久しいことだった。
 幸い、原因はわかりやすい。そして、私にとって害があるなら、いつもと同じようにつながりを絶てばいいまでだ。今までそれを先延ばしにしてきたツケが、ここで現れてきたのだろう。
 スマホを確認する。まだ時間は早いが、早い分に問題はないだろう。
 部屋に戻って少し休むという予定は、回らされた踵に擦り消された。


◇◇◇


「あれ、早いですね」
 ペンで額を突きながら踏ん反り返っていた後輩の研究員が、驚いたように姿勢を直す。
「時間に余裕があったので。主任は居ますか?」
「いいえ、今日はまだ。それなら先に今日の計画の確認しますか?」
「そうですね。そうしましょう」
 後輩──私を抱くオブジェクトの担当研究員──は、あらかじめまとめてあっただろう書類を手渡す。計画の進行と、オブジェクトの基本情報。添付された写真には、歪んだ半透明なマネキンが写っている。オブジェクトの基本的な姿と考えられているものだ。髪のない、堀が深い西洋系を模した顔立ち。やや筋肉質な上半身は、しかし浮き出でるはずの血管など表現されていない、不自然なほどに滑らかな曲線で構成されている。肩から腕をたどっていくと、あまりに細く、少しの衝撃で折れてしまいそうな指に行き着く。これが私に向けられたのが始まりだった。
 その日はオブジェクトからの聞き取りに、補助として参加していた。知的好奇心旺盛なそれは、財団が書籍を提供することと引き換えに、収容に協力すること、自身を作った要注意人物について語ることに同意していた。
 聞き取りは最初順調だった。オブジェクトはつらつらと聞きとりに応じ、私は撮影用のカメラを確認する以外に特にすることもなく暇を持て余していた。しかし途中から、それは徐々に情報を出し渋るようになっていった。
「全て話してしまったら、今の良い環境も、新しい本も得られる保証がなくなってしまいますから」
 と、それは言う。もっともな言い分だ。自分がもはや財団の欲する条件を満たさなくなれば今の関係も成り立たなくなる、ということをよく理解しているようで、それがまたオブジェクトの知性を際立たせていた。聴取室の白い壁に囚われ、目の前の男さえポリカーボネートの板の向こう側に隔てられている。そんな圧倒的弱者としての自分の立ち位置を冷静に理解できるオブジェクトは多くない。
「そこは維持するよ。信じて欲しい」
 後輩は、至極真面目に説得を試みる。オブジェクトは困ったように顔を横に振って、その形をそれがかつて見たであろうオレンジ色のつなぎの男に変化させた。
「彼にもそう言ったんですか?」
 後輩は何も言わない。言葉に窮したというよりも、下手な口説きは諦めて、有効な取引材料を探しているようだった。
「私、欲しいものがあるんですよ」
 オブジェクトが元のマネキンに戻って、口を開く。目の前の研究員の目が一瞬光ったのを見逃さず、それは続ける。
「愛の経験です」
 研究員の大きなため息が無機質な壁に吸われていった。彼が数度、机をペンで叩く音。それ以外の音が一瞬、途絶する。
「もっと詳しく説明して欲しい。つまり、何が欲しいんだい? 俺でよければ、できることはするが」
「いいえ、私が愛したいんですよ。もっとわかりやすくいいましょう。私が愛せそうな人を見つけて、性交をしたい。どの本でも、性交と愛は深い結びつきにある。そして、愛は人間の最大目標のように語られる」
 それは微笑んでいたが、下卑たニヤケ面などではなかった。むしろ目の前の白衣を着た人間がよくするような、純粋な興味の漏出としての笑みだった。
「……わかった。約束はできないが、人を探してみる。まずは、性別の条件から聞こう」
 研究員がペンを持ってメモの用意をするが、しかしそれは首を横に振って、代わりにその細く美しい人差し指を、ゆっくりと、花弁が開くように可憐に伸ばした。その先には私がいた。
「彼女が良い。少し手を加えれば、もっと理想に近づく。それなら愛せそうです」
 後輩は私の方を振り返らなかった。振り返らずとも、返事は決まっていると言った風に。
「あのなあ、そんなことが認められると――」
 しかし彼は振り向くことになる。私が後ろから彼の肩を掴んだから。怪訝そうな表情。私が頷くと、彼はすべて理解した様子で、「正気ですか?」と問うように首を傾げた。私はもう一度頷く。彼は何か言いたげだったが、口には出さず、またオブジェクトの方に向き直った。
「……いや、とりあえず、考慮はする」
「ありがとうございます。返答を楽しみにしています」
 オブジェクトは満足気に頷く。それから二三の質問と返答が繰り返されて、聞き取りは一旦終了した。オブジェクトが収容室に護送されて、聴取室には後輩と私が残される。
「先輩、本気ですか?」
 後輩はパイプ椅子の背を抱えるように座って、カメラを片付けている私を目を細めて観察していた。
「それが一番手っ取り早いですから」
「いやあ、とはいえって感じですよ。Dクラスを整形したり、まあ最悪ぶっ壊すぞって脅せば、必要な情報は得られると思いますし」
「どれもリスクや経費から考えれば、得策とは言えないですよ」
「研究員をオブジェクトと直接接触させるってのも、相当得策とは言えませんけどね」
「"替えがない"研究員なら、そうでしょうね」
 後輩は立ち上がってパイプ椅子をたたみながら、小さく息を吐く。
「あーあ、この話したら絶対主任怒られます」
「そのときは私を差し出してください」
「なら、そうさせていただきますよ」
 彼は書類をまとめて一足先に聴取室を出ていった。
 今、目の前で淡々と計画の説明をする彼は、そのときの背中の印象と重なる。一般的には失礼で思いやりのないといわれるだろうが、やりやすい、好感の持てる相手だった。十分な給料と、やりたい研究ができる環境があればいい。それ以外は自分にとって害にならない限り気にしない。非常にわかりやすい人間だ。
「と、事前説明はこんな感じでいいですかね。先輩ならもうわかってたことだとは思いますけど」
「問題ありませんよ。手続きは大切です」
「それじゃあ……」
 彼がデスクをガサガサと漁って、一枚の紙を取り出す。びっしりと詰め込まれた細かい文字列と、署名欄。
「実験計画に参加者として同意するなら、これにサインをお願いします。このあと別件があるので一瞬席外しますけど、サインしたらあとで僕のデスクの上においておいてくれればいいので。なんかあったとき面倒なんで、ちゃんと読んでくださいね」
 わかりましたよと頷いて、同意書を受け取る。彼が整理されていないデスクから色々と引っ張り出して部屋を出ていくのを横目で見ながら、規約を確認する。当たり前だが、大体は命令書と同じことが書いてあった。
 ああ、そうか。やっと腑に落ちた。命令書から感じた違和感。不快感――
 静かにドアノブが回されて、扉が開く。顔を上げるまでもなく、誰が入ってきたかがわかる。
「こんにちは、主任」
「……サヤカ、もう来てたんだね」
「はい。少しお時間をいただいて構いませんか?」
 主任の表情がパッと明るくなった。彼女の案内のままに、部屋の奥にある主任室に通される。主任室といっても、デスクが一つあって、あとはファイルや資料が大量に詰め込まれた棚があるくらいの殺風景なものだ。棚の上には何枚かの写真が飾られている。その中には、かつて私と彼女が同僚であった頃に並んで撮った写真もあった。彼女は自分のデスクに座って、私の発言を待ち遠しそうに待っている。何を予想しているのかはよくわからないが、それはきっと間違っている。
「部署の異動を希望します」
 私の言葉に、彼女は凍り付いた。おかしな笑顔を顔に張り付けたまま。
「え、異動? 今日の実験の話ではなく?」
「はい」
「……どうして」
「こんなもの出すからですよ」
 鞄の中から命令書のコピーを取り出して彼女のデスクに置く。
「私が私の発案、私の責任の下、この計画を成功させれば、それなりの功績として認められたでしょう。でも、あなたは自分の命令という形にすることで、その機会を奪ったんです」
 失礼なことを言っているという自覚はある。ただ、この命令書が私を不快にしているのは紛れもない事実だった。怒るか、それとも落胆するか。俯いた上司が顔を上げるのを待つ。だけども、今度は私が予想を裏切られる番だった。
「違う」
 彼女は至って冷静だった。その目は、怒りよりもむしろ悲しみのような。落胆よりむしろ憐れみのような。
「いえ、あなたがどういう意図であったとしても、結果として……」
 ここで押し負けてはいけないと、詰まる声を無理に押し出して反論するが、彼女は静かに、だけども力強く私の言葉を打ち切った。
「そうじゃない。私はサヤカの言い訳が間違ってるって言ってるの」
 息をのむ。一瞬の静寂。彼女は私の言葉を待っている。
「言い訳? 何のことですか?」
「もう、兄さんに縛られなくていい」
 じっと私を見つめる主任の瞳が、彼女の兄――かつての恋人のあの瞳に重なる。その瞳に映る私を見たくなくて、視線を逸らす。
「彼と今の話に何の関係があるんですか」
「きっとサヤカが求めているのは、功績なんかじゃない。借りを返す機会でしょ」
「……言っていることがよくわかりません」
「あなたは、兄さんに捨てられたくないだけ。だからそうやって、兄さんが守った世界に貢献して、お返しをしようとしてるの。でも、何もかも間違ってる。兄さんが守ったのは世界じゃない。あなたでしょ」
 異常なグラフ。カレンダーの9月16日の欄の、並んだ二つの「休」のマークにつけられたバツ印。鳴り響く警告音と縺れた足。迫る悲鳴。諦め。あるはずのない笑顔。濡れた温もりと蘇芳に染まった世界。送り出す手。再び動き出す足。フラッシュバックしたすべての光景がニューロンを焼き切っていく。
 歪みそうになる表情の動きを止めて、息を深く吸いこむ。違う。確かに、私は守られた。だけど、
「詭弁です。世界を守るのは財団の責務です。彼はそのために、自身の職務を全うしたんです。ちゃんと、個人としては感謝していますけど、それとこれとは別です」
「頑なにならないで。認めたら何も返せなくなるから、認めない。でも、何も返す必要なんてないんだよ。それは借りじゃないんだから」
 主任が立ち上がる。勝手な考えを押し付けないで。それに、私を見ないで。宥めるような目は不快だから。
「言っていることがよくわかりません。とにかく、後日異動願を持ってきますので」
 後ろを向いて、出口へ一歩踏み出す。
「ダメ。行かないで。確かにあなたが望むなら、私は止めはしない。でも、私はあなたを、あなたのことを見てる。兄さんもそうだった」
「主任、あなたはもう私のお友達じゃないんです。上司なんですよ。主任こそ、私に無駄に気をかけること、もうやめてください。もっと守るべきものはあるはずです」
「あなたはきっと、そのよそよそしい態度を私が主任になったからっていう。だけど、そうじゃない。兄さんが死んだときから……」
 振り返らずに、立ち止まる。言うべきことは決めていた。
「もうやめましょう。彼はもういないんですよ。それに、失礼ですが、彼の死で私が悲しんだことはありません」
 後ろから声は響かない。私の足音、イスが軋む音、ドアが開く音。

◇◇◇


 衣装の入った紙袋を置いて、自室のベッドに寝転ぶ。昔から、主任のような掴みどころのない人間を相手にすると、必要以上に疲れてしまう。だけどもまだ一つ、処理しなければいけないことがある。スマホを取り出して、メッセージアプリを開く。先ほど届いていた兄からのメッセージに返信をして、それから付け加える。
『昇進しました。これから、ちょっとその関係で忙しくなります。なので、今度からはこんなにこまめに連絡送ってくれなくて、大丈夫です。たぶん、返せないと思うので。ちゃんと、年賀状は出します』
 それから、ブロックの項目を探す。メッセージアプリをあまり使わないせいで、作業に手間取る。突然画面が暗転して、スマホが震えだした。兄のアイコンが表示されて、画面の下の方には緑と赤の選択肢。
 正直、出たくなかった。疲れてしまうから。だけども、今ここで出ないと兄はまたいらぬ心配をして、またしつこく付きまとってくるに違いない。
 指で緑のボタンに触れ、スマホを耳に当てる。近況を聞かれたら、万事順調だと。かつて追い出したことを責められたなら、謝罪を。
 もしもし、と先手を打って、久しぶりに聞く兄の声に備える。
「ごめんな」
 兄の第一声。記憶より幾分枯れた声。予想外の不意打ちに、脳が撃ち抜かれる。その衝撃が延髄を震わせ、呼吸が止まる。どうして、あなたが謝るのか?
「ずっと謝りたかったんだ。あの日、俺と父さんが、サヤカを置いてった日のこと。きっともう言う機会はないだろうから。今のうちに。ごめん」
 何を言っているの? 違う。私と母さんが、兄さんと父さんを追い出したんだ。
「父さんは最後まで、サヤカを連れて行こうとしてた。本当はそうすべきだって、俺もわかってた」
 勝手に決めつけないで。私は、自分で決めてあの家を選んだの。あなたたちと離れられて、私は嬉しかった。安心した。
「でも俺は止めたんだ、父さんのこと。だって、もしサヤカを連れて行ったら、誰が母さんを満たしてあげるのかって、怖くなって」
 父の肩を掴んだ手。震えていた手。引きつっていた頬。
「俺は母さんのこと、嫌いになれなかったから。それで、サヤカも母さんも大事で、わからなくなって。中途半端な結論でサヤカに辛い仕事を任せてしまった」
 よろしく、と私から逸らされた目。逃げだしたそうに一歩引かれていた足。
「母さんは、うまく愛されることができなかったから。いつも証明を求めて、信じることを他人任せにしてた。その証明の仕事を、任せてしまったんだ」
 私を褒める母の甘い声。柔らかい手。兄に向けた蔑みの表情の裏にあった、ヒステリックな叫び。兄の言葉で、脳が詐欺に騙された老人のような従順さで過去を再構成していく。やめて、私の記憶を触らないで。
「母さんにとって、愛するってのは買い物みたいなものだったんだと思う。買い物なら、商品さえあれば店員なんて誰でもいい。でもさ、そうじゃないから、愛するってのはきっと。見るのは商品じゃないからさ。それで母さんは、愛されることができないから、愛すこともできなかった」
 そんなことない。母さんは私を愛していた。私は母さんを愛していた。
 否定したいのに声が出ない。無理に声を出そうとして、せき込んでしまいそうになる。
 ――『お母さんが亡くなったのに、落ち着いていて頼もしいわねえ』
 母の葬式での親戚の言葉。頼もしくなんてない。失ったって……
 母さんは私に「母を愛する娘」としての行動を求めた。それで私は、母から衣食住を保証してもらった。それで、衣食住は父からの援助でどうにかなることがわかってた。だから、失ったってほとんど何も感じなかった。焦る必要はなかった。私と母は、行動と衣食住でつながっていただけだから。もちろん、母は娘としての私が、私は衣食住を提供してくれる母が、とても大切だった。そういうものでしょ? 人と人のつながりって。それは愛じゃないの?
 ――『あなたのことを見てる』
 私を見るって何? 母は――母は、私を…… 私は……
 彼は……彼は私を? "私の何かを"じゃなくて、"私を"? 違う。嫌われるのは怖くなかった。いなくなっても、辛くなかった。私はそんなの、認められない。
 ――お父さんは、サヤカがどうあっても……
 掘り出されかけた父の言葉。急いで意識を逸らしても、あの日見えた父の輪郭が、また急激にぼやけてきた。気持ちが悪い。すべてが私を囲んで逃がそうとしない。
「俺はずっと不安だったんだ。サヤカが母さんの味方をするようになったころから、サヤカまでそうなるんじゃないかって。そしてあの日サヤカを置いて行って、そのせいで、もしこの先サヤカが愛すことも愛されることもできなかったらって」
 出ろ、声。戻れ、戻れ!
 スマホの向こうで無責任に出まかせをいわないで。そうやって私を騙そうとしないで。
「でも、だから、すごい嬉しかったんだ。サヤカに仲のいい友達がいて、今はわからないけど、恋人がいるっていうのが。ちゃんと見つけたってことだと思うからさ、母さんとは違うものを――」
 ――やめて。そんなもの、ない!
 気道に詰まった栓の隙間に無理やり空気を通すように、きゅうと息を吸い込む。できるだけ動揺を気取られないように、見えるわけないのに笑顔を作って言う。
「あ、ああ。ごめん、うん。わかった。でもちょっと、今時間なくてさ」
「ああ悪い。でも言いたいことは言ったから、もう大丈夫。一方的に話しちゃってごめんな。またなんかあったら全然連絡して。俺はいつでも――」
「うん。じゃあね」
 逃げるように電話を切った。手が震えている。ぐちゃぐちゃになった頭を冷ますように深呼吸を繰り返す。
 みんな嘘ばかりついて、私を惑わせようとする。私は知っている。彼らが語る宝石は存在しない。たとえ彼らが存在すると思い込んでいたとしても、それは思い込みなんだ。
 落ち着かない鼓動を無視して、ベッドから飛び降りる。……まだ時間はある。私は、証明しなきゃいけない。

◇◇◇


 息を切らしながら実験室に辿り着く。時間はちょうど。ギリギリ間に合った。後輩があくびをしながら出迎える。
「ああ、よかった。来ないかと思いましたよ」
「ごめんなさい、ちょっと準備に手間取って」
 すぐに即席の更衣室に入って、衣装に着替える。黒っぽいスカートにアンバーのセーター。私が着ても年相応に見えるくらいの、落ち着いた色合い。
「一応実験中の監視は女性職員に任せますけど、なにかあったとき、そこはこだわれないんで、よろしくお願いします」
「もちろん、問題ありません」
 後輩から最後のチェックを受けて、オブジェクトの待つ部屋に入る。
 白い部屋にベッドが一つ、それと一脚しかないパイプ椅子に座って、歪んだマネキンが本をめくっていた。それは、こちらに気づいて顔を上げる。
「……うん。いいですね」
 マネキンは満足げに頷いた。それのガラス細工のような指が、私の頬に伸び、顎を下って、首をさする。その造形を確かめるように、何度も、何度も。
「あなたの出した注文は、これで満たせていますか?」
「はい、これなら愛せそうです」
 凹凸だけで形作られたそれの表情が、無邪気に、知的に微笑んだ。その声は、ふわふわと綿あめのようで。暖かく、私を撫でるようで。頭の中で何度も響き、背筋の力を抜いていく。きっと、それに重ねた印象は錯覚だけれども――
「よかった。安心しました」
 できるだけ無表情に努めた言葉は、それでも嘘ではなかった。
 それは私の表情を確かめながらゆっくり近づいて、スカートのホックに手を伸ばす。私は小さく首を振りながらそれの目をじっと見つめて、その手をそっと掴む。
「始める前に」
 私はセーターの中に忍ばせた、小さな写真立てと香水を取り出す。
「こちらの願いを聞いてもらっても?」
 マネキンは写真をじっくり見ながら、微笑んで頷いた。
 蜃気楼のようにそれの周りが滲む。その輪郭が水彩画のように溶け、色づいて、一人の男性の形を取った。先ほどまで埃をかぶっていた写真に写る男。長身なのに、覇気のない、柔和な男。
「これで、良いですか?」
「はい、ありがとうございます」
「いえいえ、私の本来の役目ですから。こうやって、望まれるように着飾るのが」
 彼は私の手から香水を受け取って、首のあたりにワンプッシュした。ほのかな白檀とシトラスの香りが広がっていく。
「それでは、始めましょうか」
 ベッドの横に移動して、スカートと下着を脱ぐ。彼が腰に手を回す。
 ――あなたは決して私の服装も、髪形も褒めなかった。全部が愛しいとか、訳の分からないことを言って。だから私はあなたの何を満たせばいいかわからなくて、あなたのことが好きじゃなかった。
 導かれるままに、ベッドに横になる。覆いかぶさるように、彼の顔がぐっと私に近づく。
 ――私が捨てたのは、誕生日にもらった手鏡。あなたと一緒に見た映画のディスク。二人の予定を書き込んだカレンダー。だって、もう古くなって、いらなくなったから。
 彼の唇と、私の唇が接する。乾いたオブラートの感触。
 ――映りこんだ私の緩い表情じゃない。
 私の舌のすべて撫でるように、彼の舌が絡められる。自分の意志ではない何かが口の中で蠢く、懐かしい、異様な感覚。
 ――アクションシーンなのに感じた不思議な平穏じゃない。
 顔が離れて、彼の表情が、記憶に刻まれた表情が、はっきりと見える。
 ――二人の休暇が重なったときの暖かさじゃない。
 熱く湿った吐息が、頬にかかる。
 ――そんなものは、最初からない。だって、そんなものがあったら、彼の一挙手一投足が私を喜ばせていたとするのなら、私は彼に返しきれない。返しきれないなら、関係はそこで終わってしまう。
 白檀、それとシトラスの香りが、吐息とともに体をくすぐる。胸を、腹を、足の付け根を。
 ――いや、終わってもよかったんだ。そういうものだったんだ、あれは。今までと何の変わりもない。私は何も変わらない。
 舌の感触。暖かく、ざらりとして、柔らかな絨毯のように私を撫でる。
 ――だってもし、私が"彼の何かと"ではなく、"彼と"つながっていたのなら。誰かが"私の何かを"ではなく、"私を"見ていたのなら、
 ローションに濡れた手が、ろっ骨のなす丘陵を越えて降りていき、裂け目を濡らす。
 ――父が私を忘れて死んでいったかもしれないのが、
 その指は小さな蕾の周りをぐるりと一周した後、つーっと一直線を描いてまた上へ戻っていく。
 ――兄が私を捨ててしまうかもしれないのが、
 指が螺旋を描くように私の胸を登っていく。
 ――かつての同僚が私に失望しているかもしれないのが、
 戻ってきた顔が、私をじっと見つめている。その瞳は黒々として、何を映しているのかはわからない。
 ――彼がもういないのが、二度と取り戻せないものを失ったのが、
 再び、閉じた唇同士が接する。浅く、短く。
 ――怖くなってしまう。どう対処すればいいかわからない恐怖に飲まれて、私は消えてしまう。
 顔が耳元へ降りていく。吐息が、耳を熱する。
 ――だから、これは証明だ。誰も"私を"見ていないし、私は"誰かを"見ていない。今も、昔も。
 何かが囁かれて、彼の突起が私の突起に押し付けられる。
 その小さな感触は下がって行って、やがて押し開けられるような感覚に代わる。彼が小さく声を漏らす。彼のそれが、私の隙間に入ってくる。
 香りも、体つきも、表情も。すべてが彼のものなのに。
 ああ、それなのに。
 ――痛い、なぁ。

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