サイト-28、燼滅せり

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光源のない暗闇の下、“工事現場”の建物のキッチンの隅に隠れてからどれだけの時間が経ったのか、ハンスにはもはや確かめることはできなかった。自分の隣で共に震えている妻と一人息子、そして同じく狭い部屋の中に押し込められた家族がもう2組、それらが彼の心の支えの半分であった。事件の発生からおそらく2日半ほどの時間が過ぎており、それでも自分と愛する家族たちとがどうにか命を繋いでこれていることを、この上ない幸運なことであるとも理解していた。

マンハッタンのダウンタウン、ソーホーの閑静とは言えない住宅街で暮らしていた彼の日常は、2001年9月11日、真紅の闇によって塗り潰された。南から押し寄せてきた大小入り乱れる“悪魔”の軍団によって自分と家内の住処が押し壊される前に、彼は家族を連れて家から脱出しなければならなかった。外は文字通りの“地獄”だった。立ち込める硫黄の煙に鼻を焼かれながら、彼は家族の手を引いて走り続けた。程なくして、彼らは一つの避難所を見つけた…少し前まで、“工事現場 立入禁止”と描かれた黄色と黒の看板によって長らく封鎖され続けていた、グリーン・ストリートの一区画。赤と黒に染まる空の下、そこには看板の代わりに一人の警備員が立っていた。その胸には2つの紋章が掲げられていた…一つは内へと向いた三本矢印、もう一つはエンパイア・ステート・ビルディングを模した簡素なピクトグラム。

「財団です。ソーホーの住人に対し、私たちはグリーン・ストリートの32ヶ所の無人家屋を避難所として提供します。家屋内部は可能な範囲で清掃されていますし、私たち“シティ・スリッカーズ”が皆様を危険な異常存在から守ります。共にマンハッタンの危機を乗り越えましょう」

守護者たちの言葉を心の支えのもう半分として、ハンスは事件の一刻も早い終焉を信じて待ち続けるしかなかった。しかし、いまハンスが目の当たりにしている超常テロ事件、歴史に鮮烈に刻み付けられるであろう前代未聞のクライシスに対する備えは、守護者たろうとする者たちにとっても、その実、決して盤石なものではなかった。


「畜生、妖魔界実体の数が一向に減らない!」
「こちらエコー、Π-1に残された銃弾の在庫はあとどのくらいだ?」
「水の聖別が間に合わない、硫黄を含んだ火薬が悪魔になんて効くものか!」
「アノマリーを潰すのはGOCの仕事だろうに、どうして我々がサイトの防衛力を最低限に抑えているのか奴らは知ってんのか?」

財団機動部隊Π-1、通称“シティ・スリッカーズ”の日常業務は、マンハッタンをはじめとする人口密集地に現れ、住民に被害を及ぼすアノマリー・オブジェクトの早期発見、早期収容である。そのため彼らが有する武装は市街戦における隠密性を重視したものであり、現在のような“地獄の釜”で役に立つものであるとは必ずしも言えなかった。そのような状況下で、無人家屋を利用した散在する偽装ロッジを開放し、合計で100名を超える避難民を抱えた状態のサイト-28は、彼らの手だけで防衛し切るには些か規模が大きすぎるものであった。

「地下の哲学連中は何をやっている?宗教には奴らの方が詳しい筈じゃないのか」
「サイト-28図書室は奇跡術に関する資料を部屋中に広げたまま膠着しています。サイト全体に広げるだけの防護結界を展開するには資源が少な過ぎます。喫緊の事態ではやむを得ないとして、トンプキンス管理官はサイト内に収蔵されている物品の“芸術的価値”を代価に支払うことを許可しました」
「何でもいい!とにかく、とっとと悪魔共を追っ払え!」

サイト-28はグリーン・ストリートのアパートの一つを中心とした、アートに携わる超常存在を収集する施設であった。3年前のヴェール崩壊以前も少しずつ増改築を繰り返していたこのサイトは、今ではマンハッタン市街で公然と流通するようになったアナート(超常芸術品)の監視業務や、地下の図書室に貯蔵されてきた傍流科学の周知活動も兼ねなければならず、更なる大規模化が推し進められていた。それにも関わらず、マンハッタンの国際連合本部ビルにほど近いという立地が災いして、収容所の防衛に必要とされる正面戦力の設置は未だ叶わず、世界オカルト連合のお膝元に縋るものとして彼らに治安の維持を一任しなければならなかった。結果として、連合が財団もろとも「それどころではなくなった」今回の事例では、隠密用の貧相な武装だけで悪魔の軍勢をいなし続けなければならないという無理難題ともいえる状況が、Π-1の部隊員たちに突きつけられてしまっていた。

「まずい!5番区にJaheemクラスが雪崩れ込んだ!あの家には一般人が少なくとも10人は居るぞ」
「こちらベータ!急ぎそちらに向かう!」
「頼む…必ず救援が来る。それまでは何とか持ち堪えてくれ!」

財団の機動部隊が共有している無線端末を握り締めたΠ1-アルファ、部隊長であるグレゴリー・ピアースの全身には玉のような汗が迸っていた。地獄の熱のせいでも、悪魔に向ける恐怖からでもない。その汗は、避難民たちを守り抜く使命から生まれるものだった。


「自分の棲家に対して君がどのくらいの感慨を持っているのか分かってやれないのは残念だが、」

サイト-28管理官、エイブラハム・トンプキンスの語りかける先には、人影はない。彼が立っているのはアパートの入口に広がるロビー、サイト-28の始まりとなった場所である。部屋の装飾に用いられているのは全てが奇妙に捻じ曲がった彫刻のみであり、通路の脇、壁の彫り込み、天井から下がる照明に至るまで、それらが所狭しと並べられていた。

「いま、君の住む所は失われようとしている。歴史上だれも経験し得なかったような暴力の炎によって」

そう言いながらトンプキンスがロビーの奥深くに投げ込んだのは、Π-1の部隊員によって接近戦でどうにか組み伏せられた、1体のTartarean実体であった。果たして悪魔の顔は周囲の彫刻と同程度には醜く歪んだものであり、耳の奥から細々と立ち昇る黒い煙が、頭頂部の二本の角を覆い隠すかのように広がっていた。

「この地を襲撃しているのは決してこれらの悪魔だけではないと、私は信じている。悪魔の軍勢と契約し、私や君のようなマンハッタンの住人、そして我々が作り出してきたアートの数々を叩き潰そうとしている輩が、必ずどこかに潜んでいる」

トンプキンスはそこまで語り終えると、部屋に背を向け、アパートの入口のドアノブへと手をかけた。

「SCP-602。君がこの状況を芸術のために役立てようと思うかどうかは君の自由だ。良い返事をくれることを期待している。アートの自由を守ることにかけてね」

トンプキンスがアパートを出て硫黄の煙の中へと消え、ロビーの中には生きているものは居なくなった。既に息絶えた1体の悪魔の身体が静かに持ち上げられ、その角には「自然な悪魔の肉体」から逸脱する方向へと更なる撚りが加えられようとしていた。アパートの主が創作しようとしているものは、この時に限っては、単なる調度品ではなかった。


「喜べ!ついに他の機動部隊と無線が繋がったぞ!」

いつまで続くとも知れぬ血と炎の戦場において、Π1-アルファことピアースが歓喜の叫びを挙げたのは、9月14日の明け方であった。携帯端末を左手に握って声を張り上げながら、彼は反対側の手に構えた電撃銃で妖魔界実体の一列横隊を瞬く間に薙ぎ倒した。麻痺してその場に蹲る赤と黒の実体群を踏み越えて迫ってくる次の横隊は、サイト中央棟から30メートルの距離で一様に静止した…サイト地下で展開されている防護結界は、ある程度までなら効力を持っているようだ。ピアースは銃を構えたままで携帯端末を耳に当てる。

「こちら、機動部隊Γ-119、“制空権”。聞こえるか?」
「もちろんだ!Π-1“シティ・スリッカーズ”、サイト-28の防護を継続中!」
「了解!我々はチャールトン・プラザまで前線を進めることができている。間もなくサイト-28まで到着できるだろう。申し訳ないが、それまで耐えてくれ!」
「恩に着る。避難民113名と共に、貴殿らの武運を祈る!」

既にサイト-28を構成していた無人ロッジの半数以上は煙を噴く悪魔によって蹂躙された後であり、そこから焼け出された市民たちはサイト中心のアパートに集められていた。数十人の一般人を不可視の気難しい彫刻家と共に匿うことをピアースは快く思ってはいなかったが、他に彼らを地獄の焦熱から守る手立ては残されていなかった。幸にして、彫刻家は怖れ慄く一般人たちを芸術品の素材とは見做さなかったようであった。

「アルファ、Γ-119の到着までどのくらいかかるかわかるか?」
「彼らは“間もなく”と。今は彼らを信じるのみだ!」

そう叫んだピアースは結界を乗り越えようともがいている次のターゲットを薙ぎ払うべく、スコープに視線を戻した。


「AO-03431、ロストを確認。“取引先”はまだ満足しないようだ。クセナキス、次はAO-12922を取ってくれ…」

超常文明課の職員であるクセナキスが手元の資料から即席で組み上げた魔法陣の中へ、サイト-28中央棟の地下に備蓄されていた異常芸術品を次々と放り込み続けていたトンプキンス管理官は、財団がこの3年で変わりつつあることを肌身で感じていた。

「こんなこと、3年前にやっていたら懲戒免職ものだ」

ヴェールが剥がれる前、「正常な世界の守護者、異常性の保護者」であったころの自分であれば、無実の一般人を守るためとは言えど、サイトに厳重に保管されてきたオブジェクトを今ほど容易く消費する発想は決して浮かぶことは無かっただろう。ポーランドの狂想曲から3年、今の財団は「世界の守護者」となっていた。正常・超常の区別なく、守るべきは世界であり、故に財団の行動指針の優先順位も自然と変化した。それが彼ら自身の意に沿うものかはともかくとして、トンプキンスの行動はサイト管理官として今や決して荒唐無稽な内容ではないのである。

「博士!スクラントン-アンカーの計器に異常な反応があります」
「クセナキス、どうした?」
「これほどのヒューム変動は私たちの魔法陣によるものでは説明しきれません。おそらく、サイト-28近辺に奇跡術か現実歪曲か、あるいはその両方を使える何者かが接近しています!」
「その条件を満たす連中で今来てくれて嬉しいのはGOCくらいのものだが」
「あいにく私はU-HECのEVE放射を実測した場面を見たことはありませんが、おそらくそれよりは小さな変化です。味方にしろ敵にしろ、大部隊ではなさそうです」
「むう…」

希望とも絶望とも取れない状況にトンプキンスは歯噛みする。

「ひとまず、仮に異常な反応の原因が新たな敵勢力であったとしても、今の我々の装備では先制攻撃は現実的でないし、何より悪魔に対する防護は続けねばならない。我々は守護者としての責務を全うし、一般市民の未来を肯定する。クセナキス、現在の任務を続けていてくれ」

魔法陣の維持へと戻るクセナキスに背中を向けながら、トンプキンスは言いようのない不安を胸に抱えていた。サイト管理官の立場として、部下に恐れを悟られるのは得策ではない。彼は階上に屯している避難民に対する今一度の鼓舞を行うため、振り返らずに地下を出てロビーへと戻っていった。

暫しの後、魔法陣を見ているものは居なかった。


「排撃班フォーナイン・第2小隊、ソーホー上空へ浮上。これよりサイト-28方面へ進行を開始する」
「サイト-28との無線連絡は財団の機動部隊が抑えている。私たちはサイト到達後に前線基地を構築する」
「第1小隊のスポーンまでにはまだだいぶ時間がかかる。オーディアンも第1小隊に同行している。サイト-28で彼らを迎えられるようにしろ」

バックドア・ソーホーへ繋がる未完成の狭いポータルをかなりの重労働の末に突破した、橙色の超常兵器の群れ。世界オカルト連合が誇る邪径技術の結晶であり、組織化された専門の排撃班が搭乗することで緻密な連携による効果的な面制圧を可能とする、U-HEC…通称“オレンジ・スーツ”。排撃班9999“Max Damage”から選び抜かれた精鋭たちが、パイロットを務めている。しかし、現時点で悪魔の巣へと到達できているのは班員の1/4、わずか4人に過ぎない。残りのメンバーの迅速な輸送には、サイト-28を確保して十分に巨大なポータルを生成する必要があった。

「前方に不詳な飛行実体の群れを確認!鳥の群れだ。下方に先行する財団機動部隊を確認、襲撃を受けている」
「気を付けろ!あれは同族殺しをしているぞ」
「生贄だと?なんとまあ高尚なこった」
「奴らに一発目をぶち込むぞ。構えろ!」
「マンハッタン救援隊に祝砲を!ファイアー!」

フォックスが構えたU-HECの小銃は今まさに爆熱を生じかけていた“生ける魔法陣”を片っ端から打ち落とし、完成しなかった術式は知性を持つ鳥の群れを吹き飛ばして霧散した。

「目標撃墜を確認!幸先のいいスタートだ!」
「オーケー、このままサイト-28まで飛行を続ける」
「ストップ!イージー!6時方向の目標物を確認しろ」

レーダーに映り込む小さな影であっても、GOCの排撃班は決して見落とすことはない。

「何者だ!」
「あれは人間だ!航空能力を有する小型車両に搭乗しているようだ。アイボールで確認する…目視可能な範囲では3人。顔は見えん。黒髪の小さな女、灰色髪のでかい男、それから肌の濃い男が運転をしてる」
「CIの構成員ファイルと照合可能か?」
「確認中…おそらく運転手はカシアン・ヤルゼルスキ。先月からアホみたいに大量の戦争資産をマンハッタン中にばら撒いてきた策士だ。おそらくは残り2人も、かなり上位の構成員だと思われる」
「被害の拡大を招いた張本人たちのお出まし、ってわけか。粛清許可は?」
「4人全員で行う任務をサイト-28防衛の他に増やすのは容認されないと思うぜ。俺はジョージと共にサイト-28への進行を優先する。対象の追跡はイージーとフォックスに任せるぞ」

4機の超重交戦殻は二手に分かれ、片方は東へと進行を続けた。そしてもう一方は、ハンドルがついたボードのような物体で空中を駆ける人影を追い始めた。どんなに小さな粛清対象であってもどこまでも追いかけ、最後には見事に撃ち抜いて見せるのが、彼らのプロたる所以だ。先行するエアボードから放り出される小さな点と点が、次々と空中で炸裂していく。U-HECの装甲に影響を及ぼすような威力とは到底言えないが、硝煙によってボード上の人影は速やかに覆い隠されていった。

「うむ、肉眼での残り2人の照合は間に合わなかったが、機影はレーダーに映り続けている。目眩しは無駄だ。追跡を続けられそうか?」
「ええい、さっきからチョコマカと…」

硝煙に身を隠した状態のまま、極悪犯罪人のグループを載せたエアボードは地獄の空を縦横無尽に駆け巡る。巨体を誇るオレンジ・スーツが小型飛行車両と完全に同等の敏捷性を発揮できる状況は限られている。しかし、スペック面の制約を乗り越えて目標の追跡を続行できるだけのフライトスキルは、排撃班9999のメンバーなら全員が身につけているものだ。

「追い続けろ!絶対に逃がすものか」

今や高速で動く一つの黒雲と化した目標を追跡し、2台のU-HECは北へと進路を変更した。


図書室で魔法陣を見つめていたクセナキスは、徐に懐から1匹のカエルを取り出した。3日にわたる籠城戦の間に両生類へ水を与えられる機会など存在しなかったにもかかわらず、塵と紙と木片に覆われた室内に場違いな緑色を輝かせるカエルは至って活発であった。クセナキスはカエルを頭に載せた状態で室内を一通り見渡した後、カエルを宙へと放り投げた。小さな生命は魔法陣へと続く放物線の頂点に達すると、そのまま中空で音もなく消え去り、後には何も残らなかった。

「…一般市民の未来、ねえ。貴方は一度くらい後ろを振り返った方が良かったと思うよ、管理官」

1分後、クセナキス一人だけが残っていた地下室は突如として黒色の煙に包み込まれた。部屋の中央から吹き出した風圧によって舞い上がった塵の中から、最初に覗いたのは緑色のカエルであった…1匹ではなく、3匹。続いてそのシルエットを露わにしたのは、2つの人影。1人は年端も行かない女の子、もう1人は熊と見紛う巨体の男。財団職員としての公務への興味はとっくに投げ捨てていたクセナキス…そう呼ばれていた人物は、マンハッタンにおける“本当の友人”に対して歓迎の挨拶を投げかけた。

「…レオーニ、か」
「2人ともご苦労さん、こんなすぐ来てくれるとは思わなかったよ」
「ここの空気も汚いが、ずっと煙の中を飛んでいるよりはマシだ。しかしエーリッヒおじさま、呼び出しに応じて本当に良かったのか?北側の防空網は未完成だぞ」
「続きはツィカダが一人でやるから問題ない…北部区域は主戦場からは外れる。しかしお前も全く皮肉な名前をつけたものだな。奴がポーランド出身なのを知ってて選んだのか?」
「ま、分かりやすければなんだっていいよ」
「それなら、もう少し名付けのセンスを磨くべきだろうな。ロシア人にドイツ名をつける前にもう少し何か候補を捻り出す暇があったはずだ」
「割と気に入ってるんだけどなあ。とにかく、そろそろ増援が来そうだって話があったし、3人でさっさと終わらせちゃおうか」
「全く、もう」

テロ事件の重要人物のものとはとても思えない剽軽な会話を交わしたのち、3人は再び大量の煙と共に消失した。図書室には今度こそ静寂が戻った。


「クソッ、敵はあと何台いる?」
「最低でも18台は目視できる。VERITASには映らねえ…無人のオートマトンだ。破壊されても向こうは痛くも痒くもねえ」

ソーホーから少し北のチェルシー方面から編隊を組んで市街地を爆走しているのは、1台1台が街道に立ち並ぶ家屋に勝るとも劣らない体積を誇る青と白のロボット兵であった。それらの上空を確保しているイージーとハウの2名の排撃班員には、機械のヘッドセットの天面に血のように濃い赤で彩られた爬虫類の頭蓋骨のロゴマークが、何処までも続いているかのように感じられた。

「近年、中東方面に密輸されていた超常兵器の一員だろうな…ラプターテック・インダストリーズめ」
「この巨体じゃ地上を走り回られるだけで更地がどんどん増えるぞ。無論サイト-28までバッチリ射程範囲内だ。この野郎」

そう吐き捨てながらハウのU-HECが放った光弾は、最も手近の地点から実弾による対空射撃を繰り返していた1台のオートマトンのヘッドセットを正確に射抜いた。撃たれた対象は炎上する黒い塊となって沈黙した。超重交戦殻が人口密集地で任務を行う機会は珍しく、そのためには専用の主砲が必要だ。仮に普段通りの武装であったなら、爆裂した破壊対象が撒き散らすオイルと火花が半径50メートルの家屋を丸焼きにしてしまっていただろう。

「コイツ!スーツの脚にしがみ付いてきやがった」
「ハウ!高度を上げろ!」

別のオートマトンが油圧シリンダーの最大伸長制限を無視した稼働を行い、鉛直に伸びた両腕でハウのU-HECの右脚部を捕らえた。ハウはブースターの出力を全開にして離脱を試みた。スーツと共に持ち上げられたオートマトンはこれ幸いとばかりに空中でアームを自切し、両者の真下に残っていた焼け残りのアパートメントを踏み潰した。その間にも、奥に広がる残りのロボット兵団はスピードを緩めることなく南進を続けていた。

「ラチがあかん!バックドア・ソーホーのポータルまで潰されようものなら一大事だぞ」
「イージー!レーダーに謎の反応!後ろから突っ込んでくるぞ」

ハウの叫びに反応したイージーの機体が方向転換しようとした矢先、黒煙に包まれた物体がU-HECへ側面から衝突した。小さな爆炎が上がったが、イージーの機体は衝撃で反対側へ少し押し出された程度で済んだ。大怪獣との肉弾戦にも耐える装甲は、人が無理して3人乗るようなサイズのエアボードの衝突程度では傷一つ付かない。

「イージー!ハウ!済まない!」
「フォックスか!追跡対象は!」
「今しがたお前に衝突したのがそれだ…畜生…無人じゃないか」
「何だと…煙幕に乗じて飛び降りでもしたのか」
「あの高さからじゃ無事では済むまい。何か隠し玉があったに違いない」
「フォックス!ジョージ!追跡ご苦労だった!だが、ここでまごついていると蜂の巣にされるぜ!直ちにロボットの掃討に移るぞ!」

再び4人となったフォーナインの第2小隊は、未だ地上から覗く無数の砲口へ向けて、それぞれの照準を定めようとしていた。


「間もなく財団の救援部隊がここへ到着します。我々の仲間です。彼らは今、ここから西へ4ブロックの地点までたどり着いています…我々を救うため、地獄の手先と激戦を繰り広げています。彼らは少しずつここへと近づいています。皆さん、もう少しの辛抱ですよ」

人間を丸ごと加工したかのようなグロテスクなシャンデリアの下で身震いしながらトンプキンスの演説を聞いている市民の中には、妻子と共にハンスの姿もあった。アパートの窓から得られる情報からは、ハンスには状況が好転しているようにはあまり見えなかった。黒い鳥の群れ、オレンジに輝くロボット、箒に乗った黒影、得体の知れぬ白い巨影、そしてポツリポツリと空から降ってくる小さなピンク色の物体。これら空を飛ぶ物体が着実に数を増しており、それが敵なのか味方なのかも彼には理解できていなかったからだ。

「世界オカルト連合の排撃班は、マンハッタンの救援隊として橙色の大きなロボット・スーツを飛ばしています。彼らがここへ辿り着けば、もう安心です」

さっき窓から見えたオレンジの影は明らかにこのアパートの方を向いてはいなかったように思う。何かあったのか。

「繰り返します、救援がまもなく到着します。皆さんは今一度ここで待機していて-」
『取り込み中だったら申し訳ない。こちらΠ1-アルファ。報告がある』
「ちょっとお待ち下さい…ピアース?こちらトンプキンス。民衆にこれ以上不安材料を与えるのは好ましくない」

ヒソヒソ声で無線を返すトンプキンスに対し、ピアースは淡々と報告を返した。

『明らかに悪魔じゃない連中が防護結界のラインを乗り越えようとしている…生きているか死んでいるか微妙なところだが、とにかく悪魔じゃない。CIの戦闘員だ。ざっと1ダース、飛び道具もたんまりだ』
「畜生!奴らを絶対にここに入れさせるな!ここには避難民のほぼ全数が集まってるんだぞ」
『問題ない。幸い、数ではまだ我々に分がある』

トンプキンスは自分の顔色を変えまいと奮闘していたが、あいにく彼がわざわざ民衆の眼前で話していた都合上、ショックは瞬く間に市民に伝染した。何人かの避難民が叫びながら立ち上がり、アパートのドアに殺到し始めた。ハンスも我慢の限界を迎えかけていたが、だからといってここよりマシな場所があるとも思えないだけの理性はまだ残していた。しかし、瞬く間にドアは他の我慢ならない避難民によって開け放たれた。室内へと吹き込む風を通して、外の熱気が自分がここへ逃げ込んだ時よりも明らかに強まっていることを、ハンスは肌で感じ取らざるを得なかった。

「待ってください!ドアは勝手に開けないで!危ないから-」
『いや、管理官、こうなったら中央棟のドアは開けておいてもらえないか』
「急にどうしたんです、ピアース」
『602だ。奴が加勢する』

トンプキンスが反論するより早く、サイト-28中央棟のロビーの空中を何かが高速で横切り、開け放たれたドアから出て行った。管理官は自分が数時間前にSCP-602にかけた言葉を思い出した…いま外に出ていったのは、奴が悪魔実体を“彫って”作り出した武器なのだと、トンプキンスは理解した。


『わかった、ドアは開けておく。市民の護衛を続けてくれ…仕事を増やして本当に済まない』
「気を使わないでくれ。一般人の保護は我々のいつもの仕事だ」

トンプキンス管理官へ慰めとも激励ともつかぬ無線を返したのち、ピアースは自らのもとに集合する機動部隊Π-1のメンバーを改めて見返した。皆、使命感に溢れた瞳を携えてはいるが、流石に3日も休息なしで戦い続ければ隠しきれない疲労は現れてくる。振り返れば、パニックになってサイト-28中央棟から駆け出してくる数人の市民の姿が見える。彼らは強い危機意識に急かされて避難所を脱出したは良いものの、やはり悪魔の包囲網は越えられずに立ちすくむことしかできない。Γ-119が到着するまで残り3ブロック。泣いても笑っても、市民を守るためのΠ-1の仕事はこれが最後になるだろう。

「皆のもの!最後の踏ん張りどきだ!俺についてこい!」

鬨の声を上げる部隊員と共に、ピアースはサイトに接近する敵へと突っ込んでいく。激闘を通して漸く数を減らし始めた妖魔界実体に代わり、新たな敵となったのは死体の山だ。カオス・インサージェンシーに腕のいい妖術師か肉体操作者が居るのか、はたまた乱高下するヒューム値による蘇生事故か、ともかく人肌を求めてサイトに向かってくる亡者たちを1体でも通すまいと、Π-1部隊員はありったけの銃弾を掃射し続ける。

「オーケー、期待通りだ。彫刻家は我々に味方した!」

Π1-ガンマの頭のすぐ横を突っ切って前線へと躍り出るのは、宙に浮く悪魔の彫刻、言うなればガーゴイル像。奇異にねじ曲がった体躯と角の形状を見れば、製作者がサイト-28における最初のオブジェクト…SCP-602であることは、Π-1部隊員の全員が即座に察することができた。ガーゴイル像はかつての大好物だった硫黄の臭いを漂わせる様々な色の粉末を口から勢いよく噴出し、一斉にライフルを構えようとする亡者の群れを覆い隠した。そこへΠ1-ガンマが電撃銃を1発打ち込むと、霧状になって漂っていた硫黄火薬は一気に大爆発し、その中に群がっていたゾンビたちを瞬く間に焼き払った。

「いいぞ!派手にやっちまおうぜ。救援隊のいい目標にもなる」
「ガンマ、まだ敵の数は多いぞ!気を抜くなよ」
「もちろん」
「待って!妙です。アルファ、サイトの防護結界が消失しかかっています」
「なんだと?哲学家連中に何かあったか?結界なしじゃこの数を相手に全方角の防護は無理だぞ」
「今はもう後方を窺うタイミングじゃない。とにかく前を向いて撃ち続ける!」

後方の遥か上空から小さな爆発音が聞こえ出したのは、ちょうどその時点からだった。ピアースはその音を聞き逃さなかった。

「ガンマ、止まれ!後ろを見ろ!あの音が聞こえるか?」
「サイト-28本館が空から攻撃されている!」
「爆発物の投下か!包囲網よりもよっぽど直接的な危険だぜ」
「我々の目的は民衆の保護だ!すぐに防衛ラインを後退させろ。中央棟だけは守り抜け!」

ピアースは即断し、Π-1のメンバーと共にサイト-28の中心へと戻っていく。無論、ゾンビと悪魔の方に銃を向けておくことは忘れない。それまで縦横無尽に宙を舞っていた爆裂ガーゴイルは突如として落下し、悪魔の群れの中に落ちて爆発した。不可視の彫刻家にとっての一番の目的もまた自身の棲家の維持であり、彼は我先に中央棟へ飛び込むだろうと、ピアースは理解していた。今やサイト-28本館の上空には、無数のカップケーキの雲が形作られていた。


『サイト-28…の到達まで残り1ブロック…密集する悪魔と…の群れを掻き分けて進んでいる…』
「トンプキンスだ!こちら敵方の空襲を受けている!もう一刻の猶予もない!Γ-119!Μ-13!何としてもすぐ来てくれ!」

ノイズが激しくなった携帯端末を完全に破壊しかねないほどの力で握り締めながら、トンプキンス管理官は半狂乱になりかかった状態でサイト-28の屋上へ登っていた。元より大規模な襲撃に対処する経験がお世辞にも多いとは言えない彼であったが(なにしろサイト-28は国連本部に備わる防護網の恩恵に預かっていたので)、テロ事件の開始時から現在まで一睡もできておらず、100人以上の避難民の無事が今や脅かされようとしており、そして手元の機動部隊員だけでは到底対処しきれない空からの攻撃が唐突に始まったとなれば、平静を保ち切るのはもはや難しい相談となってしまうのも無理はなかっただろう。空から降ってくるお菓子の洪水は、爆発する高度を少しずつ、しかし着実に下げてくる。

「クセナキスは何をやっている?結界はどうなった?奇跡術が維持できなくなったらすぐ報告しろと伝えてあるのに」

地下の図書室が既に無人となっていることなど、管理官は知る由もなかった。どのみち、トンプキンスにはΠ-1や救援隊との連絡を取り続ける仕事がある以上、今以上に通信環境が悪い場所に向かうことは許容できる行動ではなかった。

「ああ、クセナキスだったらここに居ますよ、トンプキンス管理官」

トンプキンスが声に反応して後ろを振り返ると、そこにはクセナキスが二人いた。片方がもう片方を抱えており、抱えられた方は見たところ既に首を刎ねられて事切れている。

「馬鹿な!いつ入れ替わった?」
「前ばっかり見るのは止めにした方が良かったね、財団の管理官どの。僕らが財団の大きなサイトの間取りを知らないわけないでしょ。僕らだって財団なんだからさ」

死んだクセナキスを脇に置き、“クセナキス”は直ちに拳銃を構えてトンプキンスの方向に歩き出す。

「このサイトから情報を頂いたのは2年くらい前だったかな。こうなる前に建て替えとくべきだったね。僕らは知ってる場所にならいつでもどこからでも行けるんだよ、今日は3時間くらい前にちょっとお邪魔させてもらったんだ」

“クセナキス”のズボンの横のポケットから、小さな緑色のカエルが顔を覗かせる。

「…SCP-2394」
「そういうことさ。結局、君たちは異常存在を手懐けるにはまだ早かったってこと。一般市民が異常を扱えないから君たちが守るって言ってるけど、君たち自分のことも守れてないじゃない」
「我々に対する脅迫のために市民を巻き添えにする必要がどこにあるんだっ…」
「君ら自体が問題なんじゃないのさ。僕らが心配してるのは世界全体の方向だよ」

偽物がつらつらと減らず口を叩いてる間にも、ケーキの雨は既にサイト-28の天井へ届かんとしていた。

「ま、時間をかけすぎたね。管理官どのにはこの辺で息を引き取って頂こうか」
「待てっ…」

無慈悲に引き金に指をかける“クセナキス”は、しかしその引き金を引くことはできなかった。彼は唐突に苦悶し始め、その体は不可視の何かによって乱暴に宙へと持ち上げられた。

「何をするんだ!離せ、この…ッ」
「602か?君は私を助けてくれるのか」
「トンプキンス管理官!ただいま戻りました!」
「ピアース!無事か!外はどうだ」
「既に地上にまで爆撃が届いています、避難民は屋内に退避させました。あとは耐えるのみです」

宙でもがく“クセナキス”の顔面が、不可視の彫刻家によって捻じ曲げられ、その肉体から引き剥がされた。その下には破れた皮膚から覗く肉と血…ではなく、もう一つ別の顔面があった。落ち着いた時に見れば端正で性別を感じさせないような顔に見えたであろうが、極度の興奮によって酷く歪んだそれは、凶悪なテロリストの一員として指名手配されるのも納得の表情であった。

「カオス・インサージェンシー秘蔵のガンマクラス構成員にして、ニューヨーク・セルの管理者…サイラス・アイザックスだ」

ピアースがそう苦々しく言い放った。


“クセナキス”、改めアイザックスは、不可視の幽霊によって身体を掴み続けられ、口も塞がれた状態で大人しく横たわっているしかなかった。

「アイザックスはSCP-602によって無力化された。次の問題を考えなければならない…今からケーキの雨を止ませる方法は?」

トンプキンスは騒々しい黒煙に染まる空を見て虚しげに呟いた。ピアースにも、現在の絶望極まる状況を打開する有効な策はついぞ浮かばなかった。

「すぐ出来ることであれば一つです…電撃銃でケーキを全て誘爆させます」
「無理だ。見たところあれ自体は火薬じゃない。誘爆もしないだろう。何者かが起爆スイッチを握っている…」
「であれば、もはやいつ焼けるかわからない地下に篭るしか方法は…」
「隊長!管理官!あれは…?」

不意に叫んだのはトンプキンスでもピアースでもなく、Π-1の他の隊員であった。彼が指差す先を見ると、無限の黒煙とサイト-28中央棟との間の空間に、横から何本もの光線が差しているではないか。始めは細かった青い光は直ちにその太さを増し、ついには強固な格子を形作った。際限なく爆発音を増し続ける空からの熱波は遮られ、サイト-28の屋上には急な静けさが戻ってきた。

「助かった、のか…?」
「しかし、何者でしょう?」
「奇跡術の用意が間に合って良かったわ!皆さん、財団の方よね?」

光線の射出された方向の空から編隊を組んで飛んできたのは、三角帽子と漆黒のローブに身を包む3人の女性であった。乗り物は言わずもがな、ありふれた日用品の箒である。予期せぬ助け舟に対し心の整理がつかず呆然とするトンプキンスに対し、魔女の先頭が尋ねかける。

「私はシビル・レイランド、境界線イニシアチブから来たものよ。ここはサイト-28で合っているかしら?話はアンリから聞いたわ」
「どうも…アンリ・ド・モンフォール?あの“鉄槌”の?」
「ええ、私たちや彼らもマンハッタンを救うために活動しているの」
「ありがとう…我々はサイト-28の管理と防衛を担当していたものだ。貴女が来なければどうなっていたことか。もうすぐ財団の救援隊も到達する、どうにか命が繋がった」
「貴方たちは本当によく耐えたわね。管理官に機動部隊長?すっかり眠たそうな顔してるわ」
「いや!ご厚意には感謝するが、まずは避難民たちに休息を与える方が先だ。最後まで我々が責務を果たさなければ」


「その必要はない」

緊張の糸が緩みかけていたトンプキンスら3人は、今まで聞いたことのない殺気だった怒声に思わず振り返った。サイト-28屋上の南側に、どこからか音もなく現れた2人の人影。片方は黒髪ロングの少女、もう片方はグレーの頭髪を短く切りそろえた巨漢。

「トンプキンス、あれはヴァシリー・キリアコフ! レオニディオ惨殺テロ事件の主犯だ!」
「貴様らの仕事は俺が肩代わりする。ここにいる全員に安らかな眠りを与えてやろう。ありがたく思うことだな」

キリアコフと呼ばれた男は自身が背負った丸太と見紛う太さの銃身に手をかけ、ホルダーから力強く、しかし冷静に引き抜いてゆく。その動作の間に、隣にいる少女が男の顔を大袈裟に見上げて声をかける。

「エーリッヒおじさま…もうキリアコフでいいか、周知の事実だろう。私は屋内を片付けてくる。上は任せた」
「…シャルロットの単独行動は短時間のみ許可する。3分以内には合流せよ」
「私、シャルロットなんて名前じゃないんだけど」
「俺は生憎お前の名前は知らされていないのでな」
「残念。ああ、アイザックスはもう少しそこでおねんねしてな」
「うぐう…」

横倒しになっているアイザックスの顔が明らかに不機嫌になったのを少女は見逃さなかったが、見なかったことにして階段をスタスタ降りていった。屋上にいる全ての人間の視線が黒髪の少女に、続いてキリアコフに向いていた。

「なぜ一般人を巻き込む?ヴェール崩壊前のお前たちはこんなに手荒な真似をしなかったはずだ」

食い下がるピアースにキリアコフは吐き捨てる。

「貴様らが後退することを忘れたからだ」
「後退?」
「その通り。ヴェールを復旧するための試みを何か行なっているか?何でもいい。異常が流出していくのを止めるでもない、異常部族が人間社会を侵食するのを止めるでもない。それで貴様らはどの面を提げてこの後を生きていく?」
「それがお前たちの目的なのか?未来を捨て、過去に戻ることが」
「語るに落ちたな。貴様らの未来は今に消え去るぞ。“K-クラス”の定義を忘れたか?」

口論を繰り広げる間にも、キリアコフの持つ常識外れの設計がされたハンドガンは次々と展開していく。無骨な円筒形だった砲身は今や三段傘を横倒しにしたかのような形状に広がり、傘の骨に当たる鉄棒の一つ一つの先端に無数の銃口が覗いている。

「P部局時代からの相棒だ。一眠りさせるにはちょうど良い…」
「ここは私が出るわ!管理官たちは市民を守って!」
「レイランド!」
「神の奇跡は銃よりも強いって、相場は決まってるのよ」
「ふん。偽りに偽りを重ねるな…神の信徒を僭称する魔女は万死に値するぞ」
「ええ、今はね」

黒衣を翻したレイランドとその部下は、自身の周囲に球状の防護膜を発生させる。一般的な“神の御技”とは少しばかり差異はあるが、確かに同じ奇跡術の範疇だ。ピアースは、彼女のローブの下から、小さな緑色の足と尻尾がはみ出したのを見た。

「済まない、我々は下へ向かう」
「どうか無事でいてくれよ!」

ピアースはトンプキンスと共に屋内へと戻る階段を降りた。三日三晩寝ていない身体に鞭打ち、僅かに繋がり続けた一縷の光明に縋るために。


「そんな…」

ハンスは地獄の最中にいた。いや、確かに屋外に広がる光景も地獄そのものではあったのだが、それ以上に酸鼻を極める悪夢のような光景がサイト-28のロビーに現出していたのだ。今、彼の横にいる妻子は、最初に階段から吹き出した爆風の第一波が直撃したことで全身が酷く焼け焦げ、今にも息を引き取らんとする状態であった。

「どうだ?私の特性カップケーキの味は?今なら全品タダだ!」

そう言いながら逃げ惑う子供の口にケーキを詰め込もうとしているのは、上から降りてきた黒髪の女である。一体どこからこの避難所に入り込んだのかハンスには全く見当が付かなかった。あまりにも物騒な言動の割に、彼女は相当に幼そうに見えた…おそらく11か12歳くらいだろう。

ハンスにはカップケーキが爆発するという現象が信じられなかった。3年前までなら絶対に有り得なかったであろう異常現象、そして世界を覆う不可視の幕が上がった今であっても、ハンスのような一般人が見る機会はおいそれとは得られないような異常現象。彼女のパフォーマンスは大道芸としては確かに物珍しいものではあったかもしれない…しかしそれを目の前で披露されるとなると、単なる放火と殺人撃以上の何者でもなかった。

「やめろ!やめろ!!私の何が憎くてこんなことを」

ハンスはひたすら叫び続けた。叫ぶことしかできなかった。一般社会の住人が怪異へ対処する方法など3年で習得できるはずがなかった。一方の黒髪の少女はというと、どういうわけかハンスの絶叫に反応したそぶりをして、7歳の子供の口に今にも入りそうだった爆弾をハンドバッグにしまった。おそらく、ハンスの言葉に心を動かされたりしたのではなく、単なる彼女の気まぐれであろう。それも、偶然にも彼女のお目付役、兼、監視員である灰色の大男がこの場に居なかったという事情が揃ってのことである。もしどちらかが欠けていれば、哀れな子供の顔は太陽よりも明るく燃え盛り、そして黒く溶け落ちていたことであろう。

「おや?気概だけはある男だな。私に面と向かって言える度胸。嫌いじゃない」

女は手ぶらの状態でハンスに迫り来る。

「私ね、“悪夢”って呼ばれてるんだ。お前から見れば正にその通りだろう」

正にその通りであった。

「私別にお前が憎くてこんなことやってるわけじゃない。お前には何の罪もない。ただ私が楽しむためだ。それと、上司の命令」
「やめろ。私の妻子にこれ以上危害を加えるな」
「従えないね、お前が私の上司なら別だが」

壊れている。とても話が通じる相手ではない。ハンスは目を閉じ、このあと自分と家族とを襲うであろう熱と光のことを出来るだけ考えまいとした。

「悪いが、これで話は終わりだ。もう寝な」


「申し訳ないがまだ話は終わっていない」

“悪夢”の少女が話を切ろうとした途端、生じるはずだった一瞬の沈黙を銃声が貫いた。声の主は、今し方ロビーへと突入したピアースであった。少女は階段の側を振り向き、それから自身の心臓に空いた直径数センチの穴を見た。

「爆発を抑えるには本体を叩くしかない。それくらいのことは私にもわかる」

遅れて突入したトンプキンスは、しかしそれ以上進むことはできなかった。階段の扉を目掛けて飛んできた特大サイズのケーキが、彼の全身を粘性のある重い生地の中に埋め立てたためである。少女の笑い声が響きわたる。

「お笑い種だな?連合でもないちょっと異常かじっただけの役立たずめが。胸を撃たれたことぐらい誰が見てもわかる」

少女は尚も笑う。彼女が摩っている胸の穴からは、ピンクの砂糖菓子の塊が覗いていた。

「どれ、もう3分かな?キリアコフに怒られても嫌だから私は帰る。別に動かなくていい、私が吹き飛ばせばそれで済むから」

崩れたカップケーキの生地に埋もれてもがくトンプキンスたちの元へ向かいながら、“悪夢”はこれ見よがしに指を鳴らした。…予期されていた爆発は起こらなかった。代わりに、階段の上から吹いた突風がケーキの生地を吹き飛ばし、一瞬後にそれらが細かな破裂音を鳴らすのが聞こえた。

「レイランドと共に来た魔女たちだ!何度も世話になって済まないな」
「シビルは無事です。まだ持ち堪えています」

上階から聞こえて来る大砲のような銃声の連続が、屋上でも熾烈な争いが続けられていることを示唆していた。階下を見ると、“悪夢”は一度ロビーの中央へと下がり、改めて次の獲物を誰にしようか悩んでいる様子であった。まだ息のある避難民は既に爆風による被害で行動不能になっているか、あるいは単に恐怖により気絶しているかで、誰もが無防備な姿を曝け出していた。ピアースとトンプキンスは同時に銃を構え、2人の魔女が杖を持って後に続いた。

「“悪夢姫”、私は貴様から人々を守り抜く。この身に代えても」
「ふうん。相変わらず威勢だけはいい。まあ、流石に十字砲火が相手だと私も少しは考える」
「我々を舐めるなッ」

トンプキンスの号令とともに、4つの銃口から同時攻撃が放たれた。2つは鉛の銃弾、2つは全てを凍らせる光、それらは正確に“悪夢”の脳天を捉えていた。しかし、命中すれば致命打になることが分かっていたそれらの攻撃を、少女は避けようともしなかった。自分が避けるまでもない。それらの攻撃は自分の元まで届かないという確信があった。元来、“悪夢姫”は決して予知能力の類は持ち合わせていない。それでも、彼女が肌で感じた異様な、かつ自分より遥かに巨大な存在から発せられているヒューム変動は、彼女がその予感を抱けるだけの動機づけとして機能した。

「これだから役立たずどもは」


“悪夢”の予感は、本当の悪夢として現出した。少女に命中するはずだった4つの祈りの攻撃は、代わりにサイト-28の天井を突き破って空から大地へと突き刺さった一本の巨大な針に命中した。乳白色、かつ“針”としては奇妙に節くれた形を持つそれは、サイト-28ロビー天井の照明をまず最初に破壊した。その場にいる全員の視界が途絶えた。次の刻、“針”は地面に突き刺さったまま動き出し、天井より更に上を支点にして、サイト-28のドアがある地点までを深く抉りながら滑っていった。最後に“針”が勢いを持って振り上げられると、ソーホーにおける芸術物品保管所の始祖となった建物の一面の壁は、ついに跡形もなく消し飛ばされた。

外に広がる烈火の光が、夥しい量の灰が舞い散る建物内を照らす。ハンスが、ピアースが、トンプキンスが、ほかのまだ息のある避難民たちが、そして“悪夢姫”までもが振り返ってその先を見た。

そこには、神が立っていた。

霞みがかった乳白色の胴体は、さながら妙齢の成人女性のよう。両腕の代わりに、豊かな羽毛に包まれたかのような形状の翼。これもまた大まかにヒトの女性を模った顔。しかし、本来であれば鼻と口があったであろう場所には、代わりに80メートル上空からでも地面まで易々と届く、圧倒的な長さの嘴が存在していた。先ほどサイト-28を上から下まで貫いた針状の物体は、この嘴だったのである。本来、そこに居てはいけないもの。人間に危害を加える神格の最も基本的な条件を、「それ」は満たしていた。

暫しの沈黙があった。最初にそれを破ったのは、“悪夢”の一言だった。

「遅かったな。計画が崩れたかと思った。上層部の計画も案外ちゃんとしてるもんだな」

次に動いたのは、ロビーに居た誰でもなかった。神格でもなかった。サイト-28の屋上にはもう一人、並々ならぬ殺意を抱えたものが居た。それは崩れた天井の端から飛び降り、空中で前転を繰り返しながら神格に背を向けた。そして射撃範囲を最大まで広げたハンドガンを構え、直ちに一斉掃射した。

回転の勢いを抑え切ったキリアコフの両足が地面を正確に捉えた時、代わりにサイト-28の宙へと舞い上がったのは無秩序な血飛沫と肉片の嵐であった。


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「機動部隊Γ-119よりΜ-23に連絡!サイト-28の通信が途絶した!」
「無数の爆発音と断末魔を最後に通信が途絶!」
「サイト-28!応答せよ!Π-1!応答せよ!」
「何ということだ…」
「あと、たったの半ブロックだったというのに…」

「こちら排撃班フォーナイン、ラプターテックの全兵力を根絶!異常次元進入口よりサイト-28までの制空権を確保!」
「第1小隊、準備が整いました!これよりポータルの突破を試みます…」
「サイト-28の存在する地点から巨大な不詳実体が北東へ飛び去ったのを確認!」
「ダメだ!VERITAS、生命反応を検出してくれ、諦めるな!」
「何もかもが一瞬だった…間に合わなかったのか」
「オーディアンよりフォーナイン全隊員に告ぐ。これよりサイト-28“跡”に前線指揮所を建設する。だがその前に、戦没者の収容は完全に済ませるように」


「あの節穴どもが。生きた人間とケーキの塊の区別もつかないのか」
「お前が人間かどうかはともかくとして、デコイの精度は問題なかったようだな。悪くない」
「いい気晴らしにはなった。あと、遠隔操作の実地練習にも」
「仮にお前が本当に下にいたとしても俺は躊躇せず撃っただろうがな。3分以内に戻る命令を破ったことは記録しておくぞ」

ハンスは極度の痛みの中で目を覚ました。意識を取り戻してしまった、と言うべきかもしれない。既に失われた両脚の先から脳髄へと送られ続ける焼けつくような疼痛が、彼を永遠の眠りへと落とすことを妨げていた。ハンスは最早左右を確認する気はなかった。そこに妻子はもう居ない…妻子だったものがあるだけだという絶望的な確信があった。

「ごめんよう、エーリッヒには迷惑かけたね」
「サイラス…カエルのテレポート機能の万全さには確かに目を見張るものがあるが、あまり急な呼び出しはしないで頂きたい」
「ま、無事に終わったからいいってことにして」
「お前が居ない間、セルの防衛は誰がやっていたんだ?」
「ジャンゴに任せてた。今年で87だっけ?それにしちゃずいぶん元気のいい爺さんだね」
「奴の思考もお前のネーミングセンスと同程度には理解できない。作戦中に計画にない神格降臨が発生したら放置しておくよう上層部に進言したらしいが」

どうやらハンスの他には明らかな生存者は居なかったらしく、テロリスト共は誰にも聞かれていないことを前提にして、つい先刻まで大虐殺を繰り広げていたとは思えない呑気さで会話を続けている。

「俺たちがワールド・トレード・センターへ陣取るまでにはまだ少し時間がある。サイラスはどこへ向かう?」
「レオーニって呼んでくれよ。できれば北の方へ、ブライアント・パーク辺りの抑えに行きたかったけど…うーん、今の状態じゃ難しいかも…」
「まあ、結構な怪我だからな。無理せずセルに戻ってもお咎めは来ないだろう」
「ありがとうエーリッヒ、お言葉に甘えさせてもらうよ。幸い、ジャンゴの読みは当たってる…勝手に暴れ回ってる神格は北のアブラハム三大結界をペシャンコにしてくれた。あれに任せきりで数日は確実に稼げるはず…」

妻子の仇たちはゆっくりと立ち上がり、そのうち1人はその場で忽然と消え失せた。残り2人が辺りを見回しているのが、瓦礫の隙間から見えた。

「ああ、そうだ…管理官どのと一つ約束があった」

エーリッヒと呼ばれていた男が不意にこちらへ向かってきた。まずい。だが両脚は既に失われていて、動けない。

「そこのお前。まだ眠れないのか。ウオッカの飲み過ぎか?俺は管理官どのと約束した…この場の全員を丁寧に寝かしつけてから帰るってな」

ぶっきらぼうに告げた大男はそのままハンドガンを構えた。やたらと太い、正面に無数の銃口が覗くハンドガンだ。なるほど、確かによく眠れそうだ。

“Доброй ночи.”

ハンスは無限に続く時間の中で極限の痛みと熱に囚われた。射撃範囲を最小限に絞ったキリアコフの一斉掃射は、一つの無駄弾も出すことなくハンスの身体を下から上まで舐めまわしていった。撃たれた場所の痛みが脳へと届き、ハンスを苛むのが終わる前に、次の弾が少し上の部位を貫き、消し飛ばす。腸が、肝臓が、胃が、順々に血煙へと変えられていく。ハンスが生涯の最期に残した永遠に続くかのような絶叫は、彼の肺が撃ち抜かれた段階でゴボゴボと不明瞭なものになり、首から下が無くなった時点で聞こえなくなった。そして顎を撃ち抜かれ、鼻を潰され、視界が真っ赤になり、真っ黒になった。最後に脳天まで、骨の一欠片も残さずすり潰された時になって、初めてハンスは眠りについた。


灼熱の炎に包まれるサイト-28跡地を尻目に、一心不乱に南へと飛び続ける一つの影があった。

「シビル、敵前逃亡させてしまったことは謝るよ。君をここで失うわけにいかなかったんだ」
「お気遣いありがとう、リドル。私があの場の誰か一人だけでも救えていれば、こんなに泣くこともなかったんだけどな」
「多勢に無勢な以上、君の使命を全うするのはまだ難しいと思うぜ。俺には君1人しか助けられないんだ」

涙を吹き飛ばすスピードで飛びながら、仮初の魔女は自分を選んでくれた使い魔に向けて感情を露わにする。

「もっと多くの仲間がいれば良いってこと?」
「幸い、俺の上司が割と近くに来ているみたいだ。傷を癒すのは、彼に出会ってからでもいいだろう」
「それは光栄ね。その人に仲間をもっと早く救いに行く意思があったらの話だけど」
「まあ、割と気難しい奴なのは否定しない」
「とにかく、会いに行けばいいんでしょう、会いに行けば…案内して」
「話が早い。こっちだ…彼はイーストビレッジの周りをウロウロしてる」

彼女と使い魔は進路を少しだけ東へと変更した。箒の後ろに靡く乳白色の飛行機雲が、今後の24時間を通じて彼女が戦い続けなければならない相手たちを示唆していた。






定礎

サイト-28地上事務所


マンハッタン次元崩落テロ事件中の2001年9月14日午前中、サイト-28はカオス・インサージェンシーの攻撃によって破壊されました。事件発生時にサイト-28で勤務していた財団職員14名、サイト-28に避難していたマンハッタン市民113名(うち非ヒト住民1名)、境界線イニシアチブの先遣隊2名、合計129名がこの襲撃により死亡し、さらにマンハッタン市民1名が行方不明となる凄惨な事件でした。マンハッタン・クライシス全体を通じて、特定の1地点で発生した人的被害としては最大級のものとなります。生存者が残らなかったため襲撃時の情報は殆どが喪失していますが、最低でもカオス・インサージェンシーのガンマクラス職員2名が現場に居合わせており、後にUE-1109へ指定される神格存在の一部が襲撃に加わっていたことが知られています。

以下に、サイト-28崩壊事件の犠牲者の氏名を列挙いたします(敬称略)。

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この場を以って、犠牲となった全ての方々のご冥福をお祈りします。


[下書きここまで]
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tale-jp 1998 マンハッタン・クライシス 世界オカルト連合 カオス・インサージェンシー 境界線イニシアチブ



ショート・ムービーズ

“必ず救援が来る。それまでは何とか持ち堪えてくれ!”
“我々に対する脅迫のために市民を巻き添えにする必要がどこにあるんだっ…”
“貴様らの未来は今に消え去るぞ”


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