万年雪の礎

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透明なフロントガラスの先が白に覆い尽くされてから、もうすぐ1時間が経とうとしていた。傍にあるサーモグラフィーのモニターも全体が一様な灰色に染まっていた。静寂の外気とは隔絶され、暖かな温もりに包まれる運転室の中で、事前に何度も頭に叩き込んだ運搬ルートを改めて鮮明にするために、俺は登山地図を見返していた。

ここはかつて「デスゾーン」と呼ばれた地。地球で最も高い山・エベレストの、中でも頂上に最も近いと言われる高度8,000m以上の区域。そして人類がこの霊峰に挑み始めてから100年間、数多くの登山者の命を奪ってきた酷寒が支配する領域である。しかし、このエリアで出る死者数はここ10〜20年のうちにみるみる減っていた。というのも、安価な反重力ユニット制御技術が一般社会に流通するようになって以来、登山といえば垂直離着陸機で麓から山頂までひとっ飛びで終わらせるのがすっかり主流になったからだ。人々は死の国を訪れる動機を失い、それこそ「そこに山があるから」みたいな崇高な理念を持った連中でもない限り、SCP財団が直々に指定した危険区域であるデスゾーンのことを思考の片隅にでも置く奴は殆ど絶滅危惧種だった…俺のように仕事でここに来ている人間を除けば。

ナノサイズの無数の悪魔たちが唸りを轟かせ、『プロメテウス・コンストラクション』の社名が刻み込まれた八脚駆動ユニットの関節部がゆっくりと持ち上げられる。高熱を帯びた鋭利な脚先はモンスーンの吹雪によって積もる地表の雪を融解させ、その下にある硬い氷板を確かに捉える。駆動ユニットの上には俺が乗っている運転室、更にその上には8,400m地点まで運搬するカーボン繊維の建築資材が山積みされている。いま極寒の山肌を登っている人間が仮に俺以外にいたとすれば、そいつの眼には俺の重機がモノクロの環境に全く不釣り合いな真紅の巨影として映ることだろう。積載量はこれ一機で事足りているし、操作も簡単、圧倒的な頑健さを誇る機体が即時の救援を呼ぶ羽目になることも早々ない。そういうわけで俺はどんな魔境に行く時でも、いつも単独行動でこの巨躯の操縦をやっているのだ。

パラテクノロジーが人類の生活のあらゆる分野に浸透して以来、世界の人口は際限のない増加を続けていた。その上、ホモ・サピエンス以外の知的種族が人間社会に受容されたことも相まって、今や地球上が人類によって溢れ返るのも時間の問題だと言われている。対抗策として、人類は熱帯雨林や広大な砂漠、南極の氷原の開発(あるいは、再開発)に着手した。30年前まではフィクションの舞台として引っ張りだこだった厳しい自然は超常技術によって飼い慣らされ、ごく当たり前な住宅街として生まれ変わりつつある。そして地上の未開領域として高山地帯が残され、その征服のために俺は6,000m帯の開発拠点からこの高さまで重機を駆っている、というわけである。

運転席の傍にある計器が、駆動ユニット脚先が僅かに冷却されていることを示している。チラリとサーモグラフィーの灰色のモニターに目をやると、足元と進行方向に青色の影が点々と横たわっているのが見える。SCP財団が「山頂付近の遺体には気を付けろ」という声明を出していたことを俺はきちんと覚えている。触れる物全てを自らの物言わぬ肉体と同じ温度まで低下させ続ける、というのが財団の発表した超常性だ。尤も、プロメテウス八脚駆動ユニットの心臓に据えられた神的エネルギー交換炉が産生する無限の熱量の前には、これっぽっちの異常性など取るに足らないものであると事前に分かっていた。槍のような脚先に貫かれて砕けた物体がただの氷だろうが凍結した誰かの身体だろうが、それが俺の居る運転席の温もりを拭い去ることは無いだろう。ユニットが前進し続ける限りその全身に暖かな炎のエネルギーを供給し続ける、実質的な永久機関。それが成立するのは、人類に火を与えた叡智の神が、絶え間ない前進を続ける者へ絶大なる加護を授けているからだ。そして神の炎による護りがあるおかげで、俺はこうしてたった一人で安全に死地を乗り越えることができているのだ。

俺が運んでいる物資は、山頂近くに建設を予定しているエベレスト気候変動制御ユニットに使われるものだ。未開拓の地に対して最初に行う業務は人類が居住できる環境を作ること。ユニットが完成した暁にはモンスーンとも冬の地獄のような寒さともオサラバできるだろうし、そうすれば後は今まで他の山々にやってきたように、暖気で露出した岩肌を均して家を建てることができる。地上最高の山が未来の人類を育む地になるのであれば万々歳だ。一方で、気候変動制御ユニットの建設自体には色々な反対意見があった。登山が過去の文化になった後も、かつての登山家たちは「山には神がいる、神聖な王がいる、彼の地を踏みにじるな」、などと口煩かった。要はアニミズムだ。だが反対運動は概ね時間の流れによって解決しつつある。頑迷な古株連中は世を去り、信仰やら悪条件やらを差し置いてでも今の世界にはとにかく土地が必要だという意見が、人口爆発を迎えた各国の世論において多数派になっているというわけだ。そして俺たちプロメテウスはその願いを叶えることができるし、叶える義務がある。叡智の神の名を冠し、その加護を受ける身であるからには、人類社会の発展に邁進しなければ。

サーモグラフィーモニターに映る青い物体が、先に進むごとに数を増していく。重機はその上を無造作に踏み越えて歩んでゆく。その中心にいる俺の脳に、ふと山の死者たちに関する想像が去来する。生前の彼らは前人未到の地を踏みしめようとした偉大な探検家だったのか、はたまた後から山を踏み荒らした傍迷惑な観光客か。いずれにせよ、彼らには彼らなりの目的があってこの地を訪れたのだろうし、その目的は彼らの生きていた当時にあってこそ意味のあるものだ。いま、俺は俺の目的、あるいは社会全体の目的を達成するためにここへ来ている。何事も過去より現在が大事なのだ。そう考えるようにしなければ、俺が過去の先人たちを踏み潰し、剰えそれらを建築基礎の下に永久に封印しようとさえしている所業に対する畏れから逃げられないと感じていた。これは実に不思議なことだ。俺はいつからこんな恐怖を感じるようになった?今までも他の山々で似たようなことを何度も経験してきたじゃないか。

気分を落ち着かせようとして、既に見飽きている地図をもう一度オープンにする。風速を増す吹雪が無ければ、最大の難所と言われる巨大なアイスフォール、「氷の滝」が目の前まで迫っているのが見えるはずだった。数多の登山者を葬ってきた複雑なクレバスと氷塊の群れからなる急斜面だ。とはいえ、我が社の駆動ユニットの性能をもってすれば、登攀におけるリスクは極めて低い。手近に見える断崖に1本目の脚を引っ掛け、それを軸にして斜面に向き直る。フロントガラスの視界が、真っ白な吹雪から少しばかりの水色を含んだ氷壁へと変化する。万事予定通り、出発前に入念に済ませたシミュレーション通りだ。何も問題はない。建築資材を満載した重機が、カニ歩きの要領で少しずつ歩を進めていく。

WARNING WARNING

突然、計器のモニターが警報アラームを発した。明らかな異変。機体の外表温度が想定より大幅に低下している。何故だ?答えは目の前にあった。機体が発する高熱によって氷壁が溶け出し、中から無数の遺体が現れ始めていたのだ。それらは驚くほど精巧に生前の姿を残していて、そして芯まで冷え切っていた。あるものは身体を丸め、ある者は過去の目的地へ向けて片腕を伸ばしたまま事切れていて、またある者は何か小さな形見の品を握り締めていて、ともかく、それらの群れが斜面を這うように動いていた重機に向けて一挙に押し寄せた。相当な重量を持つ機体であったとはいえ足元は文字通り薄氷、亡者の波に抗うことは叶わない。だがこの機体には緊急用の奥の手がある。俺は避難訓練の様相を頭に想起しながら、浮揚ブースターのスイッチをONにした。

赤く染まる機体の下面から噴き出される炎と熱風が、バランスを崩して崖下へと流されようとしていた重機をフワリと空中へ浮かび上がらせる。あいにく高度を稼ぐだけの出力は持ち合わせていないが、死者の雪崩から抜け出るくらいは造作もなかった。機体を揺すり、脚の間に引っかかっていた遺体を振り落とす。凍結した過去の亡者たちは爆炎によって吹き飛ばされ、流れ落ちてゆく群れの一員へと戻っていく。これでひとまずは危機を脱した。次の問題はアイスフォールの先へたどり着くだけの高度をブースターが稼げるかどうかだ。進むか戻るか。俺は空中で少しばかり考え込んだ。しかし、この迷いこそ俺の犯した最も重大なミスだった。

瞬間、機体が重くなったのを感じた。次の瞬間、ブースターによる空中浮遊を継続していた重機は亡者の河の中へ勢いよく引き戻された。突然のことに何が起こったか分からず、俺は大慌てでモニターを見返した。神的エネルギー交換炉の出力が下がっている!プロメテウスの神が持つ辞書に「後退」の二文字は無いということを思い出したのは、機体が浮揚力を完全に失い、その8本の脚を遺体の群れに埋めてからだった。地上で脚を使って歩いている時であれば絶対にこんな事態を起こすような判断はしなかったろうが、空中に放り出される緊急的状況で一瞬の気の迷いが生じたことが命取りだった。

前進も後退も出来なくなった機体では神的炉の熱エネルギー産生が維持できない。機体外表の温度が急速に低下し、真紅の機体表面に白い雪が斑に付着し始めていた。冷たい亡者の群れは非常にゆっくりとした速度で下方へと流れてゆき、俺と重機をホワイトアウトした世界へと誘う。そもそも、この山の一体どこにこれほどの遺体が埋まっていたというのだ?歴代の遭難者の総数より明らかに多いじゃないか。ともあれ、熱を奪い続ける遺体の群れに揉まれている状態であるとしても、運転室内の気温が生命維持不能なレベルになるまでにはまだ幾ばくかの猶予がある。落ち着いてベースキャンプに救援を要請すれば良い。この仕事に就いて以来初めての失態だが、仕方がない。真っ青に染め上げられたサーモグラフィーを脇目に、フロントガラスを注視しながら通信端末に腕を伸ばした俺には、しかし端末の緊急発信ボタンを押すことは叶わなかった。

俺が最初に感じたのは急な安心感だった。俺は助かったという漠然とした安心感。もう大丈夫だと、そう直感した俺は通信端末に伸ばした手を引っ込めてしまった。その手が再び端末に触れることは無かった…一転してこの世の終わりのような寒気が俺を襲ったからだ。俺は自分の視線が動かせなくなっていることに気づいた。寒さのせいじゃないかと思ったが、違う。フロントガラスから10mくらい離れた場所に立って、じっと俺の眼を見つめている何かがいた。死体の河に揉まれてゆっくりと機体が回転しているにも関わらず、それは常に俺の正面にいた。次に気がついた時、それは機体の上に飛び乗っていて、フロントガラスに顔と両手をベッタリと張り付けていた。フードと馬鹿でかいゴーグルに阻まれて顔は見えなかった。しかし俺は異常な冷たさにガタガタと歯の根を震わせながら、それに向き合い続けることしかできなかった。先端から手足の感覚が無くなっていくのを感じた。最後まで使えるのは感覚だけだった…山の王を名乗ったそれが、顔を全く動かさず、しかし俺に向けてはっきりと語りかけてくるのを、冷え切った心の底で感じた。

山を侵す者に、プレゼントを与えてやる理由がわかるか?
何故なら、そこに山があるからだ

声が聞こえなくなった。寒さに敗れ急速に薄れていく意識の中で、幾つかの不要な思念が浮かんでは消えていく。遠くない未来の人類は、俺を覆い尽くした死者の群れの上に新たな住処を作ろうとするのか?俺が失敗したのと同じように?地球最高の山は、人類の侵攻を今後も永劫に許さないのか?そんなことは無いと俺は信じている。叡智の炎を焼べる者たちよ、俺を礎として前へ進むのだ。頼む。

山の王が俺の前に居る。どうやってかフロントガラスを潜り抜け、もはや熱量の一切が失われ凍てついた運転室の中にそれは居る。それは万年雪と同化した両腕を振り上げ、俺の頭を暴力的に掴み上げ、命の炎を一息に






エベレスト地区に暮らす住人たちは、この地域に人が住むようになる少し前に、山高が少しばかり縮んだことを知っていた。しかし、その理由を知っている住民は数少ない。少しくらい背が低くなったところでエベレストが世界一の山である事実は変わらない。それに、地上に住んでいてこれ以上の絶景は見られないとまで言われる雲の上の毎日を、ごく一般的な平地の冬と殆ど変わりのない気候で過ごせるという、30年前までは単なる絵空事だった夢が実現しているのである。無用な詮索は野暮、それが誰もにとって暗黙の了解だった。

遥か眼下に広がる穏やかな雲海から、今日も新たな日が昇る。フワフワの防寒着にくるまれた子供たちが一定角度に舗装された坂道を光の下へと駆け下りてゆき、その後を親や兄弟が追いかける。こうして、いつものように平穏な一日が始まった。

地上最高の楽園の真下、どこまでも白い万年雪の中に硬く凍り付いた真紅の礎が、朝日を浴びることはなかった。




[下書きここまで]
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