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「ひどい有様だ」
言葉とは裏腹にあっけらかんと言ってのけたその男は身をかがめ、床にこびりついた血痕に手を触れた。
「乾いている。腐臭も無い」
「そうだ。正確にはどうか分からんが、血液は一見腐っていないように見える」
男は声の方に振り返った。ドアが開き、鑑識の帽子を被った男がアパートの一室に踏み込んでくるところだった。
「遅くなった。鑑識官の大黒だ。できれば勝手に入るのは遠慮してほしかったな」
「申し訳ありません。判別部の阿宮です」
大黒は頷き、クリップボードに挟んだ紙束を捲った。
「被害者はこの部屋の居住者で、年齢は26。交友関係は狭く、親族との交流も少ない。全体的に人間関係が希薄な男だ。死因は分からん。頸部の切り傷はどうも直接的な死因ではないらしい。死後つけられた傷という事だな。犯人の当たりはついていないが、そっちに頼みたいのはもっと直接的な問題……つまり、この状況の謎についてだ」
「謎、ですか」
阿宮はすぐには答えを聞かず、部屋の中を見渡した。不可解な事象において異常性の有無を判別する判別部として、不可解な事象の痕跡を探し当てられなければ話にならないと思ったからだ。大黒も答えを口にせず、その様子を黙って見ていた。彼も同様の考えを持っているのだろうと阿宮は思った。
折り畳み式のベッド、高めのデスクとその上のパソコン、スカスカの本棚。そして何よりも部屋の中央の回転椅子と、その上に座った死体。血痕は部屋の入り口から椅子へと続き、そしてそこで小さな血溜まり—もう乾ききっているものだが—を作っている。もっと言えば、血痕はこのアパートの一室に入る前から続いていた。不運な事に前日は雨でアパートの外まで血痕を追う事はできなかったが、まず間違いなくそれより先にもあったのだろう。
謎とは何か。阿宮は死体を見ながら考えた。傷口は首元にあった。椅子の背もたれに寄りかかり、飛び出た首が後ろにがくりと倒れている。ちょうど傷口を強調するような姿勢で。肉の断面が鮮明に見えた。その色、形までくっきりと。
「血が……」
「その通り」
大黒は頷いて紙束を捲り、歩み寄って阿宮に見せた。多くの写真があったが、スペースはほぼ傷口と血痕の写真で埋まっていた。
「この傷は動脈を裂いている。外からの観察でもはっきりそうと分かるほどに。だが、いくらなんでもそこまで綺麗に傷口が見えるはずがない。本来出血が止まって暫くすれば血液が凝固するからだ。それにこっちの血痕を見てもらいたい。この椅子の方に続いているやつも、この椅子の下の血溜まりも、あまりにも小さすぎる。明らかに傷口の場所と規模に見合っていない」
「つまりこの傷はここで付けられた訳ではない。とすれば死んだのも当然ここではない……誰かが死体をここまで運んできたと?」
大黒は今度は首を横に振った。
「そうではないらしいんだな、これが。監視カメラによろめきながら一人で帰宅する被害者が映っていた。昨日の映像だ。そしてそれ以降出ていく姿は映っていない」
「それでは死体が歩いた事になりますね」
突飛な発想ではあったが、大黒は笑いはしなかった。異常の世界では極論何だって起こり得るのだ。
「あるいは血液と犯人が消えたのか、全く未知の現象なのかだ。とはいえふらつく姿が映っていたから、その時点で既に傷を負っていたと思われる。つまり死体が歩いた可能性が最も高い。まあ最も高いというだけで、他に異常が関連しない説明はいくらでもできる。被害者は帰宅した時点では死んではおらず部屋の中にいた犯人に殺された、とか。だから、本当に死体が歩いたのか、もしそうならどうやって死体が歩いたのか、なぜ今は動かないのか。そっちの方でそれを調べてもらいたいんだ」
分かりましたと阿宮が頷くと、大黒は頷き返して部屋を去った。残された阿宮は死体を振り返った。部屋の中央に鎮座する椅子に座ったその死体は、ぐったりと力尽きたようにも見えた。
「なるほど。それで私の所に来た訳ですね」
部屋の主、三浦博士はそう言ってコーヒーを啜った。
「ええ、それでどうでしょう。あの死体が現実改変によって動いていた可能性というのは」
現実改変。あれこれと調査に奔走した後、阿宮が三浦の元を訪れたのはそれが理由だった。三浦はヒューム理論を専門にしており、財団の中ではそれなりに名の知れた研究者だ。その彼は目を泳がせながら顎をさすった。何かを決めかねているかのようにも見えたし、あるいは言うべき言葉を選んでいるかのようにも見えた。そして数秒後、彼は堰を切ったように話し出した。
「現実改変によって何かを動かす時、それは大きく分けて二通りの方法に分けられます。一つは位置情報の改変です。世界と物体の両方に干渉し、位置情報を書き換える事によって動いているかのように見せるやり方です。SCP-650-JPなどが用いている手法ですね。もう一つは物体そのものの改変です。本来動かない物を動く物と定義し直すやり方とも言えますね。改変によって動く物となった物体が改変後の法則に従って動く。今回可能性がありそうなのは後者でしょう。ただ……」
三浦は口を閉じ、考え込むような素振りを見せた。阿宮はじれったくなって口を挟んだ。
「ただ、何でしょう?」
「……高ヒューム値を記録する物体は見つからなかったという事でしたね。それでは現実改変は起こりません。現実改変とはヒューム値の高低差、すなわち現実としての強さの差が生み出すものです。そこにはヒューム値の高低差が必要なのは分かりますよね?」
阿宮は頷いた。彼にも覚えのある話だ。普通の人間は現実改変を起こせない。
「そして、元から高いヒューム値は概して下がりづらいものなんです。ヒューム値が下がるプロセスは、主に現実性の高い物体から低い物体に現実性が流出するというものです。けれど流出は極端にヒューム値に差がある場合でもない限り滅多な事では起こりません。現実性が高い物体は、自身の現実性を保持しようとする引力とも呼べるような強力な力を持っているからです。言い換えれば『ヒューム値が高い状態が正常である』物体は一晩やそこらでその異常な現実性を完全に失うものではないんですよ」
「つまり、現実改変が起きていたとすればヒューム値が周囲より多少なりとも高い物体があるはずという事ですか」
「そうなります。それが無いなら現実改変が起こった可能性はかなり低いと言えるでしょう」
陳謝して部屋を出た阿宮は、ドアの前でため息をついた。最もありそうな可能性が空振った以上、他の可能性を模索しなくてはならない。ただそれはあまり気が進む作業ではなかった。あまりにも本末転倒すぎるのだ。
模索すべき次の可能性は『そういう異常性を持つ死体』という説だった。
「だからって僕の所に来たのかい?もう遅い時間だし、ここは休憩室じゃないんだぜ」
呆れたように吽野は言った。
「少しくらい大目に見てくれてもいいじゃないですか。これから気の遠くなる作業が始まるんですから」
ぼやく阿宮を横目で見て、吽野はため息を吐いた。
「まあいいという事にしようか。君の言う通り、異常性を失ったかもしれない物体が本当に異常性を持っていたかどうかを調べるのは骨が折れるどころの話じゃないからね」
「そうなんですよ……ところで何をされてるんですか?」
吽野はガサゴソと戸棚を漁り始めていた。
「昔油絵にハマっていた時期があってね。ハガキくらいの大きさじゃつまらんだろうと思っていたが、これが中々楽しいんだ。大して上手い訳じゃないんだけどね。その時の道具がここらにあったはずなんだけど……見つけた」
吽野が取り出したのはぐるぐる巻きになった小さな絵の具のチューブと先が開いた細い筆、そして何の変哲も無いプラスチックのパレットだった。
「はあ、それがどうかしたんですか?」
「なに、後輩が無駄骨を折るのを黙って見ているのもいい気分じゃないというだけの話さ。よく見ておくんだ」
そう言って吽野はパレットの上に青と赤の絵の具を出した。彼はまず赤を少し取り、青の上に撫で付けた。そして丹念にそれを繰り返す。原色のままのどぎつい紫色が青を次第に塗りつぶしていった。筆が隅から隅まで紫色に覆われると、彼は阿宮に向き直って口を開いた。
「さて、今こうする事で何が起きたと思う?」
「何って、赤と青が混ざって紫になったように見えましたが」
「そうだとも言えるしそうでないとも言える」
吽野はにやりと笑った。
「確かに赤と青は混ざったが、ある意味では紫になった訳ではないんだ。赤い粒子、青い粒子は絵の具の中に未だちゃんと残っている。それぞれ赤と青のままにね。混ざってなんかいないのさ。僕たちは赤と青のランダムな分布をそうと認識できないほどの遠くから見ているだけに過ぎないんだ」
「じゃあそうだと言えるというのは?」
「そのままさ。紫は紫だ。赤と青の絵の具を混ぜれば僕たちはそれを紫の絵の具として使う事ができるだろう?」
「まあ確かに。しかしそれと今回の件に何の関係が?」
吽野は大袈裟にため息をついた。阿宮はムッとしたが抗議の声をこらえた。話はまだ続いていた。
「君、そこで考えなくてはダメだよ。全てはそこから始まるんだ」
言われた阿宮は考え込んだ。
「絵の具、混ざる……いや、無駄骨。まさかヒューム値ですか?特定条件下でのみヒューム値が上がって、条件が崩れたからヒューム値が下がったとか?」
「惜しいね、阿宮君。上がるのではなく下がるんだ。現実改変が起こらないというのは高ヒューム値の物体が見つからなかったからだろう?だがヒューム値1.0の測定結果は必ずしも1.0Hmの物体の存在を意味しない。高ヒューム値と低ヒューム値の混合物だったんだ。それなら観測結果がトータルで環境ヒューム値と同値になってもおかしくない。それで現実改変は起こり得る」
椅子に座った死体。そこに続く乾いた血痕が阿宮の脳内に浮かんだ。
「……血液」
吽野は鷹揚に頷いた。
「予め本人の血液を低ヒュームと高ヒュームの混合血液に一滴残らず入れ替えるんだ。低ヒュームの血液は環境より高いヒューム値を持つ人間によって改変される。『人間の体を動かすもの』という風にね。それ自体はなんて事はない。ただの血液がそうなったところで普通の働きをするだけだ。問題はここからさ。混合血液は低ヒュームの血液と高ヒュームの血液が混ざり合って言わば一つの血液になっている訳だから、低ヒュームの部分で受けた改変が高ヒューム部分に伝播する。体内の血液として一括りになった事で低ヒューム部分の人間を動かそうとする性質が高ヒューム部分に共有されるんだ。その結果何が起こると思う?人間を大きく超えるヒューム値を持った血液が人間の体を動かそうと現実改変を行うんだよ。そうなればもう永久機関さ」
「読めてきました。命令が行われる限り、高ヒュームの血液が現実改変によって人体の動作を可能にしてしまう。死体でも何でもいいから脳が生きている状態で混合血液を注入してやればサイクルが始まる。その後は血液が現実改変を行い続けるために脳は死なない。死体は動き続けるという事ですね」
「そして血液で動いていた死体は損傷の影響で血液を失って動きを鈍らせ、ついには椅子の上で力尽きたという訳だ。これで一応の説明はついたんじゃないかな。後は血液を分離してヒューム値を比べれば真偽も確定するだろう」
「鑑識に頼んできます!」
そう言って阿宮は部屋を飛び出した。やれやれと吽野は安楽椅子に身を預け、白い天井を眺めて一人笑った。
「全く、いい事をした後は中々どうして気分がいい」
そう呟いた吽野の脳裏に、ふと小さな疑問が浮かんだ。あの推理が正しいとするならば、それはヒューム理論に詳しい者が動く死体を作り出しているという事を意味しているのではなかろうか。それは馬鹿馬鹿しい話のように思えたが、真実を見抜いたつもりの吽野にとってはそれもまた演繹によって導き出された真実だった。とすれば一つ引っかかる事がある。三浦博士だ。ヒューム理論が専門の彼が吽野が気づいたこの事に気づかないはずがない。にもかかわらず彼は阿宮にその可能性を伝えなかった。ただ単に財団外のヒューム理論専門家などあり得ないと思ったのかもしれない。だが、そこに別の理由があるとするなら……
「それは僕たちの仕事ではない、か」
吽野はそこで考えを打ち切った。いずれにしても、推理が正しかったかどうか分かれば専門の部署が動くはずだ。犯人の探究、正確な異常性の特定。彼らの調査に判別部たる阿宮が介在する余地は無いし、吽野が関わる事もまず無いだろう。だからきっとこの違和感はこのまま行けば誰もに見過ごされて終わる。吽野は少し迷って、余計なお節介を焼くことにした。彼は机に投げ出されたスマホを手に取った。キーパッドに番号を打ち込み、電話をかける。数度のコールの後、相手は電話に出た。
「もしもし、吽野です。ああ、久しぶり……そうだね。うん、それで今日は少し頼みがあるんだ。三浦博士って分かるかな……そう、ヒューム理論の。彼を気にかけていてほしいんだ。ああいや、分からないんだけどね。ひょっとしたらってところだよ。うん。そうか、分かった」
吽野はその後あれこれ簡単に説明をして、それじゃ、とあっさり電話を切った。彼はスマホを再び机に置いた。何分もない短い会話。それでもこれで何かが少しはマシになるだろう。後は実際に動く彼ら次第で、やきもきしても仕方がない。吽野は目を閉じ、揺れる椅子に身を任せた。
数刻後、阿宮が再び相談室を訪れた。彼は上機嫌にノックをしてドアを開け、意外そうな顔をした。彼はそれからゆっくりと部屋に入ってドアを閉めた。部屋の中では安楽椅子に腰掛けた男が死体のように眠っていた。
吽野のおかげで厄介な仕事が無くなったので時間にはそれなりの余裕があった。彼が起きたら助言の礼をしなくては、なんて考えながら、阿宮は湯を沸かしてコーヒーを淹れた。
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任意A任意B任意C- portal:2955066 (06 Jun 2018 08:22)
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