tale 空の在り処(仮)

彼は事あるごとに「僕が死んだら絵をもらってくれ」なんて言っていた。その時はちょっとした冗談だと思っているから私も笑いながら「わかったわかった」などと言って、あまり考えもせず約束をする。けれど私は絵の造詣なんて持ち合わせていないし、特段絵を見るのが好きというわけでもなかった。ただ彼が描いていたから。彼が観ていたから。私が芸術と向き合ったのはそんな理由だ。彼との友情は本物だったが、私にとって芸術は、友達づきあいのツールだった。彼だって私は芸術そのものにそこまで興味は無いと分かっているのだと思っていた。

それはどうやら違ったようだ、と気づいたのはある夏の日の事だった。彼が死に、葬儀を終えてしばらくの時が経ったある日、ひとつの小包が家に届いた。どうやって住所を突き止めたのか、そこには彼の名前が彼とは違う筆跡で書かれていた。それを見て私はあの日の約束を思い出した。彼はずっと覚えていたのだ。本気だったのだ。そう思うと罪悪感が湧いてきた。

私にその約束を守れる自信は既に無かった。あの時とは居場所が違い、立場が違った。財団職員と異常芸術家アナーティスト。私が彼に銃を向けたあの日から、二人の道は分かたれていた。けれど、それでも彼は約束を果たしたのだから、私ももう一つの約束を果たさなくてはならないだろう。だが、できるのか?考えれば考えるほど、私の心は宙吊りになっていった。

私はふらふらと家を出た。決断する時間が欲しかった。道を歩けば葉桜の並木があった。学校があった。公園があった。鳥がいた。この南太島の風景はどれも彼との思い出を想起させた。もう随分前の事だというのに一旦思い出すと彼の描く絵が頭に浮かんで離れない。

公園を歩いているとボート乗り場に差し掛かった。水面に空が映っている。そういえば彼は空を描いた事は一度も無かった。私はボートに乗る事にした。そこでなら落ち着けるような気がした。

500円玉を受付に渡してボートを漕ぎ出した私は、池の中心近くでオールを止めた。雲ひとつない良い天気だった。上を見れば吸い込まれそうな深い深い青空があり、下を見ればそれを灰色に映す鏡面があった。ボートが二つの空の中心を漂っているかのようだった。

「君に贈るのは空の絵だ。青い、青い空。白い雲が浮かぶ底抜けの空だ。鳥も飛ばそう。君と同じで自由な鳥を」

その言葉が嬉しかった。彼が私のために絵を描いてくれるということよりも、彼が私を自由と呼んでくれたことが。誰も彼も私を腫物を見るような目で見ていた。だから余計に彼の本心からの言葉が心地よかった。そして、その嬉しさのままに口を開いた。
「だったら——」

「私は自由ではなくなってしまったよ」

空を見上げてなんともなしに呟いた。彼の描いた空も、こんな吸い込まれるような深い青色をしているのだろうか。ついそう思って苦笑する。彼が描く絵はいつもモノクロ。色がついているはずがない。ましてやこの灰色の街の中で色のある絵に出会えるものか。いや、本当にそうなのだろうか?

ある日、色は塗らないのかと彼に尋ねた。

「ああ。なんか……こう、嫌な感じがしないか?」

「何がさ」と私は言った。彼の絵は控えめに言っても素晴らしいもののように思えた。目の前の物をそのまま写し取ったようなその絵にもしも色がついたなら、それはきっと実際のそれそのもののように見えるのだろう。それをしないのが不思議だった。

彼は目を泳がせ、手を開いたり閉じたりした。頭の中で何かを纏めようとする時の仕草だった。

「木炭画ってさ。物の色とか、光の当たり具合だとか、質感だとか、そういう固有の色を白黒で表現する訳だけど、さあこれだとなった後のものに新しく色を乗せるというのがなんだか……そう、色を頑張って表現した上から色を塗るってのは変じゃないか?」

ロマンチックだな、と思った。物事に存在するはずの限界をまるで存在しないかのように無視して話す彼が眩しかった。だからただ「そういうもんか」と呟いた。彼は重々しく頷いた。

「色は乗せるものじゃなくて出るものなんだ。今の僕には出せないけど、いつか木炭だけで誰にでも見える色を出してみせるよ」

夢物語だと思っていた。そんな事はできないと。きっとどこかで諦めるか、適当に満足するのだと。今は違う。私は異常を知った。正常を知った。世界の裏側の一端を知った。

今の私は彼は正しかったと知っている。

「納得のいくものができたら君にも見てほしいんだ。でもそれを全部が全部送ってしまう訳にもいかないだろ?だから一つだけだ。君に送るのは一枚だけ」

そう言って彼は笑った。

私はハッと思い至った。彼はきっと成し遂げたのだ。いつ終わるとも知れぬ研鑚の果てに彼だけの色にたどり着いたのだ。ならばあの絵は南太島を覆う灰色を消し去る鍵だ。人々が望んでやまなかった手がかりだ。頭の中で欠けた鎖が符合する。彼はそれを私に託し、ひょっとするとそのために死んだのではなかろうか。そう考えると、元より重い重圧が更に重くなった気がした。

かの異常芸術家がどのような人生を歩み、どのように死んだのか、私は知らない。ただ、決めなくてはならなかった。彼の遺志に応えようと思うならば、あの絵を持ってどこかのコミュニティに駆け込む事くらいはできる。そこであの絵は鑑賞され、分析され、模倣され、きっといつかこの街に色を取り戻す。

あるいは職場に連絡する事もできる。あの絵は適切な人員によって開封され、調査され、分類され、保管される。そのプロセスの中に私が挟まる余地は無い。あの絵が日の目を見る機会はきっと永遠に訪れない。南太島は今のままに続いていく。

私は天秤にかけねばならない。財団と彼を、南太島のたどり着くであろう二つの結末を。

「君に贈るのは空の絵だ。青い、青い空。白い雲が浮かぶ底抜けの空だ。鳥も飛ばそう。君と同じで自由な鳥を」

その言葉が嬉しかった。彼が私のために絵を描いてくれるということよりも、彼が私を自由と呼んでくれたことが。誰も彼も私を腫物を見るような目で見ていた。だから余計に彼の本心からの言葉が心地よかった。そして、その嬉しさのままに口を開いた。

「だったら俺がその絵を世界一の名画にしてやるよ。世界中に知らない奴がいないくらい有名にさ」

私は笑った。彼は一瞬きょとんとしたが、次の瞬間には満面の笑みを浮かべていた。


家に帰って荷物をまとめ、最後にあの絵の包みを抱えて、全部を車に詰め込んだ。

財団を裏切り、この絵を然るべき場所に届けると決めた。たった一つの古ぼけた約束のために全てを捨てる覚悟を決めた。そうするべきだと思ったのだ。彼が命を捧げたのなら、私もそうしなければならないと。

運転席に乗り込み、キーを回してエンジンを掛ける。行き先は既に決めていた。


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