"豚"達への詫び状

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「こちらです」
仲居の声はあくまで涼やかで、どこか人懐っこい。面白がっているような響きすらあった。本来の客たちに対するよりはそっけなく、そこに却って人情味があった。あたかもホスピタリティが着物を着て歩くが如し。
でもそこに新堀の心に響くものはなかった。それだけに留まらず、彼の頭の裡でとぐろを巻く悍ましいイメージがほとんど自動的に鮮烈な対比を為し、この上なく嫌厭の念を煽り立てつつあった。
〈ああ、行きたくない、行きたくない……〉

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廊下の暗さが五月の熱波から新堀(ここでは赤柴の名で知られる)をようやく解放した。冷えた床の感触は心地よく、内心の不協和音も熱とともに鎮まるのが感じられた。なんのことはない、身体の不快さが精神を不寛容にしていただけだったに違いない。そんな卑屈な気付きに拍子抜けさせられて顔を上げ、彼は改めて仲居の身なりをまじまじと見た。
木彫の円いバレッタには菖蒲が四つ並んで咲いており、帯上げの薄紫と対になっているのだろう。菖蒲色。品よく主張しすぎず、しかし彼女の明るい声色と顔立ちによく似合っていた。季節とも合っている。一人心の中で頷いていた新堀の目に、迫りくる襖が飛び込み、その意味が彼の浮かれた心をたちまち打ちのめした。どっと冷や汗が吹き出し、手が痺れるように冷えていくのを感じた。
感情は彼を一時も自由にはしないようだった。
汗にまみれた膝をおずおずと床に置き、震える手で辛うじて滞りなく襖を開けると、既に倶楽部の面子は会食を始めていた。
倶楽部。
明るさに目が眩み、新堀は視界に万年筆を手に納める女を捉えたと思った。この陽気に臙脂色のカーディガンを羽織り。
ペンキは相変わらず、わずかに剥げかけながらもロッカー代わりの棚を快活な黄色に彩っていたが、そう見えたのは腰壁の木材の地色に過ぎなかった。縦横に交差する棚板に見えたのは斜めになった格子模様だった。
万年筆はといえば、血色に細く白いが入ったセルロイド調で、金ぴかの金具で大仰に縁取られ、いかにもこの場に似つかわしい如何物でしかなかった。新堀の冷涼な翡翠色とは似ても似つかず、そして見覚えのある革の手帳おそらくは橋詰か六角、あるいはもしかしたら宇宿のものだろうかに寄りかかっていた。この場に立っている者は一人もおらず、女も船越だけだった。
新堀は慣れた目をなるべく動かさないようにして軽く座敷を見渡した。
襖の近くで身体を傾け。既に出来上がっている様子なのは東条。新堀の実家からほど近いところに居を構える代議士の息子で、若い時分から酒乱でつとに有名だった。ある時には酔いに任せて人をったらしいという噂すら立った。しかし、その後逮捕どころか事件の存在が把握されたような様子すらなく、警察と懇意だった父親が揉み消したのだろうという憶測が今度は取って代わった。
すべて、若い日の新堀にとってはあまりに俗悪で根も葉もない風説に感じられた。その頃と言えば工業高校を出て働き始めたばかりで、仕事についていくだけで精いっぱいだったからかもしれない。大学に通う同輩にとってみればすべては退屈しのぎの刺激的な話題で、その倫理的に意味するところなどどうでもよく、それどころか悪趣味であればあるほど好ましかったのかもしれない。今思えばすべてがあまりに示唆的だった。
東条の長年の飲酒と美食は、緊迫感を持ってスラックスとワイシャツを押し上げる贅肉となっていた。新堀と大して離れぬ年であろうに、いつもこの姿を目の当たりにする度にひどく年上のように感じられた。この男独りでも、新堀にすればこの場を厭うに十分だったかもしれない。

「タウラッハのアレ……ほら、鉄道博物館、あれはなかなかの見物でしたよ」
あたかも新堀の存在を完全に無視するかの如く、手塚が雑談を再開した。小柄さに見合わぬ大声は新堀を現実に引き戻すのに十分だった。
「ほう。でも今回は奥様とロマンス街道に建築遺産を見に行かれたんじゃあなかったですか」
同じぐらい大声でがなるのは宇宿だった。東条以外のメンバーは皆上座側に偏っている。全員が東条からさりげなく距離をとるように座り、結果としてドラ息子を焦点とした弧を描いていた。しかし、もし倶楽部外での悍ましい振舞いの程度でこの集団を二分するならば、この男も奴の隣に座る人間であることを新堀は知っていた。
右手から見渡すと、宇宿よりはるかに無法者じみた容貌の(それはなかなかあり得ないことで、まるで漫画から抜け出してきたやくざ者のようだといつも新堀は思っていた)六角は黙って不機嫌げに酒を傾けている。同様に仏頂面なのはこの中の紅一点、船越だった。この暑い中、奇妙にぬらついた素材の緑のジャケットをきっちり着て、上品げに正座している。この女は蛇に奇妙な執着があるらしく、常に何かしら連想させる品を身に着けていた。今日はこの暑苦しい上着ということなのだろう。
ぼそぼそと無精ひげを生やし、髪を金色に染め、そして(驚くべきことに!)駱駝色の本革のブルゾンを着ているのは椎名だ。最近一山当てたという若者は、10人の中で最も新しいメンバーでもあった。彼が手塚の方に(手帳はこの男のものだったようだ)身体を傾けると、半端に伸びかけの髪の端から、シルバーのピアスがじゃらじゃらとついた耳が垣間見えた。この中ではおそらく一番身なりにこだわっているだろうに、新堀には常にすべてが癪に障るぐらい垢じみて不潔に感じられた。単に自分の感性が老いてついていけないのか、アニメだかゲームだかの仕事で多忙であるために実際不潔なのか、新堀はいつも不思議に思った。
その椎名よりにやついた顔をしているのは早瀬、やはりその筋では名が知られた現代芸術家であるらしい人物で、薄っぺらな上着を脱いでTシャツ1枚になっていた。何の皮肉だろうか、この中では今日の暑さに最も似つかわしい装いだったが、東条ほどではないものの中年太りの明らかな腹と、滝のような発汗の形跡には涼やかさはなかった。
「そないな所にぼんやり座っておへんと、机のとこ来て座りやす」
偽物臭い京言葉で愛想良く促すのは橋詰だ。手塚よろしくぬらりひょんめいた風貌の小柄な男だが、大きな鼈甲の眼鏡をかけていることで容易に区別できた。その眼鏡も、色合いの合った黄色系統の背広も、これまた絵に描いたように胡散臭い雰囲気を醸していた。怪しい秘密結社の一員であることを一番楽しんでいるようでもあった。
秋津と浮田はいない。新堀は浮田を一度も見たことがなかった。

部屋はクーラーが効いて涼しく、ようやく新堀の汗も乾こうとしていた(早瀬を見れば望み薄だが)。


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