中園道郎の文章 改稿前

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ミテクラ蒐集物覚書帳目録第一八三七番

1906年に大分県高崎山の土砂崩れ跡から21本蒐集した。本蒐集物は乳白色の黒曜石を削ってできた刀剣である。特徴として柄の部分に象形文字に似た言語が刻まれている。筆者はこれを所有していた者の名前であると推測する。

瀬戸内海で唯一黒曜石が採れる姫島では、乳白色で白い斑点模様がわずかにある黒曜石が産出され、その姫島の観音崎では黒曜石の崖が景勝地として知られている。本蒐集物を発見した高崎山と姫島は近い距離にあり、おそらくは姫島で採取された黒曜石なのだと判断する。本蒐集物は刃物であるため肉を断つことが可能。しかしながら本蒐集物の用途は秘儀を行使する際に必要な物品、つまり杖や錫杖に近い品であると推測している。

また蒐集の際、土砂崩れ跡から30名以上の遺体を発見した。個人を特定できたのは数名だけで、残りは全て身元不明である。遺体を全て持ち帰ることはできないため検分の後火葬を執り行った。

本蒐集物の発見経緯を語る前に、七晢1の子である筆者がなぜ大分にいたのかについて語らねばならないだろう。

開国からすでに30年近く経過したが、蒐集院は衰退の一途を辿っている。科学という体系化された知識は、蒐集院の伝統的な秘儀2を過去のものにしつつある。秘儀の習得には厳しい修練と素質が必要であり、素質が無い人間はどれほどの時間をかけようと秘儀を扱うことはできなかった。しかし科学は人を選ぶことなく、万人にその恩恵を与えることができたのである。

そのようなどん詰まりの中で、父中園正一は七哲の一席として復興への道を模索していた。中園の一族は七晢を輩出する由緒正しき家系であるが、中園正一は庶子であり一族の末席に連なる男である。秘儀の素質は血縁に継承され、太古から続く秘儀を後世に残すためには血縁に拘らなくてはならない。汚れた血が入っている父は蔑視され、勘当に等しい扱いを受けていた。そんな父が七晢になれたのは、一族が形骸化しつつある職務の責任を負いたくないがために中園正一にすべての責務を押し付けたのが理由だった。

父は蒐集院に鬱屈した感情を持っていた。私は「中園正一は愛人の子なので秘儀を使うことができない」という噂を聞いたことがある。その噂が父の人格に暗い影を落としていたことは間違いない。だからこそ、蒐集院を変えることに情熱を燃やしたのだと思う。父は私との会話の最後には決まって、蒐集院の現体制への批判を行い、自分こそが蒐集院を復興させることができると主張していた。

組織改革として、父は別院3から人材を集めた。衰退しているとはいえ規模は随一であるので、人を集めることに苦労はなかった。しかし、別院からやってきた者は元から内院に所属していた者よりも高位に上がることは決してできなかった。そうすれば当然、内院出身の派閥と別院出身の派閥の対立が産まれることになる。本来であれば呼び寄せた父が緩衝材として仲を取り持つべきだったが、父は内院派閥として別院派閥と争った。「別院の人間が七哲になるなどおこがましい。私が内院に入れてやった恩を忘れたのか」というのが彼の主張だった。

そして拘りは息子である私にも向けられた。出自ゆえに十分に学ぶことができなかった鬱憤を私に背負わせることで晴らそうとした。強制的に秘儀の修練を行わせ、私が骨を折ろうが血を流そうが関係なく、自分の満足のいくまで続けさせた。そこに私の意志は存在しなかった。中園正一にとって中園道郎は己の理想であり、精神的外傷であり、息子ではなかった。親や一族というものに誰よりも苦しめられていた父は、忌み嫌っていた蒐集院の体制そのものになっていた。

父の目論見は葦舟龍臣の反乱によって断たれることになる。反乱によって七晢の半数以上が死亡し、内院は再起不能にまで陥ってしまった。父は辛くも生き残ったが、生涯を賭けた目的が達成できないことを悟ると急激に老け込んでいった。もはや内院は安全な場所ではないと知った父は私を別院へ匿わせることにした。当時としてはかなり珍しい四輪自動車とそれを運転できる人間を付き人にしてくれた。

大分の宇佐別院4へと来た私はそれはもう我儘だった。何分、親から離れて生活するのは初めての経験であったので加減という物を知らなかった。今まで積み上げてこなかった人間らしさを取り戻そうと必死だったのだろう。ある時、彫刻家の朝倉文夫が少しの間だけ大分に帰省しているという噂を知った私は、どうしても大分市へ行って彼に会いたいと駄々をこねた。私は葦舟たちから逃げるために大分にやってきたことをまるで理解していなかったし、七晢の子である私に逆う人間はいなかった。

激しい雨の降る日、宇佐神宮から大分市へ向かう途中、高崎山の山中でそれは起こった。後部座席に座っていた私は急に前方からの熱と光を感じた。付き人が「葦船だ」と叫ぶのを聞いてやっと現状を理解できたが、制御を失った車は道を外れ谷へと落ちていった。

私が再び目を覚ましたとき、私は温かい布に包まれていた。上半身を起こしてあたりを見渡したが、落下した後谷底の洞窟まで運ばれたらしい。激しい雨の音が聞こえていたが濡れることはなく、私のすぐ近くで薪に火が付いていた。

誰が一体こんなことをやったのだろうかと困惑していたとき、洞窟の入り口へ人がやってきた。

あの時の情景がまだ頭から離れない。

激しい雨の中、傘を持たずに外に出ていた彼女はずぶ濡れだった。もしかしたら、いや間違いなく、彼女は傘の使い方を知らなかったと思う。濡れた黒髪は薪の炎に照らされて怪しい光沢を帯び、彼女の色黒の──あくまでも黄色人種の範囲内での色黒の肌によく似合っていた。そして、巫女装束と作務衣をかけ合わせたような奇妙な格好をしていたが、体に張り付いた服から肢体の輪郭が容易に判別できた。

年齢はおよそ20代前半、私は彼女ほど背の高い女性を見たことがなかった。

──起きたか。オルシの人間。大きな怪我がなさそうでなによりだ。

私が翻訳しているので流暢に話していると思うのかもしれないが、彼女の日本語はとても難解だった。発音や文法に違和感を感じるのではなく、それは室町時代末期から江戸時代初期の日本語だったからだ。父から日本語の指導を受けていなければ会話もままならなかったと思う。それでもあの時はオルシの意味を理解することはできなかったが。

私はこの現実離れした状況に暫しの間言葉を失っていたが、やっとのことでただ一言、「俺を助けてどうするつもりだ?」と問いかけた。

──どうするもない。崖から鉄の塊が落ちてきたので中を調べたら人間が入っていた。お前だけが生きていたからこうして介抱しているだけだ。

私はどうしても信じることができなかった。

「俺を捕まえて中園正一を脅迫するんじゃないのか?」

──ナカゾノセイイチが誰かは知らんが、お前たちを崖に落とした奴らはそうするんだろうな。安心しろ。落ちてきた場所とこの洞窟にはそれなりの距離がある。奴らもここまでは来ないだろうよ。

「本当に何もしないのか? 何も見返りもなく俺を助けたのか?」

──くどいぞ。何もしないと言っているだろう。それよりも、この雨はいつやむんだ?

「わからん。一日中降ってもおかしくはない」

──わからんはないだろう。誰が雨量の設定を間違えたんだ? 他のことに水が使えなくなるぞ?

「何を言ってるんだ?」

──何って、お前たちオルシが雨を降らせているんだろう? このままだとみんな水の中に沈んでしまうぞ。

私は何と返事をすればいいのかわからなかった。蒐集院の秘儀の中には雨を降らせるものがあるが、明らかに蒐集院の人間でない者があって当然という態度を取ることに違和感を覚えていた。なによりも、彼女はこのまま雨が降り続けると世界が水の底に沈んでしまうと信じている。

気まずい雰囲気が洞窟に漂っていた。14歳の少年であっても、これ以上この話題を続けるべきではないということはわかった。

当時の私は彼女がどこから来たのか、そして何の目的があって高崎山に来たのかが理解できず、彼女は日本人ではないのだろうとしか考えることができなかった。たったそれだけであったが、私はそれだけで彼女にかなりの関心を持っていたのは事実である。

彼女は私に近づかずに、洞窟の入り口で雨を観察している。私も彼女をじっと観察していた。

しばらく彼女を見ていると服装に奇妙な変化を感じた。彼女の衣服は、全体的に和服の趣があるが、和服だと断言できない程度に異文化を思わせる服装をしている。その衣服の肩から赤い染みが時間をかけて徐々に広がっていた。

「怪我してるのか? 俺を助けてそんな怪我を?」

──違う。お前には関係ない。

そう言うと彼女は再び外へ向かおうとしていた。

「どこへ行くんだ?」

──ここから離れる。お前が起きたのなら私がここにいる必要はないだろう。もう二度とここに戻るつもりはない。

「ちょ、ちょっと待ってくれ」

この瞬間を逃すと彼女に二度と会うことができないという確信があった。

「あいつらを追うのか」

──ああ。今ここで奴らを止めなくては、故郷が危機に晒されることになる。

「一人でやるのか」

──そうだ。

「あんたはあいつらのことを何も知らないんじゃないのか?」

彼女は何も答えなかった。沈黙の中で豪雨が大地を抉る音がよく聞こえる。

「そんな状態で戦うなんて無謀だ。だから、だからさ。俺があんたを手伝ってやる」

おおよそ人に何かを頼む態度ではなかった。自分でも信じられなかったが、それは心の底から人と繋がっていたいという感情から産まれてくる言葉だった。

──わからんやつだな、お前は。

さっきまで自分を疑っていた人間が今度は協力を申し出ているのを見て、彼女の顔は困惑に染まっていた。

彼女の名前はナユジと言う。なお彼女の母語は日本語ではなく彼女の民族固有の言語であるため、それを無理矢理日本語に落とし込んでいることを読者に伝えておく。

ナユジと私は洞窟から離れ、車が落下した現場へと向かっていた。未だに盆をひっくり返したような豪雨が降っていて、外に出て一分もしない内に全身が灰色になってしまった。

幸運なことに雨は我々の味方をしてくれている。雨粒が木や地面に打ちつけられる音が我々の足音を隠し、圧倒的な雨量は数メートル先の景色を水のカーテンで覆い隠した。

私が乗っていた車は崖にもたれかかるようにして立っていた。崖から落ちた車はそのまま崖肌を滑るようにして落下し、最後は車よりも大きな岩石に衝突して停止したらしい。フロント部分は完全に潰れてしまっている。

その奇妙な像を前にして、彼ら──葦舟龍臣に与する人間たちが中を検めていた。人数はおよそ8人。蓑と菅笠には蒐集院を表す麻の葉の紋様が見える。

──あいつらがお前を崖に落とした。

ナユジはそう呟いた。

しばらくの間私とナユジは彼らが車を検分しているのを眺めていた。車の中だけではなく、周囲を検分している様子を見せていたが、何も収穫がないことを悟ると検分を諦め、何処かへと去っていく。

──追うぞ。

だが私は車へと向かっていた。ナユジから真実を伝えられていても、私自身がこの目で確かめなければならないことがあった。

それは車の中で鎮座していた。車内へ流れる水が血を洗い流したようで、これといった外傷も見当たらなかった。「お前が朝倉文夫に会いに行くと云ったからこんな目にあったのだ」と叱責してくることを願ったが、私の目の前にあるのはただの肉の塊でしかない。

──お前が殺したのではない。

「……そうだ」

後悔はすぐに怒りへと変わった。こんなことになったのは父親が私を大分に連れてきたからではないか。私の不幸は全て父親が原因で、私は父親の欠陥の尻拭いのために人よりも多くの苦労を背負わねばならない。あの男さえ、あの男さえ私の父親でなかったら。

「行こう。あいつらがどこへ向かったのか確かめないと」


麻の葉の集団が山道を下っていく。私とナユジは少し離れた距離で彼らを追う。

高崎山は別府湾の目と鼻の先にあり、別府と大分の二つの都市部を別つ位置にある。別府が温泉街として有名なのは周囲に鶴見岳や伽藍岳といった火山地帯があるからであり、高崎山も火山活動によって誕生したとされている。快晴であったのなら山頂からは別府湾と愛媛県が望めたのだろうが、この豪雨ではそうもいかない。

しばらく歩くと彼らは山道から外れ、獣道を歩き始めた。雨水に足を取られながら傾斜を下ると、それまで広葉樹が広がっていた景色が一変する。

大地に大きな穴が空いていた。我々が先ほどまでいた洞窟とは違って穴はほぼ完璧な蹄鉄型であり、それは人工的に掘削されたトンネルであることを意味していた。トンネルは高崎山を貫通するようにして開いている。

トンネル、と言ってしまえば取り立てて言うべきものではないだろうが、問題はこのトンネルがどこへ繋がっているのかである。当時、私は高崎山のどこにいたのか見当もつかなかったが、数回にわたる研儀5によってあのトンネルは山頂から南西の方角にあったことが判明している。つまりあのトンネルがそのまま直進した場合、別府湾側でトンネルが開通するはずなのだが、蒐集院の大規模な捜索を以てしても発見することができなかった。

「あの先にあるのが故郷……?」

ナユジはトンネルの奥を見ているだけで私の問いに答えない。

麻の葉の連中は豪雨から逃れるためにトンネルの入り口で屯している。ナユジは発見されないように木々に紛れながら入り口近くへ向かい、私はそれに追従した。

先頭を歩いていたナユジが急に立ち止まった。

いくつもの死体があった。雨が降っていなければ血の匂いが辺り一帯を覆い、蠅と蛆が死体を求めて集まっていただろう。死体の多くはナユジと似たような恰好をしている。

「あんたたちは一体なんなんだ……?」

トンネルの時と同じように、ナユジは答えることはなかったが、眉を顰め口を固く結んでいた。間違いなくあの死体はナユジと同じ民族の人間であって、蒐集院と彼女たちが戦闘をしていたことを示していた。

そのまま数分経った後、ナユジは死体の前に立つと懐から刃物を取り出し、顔の前で軽く振り回すと「オキク、オキク、クルコ、クルコ、ヒレコ、ヒレコ」と呟き始めた。彼女の民族の言葉であったと思われる。

その後、死体から彼女が持っていた刃物と同じものを取り上げると私に渡した。

──これで身を守れ。

渡された刃物は乳白色の石を削った原始的な石器で、柄の部分に象形文字のような言葉が彫られている。

「大事な物なんじゃないのか」

──弔いは済んだ。彼らの魂魄は空へと登り、星となって我々を見守ってくれている。彼らにはもう必要のない物だ。

そう言ってナユジは私に押し付けようとする。

「作戦が全部成功したらこんなの必要ないだろ」

私は武器を持つことを渋った。彼女の協力者として活動する覚悟を持っていたが、共犯者になる覚悟はまだ持てていなかった。作戦が成功したら、あの麻の葉の同胞は何人か生き埋めになるのかもしれない。だがそれは不可抗力というものであって、私が彼らを殺そうとしてやったのではないと言い訳ができる。

私が彼らの喉を裂けば、私は彼らの死を誰よりも近くで見ることになってしまう。自分の利己的な精神で他人の生命を終わらせたという事実を直視してしまう。端的に言えば、それが一番嫌だった。

押し黙った私を鼓舞するわけでもなく、かといって侮蔑の感情を向けるわけでもなく、ナユジはただ黙って見ていた。

作戦はとても単純なものだ。中園の治水の秘儀で山肌を流れる水流を集め、土砂崩れを発生させる。流れた土砂はトンネルを覆い、彼らはトンネルの先へ向かうことができなくなる。碌に経験を積んでいない私の秘儀で土砂崩れは発生するのか、発生したとして本当にトンネルを塞ぐことはできるのか。なにもかもが未知数で粗雑な作戦だったが、私がやらなければ彼女はたった一人で彼らに戦いを挑んでしまうだろう。

ナユジに作戦を伝えた時、彼女は土砂崩れという現象が全く理解できていなかった。水の流れる力で土砂が移動するということを疑問視しているようで、私が近くの崖に立ち作戦の模擬実験を行うまで信じてくれなかった。

作戦は豪雨が止むまでに実行しなければならない。我々はトンネルから数百メートルほど上にある傾斜へと向かっていた。

──これからお前の考えた作戦を実行する前に、聞いておきたいことがある。なぜお前は私に協力する?

「あんたが俺を助けてくれたからだ」

──それだけか?

「それだけで良かったんだ。ナユジは自分のことを何も話してくれないし、警戒されてるのは分かってたけど、それでも俺を助けてくれたのは本当のことだから」

ナユジから疎まれようが私は構わなかった。

父は自分の夢を実現するために私を育てた。子はかくあるべしと規範を定め、その規範から外れたものを取り除く。それで私がどう思おうが知ったことではないのだろう。私は彼の影で、どこまで伸びようと父の背から離れることはできない。それが親子の営みであると、愛であると絶対に認めたくなかった。

だからこそ私は、彼女との出会いに運命を感じたのだと思う。

煤汚れた世界を捨てて彼女の故郷へと旅立つことができたらどれだけ良かったか。ナユジからの善意は私の心を洗い流してくれた。なんの見返りも無く助けられたのなら、同じようにその人を助けてもよいのではないか。これこそが愛なのだと思いたかった。

──本当にそれだけか?それだけの理由でお前は人を殺せるのか?

「あんただって……似たような立場ならやれるんだろう?」

私の返答は要領を得なかった。綺麗な言葉で着飾っていた薄暗い部分をつつかれ、己の身を守るために彼女に詰め寄った。

「あんたは……俺の言うとおりにすればいいんだ。そうすればきっと上手くいって、あんたは無事に故郷に帰れる。同胞の遺品を持って帰れるんだ。」

──そうだな。

ナユジは私の言葉を肯定したが、単に話を合わせているように思えた。それでも、私の逆鱗に触れるには十分だった。彼女には帰る場所がある。迎えてくれる誰かがいる。そう考えると苛立ちを覚え、目の前の人間に鬱憤を晴らしたくなった。

「俺は、故郷なんてない。あんな男がいる場所に帰りたいと思わない。たかが父親ってだけで俺の人生を操作する権利なんてない。あんたも、そう思うだろう?」

──今お前の父親について話す必要があるのか?

「うるさいんだよ!」

ナユジの腕を掴んだ。私は父親こそがこの世界で最も低俗な人間であると信じていたし、ナユジはきっと私を肯定してくれると期待していた。

「こんなものが!」

そう叫ぶと私は彼女からナイフを奪い取り、そのまま放り投げてしまった。飛んでいったナイフは豪雨の中に消えていき、二度と帰ってくることはなかった。私を見るナユジの目は冷ややかだった。


作戦のためにトンネルから山上へ登ったが、私と彼女の間に会話はなかった。彼女はナイフを二本持っていたため、私が放り投げても困ることはなかった。死体から拝借していたナイフを使っていたのかもしれない。

私の前を歩く彼女は、流れる水に足を取られまいと必死に歩いている。それに対して、私の足取りは重い。

どうして父親のことになると思考が染まってしまうのだろう。自分の望まない結果に直面すると、私は父親のことばかりを考えてしまう。父親が悪いから自分は悪くないと考えれば、現実の困難さが和らいでくれるような気がするのだ。勿論、どこまでいっても気がするというだけで、問題解決のためには何の役にも立たない。

こんな人間がナユジの故郷へ行っていいのだろうかと疑問が浮かんだ。彼女の住む世界は私を苦しみから解放してくれるのかもしれないが、彼女の世界には彼女の世界の現実がある。私はその現実に耐えられるのか。彼女の故郷でも父親が悪いと言い続ける人間になるだけではないのか。

──始めるか。

トンネルから手頃な距離を歩くと彼女は立ち止まった。私は頷くと、右上腕に力を込めた。

右上腕の刺青に熱感を覚える。この刺すような痛みが中園の秘儀を行使していることを示す。刺青の狼の目が動いた。次に尾、四本の足の順で動き始め、私の肌の下で疾走しているかのような動きをとっている。刺青の狼が走り始めたのと同時に、山肌に従って流れていく水が私の元へ集まっていき、トンネルへと向けて下っていく。このまま続けていけば、土砂を巻き込みながらトンネルへ殺到するだろう。すでに水流は勢いを増し、私の膝丈半分程度の水位があった。

中園の秘儀を行使する際もっとも重要視されるのは、使用者がどれだけ初代ナカゾノに近い血を持つか、である。どのような秘儀を使うのかは体に彫られた刺青の種類によって決定されるが、血が濃ければ濃いほど、より緻密に、より大規模な秘儀を行使することができる。

歴史上最初に確認された中園であるナカゾノは一代で家系の基盤を作り上げた人物であった。しかしながら彼は自身の秘儀──中園一族は秘儀と呼んでいるが本当にそうであるかは怪しいところではあるが──を相伝することなく生涯を終えたのである。それが彼にとってどのような理屈で行ったのかは本人にのみぞ知ることであるが、子孫たちが彼の技法を再現しようとした試行錯誤が中園の秘儀の源流なのだと云う。中園は初代を現代に甦らせることを目的として近親婚姻を繰り返し、血統を重んじる思想は穢れた血である父への軽蔑へと繋がっていた。

私の刺青は右上腕に彫られた狼1匹だけだ。上腕を飲み込むようにして彫られた狼は、そのまま私の喉を食いちぎろうとしているかのような力を感じる。

この刺青を刻まれた日から私の苦悩は始まった。友達と河原で遊んでいたある日、急に現れた父は私を刺青師の元へ連れ去った。台に拘束され、針で肌に炭を入れられ痛みで泣き叫ぶ私を見て父は満足そうな顔を浮かべていた。

その日から父の許可が無ければ外出はできなくなった。特に人との接触については厳しく制限され、私は二度と友人たちと会うことはできなかった。「低俗な人間と関わり続ければ、お前も低俗な人間になってしまう」というのが父の主張である。

ナユジは十分な水が集まりつつあるのを見ると、私から離れていった。この豪雨ではどれほどの規模の土砂崩れが発生するかの予測ができないため、彼女は秘儀の実行と共に避難することは事前に確認しあっていた。

刺青の狼は、私の肌の下で顎を開き、そして閉じるという動作を繰り返している。本当に私の腕はこの刺青に食われてしまうのではないかと不安になった。

早く終わらせてしまおうと考えていた時、背中に強い衝撃を感じた。

「────」

肺が絞られるような感覚と共に息が口から漏れる。勢いを殺せず、私はそのまま地面に倒れた。

雨が降っていて本当に良かったと思う。哨戒していた二人組は銃を所持していたが、降雨のために発砲されることはなかった。

「何やろうとしてんだお前」

答えるつもりはなかったが、骨が軋み内臓が裂けそうな感覚を脳が痛いと理解してきたのでそれどころではなかった。

「いいや、もう。やっちまおう」

男がそう呟くと、もう一人が私の首を締めあげる。

「──、───」

考えることなどできない。わけもわからずに手足を振り回せば倒木や石に打ち付けてしまい、鋭い痛みが襲い掛かってくる。雨水が口の中に入り反射的に咽ようとするも、気道を塞がれた状態でできるはずもなく、ただ胸が膨らむ感覚があるだけ。視界が滲んでいく、二人の男の顔と灰色の空の境界が無くなっていく。

朧げな景色の中で、ナユジの顔だけが輪郭を保っていた。

赤色が目に入り込んだ。その刺激のある色彩は私の視界を鮮明にし、喉に張り付いた閉塞感を取り払ってくれる。私は呼吸を整えながら、隣に横たわる赤色を見た。赤は男の首から垂れていた。ナユジが男の後ろに立ち、刃物で喉を切り裂いたのだ。

今彼女はもう一人の男と戦っている。私の首を絞めていた男だ。男は銃に銃剣を装着させナユジとある程度の距離を置いている。不意を突くならやり方はいくらでもあるだろうが、相対した場面ではリーチのある武器の方が有利である。ましてやそれが男と女なら尚のこと。

だが、ナユジは男と距離を詰めていった。彼女が銃剣のリーチに入った時、男は刺突する動作で迎え撃ってきた。乳白色のナイフから女性の金切り声に似た音が聞こえる。刃に垂れた雨水が熱された鉄に触れたかのように蒸発する。刃と刃が重なりあい、鉄でできた銃身が牛酪のように切断された。そのまま彼女は振り切り、体を切りつける。大きな悲鳴もなく男は斃れた。

悲鳴をあげたのは私のほうだ。

──道郎、まだやるか?こうなってもお前はやるのか?

ナユジは私の奥底にある感情を見据えて云う。相変わらず瞳の奥で何を考えているのか理解できなかったが、その言葉の意味は痛いほどわかる。

「う、うう、う」

喉から嗚咽が漏れ出る。体が震えるのは雨に打たれているからではない。

彼女が何者で、何の目的でここにいるのかはどうでもよかった。ただ、私は彼女に人を殺して欲しくなかった。私を救ったその手で誰かの命を奪って欲しくなかった。だから、彼女を「あるべき姿」に矯正させようとしたのだ。父が私にやったように。

──私はお前が思っているほどいい人ではない。お前を助けたのはよい行いなのかもしれないが、今からやろうとしていることはよい行いではない。私は、何も知らないお前に人殺しをさせようとしている。

死刑宣告に等しい言葉を浴びせられる。

──これでもお前はやるのか?

「……それでも、あんたのためにやるよ。あんたは、いい人だ。きっといい人だ。悪い人だったら俺が苦しんでいることなんかどうでもいいはずなんだ。他人のためにここまで言ってくれるあんたに何か、してやらなきゃいけないって」

彼女は何も答えなかった。それでいい、と私は思った。


水が下っていく。水が全てを洗い流していく。土砂や死体、私の過去や拘りもなにもかもを。その中で私だけが流れに逆らい立ち尽くしている。

この秘儀も父親から教えられたものだ。彼女と話せたのも、父親の教育があったからではないか。

父が私に自由意思を与えず、自分勝手な教育したことは事実である。あるが、私の身を案じて大分へ送り、私のために車と付き人まで融通してくれたもの事実ではある。

きっと、私が思い込んでいるほど父は悪い人ではないのだろう。だからといって父の所業を許す気にはなれないが、彼を絶対的な悪人として見ることで、自分がどれだけ可哀想な人間であるのかを主張するのはもうやめにしたかった。

私は何も知らない。何故父親は私に厳しいのか。その行動の底にあるわだかまりを私はまだ知らない。

刺すような雨は小康へと傾き、大地を叩くような雨音は聞こえなくなった。それは彼女との別れの時を示していた。きっと雨は止むことはないのだろう。雲一つない快晴など最初から存在しなかったのかもしれない。

蒐集院が発見したトンネルは我々が掘削した穴の一つであって、故郷へ帰る手段はまだ残っている、そう彼女は云っていた。

最初の洞窟に帰った後、我々はこれといって話すことはなく、私の冷えた体から出る噴泥だけが響いていた。それを見た彼女は鼻で笑った後、一緒に来るかと囁いた。私がその誘いに乗らないことを理解しているのだ。

「まだ、行かない。こっちでもっと知りたいことができたんだ。父は俺のことをどう思っているのか……もう一度会って確かめたい。真実を知って今より失望するかもしれないけれど、でも必要なことなんだ」

──そうか。

「また逢おう。ナユジ」

私の声に手を振ることで答えると、彼女は洞窟を離れて行った。私も彼女と別の方向へ歩き出した。振り返ることはなかった。

以上が顛末である。数時間後、私を探しに来た宇佐別院の人間たちと合流し無事に下山することができた。

内院へ帰還した後、私はあの男の元へ向かった。二度と私の人生に干渉しないこと、私の気分がいい時にしか彼と会わないこと、自分の身の上話をすることを約束させた。気落ちしていたからか、彼はすんなりと要求を聞き入れてくれた。彼の人生がどんなものであったかはこの文章の冒頭を読めば理解してもらえると思う。結局のところ、私たちは血の繋がった親子だと呆れるしかないのだ。

切っても切り離せないのなら利用するしかない。そう考えた私は七哲の息子という立場を使い、蒐集院に累積しているあらゆる記録からナユジについての情報を求めた。象形文字に似た言語、乳白色の黒曜石、死者の魂は空へと昇り星へ生まれ変わるという死生観。これらの情報を頼りに私は蒐集院の文献を漁った。そして、タエナと呼ばれる民族が該当することがわかった。

タエナは大和民族、つまり日本人の源流が日本列島に進出するまでの間、北海道と沖縄を除く日本列島全域で活動していた民族である。タエナは大和民族の日本列島進出と同時に著しい衰退を迎え、7世紀後半の時点で宗教的聖地である瓜生島のみを支配地域としていた。彼らの言語で「オルシ」は大和民族のことを指す。

その後、蒐集院を通して朝廷と協定を結んだことで安定を得ることができたが、1596年に発生した地震によって瓜生島ごと海底に没した、というのが大細かな概要である。瓜生島というのは別府湾の中心に存在した島のことで、その島には瓜の形をした巨大な船のような建築物があったため瓜生島という名前で呼ばれていた。海底に沈んだ後も建築物の中で生活できたのなら、現代にタエナが出現したとしてもおかしいことではないのだろう。

本蒐集物と関係のある情報も発見した。かつて船の外で生活していたタエナはミテクラと呼ばれる刀剣を家屋の入り口に飾る文化があった。矢じりを刃に見立てたもの、ハイマと呼ばれる動物の骨を尖らせ毛皮で装飾したものなどミテクラには様々な種類が存在するが、その中に黒曜石を加工したものが存在する。祭事の際には魚を模した冠を被り、珊瑚とミテクラを持って歌い興じるのだと云う。儀礼用の刀剣という意味では飾太刀が近いだろうか。仮に本蒐集物がミテクラだとして、なぜ剣飾りを武器として使うようになったのかは不明である。蒐集院がタエナを観測できなくなり300年近く経っているため、文化変容が起きたと考えるのが妥当だろうか。

近年では葦船龍臣が軍部と結託して大きな組織を立ち上げようと画策している。今の蒐集院の中枢では葦舟龍臣の暴走を止めることはできない。しかし、葦舟龍臣に異を唱える者は存在する。我々中園派閥は反葦舟派閥として結成した。構成員は内院、外院問わず若年層が大多数を占める。所詮14歳の私が首魁であるためか、葦船や財団は我々を道朗派閥ではなく中園派閥と呼称している。正直言って不服であるが、他者から見れば私が中園正一の意志を受け継いで活動しているように見えるので仕方がない。

事件からほどなくして、中園派閥は高崎山で研儀を行った。冒頭で触れたように遺体と本蒐集物を回収したが、トンネルについては発見できなかった。かわりに周囲の土砂から青紫色の粘土のような物質6を蒐集した。私が勝手に激怒して放り投げたあのナイフも発見している。高崎山の山師の証言では、研儀を行う数日前に土砂崩れ付近で爆発音がしたと云っている。おそらくはタエナがトンネルの存在を隠蔽するために行ったのだろう。

現実は厳しい。葦舟派閥は生き馬の目を抜くほどの躍進ぶりであるが、中園派閥は牛歩といった体たらくである。若者らしく蒐集院を変えようとする情熱はあっても、実現させるコネクションも実績もない人物が殆どで、葦舟龍臣からは障害とすら思われていないのが現状だ。タエナという領分でも彼らの方が詳しいだろう。

だが、諦めない。私はナユジに相応しい男にならなくてはならない。何もかもを捨てて彼女の待つ世界へ逃げ出してはいけないと、投げ捨てたナイフを拾った時に誓ったのだ。


本書は以上であるが、あまりにも個人的感情に溢れているため大規模な内容変更が必要であると判断した。

よくもまぁ、蒐集物と関係ないことをここまで書けたものである。私はこんなものを後世に残すつもりだったのかと頭を抱えたくなる。書いている途中には全く気付かなかったが、その、これは覚書ではなく恋文の類だろう。これを提出すれば中園派が笑い物になるのは間違いないので、本書は提出せずに私の箪笥の底に隠しておくことにする。

(内院 一等研儀官 中園道郎)

第二次世界大戦の後、財団は蒐集院を吸収することを決定しましたが、与するのを良しとしない組織(大日本陸軍特別医療部隊など)が財団と衝突しました。中園派閥も反財団を掲げ敵対していましたが、直接戦闘することはなく、内院から大分への逃走を図りタエナと共に大口真院(GOI-1834)を結成しました。

この文章は残された中園道朗の自室を検分した際に発見された文章を現代語訳したアーカイブです。原文を確認したい場合はこちらを参照してください。


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執筆者: G-ananas
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最終更新: 09 Sep 2023 08:51
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