経理監査と空っぽの箱 前編

 人に認識されるのが嫌いになったのは、いつからだろう。

 正面に座るサイト管理官は手元に持った書類へと視線を落としている。書類の文字列を目でなぞっているのが情報として流れ込む。自分の文章が見られている。見られているという意識が、喉を締めてくる。誤字脱字、文法のミス。不安がいきなり降りかかって、何度も確認した文面が突然ぼやけだす。

「こっ、今回お時間をいただいたのは、外部コストの削減に関する提案でして」

 曖昧になっていく文字を引き止めるように、わたしは声を発した。

 眉間を寄せて真剣な顔をする管理官がこちらを向く。視線に刺され、緊張がどばどばと溢れ出る。それを押さえつけ、概要の説明を続行する。

「このサイトに限らず、財団サイトでは生物オブジェクトを多数飼育しています。その何割かは爬虫類や猛禽類などの肉食動物です。これらのオブジェクト収容の維持として問題になるのが、日々の給餌です」

 紙の擦れる音が心臓を締めつけてくる。久々に入った管理官室の匂い。呼吸を妨げられながら、わたしは息をする。沈むような座り心地のソファーは姿勢が正しにくくて、かえって邪魔だった。

「給餌自体はそれほど負担ではありません。例えばヘビの食事は成体の場合、一週間に一回程度です。ですが、このために餌となる生物の管理費、輸送費などが発生し、結果としてコストが発生しています」

 するすると言葉は出てくれた。そこで、とわたしは転換する。

「SCP-558-JP生成物を活用し、既存の管理ラインから流用することで効率化を図るべきだと考えます」

 SCP-558-JP。虚無からヒヨコが無限生産される現象だ。SCP-558-JP生成物とはヒヨコのことで、仰々しい代名詞に困惑した覚えがある。

「現状、SCP-558-JP生成物は食品として消費する方法を取っています。これ以外の活用方法の開拓によって、SCP-558-JPの管理コストを削減、同時に給餌調達を内製化し、支出を大幅に抑えられると思います」

 以上ですと呟くと、管理官は軽く頷いた。部屋は沈黙に沈んでいく。口元を手で覆い、逡巡する素振りを見せる彼が目に映る。凍りついたかのように静かな室内には、カチカチという秒針が時間を刻む音だけが響いていた。

「釆原くん」

 静寂が、わたしの名字で破壊される。

「君は、SCP-558-JP生成物が食品としてしか消費されない理由を知っているかい?」
「……え?」
「SCP-558-JP生成物が成鳥化以前に死亡、および正しく食品消費されなかった場合、その直接要因となった人物に負傷が発生するんだ」

 さぁっと顔が青ざめるのが、自分でも理解できた。

「収容初期の事件でね。当時の実験担当者7人の腕に裂傷が生じた。いずれも、大事には至らなかったがね。その後、増え続けるSCP-558-JP生成物の処理方法として、半ば奇跡的に発見されたのが食品消費だ。他のオブジェクトを参考に、針の穴を通すようにね」

 異例も異例だが、と管理官は付け足す。

「SCP-558-JP生成物に関する動物実験は行われていない。再現性が確認できるまでの実験結果収集の困難さ、それだけの数の実験が失敗した場合のリスク担保。処理方法が一つ確立されているから犠牲を払う必要はない、そういう理屈だ」

 彼は断言する。暗に、この提案を通す気はないことを伝えていた。

 初耳の情報に、わたしは困惑していた。収容初期の実験事例など、最新の報告書には記載がなかった。おそらくは収容の慣例化のなかで根拠が抜け落ちたのだろう。資料収集段階のミスだ。材料を探すが、一向に見当たらない。それもそうだ。対策していない情報が飛び出したのだから。

「釆原くん。君はそれでもこの方法を推すのか? 安全性を担保できる証拠は、用意できているのかい?」

 管理官が語調を強めて問いかける。問いに答えられない自分が恥ずかしくて、みじめでならなかった。反論しようとしても、言葉は口の中で小さく響くだけだ。次第にその言葉すら響かなくなり、わたしは口を閉じる。

「ありますよ、証拠なら」

 俯きかけたとき、隣に座る彼女の声が飛んできた。

「津田くん。それはどういうことだ?」
「まず、先ほど管理官が仰っていた動物実験についてですが」

 鞄から新たに取り出した書類を、津田先輩は管理官へと突きつける。

「ここに記録があります」

 きつ然と言い切ると、管理官が目を見開いた。

「この記録は何だね? SCP-558-JPへの実験は、わたしの知る限り行われていないはずだぞ」
「わたしがラボに直接、実験を委託しました」
「サイト管理官の許可なく、か?」
「はい。ですが、同等の権限を持つ理事から実験の承諾は得ています。権限としての問題はありません。もし疑うようでしたら、そちらへ確認してください。書類に名前を記載してあります」

 連続した質問にも表情一つ変えず、彼女は「根岸さん」と管理官の名前を呼んだ。わたしには、反撃の合図に聞こえた。

「あなたはSCP-558-JPの収容初期からサイト管理官を務めています。収容初期の事故も経験していましたよね。再発を恐れ、SCP-558-JPへの実験に対して億劫になっていたはずです。そのため、他の理事を通して実験承諾を得ました。事後報告になってしまったのは申し訳ありません」

 話を戻します。感情のこもっていない謝罪から一転し、津田先輩は淡々と話を進める。

「動物によるSCP-558-JP生成物の消費は、人・動物ともにに被害を生じないことが明らかとなりました。これはSCP-558-JP生成物が幼体の場合も同様です。出てきたヒヨコを生餌として運用することも可能です」

 その報告を聞いて、管理官は腕を組んだ。自らの沽券に関わる勝手な実験申請には不服そうだったが、リスクが消滅すれば事情は変わってくる。

「被害を受けない条件とは、ヒヨコが直接的な生命サイクルに組み込まれることだったのでしょう。外部での食肉消費は依然リスクを伴ったままですが、この方法であれば安全に消費できます」

 対案を自ら断ち、津田先輩は自分の意思を最後に述べた。

「わたしには、この提案は大変合理的なものに思います」

 管理官が押し黙る。少し考える素振りを見せる彼へ、彼女は駄目押しの一言を放つ。

「承認していただけますでしょうか」

 熱に満ちた眼が管理官を凝視する。しばらくして、管理官は諦めたように大きく息を吐いた。

「わかった。承認しよう」
「ありがとうございます」

 津田先輩が頭を下げ、わたしも同じようにする。先輩に従って、わたしたちは管理官室を後にした。

「先輩、ありがとうございます」
「いやいや、いいって」

 部屋を出た途端、津田先輩の表情は柔らかく変わる。ひらひら手を振って気楽そうだが、彼女が裏で働いてくれた労力は凄まじいものだろう。前例のない実験の申請、上層部への根回し。ただ一つの論拠のために津田先輩がかけた時間は計り知れない。

 それを感じさせないほど軽い歩調で歩きながら、津田先輩は唇を尖らせた。

「あのオヤジもさっさと通してくれればいいのにね。SCP-558-JPは自分を巻き込んでくるようなオブジェクトじゃないんだし」
「腕の裂傷ですよ。そりゃ慎重にもなりますって……」
「でも、ヒヨコを殺したら親鳥がクシバシ突っ込んで殺してくるわけじゃないでしょ?」

 物騒な発言に身をこわばらせたわたしを、先輩は「あっはっは」と笑う。「釆原は可愛いなぁ」とわたしの背をばしばし叩いて、一息つこうかと休憩へ誘う。

「大丈夫。世界はそれほど危険じゃないんだからさ」

 歯を見せて微笑む津田先輩が眩しい。わたしは頷いたが、明るい気持ちにはなれそうにもない。口からは、深く重いため息しか出てこなかった。

◆ ◆ ◆

「……っていうか、実験記録があるなら事前に教えてくれたらいいじゃないですか!」
「あ、バレた?」

 荒っぽいわたしの声を、津田先輩は笑って受け流す。彼女の右手に握られたマグカップの中で、カフェラテがゆらゆら揺れていた。

 サイト内に併設されたカフェテリアは昼を過ぎて閑散とし始めている。悪びれるつもりのなさそうな津田先輩を見て、言いかけていた文句は口から零れ落ちていく。自分の持つカップへと声が吸われた。

「そもそも資料段階で情報の抜けがあるなら、それも教えてくださいよ……」
「教えたら、釆原はどうしてた?」

 ゆるい雰囲気を保ちながら、津田先輩が問いかける。鈍い速度の銃弾に撃たれた気がした。返事をしようとして、また言葉を詰まらせる。

 新米のわたしに、人を動かせるようなコネクションはない。上から止められている実験を搦め手で実行しようとはしないだろう。危険だと真正面から言われれば危険だと受け入れる。それが妥当だ。下手につついて惨事が起きたら目を覆うしかない。

 世界の裏側を知って日の浅いわたしには、この世界を動かせない。

 独り下した結論を読んだように、津田先輩が代わりに答えた。

「たぶんさ、案をセルフボツしてたと思うんだよね。せっかくの斬新なコスト削減方法なのに」

 もったいないよ、と彼女はカフェラテを啜って呟く。白い泡が、先輩の唇に子どもっぽく付着した。

「何も伝えられなかったのは本当にごめん。恩着せがましくなっちゃったね」
「い、いえ。わたし、先輩にずっと助けられてばかりで……」
「先輩が後輩を助けるのは当たり前のことじゃん」

 津田先輩はまぶたをぱしぱしと瞬かせる。どことなく眠そうだ。普段頼まないカフェラテを飲んでいる不自然も相まって、わたしは一つの推測にたどり着く。

 もし実験結果の収集に遅れが出ていたら。データをまとめ、提出用資料を作成するのも遅れたはずだ。

 わたしの自信を喪失させないために、急ピッチで作業を進めた。勝手な想像だったが、その可能性を思っただけで申し訳なさでいっぱいになる。縮こまるわたしを包むように、津田先輩は優しく声をかけた。

「この素っ頓狂な職場で釆原はよくやってるよ。外の仕事とは勝手の違うことが多すぎるでしょ?」

 上司への愚痴を並べ立てながら、彼女がカップを差し向ける。

「慣れた? 経理監査部門は」

 わたしは肯定とも否定とも言えない、曖昧な頷きで津田先輩に応じた。

 財団。その組織は世界に降りかかる不条理から人々を守る、いわば秘密結社だそうだ。彼らは──いや、わたしたちは、普段は世間から身を隠し、異常現象に立ち向かっている。知られてはいけない、フィクションめいた集団。

 ……では、ない。

 結局、世界は狭い。突然世界が滅ぶような異常事態は起こらない。件のヒヨコ、SCP-558-JPにしてもそうだ。出てくるヒヨコは一日に三百匹を超えない。多いは多いが、鶏になるのも早いので、処理はなんとか追いついている。大量の食肉をどうするか、問題になっていたのはそこだけだった。

 当然、財団だってさして大きいわけではない。世界のフィクサーを名乗るにはこの社屋は小さすぎる。数々の有名な大企業を傘下に成立してはいるが、言いかえればその程度。カネや人材が湯水のごとく溢れ出てくるわけではなかった。現実は大して都合がよくない。窮屈になってしまうほど。

 そうなれば、カネは切り詰める必要がある。金策するほど困窮してはいないものの、無駄は削減していかなくてはならない。もちろん、異常な存在を収容するという前提は保ったまま。

 経理監査部門はそうしたカネや物資、収容施設を含めた不動産、人材の活用効率などを記録、管理、監視する部署だ。全体的な職務は一般的な経理と変わらない。監査と称してカネの動きを調査することも業務の一環だ。

 わたしがこの部門に配属されてから三ヶ月。サイトと呼ばれる収容施設の建物管理、申請機材の予算調達など、前職に通じる部分もいくつかある。だが、まだ慣れないことも多かった。

 オブジェクト。そう呼ばれる、人智を超えた存在たち。人間の常識では想定できない事態を引き起こす不条理そのもの。それを、財団は囲い込んで世間から隠し通そうとしている。

 津田先輩の言葉通り、危険な影響を及ぼすオブジェクトは少ない。それでも人智を超えていることは確かで、逐一撃退するならまだしも、財団はほぼ恒久的に保管しようとしているのだ。ありえないでしょ、と雇用初月は毎日のように零していたのを思い出す。

 オブジェクトたちの異質さは経費報告書の数字にも表れる。プリンター用のインクが「飼料」として請求されていたときはひどい誤植だと思ったし、稲穂に運動スペースが提供されていたときは冗談だと思った。実際に津田先輩と一緒に現場を訪れたら、何も間違ってはいなかった。平仮名は文字を食べ、稲穂は人に追いかけられて運動していた。

 何が正しくて何がおかしいのか、書類だけでは判断できない。ようやく存在を飲み込めたと思えば、新しいオブジェクトが発見されたり新しい異常性が芽生えたりする。現場でもないのに、わたしは今後も振り回され続けるのだろう。

「……なんとか、やってます」

 ひねり出した返答に津田先輩はうんうんと受け取った。それからマグカップを傾け、残りのカフェラテを一気に喉へ流し込んだ。カフェインを入れて眠気が飛んだのか、ぐぐぐっと伸びをする。腕を下ろすと同時に、津田先輩はわたしの目をはっきりと見た。

「ない? 何か悩んでることとか」

 あまりにも緩く尋ねるものだから、黙っていようという気分すら起こらない。

「ない、と言えば嘘になります」
「まーそうだよね。結構思い詰めてそうだもん。顔に出てるよ、悩みのシワ」
「本当ですか」
「ごめん、それは嘘」

 両手で頬を押さえたわたしを、津田先輩はけらけら笑う。せめてのもの反抗として先輩を睨むと「怒んないでよ」と返される。そうさせたのは先輩のせいなのに。

「で、何に悩んでるのさ」

 柔らかい声色で津田先輩は再び尋ねる。わたしは握ったコーヒーカップに目を落とす。真っ黒な液体に歪んだわたしが反射する。砂糖を降らせるように、わたしは言葉を吐き出していった。

「わたし、先輩に助けられてばかりじゃないですか」
「そうだね」
「でも普通なら三ヶ月って、研修期間もとっくに終わってるころじゃないですか。なのに先輩を付き添わせて……新卒でもないんだから、いい加減自分一人で動けるようにならなきゃいけないはずなんです」

 津田先輩はテーブルにほおづえを突き、ころころと視線を転がした。わたしの発言を頭の中で溶かしているようだった。

「財団の業務を助けなしでやりたい、か。いい心がけだと思う」

 薄く微笑んでから、短く言う。

「無理だよ」
「えっ」
「あー、別に采原が無理ってわけじゃなくって。私も無理だから」

 思わず声を漏らしたわたしに対して、津田先輩は大急ぎで訂正する。顔の前で横方向に何度か手を振りながら苦笑していた。

「無理無理。日々変動する生物の経費管理ですら面倒なのに、異常性なんて厄介なものが付いてるんだよ? 何が必要で何か不必要か、経費を確認するたびに判断するのは大変だって。自信がないなら基本的な書類仕事だけしてればいいけど」

 細くなっていた津田先輩の目が急にぱっちりと開く。包むような瞳に、わたしは吸い込まれそうになる。

「それじゃ、第三者として存在する意味がないでしょ?」

 経理監査部門の役割。エージェントや研究者の活動を経費という数値から監視し、不正がないか確認すること。もっとも最初から職員の不正を疑っているわけではないし、経費を横領する卑劣な輩は最初から雇用されていないだろう。しかし俯瞰した視点から業務を効率化し、環境を是正させる仕事は必要だ。この仕事に就く際、部署の局長からそう説明された。

 黙々と経費の精算をしていてもいいが、それでは雇われた意味がない。津田先輩の言葉は態度とは真逆で、それなりに重たい。わたしは唾を飲み込んだ。

「だから采原が効率化の提案を持ってきたのがさ、嬉しかったんだ」

 再度目を細くして、津田先輩はわたしに笑みを向ける。硬くなっていた自分の心がその笑みで砕けていく。褒められた嬉しさに少々の恥ずかしさが追いついてくる。津田先輩を直視できなくなり、彼女から目を逸らす。

 その様子を見ていたからか、津田先輩はふっと笑い声を零した。

「采原、私らがミスったらワンチャン世界が滅びるかもよ」
「本当ですか」
「それも嘘」

 衝撃を伴う一言に視線を引き戻されたが、けらけらした笑いがまた飛んできた。真剣になりかけて損をしたわたしに、津田先輩は気の抜けた優しい声で語りかける。

「だから、世界の終わりみたいな差し迫った危険がないのは本当。つまりは……もっと仕事を気楽に捉えて踏み出して、部署の先輩を頼ってくれてもいいんだよ?」

 ある程度の責任感と緊張感は必要だけど、と付け足して津田先輩は席を立つ。マグカップを片付ける先輩に追いつこうと、わたしもコーヒーを飲み干す。

 危険がない。当たり前だ。在籍しているだけで危険の伴う事務仕事なんて、治安の悪い国でなければ起こりえない。問題は、その危険にわたしよりも前に出て対処している人々がいるということ。彼らにわたしたちはどう映っているのだろうか。

 余計なことを言う邪魔者だと思われてはいないだろうか。

 過ぎった不安を消そうとする。喉から胃へと流れていくコーヒーで、心の奥底に燻る感情を消火するイメージ。黒い液体が身体に染みて、湧き上がった靄のような不透明を塗り潰す。揉み消せた、と思いたかった。

 その代わりか、口の中で苦みが広がる。残留する苦みに顔をしかめながら、わたしもテーブルの上を片付けた。

◆ ◆ ◆

 キーボードを指が駆けていく。次々とディスプレイに文字が映し出され、データに変わっていく様子を目で追う。意識を周りに向けた途端、タイピング音や電話の着信音が耳に飛び込んでくる。嫌悪感を覚えた音を遮るようにして、イヤホンを装着した。経理監査部門のオフィスはいるだけで息が詰まりそうになる。

 ディスプレイには大量の経費報告が、数字となって映し出されている。十万円が基本の単位だ。

 水道代、電気代、ガス代……光熱費などの施設管理費は財団のサイトという大きな施設である以上、額も大きくなる。施設自体が大型であるだけなく、オブジェクト保管のための冷暖房が二十四時間体制で稼働しているからだ。博物館や美術館の維持費は保管室で大量に持っていかれると聞いたが、こちらの規模はそれをゆうに超えている。さらに職員の人件費も加算されれば、必要な資金はどんどん膨らんでいく。

 普通に見たら気が遠くなるほど膨れ上がった金額を見て、ため息混じりに呟いた。

「こんだけの経費がどこから出てるんだか……」

 目頭を指先で軽く揉み、伸びをした。重く凝り固まった肩を回すと、関節がポキポキと音を立てる。キャスター椅子にもたれかかって天井の照明を眺めた。ぼんやりと、耳に流れる音楽に身を任せる。

 頼ってくれてもいい。その言葉を受けたのがかれこれ一ヶ月ほど前。一月経って何か変われたかと聞かれれば、目立った成果はあげられていない。もとより具体的なノルマなど求められてはいないが、津田先輩の期待に応えられてはいないだろう。

 不可解な請求を指摘し、改善を求める。ただそれだけの気楽な仕事だと思われがちだが、報告書から状況が適正か確認し、収容措置や実験計画が存続に値するか、見極める過程がいくつも重なっている。

 相手となる収容スペシャリストや研究員は必要だと思って実施しているうえに、その道のプロだ。彼らなりの理論に基づいて収容や研究を行っており、こちらが非効率だと判断しても折れてくれない場合もある。経理監査部門も他部門と連携して専門家に連絡を取るのだが、彼らは彼らで忙しい。根気強く待つ時間も長い。

 まして、判断を誤れば危険が伴う仕事だ。現場で働くからこそ必死になるし、譲れない意思のようなものもある。はいそれと変えるのはわたしもプロフェッショナルではないと思う。管理官の根岸さんの顔が浮かんできた。

 相手の矜持を折りにかかる。それがどれだけ不躾か、わたしは知ってしまっていた。

 気楽になれ、踏み出せ。津田先輩のアドバイスが、かえって呪いのようだった。

 ポケットに入れた端末の振動が、暗い気持ちに陥りかけたわたしを引き戻す。イヤホンを外して震える端末を手に取る。送り主の欄に津田と書かれたメッセージの内容は「出張から戻ったので飲みにいかないか」という誘いだった。

 ここ数日、津田先輩はこのサイトから出払っていた。時計を見ればもう終業時刻が近い。今日は早めに上がらせてもらって、残りの仕事は家でしようかな。確認予定だった経費報告をUSBに移動させると、荷物をまとめてデスクから立ち上がる。同僚に礼をし、わたしはオフィスを出た。

 鬱屈していたはずの気分が高揚しているのは、久々にお酒を飲むのが決まったからだろうか。

 オフィスの青白い蛍光灯と比べ、居酒屋の明かりはほのかに暖かい色をしている。他の客が喋る心地よい喧騒の中で、わたしはジョッキに口をつけた。泡から先に、ビールの苦みが身体の内側に染みていく。

 ごくごくとビールを流し込み、ぷはぁと息継ぎのような声が出る。

「かああああっ……!」

 対面では津田先輩がお通しとして出てきたほうれん草のお浸しをつまんでいた。ノンアルコールのカクテルを片手に、わたしの咆哮の一部始終を眺めるに徹していた。

「生き返る……!」
「やっぱり采原、酒飲むと一気に老けるよね」
「だってお酒が美味しいんですもん」
「理由になってないし」

 切り込むような冷静な分析。普段なら睨みをきかせるところだが、せっかくのお酒の席だ。不機嫌になる理由が見当たらない。

 当の津田先輩はオレンジ色のカクテルを少しだけ飲んだ。これまでもいっしょに飲むことはあったが、津田先輩は頑なにお酒を入れようとしない。飲めないわけではないようだが、「人が飲んでるところを見たいから」とわたしとは違う楽しみ方をしているらしい。

 注文した料理は続々と運ばれてくる。カツオのたたきを一切れ口に入れ、舌で味わう。深い味わいを十二分に堪能してから飲み込んで、そこにアルコールを入れる。カツオの風味と芳醇な苦みが混ざって弾けた。歓喜から来た唸りが口の端から漏れ出る。

「本当に美味しそうに飲むね」
「飲むの結構久々ですから。宅飲みもあんまりしてなくて」
「なら、ちょうどよかったかな。最近根詰めてたでしょ?」

 針で刺されたような痛みが心に浸透する。まさかこの席もそれを見抜いて設けられたのでは。津田先輩を見返すが、彼女は呑気そうに微笑むばかりだ。

「別にそんなことは」
「それと」

 からん。津田先輩が包むように持ったグラスの内側で、氷が鳴る。

「采原、わたしにまだ言ってないことがあるよね」

 しっかり開いた津田先輩の目がわたしを見ていた。逃げられない。あれだけ猥雑としていた居酒屋の空気がしんと澄んだように感じる。何か返事をしようとするが、何を言えばいいかわからない。

 何を言えば見逃してもらえるか、思いつかない。

 押し黙るわたしをよそに、津田先輩は身体を揺らした。中身を一口飲み、グラスをテーブルに置く。空いた右手の人差し指を天井に向かって立てた。

「采原はさ、割と感覚派の人間だよね」
「感覚、ですか」
「そう。直感とか、フィーリングで物事を判断するタイプだよねって」
「……それって、経理監査の仕事で役立ちますかね」
「数字と報告の概要から大まかな状況を捉えて、自分の直感で動き出せる。これは感覚派じゃないとできない仕事だよ」

 前の件もそうだったじゃん、と津田先輩は付け足す。SCP-558-JPのことだろう。周辺を何回か見回し、持って回った言葉で必要な説明だけを足していった。天井を指していた指で、今度は自分の頬を突く。

 どこに余剰な資源があり、どこに回せば上手く流れるのか。発想は柔軟に、案の構成は大胆に。ある意味誰でも思いつくアイデアではあるが、そこを実現させていくのがこの仕事の困難なところ。ようは着眼点がいいのだと、津田先輩は言う。

「それだけ勘がいいのに、いざ相手が強く出るとすぐに引っ込もうとする。わたしが押せばまた前に行く。元々の性格がそうだからなのかなと思って様子を見てたけど、性格の問題じゃない」

 そこまでわたしを観察していたのか、と若干肝が冷える。同時にこの人がわたしをどう見ているか、がぜん興味が湧いた。言葉を待っていると、津田先輩が口を開く。

「采原はずぶといよ。自覚ないかもだけど。一人で動こうとしたりして、責任感も強い」

 頬にあった津田先輩の指が、ぴっとわたしを指した。銃口を向けられたような気分になる。磨かれた人差し指の爪が、わたしを狙っているかのようだった。

「その責任感に縛られてる。何かしらの過去の失敗が原因で、自由に動けてない可能性がある」

 静かに放たれた言葉がわたしを撃ち抜いていく。硬く唇を結んだわたしを見たからか、津田先輩は「当たりっぽいね」と呟いた。得意げな笑みがかすかに、口角に表れていた。

「監査に隠し事はできないもんなんだよ」

 いかにも格好つけながら、わたしに向けた指を下ろす。そのうえで聞くんだけど、と頭に置いて質問を投げかけた。

「采原はなんでうちに来たの? ヘッドハントでうちに来たのは知ってる。でも、経理の仕事なら傘下でもよかったんじゃないの?」

 津田先輩の瞳がわたしを圧迫する。柔和な口調でわたしの懐に入り込み、間近から直視される感覚。津田先輩自身は皿の一つから枝豆を取り、直接口の中へ豆を押し出していた。わたしの目線が先輩の手元に移っても、先輩はわたしを見るのをやめない。

 声の震えを出さないよう、わたしは声を絞り出す。

「どうしてそれを聞くんですか?」
「こんな仕事、変人以外やるわけないじゃん。研究職ならわかるよ? けど経理なんて傘下でもいいじゃん。事前説明聞いてわざわざ本部配属選ぶの、実は珍しいんだよ?」

 喉が渇く。回ってきたお酒の浮遊感と床を這わされるような圧迫感が混ざり、目の前がくらくらする。津田先輩はわたしの状態を理解しているだろう。顔が熱い。表面が汗になって流れ出てしまいそうだ。

 無言を貫くわたしの正面で、津田先輩は首を横に傾けた。

「それとも、聞いちゃダメかな」

 自分から聞いたくせに。

 舌戦で、この人には勝てない。わたしは大きく息を吐き、ジョッキの取っ手を握った。思い切りジョッキを傾けてビールを飲み干す。流れ落ちる液体を喉で感じ、渇きが潤っていく。同時に顔の熱さはさらに高まって、落ち着きたいのか暴走したいのか、自分でも掴めなかった。

 ジョッキの中身を一気飲みしたわたしに、津田先輩は一瞬面食らっていた。少し、それが面白かった。息を吸おうとして口を開けば、苦みが喉奥から昇ってくる。声の出し方を思い出して言い放つ。

「わたし、ないんです。人の役に立ちたいとか、そういう意思」

 楽しい話ではない。喉の苦みは過去からやって来たかのようだった。苦みが自己嫌悪に姿を変える。嘔吐したくなる。

「前職、メーカーなんですよ。ざっくりいえば化粧品系の。わたしは企画職で就職しました」
「うん」
「異常とは関係のない、全然普通の会社で。自分でいうのもなんですけど、仕事はそれなりにできる方でした」
「言うねぇ」
「三年目で自分主導のチームを任されるぐらいだったんで。わたしがみんなを引っ張んなきゃって、ずっと思ってて」

 にやりと笑った津田先輩に、わたしも笑いを返す。潜在的な自分は楽になりたいらしい。自分への嫌悪が重なっていく。自分自身に、わたしは杭を打つ。

「みんなはわたしよりできないんだから、って」

 ぴくりと津田先輩の眉毛が動いた。痺れるような空気が場に流れる。そう、この空気だ。この重い空気の中で、わたしは呼吸しなくてはいけない。

 空疎な笑いを零して、暖色の照明を眺めながら喋る。橙色の光の向こうに、オフィスの青い蛍光灯が見えた。

「チームの組織からしばらくして、大きい案件を任されたんです。シーズンの新作。やるからには他の会社で作れないものを、ドカンと当てたいなぁって」
「いい心意気だね」
「はい。そうすればみんなのためになるんだ、って自分に言い聞かせました。わたしの中でそれが当たり前になってて。だから、わからなかったんです」

 チーム結成時に撮った写真を思い出す。人の顔が浮かんでくる。最初はみんな笑っていた。わたしも笑っていたが、笑顔は若干歪んでいる。内心は焦りでいっぱいだった。

「みんなが、この大一番で頑張らないのが。でも、当然なんですよね。勝手に走り出したのはわたしだけなんですから。みんな頑張ってたんですよ、わたしが認めないだけで」

 焦燥がわたしを走らせる。オフィスの情景を液体のように掻き混ぜ、混濁させる。はっきりと先を見通すことができない。溶けた景色がわたしを飲み込み、わたしすらも溶かしていく。

「同僚の企画の子たちとか、研究開発とか販売の部署の人たちが全然頑張ってないように見えちゃったんです。結局わたしが独断専行で、社内の先輩や外部の研究者に直接交渉に行っちゃって。できないなら仕方ないなって、その方がみんな助かるならって考えたんですけど、それは違ったみたいで」

 違った? いいや違わない。間違っていたのはわたし。

 頭の中をきれいに流れていた記憶が、そこで突然どん詰まる。流れをよくしようと、先輩に隠れて意味もなく力む。汗が出てくる。奥底に濃縮された言葉を引きずり出そうとして、何度も声が枯れる。それでも、言わなければいけない。認めなければいけない。

 津田先輩は、今も変わらずわたしから目を逸らしていないのだから。言い淀んだり笑いを混ぜたりするわたしを訝しがることなく、直視してくれている。

 この人に、わたしの過去を伝えなくてはいけないんだ。

「わたしたちのこと信頼してないの、って言われたんです」

 あの冷めた瞳が脳裏に蘇る。そんなことはない。何度そう呼びかけようが時すでに遅し。一度離れた人の心は簡単には修復できない。きっと気づける瞬間はいくらでもあった。彼女たちからの発信を無視し続け、心を冷ましてしまったのはわたしなんだ。

 冷めた瞳がわたしを取り囲む。全身が凍え、腕には鳥肌が立つ。ちかちかとわずかにめまいもする。

「企画自体は成功したんです。けど、わたしとチームの人たちの関係は、そこで壊れました」
「社内のフォローとかヒアリングは?」
「ありました。ありましたけど、わたしはもう、企画のお仕事はできないなって思ったんです。これを何回も繰り返しちゃうんだろうな、無自覚に人を傷つけちゃうんだなって、思っちゃって」

 自業自得でしかないのに、何を落ち込んでいるんだろう。あのときも、最後は自分の間違いを清算しなかった。

「そんなときでした。ヘッドハンティングが来たのは。企画担当を探してたんだと思うんですけど、自分から勢いで言っちゃったんです」

 ある日、自分のメールアドレスに一通のメールが届いた。同業他社からの引き抜き打診だった。多少負い目は感じたが、話は聞いてみることにした。自分はもうここにいるべきではないと思ったから。

 メールの相手は黒いスーツで現れた。今考えてみれば、美容系の企業を装ってカバーストーリーを流布する部署だったのだろう。求められるのは本物の企画にも負けない敏腕な企画担当。わたしの実績を買ってくれていた。わたし一人の力で成しえた仕事ではないのに。

 業務上の危険はないが、普通の会社ではない。説明を受けるうち、わたしは早々に財団の活動内容を把握した。聞くに、本体たる組織は裏方としてひっそり動き回っているという。それを知るや否や、わたしは思い切り頭を下げていた。

「世の中から切り離された場所でオフィスワークをさせてください、って」
「それで、逃げるようにうちに来たと」

 逃げる。わたしの行動をその動詞でまとめた津田先輩は「んー」と顎を触り、思案する様子を見せた。考えてはいるが軽さは失わない。そこから何も動作を変えず、そのままの姿勢で「采原は」と切り出した。

「間違ってないと思うよ。コミュニケーションが足りなかったんでしょ?」
「いいですよ、お世辞は」
「もちろん、悪いとは思う」

 下手な擁護より、責めてくれる言葉の方が心によく馴染んだ。しかし津田先輩の声色は優しい。その優しさがむずがゆい。身体の裏側、手の届かない場所に、わたしは異様なかゆみを覚えた。

「けど、責任を感じすぎる必要はないよ。仕事は成功させたんだし」
「そういうことじゃないんです!」

 勢いのままに叫んでいた。活気ある居酒屋の雑音がわたしの耳元に戻り、叫び声を吸収する。

「わたしは身勝手な人間なんです! 相手の苦労も考えずに、ずけずけ勝手に乗り込んでいく人間なんです!」

 叫び続ける。非難してほしい、糾弾してほしい。一方的な欲求を津田先輩に向かって連続で暴投する。情けなさが腹の底から湧き上がってきた。こんなことで許されようと、救われようとしている自分があさましい。どこまで自分勝手なんだ。

 頬を、水滴がつたっていた。涙は顔を流れてテーブルへと落ちる。数滴の雫が、わたしには自己満足の塊に映った。

「わたしはぁ……クズなんですぅ……」

 みっともない声が出た。顔を上げることはできそうにない。目に溢れる涙は止められず、溜まった涙からまた頬を流れていく。津田先輩はわたしを見てどう思うだろう。

 だが、わたしの頭を駆け巡った何種類かの推測を津田先輩は軽々と飛び越えていった。

「それいいねぇ! うちに向いてるよ!」

 すべてを壊すような調子づいた言葉。はっとなって津田先輩を見る。驚きが勝って涙は勝手に引っ込んでしまった。

「身勝手なのも、相手の苦労を考えずにずけずけ勝手に乗り込んでいくのも、めちゃくちゃ経理監査に向いてる。職業適性100パーセントってところかな」
「え……?」
「もっと自分を出しなよ、采原」

 歯を見せて津田先輩は笑う。わたしの過去を面白がっているかのようだった。

「動けるもんなら動いてみなよ。うちは制度も人間も偏屈・頑固・変態ばっかりだから、そう簡単には振り回せないよ?」

 津田先輩が財団側の代表者となって、わたしに挑戦状を叩きつける。やれるものならやってみろ、崩せるものなら崩してみろ。挑戦を受け付ける強者の風格が覗いていた。

 深く沈みこんでいたわたしが、無理やり引っ張り上げられる。暗いばかりの暴露の場が騒がしい飲みの席へと回帰する。津田先輩の前で、塞いでいたわたしが無力化されていった。

 身勝手に動いて信頼を裏切った話。それ諫めるでも慰めるでもなく、その身勝手さで組織にぶつかっていけと助言する。

 もしかすると、わたしはとんでもない組織のとんでもない部署に入ったのでは。

 遅い後悔が背筋をなぞる。硬直したわたしを張り倒すように、津田先輩は真正面から目を見て話す。

「暴れるんだ、そうすべきと思った方向に。それが組織を助けて、世界を救って、回り回って采原まで変えるんだ」

 オーバー気味な世界という単語に意識を持っていかれてから、唐突にわたしの名字が出た。話のスケールが無茶苦茶だ。長いことオブジェクトを相手にしているとそういう価値観になるのだろうか。

 どちらにしても、笑い飛ばしたくなるほど勇気が出たのは本当だ。

「じゃあお言葉に甘えて、暴れてみます」
「あっはっは。オフィスは壊さないでね。無職になっちゃうし」

 朗らかに言い、津田先輩は自分のグラスを傾けた。ノンアルカクテルのグラスを空にして「追加頼もうか」とメニューを開く。わたしが二杯目をハイボールのソーダ割に決めても、津田先輩は注文を迷っていた。その時間を飲んでいるかのようだ。

 メニュー表の上で指を躍らせながら、津田先輩は囁く。

「気になることがあったら言いなよ。目の前の悩みも拾えない組織に、世界は救えないからさ」

 わたしは、今度は自分なりに首を縦に振った。ここで曖昧ではいつまでも冴えない自分を持ち越してしまう。時間を寸断するように「はい」と返事をする。ぷつりと、わたしに絡まっていた長い糸が途切れたような気がした。

◆ ◆ ◆

 自宅の扉を開き、廊下へ雪崩のように転がり込む。ビールにハイボールソーダ割、そこに追加で三杯ほど飲んだ。帰ってもからも仕事をつもりだったので早めに解散となったが、短時間でぐいぐいお酒を飲むわたしに津田先輩は少し引いていた。あの吐露には引かなかったのに、人がお酒好きなことには驚く。相変わらずよくわからない人だ。

 スーツから部屋着に着替え、コップに水を注ぐ。ローテーブルにノートパソコンを置き、わたしはクッションに座った。USBからデータを移し、経費報告を表示する。気が遠くなりそうな数字の群れ。ふぅーと深呼吸をして取りかかる。歯磨きは忘れないようにしたい。

 あるオブジェクト収容房の項目に目が移る。オブジェクトクラスはKeter。財団でも数少ない収容難度最上位のオブジェクトだ。ほとんどが金庫に閉じ込めれば片付くのがSafe、監視要員の人件費や定期的な維持を必要とするのがEuclid。Keterとなるとそうはいかない。常に何かしらの方策を施さねばならず、常に多額の予算が消費される。

 それを止めることは基本的にできない。予算がきちんと使われているかを確認して、付属の報告書にも目を通す。Keterともなるとオブジェクト本体に関する異常性が機密情報になる場合も多く、あまり深くは知れないのだが。特に問題はないと見て、画面を閉じようとした。

 微細な違和感がわたしを刺す。もやもやした煙のような感情に包囲される。なぜすっきりしないのだろう。少しの時間考え込んで、記憶の底からある数字が脳裏に浮上する。

 わたしは急いでサイト全体に関するデータを見た。オブジェクトの活動は収容している施設に直接表れる。消費電力、上下水道利用量、振動、特定廃棄物の排出量、通常処理できない物質を焼却するためのガス消費量。Keterを取り囲む収容サイトであれば、何かしらが異様な数値になっているはずだ。

 しかしこのサイトの数値は、他オブジェクトの数値をそのまま差し引けば極めて平均値。

 電気はオブジェクトの収容室に使用されているが、内側から出ていくものが皆無に等しい。予算の多くは警護のための人件費や、高度技術への費用だと考えられる。何かを処理するためには、予算は一切使われていない。

 維持が大変だからKeterなのに?

 画面の前で、わたしは固まった。推測が正しいならかなり深刻な問題だ。数億円単位の予算が無駄に消費されていることになる。

 しかし、躊躇した。財団ではわたしはまだまだ新米だ。これを扱えるとは思えない。そもそもわたしが間違っているのかもしれない。情報が開示されていないだけで、きちんと正当な収容が行われている可能性もある。勝手に問題視しているだけなら、ただでさえ手間なKeterクラスの収容班に不要な迷惑をかけてしまう。

 黙っているべきだろうか。

 そう判断しかけたとき、津田先輩の挑発的な笑顔がわたしの心で再生された。

 動けるもんなら動いてみなよ。かかってこいと手招きをする。数字を束ねて棍棒にして、不可解に向かって思い切り振り下ろす。そうすべきと思った方向に、暴れる。

 口の端が吊り上がるのを自覚した。

「暴れてみます、先輩」

 とはいえ、何をするにも情報が足りない。頼っていい。散々声をかけてくれたあの人を、大問題に巻き込むことにした。驚くかもしれないが、きっとあの人なら最後は引き受けてくれるだろう。

 淡い期待を抱いて、わたしはメールを書き始めた。



経理監査と空っぽの箱

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