僕は、今になって初めて、自分自身の愚かさを再認識していた。
意識が薄らいでいく。何も考えられない。きっとこれも、この熱く沸き立つような温度に感じられる赤い水たまりのせいだ。それが自分の身体からとくとくと湧き出ているものであることは明白で、心臓の鼓動のたびに、それが肉体からこぼれ落ち、体温が失われていくのがひしひしと伝わってくる。
しかし、それすらも、あとわずかで冷え切った闇の中へと消えてなくなっていく感覚なのだろう。
僕はぼんやりとした視界に映る手の中のそれを見ていた。
その肉片は、僕がよく知る、僕の一部だった。
そしてそれは僕の一部でありながら、僕とは違った相手でもあったんだ。
まさしく、この手の中で縮んで冷たくなる肉片は、僕の大切な家族の1人だった。
それが、明らかに異常な状況だと気づいたのは、朝に目覚めてからのことだった。僕はいつ眠りについたのかは覚えておらず、気づけば朝になっていた。
「んあ、おはよう! ええっと、聞こえてるかな?」
僕の、僕だけしかいないはずの部屋で聞こえた、僕によく似た僕のじゃない声。
周りを見回しても、誰も見えやしない。財団という組織に雇用され、割り当てられてからずっと暮らしているこの職員寮に、誰かを招き入れたことすら今まで一度たりともなかった。そんな部屋で、僕のものではない声が聞こえてくること自体、異常な状況だった。
けれど、そんな異常さと、同時にその原因すらも明確にさせるような事実が、布団の下に包まれた下半身から響き渡ってきた。
僕は、そのときのことは正直あまり覚えていない。おそらく絶句したまま硬直していたかもしれない。いや、"それ"も同じく硬直したままだったけれど。でも同じ硬直でも"それ"が僕と決定的に違うのは、異常なほどにおしゃべりだったことだ。
「えへへ、ここから出させてくれてありがとう」
僕が履いていたズボンを下ろし、パンツをずらしてあらわにさせた硬直が、陽気なテンションで僕に話しかけてきている。
正直、寝起きだった僕はそれが現実に起きていることだとはどうしても認識できず、この時ばかりはもう一度布団で寝て、夢であることを祈っていたように思う。あまり覚えてはいないことではあるけれど、それがもちろん夢などではなく、ましてや僕の認識がゆがんだだけでもないことは間違いなかった。
どうしてこのようなことになったのか。それは、そう、ついこの前のことだ。僕がいつも"一人の時間"のために利用しているとある通販サイトで、見知らぬジョークグッズ販売ショップが「無料テスター募集」の表示を出しているのを見つけたのが事の始まりだった。
財団の検疫や検査で引っかかったりすることもなく送られてきたそれを、僕は何の警戒もなく使った。そのときの僕はと言えば、ほぼ毎日のように自室にいれば自慰行為にふけってばかりだったこともあり、お金もかからずに新しい製品を楽しめるというお得感も相まって冷静な思考はしていなかったのもあっただろう。
それは、今まで使ったどの製品よりも心地よく、強烈な感覚に意識が飲み込まれるかのような性的快楽を受けて、僕は果てた。きっと、そのときの僕はおおよそ気を失うほどだったんだろう。そこまでは何も問題はなかったのだが……。
「……」
「ねえねえ、どうして黙ったままなの? 初めましてのご挨拶くらいしてよ、兄ちゃん!」
それほど立派でもない自分の逸物が陽気に僕に挨拶を促してきた段になって、初めて僕は吃驚の声を上げた。
「え、ええっと、兄ちゃんって……ちょっと待ってほしい。一体何がどうなってるんだ」
「何がって、挨拶するのは普通のことじゃない?」
「いや、そうじゃなくて……なんで僕の、チンチンがしゃべってるのかっていう意味で……」
「うーん? そう言われても、ボクは最初からずっとこんなだよ?」
「ええっと、いやその、ううん……」
改めて、自分のそれに話しかけて会話が成立している時点で狂っているとしか思えないものだけど、このときの僕はといえば、下半身を丸出しにしたまま焦りに焦っていたために、そんな理性で判別できる事柄すらどうでも良く思えていた。その感情は「恥ずかしい」と思うかどうかという部分すらも吹き飛ぶほどで、とにかく必死に状況を理解することに努めることにしていたのは間違いなかった。目を見開き自分の正気を疑っている僕を横目、それは楽しげに身を揺らしながら、張り詰めた身体をさらに膨らませた。
「んまあ、そんなことはいいじゃんいいじゃん。ボクは兄ちゃんの元気な顔を見れたのがうれしいよ!」
僕のそれには当然顔なんてものはないが、それでもそれの身振りでおおよそどういった感情を抱いているかは見当がついてしまう。いや、性器の感情がわかるということ自体よくわからなかったが、実際そうなのだからそう言うほかない。
僕はただただ楽しげに甘えてくるそれに苦笑するしかなかった。
幸い、その日は非番で、ずっと部屋に引きこもっていられるだけの時間があったのが救いだった。時間が経ち、冷静に状況を分析できるだけの心の持ちようが戻ってきたところになって、僕のペニスが自我を持った原因をたどることができた。
先もあったように、僕は夕べに届いたあのグッズに原因がある気がして、少しそれを調べてみた。外観は僕がよく知る筒状のシリコンではあるものの、一点、夕べの状況では気づかなかったものを見つけて、疑念は確信に変わった。
"AKI玩具"
半透明のシリコンに光の加減で浮かび上がるそのホログラムを見て、僕はとんでもないものに手を出してしまったことに大きく怖じ気づいた。そのシリコンでできた筒は、間違いなく異常なオブジェクトだと、僕は確信したのだ。
AKIと名のつく要注意団体の存在は、過去の収容オブジェクトの報告書を読む中で知識としては得ていた。新たな快楽の深みに到達することによって生物種をさらなる高みへ到達させることを至上とする、営利組織の体を成した団体だ。過去にもここによって生み出された、これに類似したアイテムやオブジェクトが収容された件を知ったのも記憶に新しい。
しかし、財団職員ともあろう僕が、不用意に送り主を確認もせず、異常なオブジェクトを手にし、あまつさえそれを使ってしまった結果がこれという明らかな現実を目の当たりにして、途端に強烈な後悔と、さっきまで感じることすらなかった、それを上回る強い羞恥心に心が押しつぶされそうになっていた。次に僕の心を支配したのは、恐怖だった。
「ね、ねえ兄ちゃん。そんなに怖がって、どうしたの……?」
チャックから顔をのぞかせたそれは(本当はひとまずズボンの中にしまい込もうとしたが、それが強く拒絶したため泣く泣くさらけ出していた)、堅さこそ今やなくなってはいたものの自由に頭を動かすことはそれの意思によってできるらしく、うつむいた僕の視線の向こうで、心配げに皮で包まれた頭をこちらに向けていた。
「いや、なんでもない、なんでもないよ」
なんて言い聞かせてみるが実際のところ、なんでもないわけがないだろ! と心の中で突っ込んでいた。さすがに肉体的につながっていても、僕の心までは読めるわけではないらしく、「それならいいんだけど……」と、心配そうな態度は変えずにズボンの布地にだらりと遅緩していった。
それが落ち着いた頃になって、僕は恐怖の原因に目を向ける。ひとまず、この状況は僕にとってはかなりまずい状況であることには変わりない。本来なら異常存在を見つけた場合、財団の規定に従うなら直属の上司にアイテムとともに報告する必要があるのだが、僕にはこんな恥ずかしすぎる状態とそれに至る経緯を誰かに伝えられる自信なんてものはなかった。この時の僕は、とにかくなるべく事態が明るみにならないようにしないといけない、そういう考えばかりが頭を巡っていた。
夕べの手に入れたグッズは箱にしまい込み、ベッド下の収納の奥へと隠し込む。購入履歴の消去も忘れずに済ませ、最初からそんなものはなかったという形を装う。今思えば、この程度のことで財団から情報を隠し通せると思っていた僕は浅ましくも愚かだとは言うまでもないが、そのときはそれが精一杯だったのだから仕方がない。
そして、問題はこれの方だ。未だのんきに鼻歌(鼻と呼べそうな部分はないが)を歌っている僕のペニスに見やって、深いため息をこぼす。どうやって隠蔽すべきか、皆目見当もつかない。そもそも、これの声は僕しか聞こえてないのか、僕以外の人にも聞こえるのかわからない。それを確認することもできない。ある意味これの性質もまるでわからないままだ。
「ええっと、その。君って、どうやってしゃべってるの?」
改めて変な質問かもしれないが、そう聞く以外に手段はない。
「え? うーん、どうって言われても、ボクは普通にしゃべってるだけだよ!」
「いや、でも、しゃべるための口とかないし」
「うーん……そう言われても、ボクもわかんないよ、考えたこともないし」
やはり、ただ普通に聞いただけではわからないままだ。この調子であれば、どれだけ質問をしても進展はないだろう。また僕は行き詰まった状況に頭を悩ませながら、続いて僕はそれに問いかけた。
「え、ええっとさ……とりあえず、その声が他人にも聞こえてるとするならだけど、できればこの部屋以外の場所では話はしないでほしいかな、なんて」
「えー? どうして?」
「どうしてって……当たり前のことだよ! 普通チンチンはしゃべらないからだよ。他の人に聞かれたら、とても怖いことになるから……」
「え、怖いこと、って?」
「怖いことは怖いことだよ。いろんな人に見られながら触られたり、痛めつけられたり、切られたり……いろいろされるかもしれないから」
「ひっ」
それはきょとんとした様子を見せながら僕の言葉に反論しようとしていたが、「怖いこと」と聞いて意気消沈して怖じ気づくようにしゅるりとしぼんでいく。実際、僕が言った言葉は大仰かもしれないけれど、嘘はない。こんな異常事態が誰かに知られてしまえば、それだけで僕の職員としての生涯は暗澹たるものになりかねないからだ。最悪の場合、ほかのオブジェクトのように収容されてしまう可能性すらあるだろう。
それは、おびえるような声で僕に続けて言う。
「うぅ……わかったよぅ。兄ちゃんがそんなに真面目に言うなら、約束するよ」
「うん、おねがい。……約束?」
「そっ、ボクは約束する! だって怖いのやだし!」
「そっか。うん、ありがとう。じゃあ、約束だよ」
自分のペニスと約束を取り交わす。──真面目に書き起こすとその数奇すぎる関係性が如実に現れる事柄ではあるが、いやに物わかりが良く、なにより素直な彼を見ていると、特別嫌悪感すら沸きもしなかった。むしろ、どことなく愛くるしくも感じていたのが事実だった。
それから程なくして、僕は彼と過ごす時間をなるべくとるようにしていった。
普段の財団での業務に従事している時は、彼は「約束」を必ず守ってくれていたし、話す時間が長ければ長かった分だけ、自室では彼はとてもおしゃべりだった。元気いっぱいに身体を膨らませて、僕のことを「兄ちゃん」と呼んで甘えてくる。不思議なことではあるものの、どういうわけかそういった時間が増えれば増えるだけ、僕は彼に対しての警戒心は薄らいでいった。
今のところ誰かにこのことがバレた様子はない。それだけが気がかりであり、安堵する瞬間でもあった。
「ねえ、兄ちゃん……」
僕のペニスが彼になってから、1週間が過ぎた頃。僕は自室でいつものように彼をズボンから転び出させて話していたところ、どうもこの日の彼の声はどことなく様子がおかしく聞こえた。くぐもったような、苦しさを訴えかけるかのような話し方に聞こえる。一体どうしたのか、と問いかける前に、僕と彼が一心同体であることに先に意識が向いた。
彼は今までにないほど、全身をこわばらせていた。まるで涙を流すかのように、くしゃりと皮膚が寄り集まる先端から粘液をこぼしていた。皮に包まれた先が赤く膨れて、何かを恋い焦がれるように僕の太ももにそれをこすりつけていた。
「兄ちゃん、ボク、どうしちゃったのかな。なんだか、身体が熱いんだ」
「え、ええっと」
彼はペニスでありながら、自我を持ってから性的快楽を得るのは初めてのことだからだろうか。自身が興奮で身震いしている事に対しては無自覚だった。思えば、僕に彼が生まれて以降、一度もそういう目的のために触れることすらしていなかったことを思い出す。少し長い禁欲生活を意識せずに成していたということでもあるが、ペニスに自我が生まれるなどという突拍子もない出来事ばかりに意識が向いていたため、僕自身、興奮していたことに気づけていなかった。
僕はぷるりぷるりと震える小さな彼を、そっと手の中に包み込む。
「大丈夫、大丈夫だから。落ち着いて」
「兄ちゃん、なんだかボク、怖いよ」
優しくなだめるも、彼はつらそうにうなるばかりで一向に落ち着く様子はない。僕自身も今や彼と同じく、熱く滾り散らす僕の身体を押さえ込むのはしんどいものだったし、これを改善する方法は1つしかないことは言うまでもなかった。
だから、僕はおもむろに彼の身体をぎゅっと握り、上下へとゆっくり、優しくこすってみる。
「ひうっ、に、兄ちゃん!?」
「だ、大丈夫だよ。ゆっくり、慎重にやるから……」
「な、なんだかヘンだよ、ボク、なんかヘン……!」
彼は僕の手の中であえぎ苦しんでいるのが伝わってくる。指先でどろついた頭に指を這わせるだけでびっくりしたかのようにのたうち回り、跳ね上がっている。
同時に、僕自身も強烈な性感に酔いしれていた。こんなに異常な事態だというのに、僕は一体何をやっているんだろう。言葉を話すようになったペニスをしごきながら、どこか冷静な僕が不意にそうつぶやいた気がした。
けれど、手を離し、ぷるぷると僕の手のひらに身を寄せて甘えてくる姿を見ているだけで、そのような無粋な思考を巡らすのが馬鹿らしく感じる。
いつものように手慣れた自慰行為なはずなのに、いつもと違うほどの強烈な刺激を甘受している。彼が僕とともにいる、僕と一緒に気持ちよくなっている。その事実だけで、僕は普段以上の興奮が沸き立っているんだろう。誰かと一緒に気持ちよくなる。それがこんなに楽しいなんて。
しかもその相手が、僕自身のペニスだなんて。こんなの、冷静でいられるわけがないじゃないか。
「おねがい、兄ちゃん! ちょっと、待っ……あっ、あぁぁっ!!」
僕のペニスが叫ぶ。もうすぐ、もうすぐ僕は最高潮に達する。その感覚は彼にも共有されているんだろう。部屋にこだまする彼の声を聞きながら、僕はフローリングに向けて果てた。
「あっ、はぅっ、おひっ……ふぁ……ぁ……」
断続的に精液を撃ち出す彼のタイミングに合わせて、嬌声が響く。ぷるんぷるんと跳ねる彼を手で押さえて、熱いものを受け止めようとした。いくらかは床を汚したが、今やそんなことはどうでも良くなるほど思考がクリアになっていく。
「が、はぁ……はぁ……」
僕自身も大きく呼吸しながら、座っていた椅子の背もたれに寄りかかった。これほどまでに気持ちいいと思えるような行為は初めてだったし、自分でも気づかないうちに彼と同じような声を上げていた気がして、途端に恥ずかしくなった。
「んぅ……兄、ちゃん……」
「あ、ぅ、えっと……ごめん。びっくりさせちゃったよね」
「ううん。大丈夫、だよ……」
いくらか冷静な意識を取り戻した僕らは、互いに気遣い合う。精液に濡れたまま手の中でしぼんだ彼が、満足そうに笑っている……ような気がした。
「ね、ねえ兄ちゃん。これ、すっごいね……身体がジンジンってして、ビクビクが止まらなかったよ。それに、なんか白いのが出たとき、ボクびっくりして、身体、動かなかった……!」
「そ、そうだね……」
「今はちょっとしんどいけど、またもう一回やってよ、兄ちゃん!」
果てた僕よりも、彼の方が元気になるのが早かったようだ。そんな中、落ち着きを取り戻した僕はうれしそうに揺れる彼を見て、少し考えていたことを口にした。
「うん、またやろう。ぎん太」
「……え? ぎん太?」
「うん。君の名前。しばらく僕は考えてたんだ。いつだってギンギンと元気に振る舞うから、ぎん太。いい名前でしょ」
僕は彼、ぎん太に向かって優しく笑みを向ける。僕はいつしか、彼と一緒にいることが楽しくなっていたし、いつまでも名無しのままでいさせるのも忍びないと思っていたのもあり、呼びやすく愛らしい名前をつけることにした。
「……~~~っ!!!」
ぎん太は先ほど絶頂を迎えたばかりだというのに、身体を大きくわななかせて膨れ上がり、叫んだ。
「ぎん太……ぎん太、ぎん太! ボクのお名前! すっごい、ボク、とってもうれしいよ! 兄ちゃんありがとう!!」
「そ、そんなに喜んでくれるとは思わなかったなぁ」
「あったりまえだよ! ボクの大好きな兄ちゃんからお名前もらったんだもん、喜ばないわけがないよ!」
ぎん太はフルフルと右へ左へ動き回って、楽しげに名付けられた名前を連呼している。よほどうれしかったんだな、と僕自身もうれしさを露わにしながら、ぎん太を優しく撫でていた。
けれども、こんな平和な日々も、そう長くは続きはしなかった。
「篝根君。ちょっといいかな」
オブジェクト収容計画の策定会議を終えて、足早に自分の職員寮へと戻ろうとする僕に向かって、何か気がかりそうな様子を見せながら歩み寄ってきたのは、張妍チャン・ヤン博士。ここ、サイト-8148では僕の上司に当たる人で、ついさっきまで僕の隣の席に座って会議を取り仕切っていた女性だ。僕が会議で常に張博士の隣にいるのも、上司である彼女のご意向による。おそらく僕のことを気に入っているからだろうけれど、僕からすれば彼女と一緒にいる瞬間はいつだって気が気でなかった。
その理由は2つある。1つは、張博士は僕の背丈と比べ、20cm以上も大きいということ。男性であるにも関わらず未だ150cmを超えない背丈というだけでもコンプレックスなのに、彼女と一緒にいるとそれが如実に際立ってしまう。僕よりも大きな身長の女性というだけでも威圧的だが、張博士に限ってはことさらにその圧が強い。会議中、僕以外の職員から見てもその差は圧倒的なものに見えるはずだ。その圧が、いつも僕のコンプレックスを締め付けてくる。そして、もう1つの理由は……。
「ええっと、なんでしょうか博士」
実のところ、この後の僕は特にこれと言った業務があるわけでは無かった。そのため会議を終えればタイムカードを押して早上がりができると期待していたところだったのだが、こういう時に限って張博士から声を掛けられた。正直、この時の僕はあまり穏やかな感情を持っているとは言いがたかった。それはただ張博士が苦手だからというわけではない理由によるものだ。
つい先日産声を上げたおしゃべり好きな股間の主が、今も物静かに待ち続けているというのに、こんなところで苦手な相手から時間を取られてしまうという最悪な状況によって芳しくない心理状況に陥っていたというのが事実。ここでさらに仕事を振り分けられたりなどしたら溜まった物ではない。ぎん太は会議中でも度々僕の内ももに身体を擦っていたことを考えても、その仕草から推察できるのは「早く終わって欲しい」という意図であることは想像に難しくはなかった。
「いや、少し気になったんだけど……」
「はい」
張博士は、何か訝しげな様子で僕をじっと見た。彼女のメガネのレンズ越しに伸びる視線は当初こそ僕の顔面に向かっていたが、その視線は次第に下へと降りていく。それだけで、僕はそのルートを逆走していくかのように、下から上へと背筋が凍り始める。
僕が張博士を苦手としている理由2つ目である。彼女はやたらと僕のことを"気に入っている"点にある。身長差ゆえか、あるいは他の理由か。張博士は業務中、度々僕との距離を縮めてくることが多い。その真意は計り知れないが、正直なことを言えば、先のコンプレックスのこともあるし、出来れば気に入られたくもない相手だった。しかし実際は僕の願いとは真逆に事が進むことも多く、それが僕を尚更苦しめていた。
張博士は僕の股間をじっと凝視している。その目はズボンの布地を貫通するかと思わせるほどのもので、僕は背筋の凍結が全身に回ったかのように硬直していた。思考回路がパンクしたまま、僕は僅かに残った理性で一歩後ずさる。
「あ、え、えっと、ちゃ、張博士……?」
「あっははは! いやいや、ごめんよ。会議中、やったらと股間をモゾモゾさせてたみたいだから、まさかあの重苦しい空気で興奮してたのか? って思っちゃってね」
「そ、そんなわけ無いじゃないですか。やめてくださいよ、セクハラですよ!」
僕は心底狼狽えていたが、こんなことを女性からさも当然のように言われれば、女性への耐性のない人なら冷や汗が出るのも無理は無い。まさしくこの僕のように。
張博士はニヤついた顔で「ごめんごめん」と軽々しく謝りながら、飄々とした態度を一変させて僕に続けて言う。
「んまあ、でもさ。財団という組織で仕事をする以上、生理現象だとしてもちゃんと"制御"できるようにしておかないと、命取りになるからね。ちょっとした気の抜けが後々最悪な結果になったりするから」
「あ、えっと、はい。すみません」
「そんなに気に病むことないって。ちゃんと仕事をしてればなんとかなるし、私は別にそういうの気にしてないしさ。ちゃんと"制御"しときなよ?」
「……はい」
そう言うと、張博士はその場から離れて見えなくなった。軽げな口調でああは言うが、その言葉は僕にはとても重々しく聞こえていた。どういうわけか、この時の僕は彼女の、張博士の意図が読めなかった。
普段じゃいつだって尻軽そうな態度とナリをしていて、あんな風に真面目な話を持ち出すことなんて到底なかったはずのあの張博士が、僕をあんな風に諭してくるなんて。……もしかして、見抜かれたのか? いや、そんなはずはない。確かに会議中、ぎん太が太ももに寄りかかったりすることがあり、それを落ち着かせるために足を動かすこともあったけれど、たったそれだけでバレるなんてことはあり得ないだろう。
「でも、もしかしたら」「いや、まさか」「しかし、それでも」……。
そういった不安と懐疑が、僕の心を大きく揺れ動かし、支配していった。心臓の鼓動が高鳴るのと同時に、またあの時のように僕の太ももがつつかれた。
その感覚で理性を一瞬取り戻した僕は、誰にも聞こえないような声で一人「ごめん」と言って、元来た道を反対方向に歩いて行った。
「兄ちゃん、あの女の人、ものすごくボクのことみてたよね? 女の人からじっと見つめられるなんて初めてで、ボク、とってもドキドキしちゃった!」
自室に戻った途端、ぎん太が僕のズボンをテントにさせて話し始める。ズボンのわずかな隙間から外の様子を見ていたのだろうか。僕の焦りや不安とは裏腹に、ぎん太はと言えばどこまでも楽観的な様子に見えた。
「ドキドキしたのは僕の心拍が上がったからだよ……怖かったんだからね」
「え、怖い? 女の人に見られるのが?」
「そうじゃなくって……君のことが誰かに知られたらマズいからだよ」
「んあぁ……」
忘れてた、とでも言いたげな声を溢して、ズボンから顔を出したぎん太がふにゃりと頭を下げた。でも直後には彼もすっかり明るい態度で続けて僕に話す。
「でもでも。あの人はどうも兄ちゃんのことが好きみたいだよね? だったら多分大丈夫だよ!」
「え?」
「だって、ボクは見えないけど声の調子とか、雰囲気とかからあの人は兄ちゃんに気があるんじゃないかなって思ったしさ~。だからボクはきっとバレても大丈夫だと思ってるよ!」
ううん、と僕はぎん太の言葉に不安を覚える。確かに今までの態度から見るに、張博士は僕といつも距離を縮めているし、セクハラが過ぎるのも気があるからだからと言えば納得は行く。けれど、あの尻軽さから見るにただ気があるだけとも思えなかったし、やはりどこか腑に落ちない不安が僕の思考によぎっていた。
「でも、やっぱり僕は怖いな。……もしかしたら、って思うと、やっぱりね」
「兄ちゃん……」
僕は、ぎん太を手のひらに載せて、優しく握り込む。「んっ」と小さく声を上げたのは、僕ではなくぎん太のほうだった。
「ボクは、兄ちゃんからそんなに大事に思われてるっていうのが、とっても嬉しいよ。ボクはただのチンチンだけど、それでも嬉しい。ボクをいっぱい気持ち良くしてくれるし、ボクが危ない目に遭わないようにっていつも心配してくれてるし、ボクは、それだけで幸せだよ」
「うん、ぎん太……」
「だから、だからね。今度は、兄ちゃんが幸せになってよ。兄ちゃんがボクを愛してくれてるように、兄ちゃんも誰かから愛されて欲しい。だから、ボクと兄ちゃんのヒミツを、あの人に伝えて、仲良くなって欲しいなって」
「まあ、ボクもあの女の人と仲良くしたいんだけどね」と続けて言い、笑いながら手のひらの中で揺れるぎん太だったが、僕は彼の言葉を聞いて、内心とても驚いていた。ぎん太はとても素直な子だったし、それゆえに僕のことを想い続けていたんだろう。
ペニスに自我が芽生え、そのペニスから僕自身の幸福を望まれる。文面だけでも胡乱の極みのような事柄なはずなのに、僕はいつしかそれに違和感すら僅かでも感じることはなくなっていた。彼がそう言うのなら、僕も彼を信じたい。確かに、張博士の言葉も気になりはしたが、あれも彼女なりの気遣いの言葉だったのかもしれない。僕に気があるとするなら、その可能性だって大いにある。
ぎん太が言うなら、きっと大丈夫だ。僕は、覚悟を決めた。
「それで。どうして私のオフィスに?」
覚悟が決まったのは、2日が過ぎてのことだった。朝のうちに、僕はベッドの下の奥に隠していたあれを引っ張り出して、普段持ち運んでいる鞄の中にしまい込む。丸一日僕は張博士の側で事を伝えるべきか悶々としたまま業務に従事していたわけだが、ぎん太は早く早く、と急かすように太ももをつついてきていた。そんな彼に背中を押されるように僕は彼女の元へと向かった。
張博士のオフィスは、この建物の最上階に位置していた。僕の方から顔を出すなんて慣れない事をしたお陰だろう、彼女が不思議そうな表情で首をかしげて僕を見ている。僕は早まる心臓の鼓動を深呼吸で落ち着かせ、鞄を手に一歩踏み出して張博士に頭を下げた。
「その、あ、ありがとうございます……!」
「え、ええ? うえ?」
張博士は大きく焦ったような様子を見せている。僕は深々と頭を下げたまま、その表情を想像する以外のことは出来なかった。
「張博士、先日仰っていましたよね。僕が僕自身を"制御"していないと、命取りになると。僕はずっと考えていました。張博士がどうして普段とは違うような、僕を諭すような言葉を贈ったのか」
僕の緊張は最高潮だった。それを示すように、ぎん太も鼓動に合わせて震えているのを感じた。
「張博士、博士は、僕のことを、それほどまでに好いてくれていたんですね……ありがとうございます、本当に、ありがとうございます……っ」
「……」
沈黙。静まりかえったオフィスで、2人の呼吸音が僅かに響く。僕はこの無音の時間がまるで数十時間も続いたかのように錯覚するほど、精神が研ぎ澄まされていた。汗ばんだ手をぐっと握り込んで、僕は張博士の顔を見上げた。
「……あ、あっはははは! いやあまさか篝根君ってば、そんなに大胆だとは思わなかったよ! すごいじゃないか、よく頑張って私に迫ってきたねぇ」
博士は笑っていた。いつもの飄々としたあの態度のまま、僕を見てひとしきり笑いながら話していた。僕の感謝の言葉がそれほど面白かったのか、それとも。
「いやいや、いいんだよ。私も君のことは気になってたのは事実だしねぇ。何か、人には言えないようなことを隠しているってのもね」
「……ぇ」
いや、まさか。そんなはずは。気付かれていた? まさか。僕は動揺が止まらなかった。なんとかして外面を取り繕おうと藻掻いてみるが、結局は無駄な足掻きに過ぎず、一瞬で看破されてしまう未来が見えた。そしてその未来は現実となる。
「まさか隠し通せるなんて思ってないよね。いいんだよ、正直に話しても」
「えっと、その」
やはり、気付かれていた。一体どこで?! 僕は誰にも言っていなかったし、ましてや彼女にそのことを知られるような真似なんてふざけててもやるはずがない。どうして、どうして、どうして……。
「ね?」
ポン、と僕の頭に手が置かれる。まるで子どもをあやすかのように、僕の頭をわしわしと撫でる仕草に、僕は次第に諦めの心を滲ませられた。はぁ、と一息ため息をついて、僕は一歩下がり、張博士に続けた。
「……分かりました。僕の秘密を、お見せします……決して、誰にも言わないでください……」
「ああ、誰にも話さないさ。私に君の秘密を教えてほしい。 ん……見せ?」
張博士が疑問符を付けた言葉を発したのが遅いか早いか、僕はおもむろにズボンのベルトを緩め、するり、するりと下半身を露出させる。博士は目を丸くしてその様子を見ていたが、彼が待ってました、と言いたげに起き上がり、彼女に挨拶してみせる。
「ええっと……初めまして、張博士!」
「へ?」
張博士はきょとんとした表情のまま、しばらく硬直していた。そりゃそうだ、男性の局部が声を上げて挨拶してきているのだから、普通驚かない方が異常だ。けれど、僅かな沈黙がまたも室内に木霊したと思うと、次に響いたのは彼女の笑い声だった。
「……あっはははっ。なるほどね、なるほど。そういうことだったのね」
「ええっと」
「いやあ、篝根君、てっきり私に気があるんじゃ無いかって思ってたからさ。まさかいきなりズボンを下ろしてくるとか、奥手そうな君が大胆な手を打ってくるなんて想像してなかったし、しかも見せてきたモノがいきなり声を掛けてくるなんて想定外すぎて、ちょっと面白すぎちゃったよ」
「あー……ええ、そ、そうですよね」
僕はハハハと苦しげに笑い返しながら、張博士が意外にも引いていない事実に安堵さえしていた。もしかすると、さらに酷いことになっていたんじゃないかという恐怖もあったから。
「えー、そんなに笑うほど面白かったかな、兄ちゃん」
ぎん太はと言えばそんな僕の心配をよそに、脳天気に頭を揺らしながら僕に問いかけてきていた。どうも、彼にとっては特に不思議な事であるとは思っていないかのようだった。
「面白いし興味深いよ。君はユニーク極まりない」
張博士はそう言って、ぎん太の方へとしゃがみ込んで様子を見ている。ズボンを下ろした僕の股間に、女性がのぞき込んでいる。女性経験のない僕にとってこれはあまりにも恥ずかしく、たまらず両の手で顔を隠してしまう。
「この子は篝根くんのことを"兄ちゃん"と呼ぶのかい?」
「え、ええ……誕生した時から、僕をそう呼んでくれてます」
「誕生、ということは、これは先天性ではないんだね?」
「え、は、はい。実は……」
会話の成り行きで、僕はゆっくりと鞄からすべての元凶を取り出す。その間、張博士はまるで新しいオモチャを目にして期待に心膨らませているかのようなまなざしを向けてきている。ぎん太はといえば、そんな張博士からの興味に興奮気味なのか、全身を固く膨らませて彼女に向かって頭を振っていた。
「なるほど……そのホールを使ったことによって、この子が生まれた、そういうわけだね」
「そう、ですね……」
張博士が僕からそれを受け取り、よく観察している。見た目はよくあるシリコンの筒だったが、彼女自身、そういったアイテムを手にすることは珍しいのか、あるいは単に異常オブジェクトだからなのか、くるくると見回しては指を入れてみたり、裏返してみたりしている。
「なるほどなるほど……指を入れてみたが、指は別にしゃべることもないと。となると……篝根くんはこれをつかって自慰行為をしたことで、この子が生まれた、という解釈でいいかい?」
「はい、そうです。だいたいそんな感じで……」
「ということは、性的絶頂がトリガーになっているか、女性には効果がないかのどちらかだね。これにペニス以外のものを入れたことは?」
「た、試しに指を入れたことなら……」
「ふむ、となるとやはり性的絶頂か……わかった」
張博士はおもむろに立ち上がり、ホールを机の上に置く。そして、僕のほうへ振り返って言う。
「いろいろ教えてくれてありがとう。君のことがさらによく知れて、私は嬉しいよ」
「い、いやそんな……ただ僕は相談しただけですから……」
「兄ちゃん? もっと素直にならないとだめだよ! ボクわかってるんだからね、兄ちゃんがずっと一人で抱え込もうとしてたってこと」
「だ。だって……」
「だから、ボクの言ったとおり相談してよかったでしょ? 意外と近くで優しくしてくれる人っているんだよ。ね、張さん!」
ぎん太がそう言って、話を振られた張博士は、机にもたれかかりながら優しく微笑んでいた。それはまるで、僕らの会話を楽しそうに聞く母親のようにさえ見えた。
「まだその子が生まれて1週間くらいしか経っていないだろうというのに、仲がいいんだね。ますます興味深い」
「ほ、ほらぁ……張博士もああ言ってくるじゃん……」
「えーでも兄ちゃんなんだかうれしそう!」
「そんなこと……」
「あるでしょ?」
「……うん」
「あはっ、やっと兄ちゃんが素直になった!」
正直、てっきり張博士はこの事実を知れば、きっともっとひどいことをしてくるんだとばかり思っていた。けれども、そんなことはなかった。僕自身が彼女を忌避するがあまり、偏見をもって接していただけだったんだろう。
こんなに優しい上司だと知って、僕は心底安心していた。彼女に疑心暗鬼になっていた心が恥ずかしくなるくらいに。
「さて。篝根くん、ぎん太くん。そろそろ私は用事に出なければならない。このアイテムはしばらく預かっていてもかまわないかな?」
「え、でも」
「何、悪いようにはしない。約束通り、君のしたことは誰にも言わないさ。あくまでこれは君が管理しているより、私が管理している方が安全だろう、という判断の下だということは理解していてほしい」
「……わかりました。では、お願いします」
じゃあ、ちゃんと外に出るときはズボンは履くんだぞ? と言い残して、張博士は僕を部屋の外まで見送った。
「やっぱり、なんとかなったね、兄ちゃん!」
「正直すっごくヒヤヒヤしたけどね……もしかしたらってことも考えたし」
部屋に戻るや否や、僕はいつものようにぎん太を手に包み込みながら、少しばかり軽くなった心をなで下ろすついでに彼を撫でていた。くすぐったそうに身をよじるぎん太に、今日一番の感謝をもって接したかった。
「でも、兄ちゃんが人前で素直になってくれたことが、ボクは一番嬉しいかな」
「え?」
ぷるんと頭を掲げて右へ左へ揺れながら嬉しそうに踊るぎん太。彼の言葉に、僕は少し驚きの様子を見せた。
「だって、言ったでしょ? ボクは兄ちゃんが誰かから愛されるような人になってほしいって。あのとき兄ちゃんが覚悟を決めたから、今の兄ちゃんがいるんだよ。きっと大丈夫、張さんは悪い人じゃないって、ボクなんとなく思うもん! だから……」
ぎん太は僅かの間沈黙を作り、そして続けて。
「もっと素直な兄ちゃんに、なろう?」
「……うん」
「大丈夫だよ兄ちゃん。何かあればボクが助けるし、相談だって乗るから」
僕の手にもたれかかってくるぎん太の言葉に、僕はただただ柔らかな笑みを見せていた。彼がそう言うのなら、きっと僕は大丈夫だろう。今はその安堵感にゆるりと身を委ねた。委ねたかった。
……そう思いたかったけれど、やはり気がかりなことがないわけではなかった。
張博士の僕に伝えた言葉にどこか違和感を感じていたことは、紛れもない事実。この違和感の元凶はなんなのかまではわからなかったにしろ、その先に見えるのは安堵とはほど遠い感覚だった。
その感覚のことも、気持ちよさそうに手のひらで眠るぎん太をを見ているとどうしても伝えられずにいた。
「……え、実験、ですか?」
数日して、僕は張博士に呼び出され、彼女のオフィスへと出向いていた。開口一番に告げられたのは「実験協力」の申し出だった。ズボンの隙間から顔を出すぎん太は、その言葉の意味がわからず、頭をかしげている。
「じっけん?」
「そう、実験。あのオブジェクトがどういう性質を持っていて、発生したものがどういう機能を有しているのかを知る必要があるからね。といっても、君たち2人に危害を加えるような実験にはならないけれども」
「い、いや、ちょっと……」
僕は、張博士の言葉に不穏さを感じ取っていた。実験。それはつまり、僕に備わった異常性の実験のことだろう。財団が実験を敢行すると言うことは、それはすなわち上層部の許可や報告義務の上で行われるということ。そういえば、彼女に託したはずのあのホールも、その後どうなったかの話は一度として聞くことはなかった。……それってつまり。
「つまりそれって、ボクらのことを他の人に話したってこと?!」
「うん?」
僕が同じ事を訴えるよりも前に、ぎん太が一層膨らんで、想像よりもずっと強く張博士に訴えて出た。僕の不信や恐怖より、ぎん太の方がそのことをひどく実感している……そんな印象さえ見受けられるほどだった。
それは当然のことだ。張博士は「このことは誰にも言わない」と約束してくれたはず。それなのに、
「ああ、まさか、この件について、私が約束を破ったんじゃないか……って、そう思ったのかな?」
僕の思考を先読みしているかのように、張博士は僕に詰め寄ってくる。
「ふーん……君って、財団職員とは思えないほどお人好しが過ぎるね」
そして、張博士は僕の周りをゆっくりと回りながら、オフィスの窓から差し込む日光を背にして背後に立ってきた。
「今一度、篝根君は財団の理念について考え直した方がいいね。……それとも、ぎん太君のために改めて説明したげよっか」
「……張さん、どうして」
今まで見せてきた優しそうな張博士とは打って変わり、あからさまに見下したかのような、不愉快さを煮詰めているかのような表情で僕とぎん太を俯瞰視点で眺めてくる。ぎん太はその異様な空気感に、先ほどの気迫すらかき消されて柔らかくしぼみ始めている。
「確保、収容、保護……財団は、異常な存在を人々から遠ざけて世界の正常性を守ることを使命に活動している、ということはわかるよね。その上で、財団は度々いろいろな異常を持った存在を職員として雇用することも、少なくはない」
「……」
「けれどもね、近年の財団はそれをよしとしなくなった。異常を持った存在を職員として雇用することそれ自体が"異常"だと、上層部は判断したの。……SCP-2999-JPとしてね」
僕は血の気の引くような感覚を覚えて、張博士の言葉に息をのむ。まさか、ここであの問題について伝えられるということは……。
「もちろん、このままだと君は間違いなくSCP-2999-JPとして収容されることになる。生殖器に人格を宿した存在なんて、世間一般じゃ存在しないからね。……けれどもね」
「……?」
「私は、君がそんなことになってしまうのを望んでなんかいない。だから、私は所属する研究室の主任として、上層部に交渉をした」
「交渉、ですか……?」
先ほどまでの険しい表情を少し崩した張博士が、僕の両の肩にポンと手を置いて、続けて説明をしていく。
「あのオブジェクトをSCP-2661-JPとして収容し、その異常性の原因がわかるまでの間は私が君を管理下に置く、ということで話がついたんだ。もちろん、ぎん太君はSCP-2661-JP-1ということになるが……篝根君、君はひとまず職員として雇用を続けることはこれで決まった」
言ってる意味がわからなかった。
なぜ、張博士がそんな交渉を、僕に断りもなく上に持ちかけた?
ぎん太だけがオブジェクトとして扱われるって、どういうこと?
そして、その上で僕に実験協力を持ちかけるって、それってつまり……
僕はずっとぐるぐると彼女の言った言葉を反芻しては飲み込んで理解しようと努めたが、一向に理性がそれを受け入れることを拒絶していた。
僕は小さく怯え始めたぎん太を手に握って落ち着かせようとしながら、張博士に質問を投げかけていく。
「……えっと、つまり、僕はこれからも普通に仕事を続けられるってこと、なんですかね?」
「そうだね。少なくとも、今は……それでいいかい?」
「……はい、そこについては」
この時の僕は、張博士の言葉を信じるほかなかった。
張博士が何を考えているのかは、僕には分からなかった。本当に、彼女を信じてもいいんだろうか。
「……でも、ぎん太は」
「ん?」
「ぎん太については、どうするつもりなんですか」
僕がぎん太を握る手の強さを強めてしまい、彼を護るように塞ぐ。少しもごもごとした声が手の中から響いたが、少し緩めれば、すぐにそれが止んで、元来小さいはずの身をさらに縮こませてしまっていた。
「ああ、それは大丈夫だよ。この子についても、ちゃんと私の管理下に置かれることになる」
「そ、そう、です、か」
……なんだ、それならよかった。
張博士の言う通り、僕が今まで通りに仕事を続けられるというのであれば、別に問題はない。
僕自身、ぎん太のことを他人に知られるのは嫌だった。
僕とぎん太だけの、秘密にしておきたかった。
張博士は、そんな僕を見て何か察したように笑みを浮かべると、こう付け加えた。
「まあ、安心しなさい。ぎん太君の異常性は、押し並べて悪影響を及ぼすものではなさそうだしね」
「……はあ」
「とはいえ、君はもう少し自分の心配をした方がいいよ。結局は異常性持ちであることは変わりないだろう? ……さて、今日はもう帰ってもらって構わない。上には何とかしておくから」
「あ、ありがとうございます」
「うん、お疲れ様」
僕は椅子から立ち上がって、ぺこりと頭を下げた後に部屋を出ていく。
扉を閉める際に振り返った時には既に彼女はいつも通りの様子に戻っていた。
……やっぱり、あの人は信用してもいいのか、僕はそれを推し量ることが出来ないままだった。
「……ふう」
一人になった部屋の中、張博士は大きくため息をつく。
そして、机の上に置かれたパソコンを操作して、とある人物に電話をかけていた。
『はい、もしもし』
「……久遠君、今時間あるかな」
電話口から聞こえてきたのは、
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任意A任意B任意C- portal:2577572 (14 Jul 2020 12:54)
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