蛇と焚書のカルテット: 第十一頁 - 黄昏と出港

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フェリックス女子学園の鐘が、今日も高らかに鳴り響く。

その涼やかな音色も、生徒たちの笑いさんざめく声も、礼拝堂から流れる賛美歌も、中島 桐絵なかじま きりえの耳には以前と同じには聞こえなかった。

届いてはいる。しかし、まるでテレビを通して聞いているかのように、現実感がない。つい最近まで日常だったもの全てが、遥か遠くへ隔てられてしまった。いつものように登校し、授業を受けている身体さえもが、自分のものではないかのようだ。その内部がぽっかり空いたような感覚だけが、桐枝のリアルだった。

原因は自覚している。

(栞ちゃん──)

親友の朝倉 栞あさくら しおりは数日前から入院している。強い精神的衝撃を受けた所為せいで、PTSDの恐れがあると診断されたのだ。無理もない。彼女はつい先日、実の父を殺害されたばかりなのだ。しかも──担任は言葉を濁していたが──現場を目の当たりにしてしまったらしい。

殺人事件などテレビ画面の向こうの出来事だと、どうして思い込んでいたのだろう。そのテレビが毎日のように報道しているのに。今なら分かる。そう思い込まねば、日常という幻想は成り立たないからだ。誰でも殺人者にも被害者にも成り得る、その現実を直視していたら、人は出歩くことすら出来ないだろう。

そんなはかない日常ごと、栞はいなくなってしまった。退院すれば、学校には戻ってくるかもしれない。しかし、以前のように学校の中庭のベンチに腰掛けて、他愛のないお喋りに興じることは出来るだろうか。全てを忘れた振りをして?

隣のクラスの生徒たちが、そのベンチでお喋りしている。かつての自分と栞のように。不公平だと桐枝は思った。自分たちと彼女たちに、どれ程の差があるというのか。ただクラスが違うだけではないか。なのに、彼女たちは永遠にこの日常が続くと思い込んで──。

よもや、そんな桐枝を神が哀れんだのだろうか。それでは、奴らもこちら側に引きずり込んでやろう、と。

ばさばさばさ、背後で鳩の群れが一斉に飛び立った。驚いて振り返った桐枝は。

「え」

思わず声を漏らした。いつの間にか、大柄な男が背後に立っていた。落とす影の中に入ってしまうぐらい、すぐ近くに。パンクと言うのかミリタリーと言うのか、とにかくお嬢様学校の生徒である桐枝の知識にはないファッションだった。何やらつまらなさそうな顔で、彼女を見下ろしている。

──面白いはずがない。百戦錬磨の狩人が、柵の中にいる兎を狩ってこいと命じられたようなものだ。

「んー、まあ、こいつでいいか」

岩のような拳を桐枝の腹にめり込ませ、一瞬で気絶させる。くたりと力が抜けた彼女の身体は、ひょいと男の肩に担がれる。周囲の生徒たちもようやくざわめき始めるが、それ以上の行動を起こす者はいない。無理もない。彼女たちの日常にこんな者は存在しない。存在しない者には対処しようがない。

やれやれと男が肩をすくめる。あまり周囲をウロチョロされても邪魔だ。

男の右手がきゅるきゅると回転しながら、手首に引っ込む。手首から下が、立体パズルの如く無数のパーツに分かれ、がちゃがちゃと裏返る。一瞬後、男の右手は、カラフルなバズーカとでも呼ぶべき物体に置き換わっていた。

ピエロの口をモチーフにした銃口から、ぽん、紙吹雪や万国旗と共に星模様のボールが発射され──爆炎と共に薔薇バラの花壇が吹き飛んだ。無数の花弁が舞い散り、ようやく生徒たちが悲鳴を上げる。

これが横浜を震撼させた、フェリックス女子学園人質テロ事件の始まりだった。

一台の大型トラックがフェリックス女子学園近くの駐車場に入る。トレーラー部分には✖✖物流とありがちな社名が書かれている。

ごく限られた者だけが知っている。✖✖物流がGOCのフロント団体であり、このトラックが6311排撃班"ヤシオリ"の移動拠点であることを。運転は評価班のメンバーに任せ、ヤシオリは全員がホワイト・スーツを装着してトレーラーの内部に待機していた。つまりは、いつでも出撃できる状態だ。

壁面には情報機器のモニターが並んでいる。その内の一つが、テレビ局の緊急特番を映していた。そう、この件は既に一般社会に知られてしまっている。正常性維持機関としてあるまじき失態だ。とは言え、今回ばかりはどうしようもなかったかもしれない。なにせ敵は白昼堂々、公衆の面前で犯行に及んだのだ。幸い、今はまだ"正常な"テロ事件だと思われている。

モニターの中では、学園を囲むパトカーと警官たちを背景に、リポーターが緊迫した表情──だが、まだどこか他人事のように思っているのが、ナギの眼には分かった──で状況を報告している。犯人が何らかの爆発物を用いたこと。生徒の一人を人質に取って、礼拝堂に立てこもっていること。

〈目撃者の証言によれば、犯人の特徴は──〉

列挙された人相、服装、言動の全てに、ヤシオリのメンバーは嫌と言う程心当たりがあった。百歩蛇の手のパヴェル・バシレフスキーに違いない。ナギは平静を装いながら、内心は忸怩じくじたる思いだった。追撃中の敵残党が一転攻勢に出るなど、完全に予想外だった。しかも、民間人まで巻き添えにしてしまった。

[ここでL.Sのセリフを入れる]

先日、思わぬ切り札が手に入った。入手元を考えれば複雑極まりなかったが、使える物は親の仇でも使うと割り切った。これでようやく、奴らを追い詰められると思っていたのに。

目まぐるしく変わる戦況。道などない。どちらが前かも分からない。それでも、皆を率いて進まなければならない──前班長もこんな暗闇で戦っていたのか。

「しかし、何が目的なんだ?」

「さあ。今のところ、何の要求もないそうやけど」

マガタとルルは目前の敵に集中している。自分を信頼してくれているのだろう。大局的な判断は、切れ者の班長に任せておけば良いと。キョウだけは時折気遣わしげな視線を投げかけてくるが、あえて気付かない振りをする。

〈あっ、ご覧になれますでしょうか? あそこに──〉

リポーターが礼拝堂の屋根を指差している。いつの間にか、十字架に旗がくくりつけられ、風にはためいていた。血のような赤地に描かれた、無数の眼を持つ蛇。その禍々しい姿は、紛れもなく百歩蛇の手の紋章だった。

「野郎、意趣返しのつもりか」

マガタが奮然と両の拳を打ち合せる。猪突猛進な彼の決めつけも、しかし無根拠ではない。フェリックス女子学園もまた、GOCのフロント団体の一つだからだ。職員の子女の優先入学、及び優秀な生徒の斡旋程度の関係らしいが、百歩蛇の手には暗殺者の養成所のように見えたかもしれない。

そこに人質を取って立て篭もり、己の旗を突き立てる。GOCへの復讐に見えるのは確かだが。

(その後、どうするつもりなんだ? 突入してきた俺たちと戦って死ねれば、本望だと?)

復讐のために、そこまで出来るものなのか──ピンと来ない己に、ナギは苛立つ。上官を殺され、友を殺されてもなお、自分は復讐を理解し切れない。いくら己を奮い立たせても、どこか冷めた眼で見ている自分がいる。

──演技が上手くなっただけだ。昔の自分と、本当は何も変わっていない。

ナギのヘルメットの通信機に、司令部からの命令が入った。手短に受領し、部下たちに伝える。

「礼拝堂内に突入し、百歩蛇の手残党を殲滅せんめつする。警察への"説明"は上が行うので、火力を控える必要はないそうだ」

はてさて、自分たちは警察の機動隊ということになるのか、それともテロリストが仲間割れしたことにでもするのか。

「よっしゃ、そう来なくっちゃ──って、ちょっと待てよ! 人質はどうするんだよ? まさか」

さすがのマガタも、その点には気付いたようだ。もう少し悩む時間をくれと、ナギはこっそりため息を吐く。

「──敵の殲滅が最優先だ」

「そんな!」

「落ち着け、救助するなとは言われていない」

「勿論、人質も助けるさ! なあ?」

「へえ、元はと言えば、逃がした僕らの責任やしなぁ」

ナギは口を開きかけ──結局、閉じた。心優しい班長だと、マガタとルルは思ってくれているのだろう。

「上は財団の介入を恐れているのか」

キョウがナギにだけ聞こえるように、ヘルメットの通信機でささやく。さすがに彼は視野が広い。

「かもしれないな。学園は我々の縄張りだから、財団も遠慮しているんだろうが──今のところは」

GOCの"別れられない共犯者こいびと"と揶揄やゆされる財団。とは言え、これ以上ヴェールが揺らぐようなことがあれば、彼らもどう出るか分からない。だから司令部も、多少の犠牲は覚悟で速やかに収めろと、暗に命じているのだろう──だが。

「上の思惑は関係ない。脅威存在は倒す。民間人は守る。それが排撃班の使命のはずだ」

どんな混迷の闇の中であろうとも、その灯火だけは揺らがせまい。キョウは自分に思い出させたくて、こんな話題を振ったのかもしれない。無口な副班長は素っ気なく「了解」としか返さなかったが。

(それでいいよな、班長)

不 可 視 の 外 套インビジビリティ・クロークジェネレーターを起動すると、ヤシオリの姿は宙に透けるように見えなくなった。ホワイト・スーツに搭載された邪 経 技  術タンジェンシャル・テクノロジー──魔法や信仰に依存する技術群──の一つだ。便利だが、継続時間は短い。急がなければ。移動拠点を飛び出し、見張りの警官を素通りし、柵を乗り越えて校内に潜入する。

不可視のヴェールを被り、正常な世界というヴェールを守る。人類の平安は、こんな薄布一枚で取りつくろわれている。

「ちょっとアレン、どういうこと!?」

アレンから預かった通信用護符が、やっと起動した。ラムダは声を荒げそうになって、慌てて押さえる。状況を考えれば、近くに焚書者たちが居てもおかしくない。

山下公園を望むコンテナ置き場、その隙間のような空間に身を潜めている。傍らではレンジが周囲を警戒していた。物陰のゴキブリの動きも察知できる相棒だが、こちらから敵に居場所を知らせたら世話はない。

「しかも、よりにもよってあの学校で──私への嫌がらせのつもり?」

ラムダたちがフェリックス女子学園の事件を知ったのは、ここに向かう途中のことだった。やけにパトカーとすれ違うと思っていたが、こんなことになっていたとは。すぐにでもアレンを問い詰めたかったが、生憎あいにく護符はこちらからは起動出来ない。やむを得まい。向こうはシエスタたちの目がある。

〈そうじゃない。説明している暇がなかったが、どうしても必要なんだ。大丈夫、人質は死なないよ〉

(人質──まさか同級生じゃ)

分かっている、非難できた立場ではないことぐらい。ラムダ自身も、民間人を人質に取って、焚書者どもを牽制したことなど幾度もある。その報いが巡ってきたというのか。

〈予定通り、君たちはそこで待機していてくれ。絶対にこっちには来るんじゃないぞ〉

通信が切れる。ラムダは山の手を仰ぎ見た。ここからでは見えないが、学園はそう遠くない。山下公園には栞と共に来たこともある。晴れ渡った空と、爽やかな潮風だけがあの日と同じだ。

(ごめん、栞。思い出の場所を汚しちゃって──)

──既にそれどころではない裏切りを犯していることを思い出して、ラムダは虚ろな目で笑った。

報いだ。

報いだ。

復讐は復讐を呼び、復讐の復讐となって還ってくる。この数日でラムダは思い知った。復讐の連鎖からは逃れられない。この場は逃れても、いつかは自分も捕まるのだろう。だとしても。

(レンジだけは逃がさなきゃ)

相棒は決して、復讐に血道を上げたりしない。いつだって、生きるためだけに戦ってきた。自分を殺そうとする者と、自分を道具扱いする者と。それを誰にとがめられるだろう。

そう思って振り向くと、レンジもこちらを見ていた。思い切り視線がぶつかる。ラムダは咄嗟とっさに顔を逸らす。

「──何してんの、周囲を警戒して」

「──ああ」

祭壇に腰掛けて欠伸あくびをしているパヴェルを、ステンドグラス越しに差し込む七彩の光芒こうぼうが照らしている。祭壇の裏には、気絶したままの桐枝が万国旗で縛られて転がされていた。神聖な建物を築いては、自らの手で汚してきた人類。飽きもせずに、また繰り返している。

閉まった正面ドア越しに、警察からの呼び掛けが聞こえる。

「犯人に告ぐ! こちらは要求に応じる用意がある。ただし、人質の無事を確認──」

「あー、うっせえなぁ。黙らせちまうか?」

騒ぐ子供をうとましがっている、パヴェルの声はその程度の軽さだったのだが。

〈無駄な殺生は止め給え。あれは只の陽動だよ〉

通信用護符で聞き付けたアレンが、すかさず咎める。その程度の疎ましさでも、こいつなら殺りかねないと思っているのだろう。

学園への潜入には、アレンが地の精霊ノームに掘らせたトンネルを使った。その方が警備員などを犠牲にせずに済むと。パヴェルとしても、虫ケラをいくら潰しても楽しくないので、案には従ったが──毎度のことながら、腰抜けにも程がある。殺せるのに殺したくないなど。殺す力がない弱者の方が、まだ共感はできる。不気味サーカスに居た頃の自分もそうだったから。

「けっ、てめえは用済みだ。とっとと現地に向かいやがれ」

一方的に通信を切り、歪んだ笑みを浮かべる。こんな面倒な状況は、もうすぐ終わる。歯応えのある強敵と殺し合うだけでいい、そんな世界が訪れる。

「しっかし、あの女も相当イカレてやがるな。宣伝のためにここまでやるか、普通?」

宣伝。学園占拠の狙いの一つはそれだった。少なくとも、シエスタにとっては。

百歩蛇の手は首領を討ち取られ、たった六名の生き残りから二名も離反者を出し、事実上の壊滅状態だ。普通なら、他の手に亡命するのが関の山だろう。だが、シエスタに諦めるという概念はない。優秀な人材を集め、あくまで百歩蛇の手を再興するつもりだった。

GOCのフロント団体であるフェリックス女子学園を占拠し、百歩蛇の手の旗を打ち立て、マスコミを通して大々的に報道させる。蛇の手主流派のやり方を手ぬるいと感じている、各手の過激派たちに向けて。

我らは百歩蛇の手、目的は焚書者鏖 殺みなごろし、手段は選ばぬ。志を共にする者よ、この旗の下に集え。

(ゆくゆくはL.Sから蛇の手を乗っ取るつもりかね)

パヴェルとしては望むところだ。はてさてL.Sとの戦いは、どれだけ自分を楽しませてくれるだろうか。

だが、メインデッシュの前に──まずはオードブルから頂くとしようか。

(来たな)

右の窓を貫き、左の窓を破り、いくつもの円筒形の塊が室内に飛び込んでくる。次々と破裂し、緑色のガスが撒き散らされ、あるいは閃光と共に耳をつんざくような音を響かせる。おそらくは、グレネードランチャーで発射された催涙ガス弾とフラッシュバン弾だ。人質に配慮したのか。焚書者にしては、随分とお優しいことだ。

一転、戦場に変わる祈りの家の只中で、しかしパヴェルは動じない。常人なら涙が止まらない目、聞こえなくなった耳を押さえながら、のたうち回っているはずなのに。

「おいおい、俺が機械なのは手だけと思ったのか?」

鋲打ちレザージャケットの前をはだける。幾条もの傷跡が走る、逞しい胸板──が、ぱかりと観音開きになり、内部があらわになる。ピンク色のハートがどくどくと脈打ち、半透明のチューブをメロンソーダがしゅわしゅわと流れている。風船やら蛇腹やらが詰め込まれているのは、もしや肺と腸のつもりなのか。

確かめてはいないが、自分に脳髄が残っているのかさえ定かではない。それでもパヴェルは、自分が人間であることを疑わない。当然だ──ライオンが人間を襲っても、それは生存の為の捕食行為でしかない。

人間狩りを楽しめるのは、同じ人間だけだ。

(やはり効かないか)

パヴェルが平然としているのは、ヤシオリのメンバーたちもヘルメットのVERITASで確認していた。そのすぐ側に、人質の生徒が居るのも。

「プランBに以降、室内に突入する」

「「「了解」」」

軍事作戦にB案などない方が良い。戦闘に筋道がいくつもあっては、メンバーの意識が分散する。意識の分散は、即ち戦力の分散だ。そんなことぐらい、部下たちも分かっている。それにも関わらず、まずは非致死性兵器を使用することをナギが指示しても、誰も反対しなかった。

そのツケは、これから全員が払わなければならない──即ち、これで不意打で一気に仕留めるという目はなくなった。

グレネード弾を撃ち込んだのは、突入口の確保のためでもあった。右の窓からキョウが、左の窓からマガタが室内に飛び込み、ルルが正面ドアを炸裂符で吹き飛ばす。三人とも不可視の外套は既に切れている。激しく動くと周囲の空気が揺らいでしまうため、乱戦中に維持しても意味がない。

三方向からパヴェルに狙いを定める、89式5.56mm小銃と呪縛符。咄嗟に祭壇の裏に飛び込んだのは流石さすがだが、包囲の輪はじりじりと狭まる。人質を盾にしても、誰かには背を向けざるを得なくなる。

「人質を確認、祭壇の裏だ」

キョウがヘルメットの通信機に囁いた、その時。

獲物に襲い掛かる毒蜘蛛の如く、天井からバラバラと人影が降下する。梁の上に身を潜めていたのだろう。それは様々な国の様々な軍隊の兵士たちだった。ネイビー・シールズの隊員が居れば、ロシア軍の雪迷彩服の兵士も居る。果ては旧日本陸軍の兵士まで。ただ、ガラス玉のような感情のない目だけが共通していた。

パヴェルを包囲したヤシオリを、兵士たちがさらに包囲する。先程VERITASで確認した時は、こんな大勢の生体発躍エネルギーE V Eなど映らなかった。しかし、彼らは慌てない。虚空から敵の増援が湧くなど、蛇の手相手の戦闘ではよくあることだ。

「防!」

すかさずルルが、護身符で半透明の呪術盾──臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前の九字に取り巻かれた五芒星──を出現させる。キョウとマガタがその裏に身を隠し、鉛玉をばら撒く。がががという発射音と共に、ステンドグラスが砕け散る。漂う硝煙の匂いが、神聖な乳香の香りをかき消す。

兵士たちもM4A1で、AK-12で、三八式歩兵銃で反撃するが、ことごとく呪術盾に弾かれる。対して、ヤシオリの弾にはルルが予め対抗術を施してあるため、呪術盾を素通しして撃つことが出来る。お陰で兵士たちは一方的に撃たれ放題なのだが。

「! 何だ、こいつら!?」

顔中穴だらけにされながらも、兵士たちは倒れない。飛び散るのは血でも脳漿のうしょうでもなく、白いプラスチック片だ。道理でVERITASに映らないはずだ、彼らは雛山の能力で動き出した兵士のフィギュアだったのだ。人間をモチーフにした玩具なら、ある程度の知性を備えさせることも出来るらしい。

いかに気弱とは言え、雛山も百歩蛇の手。望みさえすれば、恐るべき殺戮者になれるのだ。

パヴェルが祭壇裏から戦況を伺おうとして、横たわる桐枝にぶつかる。何と存在を忘れていたらしい──人質を盾にする等という、つまらない戦い方は彼の選択肢にはない──。邪魔だと蹴り退けようとして、一転、ぱっと目を輝かせる。いいことを思い付いたのだ。

こいつらの目の前で始末すれば、もっと本気になってくれるかも。

その左手首がかくんと折れ曲がり、断面からぎらりと輝く刃が飛び出した、その時。

パヴェルの背後に、ホワイト・スーツが浮かび上がる。擬態が解けたカメレオンの如く。唯一、不可視の外套を解いていなかったナギだ。周囲の空気が揺らがせないよう、慎重に歩みを進めていたのだ。部下たちに敵の注意を引かせつつ。その右手は、既に班長専用のブレードを振り上げている。

銀光一閃、パヴェルの左腕が切り飛ばされる。舌打ちするナギ。首をねるつもりが、人質を案じてつい焦ってしまったのだ。桐枝を抱き上げて飛び退すさり、パヴェルも反対側に飛んで柱に隠れる。

桐枝をパイプオルガンの影に隠し、初めてナギは迷う。戦闘は部下たちに任せて、自分は守勢に徹するべきか。それとも、人質をここに残して、自分も参戦すべきか。

──どちらが、より人間らしい選択なのだろう。

「なあ、その娘を返してくれよ。でないと後悔するぜ?」

パヴェルのおどけた声が響く。左腕を失った動揺など、欠片もない。

「どういう──」

「ふざけんな、死ね!」

ナギの問い掛けを制して、マガタが手榴弾を握り締める。まずい、血の気の多い部下は気付いていない。パヴェルの声がはらむ、苛虐の響きに。

びよおおおん、気が抜けることおびただしい音と共に、パヴェルが恐るべき跳躍力で天井の梁に飛び移る。ナギは見た。奴の足がバネ状にたわんで、そんな動きを可能にしているのを。

(そんな能力もあったのか)

無論、この時に備えて、今まで隠していたに違いない。

「けけっ、せっかく人質は助かるはずだったのによ。可哀想に、お前らの所為で道連れだ!」

じゃん! と、自慢の玩具を見せびらかすような仕草で、パヴェルが何かを掲げる。アンテナの付いた、リモコンのような機械だ。

「班長、椅子の下に!」

屈んだキョウが見ている光景が、ARでナギのヘルメットにも映し出される。長椅子の裏という裏に、ドクロマークが描かれた黒い球体が括りつけられている。子供向けアニメに出て来るような"爆弾"だ。

元がどんな玩具だったとしても、今は本物だ。

「アカン! こいつは護身符でも防げまへんで!」

普段は飄々ひょうひょうとしているルルが、流石に声に焦りを滲ませる。一個や二個ならともかく、この量では恐らく礼拝堂自体が倒壊する。

自爆──立て篭っていたのが他のメンバーだったら、ナギも司令部も想定していただろう。パヴェルに限って、そんな殊勝なタマではないと思っていた。

その通り、奴に自爆するつもりなど毛頭ない。

「たまにはてめえも焼かれてみな、焚書者ども!」

びよおおおん、パヴェルが天窓を突き破って、礼拝堂から飛び出す。その手の中のリモコン──爆弾の起爆装置が押されるまで、おそらくあと数秒しかない。出入り口はフィギュア兵士たちに塞がれている。ここに立て篭っていたのは、自分たちを閉じ込めるのに最適だったからだ。

ナギの視界がスローモーションになる。飛び交う弾丸の一つ一つが、硝煙を切り裂く様すら見える。どうすれば良かったんだ。声なき声で叫ぶ。外からナパーム弾でもぶち込んで、敵が自爆したことにすれば良かったのか──人質を道連れに。ああ、きっとそうだ。司令部も暗にそう期待していたではないか。

心がない、人間もどきのお前なら出来るだろう、くけけけ。

(班長、俺は──)

「私の近くに!」

澄んだ声が、ねっとり停滞した時間を吹き払う。

祭壇の前に、おそらくは少女が立っていた。断言出来ないのは、マスクとサングラスで顔を覆っていたからだ。一瞬前まで、絶対にそこには誰も居なかった。空間転移としか思えない出現の仕方だった。こんな状況でなかったら、敵が増えたとしか思わなかっただろうが。

「彼女に従え!」

迷わず駆け寄るナギに、部下たちも続く。ああ、こいつらはこんな自分を、今でも信じて──。

推定少女は右手を垂直に、左手を水平に伸ばし、爪先で軽やかに回転し始める。踊っているのか? そこでナギはようやく気付いた。彼女の声に、狂おしい懐かしさを感じている自分に。この凛とした声、この迷いを払う響き、誰かに似て──。

轟音。荒れ狂う粉塵と爆炎が視界を覆い尽くし、天井が崩れ落ちる。

その日、ナギは初めて人を殺した。

額に銃槍を開けたむくろが、かっと見開いた目で虚空を睨んでいる。

蛇の手のメンバーだった。相手も自分を殺そうとしていた。そうでなかったとしても、逃せばいつどこでヴェールを剥ぎ取られるか分からない。正常な世界を守るためには、殺すしかなかった──戦闘事前カウンセリングで用意しておいた言い訳は、何の役にも立たなかった。

翌日。

「相席いいか」

「──どうぞ」

基地の食堂でコーヒー片手にぼうっとしていると、班長が向かいの席に座った。トレイの上には、キャラメルソースをかけたアイスクリーム乗せパンケーキが堂々と鎮座している──眼光鋭い屈強な中年男性と、絵面が合わないこと夥しい。甘党であることは、一人娘にも明かしていないらしい。理由を聞いたら『キモイとか言われたら傷付くじゃないか』とのことだった。

その娘さんも、今年で高校生になるらしい。現役の排撃班メンバーとしては最年長の部類だが、衰えなどナギの目には全く見えない。衰えるどころか、研ぎ澄まされる一方だ。右手のブレードで敵の首をねつつ、左手のサブマシンガンで弾幕を張り、部下には的確な指示を出し続ける──そんな戦い方が出来る人間など、他に知らない。

「大丈夫か」

そう言われるのは予想していたので、ナギは落ち着いて答えた。

「ご心配なく、事後カウンセリングでも問題はありませんでした」

「そりゃあ、問題はなかろうな。君、何も感じなかったんだろう?」

危うくコップを落としそうになった。そんなナギの様子を、今度は班長が落ち着いて眺めている。

そう、用意しておいた言い訳は役に立たなかった──するまでもなかった。汚い、後味が悪い、その程度の感慨しか湧かなかったのだ。人を殺したら、普通はもっと動揺するものではないだろうか。罪悪感でトラウマになることもあるだろう。だからこそ、排撃班専属カウンセラーがいるのだろうに。

「俺は──非情な人間なのでしょうか」

この人は誤魔化せないと諦め、ぽつりと告白する──より深刻な嘘を覆い隠すために。

(それどころか、異常者かもしれない。だって、俺は──)

母が死んだ時も泣けなかったのだ。

ナギの母は大物政治家である夫に寄り添う、影のような女性だった。確かに、世間一般の母親程には、息子に構わなかったかもしれない。体が弱く入退院を繰り返していたのも、縁が薄い一因だった。その上、見舞いに行く暇があるなら勉強しろと言う父の所為で、一緒に過ごす時間はさらに短くなった。

分かっている。高潔な理想主義者だった父は、母もそう望んでいると言いたかったのだろう。そして、息子も自分の想いを汲んでくれると信じていたに違いない。事実、幼いナギも父の意図は理解していた──だが、現実に出来上がったのは、母の葬儀を前にしても、眉一つ動かさない人形のような子供だった。

どうして周りの人たちは、あんなに泣いているのだろう? 困惑して父を振り返ると、化物でも見るような目で息子を見ていた。そこでようやく、ナギにも湧いてきた。即ち、自分はおかしいのではないかという不安と、だとしたら絶対に周囲に悟られてはいけないという焦りが。

その二つこそ、ナギが生まれて初めて覚えた切実な感情で、今も彼の人格の根本を成している。

笑おうと努力した。泣こうと試行した。しかし、母の死にも動じないナギが、お笑い芸人が流行らせたギャグや、隣のクラスの生徒の自殺に、何かを感じられるはずもなかった──平然としていたら、皆に異端者として排斥されるという恐怖以外は。

だから、ナギは優等生を演じることにした。このポジションなら、常に冷静沈着でいても不自然ではない。それどころか、彼は皆から頼られるようになった。××君って大人っぽいね。××君ってクールだよね。彼が感情を制御している訳ではなく、そもそも何も感じていないのだと、気付く者はいなかった。

長じてから自衛官になったのも、その延長だった。己を殺して公に奉仕する──殺すだけの己がない彼にとっては、常に擬態していられる楽な仕事だった。どんなに過酷な訓練や任務も、辛いとも怠けたいとも思わないので完璧にこなせた。思うものか。死んだとして、如何程いかほどの損害だと言うのか。心のない人間擬きの生など。

そんなナギも、一度だけ決断めいたことをした。GOCからのスカウトに応じたのである。死と隣り合わせの仕事だと聞いて、僅かな望みを抱いた。この手で人を殺めれば、或いは何らかの感慨が湧くのではないかと──人間に近付けるのではないかと。

だが、結果はご覧の通りだった。これでは殺された敵も浮かばれまい。

「何だか、昔の自分を見ているようだな」

「え」

「私もそうだった。初めて敵を殺した時、何も感じなかったんだ。こんなものかと、拍子抜けしたよ」

班長の意外な告白に、ナギは呆気に取られる。誰よりも情に厚い、この人が? 今まで殺した敵を全部覚えているという、この人が──自分も同じだったから、分かったのか。

「数をこなせば、違ってくるかと思ったが──変わらなかったな。敵を撃つのも、的を撃つのも、ほとんど同じ感覚だった。お陰で冷静沈着な奴だと、上からの覚えは目出度めでたかったが──そりゃ、悩んださ。自分はおかしいんじゃないかと」

まるっきり自分の話だ。だが、この人はちゃんと人間になれた。一体、どうやって。そう問い掛けているのが、顔に出ていたのだろう。班長は照れ臭そうに言った。

「結婚して、子供が生まれてからだな。敵のことを、色々考えるようになったのは」

(それは)

敵にも家族がいたのか、そいつらは悲しむだろうか、そう考えるようになったということか。それは──とても辛いことではないのか。それこそ、戦い続けられなくなる程に。

「君も父親になればどうだ」

「相手がいませんよ」

「またまた、その顔なら選り取りみどりだろうに」

仮にいたとして、自分はそれを望むだろうか──もしや、自分は人間になるのが怖いのではないか。だとしたら、自分は出来損ないの上に──卑怯者だ。

黙りこくるナギに、班長は「あ、娘はやらんからな」と慌て──お近付きになる作戦を考案中とでも思ったのか──、そして続けた。

「まあ、今はそのままでいいさ。私は君の冷静なところを買って、副班長を任せているんだからな」

そのままでいい。

そう言う班長の姿に、父の幻影が重なった。

(父さん──)

否、現実の父は決して、そんなことは言ってくれなかった。母の葬儀以来、父とは疎遠になってしまった。常に優等生を演じ続けたナギに、唯一騙されなかったのが──皮肉なことに──父だったのだ。その父も去年亡くなった。ナギが病院に駆けつけた時は、既に霊安室に寝かされていた。実の父は遺言一つ残さずに逝ってしまったのに──。

何故、赤の他人の班長が、そんなことを言ってくれるのだろう。

「やれやれ、娘ともこんな風に話せたらなぁ」

「不仲なのですか」

「いや、そういう訳じゃないんだが、ほら、女の子は色々と難しくてな」

そのままでいい──班長はそう言ってくれたが。

(そう言ってくれた、この人の為に)

もう少しだけ人間らしくなりたいと、ナギは思った。

──長い時が過ぎたような気がした。

しかし、実際にはせいぜい数秒だったのだろう。もうもうと立ち込める粉塵は、まだ収まっていなかったのだから。

「旋!」

ルルの風神符が粉塵を吹き払い、視界がクリアになる。

(これは──)

礼拝堂は跡形もなく粉々になっていた。瓦礫が山積みになり、百歩蛇の手の旗が巻きつけられた十字架が突き刺さっている。にも関わらず、その中心たるナギたちの周囲だけが、ドーナツの穴のように空いていた。祭壇は焦げ痕一つないし、床さえも円形に切り取られて残っている。

爆発の瞬間、彼らの周囲に不可視の障壁が張り巡らされた。そうとしか思えない光景だった。やってのけたのは、勿論──。

「な、何者なんだ、あの娘──助けてくれた、のか?」

「天使様か何かやったんかなぁ」

「バカ野郎、そんな都合のいいモン居る訳──」

マガタとルルの掛け合いを尻目に、ナギはいち早くヘルメットのVERITASを起動するが、周囲に自分たち以外のEVE反応はない。もっとも、彼はVERITASに対する信頼を無くしかけているのだが。どいつもこいつも、GOCの切り札をあっさり潜り抜けやがって。

(それにしても、あの声どこかで──)

──聞いた気がするのだが、思い出そうとすると、胸が塞がれるような感覚に襲われる。やめておけと本能が囁いている。思い出したら、余計辛くなる。もう、班長はいない。復讐を果たしても、あの人が生き返る訳でもない。

自分も、あの人の娘も、永遠にこの世に取り残されたままだ──。

「班長、奴が」

びよん、びよん、忌まわしいその音を最初に聞き付けたのは、やはり地獄耳のキョウだった。彼の指差す先にナギも見た。建物の屋根から屋根へ、バッタのように飛び移りながら逃げるパヴェルを。すかさずヘルメットの通信機を司令部に繋ぐ。直前までのもやもやした想いを、全て喉の奥へ押し返して。

「こちらヤシオリ、標的が逃げた。追跡を頼む。人質を救護班に預け次第、我々も追う──皆、聞いての通りだ。推定命の恩人に関しては後回しだ」

マガタとルルが間髪入れずに「了解」と応じる。キョウは珍しく一拍遅れて、しかしすぐ二人に続いた。

無論、ナギは気付かない振りをした。

「ああもう、死ぬかと思った~」

祭壇の裏側で、朝倉 栞はへなへなと座り込んだ。

そう、ヤシオリのすぐ側に彼女は居る。しかし、彼らの誰も気付かない。ナギに至ってはVERITASで索敵までしているにも関わらず。レンジやフィギュア兵士と違い、機械はちゃんと彼女のEVEを感知しているが、使用者がその事実を認識することができないのだ。彼女の肩にちょこんと腰掛けた、奇妙な存在のお陰で。

「死ぬ訳ないじゃん、あんたのダンスは無敵なんだから」

三つ揃いのスーツを着て、山高帽を被った小人とでも言えばいいのか。キューサクの分身リトル・キューサクを名乗るこの相棒が言うには、自分は本体と同様世界のことわりから外れた存在なので、常人には強い反ミーム性を帯びているとか何とか──だが、爆発から排撃班を救ったのは彼ではない。つい数日前まで、ごく普通の女子高生だった栞だ。

「そ、そうは言っても、怖いモンは怖いわよ」

いや、今でも本人は一般人のつもりだが、置かれている状況は、確かに一般的とは言い難い。あの夢を見て以来、全てが変わってしまった。

『と言う訳で、お嬢さん。一緒に踊って頂けるかね?』

『お、踊る?』

『世界を救いに赴くヒロインを、手ぶらで送り出す訳にもいくまい』

そう言ってキューサクが教えてくれたのは、あらゆる災いを退ける魔法のダンスだった。

手足の動きで空間を遮断──あるいは因果律をループさせる結界を描くとかで、演舞中は銃弾も爆風も栞の周囲に近付くことは出来ない。試した訳ではないが、理論上は核ミサイルの直撃にすら耐えられるという。かなり難易度の高い振り付けだったが、幸い栞はダンスに関しては天賦の才能の持ち主だった。一夜のレッスンで完璧にマスターした。

とは言え、彼女も人間であるからして。万が一振り付けを間違っていたら、排撃班共々木っ端微塵になっていたところだ。何度もやりたくはないものだ。心臓に悪いし。

「でも、まあ、とりあえず桐枝を助けられて良かった」

「ほら、これでおいらの予言の正確さが分かったろ?」

「あんたのと言うより、キューサクさんのね~」

えっへんと胸を張ったリトルが、栞の肩からずり落ちそうになる。彼のもう一つの能力は未来予知だ。夢界にいるキューサクを経由して送られてくるらしく、能動的には使えない。そのキューサクにしても、自由自在に未来を見られる訳ではない。あくまで年代記に関わる者たちの運命が、大きく揺らぐ瞬間が見えるだけらしい。

例えば、戦闘で絶命するとか──そいつが年代記を所有していたら、高確率で血が付着してしまうことになる。そうなれば、一巻の終わりだ。二人はその事態を防ぎ、あわよくば年代記を奪取するために動いている。つい先日も、動いたばかりだ。

中央図書館前の道路上、月が中天に輝く頃、父の命を奪った二人組が、父の部下たちの復讐の兇弾に倒れる──。

リトルの予言に従い、免許を取ったばかりのスクーターで現場に先回りし、二人組に襲いかかった銃弾を魔法のダンスで跳ね返した。結果、運命は変わり、二人組は逃げ延びた──気分は複雑だったが。しかし、見殺しにすれば良かったとは、やはり思えなかった。例え、あの場に年代記の所有者がいなかったとしても。

二人組の一人は、同級生の円 凛音まどか りんねだったのだから。

栞は未だに気持ちの整理が付かない。それはそうだろう。友人に父親を殺されるなんて、一般の女子高生の理解を遥かに超えている。しかも、キューサクによると父も過去に誰かを殺しているらしく、二人組はその復讐に現れたのだという。

復讐──栞にはおよそ無縁のその言葉が、年代記に関わる者たちを幾重にも繋いでいるらしい。すると、今回も誰かの復讐なのだろうか? それとも、復讐の復讐?

自宅で寝ていたら──まさか就寝時は自宅に戻っているなんて、父の部下たちには考えも及ぶまい──リトルに叩き起された。新しい予言が来たと。

フェリックス女子学園の礼拝堂、その屋根に蛇の旗がはためき、父の部下たちと生贄の乙女が復讐の炎に飲まれる──。

慌てて駆け付け、告解室に張っていたら、『北斗の拳』の悪役みたいな男が同級生の桐枝を人質に乗り込んできた。凛音とその相棒同様、年代記に関わる者たちの一人だ。すぐにでも桐枝を逃がしたかったが、さすがに抱えて動かしたらリトルの反ミームが破れてしまう。じっとチャンスを伺うしかなかった。

(あのヒャッハー男め、桐枝まで巻き込むんじゃないわよ。それこそあの子は無関係じゃない)

しかも、母校のシンボルたる礼拝堂まで粉々にして──復讐を万能の免罪符とでも思っているのだろうか。チャンスがあったら、文句の一つも言ってやりたい。

「うーん、嬢ちゃんの友達はともかく、排撃班の連中は見捨てりゃ良かったかもなぁ。あいつらは多分、年代記を持ってないし」

リトルは淡々と呟く。外見に似合わず、目的の為には割と手段を選ばない相棒なのである。確かに、登場人物を減らせば、年代記を巡る構図はシンプルになったかもしれないが。

「そ、そんな訳にもいかないでしょ。親父の部下なんだし」

事情聴取の際に一度会ったきりだが、彼らが父を強く慕っているのは栞にも分かった。水を差すのも悪いので『え、あの朴念仁のどこをそんなに?』と尋くのは止めておいたが。

ナギと呼ばれていたリーダーが、駆け付けた救護班に桐枝を引き渡している。渡すなり身をひるがえして、部下を率いて走り出す。逃げた犯人を追うつもりだろう。事情聴取で会った時は、生真面目で表情に乏しい──父を若くしたような青年で、正直に言えば苦手な印象だったのだが。

(あんな目をするぐらいなら、親父の仇討ちなんて止めりゃいいのに)

爆風から守る瞬間、栞は確かに見た。ヘルメットのバイザー越しに、寄る辺ない孤児のようなナギの目を。どうしたらいいんだ、どこへ行けばいいんだと、すがるように自分を見ていた。きっと部下たちには、あんな目をしている所は絶対に見せないのだろうが。

(親父も──)

自分の知らない所で、あんな目をして戦っていたのだろうか。

「ほれほれ、あいつらを追わないと! どこで年代記が絡んでくるか分からないぜ」

「え~、少しは休ませてよ」

「そんな暇はない、世界を救いにゴーゴー!」

「ひーん」

山下公園上空を覆う鱗雲は、夕日を浴びて藤色に染まっている。

横浜港に沿って噴水池や花壇が広がる、人気の観光スポットだ。横浜港のシンボルである氷川丸も、ここに係留されている。昼間は家族連れで賑わい、真夜中でもカップルが絶えることはない。

だが、今は閑散としている。学園の事件が拡大する可能性を警戒して、警察が周囲一帯を封鎖しているのだ。その警察の見張りも、殆どが学園周辺に配置されている。

事件現場のすぐ近くに生じた奇妙な空白地帯に、三つの人影がある。シエスタ・シャンバラ、アレン・ミナカタ、雛山龍三郎──百歩蛇の手の残党たちだ。

雛山が懐から手の平サイズのピアノ──ドールハウス用のミニチュアだろうか──を取り出し、赤い靴を履いていた女の子像の前に置く。みるみる本物のグランドピアノになり、その艶やかな表面に雛山の不安気な顔を映し出す。

赤いパンプスを履き、青いカラーコンタクトレンズを填めたシエスタがその前に座り、鍵盤に指を走らせる。当然と言うべきか、曲は野口 雨情のぐち うじょうの童謡『赤い靴』だ。プロ顔負けの流麗な指使い。普段の彼女からは、想像も出来ないようなクリスタルヴォイスで唄い上げる。実在したかどうかも定かでない、この港から船出して二度と戻らなかった少女の悲哀を。
 

赤い靴 はいてた 女の子

異人さんに つれられて 行っちゃった


突如始まった場違いなピアノコンサートに、雛山は状況も忘れて聞き惚れ、アレンは懐かしそうに目を細めている。
 

横浜の 埠頭から 汽船に乗って

異人さんに つれられて 行っちゃった


びよん、びよん、騒々しい闖入者ちんにゅうしゃまでもが、そのたえなる調べに惹かれてやって来る。横浜の歴史的建造物──マリンタワー、ホテルニューグランド、開港資料館へと次々飛び移り、一同の前に着地する。

「よお、首尾はどうだ?」
 

今では 青い目に なっちゃって

異人さんの お国に いるんだろう


「問題ない、間もなく"道"が開く──ところで、人質の少女は?」

本来ならここで解放する予定だったのだが、パヴェルは手ぶらだ。

「焚書者ども、躊躇ためらいもなく蜂の巣にしやがった。挙句に証拠隠滅で礼拝堂ごとドカンだよ、可哀想になぁ」

いけしゃあしゃあとうそぶくパヴェルに、雛山は息を呑み、アレンは厳しい目で睨み──結局、吐いたのはため息だけだった。この場に誰も居なければ、ラムダが知ったら怒るだろうなと漏らしていただろう。シエスタは弾き続け、唄い続けている。少なくとも、表面上は欠片も動揺していない。

曲は四番に入っている。
 

赤い靴 見るたび 考える

異人さんに 逢うたび 考える


本来ならここで曲は終わりだ。だが、1978(昭和53)年になって発見された未発表の草稿に、幻の五番が書かれていたことはごく一部の者しか知らない。況してや、それが放浪者の図書館への"道"を開く鍵だと知っていたのは、ヅェネラルだけだったろう。雨情は図書館の関係者だったのか──シエスタにとっては、どうでもいいことだ。

蛇の手他派にとっては叡智の象徴である図書館も、彼女にとっては復讐の道具に過ぎない。
 

生まれた 日本が 恋しくば

青い海 眺めて いるんだろう

異人さんに たのんで 帰って来


赤い靴を履いていた女の子像の前で、赤い靴を履き、青い目をした女性が、伴奏付きで『赤い靴』を唄う。未発表の五番まで含めて──それが、ヅェネラルが手を尽くして解明した、"道"を開く手順だった。

儀式という鍵が、見えない鍵穴に差し込まれ、高次元の歯車が回り始める。

氷川丸が汽笛を響かせる。誰も操作していないにも関わらず。海上の空間が揺らめき、半透明の船に実体化する。巨大な外輪を備えた古めかしい蒸気船だ。海中から半透明の桟橋が浮かび上がり、船と岸を結ぶ。船体左舷に開いた出入り口からは、虹色の光が溢れている。

あれが図書館への"道"に違いない。

ヅェネラルがついに見ること叶わなかったその光景を、演奏を終えたシエスタは無表情に見つめた。アレンの拍手が響く。

「上手だね、もうレナーデにも負けてないよ」

だん。

シエスタの拳がピアノの鍵盤を殴り付ける。雛山が身をすくませ、パヴェルは面白そうににやけている。アレンは相変わらず懐かしそうな顔で、亡き恋人の親友を見つめている──その瞳の深奥に、虚無の色を湛えて。

「アレン、お前は何故──」

「──復讐しないのかって? レナーデがそんなことを望むはずがないからさ。君だって分っているだろう」

しばしの睨み合いの後、先に目を逸したのはシエスタだった。

「それでも──我は焚書者どもを許さぬ」

パヴェルを追跡してきたドローンを通して、排撃班司令部も山下公園に開いた"道"を目撃していた。

「しまった、山下公園から我々の目を逸らすのが狙いだったのか」

「ヤシオリは?」

「向かっていますが、間に合うかどうか──」

桟橋を歩きながら、パヴェルがドローンに向けて中指を突き立てる。

「わざわざ入口教えてやったんだ、せいぜい大群を送り込んで来やがれ」

そう、あばよではなく、本番はこれからだという意味で。"道"を開いたのは、逃げるためなどではない。だからこそ、GOCに目撃だけはさせた。パヴェルと待機組で連絡を取り合い、儀式を終えるタイミングを調節してまで。

綱渡りから綱渡りへと飛び移り続けるような、ギリギリの計略。何の為に?

無論──何もかも、復讐の為に。

赤い靴を履いていた女の子像が涙を流している。行くな、戻れなくなる、かつての自分のようにと。しかし、人間になり損ねた人間擬きたち──故にこそ、あまりにも人間らしい異人たちは、誰一人気付くことなく──。
 

第十頁 | 第十一頁 | 第十二頁


 
◆この章でやりたい事

1. 栞の介入シーン 第6項の1回だけでは弱いので、もう1回くらいは必要かと思います。また、彼女の立場を読者に再確認してもらう意味もあります。

2. ナギの過去 彼が感情表現が下手な理由、にも関わらず前班長のことは強く慕っている(おそらくヤシオリの誰よりも)理由をそろそろ明かしてもいいと思います。図書館でのレンジとの戦いにおいて、二人の対称性と似ている点が際立つでしょう。

3. "道"開通シーン ゲームで言えばラストダンジョンへの突入シーンなので、出来る限り盛り上げる必要があるでしょう。儀式の条件をかなり複雑で手間が掛かるものにして、人払いのために学園占拠という前奏曲を持ってきたつもりです。

4. 人間になりきれない者たち(=人間性とは何か)というテーマ このシリーズ全体のサブテーマ(あるいは裏テーマ)だと思いますので、そろそろ明示してもいいかと思います。

これらを満たしていれば、別のシナリオでも代用は可能だと思います(代案あるとは言ってない)。

◆心配な点

1. 学園占拠の必要性に説得力があるでしょうか?

2. 登場人物の心情描写に無理がないでしょうか? 特にナギ。本章だけでなく、他の章での描写と矛盾していないでしょうか?

3. ヤシオリの行動に矛盾、甘さがないでしょうか? 特に天井の梁に隠れているフィギュア兵士に気付かない点が……さすがのヤシオリも、パヴェルと人質に集中していて、注意が逸れていたのかもしれませんが。フィギュアに戻っていたとしてもいいかもですが、ちょっとご都合主義っぽくなりますかね?

4. GOCを図書館廃棄階層に誘い込むのが最終目的、と明記した方がいいでしょうか? 本章では仄めかしに留めて、実行時にバーンと明かした方が衝撃が大きい(焚書者を図書館に入らせるなど、蛇の手他派にとっては以ての外)と思うのですが……。

5. 財団が介入してこない理由に説得力があるでしょうか? 裏設定ではキューサクは管理者なので、財団に介入しないよう指示することも出来るんですけどね……。

この他にもお気になる点ございましたら、遠慮なくご指摘下さい。


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