怒号

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彼女は自分と正面から相対している男の顔を見ていた。常人の持ちうる視線からは大分下の方からにはなるが、理由としてはそこから見る情景が彼女にとっての日常だからだ。

坂枝 美奈子研究所助手は生まれて此の方、地を這う光景しか知らない。常人の世界など元々持ち合わせてはいないからこそ、大多数を占める人々からは同情と言う名の侮蔑を受けるのだ。現代社会のモラルは停滞していると世間一般のメディアは吹聴する。が、現状はそこまでの事はなくある一定の少数派である筈の過激思想の持主だけが悪目立ちをして取り上げられているに過ぎないのだ。少なくとも、彼女自身が感じる世間の風貌はその程度である。

しかし、その現代に蔓延している道徳心を伴う規範自体が時として彼女を深くつんざく残酷な刃になり得るのだから困りものである。人は善意を持って他者と接するがその善意が発せられるとある発端を知る物は少ないのだろう。

それは哀れみである。

哀れみが慈しむ心を生み出し、他者を思いやる愛を生み出し、差し伸べられる手を生み出す。

可愛いと言う言葉も事の始まりは「可哀想」に由来し、歩く事すらままならない子犬の必死な努力を人は笑いながらかつ一切の悪意もなく言ってのける。

要はそれを同列である筈の人間に向けているのが件の心なのだ。

犬の話題が出たここで敢えて言及するのであれば、坂枝研究助手自身の境遇もその子犬と大差ない。これは比喩ではなく物理的な様子を示唆する。財団内の職員からのあからさまな攻撃はない。むしろ、一部ではわざとらしく歓迎される事すらある。

それもこれも、嘗て彼女が巷を騒がせた「人面犬」と同じ見た目をしている事に起因しているのだ。正常な人間であるならば、彼女自身に石でも投げるのが正解だろう。いや、そうあるべきだ。

医者からは重度の成長障害であると診断された。人体の神秘の中で起きたエラーである。

本来、母胎内で行われる発生の過程で何らかの障害が起こり、体はまるで四足歩行の哺乳類、尾てい骨に当たる部分は海洋哺乳類を思わせる尾ひれを伴った物に成り果てた。そしてその頭部だけは、成人女性にふさわしい容姿と黒い長髪という歪さをより際立たせる正常性を残してしまったのだ。

差別されることで救われる心もあると、彼女は常々その様な捻くれた思考を持っていた。侮辱や迫害を受けるのは慣れている。だが、憐憫を持って私に近づくのだけは止めてくれ。と。

それが、これまで生きてきた中で彼女が抱いた本心であった。目の前のこの男に会うまでは。

「じゃあ、後の処理は頼んだよ。『坂枝』君。」
「は、はい! 梁野博士も、お気を付けて!」

そう彼女と会話をしていた赤縁眼鏡の男はいつもと変わらない穏やかな笑顔と共に、伝える事を終えると同時に踵を返してその場から去って行った。この内容だけを見れば単純な業務報告でしかないワンシーンではあるが、その光景は正に飼い犬とその主人を思わせる構図だった事だろう。何しろ、この現状自体を嬉々とした表情で受け入れているのが彼女自身であり、謂わばその恰好や身振り手振りが犬の「お座り」に該当するからだ。今にも背後に抱えている尻尾は左右に揺れ出さんばかりの空気である。

幸いにもサイト内の廊下には彼女と梁野の2名しかいなかった。白い無機質に整えられたその場所は途中の休憩スペースの為に開けられた四角い区画を除いてほぼ一本道であり、その時々に左右に折れる道に向かって先程彼女に背を向けながら去って行った梁野も大体100メートル程歩いた辺りで右に折れていった。

「……いってらっしゃい。」

その間、男の姿が見えなくなるまで坂枝はその場で待機していた。顔こそ笑顔を張り付けてはいるが、その目はどこか無気力気味である。そして、梁野の姿が消えたの皮切りに上げられた口角から一気に力が抜けた。

少し項垂れ気味に視線を落とし、ゆっくりをその場から腰を上げる。彼女の場合は後ろ足を上げたと言った方が正しいのだろうか。そうして、梁野とは反対方向へと進むように彼女自身も歩き始めた。

彼女の為に設えられた服に彼女に合わせて袖の丈が切られた白衣。元々学位など一切持ち合わせていない坂枝ではあるが、現在の職場と役職の都合上、着用を義務付けられているのが現状だ。曰く、脱走したオブジェクトと間違われないためと言う意味を有るらしい。なお、これは正式に人部門の職員から言われた業務事項では決してなく、給湯室で惰性を貪っていた研究員たちの話していた内容を偶々耳にしてしまったことを念頭に置いてほしい。

彼女自身、この白衣が自分に似つかわしくない代物であることは自覚していた。だからこそ、その裾を引きずってしまっている事を気にも留めていないし、今後も気にする気概もない。

「……何が、いってらっしゃいよ。」

ただただ廊下の地平を呆然と眺めながら歩みを進め、自身の仕事場所へと向かう。正確には件の梁野博士に与えられた執務室ではあるのだが、彼の日頃から行われる「常に廊下で寝転がる」という奇行の所為でほぼほぼ本人の不在で安定している今では「坂枝研究助手のオフィス」として機能している。博士に用がある職員も、彼の発見が困難な事を鑑みて彼女に直接アプローチを掛ける者の方が多い。そんな状態が平常となって早3年。それも彼女にとっての日常に成り果てた。

さも当てつけたかの様に置かれる観葉植物の横を抜け、彼女は目的の場所に到着した。本来は目の前の自動ドアを開ける為には常人用にあつらえられたタッチパネルが彼女の遥か上方に存在しているのだが、この場所だけは廊下すれすれの位置にもその機構が設置されている。

「はあ……。」

坂枝はそのパネルを見るたびに軽い溜息を吐き、散々押しなれた番号をそこに打ち込む。自動の扉から空気の抜けるような音が鳴り、物静かに開かれる。彼女からすればそう言った機構が集中している自動扉の下部に自身の視覚と聴覚が集中しているが為に、毎回その静音性を体感する事が出来ない。彼女にとっては既に障碍者「あるある」の1つだ。

オフィス内の広さは凡そ8畳ほどで各資料や文献が収められた棚が床面積のはんぶんを占め、もう半分は長机が繋げられた2名分の作業スペースとなっている。そこには2台のデスクトップパソコンが置かれ、片方は背もたれ付きのキャリーが付いた事務椅子。もう1つは右側に緩やかな角度で調整された脚立が接続されている腰の高い椅子がある。

坂枝は迷う事も無くその脚立付きの椅子へと向かい、慣れた様子でそこを上っていった。そして登頂するや否や直ぐに目の前のパソコンを立ち上げ、メールアプリ内にある新規のデータに眼をやる。勿論、キーボードの横には彼女用に開発された通常のタッチパネル式のマウスよりも大きな面積を有する機構があり、前足に当たる部分で触れる事によって画面の矢印を操作するのだ。

目的の項目をクリックし、それの読み込みが始まる。その間、彼女は机の引き出しの取っ手に括りつけてある縄を咥え、それをひっぱる事で開き、両前足を器用に使ってそこから眼鏡を取り出す。彼女曰く、ブルーライトを抑制するための眼鏡だそうだ。

彼女の体質上、一度目が悪くなれば今まで以上に実生活での不調が顕著になる。真面に机に座って食事をするのでさえ手古摺てこずると言うのに、それに日常的な視力の矯正が加わるとなれば猶更だ。だからこそ、梁野の代理で行う報告書の作成や研究レポートが添付されたメールの処理等の作業を行う際は極力視力の低下に繋がる要素は排除している。それ以外にも日頃から遠方を見る様に気を使っている。

全ては今よりも最悪な状況を作らないため。日頃から気の抜けない生活である。

タイピングに関しては何の問題もない。梁野の勧めでもあったが、彼女自身パソコンスピード認定の初段とワープロ検定の初段を保有している。試験を受けること自体は知人のエージェントによる助力もあったが、合格だけは彼女の努力で勝ち取ったものだ。

ただ、自分自身で得た物さえも、この境遇ゆえの枷であるという彼女の認識は変わらない。常人が仕事の延長線上や就職と言う競争の中で自己をより有利に導くためにこれらを取得するのが常なのであろうが、彼女にとってはある意味この道しかなかったからこそ、それのつぎ込む努力を惜しむことはなかったのであり結局の所は彼女の意志など端から存在しなかったのだ。

幾つも送られてきている実験内容の纏めや様々なレポートに目を走らせる。一部の内容は凄惨なDクラス職員の死の情景が淡々と記載されたようなものもあり想像するだけで胃の中が反転しそうが、そんな物にも慣れてしまったのか彼女はその研究レポートの内容を添削し、簡潔に纏めた上で該当ナンバーの報告書の編集欄に添付していく。これを保存し、後に梁野博士のパソコンに転送することで最終チェックを行い、正式な報告書として完成するのだ。

一見すればそれらの業務を全て坂枝研究助手が行っているように思えるかもしれないが梁野博士の元に送られて来る案件は膨大であり、到底人間1人だけで熟すのは困難である。それでも、梁野博士はそれらを不備なく全うし、期日内に全ての業務を完了させている。オフィスに不在である事の方が多い彼ではあるが、共に仕事している彼女でさえそれを可能としている作業実態を把握していない。これこそ、梁野博士に関連して語られる職員間不思議の一端である。

坂枝が任されているのはあくまでこの作業の補佐であり、殆どは彼に送られるメールのチェックが大半を占める。これだけは、件の梁野博士でも処理しきれない事は本人の口から彼女に語られている。

自分はお情けで仕事を割り振られている。これこそが、坂枝研究助手という肩書を与えられた彼女自身の精一杯の自己評価である。

自分でも正直情けなくなる。本当に、私はこの組織で生かされている意味があるのだろうか。

そんな事を作業の合間に考えていると、突然扉の方から軽い打撃音が鳴った。金属を叩く音ともアクリル板を叩く音とも受け取れる2回のノックは一瞬で彼女を集中していた状態から現実に引き戻し、発生源に向けて彼女を振り向かせる

「坂枝さん。お疲れ様です。野々村です。」

聞きなれた男の声が扉越しに聞こえる。最新設備でセキュリティーも万全な財団の施設ではあるが、こういった人間の所作は未だにアナログを付き通しているのは最大の皮肉かもしれない。そんな事を考えながら、坂枝は声の主に対して返事をした。

「お疲れ様です。暗唱コードは解放しているので、どうぞ。」

少しだけ遠くにある扉に向かって声を張り上げながら彼女は伝える。そして、それを了解したようにパネルを叩く微かな音が外部から聞こえ、数桁分の入力が終えられると同時に静かに扉が解放された。

そこには顔に少し日頃の疲れが見える男が立っていた。動作もどこかぎこちなく、もっさりとした仕草で入室する。

「……少し、痩せました?」

坂枝がそう彼に問いかける。これに関しては社交辞令などではなく、純粋に彼の体調を気遣っての発言だ。

「ええ。最近、徹夜が多かったもので。」
「もっと、自分自身に気を掛けてあげても良いんじゃないですか?」
「そうしたいのはやまやま何ですが……。何せ、梁野博士の案件ですから。4分の1は彼を探すのに費やしていますよ。」

あからさまな皮肉を語りながら彼は笑い、照れくさそうに後頭部を掻く。

「……いつも、ご迷惑をおかけします。」
「ええ。ほんと。……なんてね。」

一瞬の沈黙が訪れるが、それも2人の笑いですぐさま終わりを迎える。どちらも眉はへの字を描いているが、どこか緊張の抜けた状態がなんとなく安堵感を漂わせた。この時だけは、坂枝も心の底から笑えている様子で、野々村もそれを見て安心する。

「……コーヒー、淹れますね。」
「ええ。お互い、少し休憩しましょう。」


オフィス内に備え付けられたコーヒーメーカーで坂枝は2名分の紙コップを満たし、両前足を使ってそれを取っ手付きのカップにはめ込む。その動作が終わった頃を見計らって野々村は出来上がった2名分のカップを手に持ち、坂枝の作業スペースまで持っていく。坂枝に関してはコーヒーメーカーの前に設置されている脚立から降り、野々村を追いかける様に移動してから再び自分の椅子に腰を下ろす。野々村もカップを机に置いてから部屋の端に放置されている簡易的なキャスター付きの椅子を持ってきて、坂枝と向かい合うような形で座る。双方とも、ここでも梁野の椅子には一切触れようとしないのが印象的だ。

「博士は、相変わらず出張ですか。」
「はい。あの人もあの人で多忙ですから。」
「まあ、ある意味収容プロトコルの発案から実験の監修、作業部署によっては技術顧問の様な立ち位置ですからね。博士の異常実体に関する知見は、どの部署も常に欲しがってますから。」
「ええ。素行に問題のある人ではありますけど、そこだけは評価されてますからね。」
「ええ。そこだけは、ですね。」

またも2人の間で笑みが零れ、互いに淹れたばかりのコーヒーを啜る。

ある特定の人物の話題を中心に親睦を深めている様は、ある意味蔭口の言い合いではあるにしてもどこか健全だ。恐らく、少なからず双方ともに梁野という男に対してのリスペクトがあるからだろう。真に嫌悪している人間に対しての悪態とは、その語気に膨大な悪意が含まれるものである。だが、今の2人が語る言の葉にそれは微塵も感じられず、純粋な尊敬相手の気付き上げてきた功績を讃えているのみである。その中に、ある意味自虐にも似たエッセンスを混ぜる事で身内間だけで通じる笑いへと昇華しているのだ。

「坂枝さんは、日頃からブラックなんですか?」
「……まあ。そうですね。」
「意外だ。いつも、他部署から貰ってる菓子折りとか嬉しそうに食べてるから、てっきり甘党なのかと。」
「基本はそうですけど、コーヒーだけはいつもブラックなんです。」
「へえ。何でですか?」
「砂糖とか、ミルクとか入れる手間が惜しいですから。だって、私の手ってこれですし。」

両方の前足で挟むように持っていたカップを机に置き、坂枝はその足を左右に振って見せる。それを見た野々村は、どうしても表情が固まり尚且つ自身の発言が失敗であったことに後悔する。それが明らかに態度に出てしまい、それ自体も純然とした失策である事も自覚し、ここからの自身の発言が何処に転ぶのかも分からない負の思考連鎖に陥ってしまう。

「……笑ってくださっても、良いんですよ?」
「え、えっと、その……。いや、正直に言います。笑えないですよ。坂枝さん……。」
「ですよねえ。分かってやってます。私なりの意地悪です。」

少し引き攣った表情を抱えたままの野々村と相対して、坂枝はどこか穏やかな雰囲気のまま再びカップに足を伸ばす。

「私なりのジョークなんですよ、これ。きっと、私にしかできない事ですから。」
「……それは、そうでしょうけど。」
「まあ、これでお腹を抱えて笑う人もどうかとは思いますけどね。常識を疑います。」

何が彼女の琴線に触れたのだろうかと野々村は思案するが、やはり先程の甘党の下りだろうか。自分自身に何かしらの落ち度があったとすれば、そこしか思い当たる菱がない。

そんな中で彼は神妙な面持ちのまま彼女と同様にコーヒーを口に含む。その苦さが今では意味合いが変わってくる。そんな彼の現状など露知らずといった様子で、坂枝は平常を継続させている。

「別に、怒ってる訳じゃないんですよ。野々村さん。」
「え。」
「その逆です。何気ない会話で、単純に頭に浮かんだ単語だけで進む会話。私にとってはそれだけでも価値のある物なんですよ。だから、別に私は憤りを覚えたから貴方に意地悪をした訳じゃなくて、その逆で、感謝しているからこそ意地悪をしたんです。それも、親しい間柄だから出来る事って奴なんじゃないのかなって。」
「……ある意味、僕で行った実験みたいな物ですか?」
「はい。そんな所です。……私、小学校も真面に卒業できてないんですけどね。」

坂枝はまたしても強めの自虐ネタを挟みつつ、ころころと笑う。野々村に関しては先程の彼女の発言によって過度な罪悪感からは解放された物の、未だにどこか心の奥にぎこちなさが残る様子だ。

「……でも、僕は、坂枝さんのそういう所、尊敬してますよ。」

野々村が、もうそろそろ底が見えるカップを口に運びながらそう呟く。これも、お世辞ではなく本気の気持ちだ。

「僕は、この組織に来て間もない頃はそりゃあ自分に多少の自身を持ってはいました。今までの功績が認められたからこそ、この場所に呼ばれたんだと自負していた。でも、それも結局は自惚れだったんだと思い知らされました。僕の部門でも言われてるのはいつもこれです。『収容違反を経験してからが本番だ』って。……一昔前の根性論じゃないかって、嘗ては馬鹿にしていましたけど……。それが全てでした。」
「……徹夜って言ってましたけど、まだ眠れていないんですか?」
「……ええ。あれから1年ですけど。未だに、克服できていないみたいです。」

そう語る野々村の顔を坂枝は改めて確認し、その両目の下にある隈の存在に気が付いた。

野々村自身、所属する部署は違えど梁野の補佐と言う形で日頃の業務を行っている研究員である。ある意味、坂枝の後輩にもあたる就職時期ではあるが、年の近い2人は同僚の中でもよく話の合う間柄となった。

出会って当初こそ、双方ともに互いをけん制するかのような関係ではあったが、ある事件をきっかけに野々村の方から積極的なアプローチを行った結果が今の友好関係である。その事件と言うのが、オブジェクトの収容違反であり、ある意味彼の分岐点ともなった事象だ。

「今でも、寝ようとするとどうしても頭に過るんですよ。あの時の同僚たちの悲鳴とか、姿とか。自分が生き残ったのは奇跡だって思いますし……。と言うよりも今もまだ自分が生きてるって実感が無いんです。あの事件の延長線上にいるような感覚で、また、あれの続きが起きるんじゃないか、目を閉じた瞬間、次は自分の番なんじゃないのかって……。だから、今の僕には寝ている暇が無いんですよ……。」

典型的なPTSD。精神医学の知識を持たない坂枝でもそれは手に取る様にに理解した。今、目の前に座っている男は心を病んでいる。それを仕事で誤魔化し続けている最中なのだと。

「だから、僕は坂枝さんを心から尊敬しているんです。……貴女は、強い。」
「……いえ、そんな事は。」
「いえ、謙遜しないでください。貴女は、とても立派に自分の人生を歩んでいますよ。……僕なんかと違って……。」

野々村の最後の一言を皮切りに、ふと一切の会話が途切れた。

しばらくしてから、何か様子がおかしいと思った野々村は真正面から坂枝の顔を見つめ、それに対して坂枝は照れる事も怒る事も、悲しむ事すらなく見つめ返す事で返答している。

「……あ、あの……どうかしました?」
「……ちょっと、付いてきてください。」
「……え。」
「少し、言いたいことがあります。」

そう言い、坂枝は自身の椅子から飛び降り、そのままの足で出口の方へと向かった。


気が付くと野々村はサイト内に設置してある喫煙室に連れて来られていた。中には彼と坂枝の2人しかおらず、そんな状態で双方が向かい合う形で対峙している。

「あの、なんでこんな場所に……。」
「野々村さん、タバコ吸いますよね。」
「え、ええ。付き合いで偶にですけど。」
「なら、その内ポケットに入れてますよね。どんな銘柄かは知らないですけど。」

坂枝は怒気の混じった声色で野々村に凄む。

「ま、まあ。……え、煙草、吸うんですか? 坂枝さん。」
「吸いませんよ。そんな体に悪い物。こんな体ですし、何があるか分かったもんじゃないので。」
「なら、なんで……。」
「黙って、私に1本下さい。早く。」

いつもの穏やかな、と言うよりは根暗と言った方が良いかもしれない彼女からは考えられない発言が先程から連発される。そんな予想もしていなかった状況を飲み込めていない野々村自身は、その所為もあってか今は彼女の言う通りに行動する事しかできない。

恐る恐ると言った動作で、野々村は懐から皺の目立つ紙箱を取り出す。日頃は付き合い位でしか吸わないと言った彼ではあるが、その箱の現状を鑑みるにその発言は明確な虚偽であった事が窺える。

「それを、私に咥えさせてください。」
「で、でも……。」
「いいから……!」

鬼気迫る彼女の圧に屈し、野々村は言われるがままに箱から引き抜いた一本を彼女に唇に運ぶ。坂枝の様子は如何にも慣れていないといったぎこちなさを伴い、多少口から落としそうになりながらも目的を遂行する。

「……火。」
「……坂枝さん、やっぱり止めましょうよ。貴女にはこんな物、似合いませんて……。」
「火!」

野々村は床に座る彼女に合わせる形で腰を落とし、安物のライターを煙草の先端に近づける。この状態に到ってもまだ戸惑いと躊躇が残るのか中々着火には取り掛かれないが、ふと見た彼女の睨む視線に気が付いたが為に自身の掛けた親指に力を入れてしまう。

日頃の彼女からは想像もできなかった様相が彼の目の前で展開されている。いつも食堂の隅で、彼女愛用のストローを使用しながら水を飲んでいるあの幸薄げな姿からは大きくかけ離れて姿が彼の眼前に広がっているのだ。

眉間にしわを寄せ、今まで味わった事も無い苦みと鼻に着く悪臭に耐えながら坂枝は目一杯に煙を吸い込む。野々村に関しては嘗て大学時代の先輩に無理やり飲まされた初めての喫煙を振り返り、今なお状況が飲み込めていない間の抜けた顔で彼女を見つめている。

「ほっへ……!」
「……あの……。」
「ほっへ、ふだはい!(取って、ください!)」
「は、はい! すいません!」

すぐさま野々村は彼女の口から灰の面積が増えている煙草を抜き取る。その際に指が彼女の唇に触れたような気もするが、今はそんな事に気が回せる状態ではない。

案の定、坂枝はその場で咽返り、その目には涙を滲ませ煙を必死になって体外に吐き出している。

彼女の目的が分からない。今なお先端が燃え続けている煙草を片手に、野々村は唖然としている。

「それ、貴方も吸ってください。」

なお咳をしながらも、坂枝は野々村にそう告げる。

「え、でも……!」
「す、吸えないんですか!? 日頃、常習的に吸ってるのに!? それとも、私が吸ったからですか!? こんな姿の人間が口にした物は、口にできないと!?」
「そ、そんな訳……! でも、これじゃ……!」
「良いから吸ってください!」
「で、でも……これ、間接……。」
「野々村……!」

ええいままよ。そんな心の声を唱えながら、野々村は手元の煙草を咥えた。その勢いのまま一気に煙を吸い込み、それに伴う脳の痺れも実感する。そして、自身の肺がニコチンとタールで満たされるの感じながら、次第に興奮していた気分が酩酊にも似た感覚に襲われる。

時間でいえばほんの2、3秒ではあるが、野々村は全てを吸いきってから一気に白い煙を吐き出した。まるで、今までの焦燥感や不安感なども一緒に体外へと排出している様だ。

「……私だって……! 自棄になって、こんな事をしたくなる時があるんです……!」

ニコチンが回り、微弱ながら意識がもうろうとする野々村に対して坂枝はそう言葉を続ける。その目には先程よりも涙がにじんでいる様で、それが今さっきの喫煙による物では無い事は明白である。

「私は、いつも他人と自分を比べて……! 常に劣等感の中で生きて……! 誰とも対等に目線も合わせられない自分に絶望して……! こんな私を生み出した世界と親を恨みながら生きてるんです……! 貴方は、感じた事はありますか!? 野々村さんは! 人と目を見て話しますか!?」
「そ、それは、勿論……。」

坂枝の怒号を初めて聞いた野々村は問われた質問に対して呆れる程に素直な態度で答える。

「なら! ほんの0.01秒でも、その相手が自分の姿を見て視線を逸らすのを見た事はありますか!? 無いでしょう!? だって貴方は! ちゃんと努力して! 大学にも行って! 健康な体で五体も満足に揃っていて! 死んでいてもおかしくない事故に巻き込まれながらも無傷で生還しているじゃないですか! そんな貴方が、私に強さを見出している!? 自分なんかより立派!? 馬鹿にするのも体外にしてください!」

この坂枝の心からの訴えを聴き、野々村は今の自分が如何にちっぽけで情けない存在なのかを実感した。そして、先程自分が彼女に向けてはなった言葉がどれ程彼女の心を傷つけ、蔑ろにしたのかを痛感した。

彼自身、その彼女を尊敬する心に嘘偽りはなかったのだろうが、しかしその根幹にある物を改めて認識したのだ。

「……私を見つめて、一時も目を離さなかったのは……生涯でたった1人だけです。」

坂枝がぽつりと言う。野々村の中では、それが一体誰なのかは当然目星がついた。

「……その人は……。」

全て口から出かかった野々村ではあるが、どういう訳かそこで言葉が詰まった。

あの男だ。

あの、空っぽの男事だ。

愛を振り撒いていると言っておきながら誰一人として愛してなどいない。あの、空虚な怪物。あいつだ。

「……それだけが、今の私の支えなんです。偏見も無く、同情もなく、深夜でもお構いなしで仕事を振って、ナンパな言葉を投げかけて……。……あの人だけなんです。私が、ここで存在できる意味は……。本当にあの人だけなんですよ。私を1人の『女』として扱ってくれるのは。」
「……で、でも……彼は……。」

例の収容違反の時の情景が脳裏をよぎる。あの惨劇の中で、高らかに笑っていたあの男の姿が未だに忘れられない。

「分かってますよ……。そんな事。」
「……え。」
「……見て貰えない事なんて、分かってますよ。でも……。でも……!」

またも、野々村はそこから言葉を発する事が出来なくなった。様々な感情が彼の心の中で渦巻、それと相反して彼女の心情が逆によく理解できた。

理解できたからこそ、彼は一種の壮絶な敗北感で一杯になったのだ。

しばしの間、喫煙室内で年甲斐もなくへたり込む男女の姿がそこにはあった。


「……それじゃあ、僕はオフィスに帰ります。お疲れ様です。」
「はい。お疲れ様です。」

2人は廊下で対峙する形でそう締め括り、各々の職場へと向かって歩みを進めた。が、野々村だけはどうしても彼女の事が気に掛かり、その場で振り向てしまった。

「あ、あの……。坂枝さん。」

そう声に出そうとしたが真直ぐに進む彼女の背中を見てしまった途端、全ての言葉が喉でつかえた。一切彼女の方は振り向く様子がない。

そこにはいつもの無機質な廊下を、淡々と進む1人の女性の姿しかなかった。

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