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人は何故「恐怖」するのか。そんな疑問がふと彼の頭に浮かんだ。
目の前にある廊下。その先にはもう既に消灯時間を過ぎているがために生まれた延々と続く闇が鎮座している。
彼はその闇を見て、ふと人間の内側に存在する「恐怖」というものに思考を突如誘導されたのだ。これは何者かによる作為的な思考実験なのか、はたまた彼が日頃から考えていることがその闇を切っ掛けとして湧出したのかは定かではない。兎にも角にも、彼は人の「恐怖」というものが一体どこから来るのか。もしくは何を意味しているのかが無性に気になって仕方がなくなってしまったのだ。
まるで真新しい病院の中にいるような周りの設えの内部で彼自身は寄れたYシャツの上に白衣を纏っている。先程、この空間の唯一の光源でもある自販機で缶容器に収められたエナジードリンクを購入し、未だそれの蓋に指すらかけていない。ただ、只々、彼の視線の先にある、前述した廊下の先にある闇を見つめながら、休憩所の役割も担っているこの区画に設置されたベンチに浅く前かがみになりながら腰かけているのみなのだ。
人は考える葦であると語った人間が嘗ていたが、言葉遊びをするならば正にこの場で沈黙を続けている男は葦植物の如くその足を止め永遠ともいえる時間の中で己の思考をめぐらせているのみなのである。
何故、どうして、この男はここまで人の恐怖というものに憑りつかれたように考え込まなければならないのだろう。きっと、その闇の中に答えはあるのかもわかりはしないだろうに、どうしてなのだ。
赤の他人が彼を見たのならば、きっとそのような疑問を投げかけてしまうのだろう。
それほどまでに、彼という人間はこの皆が寝静まった暗黒の中で沈黙を続けていたのだ。
男は思考を続ける。
何故、人はこの暗闇を恐れているのだろう。何故、人は、闇というものに恐怖を感じてしまうのだろう。
ある心理学者は言う。
「未知という物に人は恐怖する。未知である者は正に恐怖の対象であり、得体のしれないものは危険であるという動物的本能がそのような感情を想起させる。」
全くもってその通りである。
人は自身が分からないもの、見えないものに恐怖する。そして裏を返せば、その嘗て未知であったものが既知の物へと変貌した瞬間、そこにある者は何ら変哲もない物体へとなり下がる。人は科学の力で数々の未知を既知へと塗り替え、世界に蔓延る恐怖の正体を突き止め続けてきた。しかしながら、それによってこの世から遍く広がる恐怖を払拭できたかと言われれば、全くの嘘になる。
男はそれをよく知っている。嫌というほど知っている。それを自分自身にも言い聞かせ、開けてもない缶の冷たさを両の手で感じながら、小刻みに震える。気のせいかもしれないが、彼の震えに合わせて今もなお明かりの灯っている自販機の電灯が点滅したように見えた。パリパリとした独特の音が一瞬だけ彼を現実に引き戻す。
それでもなお、彼は思考を続ける。まるで、それを何者かに強いられているかのようにそれに邁進する。
彼自身も、彼の思考にの方向性に多少なりとも違和感を覚えるけれども、それを今更戻す事はどうしても出来ないのである。
そうだとも。戻る事は出来ない。何も知らなかったあの頃に等戻る事は出来ないのだ。人は恐怖を克服できてはいない。いや、むしろ逆だ。深淵を知れば知る程、また新たなる未知がその顔を覗かせるのだ。そして、人類はそれに恐怖し、克服しようと究明を繰り返す。しかし、それにも限界はある。人間が求められる答えには一定の限界が存在する。男はそれもよく理解している。彼もまた、1人の『研究者』という未知を追求する世界に居座っている人間の1人であることから、今までも数多くの未知、というよりは「訳の分からない存在」を突きつけられてきたのだ。
求めても、多くを求めても何も変わらない。
目の前の闇。それが指し示す物を彼はよく知っている。だからこそ、今もなお彼の両手は小刻みに震えてしまって仕方がないのだ。
ここに来て、先程から考え続けている事の答えの一端が見つかる。人が抱く恐怖。それは未知であることを切っ掛けとするが、それを既知とした所で消し去ることは出来ない。言ってしまえば、知れば知る程その恐怖が増すのだ。あの闇の先にある物。きっと勇気のある一歩を踏み出せば、それもはっきりするのだろう。だが、それを確かめたからと言って、そこにいる存在がさらなる未知であったのならどうなるのだろう。解き明かした事により、開けてならないものをこじ開けてしまった事による新たなる恐怖の本流に苛まれてしまうのではないのだろうか。後悔を抱えながら、己の無力さを抱えながら、その場で蹲りながら息絶えてしまう。
もう一つの答えを出すのならば、人の想像力は底がなく、それが未知である恐怖を強固なものにしていく。その人が持つ創造性が一種の恐怖の一端でもあるのだ。
つまりは、人の営み、人が克服しようとする活動こそが恐怖を生み出す。人間自身が、恐怖の根幹である。そう結論付けられるのではないのだろうか。であるならば、今ここで試案を続けている男の中にある恐怖の正体はきっと、彼自身の中にある彼の本能がそうさせている。そう結論付けられるのではないのだろうか。
などと考えているその瞬間、彼の見つめる先のそのまた先に、白い何かが揺れた。それを認識したのは恐らくほんの0.5秒程の時間で、眼球のガラス体を通って網膜へと投影され、視神経を介してそれが脳に映像として変換される。そして、それが何であるかを理解し、理解したうえでそれを考察し、考察したことによりそれが未知の存在であると認識したその段階で、彼の動悸が激しくなり汗腺からは脂汗が吹き出す。そう、今まさに、彼が考察していた恐怖を感じるメカニズムが実証されたのだ。己自身を実験体とすることで、皮肉にもそれが叶ってしまったのだ。
今のは何だ。男がまず最初に考えたのはそれだ。ここでもやはり人の想像力が恐ろしく猛威を振るう。
この施設のセキュリティーは厳重だ。外部からの侵入などありはしない。ならば、内部で収容していた異常存在の脱走か。いや、であるならば即座に警報が鳴り機動部隊が出動、鎮圧のための編成展開を開始しているはずだ。ならば、あれは単なる見間違いか。いや、それも違う。彼は確実に今の白い影の存在をその目で見た。音もなく、何も見えない筈の闇の中でそれだけがはっきりと分かるその白い影を正しく認識したのだ。見間違いなはずがない。あれは確実にそこにいたのだ。
その結論を出したがために、更にそれに対する恐れが加速する。先程、自分で答えを出したばかりではないか。それを体現してしまうなど情けない。早くもそれに後悔を示す男は関係もなく、第二派が彼に降りかかる。
今度は彼の背後からである。間隔の短い、ひたひたという音が、男の背後、左から右へと駆けていく。正に耳元。何かわからないそれが背中のすぐ傍を横切り、それによって生まれた空気の流れすらも敏感に感じてしまう。
物理的にそこには何かがいた。彼の持つ五感から得た情報が無残にもそれを証明してまう。
何がいる。ここには何がいる。何かがいるのは『分かっている』。だが、何がそこにいるのかが『分かっていない』。これこそが、人が感ずる恐怖の根源なのだ。
だが、そこでまた別の仮説が生まれてしまう。
人の中にある恐怖は人の行動原理に基づいて、正に己から墓穴を掘る如く深く深くに陥ってしまう。それらは今なお恐怖に苛まれている彼自身が己の体で証明してしまっている確固たる事実なのである。ならば、であるならばである。それを齎す存在自体は一体何者なのであろう。
ただに見間違い。自然現象。似非科学まで持ち出すのならばプラズマや電磁波による電気機器の異常。
馬鹿々々しい。
そんな物がこれの正体な訳があるか。男はそれを知っている。あれらは決してそんな物ではない。未知は未知のままである。だが、男が知っている未知と、この世の心理も知らない一般市民の知る『未知』とはその質も純度も、質量でさえも違うのだ。
彼は知っている。『知ってしまっている』。この世には、『未知』を『未知』足りえる存在のままその場で体現し、人を殺し続ける存在がいる事を。そして、それを彼自身が、まだ何も分かっていない中で管理するなどという烏滸がましい行為に勤しんでいる事もだ。
彼の体は硬直している。より正確に言えば、足に力が入らない。にも拘らず、買ってからずっと両手で握っている缶を手放す素振りがないのは肉体の制御と彼に思考が乖離してしまった事の結果だろう。
そしてまたも、彼の見つめの闇の中にあの白い影が出現する。しかも、今度はある程度その姿形をはっきりさせながらの登場である。
凡その人型。にもかかわらず、その形はほんの少しばかり不明瞭である。特に頭部の様子がよくわからず、首から下の形は分かるにも拘わらずやはり頭部だけが未だ理解不能なのだ。
廊下のその向こうから歩いてくるそれは、一歩、また一歩と確実に彼の下へと向かってくる。距離からして、大体10m程だろうか。歩みこそ遅いものの、彼の元への到達は時間の問題だろう。
そして、ここでまた1つの矛盾が彼の脳内を襲う。実を言うと、彼が見つめ続けていた廊下の先、その先など本来は存在しないはずなのだ。そこは廊下の突き当りに位置し、一定前ば完全な行き止まり。なのに、今彼のいる場所に向かってきている存在はそこから10mも離れた所からやってくるではないか。存在しないはずの廊下の延長線上から何者かがやってくる。何もかもの道理が通らない事態が彼を襲っている。
また一歩、また一歩とそれが近づいてくる。未知だ。『未知』がやってくる。
最早、この場から離れるしかない。今すぐにここを立ち上がって、全力で足で駆けながら逃げ出すしかない。
だが、ここで改めて彼にとって予想もしていなかった事態に襲われる。彼の足首を、何者かが掴んで離さないのだ。
等々、彼は声を出して叫んだ。大事に掴んでいた缶も投げ捨て、拘束を解こうとそれに手を駆ける。彼の足を掴んでいるのはほんの2、3歳と思われる子供の手だ。にも拘らず、それからの拘束を解くことが出来ない。正確に言えば、その手を振りほどこうとしてもそこには何もないかのように彼の手を素通りしてしまうのだ。
一方的な拘束に悪戦苦闘している間に『あれ』がここに到達してしまう。何とか拘束を解こうとしながらも、彼は自分自身のいる場所に向かっている存在を一瞥する。距離は大体5m。先程から本の数秒しか経っていない筈なのに、早くもその距離を縮めている。
早く。早くここから逃げなければ。気が付けば、彼の肩や腕に、何処からともなく現れた子供達の小さい手が絡みついてきている。
早く。早く。相手地の距離は。後4m。早く。早く。
奴が来る。奴が来る。逃げなければ。兎に角逃げなければ。後3m。
助けて。誰か、助けて。後2m。
「誰か!」
後2㎝。
そこで、彼はまた理解した。何故、その者の頭部が未だに不明瞭だったのかを。そこに、頭など最初からなかった。人型の手に抱えられていたのだ。
抱えられた顔。赤ん坊の顔だろうか。その顔の目は黒く、大きく開かれた口の中も暗い。
「行こ?」
耳元で声がする。
きっと彼は絶叫したのだろう。しかし、それを聞くものは何処にもいない。
『未知』だ。
何者かに背中を引っ張られる気がしたのを切っ掛けに、彼は閉じていた瞼を開いた。目の前には黒く煤にまみれた建物の壁があり、更によくよく周囲を見渡してみれば、自分自身がその焼けただれたであろう建物の中にいるのだという事を思い出した。
割れた窓ガラスがこの先に続く廊下の右側に等間隔ではめ込まれ、まるで怪物の口の中から覗かせる牙のように生えそろった破片を残している。幸いなのは、そこから日の光が差し込み内部の情景を心地の良い温かさと共に照らしてくれている事だろう。
彼こと、岩場 勝俊がんば かつとしがその場で壁を背に尻もちをついているのに気が付いたのは、事が終わってから5秒ほど時間が流れたところだ。細い一本道の廊下から、二列に膨らんだ通路の丁度境目にあたる角の壁。所謂物の変化が発生する境界面である。
そんな、情けない姿を見下すかのように立っているもう一人の人物に気が付くのにも、同様の時間が掛かってしまったのは正に彼の失態だろう。それを象徴するかのような深いため息が、隣から聞こえてきたのがもう一人の男性の存在を証明する切っ掛けになってしまったのだから尚更である。
「こんな所で、何を呆けているんですか。岩場博士。」
岩場は、その言葉に対して酷くゆったりとした首の動きで返答する。否、するしかなかったのだ。己の置かれた状況の整理の脳のキャパシティーを費やしてしまったがゆえに、彼に呆れの念を抱く人物の顔を見上げるか、なおも日の光ではっきりと移されている廃屋の廊下を眺めるかを交互に繰り返すしかない。それ程までに、彼は今のこの状況に混乱を示しているのだ。
「い、今……。私は……。」
「任務開始から約5分20秒で、行方をくらましたのは貴方が初めてですよ。」
わざとらしく自身の腕時計を見ては毒づく彼の髪型はぴたっと整えられた七三型で、顔には横に細く長い、極力レンズの面積を少なくしてあるメガネが掛けられている。彼自身、線が細く行ってしまえば酷く痩せている。
「……野呂井君。私は、どれだけここに。」
「さあ。その発言からも分かる通り、貴方の体感時間は違っていたんでしょうね。なので貴方がどれだけの時間をここで過ごしていたかなど、知る由もありません。」
野呂井と呼ばれた男は、一切岩場を心配する様なそぶりを見せることはなく、頻りに自身の片手に持っているアクリルボードに挟んだ書類に目を通している。整った黒のスーツ、その首からかけられているIDカードには、彼の顔写真と野呂井 公麿のろい きみまろ印刷されている。
それに引き換え岩場自身はといえば、太っているとまではいはないが鍛えているとも言えず、肝心の身長は野呂井よりも低い。また、実年齢よりも少し上に見られる程度にはで目じりのしわが目立ち、尚且つ髪も乱れ伸びたまま少しばかり乱れている。2人が並んでいるのを見れば、きっとだ誰もが凸凹、または凹凸とでも呼称することだろう。
岩場は、小さなうなり声をあげながら、付いていた尻餅をその場で直し、改めて胡坐をかく形で座りなおした。
「干渉を、受けたのか。」
「分かりません。この地点は、本来の観測ポイントからはずれていますから。機動部隊の事前偵察にもここの情報はそこまで重要視されていませんでした。ですが、貴方がここで何かを見たというのであれば、きっとこの周辺にその根幹があるのかもしれないですね。」
野呂井の発言を聞き、唐突に目の疲れを感じる。どうしようもなく眼がしらに右手の人差し指と親指を置き、兎に角今はこの混乱した頭の常態を正常に戻すことに注力すべきだと自分に言い聞かせる。その流れで右手を口、顎へと移動させ、自身の顔をなでるようにしながら、最近また伸びてしまった顎髭で遊ぶ。
「どうします。取り敢えず戻りますか。」
「……いや、もうしばらくこうしてる。下手をすると、当分立てないかもしれん。」
「でしょうね。何せ、私が貴方を見付けたのは、貴方の悲鳴を聞いたからですから。」
そうか。聞こえたのか。岩場は思わず野呂井の言い放った言葉に少し勇気をもらった、そんな感じがした。
「また、博士が消えても困ります。暫くはここら周辺の調査と行きましょう。」
「ああ。世話を掛ける。」
「ええ。本当に。」
そっけない態度を示す野呂井ではあるが、周囲の様子をメモする物の、偉く遠いところにまでは行かないところを見るに、彼なりにも岩場の事を気にかけているのが多少なりとも見て取れる。その様子を確認した岩場は、心なしか一種の安堵感を感じていく。
さて、といった調子で、岩場は再び、眼前に伸びていく廊下に視線を移す。2人の会話が一旦の決着がついたことを切っ掛けに、岩場なりに先程の現象を考察する体勢へと移行していく。
そもそも、この場所の前提を振り返らなければならない。岩場は自身の頭の中でそう唱える。前提条件亡くして、考察などありえないからだ。
事の発端は5日前。財団調査部の入手した情報が岩場のオフィスに届けられた。内容は簡単なものだ。某県某市の田舎山奥に存在する、焼け落ちた廃病院に関する噂をまとめた資料だ。
岩場の職場にはこういった類の情報が毎日のように届けられる。岩場自身、主任研究員としても担当している物自体が建築物に由来する現象の研究と収容方法の確立なのだから仕方がない。が、仕方がないにしてもそれが舞い込んでくる量は、物理的にも許容量的にも、彼のオフィスを占領するかの如くなのだ。
端的に言ってしまえば、所謂それらは日頃のテレビショーでも取りだたされる「心霊スポット」なる物の情報でしかなく、オカルト雑誌の切り抜きや曰く付き物件の内部情報が大半なのだ。
その中身といえば、所詮はゴシップ紙の書く程度の物でしかなく、明らかに合成写真であろう物が掲載されているのみであり、信ぴょう性など露程もない。だが、悲しいかなその中にも時折、「本物」が混じってしまっているのが問題なのだ。
もしそれが本当の異常現象であると立証されれば、財団は収容スペシャリストを手配し、機動部隊の動員を計画し、担当となる研究部署とその所属人員の配置を人事部に通達する。数回の事務処理を終わらせたのちに、すぐさまフィールドワークへと出発するのだ。
今回の件もそれと同じであった。急遽、岩場のオフィスに先の情報が伝達された。茶封筒に入れられた各書類の束にそれらの詳細が記載され、彼をこの場所に導いたのだ。
概要だけを見れば、ただの曰く付きの廃屋である。主な内容は、放火によって全体が消失した大正時代の産婦人科医院。立地が山奥だった事もあり、消防隊の到着も遅れたことから多くの死傷者を出したというものだった。
その内容だけを見れば、一種の眉唾物の噂程度でしかないものであるが、岩場の目を引いた項目がそこにはあった。それは、「直近の死者5名。」という一文。つまり、中に遊び半分で入っていった若者らが実際に命を落とした事案記録の裏取りが終わっているという事だった。
ただの噂とそれの明確な違いはその情報の近さにある。同年同月に死傷者が出たとあっては、財団の一研究員として調べないわけにはいかない。よって、彼は自らの足で現場に赴いたのだ。
にも拘らず、彼自身が所謂怪異の影響に当てられてしまった。同行してくれた野呂井のお陰もあり、何とか大事に至らず済んでが、やはり自身の目でこの現象を目の当たりにするのとではやはり彩度が違う。ここから考えを巡らせるのが私の仕事だ。そう岩場が思い至ったのがこの時間だったのである。
その中で、岩場自身が1つだけ疑問に思っている事柄があった。それは、彼自身が見たあの情景と今この場所で見ている情景にあまりにも違いがあり過ぎるのだ。
ここは確かに嘗ては産婦人科医院として機能していた。資料の中では、跡取り問題、お家問題に巻き込まれた結果、生まれてくる子供諸共病院を焼いたのが事件の真相であるという一説も記載されていたが、それでも腑に落ちない。何故なら、彼が見たあの情景の病院然とした建物のつくりは、あまりにも現代的過ぎたのだ。何せ、缶ジュースを販売している自動販売機まで備えている施設の様子である。それに引き換え、今彼は座っているこの廊下を構成している廃病院のつくりと言えば、大正時代では最先端であったであろう全赤レンガ造りの建物なのだ。
怪現象の中で事件の発生した現場の過去視が行われるという事例は財団の記録内でも幾つか補完されている。しかし、あれは過去というよりは未来視とでも言うような、現場と情報とに大きなずれが存在している。岩場はそれがどうにも不自然に思えて仕方がなかったのだ。あれが、この現場によって引き起こされた現象だとするならば、見せられたあの場所は一体どこだ。廊下の形や雰囲気も、あの場所とは大きく違う。
同じ場所なのに、別の場所。
この大きな矛盾が、岩場の脳裏に大きく焼き付いた。
「博士ー! そろそろ引き揚げましょう!」
不意に、外から若い青年の声が聞こえた。
「だそうですよ。岩場博士。」
先程まで周囲の状況をメモしていた野呂井が岩場の方へと向き、それを伝えた。
足の方にも大分力が戻ってきた。少しふらつきながらも岩場はその場で立ち、窓から顔を出す。割れているから別に開ける必要もないのだが、律儀にも半分木炭となりつつも残っている窓枠に手を掛け、それを開ける。
二階から、外で待機している助手3名と護衛機動部隊数人を見下ろし、手を振りながら返事をする。
「では、行きましょうか。あと、貴方を捜索した機動部隊の人達にもう報告してありますから。皆に心配を掛けたことを、謝ってください。」
野呂井は岩場の顔を見ることもなく、そう言い放ちながら先に出口へと向かう。岩場もそれに続く。
その瞬間、彼らの後方で、本当にか細い物ではあるが、はっきりと子供の笑い声の様な声が聞こえた。それに反応したのか、2人ともその場で硬直する。
「……野呂井君。君も……。」
「……行きましょう。今は、装備も何もありません。」
そうだ。私達は何も聞かなかった。そう心に決め、一旦はこの廃屋を離れることに決めた。
「で、それが、貴方が見た物の情景ですか。」
キャスター付きの椅子に浅く座りながら、マグカップに入ったコーヒーを飲む野呂井がそう言った。
「ああ。気が付いたら私はそこにいた。」
そんな野呂井と向かい合う形で、岩場自身のキャスター椅子に座り返答する。浅く座る野呂井とは対照的に、岩場は深く腰を下ろしている。
「他に何か特徴は無かったんですか。」
「……逆に多すぎて、どれから上げていけばいいのか分からないよ。白い廊下、白い壁、備え付けられた青色の自販機に木製のベンチ、缶とペットボトルのラベルが張られているゴミ箱。後は、取ってつけたように置かれている観葉植物くらいか。」
「所謂、要素過多って奴ですか。」
「いや、これはそれらを細分化したに過ぎないよ。俯瞰的にあの情景を分析した場合、要はあの廃屋と私が見たあの施設との相違点がおおすぎて何処から探りを入れていけばいいのかが分からないという事だ。間違い探しどころが何もかもが間違いだと、逆に類似点を見付ける事に躍起になってしまう。だが、きっとそれも、答えにはたどり着けない間違った物の見方なんだろう。もっと、根本的な違いがあると思うんだ。」
時刻は深夜2時。世間一般でいう丑三つ時だ。そんな夜も深くなっている時間に2人の研究者は岩場の個人オフィスに集まって、例の廃屋で岩場自身が体験した怪現象の考察を行っていた。
オフィスの内部状況と言えば、ファイリングされた各資料やそれらを収めた段ボールが山積みとなり、所狭しと置かれている鉄製の棚の数々が折角天井に備え付けられた蛍光灯の明かりも一部がさえぎられているという始末である。まともな光源と言えば、岩場が報告書作成用に用意したノートパソコン画面自体の光と、それが置かれているデスクにあるスタンドライトのみである。
「私から言わせて貰えば、博士に近づいてきた実体よりも博士の体を拘束していた子供の実体の方に興味があります。確かにあそこは産婦人科病院の跡地ではありますが、何故敢えて博士を選んだのか。そこがどうにも引っ掛かります。」
「……それに関しては、私もよくは分かっていないんだ。私にいったい何を訴えたかったのか、あれが過去視ではなく未来視だったとしても、何もかもの辻褄が合わない。それに……。」
「それに、何ですか。」
「……あそこは、酷く寒かった気がする。」
「寒かった?」
「……ああ。ああ、そうだ。寒かった。私は、あの場で震えていた。あれは恐怖からくるものと合わせて、きっと寒かったんだ。」
そう話しながら、岩場はデスクに置かれていたあの廃病院の資料を取り出す。何度も中身を確認し、あの建物にまつわる事件や噂まで確実に読み込んでいるのも拘わらず、再度中身に目を通す。
「……そうだ。やはりそうだ。……あの施設は火事で焼失している。だから、もし過去視だとしても、あそこが寒いわけがないんだ。」
「ですが、それは博士が見たものが過去視と仮定した場合です。それ以外の物だとしたら、寒かろうが暑かろうが関係ありませんよ。」
「……ああ。そうだ。その通りだよ。暑かろうが、寒かろうが……関係ない。」
その岩場の一言を皮切りに暫くの沈黙が続いた。壁に掛けてある時計針の音だけが彼のオフィスに木霊する。野呂井は時間経過とともに多少温くなってしまったコーヒーを啜り、砂糖もミルクも入れていない為にその酸化具合はより進行している味に眉を狭める。
「……すまないね。こんなことに付き合わせてしまって。」
「別に構いませんよ。仕事の一環ですから。」
手に持っていた資料を再びデスクに戻し、岩場もお手上げとばかりに天井を見上げる。
「……すまないね。本当に。」
「だから、構いませんて。これが、私達の仕事なんですから。」
野呂井が敢えて『仕事』という単語を強調するように話す。それに対して、岩場も小さいため息を吐く事で同感の意を唱える。
「……そうだね。我々の仕事。」
岩場自身も、改めてその言葉をかみしめる様に呟く。
財団の言うところの『霊実体』というものの扱いは実のところ酷くあいまいだ。各部門によっては物質的要素を含んでいるのならばそれを実体として扱い、または質量がないことを理由に非実体、不可視の実体と分類している。だが殊更『霊実体』と称される、いや揶揄される物の扱いは明確な定義づけに難航しているというのが現状だ。それに伴い、私達の様なそれを専門部門として扱っている私達の様な職員達の評価は決して高いとは言えない。
その殆どは実体とそれに付随する現象として考えられ、にも拘らずその発動原理、物理学的見地からも観測不能という数値のみが示されている。であるならば、どの様にしてその異常な存在の収容方法を探っていくというのだろうか。答えは至って簡単だ。地道に外堀を埋めていくしかない。オブジェクトの背景を探り、発生原因を特定することでその収容方法を確定していく。
しかし、そんな探偵まがいの事を粛々とこなしていくだけの部門を本当の意味で科学部門と呼んでいいものだろうか。私達は何を研究し、何を探求しているのだろうか。そう称されてしまったが最後、私達の存在意義さえも見失ってしまうだ。
我々の仕事というものは、他の主要部門からしてみれば雑用に等しい。だが本当に必要とされない部署であるならば、即刻解体されるのが世の常だろう。だが、そうなっていない。それだけが、私達の心の支えとなっているのだ。
「この前も物品部門の奴に嫌味を言われましたよ。大猟とか言いましたか。今はSCP-2776-JPの担当で、所謂科学信奉者って言う奴です。自分は多くの博士号を取っただとか、財団においても一定の成果を上げているとも言ってましたかね。」
「それで、彼は私達の仕事について何て。」
「オカルトに耽っている貴方方は財団の恥だとか、オブジェクトに纏わるある事ないこと、勝手に話を作らないでくれだとか。必死に私に論じていましたよ。要は、私達のやっていることは科学などではなくお伽噺を作るだけの創作に過ぎないと。」
「……そうか。酷い言われようだね。」
「なので私も今、多少自棄になってるんですよ。自分のやっていることは決して無駄なんかじゃないって。ちゃんと意味のある事なんだって。」
野呂井は最早完全に冷めてしまったコーヒーを一気に飲み干し、空のマグカップと持ち替える形で岩場が先程机に置いた資料を再び手に取った。もう何度も読み返したであろう物をまた2人掛かりで眺め、きっと何か見落としがあるはずだ、きっとどこかに答えがあるはずだと信じて『仕事』を続けている。
「……意味の無い事など存在しない。特に、この部署で起きること全ては何かしらの答えに繋がっている。」
岩場がまるで独り言のように語る。野呂井はそれを、耳だけを使って聞く。目は今もなお資料を見続けている。
「ええ。関係のない事などない。部門長の教えです。」
「そう。関係のない事など……。」
ここで、ふと岩場は言葉を失う。その様子に対して、野呂井は一瞬だけ認識が遅れたが、ほんの数秒立った段階でその異変を感じ取る。
「関係ない。」
ぽつりと岩場が呟く。
「そうだ。関係ないんだ。」
ぽつり、ぽつりと繰り返す。そして、野呂井はその発言に合わせて、オフィス内の蛍光灯から不穏なちりちりという音がしているのに気が付く。
「もしだ。もしだよ、野呂井君。私が観測したあの現象が、あの場所と何も関係のない現象なんだとしたら、どうだろう。」
「……と、言いますと。」
「もしだよ。私達はあの子供の姿をした異常実体と、あの場所が元々産婦人科だった事を関連付けて考えていたが、もしそれが何の関係のないもの何だとしたら、すべての前提が変わってくる。……敢えて、敢えて私自身にあれの理由を見出してみたら、どうだろう。そう。カギは、私。私自身だ。」
遠くで、何か物音がした気がする。野呂井は、体こそ動かさなかったが己の視線のみでそれを探す。
「私をカギとして、あの場所とは関係のないものが湧出した。私が感じたあの場所。そして子供、寒さ。あの……。」
岩場は、自身の論説に半ば夢中になっている。そんな中、野呂井は極力音をたてないように、その場でしゃがみ姿勢を低くとる。
「そうだ。そうだ……! 全部説明が付く。あれは、あの場所の事じゃない。なんで気が付かなかったんだ。あれは。あれは……!」
「博士。」
深刻な面持ちで、野呂井が岩場に言う。気が付くと野呂井は岩場の足元でしゃがみ、自分と同じ体制を取るように促している。
「落ち着いて聞いてください。」
いつもは冷静沈着な筈の彼の顔から余裕がなくなっているのが分かる。岩場自身、それを察してか一気に己の中の緊張感が増していくのを感じる。
「の、野呂井君。何を……。」
「貴方が夢中になっている間に、どうやら囲まれたようです。」
その発言を聞き、岩場も改めて周囲に視線を移す。気が付けば、本来付いてるはずの天井にある蛍光灯は漆黒に包まれ、その姿を消している。自分たちを証明しているのはデスクにあるパソコンとライトのみで、最早彼らの周りには純然やる闇が蔓延っているのだ。
闇の中から、あからさまに床を引っ搔くであろう無数の雑音や誰かが裸足で駆け回っているであろう足音、それ同位置で移動している子供笑い声が鳴り響いている。
にも拘らず、岩場自身は、緊張感こそ持ちつつもそのまなざしは冷静を保っている。逆に言えば、今は野呂井の方が余裕を失っているに近い。
「兎に角、ここを離れましょう。とは言っても、どうやって動けばいいのか……。」
野呂井のその発言に対し、岩場は即座にその答えを示す。
「問題ない。野呂井君。」
岩場は、徐に取り出した新品の懐中電灯を野呂井に渡した。緊急時を想定し、デスクの棚の中に眠らせていたのだ。
「これは……。」
「私の予想が正しければ、これで何とか移動は出来るはずだ。」
彼がそう良い、野呂井にそれを託す。
「さあ、行こう。きっと、出口もあそこだ。」
岩場の言った通り、たった1つの懐中電灯であるが効果覿面であった。彼らの周りを漂う闇は、光を嫌って自ずと避けていく。だが、時折何者かが彼らの背後から奇襲を仕掛けようと襲い掛かり、その都度明かりを向け撃退しているのが現状である。言ってしまえば、暗闇の中で常に自分たちの居場所を教えている状態で移動しているのだ。何をされても、言い訳は通用しないだろう。
しかし、野呂井自身はこの現状に対して不思議で堪らなかった。何故ならば、この現状に対して岩場は驚く程の適応能力で問題を解決していたからだ。
先程も、施設内部にある十字架型に分かれた廊下に差し掛かった段階で複数の実体からの奇襲を受けた。正直言って、赤子の声を発しながらこちらに向かってくる姿の見えない存在に四方八方を囲まれた状態など最早絶体絶命に等しい。しかし、岩場はそこで何かを懐から取り出し、私達が進もうとしていた廊下側にいる存在に投げつけた。その瞬間、異常実体の悲痛な叫び声がそこから鳴り響き一瞬にして脱出口が開けたのだ。彼らが進む道を追いかける形で追従する子供の声に向かって野呂井は懐中電灯の明かりを向け続け、岩場の誘導を聞きながら後退しつつ出口を目指して前進を続ける。その時、恐らく岩場が投げたであろう物が道中で見つかり、それの詳細が明らかとなる。何の変哲もない、財団施設内の購買で売られている事務用の鋏だ。
そう言えば、彼のオフィスを出る前に色々と物品を回収していたなと野呂井の中で合点がいく。しかし、だからと言ってこれまでの岩場がしてきた活躍の証明にはならない。
これは事前準備を完璧に行ってきたなどという範疇を容易に超えているからだ。ここまで来ると一種の予知と言っても良い。敵に対して一体何が有効なのか。奴らが嫌うものは何なのか。それら全てを理解している、いや、知っているというレベルなのだ。
再び、岩場からの指示を受け2人が進む前方に光を当てる。照らせてもほんの数m先でしかないが、敵対存在に他する威嚇にもなるからきっと有効だろう。岩場がそういい、尚も彼の導きのままに野呂井は先を進む。
何故、岩場はこれ程までにこの現象への対処法を熟知しているのだろう。何故、彼はこんな状況に置かれているにも拘らず一切臆することなくあらゆる事象に対して対応出来ているのだろう。そして、最も野呂井にとっての謎は、何故、岩場はこの空間からの脱出口を知っているのだろう、これに尽きるのだ。
最初からそうだった。あのオフィスから抜け出す時でさえ、そもそもあれらに対して光が有効であること自体を最初から知っていたのだ。それからもこれに似た対処法を提示していき、幾度となく窮地を脱してきた。
この上なく頼りになる。彼に付いて行けば生き残れる。普通の人間ならそう思ってしまうだろうが、野呂井だけはこれに大きな違和感を覚えていた。
あまりにも事が上手く行き過ぎている。
野呂井の感じる疑念はこれであった。あまりにも、順調すぎるのだ。彼自身、岩場の事を全くと言って信用していないわけではない。仮にも自分よりもオブジェクトと関わり、ありとあらゆる異常現象を目の当たりにしている人物だ。経験も豊富であり、問題解決能力も申し分ない。多少、プライベートでは抜けている所も目に付きはするが、こと仕事においては野呂井自身も一目置く人間であることに変わりはないのだ。
しかし、だとしてもだ。だとしても、今の彼の状況は冴え過ぎている。少なくとも野呂井自身の経験からそう感じる。今の岩場は、何かがおかしい。
闇の中、たった2人しかいないこの状況で音もなく双方の信頼関係が崩落していくのを野呂井は感じる。疑問は疑念になり、疑念は不信感に変貌し、不信感は恐怖に姿を変える。
未知は恐怖である。恐怖は未知である。
この、先も見えない暗闇の中に置かれているからこそこういった心境に陥るのだろうかとも思ったが、やはり湧いてしまった疑念という物を払拭することは簡単ではない。
そもそも、あの廃病院で岩場が何らかの異常性を受けた時点で警戒しておくべきだったのだ。あの時、岩場の中に何かしらの因子が埋め込まれたのではないのか。もしくは、皆が岩場だと思っているこの男は最早彼自身などではなく、別の存在にすり替わってしまったのではないのだろうか。
今もなお野呂井に懐中電灯を握らせ、目の前の闇を照らさせながら指示を出すこの男は一体どこに自分を導こうとしているのだろうか。出口などと言ってはいたが、本当にそこは出口なのだろうか。こいつは誰だ。一体誰なんだ。そう野呂井の中で生まれたこの思考は一歩もう一歩と歩みを進めるごとに大きくなっていく。
もういっそ、この男を置いて……。
「野呂井君。」
そんな事を考えていた最中、唐突に後ろから岩場が声をかけてきた。これに対して野呂井は柄にもなく一瞬全身が硬直する。
「……何でしょう。」
「恐らく、君は私の事を疑ってる。そうだね。」
深い静寂の中で更に静寂が深くなる。
「……何故、そう思うんですか。」
「君の事だ。きっと、事が上手く進み過ぎていると疑っているんだろうと思ってね。」
この岩場の発言も踏まえて、野呂井の中で疑いが更に深くなる。こうも寸分狂わず自分自身の思考を読み解かれると、全身に鳥肌が立ち冷たい汗が湧き出てくる。
「きっと、私はオブジェクトの影響を受けて、君を死地へと導いてるんじゃないかとか、最早私自身、別の存在とすり替わってるんじゃないかとか、色々と思考を巡らしている、そうだね?」
岩場の発言に対して何も返答することが出来ない。それでもなお、進む足を止めることは出来ずに岩場に操られるがままだ。
「君は私を疑っている。君は、私を化物の使いだと確信している。そうだね。」
野呂井の手が震える。周囲の寒気がそうさせているのか、岩場の一言一言がそうさせているのかは定かではない。だが、確実にこれらの環境は野呂井の体温を奪っている。寒いはずなのに汗が止まらない。心臓の鼓動も早くなっているのに体の芯が冷えていく。もう後ろを振り返られない。もし、ここで振り返った瞬間、そこに岩場がいなかったら。その行為が何かの異常現象のトリガーだったら。岩場が何かしらの怪物に姿を変えていたのならば。もう手などない。自分は、ここで死ぬのか。そんな不安がすさまじい速さで野呂井の脳内を駆け巡る。
未知は恐怖。そしてその恐怖は彼自身の想像力でさらに膨らみ、それを餌に恐怖は更に増長する。分からない。分からないことがとてつもなく怖い。
……神様……!
「……そうだ。それで良い。」
「え。」
岩場が、少し優しめの声でそう発する。
「我々の仕事は、常に警戒し疑い続けなければならない。君は正しい。」
まるで、心の中の氷が解けていくような錯覚に野呂井は襲われる。これも相手の作戦なのだろうか。それとも、岩場自身の本音なのだろうか。疑心暗鬼と信じたい気持ちが鬩ぎ合うわけではなく両立している状態など、野呂井は初めてだった。
「私達はあらゆるオブジェクトに対し、常に疑いの目を向け真を見定め対応していかなければならない。こうだと確信した事など数秒後には覆され、裏切られ、最悪自らの死をもってそれを痛感する。そういった世界だ。」
「……何故、今それを。」
「まあ、聞きなさい。だからこそ、君は間違ってはいない。この財団という組織に属し今もなお生きている君は、一番正しい思考をもって私を疑っている。それで良い。だがね、野呂井君。それでも尚、己自身を保つためには何かを信じなくてはならない時もあるのだよ。」
岩場の最後の一言に野呂井の感情は大きく反応した。表層にそれは決して現れはしないが、何か深く刺さるものがあった。
「君は今、未知、想像、不明、それらに支配され尚且つ思考を止めまいと必死に抵抗している。考えることをやめた瞬間、死に直結する事を知っているからだ。しかし、それらは君の中に生み出された恐怖を増長させ、君自身を縛る枷にもなりうる。恐怖とはそれ即ち、我々の内に存在するものであり、我々自身で生み出し強大にさせていく物だからだ。」
「……ですが、我々の周囲いる存在自体も、恐怖の対象です。所詮恐怖とは、外部からの刺激に対する我々の本能なのではないのですか。」
「そう。そうだとも。でもね。いや、だからこそ、それに飲まれてはいけない。そんな中でこそ、私達は何か1つだけでも信じられるものを見出さなければ、恐怖自体に押しつぶされ負けてしまう。恐怖とは、外部に存在する未知であり尚且つ我々に内在する己自身なのだから。せめて、己の中にある思いだけでも、味方につけなければならないんだよ。」
「……要は、貴方を信じろと。」
「そう。そうだよ。野呂井君。」
この会話を切っ掛けに、岩場は野呂井に足を止めるよう促す。
「……ここは……。」
「やはり、私の予想通りだった。信じてみるものだ。」
野呂井の眼前に広がっていたのは、岩場の供述から導き出された例の情景そのものだった。目の前には延々と続く闇。そして、野呂井からみて右には青色の自販機とベンチ、ゴミ箱に観葉植物が置かれた小さな休憩スペース。先程まで野呂井の手に握られていた光源だけが頼りだったが、いつもなら心もとない自販機の明かりがここでは安堵の火にすら思えてくる。
「私が見たのは、あの病院の未来でも過去でもない。この財団施設のひと区画だった。」
「な、何故、そんな事が……。」
「恐らく、私が予想しているオブジェクトの影響だろう。」
「オブジェクト?」
「ああ。私が管理を任された、オブジェクトの1つ。それの影響だ。」
「ならば、あの廃屋での出来事は……。」
「全部、それに直結する。何も関係がない。そもそも、あそこには怪現象の類なんてなかったんだ。だが、それが発生した。つまり、それの原因があの場所に派生してしまったという事だ。」
「博士。それは一体……。」
「おっと、話している余裕はないな。」
2人の後方から、おびただしい数の足音と何者かの雄たけびが木霊する。
「相手も焦っているようだ。行こう。野呂井君。」
「い、行くって、何処へ……!?」
「出口だ。」
そう言うと、岩場は前方に続く暗闇に向かって走り出した。思わず野呂井もそれに続き、全力で岩場を追いかける。そして、それを察してか後方から迫ってくる声の主もその速度を上げる。
「野呂井君! ライトを前に!」
「は、はい!」
岩場の指示で野呂井は前方にライトを向ける。
「ほ、本当に出口は……!」
「ああ、きっとある! まあ、ぶっちゃけ、賭けだがね!」
「賭け!?」
「ああ! だが、信じてくれ! きっと、きっと大丈夫だ!」
半ば自棄になっているのではないのかと疑いたくなる岩場の言動に、野呂井は呆気に取られながら後を追う。もうすぐ、本来の廊下が続いている箇所を超える。そこから先は、本当の闇だ。
「野呂井君!」
「はい!」
「我々は、常に真実を追い求めなければならない! そこに、無駄な事などありはしない! 私達の仕事は、常に恐怖未知と向き合い、それらを紐解いていかねばならない! 未知は人の歩みを止め、死を運んでくる! でも、だからこそ! 我々はその最前線に立ち、克服し、打ち破っていかねばならないのだよ!」
2人の全力疾走に呼応し、後ろの化物も速度を上げていく。最早、それの息遣いが肌で感じられる。
「野呂井君!」
岩場が叫ぶ。
「信じてくれてありがとう!」
気が付くと2人は夜の山の中にいた。空は雲一つなく、煌々とした月明かりが周囲を照らしている。
ふと、野呂井が振り返るとそこには、既に封鎖された下水道の入り口が静かに存在していた。
「流石に、この年になっての猛ダッシュは堪えるね。」
野呂井の隣には肩で息をしている岩場が立っている。
「ここは、一体……。」
「1035-JPの発生源だよ。」
「え?」
野呂井は再度、封鎖された入り口を確認する。
「いつから、気が付いていたんですか。」
「実を言うと、そこまで確信があった訳ではなかったんだ。だが、きっとそうだと。……さっき、君と話していてふと思いついたんだ。何も関係がない。無理やり関連性や共通点を探ろうとしているその大前提自体が間違いだったとしたら。無関係の事象が私達のフィルターでひも付けされているだけなんじゃないかってね。そう考えた瞬間に全貌が見えてきた、そんな気がしたんだよ。」
「でも、何故あそこで……。」
「あの廃屋に関して言えば、関連している水道局や下水道の主流を探ればすぐに結論が出るだろう。だが、あのサイトでの現象の原因と言えば恐らく……。」
「……貴方、ですか。」
「……そうだ。」
遠くでフクロウのほーほーという声が聞こえる。どことなく、「生き物」がいるという状況が2人には心地がいい。
「考えられる原因は2つ。私が1035-JPの担当でかつこの場所を一回は訪れている事。そして、あのオフィスにはこの発生源で採取した水質サンプルを保管していたという事。直接の原因がそうだとは言えないが、それが特殊な条件下での影響の拡大を招いたのだろう。恐らく、小規模な状態でね。」
「あれが、小規模……。」
「そうさ。私の予想では、あれが本格的にあのサイトに侵食していたとしたら、きっとあそこで勤務していた職員は全員あの世行きだっただろう。」
野呂井は改めてその事実に身震いした。そして、今脱出してきたあのサイトの同僚たちは無事だろうか心配になってきた。
「今、皆は……。」
「きっと、問題ないと思うよ。このオブジェクトの現象は謂わば空間の転移だ。規定空間の様相は取ってはいたものの、恐らくあの場所はこの発生源内部と同じ扱いになっているんだろう。そうじゃなければ、私達はここから脱出する事は出来ない。」
「……ですが、まだ腑に落ちません。」
「何がだね?」
「博士は何故、あそこが出口に通じていると思ったんですか。貴方が見た情景がヒントですか? それ自体、オブジェクトの見せた罠だったとは思わなかったんですか?」
野呂井は岩場の方へと向き直り、改めて彼に問う。その目は、どこか小さな不安を抱えている様子だ。
「そうだなあ。何でだろうねえ。」
岩場は、野呂井の質問に対して空を見上げながら答え始める。その視線の先には燦然と輝く星たちが見て取れる。
「信じたのかもしれないねえ。あの子達の事を。」
「信じた?」
「何故、あの廃屋であの情景をわざわざ見せつけられたのか。我々の仕事に無関係なものなど存在しない。今回はある意味特例だが、既存のオブジェクトとの関係性がその答えだった。あの情景を見せられた事には意味がある。私はそう信じたんだよ。いや、信じざる負えなかった。……他に選択肢なんて無かったんだ。」
そう言い終えると岩場は目を閉じ、先程とは打って変わって俯きかつ深く野呂井に対して首を垂れる。
「すまない、野呂井君。君を、酷く危険な目に合わせてしまった。君の言う通り、あれは罠だったかもしれない。その可能性を失念していた。最悪の場合、私達は未だあの深淵の中に取り残されて永遠にこの場所に……。」
この岩場の言葉を最後に、2人の会話が終了する。どこか気まずい空気が流れはじめ、互いに居心地が悪くなってくる。
「……取り敢えず、この事は上層部に報告しましょう。新たなオブジェクトの影響拡大が判明した訳ですから。」
「ああ。そうだね。けど、まずはここを降りないとだ。……さて、どうしよう。」
「通信手段なら私が持っています。……先程の対応力とは裏腹に、やはり詰めが甘いですね貴方は。」
「いやはや……すまん。」
謝罪を述べながら、岩場は再び深く首を垂れる。それとは裏腹に、野呂井は内ポケットからてきぱきと携帯端末を取り出し、財団サイトに向けて現在位置と救難信号を示す信号を滞りなく発信する。
「岩場博士。貴方は時々、感情的に走り過ぎるきらいがあります。」
野呂井が発言する
「……ああ。その通りだ。」
「今回の件も、貴方の直感的思考に引っ張られ、危うく私まで命を落としかけました。正直、未だにこの憤りは拭えません。」
「ほ、本当に……申し訳ない。」
「……ですが、助かったこともまた事実です。……貴方は、恐怖との付き合い方を、未知との向き合い方を、私よりも熟知している。その点に関しては、尊敬に値します。岩場博士。」
ほんの数秒、間をおいてから再び野呂井が口を開く。
「……礼を言います。……ありがとうございました。」
「……いや、こちらこそ。」
「……救援部隊が到着するまで、もう少しかかります。それまで、のんびりとしていましょうか。」
「そうだね。明日もきっと、忙しくなる。」
「ええ。」
2人はそろってその場で腰を下ろし、およそ30分後に聞こえてくるであろうヘリの羽音を待つことにした。
「それが、我々の仕事ですから」
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任意A任意B任意C- portal:1997942 (03 Aug 2018 07:33)
一旦、今の内容の続きも書くので批評は中断とします。申し訳ございません。
批評を再開しました。