錯誤

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 窓にぶつかっては薄く広がり、形を保てずに落ちていく雫。午後に降り出した雨は徐々に勢いを増している。叩きつけられては落ちていく水滴は、たわんだ波をガラスに描く。
 波戸崎壕は昨年サイト-8181配属になったばかりの新人であり、研究助手として職務に従事していた。一六時は本来まだ勤務時間であるはずだったが、彼の身体は休憩室のテーブルで伸びている。彼の上長はここのところ失態続きの新人に少しばかりの暇をだし、本日一六時をもって波戸崎研究員は有給休暇となっていた。
 休憩室はもうしばらく無人のままだろう。交代勤務制の第二当直が一八時頃から第一当直と交代をするため、そのタイミングより前にここを出ればよい。とにかく今は窓外を見ることに精神を集中させよう──そう考えていたところで、壁に張り紙があることに気がついた。
 感情感応技術実証試験中。
 工学技術部門が出したものらしいその告知には、とくに詳細が載っていない。下の方には、さいきん工学技術部門がしつこくマスコットにしているAICのデフォルメイラストが載っている。
 思わず波戸崎は顔をそむけた。以前まではむしろ好ましいとさえ思っていたはずだが、いまは真逆の感情を惹起される。
「こんにちは。サー」
 とってつけたような「サー」という発音で、波戸崎はそれが人間による発声でないことを知る。どこから話しかけられているのかと思ってあたりを見回すと、窓の外で雨に打たれている少女がいる。
「きみは」
「サイト-8181人工知能運用部門AIAD所属 人工知能徴集職員AIC Eveイヴです」
 以後お見知りおきを、という言葉が終わりきらぬうちに、新人は「いや」と返した。
「けっこうだ。いまは話しかけてほしくない」
 なんだか気分の悪くなる光景だった。女の子がひとり、雨の中で濡れそぼっている。だが波戸崎が気に入らないのは、あえてそういったところに立っているAIC自身に対してだった。サイト-8181の研究保安施設はすべて地下化されているため、実はこの窓はフェイクにすぎない。映っている光景はディスプレイ上に流れる作りものだ。
「それは失礼いたしました、サー」
 Eveはまた姿を消そうとするが、波戸崎は知人に似たこのAICに質問があったことを思い出して、思わず「なあ」と呼び止める。
 あるいは、けっきょく吹っ切れていない彼の弱さがそうさせたのかもしれない。半透明になりかけていたEveはふたたび透明度を落とし、わずかに首をかしげた。
「……やっぱり一つ聞いても」
「なんでしょうか、サー」
「なんでサーって毎回つけてるんだ」
 ほんの数秒の沈黙のあいだに、AICは職員の純粋な疑問がセキュリティ・クリアランスに反するものでないのか確認をとっていた。
「サーは敬称です。親しみと敬愛を込めて、人間の職員にはサーをつけるべきと考えました」
「きみは女性にもサーと? メム、とかではなく」
「メム? 波戸崎さまはそう呼んだ方がよろしいでしょうか、メム」
「いや、そういうことではないんだ」
 なるほど、と波戸崎は納得した。まだこのAICは、学習の途上にあるのだ。以前、彼の上司の女性にサーと呼びかけて無視されていたことにも説明がつく。
「メムは女性を呼ぶときのものさ」
「なるほど。たとえば波戸崎さまは、配偶者の方を呼ぶときはそうされるのでしょうか」
 研究助手の身体が一瞬痙攣したことを、Eveは見逃さなかっただろう。すこしだけ作為的な所作になったものの、波戸崎は緩慢な運動を続けている。
「そういうわけではないね」
「申し訳ございません、なにかお気に障るようなことを申し上げたようです」
「いや、いいんだ」
 無理やりに微笑んだ波戸崎が頭を起こすと、ふたたび壁の〈感情感応技術実証試験中〉という文字が目に入る。感情感応技術が意味するところは不明だが、おそらくEveがここに配置されているのは、ここで休憩する職員を被験者として使うことを狙ってのことだろう。ということは、このやりとり自体だれかにモニタリングされている可能性が出てくる。
 波戸崎は前頭葉から血が引いていくのを覚え、それからかぶりをふった。
「人間の感情は学べそう?」
「とても難しいですが、いつも学ぼうとしています。ご協力感謝いたします。サー」
 表情にとぼしいAICのアバターモデルが、わずかに口角を上げることで笑顔を表現していた。それはよかったと波戸崎はうなずきながら、椅子の背もたれに寄り掛かった。
「いまぼくがどんな感情だったかはわかるか」
「さきほどまでは、嫌悪感と失望感、もっとも強いものとして喪失感を観測しておりました」
「当たり。いまの技術はすごいもんだ」
 そう言って自嘲ぎみに笑いかけたあと、波戸崎は笑顔を消して黙り込んだ。ほんの少しだけ気分が晴れているような気がして、それがこのAICの狙いであったのか確かめたいという欲求に駆られる。
「なあ」
「はい。先ごろから観測されている感情についてでしょうか、サー」
「……いや、そうだな、それも聞いておこう」
好意であると推測されます」
「面白い冗談だね」
 それからまた、数秒の間があった。彼の脳裏にいくつかの記憶が想起され、それらが眼前の少女のモデルへと収束していく。感情感応技術とやらが何を示すか分からないが、この意識もまたAICに筒抜けなのだろうか。
「──やっぱり、そろそろ行くよ」
 立ち上がった波戸崎は、無表情な少女に会釈をした。顔色を変えずに頭を垂れたEveは、「いってらっしゃいませ」と彼の背中に声をかけた。
 有給休暇はもう必要なかった。しかし厚生部門の職員は嫌な顔をするだろう。それから彼の上司も。
 波戸崎は気が付かなかったが、窓の外の風景はいつの間にか晴れ渡っていた。Eveはいまや雨にぬれることなく、照りつける太陽のもとに立っている。波戸崎の姿が廊下の奥に消えると、アバターモデルは周囲の景色にフェードアウトした。


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  1. portal:1988496 ( 25 May 2018 06:21 )
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