夜が呑む

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此の世をば空しきものとあらむとそこの星影は怨言かごとがましけり

 体表面へと張り付く嫌な疼痛は、皮膚を薄紙みたくじわじわと削ぎ落とす感覚にも似ている。ジャケットやコートといった本来そこで防寒を担うべき衣服が纏われず、場違いにも過酷な外環境へ曝け出された身体にシャツの上から剃刀じみて押し付けられるのは、ぞっとする程に鋭く透き通った冷気である。それがまるで血液を奪えぬ分の抵当とでも言いたげに、内へ抱えたなけなしの温もりを乱暴にも奪い、雪空の下へ孤立するこの異物を己で塗り潰さんとしている。
 当初は嫌悪と好奇と多少の優越感をその視線に載せ、入れ替わり立ち替わりに辺りへと集っていた通り掛けの善良な野次馬たちも、目新しい見せ物も無くただ虚ろな顔を俯かせて小声でぶつぶつと呟くだけになった異常者の様相にはもう見飽きたらしく、次第にその立ち姿は疎になり、今ではこの路を行く者皆がそこにあるのは路辺の屑か何かであると申し合わせでもした風に誰も足を止めず、顧みない。あるべからざる空間に投げ出され、緊縮に震え続ける存在を気を掛けてやる事もない。
 そんな自らの置かれた身体状況すらも、主観的な認知はまるで己とは異なる第三者が一枚のスクリーンを隔てて眺める記録映像か何かのようで、その中に呆然と映る孤立した自身の身体が、生きているのか死んでいるのかも判別つかない。ただ身体と位置座標を重ねてそこにあ
る意識が、一切の理解が届かぬ状況との対峙に打ちのめされて朧に霞んでいる。さざ波も立たぬ程微細な、何か振動じみた不快なものが自己を苛むのを除けば驚く程に静まり返った思考のなかで、ひたすらに幻を、ほんの寸刻前に確かに自らの視覚が、聴覚が、嗅覚が直面したばかりであるはずの有り得てはならない、耐え難い光景を  そんな事は出来やしないと薄々理解しつつも  懸命に咀嚼しようとしている。何度も何度も淡々と脳裡で記憶を巻き戻しては、踏み固められた積雪の路面上へその映像を投影するかのように、機械じみて繰り返し再生をし続けるのだ。

 まず真先に己の知覚が認識したのは、シーリングライトの白光が照らすダイニングの場にはあまりにも不釣合いな、これまでに聞いた覚えの無い〈ぼばん〉という水気を孕んだ大きな破裂音だった。その音の極めて唐突で激しいものだから、同時に視界へ差し込む半ば透明な赤色すらも、聴覚からの連想が視覚にもたらした印象、幻に近い何かだと咄嗟に脳が判断した程だ。何か硬さと柔らかさを具えた重量ある転倒音  明らかに、フローリングと音源たる物体の衝突を思わせる  崩れ落ちるような音、陶器の鋭く甲高い破砕音が続いたその時ですらもまだ、思考は無防備なままにシンプルな状況把握を試みていた。
 音への反射が咄嗟に防御姿勢へ動かした両掌を数秒の間を経て顔先から退かした時、まず覚えたのは眇々かつ強烈な居心地の悪さ、違和感である。それが何かの欠落によるものと察して初めて、目前の光景に重要なものが足りないと気付いた。あの音が炸裂したその時、この空間では間もなく家族三人の夕食が並ぶという金曜夜の日常風景が営まれていた。視界左方、キッチンからダイニングテーブルへと向かう半ば程にはサラダボウルを抱えた妻が立っていたはずだ。その側にはキッズチェアに載せられた幼い長女が身を乗り出し、手慰みに掴んだベビーフォークをこつりこつりと卓上へ突き立てていた。たった今まで確かにそこにあった、そのあるべき両者の顔がこの視野範囲に映らない。妙に景色が赤い。その視界の隅に今だ被さっている自らの両掌も同じく赤い。その赤は微細な、歪で汚らしい飛沫群が皮膚へ張り付き形成している。空間に充満した妙な生臭さが鼻を突くなかで、ぬるい水滴が掌と顔を滴る。そこでやっと、その赤がすべて場に飛び散った液体であると認知したのだ。
 ぎこちなく首を傾ければ、卓の陰には見慣れた黒いデニム地のエプロンを纏う細く小柄な身体が、不格好にも四肢を投げ出している姿が見える。キッズチェアには変わらず長女の纏った縞柄シャツと茶色いコーデュロイのオーバーオールが見える。二人のほぼ全身像が、自らの視点から見て取れる。それなのにどういう訳か二人をその二人とする根幹たる顔貌が、頭部だけがまるで不可思議に仰け反り陰へ隠れでもしたかのように視認出来なかった。妻と、その妻の血を色濃く受け継いだ娘の、見慣れた明るい髪色の巻き毛が見えなかった。身体がある場所に、被さるように、流れ出るように赤が重なる  それは、血だ。二人の身体から零れ落ちた夥しい血だ。血と、それに準ずる何らかの細切れの固形物の混合体だ。
 頭部が見えないのではない。存在しないのだ。
 景色が一変するとはこの事を言うのか、激しい乱流の中にでも意識が放り込まれたが如く、その途端急速に認知が引繰り返るのを感じた。瞬時にして、記憶を遡ってあの部屋に鳴り響いた〈ぼばん〉という破裂音が何なのか、自らが眼前に視認したものが果たして何であったのかを、尽く理解してしまった。

 それは妻子の死であった。あの瞬間、自らのこの双眸は笑みをこちらに向ける二つの頭部が、四つの眼球が、歯が、頰が、赤く水っぽく汚らしい破片を伴う飛沫となって同時に砕け、破裂音と共に左方向へ跡形も無く爆ぜ散る様をまじまじと直視したのだ。
 フローリング上の妻の胴体は、かつては数え切れない感情をその内に走らせたであろう薄桃色の散乱物と、そこに絡まる鮮やかな赤、砕けた陶器の白、差し色じみて重なる零れたサラダの黄緑色に取り囲まれながら崩れ落ちていた。その隅では奇妙に捻じ曲がった眼鏡のワイヤーフレームが、一点の素気無い銀光沢を放っていた。妻から斜め上方に視線を向ければ、キッズチェアへ載る可愛らしい小さな胴体に場違いな程グロテスクな赤黒い断面が形成され、白くU字列と並ぶ小さな下顎乳歯の残渣が見え隠れしていた。長女であったものは肘掛へ寄り掛かるようにゆっくり横へ擦れ動いたかと思うと、そのまま柔らかな音を立てて床へ転げ落ちた。眺めているとも呼べぬ、ひたすらに硬直した視界の出来事であった。肺は最早呼吸の責務を放棄し、ただただ細かく不規則な痙攣に合わせて空気が気管を出入りしている。あまりにも現実味が薄く、理解だけが先行して一向に精神が受け入れられぬ状況に起こるべき感情の起伏すらそこには起こり得なかった。
 視界の右方でふと、動きを見せるものを目が捉える。斑らなベージュ色のカーテンが、半開きのまま呼吸するようにゆったりと膨らみ、そして萎む。閉められていたはずの窓を通過して微かな風が入り込み、その布地を揺らしている。隙間から覗く窓が、内側へ向けて大きく割れている。薄いガラスの穴の奥に、部屋の中にまで流入しそうなどす黒い威圧感を内包した重苦しい夜闇が控えている。本来そこにあるはずの目立った街の明かりすらも今は意識されない。その向こう側にのみ注意が向けられる。漠然と、その見えているものの背後、はるか先の方からこの状況を引き起こした元凶たる存在が、明確な殺意を以て自らを凝視していると感じ取った。  目の前の妻子の姿、本来ならば自分も諸共にこうなるはずだったのだ。そして次こそは  これから、己もそうなるのだと。

 恐怖なのかも判らない、押し寄せる慄然の波に瞼を見開いたまま呆然と闇の先を見つめるその目前で、何かが鋭く音を立て、捻じ曲がる空気と共に爆ぜた。

白い、丸みを帯びた光が見えたような気がした。

  しゃり。しゃり。しゃり。しゃり。
 雪が降っている。空間への存在すらも否定してくるかのような暴力的な冷気が相も変わらず全身を責め立て、滑稽な激しい震えが己の意図と無関係に滲み出してくる。半ば焦点のずれた虚ろな視界は、重力へ抗う精気も無く下方向へばかりにぐらぐらとぶら下がっている。そこに映る左右上下に揺れてばかりの光景にあるものは、やはりこれも変わらず泥と積雪が入り混じる殆どモノクロじみた汚い路面ばかりであった。認識される物すべてが己の内に耐えがたい疎外感を発生させる、何一つ見慣れぬ風景であった。
  しゃり。しゃり。しゃり。しゃり。
 何かが違う。朧ながらも記憶に引っ掛かっている光景から変化があった。ここはあの、爆ぜるような音と共に突如として放り出されたあの路ではない。自宅マンションのダイニングに、明らかな室内環境に位置していたはずの自らが主観上瞬き未満の刹那のうちにその場へ立ちすくんでいた、あの商店が立ち並ぶ大通り脇の歩道ではない。蔑視の針が植った筵に座するかのような環境で、その時足下に見えたのはこんな継ぎ接ぎに荒れたアスファルトではない、もう少し小綺麗な石畳の並ぶ整えられた路面だったはずだ。
  しゃり。しゃり。しゃり。しゃり。
 見える景色が奥から手前へと流れるように動いている  俺は、移動している。ふらつきながら、その脚を突っかえ棒か何かにでもするように、一歩一歩を前方へ転倒する身体の支えとしつつ低速によたよたとその歩みを進めている。そういえば先程から意識外に繰り返し規則的な音が聞こえていた。改めて注意を向けてみれば、それは自らの踏み出す足が路面を擦って発した乱雑な跫音だ。しかし、それだけではない。跫音は二重に聞こえる。乱雑な方は当然俺のものだろう。ならばそれに合わさって聞こえ続ける、静かで整った歩調のこのもう一つの音は一体何者であろうか。
 視野前方に黒っぽいものが翻るのを見た。何かと目を向ければ、その下部には男物の革靴を履いたらしき足の踵が右左、右左と薄暗闇の中交互に顔を出してくる。翻っているのは外衣の裾だ。コート、というよりは外套とでも呼んだ方が似合いそうな衣服を着用した人物が、己の前方で先導するかのように歩を進めている。自らの足はこの人物の歩む跡を無心で追い掛けている。果たして俺は何があってこのような行動をとるに至ったのだろうか。記憶は曖昧である。
 疲弊した海馬の中身を探ってみれば、微かながらその顛末が復元されてきた。あの時理解の埒外にある出来事との対峙で意識すら朧気になっていた自身の元へ、誰かが近寄り声を掛ける。長身の男が自分のすぐ側に膝を突き励ますように肩に手を掛けて、身柄の保護を持ち掛けてくる  薄らと、そんな断片的な映像が脳裡に浮上した。そうだ、確かにその記憶に映る人物は、今目の前にあるような長い外套を身に纏っていたはずだ。一時は路上で野次馬が集る程の半狂乱を引き起こしていたような俺に、一体何を思ってそんな関わりを持たんとしたのかは想像もつかない。だがどうも、そこで提示された言葉はすべての精力を使い果たしへたり込むその時の自分にとって魅力的な、縋り付き追従したくなるような提案であったらしい。
 ふと、記憶のその光景につられて自らの肩に手を当てれば、そこには覚えの無い厚い臙脂のストールが羽織るように掛けられていた。元は恐らくこの男が使っていたものだろう。冬物とはいえシャツ一枚で二月の寒夜に置かれた自らの事を案じての処置なのかもしれない。触れるまではそこにある事すら気付きもしなかったというのに、この冷気の中では無いに等しいその布切れ一枚が俄に暖かみを帯びる。

 行く路はその角を曲がる度に、本道から外れた街並みの奥深くへ潜り込む程に、より一層飾り気の無い生活道路の気を増してゆく。ここまでの道順はとうに覚えていない。狭隘な路を挟んだ左右には、大きな通りでのそれよりもずっと遠慮無く生える電柱と、そこに付随した街路灯の光の列が先の方まで一定のリズムを刻んでいる。その光に不充分ながらも顔を照らされて、今もまだ居住者が存在するのか疑問に思わせる  これも“看板建築”あたりの名で呼称するのだろうか  古寂れた二階建ての小ビル、住宅兼店舗等が建ち並ぶ。日々有り様を更新する世の中から取り溢された残余とも思えそうなそれらの合間へ、唐突に四・五階建てのビルやマンション、個人宅がぽつぽつと挟まってくる。先の小ビル群に比べれば幾分かまだ新そうなそれらすらも、見るからに相応の月日を閲した時代遅れな空気を漂わせている。
 まだしばらくは交差路も無く直線道路が続くという途中で、先導の男は突然歩みを緩めて右方向へ逸れ、そこに現れた建物のガラス戸の押し板に手を伸ばした。どうやらここが行き着く場所らしい。男の身体が横を向いた事、そしてガラス戸を押し開けながらも一瞬“ここだ”と示すかの如くちらりとこちらを見遣ってきた事で、恐らくは初めてその男の容貌を視認するに至った。
 長身、という印象は確かに間違っていない。無骨で色味に欠けた街路灯の光が古風な中折れ帽に降り注ぎ、下に濃い影を落とす。その中に、さらに深い陰影で刻まれた皺の輪郭が浮かんでいた。隙間から真直ぐこちらへ向けられる眼光らしきものが認識された。かなり細身の老齢な男である。詳しくは見えていないはずのその表情は眼光の鋭さとは相反し温和というべきか、こちらの警戒と恐れに囚われた心を寛解させる何ともいえない魔術めいた効果すらも想像させる。明確にこの場においては彼こそが己の保護者である、縋るべき蜘蛛の糸であると用心も根拠も欠落した安心感を抱かせてくる。事実、手荷物も土地勘すら持ち合わせていない現状では男が提示した厚意らしきものに甘んじるしかない。それ以外の対処の術があったとしても、それを独り思議するだけの体力はもはや今の自身に欠片も残っていないのだ。

 ガラス戸が重い軋みを上げその内へ男を飲み込んだ。まだ男の眼光がこちらを招き入れるような意図を帯びたまま脳裡に残像を結んでいる。一度そこで立ち止まって見上げてみれば、そこにあるのはここまでの道中で飽きる程見掛けたものと大して代わり映えのしない、モルタル壁の二階建て小ビルであった。
 代わり映えのしない。それだというのに他の同等の建物と比べても何だか際立って矮小で侘しい。そう思わせるのは、それなりに新しく照明の豊富な中層マンションに左方を、赤煉瓦に光沢を持たせたような古臭く陰気な外壁タイルの中層ビルに右方をと両脇を隙間無く固められているからだろう。図体大きく見下ろす二建築からの陰と陽の威圧に挟まれて、この一軒の放つ雰囲気はまるで谷底の岩陰のようなものだ。その不本意そうな対比がより一層の憐憫と、他の建物よりも環境同化を抗拒する意固地さと呼べる所感を誘うのかもしれない。
 外見上二階部分は汚れた白壁と手摺りの付いた質素な窓くらいしか見るものが無い。その窓の内側にいかなる空間が存在するのかも窺えなかった。辺りの邪魔な光源による反射と夜の暗さで見辛いものの、どうやら内側にブラインドが下げられているらしい。一階部分の敷地はほぼガレージに占有され、その空間すら人ひとり通り抜ける程度の隙間を脇に残して窮屈に押し込められた社用車らしき錆の浮く白色バンに埋められている。隙間には資材や工具類らしきものが壁に掛けられ寄せられる様子がぼんやりと垣間見え、工業関連か建築設備系か、そういった方面の業務内容が素人目にも窺えた。ガレージの右方に残された僅かな幅のスペースには建物内部への玄関口として先程のガラス戸が設けられている。金字に塗られた社名表記がガラス板に半ば煤けてこびり付くその向こう側に、上階へと続く階段が延びているらしい。男が点けたのであろう薄明かりの中で、その段を上ってゆくあの外套の後ろ姿が見えた。

 どうぞお掛けください、と指し示された先は今時中々お目に掛かれないような大袈裟な縫い目に装飾された黒革のソファだった。
「お使いください。今、熱いお茶でも用意致しましょう」
 差し出された濡手拭いは温水が使われたらしく、殆ど凍りつく寸前の指先が触れた端から火を当てられたような熱を感じ取る。それでいてその感覚が何とも心地好いのはこの熱が確かに体組織の回復を促している事の現れかもしれない。ひとしきり快いその温もりを堪能するうちに、視界内に映る己の格好を見てその手拭いの渡された理由を察した。見下ろすシャツは見るも無残という程に汚れ切っているではないか。路上で転げ回ったような泥に満遍なく塗れ、胸元辺りには一切記憶の無い嘔吐の跡すら張り付いている。顔を拭えばそこにもまた同様の酷い汚れが転写された。動転していたとはいえ、少し気持ちの凪いだ今改めてその様相を自覚すると、その姿を周りに晒していた自身の姿に急速な羞恥が湧き上がって来る。
 汚れ切った染みの合間に混じるまだ赤黒みを残した茶色いものを己が無視したのか、気付かなかったのか判らない。

 給湯設備のあるらしい間仕切りを挟んで、男が何やら戸棚を探り音を立てている。目の前のローテーブルには緑のクロスを敷いた上から透明なビニールマットが重ねられている。これなら染みになる事は無いだろうとはいえ、一通りの拭き取りに有難く使用したこの汚い手拭いを無作法に目の前の卓上に置く訳にもいかず、手元で所在なく折り畳み丸めての無意味な動作を繰り返す。茶を出してくれる、と男は述べていた。それならしばし、また独りの時間が発生しそうだ  これもまた失礼に値するとは心の中で咎めつつも、環境への一種の警戒と薄らとした好奇心が視線を漂蕩させる。
 腰掛けるソファは木肘の肌理や硬い張り革から醸し出された独特のくたびれが使い込まれた年月を声高に主張し、まるで何年も時が止まっているかのような演出効果をこの場にもたらしている。見渡してみればソファだけではない、この部屋自体その構成物品の一つ一つに至るまでもが時代の流れに捨て置かれた品々を寄せ固めた集合体と呼べる有様である。焦茶の塗装に光沢する家具類も色褪せた調度品も素朴な板壁も、全体的に漂う配色がくすんで燻製のように印象が赤茶けている。まだここは平成の時代に辿り着けていないのだ。幼い頃実際に何処かで立ち入った風景か、あるいは何かのドラマや映画あたりのワンシーンとして記憶を植え付けられていたのかもしれない、自らが抱えた偏見の中にある“昭和の古い応接室”というものをそのまま目前に作り上げたかのような、それそのものの現出と呼べる場所だ。
 部屋の隅、棚や壁面諸所に並ぶ民芸品らしき類の物品群が捉えられる。変わった意匠の木彫面に、木板に取付られた両刃の小刀、丸木を荒削りした像に竹細工、文様の染め抜かれたタペストリー。郷土資料館にでも収蔵されていそうな品々は、展示キャプションでも側に無ければその呼び名も判らない。

  もしかすればずっと以前からここは時代に取り残され続けている、という事すら有り得るのではないか。
 おかしな感覚が湧き上がった。部屋の内装や調度品がどれもこれも前時代的というのは既に述べた。それとはまた別の言語化できぬ部分で、例えるならばこの空間に滞留するものが昭和どころではない、いっそ神さびたとすら表現できる程の恐ろしく古い空気が時間を掛けて醸成された果ての産物であるかのように感じるのだ。
 何がそのような奇妙な考えをもたらすのか挙動不審にも辺りをぐるりと眺め廻してみる。恐らくはその感覚を生む出処と  元凶ではなくとも確実に一因ではあるだろう  そう推測させるのは、やはりあの奇妙な民芸品群だ。
 こういった場所にこのような飾りが配置されている事は別段おかしくはない。会社の建つ場所や発祥となる土地、あるいは内部の人間の方に縁がある物品なのかもしれない。社として他の諸々と関わりを重ねてゆけばその過程でこういった記念品を贈られる事だってあるだろう。ただ一点、こういった民俗的なものに己が暗い事を差し引いたとしてもそれらの品々が驚く程見慣れぬ品々ばかりである事が、居心地の好さに似た懐旧の念を絡ませる部屋そのものの気の置けなさと微かな齟齬を惹起して、奇妙な体感を招いているように思える。これがコケシやら犬張子やら木彫りの熊やら、というものならまだ自分でも馴染みがあるのだが。

 突然にゅっと眼前へ伸びた腕に、考え事ばかりに意識を取られていた身体が僅かに跳ねる。知らぬ間に斜向かいへ立っていた男がざらつく土物の湯呑を差し出していた。
「寒いでしょう。まずは一息お寛ぎください」
 路上で掛けられた声はこのようなものだったか、何とも形容し難い不思議な声つきだ。初対面時の聴覚情報を覚えていない以上ほぼほぼ今初めて耳にした、意識したそれであるとは思えない程の強烈な既知感と安心、親しみを感じさせる。もう何年も共に過ごした家族、友人の声に並ぶものとして自身の脳がこの声を処理しようとする事に感情は些か混乱を来す。茶の引き換えに汚れた手拭いを返却すると、湧き上がる己の動揺を咄嗟に気まずい物を陰へ隠すかのように大口の茶でごくりと呑み込んだ。
「見つけられてよかった。どうかご安心ください、ここには貴方を害せんとする輩はおりません。私は、貴方のお力になりたいのです」
 いつの間にかコートも中折れ帽も何処かに片していたようで、背広姿へ替えた男は向かいの一人掛けソファに座る。蛍光灯の照らす下、帽子の影も無く一メートル前後の距離に対峙した男の姿をぼんやり見て、随分彫りの深い顔だ、と的外れな印象ばかりを浮かべていた。警戒を和らげる表情も真直ぐ向けられる視線の質も変わらないが、光のコントラストが下がった事で今では風貌の温和さがより目立つ。街路灯の下では眼光と表現された眼もここでは鋭さが幾分か丸みを帯びて、代わりに真直ぐ自分の内面を見通すか、むしろ自らを透過したその背後の暗闇をじっと見詰めているかのように錯覚させる濃厚なエネルギーを発していた。
  聞きたい事はいくらでもある。心が幾分凪いだとはいえ正直今もまだ何一つの事象として理解出来ていないのだ。ただそれらは今決して思考してはならない。少しでも気を抜けば意識の表層へ浮上したがるそれらのものへ目隠布を覆い被せて押し戻そうとするが如く、自らの脳は目に映るものへの無邪気な観察という不必要な行動に思考を逃避させ、浮上してくる諸々が入り込む余地を無くそうとしている。そうせねば、まともに正気を保てないだろうという事だけを本能に近い部分が判断し制御していた。
 返答しようとした。何と答えるべきか、そう思いながら口を開けたが、漏れ出たのは あっ、あっ、という喘ぎじみた音だけだ。その様子を見ても男は、そうなるのが当然だという風に顔色を崩さずこちらの言葉が落ち着くのを待ち、それからゆっくりこちらを宥めるように「失礼、そういえば御挨拶がまだでした」と言葉を続けた。男は静かに胸元へ手を当てる。
「照井と申します。貴方様が大変な困難に見舞われていらっしゃる様子を偶然拝見致しました事から、何か私に出来る事があればと思わず声をお掛けしてしまいました。説明も不充分なままに御足労いただきました件も併せて、まずはその非礼をお詫び申し上げます」
 慇懃な言葉と共に、心を痛めたような表情が浮かぶ。それが呼水となって、喉元に詰まっていた言葉の欠片が辛うじてまろび出る。「あな、たは」
  貴方と、似たような境遇の者です。先程貴方はとても危ない状況にありました。私としては、それから出来る限り貴方をお護りし、お力になりたいというのが率直な気持ちでございます。かつて私自身が、そのように地獄の淵から救い出された経験があるのです。苦しむ者に寄り添いたい。これは私のエゴイズムというものでしょう。貴方がそれに従う必要はありません。ただ、少しお話ができればと思うのです」

ご無事であったのが幸い

こんな、雪の夜でした

「多恵さんと夢叶ゆめかさんは、本当に残念な事でした」


 
 
 

 

奥州にていろいろあれこれなんちゃらかんちゃら
 
 
 
 
 
 

彼誰時
白息

 エントランスや共用廊下の灯が眩しいマンションと赤い光沢タイルの古ぼけた中層ビルに左右を挟まれて、まるで谷底のようなその空間には何て事もない、常日頃見慣れた細い路地がただ奥へ奥へと伸びているだけだ。
 突き当たりの通りには早くも疎に車が行き交い、そのすぐ手前のローソン側にはこんな時間から数人の酔っているらしき集団が安物の節分セットをぶち撒けて、厚紙の鬼面を掲げた一人に小包のまま炒豆を叩き付けてげらげらと笑い転げている。あまりにも平凡な風景に緊張は急速に萎え、数秒前の己がわずかとはいえ一瞬怯えにも似た感覚を抱えた事に馬鹿馬鹿しさすら湧き上がった。

茫漠とした暁の空に寂寥と残る明星の瞬きも、未練がましく張り付いた青を湧き出る日の光が徐々に追い遣るに従って白々しい黎明の空へと溶かされてゆく

直に、夜が明ける。



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