人生を丸ごと操られた俺たち、トラックに轢かれる寸前に異世界転生!?第二の世界で人生を取り戻せ!

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どよりとした鉛色の空のもと、俺達はレストランへの道を車で進んでいた。

息子の誕生日で、息子とは現地集合。この車には俺と女房だけ。そうでなければならなかった。なぜなら、この車はこれから事故に遭う。トラックとの正面衝突だ。そんなことを知っているのは、俺達が奇妙な現象に巻き込まれているからだ……というか、俺の方はそれに巻き込まれにいったのではあるが。

その婚姻届に名前を書いた夫婦は、二十数年の決まった筋書きを辿る安寧を得る代わりに、その安寧が終わった瞬間に死を迎える。それも、トラックとの正面衝突で。俺達夫婦はそういうSCPオブジェクトの影響下にあるのだ。俺は末期の脳腫瘍から逃れるため、妻は死刑相当の罪から逃れるため。あの婚姻届は健康な肉体と精神をもたらす他に、筋書きの通りに人生を歩ませるために運命を捻じ曲げる。完全に錯乱し、おまけに死刑囚だった女は俺の妻に。俺はといえば財団のエージェントをクビになって、まあ会社員だ。トシ相応に腹も出た。

その妻がいつもどおりの微笑みを向けて、俺に聞く。

「あなた、大丈夫?」

「ああ、どうした?」

「何も喋らないから。何頼むか決めたの?ロブスターが有名な店らしいじゃない?」

「うん」

そんなことを言われたって、これから死ぬのに食えもしない料理のことを考える奴なんているわけがない。妻は、やはりこれから起こることを知らないのだ。今すぐ妻にこれから起きることを教えようとする衝動に耐えるのは、なかなかに堪える。知らないのなら、そのままその時が来るまで……これが俺なりに考えた末の結論だった。

こうなることは、前の職場のコネというか、いい先輩がいたというか。その人から教えてもらったのもあるが知っていた。だが、それだけではない。「こうなるだろう」という予感があるのだ。妻は鈍いからその辺りに気づいている様子はないが、俺には大きな節目・イベントの前には「そうなるかもしれない」という予感が感じられた。

そして、それはいつも正しかった。

「そこでメニューを見ながら選べばいいさ。それもまた外食の醍醐味だと俺は思うんだけどね」

「そうねえ、でも寂しいから会話はしてほしいな。せっかく……あの子のお祝いなんだし」

「そうだなあ。それじゃあお前は着いたら何を頼むんだ?」

「えっ?ああ、そうね。んー……」

妻はそのまま考え込んだまま、黙り込んでしまう。

「なんだよ。お前も何も考えてないんじゃないか」

「あなたの癖がうつったんじゃないかなあ。へへ」

「俺のせいか?」

頭の悪い女。昔はそう思っていたこともあったが、今はどうだろうか。好ましいと思うこともあるし、なんでこんなこともわからないのかとイライラする事もある。だが、どうしようもなく愛おしい。この異常な存在の与える影響なのか、それとも本物の愛なのか。そんなことを考えるのはとうにやめた。無意味だからだ。仮にこの愛が偽物だったとして、今までの年月は?子どもたちは?俺たちが交わした言葉や、初めて裸で抱き合ったあのときの気恥ずかしさは?それまで嘘だと疑うことは、俺には出来なかった。そして疑うべきでもないのだ。

俺はそれからしばらく、とりとめのない話をしながら時が来るのを待った。子どもたちの学費、長女の彼氏の髪の長さ。それから進入しようとしていた交差点に、黒いSUVが不意に突っ込んでくる。ブレーキを踏んで周囲を見渡すと、目に見える範囲に不自然にこちらを見て立っている人間が数人確認できる。これはつまり、この一連の事象を食い止められるかどうかの実験を兼ねた、財団の妨害工作だろう。つまりそろそろということだ。

「なに?あぶないねえ」

「まったくなあ」

我ながら白々しくうそぶきながらさらに目を周囲に走らせると、正面方向、その遥か向こうにトラックが見えた。直感が囁く。あのトラックだと。財団としては交差点で渋滞を起こし、あのトラックをどこかにやってしまおうという腹なのだろう。まあ、ご苦労なことだ。俺のうなじはしかし、迫ってくる死の予感のせいか産毛の一本まで逆だってきていた。思わず、妻を見てしまう。こんな時、こいつがおかしな真似をしないか見ていなければいけないというのと……あとは俺自身がどうしようもなく不安だったからだ。

妻は、俺の予想に反してただ正面を向いているままだった。いや、目を細めて、遠くのものを一生懸命見ようとするときのこいつの癖。まさか。

「おい」

「なに?」

「お前、何見てるんだ?」

「なにも」

びっくりした様子で俺を妻が見る。隠し事をしている時によくするように、目は右往左往に泳ぎ、決して俺に目を合わせようとしない。明らかな嘘だ。他の誰かにはわからなくても、俺にはわかる。

「お前、まさか知ってたのか」

「……うん」

「どうして」

「見えていたから、ずっとね。誰かが教えてくれていたような気がするけどどうなんだか」

「どうして、そんな。ずっと普通にしてたじゃないか」

「だって、あなたを怖がらせたくなくて……」

「バカ野郎!おまえなあ!余計な心配しやがって!」

黙ってずっと気を揉んでいた俺こそが、ホントのバカ野郎だということはよくわかっている。だが嘘の苦手な妻が、俺にここまで隠し通してくるとは思わなかった。これでは、なんというか台無しだ。つまらない男の意地だが、妻ばかりには最期の瞬間まで穏やかでいてほしかったのだが……。

「とにかく降りるぞ!仕切り直しだ。俺がトラック側に行くから、お前は反対方向に逃げろ!」

「えっ?え?」

「分かんねえやつだなぁもお!囮になるから先に逃げろ!」

バン!とわざと音を立ててドアを車に叩きつけて、俺は交差点の中で車を降りる。そしてそのままトラックの方に駆け出した。これで少なくとも数十秒は時間を稼げる。先に俺が轢かれれば、あいつはその分長生きできるはずだ。そう考えてずんずんと車道のど真ん中を歩く俺の袖を、ぐっと引くものがあった。

「待ってよ!」

「だから何してんだよ!」

妻が追いすがり、俺の腰に抱きつくようにしてその場に引き止める。

「私達ずっと一緒って言ったじゃない!」

「分かった!おい分かったから離せ!」

これでは別れ話がもつれたカップルのようではないか。まったくいい年をして!

「いや!」

「分かった!一人では行かないから!」

普段から怒らせると妙に頑固になる女だ。もう仕方がない。

「そこの建物に逃げ込む!ほら立て来い!」

「うん!」

俺は妻を立たせて、その手を引いて角のビルの入り口に走った。どこまでやれるかはわからないが、なんとかして……そこまで考えたところで、近くの建物から猛烈な勢いでなにかが飛び出してくる。地下駐車場、トラック。

(やばい……!)

とっさに、俺は妻を突き飛ばして自分もそこに倒れ込む。倒れる妻がどこかを打つ前に、かばえるようにして。だが、トラックは突然スリップするようにして角度を変えて、横倒しになってこちらに倒れ込んでくる。それだけ認識した俺は妻に覆いかぶさると、遮二無二祈った。さっきまでの達観した死を待つ前の気持ちが嘘のように、目の前の女が無事でいられるようにと。

(やはり、俺もこいつと同レベルの馬鹿だったか)

ぎっと目をきつく閉じると、目の前を光とも闇ともしれないなにかがやってくる。最後に感じたのは、覆いかぶさることで思いがけず触れた、妻の頬の温かい感触だった。
 
 
 


 
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目が覚めた時、俺は雑踏の中にいた。

それまでいた都会的な雰囲気の中ではない。なにかもっと生命力のある……どやどやとした猥雑な群衆の只中だった。

「……うん?」

曖昧な夢から覚めるときのように、それまでの現実と現状の感覚がうまくはまらないと言う感覚。歩いている人間たちを見ると、服装が妙だった。茶渋色の長衣を着た、西洋の修道士のような一団に、分厚いキルト地の、なんと呼んでいいのかわからない、そういう服を着て皮の帽子を被った若い人。

焦って直前の状況を思い出そうとする。そうだ、俺は一体どうしたのだろうか。なにか、とんでもないことが起きたような気がするのだが、記憶には霞んだような薄らとぼけた影のようなものしかない。なにかの使命を帯びていた気もする。だが、それよりもぼんやりとした幸福が漂っているような、そんな感じもあった。

体を見ると剣道の防具を総革にしたようなものと、同じく革のプロテクターのようなものを身に着けた上、腰にはずしりとした鞘が吊られている。そこには、飾り気のない柄のようなものがあった。多分これは剣だ。

「は……?うーーーん?」

きょろきょろと周囲と見渡しながら、立っていた往来のど真ん中から道に端に移動して、壁を背に周囲を警戒する。俺はここにいてはいけないはず、漠然としたそういう危機感が、俺を駆り立てていた。

そんなことをしていると、目の前を緑のフードを被って、持った籠になにかの果物を入れた老人がすっ転んだ。

「おおっ!しもうた……」

「大丈夫ですか?」

自分の置かれている状況を整理できぬままであったが、思わず老人に手を貸して、体を立て起こしながら果物を拾ってやった。果物は見たことがないものだったが、大まかにりんごに似ていると言えなくもない。そういうものの名前も分からないのだ。いよいよ、完全に見知らぬ土地に来ているらしかった。

「ありがとう、お若いお方!だが失礼じゃが、そんなところで何をされておったのですか?」

「いや、その、僕にも分からなくて」

「なに?それは、どう……大丈夫かの?具合が悪そうじゃが」

「いえ、僕は大丈夫です……」

そういいつつも、僕は目頭を押さえたりぱちぱちとまばたきを繰り返していた。数年前から老眼が……そこまで思ってから僕はびっくりして自分の手を見る。皺やシミひとつない。どう見ても10代かそこらの肌にしか見えない。僕はでも……そこまで考えて、自分の年齢が思い出せないことに気がつく。

「僕は……あれ?」

「む……よく見ればその鎧の刻印、あんたは『ギルド』の騎士殿じゃわい。どうしてこの国へ?」

「ギルド?」

そう言われてみてみると革鎧の目立たないところに、亀甲のようなものの中に内側に向いた3つの矢印が描かれた、不思議な刻印が押されている。確かに、見覚えがある気がする。

「いや、愚問じゃった!『ギルド』の方は常に密命を帯び、この世の正しい在りようを保つ職務を遂行されておられる」

老人はなにか、感心するような、尊敬するような面持ちで俺にニコニコと続ける。

「このような爺に、そういう事情を話すわけもない……そうじゃろう?」

「そう、なんでしょうか。僕は何も覚えていなくて」

「やはり……『ギルド』の忘却術じゃわい……」

「忘却術って、いやそんな」

そんな、と口をついて言葉が漏れるが、何を否定しようとしていたのか自分でも分からなかった。

「分からぬのも無理はない『ギルド』は魔術で記憶がまっさらになった騎士に、指令書を持たせて任務を遂行させますのじゃ。ほれお腰の筒、なにか入っているようですぞ」

目を落とすと、確かに剣とは反対の右の腰に筒が下がっていて、それを振るとかさこそと何かが入っているようだった。これは……と、老人に聞こうとして顔を上げると、そこにはすでに老人の姿はなかった。

「な……」

見れば、歩道にあった雑踏は突如としてその密度を増し、大通りをまるで満員電車のようにして、目の前の老人を押し流しているところだった。

「あっ、ちょっとすみません!」

僕は老人に色々聞きたいこともあったが、声をかけようにももうどんどんと老人は人並みに押し流されていった。老人の緑のフードがちらちらと見え、群衆の中からこちらに手を振っていたようだったが、それもすぐに見えなくなった。

そのぞっとするような人混みを避けて、僕は路地に引っ込むと指示書とやらが入っているという筒を開けてみる。そこには丸められたぶ厚めの紙……いやこれは羊皮紙だ……それを広げて一読する。だが大げさなその紙には、一文しか書かれていなかった。

対応指示: ディイ王国の姫、その求婚者の列に加わり、姫の心を得よ。

求婚?それにディイ王国?僕は思わず顔をしかめたが、指示書の内容を理解すると同時に、少しずつ記憶が蘇ってきた。蘇ってきた、のだろうか。その小さな疑問を押しつぶすようにして、情報が頭に流れ込んでくる。

ディイ王国は「ギルド」の協力国であり、その王位継承者である姫君と身分を隠して結婚し、王国を「ギルド」が思うままに操る。それによって、ディイ王国から自由に使える「人材」を「ギルド」に供給する。「ギルド」らしい遠回しでいやらしいやり口だ。そういう印象を抱いた。「ギルド」のことは、相変わらず全然思い出せないのではあるが……。

ひょいと路地から大通りに顔を覗かせる。こういう街の広場には、王命や役人からの布告が貼り付けられている場所があるものだ……そのように思った。

あの人混みが嘘だったかのように、大通りから広場までスムーズに出ることができた。そして、時代劇に出てくるような高札のようなものが……洋風の、そういう板が貼り付けられている一角にたどり着いた。コウサツ……?掴みどころのない霧が、頭の中に立ち込めるのを再度感じる。

そしてそこには告、という大書きの下に「姫への求婚者へ」という項がある。いつでも良いから城に来て役人に求婚する旨を伝え、その上で「死を恐れぬのであれば姫を抱きしめるが良い。さすれば結婚を許す」とあった。

(死を恐れぬのであれば……?)

求婚の際に命を張る、トゥーランドットのようなものだろうか。なんとかする他ない。とにかく「ギルド」からの命は絶対である。昔からの約束だったかのようにそう感じてならない。ぶらぶらと街中を時間を掛けて見て回る。情報は足で稼ぐものだ。とはいえ、街の構造を見て回るだけで聞き込みなどはしなかったが。

そしてひとしきり街の様子を見た僕は、ようやっと昔見たシンデレラ城のような見た目の城に向かった。ありがちな木製の跳ね橋のたもとに小さな兵士詰め所が設けられていて、僕はそこにいた役人らしき男に声をかけた。

「失礼、その、こちらの姫君に求婚をさせていただきたく参りました」

「あなたが?」

役人は、怪訝そうな顔で僕に聞く。僕だって姫君に求婚、などとこっ恥ずかしくて言いたくもなかったのだが、しかたがない。

「ええ、結構です。ですがご存知なのかね?」

「失礼ですが、お伺いしてもよろしいですか?」

「ああ、知らずに来たのだね。かわいそうに」

役人は芝居がかった調子で、頭を抱える。

「姫は、人を殺す」

「人を殺す?」

「ええ、求婚者を。求婚してきたものを『あなたじゃない』『なぜ裏切ったの』と……姫は狂乱しておいでだ」

「……そうですか、でも、僕は行かなければならないですから」

「そればかりではない、王はそうして姫が求婚者を殺すのを……愉しんでおられるのだ。皆狂っている」

「それでもです」

徐々にというかこの城に近づいていく度に、急いで中に行かなくてはと、姫に会わねばならないという感情が強まっていた。僕の事を信じられないものを見るような目で見ていた役人も、根負けしたのか大きなため息を一つついた。

「分かった、では武器を預からせていただく。謁見の間は正面だ。その前の控えの間で待つように」

「分かりました」

「気をつけてな……」

腰に吊っていた剣を役人のそばに控えていた兵士に手渡すと、僕はずんずんと指定された前室に入っていき、ふかふかとした赤いビロード張りの椅子に腰掛けた。そこでさらに小姓然とした小男が奥から現れて、鎧を脱いで預けるようにと言われる。念には念が行ったことだ。

しかしまあ、見れば見るほど昔見たファンタジー映画のような光景ばかりだった。あのときあいつは……そこまで考えて僕は頭を抱える。あの時、僕は一体誰といたのだろうか?遠い思い出のように、ここに来るまでのことは霞んでいる。昔のことを思い出そうとするたびに、切れ切れに穏やかな色の影ばかりが浮かんでは消えるのが繰り返されていく。僕は深呼吸したり、目を深く閉じたりしたものの、頭の中に立ち込める霧が晴れる様子はなかった。

そうしてしばらく待たされたが、ようやく使いの者が控えの間にやってきて僕は謁見の間への入室を許される。教会建築を思わせるその広い空間の向こうに、二つの玉座が並んでいる。そこには豪奢な服をまとった老人と、ドレスのようなものに身を包んだ女性が腰掛けていた。

だがそちら以上に気になったのは、その一段高くなっている玉座の下方、そこにやってきた者が跪拝の礼を取るべき場所に転がる数体の死体だった。僕は久しぶりに見る死体に身じろぎしながらも、その辺りで玉座に向かって跪いた。ぶんぶんと飛び回るなにか、蝿のようなものの羽音が嫌でも耳に入ってくる。

「求婚者よ」

王が厳かに言う。

「名は名乗らずともよい、この場で聞かずとも、後で聞かせてくれればよいのだから」

皮肉げな口調を隠す気もない。チラとそちらを見れば、王は野卑な笑みを浮かべている。姫、なのだろうか。女性の方はぶつぶつと何かを呟きながら、こちらを睨むようにして見ていた。花柄のドレスと思っていたその装束は、ウエディングドレスに似た白いドレスであり、花に見えた意匠のようなものはただ、飛び跳ねて乾いた血の跡であった。おまけに手には、病的なまでにほっそりとした手足に似つかわしくない、大ぶりの短剣が握られている。

「……はい、陛下」

「おお、良き返事であることよ。さあ、くるしゅうないぞ。近うよれ。姫のもとへのう」

「は」

軽く頭を下げ、つかつかと段を登り玉座へと近づいていく。ああ、あの姫とやらに刺されるかもしれんなあと思ったものの、「ギルド」よりの指示である。任は果たせねばならない。自分でも何故こうも落ち着いているのかわからないが、任務だから仕方がない、というのが強かった。強迫的にも感じるその使命感が、どこからくるものなのかわからないままではあったが。

近くに寄って姫の様子を良く見ると、カタカタと貧乏ゆすりをしながら僕の方を親の仇かのような目で睨めつけているのが分かった。

「さあさ、我が娘よ。わしはこの感心な若者にお前をやろうと思う。抱きしめてもらうがよいぞ、固く固く抱いてもらうが良い」

王の言葉に呼応するようにして、姫が立ち上がり僕の方を向く。短剣を胸の前で構えたままだ。

「いかがしたか、勇敢なる求婚者よ。さあ、抱きしめてやるがよい。何を気にすることがある?」

「いえ、かしこまりました」

つまりは、このまま抱きしめて刺されて死ねというのだろう。なんとも、馬鹿げた話だ。

僕は姫の眼前に歩み出ると、両手を広げて近くに寄った。姫は途端に狂気的な笑みを浮かべると、愛しげに囁く。

「ああ、ああ……やっぱり戻ってきてくれたのね」

「……?いえすみません。お初にお目にかかりますが、私は……」

意図の分からぬことを言う姫に、思わずそう名乗りそうになった瞬間に、姫の顔から表情が消えるのが分かった。

「別れる……?別れるですって?なぜ?私の何がいけないの……?君とはやっていけないって……なんで?」

焦点の合わない、濁った両眼が僕の方向に向けられている。彼女はそこに僕ではないなにかの姿を見て、僕ではないなにかの声を聞いているようだった。

「ほかに好きな人ができたって、どうして?どうし、て」

「姫、お聞きください。私は……」

なんとかなだめようとしたその瞬間だった、姫はそのままの姿勢でこちらに突っ込んでくる。高い位置にあり、後ろが階段であるここでは後ろに飛び退ることもできない。とはいえ、ただ立っているわけにもいかない。僕の頭は、自分でも気味が悪いほど冷静だった。

こちらに倒れ込むようにして飛びかかってくる姫に向かって半身をずらすようにして一歩踏み込み、手刀で短剣をはたき落とす。何が起こったかわからないまま、きょとんとした表情で前方につんのめりそうになった姫の空いた手を取り、社交ダンスのような要領で自分に抱き寄せる。

この程度はちょろい。地獄のような訓練はまだまだ体に染み付いている。そこでようやく、姫の顔をまじまじと見る。姫、というがそこまで美しいわけでも可憐なわけでもない。なんというか、ただの町娘と大差なかった。でも僕と目が合うとそれまで非人間的な表情が張り付いていた姫の顔に、何か見覚えのあるものが浮かぶのが見えた。それを見た瞬間に、僕はなんだか懐かしいような、ほっとするような感覚に襲われる。

「あ、すみません……」

「いや……」

姫の方は何やら打って変わって目まぐるしく表情を変え続けながら、激しく目を周囲に泳がせていた。それまでの狂気が嘘であったかのように、普通の娘のような気恥ずかしげな様子で僕に体重を預けてくる始末だ。

「あ、その、私。ごめんなさい」

「いや、いいんですけど……ごめんなさい。手を叩いちゃって」

「うん……大丈夫。全然痛くない」

そのまま姫を抱きしめながら、奇妙な時間が流れる。だがいつの間にか近くにいた女官らしき数人の女が、黄色い声を上げた。

「彼、姫を抱きしめたわよ!」

「陛下のお触れの通り!姫と勇者の婚礼よ!」

「ああ、なんということでしょう!」

なんともかしましいその女官の様子に比べ、王は顔を赤黒く上気させながら、プルプルと震えている。その様子を見た僕は、おずおずと声をかけた。

「ごめんなさい、それではその、結婚をお許しいただけるのでしょうか?」

「……」

王は、大きく息を吸い込んだ。やばい、と思って姫の手を強く握る。

「であええええええええっ!かどわかしじゃ!姫を攫う狼藉者じゃ!殺せ!殺せえい!」

「何なんださっきからお前ら!ふざけやがって!」

あまりの理不尽に、僕は流石に王に向かってそう叫んだが、王はブルブルと震えながら豚のような甲高い悲鳴のようなものを浴びせかけてくる。

「ふざけているのは貴様じゃあああああああ!」

僕はその奇声を背に浴びながら、姫の手を引いて一目散に来た道を駆け戻り、控えの間の扉を思い切り蹴り開ける。

「きゃああ!」

「わめかないで!耳が痛いよ!」

城兵が叫びながらガシャガシャと鎧を鳴らし、背後から迫ってくる。控えの間の端までたどり着いたと思ったら、今度は先程鎧を預けた小姓の男が短剣を手に俺に飛びかかってきたので、姫から手を離すと隙だらけの突進に背負投げを合わせて床に叩きつけてやる。小姓は一撃で昏倒したが、もたついている間に城兵がすぐそばに迫っていた。手を離した姫はといえば、いつの間にか腰を抜かして床に座り込んでいた。まずい。

「狼藉者!おとなしく死ねい!」

槍を手に手に兵士達がジリジリと寄ってくる。集団から突出した一人が槍を突き出してきたので、とっさにそれを脇で挟み込むともう片方の手で槍の横腹を思い切り叩いて、兵士の手から槍を吹き飛ばす。兵士たちはたじろいで、じりと退く。その様子を見ていた姫が、なにか歓声とも悲鳴ともつかない声を上げている。この女、この状況がわかっているのか!?

「姫!早く!ほら立て来い!」

「うん!」

隙を縫って姫の手を再び取ると、僕は城門をくぐって跳ね橋の手前までやってくる。跳ね橋は上がっており、そこには鎖のついた巻き上げ機。取り付けられている操舵輪のようなハンドルに飛びついて、適当な方向に思い切り体重をかけるが、びくともしない。

「姫!これはどうやって動かすのですか?」

「分からないわよ!こんなもの初めてみたわ!」

「自分の住んでいるお城でしょう!?」

「城から出たことなんかないもの!」

「ああもお!わかんない人だなあ!」

僕たちがそんなことをしていると、もうたちまちに兵士たちに追いつかれている。

「もはや逃げられぬぞ!」

「……ただで捕まるかよ!『ギルド』のエージェントをなめるなよ!?」

僕はそこにおいてあった、見張りのためのものらしき粗末な木の椅子をブンブンと振り回す。椅子だって使い物だ。椅子の足と足の間で槍を絡め取り、二人分の槍を穂からへし折ってやる。だが、流石に多勢に無勢だった。椅子で受けたと思った一撃を、がら空きの手の甲に受け、バタバタとその場に僕の血が飛び散った。痛みを堪えながら、すかさず切られた側の手を相手の目に向かって振り回し、吹き出した血で目潰しを食らわせる。

「ちくしょう!何なんだこのガキぃ!」

城兵たちは攻めあぐねているのか、なかなか距離を詰めきれない。だが、これでは時間の問題だった。そんなときだった。

「こんなガキ程度さっさと取り押さえ……」

「な、なんだ……目が、かすむ……」

突然に桃色の靄が周囲に漂ったかと思えば、それが兵士たちの一団に覆いかぶさる。何事かと見ていると、その靄に巻かれた兵士たちは、バタバタとその場に崩れ落ちていった。僕はあわてて姫に駆け寄って叫んだ。

「……ガスだ!毒ガスだこれ!」

「ど、毒ガス!?」

「これを湿らせて口に当てて!なるべくあそこから離れて!」

僕は躊躇なく姫のドレスの裾を引きちぎると、それを姫の口に当てた。そこで思わず笑ってしまいそうになる。じゃあ僕はどうするんだ。まったく。この状況下で笑いがこみ上げてくる場違いさに更に笑えてきそうだった。そうしながら、後ろの靄の方を振り返ると、そこには見覚えのある人物が立っている。先ほど街中で出会った、緑のフードの老人だった。今度は果物かごではなく、なにか民族的な飾りのついた杖を手にしている。

ピンク色の靄の中から現れた彼は、やや引きつった笑みを浮かべつつ僕たちを交互に見ていた。

「あ、あなたは!?」

「あー、これを見て毒ガスと言うたのは君が初めてじゃ……そのお、スリープミストという魔法なんじゃこれ」

「魔法……?」

「わしはそう、魔法使いでな。君が危ういというのを見て助けに参ったのじゃよ」

「魔法使いさん!?」

姫が目を輝かせて老人を見る。まったくもう、世間知らずもいいところだ。いま追っ手に追われているのだから、もう少し緊張感をもってほしい。

「そうじゃとも、そおれ!開けゴマ!」

そう老人が叫ぶと、さっきまであれほど固かった巻き上げ機のハンドルがひとりでに回転して跳ね橋が下ろされた。どうやら、魔法使いなのは本当らしい。

「ありがとうおじいさん!行こう!」

「分かった!」

「ほっほっほ!気をつけてのう!」

姫の手を握り締めると、僕は跳ね橋の向こうに歩を進めた。関所を駆け抜けようとすると、僕の背に声がかけられる。

「おい」

振り返ると、そこには城に入る前に剣を預けた役人が立っている。引き留めようとしているのだと思い身構えた僕に、つかつかと歩み寄った彼は僕から預かった剣を差し出してくる。

「なぜです?」

「理由など何でも良い。さあ、行きなさい。姫を連れ出してやってくれ。狭い世界にしか、居場所のなかった娘だから」

「……分かりました」

僕は剣を受け取ると深く頭を下げ、その場から走り去った。それにしても本当に体が軽い。姫の方も、苦もなく僕について来られるようだった。案外、活発な人なのかもしれなかった。

「それでどこに行くの?」

「城壁の門のところに、馬車溜まりがあったはず。そこで馬車を拾ってこの市中から出るぞ」

「どこでそんなことを?」

「初めてきた街は一通り見て回るんだ」

「……マメな人ね」

感心している姫を体で隠すようにして、僕たちは路地から路地を抜けて馬車溜まりに向かう。姫のドレスは、あまりに目立つ。古着屋らしい店が目に入ったので、そこに並べて掛けてあった外套一つひっつかむと、姫に渡して着込ませた。これでまあ、なんとかなるはずだ。この国の姫のために代理で収用するのだから窃盗にもならない。

「僕のあとにしっかり着いてきて、僕の真似をすればいいから」

「分かった」

客待ちの馬車を捕まえるにも、この様子では怪しまれる。ふと目に飛び込んできたのは、じゃがいも……のようなものを満載した他と比べると一回り大きな幌馬車だった。それに近寄って、ステップに足をかけ荷車を覗く。なんとか乗れるだけの隙間はありそうだった。僕は荷車の上に飛び乗ると、姫に向かって手を伸ばした。

「こっちへ!」

「そこに乗るの?」

「いいから、普通の馬車だと御者に怪しまれる。街を出てしばらくしたら飛び降りればいい」

「そんな、怪我したらどうするの?」

「大丈夫だよ、僕がなんとかするから。引っ張ってあげるから早く!」

「う、うん!」

戸惑いがちだったが、姫もなんとか荷車の上に引っ張り上げ、しばらく息を殺して待っていると馬車が進み始めるのが分かった。ああ、よくよく考えたらこれが荷降ろしの前の馬車でなくてよかった。そんな考えもなしに突っ込んでしまうなんて、僕らしくもない。落ち着いてみると、ふと手が冷たく感じる。ああ、切られたんだったか。服の裾に剣でちょんと切れ目を入れてそこから裂き、紐を作って止血する。急場しのぎだ、どこかで縫わなければ。

「それでこれからどうするの?」

「さあ……どうしようか」

思えば、思わずこの姫の手をひいて逃げてきてしまったが、この人を連れてくることなどなかった。だが、抱き寄せた彼女の顔を見た瞬間に見えた、あのなにか不思議な感覚のあとでは、こうして連れてくることのほうが自然に思えたのだ。その考え自体が非常に不自然なのは承知しているのだが。

「『ギルド』からの指令にも失敗してしまったし、このままどこか遠くへ逃げようか」

「そうするしかなさそうよねえ、でもなんで、私を連れてきてくれたの?私なんだか、あなたを刺そうとしてたみたいなんですけれど」

「ああ……」

そういえばそうだ。彼女は僕の前に何人か人を殺しているようだった。先ほどの、求婚の儀式みたいな何かで。だけれど、そんなことはずっと前から知っていた気がする。そして、ずっと前に許してしまっていた……そんな気がしてならない。でなければ、僕はこんなことは絶対しなかった。

「まあ、成り行き上しょうがないからね。さあそんな事はいいから行こう。なんだか僕たち、一緒にいなきゃいけないみたいだし」

「それは私に求婚して、夫婦になったからかしら?」

「それはどうだろう。王様は認めてくれなかったみたいだしね。でも、そんなことは放っておこう。」

僕は、彼女に軽く微笑んで見せる。

「まあ、なんか他人の気がしないんだ。それでいいんじゃないかな?」

「……そんなものかしら」

「夫婦なんてものは、そうなったらそれで終わりだろ?でも人間同士っていうのは結局……そういうものだけで割り切れるもんじゃないさ。絆とかさ」

「会って早々の私とあなたに絆ってあるのかしらね」

彼女はくすっと僕に笑ってみせる。そう言われればたしかにそのとおりだ。

「ま、嫌なら一人で……というわけにもいかないだろう?」

「はいはい。あーあ、おかしい。あなた本当におじさんみたいなことを言うのね。でも、分かった。あなたについていく」

「ああ、とりあえず追っ手が来ているはずだし、なるべく僕から離れないでね」

「ええ、分かった」

彼女は荷車の反対側に腰を下ろすと、しげしげと僕を見ていた。しばらくそうして荷車の中でじっとしていると、車輪越しに街の中の石畳が途切れ、土のような柔らかな感触が伝わってくるのが分かった。荷車から外を覗くと、道脇に放牧地のような柵と、しばらく先に牧草ロールが丘陵地に積まれているのが見えた。そろそろ頃合いかもしれない。
「姫、そろそろ降りよう。周りは長閑な感じだよ」

「うん、牧場の匂いがする。私、道産子でね」

「ドサンコ?」

途端に何かが溢れそうになってくるのを感じるが、その正体がその瞬間には分からなかった。僕は思わず彼女に聞き返したが、彼女もキョトンとしてモゴモゴと口の中で何事かつぶやくばかりだった。

「ええ……ドサンコ?ええと……」

「ドサンコ、どういう意味かな」

「さあ?あの、出身地が……うまく、思い出せないわ」

「でも、ドサンコ。聞いたことがあるんだ、僕も」

「本当?」

彼女に関しても、それは同じのようだった。自分で言いだした言葉の意味を、次の瞬間には認識できなくなっている。これは明らかに異常な状況だ。

「これは、なにか作為的なものを感じる。僕と君、何かに引き合わされたような……君の顔なんだか見覚えあるんだ」

「実は、私も」

「そうか……」

僕は、上に広がる嘘くさいほど綺麗な茜色の空の底深くを睨む。

「突き止めよう」

「え?」

「僕たちの間に生まれたこの感情、既視感。これにはなにか意味があるはずだ。それを突き止める」

「……ええ、そうしたいわ。私も。何かを思い出さなくちゃいけない気がする」

「ああ、そうだね。僕も思い出す、その必要があると思う」

「うん」

姫が落ち着いた様子で僕にうなずき返す。あの短剣を手にしていたときの虚ろな表情が嘘のように、理知的で、しかも瞳には強い意志を感じる。ただの町娘と変わらない器量、と思ったがなにやら妙に彼女に惹かれている自分が、なにか気恥ずかしい。

「……じゃあ、とりあえず降りようか」

「そうね、そこの牧場で清潔な布を何枚か借りましょう。あなたの手の傷に当てて……あとは近くの街の場所も聞かないと」

「ああ、うん」

彼女の手を引いて、ノロノロと走る馬車から降りる。不安要素はたくさんあったが、彼女と田園風景を眺めていると気持ちが少し和らぐようだった。それに……。

「案外君、頼もしいね」

「そうかな」

この子がいればなんとかなる。そんな気がしてならないのだ……そうだ、肝心なことを聞き忘れていた。

「そういえば、自己紹介してなかったね。僕は……」

「ええ、うん。私は……」

お互いに名前を知らせあったが、ここでは特別感銘も、奇妙な感覚もなかった。あたかも、それが当然の前提であったかのように。それから、僕たちは牧場の中に立つ小さな家に向かって歩き始める。それが、ここからはじまる僕たちの大冒険の幕開けだった。
 
 
 


 
 
 
それからまあ、なんだかんだ、色々とあった。

旅の中で行きあった死なずの大竜を、谷底の毒沼に突き落として倒した。深い迷宮の中で出会った、恥ずかしがり屋の怪人を避けながら、宝を手に地上に戻った。それでこじんまりとしてはいるが、彼女いわく「カワイイ」二人の家を買った。それから様々な奇妙な出来事や、異常な存在と相対しながら冒険を成し遂げてきた。

彼女はというと、意外にあったフィジカル、思い切りの良さ、そういったものを活かして斥候のように活躍してくれている。なんといっても、「ギルド」仕込みの技の数々を僕が教え込んだのだから息が合わないはずがない。

前に助けてくれた魔法使いさんがまた現れて、僕たちに魔法を教えてくれようとしたが僕たちには使いこなせなかった。特に僕は一切そういうものを信じる気がないと見抜かれ「まあそうじゃろうなあ」と、呆れられてしまったくらいだ。

僕たちは、しばらく休息を取るつもりで自宅に戻り、近くにあるなだらかな丘の上に行ってすることもなく寝転んでいた。彼女が、流れる雲を見ながらつぶやく。夕焼け空に、綿あめのような雲。彼女が好きな光景だ。

「結局、なーんにも思い出せないまま二年くらい経っちゃったね」

「そうだなあ」

それからいろいろと、彼女や僕に共通しているぼやけた記憶や違和感の正体を確かめようとしたがなにも進展がなかった。まあ、それでもよかった。彼女は一緒にいて楽しい人だったし、過去に何があったにせよそれは今の僕たちには関係のないことだ。気が合う、気兼ねがしない。それで十分じゃないか。

「どう?そろそろ結婚でもしてみるか」

こうして冗談めかして聞くのも何度目だろうか。僕は形から入ったほうがと思うのだが、彼女の答えはいつも決まっている。

「それはもういいわよ」

「ああ、まあね」

「夫婦より『私たち』。それで十分じゃない?」

「それもそうだねえ」

のんびりと僕はそう答え、無言で手を彼女の方に伸ばし、彼女も何も言わずにその手を取る。そろそろ戻ろう。そんな雰囲気だった。

立ち上がるとそこは同じ夕焼け空だったが、そこには見覚えのある鳥が飛んでいた。ああ、カラスだ。
 
 
 
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「うん……?」

俺は目を細めて、その烏の群れに目を凝らした。本当のカラスなど久しぶりに見た。目線をそちらから、地上に向ける。そこにあったのは、穏やかな丘陵地に建つ俺たちの小さな家ではなく、錆びた遊具とゲートボール場のある変哲のない公園だった。逆光になって、電柱とそれにめぐらされた電線が黒ぐろとして見える。

「あれ?」

妻がきょとんとして俺の顔を見る。俺も彼女の顔をまじまじと見た。出会ってしばらくした頃、ようやく肉がついてきたね、などと笑っていた頃の妻。その妻と一緒に、ごく普通の日本の公園に立っている。それに気がついた俺は、記憶がどんどんと蘇っていくのを感じる。数々の冒険。奇妙な異世界での生活、そこでの妻との出会い。そして記憶の底にあった、衝突と頬に触れたぬくもり。

「……ああ」

「えー……」

納得するように息を吐いた俺、がっかりする妻。冷めた頭で周囲を見渡すと、公園の隅に置かれたベンチに誰かが座っているのが見えた。ここは、おそらく尋常の空間ではないだろう。そこに見える唯一の人影。俺は妻の手を引いてズカズカとその人影に近寄った。近くで見るとその男、老人はゆったりとした緑のローブに身を包んでいる。見覚えが、ある。

「魔法使いさんか」

「やあ、君」

老人は沈んだ声で俺の声に応じた。

「俺は……俺たちはどうなっているんだ?すべて、思い出したんだが」

「ああ、そうじゃな。ワシが封じておったんじゃ、君らの記憶をな。邪魔になるからの」

「どうして……いえ、なんとなく予想はできるけど」

妻が、老人にそう言うと彼は今度は努めて明るく言う。

「ああ、聡明な人。君たちの出会い。そして楽しいひと時。二人の時間。それをやり直させてやりたかったのじゃよ。君たちの出会いは……ちょっと複雑じゃったからな」

「魔法使い……いや、あなたは。思い出した……ブックキーパー?」

「ああ、消された記憶を思い出してもらったよ。あの財団も、今の君らには許してくれるとも。ああ、久しぶりじゃなあ」

老人は俺の顔を見て、笑いジワが目立つ顔をクシャクシャにする。俺は、たしかにこの老人に会ったことがあった。あの運命にとらわれる前、オブジェクトの護送任務の時にだ。「英雄誕生」。サイト-12から別のサイトへ一時移送することになって、訓練中だった俺はドライバーとして護送にあたっていた。それでその時に成り行き上、彼の異常性を受ける条件を満たしていたのだ。ある団体の襲撃だった。それを生き延びたあと、彼から「冒険」のお誘いがあった。そのときには「楽しい冒険」は気分じゃなくてお断りしたが。

「なぜ、あなたが?」

「君は、ワシが本を燃やす奴らに狙われた時、命を賭して守ってくれたじゃろう。その礼じゃよ」

「時間を、作ってくれたということですか」

俺がつぶやくようにいった言葉に、老人は悲しげに頷いた。

「抱えて逃げて、本を開いて中を盗み見ただけです。他の仲間だっていた」

「まあ、そうじゃがな。でも君は訓練中の見習い。しかも運転手じゃ。わざわざ死の危険を冒す必要などなかった」

「功名心、若気の至りでした……ですがなんとか逃げ延びられたのは、当時本当に誇らしかった」

「それで、ワシもまだここにおる。ありがたいことじゃ」

「……なんのお話?」

「仕事の話」

俺は妻の怪訝な様子に、鷹揚にそう答える。だが妻が顔をしかめたのを見て、慌てて説明を加える。

「彼は本物の魔法使いで、俺に恩があるのさ」

「本当!?本当に魔法使いさんなのね!」

打って変わって妻が目を輝かせる。こういう時、彼女は子供のようだ。正直言えばこういうところに惚れている。

「本物などと、魔法などと……君らを助けることも叶わず、こうして引き伸ばすが精一杯。それももう限界じゃ」

老人がいよいよ涙をこぼす。何を泣いているのやら。俺たちは……。

「俺たちはとっくに死んでいるか、その瞬間を留めてくれているんでしょう?魔法ですよ、おじいさん」

「そうそう!すごいことです!泣かないで下さいよ……」

妻も急におろおろと老人を宥めにかかる。一度死んだ人間が他人の心配などしている場合でも無かろうが。

「あなたのおかげで、なんというか新鮮な体験ができましたよ。ファンタジー。財団勤めの時じゃあ、ああは楽しめなかった」

「ありがとうよ……」

「それだけじゃなく、彼女と……」

俺は、彼女を横目に見ながら意を決して続ける。

「彼女ときちんと向き合えた気がします。一緒に旅を、おかしな冒険をしてお互いのことをたくさん話せた」

「そうね。私もなんか、あなたがしっかりしてるように見えて抜けてるのが再確認できたわねえ」

「おい、勘弁しろ!他所さまの前で……」

「いいじゃないの、最後くらいは」

「……ああ、そうかもな」

老人が、ようやく微笑んでくれる。物語を見せる者。そうだけあって、繊細で優しい男だ。彼は緩んだ表情を、しかしすぐに引き締めて言う。

「もう少しこうしていたいが、ここはもうワシの物語の中ではない。君たちを捕らえたアレが、最後に君らを見に来る場所。夢と死の中で交わる暗い道の入り口じゃ」

「辺獄、のような?」

「そのようなものじゃ。だが、アレを待つ必要はない。さあ、行きなさい」

「お別れね」

妻があっけらかんとしてそう言うと、公園の外を見る。よくよく見ればそこには以前旅行に行った尾道のように、結構な急坂があり、その上の方は白く輝く霧のようなもので覆われて見えなかった。まあ、天国ということなのだろうか。

「アレ……つまりあのオブジェクトの、本体のようなものが来ると?」

「そうじゃ、見ても碌なことはない。文句の一つも言いたいじゃろうが、今のすっきりした顔の君たちのまま旅立ってほしい。つまらぬ、爺の意地じゃ」

「はっ、文句か。確かに言いたいとこだけどやめときます。それに彼女と出会えて、病気も治してもらった」

「そうねえ、それでチャラ。最後に面白いものも見せてもらったし、お釣りがくるかもね!」

妻がのんきにそんな事を言うと、俺の手をきゅっと握る。俺は一瞬の逡巡を挟んで、その手を柔らかく握り返した。

「行こうか」

「ええ」

言葉はもういらなかった。妻の手、柔らかい手。その温度。困ったな、だんだん緊張してきた。そんな事は経験したことなどなかったが、これがあるいは初恋なのかもしれなかった。この瞬間がもっと続けばいい。だが初恋のその先、そういうものを十分経験させてもらえたのだ。さらに、とは望むべくもなかったのかもしれない。

「良き旅路をな」

「ええ!さようなら、魔法使いのおじいさん!」

「……ああ、さらばじゃ」

キーパーが俺たちに旅の無事を祈る言葉をかけるのを聞きながら、俺たちは道路に出て坂を登り始める。まったく、最後の最後でおかしなことになったものだ。もう少し、雰囲気というものがなかったものか。子供向けのファンタジー映画じゃなく、こう、フランス映画のようなしっとりとした終わりであってもよかったろうに。

「楽しかったわね。あの、特にオオトカゲをやっつけた時!」

「ああ……ふっ、ふふふ」

「なによ、何笑ってるの?」

ブックキーパー。ああ、そうだよな。物語は一緒に味わう人がいるのなら、二人で楽しめないとなあ。確かにこいつの好みは、昔から俺と合わなかったよ。

(だが、いつも一緒だ。これからも……)

ぷりぷりと怒る妻をにこにこと眺めながら、俺は上へ上へと登っていく。この坂はどこまで続くのやら。まるで、人生のようだ。実に陳腐な比喩だが……だが、人生は続く。そしてその人生の坂を登りきったら、坂を登りきれる。その向こうの景色、そして達成感。やはり、まあ人生とはそのようなものではないか?

俺たちは、そうして坂を登り続けた。坂を登り終えるまで。
 
 
 


 
 
 
男と女が去ったあとの、日が暮れた薄暗い公園。優しく、ときに勇壮に物語を語る者が、なにかをじっと待ち続けるところにゆるゆると人影が近づいてくる。街灯の薄明かりばかりのところ目ばかりがぎらぎらと光る、場違いな割烹着を纏った女

女はたいそう喜んでいる様子で、語り部に声をかける。

「すばらしかったわあ!何をしたか知らないけれど、なんて美しい夫婦愛!感謝しますわ、異国の方!いいもの見れたわあ」

「……ああ、待っておったよ」

そう言った女は、ベンチにぐったりと腰掛ける語り部の老人に大袈裟にペコペコと頭を下げる。老人はそれに一瞥もくれず、低くつぶやく。

「聞かせておくれ。こうして何人の人を食らってきたんじゃ?彼の夢にやってきて、彼の魂を通してお前を見たときの、あの気色悪さ。死肉を喰む薄汚いけだものめが」

「ああ、いけませんわ。あなた『お話』が好きでしょう?雰囲気でわかるのよ、女の勘ね!同好の士なのだから、仲良くしましょうよ」

「ああ、物語は我が唯一の拠り所じゃとも」

割烹着の女は老人の座るベンチに同じように腰掛け、深く被ったフードを覗き込む勢いでそのそばに寄る。

「じゃあ、意固地にならないで?あなたが手伝ってくれればもっともっと美しい物が見られるわ。きっとそう!」

「断る」

「なぜ?」

女の声が急激に低くなる。老人は一瞬たじろぐが、女の目をギリと見据えて言う。

「み、自ら物語を生み出さず、他人が生み出した物語を消費するだけの貴様が、ワシと同好の士だなどと!」

「消費するというならあなたもでしょうが」

「捕らえた獲物を最後には必ず殺して喰らうお前とは違う!確かに物語は終わらねばならん」

老人はがたとベンチから立ち上がり、女と正対する。

「だが辛い現実に冷え切った指を、儚いともしびで温めてそれに立ち向かう!そのともしびこそ、物語じゃ!」

「はあ、ミュージカルか何かのつもりかしら?私苦手なのよ、わざとらしくてね。やっぱり役者はリアルじゃないと」

「リアル……現実を蝕みそれを喰う。やはりけだものじゃよ、お前は」

「けだもの、ええよろしくてよ。呼びたいように呼ばれませ。でもわたくし、ともしびなんかより温かい家庭で体を温めたいんです。あなたは嘘っぱちのお話だけで、凍えながら指でも温めていればいい」

「その渇きが、癒やされることがないことは分からぬのか?消えぬ渇きのために、これからも人を喰い続けるのか?」

「ああ、もう面倒ね。もうよろしくてよ。用が済んだので失礼しますわ?あなたももう私のおうちには来ないでね」

女はもううんざりという様子で、老人に背を向け公園の外へつかつかと早足で去っていく。まるで読み終わった本を、適当な場所に投げ捨てるかのように。そそくさと道路際まで歩いたところで、卒然に声がかかる。

「待て」

「なんなんですの?もう話すことなんてな……」

呆気にとられる。女が振り返ると、そこにいたのは先ほどの老人ではなかった。

金の縁飾りに彩られ、真紅の房が風にたなびく兜。キラキラと月明かりを受けて輝く白銀の鎖帷子。若草色のサーコートには賽と鋭いペン先のような意匠が大きく描かれている。いまや語られることも少ない、古い物語から抜け出てきたような、堅甲輝く騎士がそこに立っていた。

その手には、飾り気のないブロードソードが握られている。ただそれは白熱しているかのように光り輝き、切っ先を女へと向けている。

「まったく、本当にくだらないものがお好きなのね。ミュージカルに、ファンタジー!」

「ではそのくだらないもの……幻想の国。その、魔を滅ぼす輝きの聖剣、闇を引き裂く光の魔法!その身に受けてみるがいい!おぞましい魔物め!」

「酔ってるのあなた……?」

女が二の句を継ぐ前に、放たれた雷に似た光がその場に漂う闇を打ち払い、女に激突する。白昼の太陽のような光に目がくらんだらしい女は目を覆っていたが、その白い割烹着が少しばかり焦げた程度で、平然として立ったままであった。

「花火には時期外れですよ!まったく行儀の悪い。矮小なあなた風情が、私をどうこうしようなんて」

そう言いながら、女は相手を見失ったことに気がついた。そのときにはもう遅く、いつのまにか背後にいた騎士が女の背中に向かってショルダータックルを食らわせる。それでも女は少しよろめいた程度であったが、そこに生まれた隙を騎士は逃さなかった。騎士の切り上げるような渾身の一撃が女を襲う。女も見かけによらず俊敏な動きで避けようとするが、すでに遅かった。

「――ぃい!痛い!」

女が振り回した手、そこに振られた剣の切っ先が、女の指の一本を切り落としていた。

「おおおおお!」

騎士が叫びながら、さらに剣を突き出す。だが、今度は女が雑に腕を振るうとその剣はたやすく吹き飛ばされる。女の目がまるでフクロウのように大きく見開かれ、全身がブルブルと怒りで震えている。騎士は後ずさるが、サーコートの胸ぐらを恐ろしい力でつかまれて女に捕らえられる。

「ぬう……」

「私のおうちの中で!私に勝てはしないわよ!」

女が平手で騎士の兜を打った。ただそれだけで騎士は公園の端から端まで吹き飛ばされ、街灯のポールに横腹から打ちつけられた。兜は砕け、血に濡れた老人の顔が覗く。だがそれでも、すぐさま剣を杖にして立ち上がろうとする。するのだが、ガクリとその場で膝をつく。

「く、ふ、ふふ……」

老人はしわがれた笑い声を漏らしながら、自嘲的に肩をすくめてみせる。

「あーあ、さっきまでの楽しい雰囲気が台無し……いろいろ曖昧なここでならどうにかできると思った?だめだったわね。指が一本だけよ?」

「ああ、そうじゃのお」

老人が笑っているのを不快そうに眉根を寄せて見ていた女だったが、興味を失ったようにまた、公園の外へ出ていこうとする。まだ、やることがあるのだからと言わんばかりに。そうしながら女が切られた自身の手を見ると、何かに気がついたのか思い切り顔を顰めて公園の方に叫ぶ。

「あなた!もしかしてわざとかしら!?」

「おうとも、狙い通りじゃ」

老人が誇らしげに掲げたそれは、果たしてほっそりと骨ばった、中年の女の指。それも左手の薬指であった。

「夫婦生活を出歯亀するばかりが能の阿呆につけるには、良い薬じゃろう!は、はははは!」

「本当にくだらない人。最初から勝ち目がないのが分かっていて、嫌がらせだなんて」

女がそう吐き捨てると、道路をヘッドライトの明かりがギラギラと照らした。それは、一台の大型トラックのものであった。そのトラックは女をすり抜けると、狭い公園の入口をものともせず、老人の元へと不自然なほど真っ直ぐに迫る。

「出ていきなさい」

「言われなくとも」

その言葉が女に届いたかどうか。甲高いクラクションとともに砕けかかった兜が、トラックの車輪に押しつぶされた。その様子を、女は見なかった。ただただ苦々しげに自分の手を、失った指のあった場所をじっと見ているばかりであった。
 
 
 



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