たとえ涙は尽きぬとも

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夜、薄暗い路地裏で、向かい風が私のコートをはためかせる。

錆塗れの換気扇、品のないネオンライト、読めもしない落書きを尻目に、ゴミ箱から溢れ出た得体の知れない汚物を踏み砕きながら私は路地裏の奥へと進んだ。
ブーツがコンクリートに擦れる音を除けば、この場所は至って静かであった。私の他に人間はいないように思えた。
時刻は午前の三時を回り、月も雲に隠れ、故に電灯の光が届かぬ場所は果てしなく暗闇であった。そして、奥に進むにつれて人工物は立ち腐れていく。現に私が今いる場所はヒビの入った街灯がちかちかと点滅していた。さらに奥などはもはや全くの晦冥で、見通すことも叶わなかった。私がダスターコートのポケットから小さな懐中電灯を取り出したのはそのためである。

足下を照らしながらさらに進む。すると、ふと、どす黒い水溜りが目についた。私はその場にしゃがみ、革手袋をはめた指でぴとっとそれを掬い取った。無臭で、ごく僅かな粘性があった。
持ち帰り、詳しい成分を調べるため、私はスポイトでそれを吸い上げた。――そのときである。

「98パーセントの水分、2パーセントのナトリウム、カリウム、リン酸塩、アルブミン、グロブリン、そしてリゾチーム……変なものは何も入っていませんよ」

私は不意な声にびくりと身を縮め、声のした方へ懐中電灯を向けた。
そこにいたのは、二十代ほどの若い女である。薄汚れて穴の空いたトレンチコートを身に纏い、全体的にみすぼらしい印象を受けた。容姿は比較的整っているように見えたが、寝癖の酷いぼさぼさ髪と深い目の隈がどうにも目につく。
その女から少し距離をとり、私は顰めた顔で彼女に応じた。

「それはつまり……これは涙液なのか? 私が知る涙は、もっと透き通っているのだが」

女はそれを聞くと、ふっと鼻で笑った。彼女は建物の裏口前の階段に腰掛けており、その様子は酷く気怠げな雰囲気であった。声色からも活力が感じられず、顔を向き合わせている自分まで無気力になってしまいそうになる。

「悲しみ、そして絶望……ほら、雨が降ってきました」

女がそう言うと、私は頭皮に冷たい刺激を感じた。しとっ、しとっ、という音から始まり、そして瞬く間に無数の粒がコンクリートを打つ騒音で辺りは支配された。
頬を伝い、唇の隙間から入ってきた水滴は、薄い塩気があった。

「冷たい雨……この全てが、尽きることのない涙」

黒い雨に濡れた女は、静かに目を閉じ、少しの間をおいてニヒルな笑みを浮かべた。その様子はどこか痛ましさを感じ、私は悲哀を感じずにはいられなかった。

「紛争、貧困、差別……涙は留め処なく流れる。しかし、涙が新たな苗木を育てることもあります」

女の覇気のない淡々とした声は、けれども降り頻る雨音にも負けず、すらすらと私の耳に届いた。

「でも、多すぎる水は根を腐らせる。首をへし折る石像、不死身のトカゲ、生きたテディベア……」

女が小さく微笑みながら語る。だが、そこに喜びだとか愉快さだとかいうものが込められていないことは誰の目にも明らかであった。本当に一切の感情が込められていない笑みというものを、私は生まれて初めて見たかもしれない。
しかし何よりも私を動揺させたのは、我々が秘匿してきたモノたちを彼女が知っているということである。 

「君は、何者だ」

上手くやれた自信はないが、私は冷静を装って彼女に問いかけた。

「私はあなた方とは相反する存在。破壊、回収、慰撫。ただそれを遂行するだけの、普通の人間」

女は悪びれずにそう答えた。
あなた方とは、財団のことで間違いないだろう。破壊、回収、慰撫とは、財団の確保、収容、保護の捩りだ。推測するに、彼女の目的は異常存在を無力化することのようだが……。

「GOCの関係者か?」

私がそう言うと、女は心底見下したような様子でふふっと笑った。

「盲目的に何もかも破壊する彼らとは相容れませんね。でも、悠長に怪物や兵器を生かさず殺さずにしているあなた方よりは好きです」

女はスッと目を細め、私の顔を見つめてきた。私は思わず半歩ほど後退りしてしまう。どうやら彼女は財団のことはあまり良く思っていないらしい。

「この雨は、この涙は、あなた方が救えなかった人たちの涙であり、あなた方が使い捨ててきた人たちの涙であり、そしてあなた方を信じ、死ぬまで尽くした人たちの涙です」

女がゆったりと立ち上がる。その佇まいは幽鬼や亡霊の類を思わせ、私は血が凍てついていくような感覚を憶えた。

「私はもう、冒涜的で名状しがたい夜の中、消えゆく灯火を眺めたくない。ソレが光の中で暮らす人々に手を伸ばすならば、私がソレを破壊いたしましょう。散っていった涙への、せめてもの慰撫として……」

女の無気力であった声が迫力を帯びる。不思議とそれに呼応するように雨脚も強まり、私も彼女も水底から上がったかの如くしとどとなっていた。

「『戦い、封じ込め、人々の目から遠ざけなければならない』でしたっけ? もうそんな回りくどいことは終わりにしましょう。この世に闇が尽きぬなら、無限の光で照らせばいい。――ほら、こんな風に」

彼女がそう言った瞬間、強い閃光が辺りを覆った。思わず私は目を塞いでしまう。
次第に目が慣れ、閉じた瞳を開けてみれば、今まで暗闇に包まれていた路地裏はまるで昼間のような明るさになっていた。
そして、私は目の前の光景に釘付けとなった。
ショーケースに入った青リンゴ、体の一部が包丁に置き換えられた少女、奇形な昆虫が無数に這いずり回る巨大なコロニー、臓物と肉でできた樹木……。いくつもの『何か』が狭い路地裏を所狭しと転がっていた。
目を丸くする私に、女は静かに語りかけた。

「私が照らした闇の一例です。あなた方の言葉を借りるならば、異常性を失ったオブジェクト。もはや全く無害な代物ですが、神秘の残滓はまだ僅かに残っていますので、持ち帰ってあなた方の大好きな『収容』をなさればよいでしょう」

「君は現実改――」

「そうであったならば、とは常に思いますよ。でも違う。私は普通の人間。ただ、あなた方が金庫やロッカーに眠らせているようなモノを駆使しているだけ。ここにもあなた方の悪い所が出ましたね。『収容』に固執しすぎて、利用するという考えが弱くなっている」

女が呆れたように言う。
私は、もはや財団のエージェントとしての義務も忘れて、女の言っていることにどうやって反論するかを考えていた。
『何故、破壊しないのか』。それは強引な干渉による異常性の暴走や不測のイベントを避けるため。SCP-1609の例を出してやれば嫌でも納得することだ。
『何故、利用しないのか』。結論から言えば利用はしている。ミームエージェント、記憶処置剤、スクラントン現実錨、挙げればキリがない。アノマリー同士のクロステストには多少慎重になっている節があるが、それも不測のイベントを避けるため。化け物に化け物をぶつけるなどという短絡的な考えに至ってはいけないのだ。

「君の言っていることは……」

私の中で反論は完璧に出来上がっていた。しかし、それなのに、私は言葉を詰まらせてしまった。もっと言えば、『間違っている』と言いきることができなかった。
女に何かされたのか? しかし、もっと、それは私の精神的なものであるような気がして……。

「あなたは無意識に私に共感している。『収容』に対して、あなたは疑問を感じている。もっとスマートにやることはできないのかと。『何故、破壊しないのか』は説明できても、『何故、収容をするのか』は説明できないのでありませんか?」

頭が揺さぶられるような感覚があった。雨で分からないが、きっと私の額には脂汗が滲んでいるのだろう。
私の脳内に警報が鳴り響いている。この女は、危険だ。

「お前は、我々が封じ込めているモノを分かっていない。お前がどうこうできるモノなんかじゃないんだよ」

私は素早くコートから財団支給のテーザー銃を取り出し、その発射口を女に向けた。

「……オブジェクト番号について、疑問に思ったことはありませんか? 」

「は?」

「3000番代、4000番代、それ以降のモノと、2桁代、3桁代のモノを見比べて、何か思うところはないですか?」

「何を……」

「万能薬、ピザボックス、若返りの泉……人類に明確に有用なモノたちも、恥ずかしがり屋、幼い魔女、不滅の狂戦士……出自の知れないシンプルな脅威たちも、番号が進むにつれて数を減らしている。その代わりに、複雑で大規模なモノが数を増やしている」

「そんなもの、偶然だろうがっ!」

「私はあなた方のことが嫌いですが、でも感謝はしているのですよ。あなた方が肉のカルトや壮大な宇宙的恐怖たちの相手をしてくれたおかげで、私は便利なマジックアイテムの回収とそこらのモンスターたちの破壊に専念できたのですから」

女が語る。私はそれを聞いて、ただ唖然とする他なかった。とっくの昔にこの女は、我々が与り知らない場所で、我々を、あるいはGoIも出し抜いて、無数のアノマリーを自分の思うがままにしていたのだ。
もちろんハッタリだという可能性もある。けれども、今の私にそれを視野に入れる余裕はなかった。

「でも、もう、それも終わり。さあ、夜が明けますよ。涙を拭う時です」

彼女の背後から温かな光が差し込んだ。異常な発光などではなく、それはごく普通の、日の出であった。
いつの間にか雨は止んでおり、びしょ濡れであった私の体はまるで何事もなかったかのように乾いていた。
暁の陽光を背にして私の前に立つ彼女。その姿は、ある種の神性を彷彿とさせた。

「今日はご挨拶と不用品の処分のために参りました。お話できて嬉しかったです。ご機嫌よう、財団。そして、今後ともよろしくお願いします」

私はテーザー銃の引き金を引いた。射出されたワイヤー針は、けれども彼女に刺さることはなく、彼女は黎明の光に溶け込んで消えてしまった。
曙、東雲の刻。澄んだ空気の中、私は立ち尽くすことしかできなかった。

20██/04/12: 調査記録R-4273

エージェント████によって回収されたオブジェクト群は該当存在の調査のため研究チームに送られました。
財団は該当存在をAP1-079と命名し、現在AP-079の所在を追っています。
また、当調査後、エージェント████は精神失調を患い、財団管轄の精神医療施設で療養しています。


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