「えーっと、もう一度言って貰っても良いですか?良く聞こえなかったみたいで……」
頭をすっぽりと覆う鳩頭マスクの中で波戸崎は困惑をあらわにして聞き間違いであってくれと願った。
「波戸崎さんに人心掌握術について教えていただきたいのです」
目の前の女性の七色に輝く瞳を眺め、彼は数分前の自分の判断を恨みマスクごと頭を抱えた。どうしてこんなことになってしまったのだろう……。
先輩職員たちへの挨拶回りを行っていた波戸崎は既に何人かの職員たちに挨拶を済ませ、次に誰の所へ向かおうか考えているうちに天宮博士のオフィスが目に入る。オフィスの主は事務仕事中であったものの、彼の訪問を快く迎え、飲み物とお菓子を提供してくれた。
「初めまして、これから財団で勤めさせていただく波戸崎 壕です。ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いします」
「こちらこそよろしくお願いしますね。波戸崎さん」
天宮博士の第一印象は「お淑やかで優しそう」というもので、これまでの挨拶回りで目にしてきた職員たちの奇天烈ぶりを知っているだけに彼女の落ち着いた雰囲気は波戸崎を安堵させた。
「天宮博士はどのようなSCiPを担当されているのでしょうか?」
「特にこれといった傾向はありませんね。所在サイトの管轄範囲で新しくアノマリーが発見された際に取りあえずという形で最初に任されることが多いと思います」
「それは凄いですね……未知のアノマリーの初期収容ってだけでも大変そうだし、色々な分野の知識も必要ですよね?」
「ええ。苦労も多いですし、幅広い分野の知識も必要になります。ですが、私一人でやっているわけではないのです。協力して下さる職員の方たちのおかげで何とかこなせてきました。いつか波戸崎さんに協力していただくことになることもあるかもしれませんね」
「そうなったら精一杯手伝わせていただきます!」
「その時はよろしくお願いしますね。そうでした、1つお願いがあるのですけれど」
天宮は座ったまま脚を組み替えた。対面には波戸崎がいるものの、ズボンを履いていたため特に問題は無い。しかし、次に口から放たれた言葉は大問題であった。
「私に人心掌握術を教えていただけませんか?」
どうやら財団には奇天烈な人間が多いらしい。
「どうして僕にそんなことを……?」
「私は職業柄色々な知識が必要になるということは先程お話しましたね」
「は、はい。そうですね」
「財団によって発見されるヒューマノイド型アノマリーには元人間が後天的に異常性を得たという事例が幾つもあります。そういったアノマリーは精神構造が人間とさほど変わらないということも多く、人心掌握術を習得しておけると何かと役立つと思うのです」
「はあ……」
天宮の言い分に一応の筋が通っていたことや、歓迎してもらったこともあり断り切れず、結局波戸崎は人心掌握術について解説することとなった。
「……とまあ、大体基礎的なことは教えられたと思います。基本は「相手が何を欲しがっているかを相手の立場で考える」ですね。自分の求めるものを与えられると与えてくれた存在に好意的になるのは人も動物も同じですから」
「なるほど、よく解りました。ありがとうございます」
「そういう意味では天宮さんの落ち着いた雰囲気とか物腰の柔らかさは色々と役に立つと思います」
波戸崎の解説を聞き終えた天宮は時計を見上げてハッとした表情を見せた。
「どうしましたか?」
「すみません、こんなに遅くまでお引止めしてしまって……」
「ああ大丈夫ですよ。お構いなく」(鳴蝉博士の時に比べればこんなものは引き留められた内にも入らないんじゃないかな)
「色々と教えてくださりありがとうございました。今後に役立てさせていただきますね」
天宮に見送られ部屋を出た波戸崎が数歩進んで振り返ると、彼女はまだ手を振っていた。通路の曲がり角を超え、数歩進んでから戻って様子を見ると、まだ手を振っていた。彼はもう振り返らなかった。
(天宮博士、彼女は本当に人心掌握について素人だったのか……?振り返ってみればさっきまでの僕は上手い事乗せられてしまっていた気がする。部屋は片付けられていたけどオフィスとして作られたにしては明らかに物が少なすぎだった。僕が今日ここに来ることを最初から知っていたのかではないか……?)
彼は鳩頭マスクを被ったまま首を振った。陰謀論みたいなことを考えてもしょうがない。それが彼の導き出した結論だった。どちらにしろ、彼女に何かをされたり何かを取られたわけではないのだから。
天宮麗花は部屋に置かれた荷物の大半を段ボール箱に片付けて台車に載せると、あるところに電話を掛けた。
「今日は部屋を借していただきありがとうございました」
「おかげで、前から欲しいと思っていたものが手に入りました」
夕陽が窓から入り込む部屋の中で天宮麗花は微笑んでいた。半分影に覆われたその表情はどこか非人間的なようにも見える。